『身支度整えるのに何分くらい必要だい?』
付き合ってるわけじゃないけどなんとなくそんな雰囲気、っていう期間の雨彦さんとPさんのお話です。
@toasdm
着信の音に頬が緩んで、彼女は少し気を引き締める。いけないいけない、と頬をぺちぺち叩いてから、彼女は着信を取った。
「お疲れさまです、葛之葉さん」
『お疲れさん。今ちょっといいかい?』
ハンズフリーのイヤフォン越しに聞こえてきた声に、彼女の「ほっと」が生まれる。大丈夫ですよ、と答えて、彼女は部屋の電気をつけた。
「どうしたんですか?」
『いやなに、ちょいとドライブにでも、ってな』
「ふふふ……オフを満喫してますね」
『おかげさんでな』
うっすらと聞こえてくるカーラジオの音が、休日の雨彦のリラックスした雰囲気を伝えてくれる。雨彦のオフの時間に自分が招かれている心地よさが、彼女を落ち着かせると同時に悩ませていることを、恐らくは雨彦も知っているはずだった。
別に、付き合っているわけではない。お互いの気持ちを明確に確認し合ったことも、一線を越えるべきかどうか真剣に悩んで眠れない夜を過ごしてきたわけでもない。ただなんとなく、この心地の良い関係があと何回か続いたら、お互いを意識せずにはいられないだろうな、というそんな空気感だけが二人の間に堆積していることだけは理解していた。夕焼け一歩手前、茜色が近づいてきた空を遮るように、彼女はカーテンをシャッと引いた。
『お前さん、明日も休みだったよな』
「はい。久々の連休をいただきました」
『俺にまで連休を用意してくれるとは、お前さんやるなぁ』
「っふふふ、撮影たくさん頑張ってくれましたからね」
『ああ……充実したよ、疲れもあったがね』
映画の撮影が立て続けにあって、きっと疲れているだろうとスケジュールを調整しておいてよかった、と彼女はほっと胸を撫で下ろす。ちらりと時計を見れば、時刻は五時手前だ。
「どこかへ行ってきた帰り、とかですか?」
『ん? ああ、まあ……そんなもんさ』
仕事では、ユニットリーダーらしくあれやこれやと気を回し、凛としたクールな印象の雨彦が見せてくれる、今のところ彼女だけが知っているかもしれない砕けた雰囲気を分け与えてもらえる喜び。カチカチカチカチ、とウィンカーの音すらも耳に心地よく、なんだか自分までリラックスしたような感覚になり、彼女はソファに寝転んだ。
「いいなぁ……私、こっち来てからは車は全然ですよ」
『免許はあるのかい?』
「ありますねー、ほとんど顔写真付き身分証明書みたいなポジションですけど」
『っはは、ペーパーか』
そんなとこです、と他愛もない話を繰り返して、どのくらい時間が経っただろうか。彼女の家の近所にある小学校が、帰宅を促すチャイムを流す。
「あ、もう五時――んっ?」
『……ッフ』
電話口、向こう側の雨彦が小さく笑ったその直前。チャイムの音からワンテンポ遅れて、雨彦の声と同じ音質のチャイムが聞こえた気がした。
「あの、葛之葉さん?」
『なんだい?』
もしかして、を抱いたままの胸が、トクトクと小さく跳ねて音を立てる。ソファの上に体を起こして、彼女は慎重に、言葉を選んだ。
「今、どちらにいらっしゃるんですか?」
カーラジオの音はいつの間にかしなくなっていて、車の走行音もそういえば、もうしばらく聞いていないような気がする。
『さてな』
「……なにしてるんですかぁ」
嬉しさが先走って、なんだか声が甘かった気がする。ちら、と開けたカーテンの隙間、夕焼けの中、見慣れた雨彦の車が停まっていた。
『はは……さて、お前さん』
電話の向こうの雨彦の声も、こころなしか嬉しそうに聞こえる。ふぅ、と息を吐き出した音の後、雨彦は一拍置いて言った。
『身支度整えるのに何分くらい必要だい?』
これが気合の入ったデートならば、三十分はいただきたいところだったが、二人はそういう間柄でもなんでもない。五分で済ませます、と電話を切った彼女が必要最低限のメイクと着替えを済ませて車に駆け寄って、お疲れさん、と雨彦が内側から助手席のドアを開けてやる。
「せっかくの連休だ、ちょいとドライブにでも付き合ってくれよ」
「私でいいなら、喜んで」
ソフトクリームでも食いに行くか、と雨彦は、夕焼けを背中に車を走らせる。
電話越しではない雨彦の声も、滑り込んだシートの乗り心地も、そういえば随分馴染んだな、と思えるだけで今は十分、幸せだった。
恐らくは、きっと、雨彦もそうなのだろう。夕映えが縁取った雨彦の砕けた横顔は、彼女にそう思わせてくれていた。