@nashi_shrimp
くるりとバーチェアを回し、監督生は水槽のほうに目をやる。
この『モストロ・ラウンジ』はワンドリンク制だが、監督生の故郷の水族館の入館料を考えると、この規模の巨大水槽がたった1杯のドリンク代だけで見れて、しかも授業終わりにフラリと気軽に通えるとなると、最強のコストパフォーマンスだと言って良い。
その上現在はポイントカードつき――とはいえ、アズールに聞いてもらうようなお悩みは、ありがたいことに今のところない。だからこのカードは、この世界での片割れとも言えるグリムのお小遣い代わりのようなものだ。
監督生が冷たいフルーツティーを飲みながらぼんやりしていると、ぬっと割り入った大きな影に視界が遮られた。
「あ~。やっぱり小エビちゃんだあ」
「フロイド先輩」
「ねーねー、こんなとこで、間抜けな顔して、何してんの?誰かと待ち合わせ?もしかしてジェイド待ち?」
なぜジェイド先輩の名前が出てくるのか。はてと思いながら、「水槽見てたんですよ」とすっかり見えなくなってしまった絶景を頭に浮かべて答える。フロイドが振り向いて背後を指差した。
「アレ?」
「はい。綺麗ですよね」
「…あんなん見ておもしろい?」
おもしろいというか癒される。そこまで考えて、ああ、と腑に落ちた。「そうか。先輩たちは故郷が海だから、ちょっと感覚が違うのかな」
「ん~。陸の人間は何考えてんのかわかんないや」
「先輩たちはわりと自由に行き来してますよね、海と陸」
ちょっと皮肉すぎたかなと思うものの、リーチ兄弟が自分たちの行く手を阻んだのはまだ記憶に新しい。
フロイドは監督生の皮肉に微塵も気づいていないのか、あるいは全く気にしていないのか、マイペースに首を反対方向へ傾けた。今度はまた別の疑問が湧いているらしい。まるで振り子のようだ。
「…小エビちゃんも、海に憧れたりする?」
そういうフロイドの視線が、何かを思い出すようにくるりと上を向く。
「海の魔女は人間に恋した人魚に、人間と同じ…ええと、そうだ、あし。足をあげたんだよ。優しいよね。小エビちゃんも同じで、海の誰かに恋をしたら、ヒレが欲しいって、アズールに頼んだりする?」
突然の問いかけに、監督生の首もフロイドと同じように、さながら鏡合わせのごとく傾く。「…頼まない、ですかねえ」
「どうして?あの水槽綺麗だと思うんでしょ。海の中はもーっと綺麗じゃないの」
「アズール先輩に頼むと、代償が恐いし…」
「それはそうだけど」
そこは同意しちゃうのか。首を元に戻しつつ笑っていると、誰かが背後から近寄る気配がした。
監督生が振り返ると、そこにはフロイドの双子の兄弟・ジェイドがいた。まるで前門の虎、後門の狼だ。特にやましいことはなくても、長身の2人に挟まれるとなんとなく身が竦む。
「何を立ち話してるんです?」
「あ、ジェイド」
「フロイド、仕事は?」
「ちぇ~。…はあい」
「ばいばーい、小エビちゃん。また来てね」と、去り際、フロイドが後ろ歩きをしながら長い腕をぶんぶんと振るので、給仕をしていたオクタヴィネル生がぎょっとその動きを避けて横を通っていった。監督生も、苦笑いして小さく手を振り返した。
「フロイドと何の話をしていたんですか?」頭上から降りかかる低音に、監督生は顔を上げる。シャープさを備えて整った顔立ちは、下から見上げても一分の隙もない。
「…ジェイド先輩、お仕事はいいんですか?」
「おや、フロイドとはあんなに長話をしていたのに?つれませんね」
「あれ?…なんだ、ずっと見てたんですか。それなら早く止めてくれたらよかったのに。そもそもフロイド先輩に言って、素直に聞くと思いますか」
監督生がそう言うと、ジェイドはただにっこりと笑って、「僕は今から休憩です。お隣、よろしいですか?」と尋ねた。監督生はどうぞ、とすぐ右隣のバーチェアを手で示す。
盛況中とはいえ、空席ならラウンジ内にいくらでもあるのに、わざわざ自分の横に座るのだ。これは無視を決め込むわけにもいかないだろう。監督生がジェイドのほうに体を向き直すと、今度は完全に視線が水槽から真逆の方向を向いてしまった。
けれどまあいい、ワンドリンク水族館には、この学園にとどまる限りまたいつでも来られる。
「それで、何の話を?」
「いや、別に大した話じゃないんですけど…フロイド先輩が、海に行きたいかって聞いてきて。アズール先輩にヒレが欲しいって頼むかって。人間に恋した人魚が陸に行ったみたいに」
「…ほう?それで監督生さんはなんと?」
監督生はありえない、とでもいうように肩をすくめて首を振った。
ジェイドは、ちょっと困りましたね、とでも言いたげに、笑いながら眉を八の字に下げた。よく見る表情だから、彼の癖なのだろう。
「なぜ?」
「今、海の誰かを好きってわけじゃないし…」
「では、もし仮に誰かを好きになったら、どうします」
監督生は、ジェイド先輩までフロイド先輩みたいなことを聞くんだなと、彼がこの話題に食い下がるのを意外に思った。「オクタヴィネルの寮生を好きになったらってことですか?」
「…オクタヴィネルの寮生が皆人魚というわけではありませんが…もしそうだとしたら、です」
「…別に、ですね。それでも」
「どうして?」
「だって、すごい代償を支払うことになるでしょ」
「でも、そんな代償すら顧みず、海に行きたくなってしまうくらい、大切な人なんですよ。愛した人がいる海です」
「それでも行きません」
「それに種族を超える恋愛なんて、今時珍しくもなんともありません」
監督生の否定もすり抜け、立て続けに言葉を繋げるジェイドの瞳は問い詰めるようだ。彼の『かじりとる歯』は、その左目を見つめることによって発動する。だが、そんなものがなくとも、彼の巧みな話術には乗せられてしまいそうになる。だから下手にもがくよりかは、素直に答えてしまったほうが良い。
普段、この学園の生徒たち――エースたちといる時は、意識して口に出さない本音を、波に身をゆだねるように、監督生は舌に滲ませた。
「この学園…この世界にいること自体おかしいし。今すぐにいなくなったっておかしくないんですよ」
グリムはともかくとして、自分は魔力もなければ魔法も使えない。時折、ベッドに入って目を瞑る前、なぜ自分はここにいるんだろうと考える。グリムたちと過ごす賑やかな毎日は、クタクタになりながらも楽しいけれど、そこに本来自分の居場所はなかったはずだ。
招かれざる客。それが自分。ここに誰も連れず1人で来ると、そのことをよく思い出す。
「もし海の底で幸せに暮らせても、ある時、別れの日がやってくるとしたら?」
「…」
「それに愛がいつまでも続くかどうかはわかりません。人の気持ちは変わりやすいし、そうでなくたって、いろいろな原因で引き裂かれる可能性もありますよ」
それくらいジェイド先輩でもわかるでしょ、と暗にほのめかした視線を送る。抜け目ない彼らが、そういうリスクを考えないとは思えない。
ところが、ジェイドは全くの無機質な表情で、監督生の予期せぬ質問を唐突に口にした。
「監督生さんは、人間を愛したことが?」
人間という単語にひっかかりを覚えて、彼は本当に人魚なんだなと感じる。監督生からすれば同種族を愛しているだけだから、その問いは少々不自然に聞こえる。
雑誌のインタビューでも受けるようにぽんぽんと答えていたのに、一瞬、声が出なくなったように喉がつかえた。恋に纏わる出来事なんて、甘酸っぱさより苦さが勝って、あまり思い出したくないことばかりだ。それに、愛だなんて大仰な言葉でくくれるような関係だったためしがあったろうか。
「…愛したっていうか…まあ。ないことも、ないですよ。でも、そういう運がないのか…その度にしょっぱい思いしてたし。周りも、なぜかそういう人が多くて。ちょっと嫌になっているのかも。恋をすること自体が」
「“たかが恋に”、賭けるものが大きすぎますか?」
「…そう、ですね…」
賭けは賭けるものが大きければ大きいほど、当たった時に得るものが多い。けれど、外れた時に失うものも、また多いのだ。辛酸は舐めたくない。
この先もずっと、誰かを愛したくないとまでは言わない。誰かと心から信じあうことで、きっと自分の知らない世界が開けていく。変わるものがある。
けれど、それをこの場所で行うのは、あまりにも夢物語過ぎる。踏みしめる地面は、まるで初めて足を得たようにぐらぐらと覚束ないし、明るく大きい光の裏の、濃い影の部分のほうが、監督生にとってはよっぽど気になって仕方がない。
「かの海の魔女は、人間に恋した人魚との契約条件が履行されなかった場合、どうするか知っていましたか?」
「…“放すものか 私のものだね”」
監督生がどこか遠くを見て諳んじる。
ジェイドが眉をひそめた。「…なんですって?」
「ああ、いえいえ、ちょっと…」
やっぱりあの夢のことは黙っておこう、と監督生はグラスの表面に汗をかき始めたフルーツティーを口直しに舐めた。
言葉を濁した監督生に、ジェイドはそれ以上追究することはなかった。
「…アトランティカ記念博物館には説明がありませんが、人魚の間では昔からこんな逸話があるんですよ。本来なら、履行できなければ海の泡となっていたところを、海の魔女はその慈悲深い心で命を救ってやった、と」
慈悲深いだなんて。監督生はたまらず噴出した。まるでめちゃくちゃな契約を結んでいたアズールのようだ。本当に慈悲深いのなら、そんな契約最初から持ちかけはしないか、もっと条件を緩めてやるだろう。それこそ、たかが恋のために、だ。
「先輩たちこそ、あんな綺麗な場所に住んでて、陸に上がりたいと思ったことは?」
自分は人間だが、彼らは人魚。フロイドはラウンジの水槽を見ても食傷気味だったようだが、ジェイドはどうだろう。アズールとの諍いの最中、何度か“足”を運んだ色鮮やかなあの珊瑚の海は、監督生の目からすればまほろばにも見える。
そういえばジェイドの趣味はテラリウムだと聞いた。それは監督生にとっての、小さな水槽のようなものではないか。それこそ、陸の世界なんていわば物見遊山みたいなもので、彼にとって果たして終の棲家にまでするような場所なんだろうか。
「…いいえ。この学園に来るまで、考えもしませんでした」
「ですよね。海の中はとっても綺麗だし、楽しそうだし、先輩たちなら長いヒレでスイスイ泳げるし…」
「でも、今の僕は少しだけ、わかってしまいました」
「え?」
「例え泡になって消えるとしても…」
そう言ったきり、ジェイドは笑みにも、あるいは何かをこらえているようにも見える表情のまま、目を伏せ、口を閉ざした。