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「きみのおかげで、俺たちは此処に居るんだ。そう簡単に帰れるとは思わない方がいい」
嘲笑するような笑みを浮かべ、そう言い放った鶴丸さんは厨房から出ていった。そんな彼の背中をただ見送り、彼が出ていった後も、しばらく動悸が治まらなかった。
体に、力が入らない。
腰が抜け、その場にへたり込んでしまった体にぐっと力をこめる。それでも足腰に力が入らず、少し体を浮かせられるだけで、すぐにまたペタリと座り込んでしまう。腕も震えて、筋肉を上手く動かせないような状態だった。
──口を、すすがなければ……。
口の中に、微かに残る血の味。鶴丸さんのものだ。
彼に、抗うために……歯列を割って入ってくる彼の舌に抗うために、思わず咬みついてしまった時のものだった。
口をすすがなければ。それを、飲み込んではいけない。
そう思うのは、無理やりキスをされた嫌悪感というよりも、危機感に近いものからだった。
なぜかは分からない。けれど彼の血を体内に入れてはいけないと、警告するような胸騒ぎがしている。
力の入らない体に鞭を打ち、流し台に手をかけながら、なんとか立ち上がる。蛇口を捻り、冷たい水で口をすすいだ。
すすぎ終われば気が抜け、またその場にずるずるとしゃがみこむ。手の甲で口元を拭うも、手が震えてそれもやっとだ。
この、力が入らない状況は尋常じゃなかった。手は震え、動悸から呼吸が荒くなる。
──霊力を、喰う。
不意に、鶴丸さんが言っていた言葉を思い出す。
食事から霊力を喰うのはまどろこっしい。彼はそう言っていた。もっと手っ取り早い方法を教えようか、と、そう続けた直後の出来事だった。
まるであの時、エネルギーを吸い取られたかのような。
あの時、鶴丸さんの言う『霊力を食べられた』状態だったとでもいうのだろうか──。
「どうしたんだい」
動悸に耐えていると声が聞こえ、顔をゆっくりそちらへ向ける。
厨房の入り口に立っていたのは髭切さんだった。
彼は微かに目を見開き、私を見ている。
「あ……髭切、さん」
上がる息で彼の名を口にすれば、自分でも思った以上に弱々しいものだった。それはそのまま髭切さんにも伝わったようで、彼は訝しげに眉を寄せると、こちらへ歩み寄る。
途中、髭切さんは床を見やっていた。そんな彼につられて床へと視線を落とせば、いつの間にか落としたらしいザルと、散らばる米粒が視界に入った。それはそれはひどい有り様だ。
「何かあったの?」
床を見渡しながら、髭切さんは問いかける。
その問いに、つい口ごもる。鶴丸さんが来てからの事を、ありのまま伝えるべきか迷ってしまった。キスをされたんです、だなんて正直に言えるはずがない。
どうしよう。貧血がおこった、とでも言おうか……そう口にしようとしたところで、髭切さんは私を見ていた目をふと細めた。
「……ん?」
怪訝そうに疑問符を溢し、彼は私をじっと注視する。まるで何かを探るように見つめられ、居心地の悪さが襲ってくる。
髭切さんは私から目を離さず、側まで来ると、静かにしゃがみこんだ。
近づいた距離に、心臓は緊張を訴えた。髭切さんはその整った顔をしかめ、まじまじと私を見つめる。
「あ……の、何でしょう、か?」
おそるおそる問いかけるも、髭切さんはうーんと唸るだけだった。
その探るような視線は、どこかばつの悪ささえ感じる。何となく目をまっすぐ合わせられず、視線は泳いでしまう。どうしよう、と狼狽えていた、その時だった。
彼の指先が、私の顎にそっと添えられる感触。
突然の事にどきりとし、促されるままに彼を見上げば、私の両目を覗きこんだ髭切さんと視線が絡んだ。
「君、何かされた?」
的を射た問いかけに、思わず肩が跳ねる。髭切さんはそれを見逃さなかったようで、眉をぴくりと動かすと、私の瞳を見ていた視線をゆっくり下げた。
視線が外れ、移されたその先を、そっとなぞるように。
彼は親指で、私の唇を静かに撫でる。
体に緊張が走った。しかしそこにあるのは、色づいた甘い空気ではない。
髭切さんは私の口元をその瞳に写しながら、ぐっと眉をひそめた。
「彼、か」
呟かれたその言葉は、今にも舌打ちしそうなほど低いもので。
苛つきが滲んでいる。そんな彼の雰囲気に、思わず体を強ばらせてしまった。
それが伝わってしまったのか、髭切さんはふと微かに目を見開くと、ゆっくり私と視線を合わせた。
「体、大丈夫かい?」
苦笑いを溢すように、眉尻を下げた笑みを向けられる。その瞬間、先程までの棘のある雰囲気がスッと消えた。
「顔色も悪いようだけど。平気?」
「あ、その……力が、上手く入らなくなっちゃって」
髭切さんの問いかけに、遠回しな返事をする。彼はもしかすると、何かを察しているのかもしれない。
それでも、鶴丸さんにキスをされて具合が悪くなった、というような直球な答え方は何となく言いにくく、躊躇ってしまった。
私の答えに髭切さんは「そっか」とため息混じりで呟く。
「今日は、夕餉の準備しなくて大丈夫だよ」
「え……」
「その状態じゃ無理だろう」
彼は、どこまで分かっているのだろうか。苦笑して私を見る髭切さんは、私が何も言わなくとも、何があったか察したように見える。
「今日はもう部屋で休んだ方がいいよ。あとは片付けておくから」
「……すみません、ありがとうございます」
正直、彼の申し出は有りがたかった。こんなにも力が入らない状態では、何も出来やしない。
髭切さんは腰をあげると、「立てる?」とこちらへ手を差し伸べてくれた。不意な優しさにどきりとしつつ、その手を取り、ゆっくり立ち上がろうとする。
けれどやっぱり、上手く力が入らない。
「立てない?」
「あ、いえ。大丈夫、です」
全体重を彼にかけるのも申し訳なく、何より気恥ずかしさが勝ってしまった。背後にある流し台も支えにすれば何とか立てそうだと、そこへ手をかけた──その時だった。
ふと光が遮られる。
落ちてくる影にハッとするのも束の間、背中と膝裏を支えられた感触と共に、体の浮く感覚。
浮遊感を感じた次の瞬間には、すぐ間近に髭切さんの顔があり、息が止まった。
「──ッ」
「このまま君の部屋に行って大丈夫?」
「なっ、え……あの」
「ん? 厠に行きたい?」
「か、かわや……? え、と。いえ、あの、大丈夫……です」
覗き込んでくる髭切さんの顔があまりに近く、思わず俯く。声もどもりにどもってしまった。
「それじゃあ、このまま部屋に行くね」とすぐ近くで声が降ってき、お願いします、と何とか答える。
髭切さんは、私を横抱きにしたまま歩き出す。
歩調が、彼から直に伝わってくる。肩と膝裏を支えられ、彼の胸に体を預ける状態に、緊張から息があがりそうだった。心臓は早鐘を打っている。
こんな、所謂お姫様だっこだなんて、生まれてこのかた一度もしてもらった事などない。
重くないだろうか……そう心配で仕方ないものの、この力の入らない状態で、まともに歩けるとは思えなかった。
有りがたい、と思う。けれど同時に恥ずかしくもあり、この煩いほどの心臓の音まで伝わりそうで、ソワソワと落ち着かなかった。
「ふふ。そんなに緊張しなくても」
突然話しかけられ、大袈裟なくらい肩が跳ねた。
顔を上げれば、笑みを溢してこちらを見下ろす髭切さんと間近で目が合い、息を呑み込む。
「君の緊張、すごく伝わってくる」
「あ……すみません」
「謝らないで。それに落としたりしないから、そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」
髭切さんはくすくす笑う。緊張している理由は違うのだけれど、訂正するのもしにくい。
ただお礼を言えば、「どういたしまして」と彼の柔らかい言葉を最後に、会話が途切れる。
きゅっきゅ、と廊下が鳴る音。感じる振動。落とされる心配が必要ないほどの安定感だった。
伝わる体温は少し冷たい。髭切さんをすぐ側で感じ、緊張感はどうしても拭えない。
けれどそれとは別に、なぜか、胸の奥深くで切なく軋む音がした。
自室へ着けば、髭切さんは甲斐甲斐しく布団を敷いてくれ、そこへ私を寝かせてくれた。何から何まで申し訳なくなってくる。
しかしやっぱり、力が上手く入らないのだ。
明らかに異常だった。こんなこと、今まで一度も経験したことがない。
この異常な状態はちゃんと戻るのかと、急に不安が押し寄せてくる。
「後で、お水持ってきてあげるね」
横になる私を見下ろしながら髭切さんは言った。布団に寝かせてもらって、お水まで持ってきてもらうなんて、完全に病人のようだ。
ありがとうございます、とお礼を言えば、髭切さんは微笑む。そこには厨房で感じた、あの苛立ちのようなものは、もう微塵もない。
髭切さんは、私の身に何があったか察しているのだろうか。
この力が入らない状態も、何故なのか彼は知っているのだろうか……。
『髭切にはするくせに』
ふと、鶴丸さんの溢した独り言が、耳の奥でこだまする。
「……あの、髭切さん」
声をかければ、髭切さんは笑みをたたえたまま、ん? と小首を傾げる。
「なんだい」
「その、なんで力が入らないのか、分からなくて……」
どう質問していいのか迷い、結局遠回しな質問をする。
何を聞きたいのか、自分の中で要点がまとまってないのも事実だった。頭の中はまだ混乱している。
髭切さんは私の質問に、苦笑を溢した。
「少し休めば大丈夫になるよ」
彼は、ただそれだけを言った。
核心に触れない答え方。はぐらかされたのだろう。本当の理由は教えてくれないのだろうか。知らないのか──言いたくないのか。それは、余計に不安を煽られた。
もう少し詳しい答えが来ないかと、髭切さんを見上げていれば、彼は困ったように微笑む。
「ゆっくり、おやすみ」
そう言って伸ばされた手が、私の額に触れる。ひんやりと冷たい、手のひらの温度。
髭切さんはもう、それ以上を教えてくれないらしい。靄がかかったように腑に落ちないものの、仕方がない。
髭切さんに促されるまま瞼を閉じれば、意識も徐々に沈んでいった。
→
『審神者さまから、お聞きかと思いますが』
声が、聞こえた。聞こえた、というよりは、頭の中で鈍く響くような。
その声は聞き覚えがあるものだった。誰の声だっただろうか──そう思うと同時に、目の前にぼんやりとしたシルエットが浮かぶ。
耳をピンと立て、ふわふわの毛を携えて。可愛らしく座っているその姿から、凛とした声が発せられる。
──ああ、これは。またあの夢だ。
『今後あなたには、審神者さまの霊力底上げのため、一翼を担っていただきます』
どこか事務的で淡々とした口調で、管狐は言った。
霊力の、底上げ。
その言葉を聞いた途端、何故か胸を刺さすような痛みが走る。
『一翼を担う、ねぇ』
不意に別の、聞き覚えのある声が聞こえ、どきりとする。目の前に居るのは変わらず管狐の姿だけで、その声の主の姿は見当たらない。
『その話、強制ではないんだよね?』
彼は管狐に問いかける。管狐はこちらを真っ直ぐ見上げると、『ええ、もちろんです』と頷いた。
『この話は、あくまで政府からの要請であり、強制ではありません。審神者さまも、その上で承諾してくださいました』
『要請、か』
『何か疑問に思われる事でも?』
髭切さん、と管狐は続ける。
その場に、間が落ちる。何かを考え込んでいるのか、管狐に問われた彼──髭切さんは、しばらく言葉を発しなかった。
『まあ、そうだね。無くはない。だが主が決めた事なら、もちろんそれに従うよ』
少し間の後、髭切さんは言った。
『ただ、どうして僕なんだい』
髭切さんは管狐に問いかける。
今度は、目の前の管狐が口を閉ざす番だった。
言うべきか否か、考えているようにも見える。
『それは』と管狐は口を開いた。
『あなたがこの本丸で唯一、希少度の高い刀だからです』
希少度。希少──稀、という事だろうか……。
その言葉の意味を考えている最中、突然『ははっ』と笑い声が放たれる。
それは管狐からではない。どこか乾いたその声は、髭切さんのものだった。
『人間は面白いよねぇ。都合も良い。そんなもの、どうだっていいのに』
乾いた笑みのその声は、どことなく素っ気ない。
緊張が走る。それは私のみならず、目の前の管狐からも伝わるものだった。
管狐は静かに口を開くと『しかし』と反論する。
『敵の勢力に対抗するには、ある程度の戦力が必要になってきます』
『分かっているよ。満遍なく刀が居るに越した事はない。そういう事だろう?』
二人の間に、張り詰めた空気が漂う。
この会話は、私と関係ない、はずだ。全く身に覚えのない会話なのだから。
それなのに居心地の悪く、逃げたくなる衝動が沸き起こる。
なぜかは分からない。けれど、この会話を聞きたくない。この場から、消えてしまいたい──そんな感情に苛まれるのは、二人の作り出す緊迫した空気に当てられているからだろうか。
『こういう行為って、外部からの指示でするものじゃないだろうに』
沈黙を破ったのは、髭切さんだった。管狐の緊張が濃くなる。
『戦争中だからね。背に腹はかえられない。だが、僕にとっては大切な主だ』
聞こえてくる言葉は、淡々としたものだった。
けれど、なぜか。
なぜか、彼の紡がれていく言葉に、胸の奥から切なさがせり上がってくる。
『君たちの都合で、あまりあの子に負荷をかけないでおくれよ』
ふっと意識が浮上し、ゆっくり目を開けた。
薄暗い部屋。天井の木目がぼんやり視界に入る。それをただ眺めながら、ああまたあの夢だ、と、覚醒しきっていない頭で考える。
また、あの夢を見た。
夢の内容はいつも違う。けれど、それらは一貫して同じものなのだと、何となく思っていた。まるで、一つの物語を細切れにして見ているような。
それでも、先ほど見た夢は、今までと少し違う気がした。
これは本当に、ただの夢なのだろうか。
あの喋る動物は、一体。
それになぜ、髭切さんが──。
「目が覚めちゃった?」
抑えられた音量で声をかけられ、びくりとした。
声のした方へゆっくり顔を向ければ、髭切さんの姿が視界に映る。
薄暗い室内に、行灯の光が滲む。部屋が橙色の仄かな光で包まれる中、髭切さんは壁に背を預け、片膝を立てて座っていた。
肩に立て掛けるようにして刀を抱いている彼は、眠る前に見たジャージ姿ではない。初めて会った時と同じ、ジャケットを羽織った服装だった。
「ひげきりさん……おはよう、ございます」
寝起きだからか、上手く声が出ない。
なぜ彼が、ここに居るのだろう。
ぼうっとした思考のなか、僅かに疑問が過るものの、嫌悪感というものがほとんどない。寝ているところを、見られているというのに。むしろ髭切さんが居る事で、どこかホッとした面もあった。
髭切さんは、おはよう、と私へ返して微笑む。
「まだ寝てていいよ。夜明け前だから」
「そう、なんですね。……あの」
「ん?」
「髭切さんは、寝ないんですか?」
言ってから、あ、違う。聞きたかったのはそれじゃない、とぼんやり思う。寝惚けた思考はちゃんと働かず、口にする言葉でさえも上手く運べない。
本当は、どうしてそんな格好で、ここに居るのか、と。そう聞きたかったのだ。
髭切さんも、私の質問に不意を打たれたように、少々目を丸くしていた。けれどそれもすぐ、いつもの笑みになる。
「……そうだね。今夜は、君の警護をするから」
けいご? と、復唱しようとした言葉は音を成さなかった。髭切さんは刀を持ち直すと、ゆっくり立ち上がる。
畳を静かに踏み鳴らす音が耳に届く。こちらへ近づいてくる彼を、ただただじっと、目で追った。
私は、髭切さんの事をよく知らない。そんな彼の手には日本刀があり、横になる私をいつでも斬れるような状態だ。
それでも不思議と、そこに恐怖心は生まれなかった。
髭切さんは私の側まで来ると、「よいしょ」と言って腰をおろす。
そんな彼を見上げていれば、髭切さんはため息をつくように微笑んだ。
「君さ、警戒心どこかに置いてきちゃった?」
苦笑を溢され、何の事かと首を傾げる。
「警戒心……」
「うん、僕に対してあんなに緊張していたのに。今は寝惚けているのかな」
確かにそうだ、と彼の言葉で思う。髭切さんを前にすると──ここでは、彼以外にもそうだけれど──肩に力が入ってしまうような。あの緊張感は、不思議と今は感じなかった。彼を前にして、安心しきっている自分がいる。
行灯の柔らかい明かりが、目の前の光景をおぼろげに思わせるのだろうか。どこか現実味のない、夢との狭間のような感覚が残り、緊張の糸を緩ませているようだった。
髭切さんの言う通り、寝起きの頭が働いていないからかもしれない。
彼の手元に視線をやる。その手には、まだ刀が握られていた。
──触れたい。
唐突に、胸の奥から沸き上がる感情。その感情は、髭切さんの部屋で刀を見た時に感じたものと、同じものだった。
「髭切さん、あの」
「なんだい?」
「刀、触ってもいいですか?」
問いかける事に、何も抵抗がなかった。ただ、触れたい。その気持ちだけが胸を占めていた。
刀を見ていた視線を上げれば、目を微かに見開いている髭切さんと瞳がかち合う。少し驚いているような表情。そんな彼を見て、ああ聞かない方が良かったかもしれない、とぼんやりした思考のなか、後悔が襲う。
やっぱり大丈夫です、と断りを入れようか迷っていると、「いいよ」と髭切さんは口を開く。
「主に触れてもらえるのは、刀冥利に尽きるね」
髭切さんは刀を持ち上げる。カチャリ、と微かに鞘の鳴る音が耳に届く。
静かに目の前へと差し出されたその刀を見て、無意識の内に、こくりと唾を飲み込んだ。
「どうぞ」
髭切さんを見上げれば、彼は口元に笑みを乗せ、私を見下ろしていた。
行灯に照らされる彼の顔は、改めて見ても、やっぱり美しいほど整っている。
思わず見惚れてしまいそうになり、誤魔化すように彼の刀へと視線を移した。
「……ありがとう、ございます」
しどろもどろにお礼を言い、布団から手を出すと、ゆっくりと彼の刀に触れる。静かになぜれば、無機質な冷たさが指先から伝わった。
触れた先は冷たい。けれどその指先から、まるで別の熱が流れ込んでくるように、ぐっと胸が熱くなった。
それは泣きたくなるほど、切ないような。懐かしさと似ていて、ひどく心が揺さぶられるような。
哀しさや、辛さと似ている。けれど、それでいて──とても、愛おしいような。
この感情を、何と呼べばいいのか分からなかった。
「あるじ」
不意に髭切さんに呼ばれ、反射的に彼を見上げた、その瞬間だった。
刀に触れていた手を取られ、布団に縫い付けられて。あ、と思った次の刹那には、ふわりと覆い被さる髭切さんで視界がいっぱいになり、息を呑んだ。
彼の柔らかい髪が垂れ、艶を持った瞳で見下ろされる。
落ちる彼の影。背中に感じる、柔らかい布団の感触。私の手は彼の大きな手で包まれ、吐息すら感じそうなほどの距離に、心臓が思い出したかのように大きく脈打った。
「警戒心を、どこかに置いてきたのはいいけど」
髭切さんの声が降ってくる。形のいい唇で紡ぐ音は、いつもより少し低く、けれど耳の奥に響くような艶やかなものだった。
「そんな顔をされると、抑えがきかなくなりそうだよ」
髭切さんは、まるで独り言のように言葉を溢す。見下ろすその瞳は、熱の籠ったもので。
それは今まで見たどの表情より、彼の心情が滲んでいるようだった。
彼の瞳に捉えられ、身動きも取れない。心臓は胸の内を強く叩き、胸が切なく締めつけられる。
また、だ。
切なく、胸の詰まるようなこの感情。
この感情は、まるで──。
「……なんてね」
髭切さんは小さく笑う。艶やかさはスッと消え、彼を纏うものはいつもの平静さだった。
「あまり無防備だと、食べられてしまうよ」
そう言って、髭切さんはゆっくりと私の上から離れる。そんな彼を目で追いながら、心臓はドッと鳴り響き、途端に顔へ熱が集まった。
髭切さんは私の横へ座り直し、胡座をかく。
緊張と羞恥に襲われ、一気に目が覚めた。掛け布団を、目一杯ひき寄せる。
「……からかわないで、ください」
「ふふ、ごめんね。君があまりに無防備だから」
「……」
「此処では、少し警戒心を持つくらいがいいかな」
微笑むその顔は、僅かに苦笑しているようにも見える。
彼の真意は分からない。ここに来て、分からないことばかりだ。けれどふとしたきっかけで、その先を知ってしまうような予感もあった。
「日がのぼるまで、まだおやすみ」と、髭切さんに再び促される。
けれどとっくに目が覚めてしまった身体は、いくら瞼を閉じても、もう意識まで落ちていかなかった。
結局、夢と現の境目をウロウロしているうちに、夜が明けた。夜が明けた、と言っても、部屋は依然として薄暗い。
「おはよう」
髭切さんは、ずっと側に居てくれたらしい。声のした方へ顔を向ければ、彼は変わらず壁に背を預けて座っていた。
おはようございます、と返せば、彼はにこりと微笑む。
「身体の具合はどうだい」
髭切さんに問われ、起き上がろうとぐっと力をこめる。
寝起きの気だるさはあるものの、明らかに昨夜と力の入り方が違い、ゆっくり上体を起こすことができた。
「あ……今日は大丈夫そうです」
「良かった。お腹空いただろう、朝餉にしようか」
弟が作ってくれてると思うよ、と、そう続けた髭切さんは静かに立ち上がる。そのまま部屋を出ていこうとした彼を、咄嗟にひき止めた。
「あのっ、ありがとうございます。その、警護してくださって」
夜中に目を覚ました時、警護をする、と言った彼の言葉を思い出していた。何から守ってくれたのかは分からないけれど、お礼を言えば、振り返った髭切さんは笑みを浮かべる。
「此処にいる間は守ってあげる、という約束だからね」
そう言った彼は、ひらひら手を振って「それじゃあ、またあとでね」と続け、部屋を出ていった。
ぱたん、と襖の閉まる音が静かに響く。
いつもの彼だった。平静でいて、感情の起伏など感じさせないような、どこか淡々とした雰囲気すらまとっている。
そうか……彼の笑顔は表面的なものなのだ、と、ふと思う。
笑顔を作ることで、本音を胸の奥に隠しているような。
それなら、昨夜のあの、心情が滲むような表情は一体。
彼はあの時、何を思っていたのだろうか。
→
厨房へ行けば、膝丸さんが朝食の準備をしてくれていた。
「身体は大丈夫か」と気遣う言葉をかけてくれた彼は、髭切さんから状況を聞いていたのだろう。
「もう大丈夫です」と答えれば、彼は「そうか」と言いつつ、どこか困ったように笑った。
膝丸さんの用意してくれた朝食を食堂へ運んだ時には、すでに髭切さんが席についていた。ジャージに着替えていた彼は、目をつぶって頬杖をつき、こくりと船をこいでいる。
昨夜、寝ずの番をしてくれて眠たいのだろう。
「兄者、大丈夫か」
お膳を目の前に置きながら、膝丸さんが問いかける。
髭切さんはふっと目を開けると、あくびをかみ殺した。
「ん。僕は大丈夫。主は大丈夫かい?」
突然話題をふられ、不意を打たれる。髭切さんは頬杖をついたまま、立っている私を見上げた。
「あ……はい。私は大丈夫です。動けるようにもなったので」
「なら良かった。んん、いい匂いだ」
目の前に置かれた食膳の香りを嗅ぐと、彼は頬を緩ます。
自分は眠たいはずなのに、私の体調を気遣ってくれる彼は、やっぱり優しいのかもしれない。
気遣いに感謝しながら席につき、いつものように手を合わせ、三人で食事を取った。
髭切さんは、相当眠いらしい。それに付喪神といえど、睡眠というものは必要なようだ。
食事を終えると、「僕は少し寝させてもらうよ」と髭切さんは言った。
「もし何かあれば呼んでね。すぐ行くから」
そう言われ、彼と廊下で別れる。
一晩中、全く寝ずに警護してくれた彼に申し訳ないと思いつつ、感謝しかなかった。
それにしても……髭切さんは一体、誰から警護してくれていたのだろう。私が動けなくなった原因を、彼は分かっているのかもしれない。
『此処にいる間は守ってあげる、という約束だからね』
髭切さんは、私と交わした約束のために警護をしてくれた。それなのに、私は……? 私は、彼らを祀り直すという約束の、スタートラインにも立てていない。
髭切さんと別れてから、足を書庫へと向けていた。きゅっきゅと鳴る廊下の音を聞きながら、今までのことを必死に整理する。
彼らを祀り直すには、彼らのことをちゃんと知っておく必要がある。それは薄々気づいていたはずなのに、彼らを知るということが、どこか怖くて仕方がなかった。
『人々に祀られれば神となる。だが神も、人々に祀られる事がなくなれば、神ではなくなる』
三日月さんのその言葉が、ずっと胸に引っ掛かっていた。
『俺たちを祀り直すという事は、そういう事だ』
彼らはきっと、もともと神様だったのだろう。
それは三日月さんと話した時から──本当はその前、髭切さんと森の中で話した時から、何となく予想はしていた。
付喪神は神様なのかと問いかけた質問に、濁された返事。
彼らを祀り直す、という契約。
鬼と、今は大差ない。
彼らはもともと神様で、けれど今はもう、神様ではなくて。
私が彼らを祀り直すということは、彼らを神様へと戻す行為なのだろう。
それは何となく分かっていた。だからこそ、なるべく気持ちを込めるように食事を用意していた。
けれど、ただその認識をしただけでは、到底足りなかったのだ。
『きみのおかげで、俺たちは此処に居るんだ』
鶴丸さんの言葉が、耳の奥に残っている。
きっと、彼のこの言葉をきちんと理解しなければ、彼らを正しく祀り直すことはできない。
頭では理解している。それなのに、それを知るのがどうしても怖くて仕方ない。
きみのおかげで──きみの、せいで。
私と何の関係があるのか、身に覚えがなかった。
けれど初めて彼らと会った時、私を見た時の、あの視線が。君は、と皆まで言わずとも含みを持った、その言葉が。何かしらの意味を持っていたことは間違いないだろう。
それを知るのが、とても怖い。
書庫につき、電気をつけて室内へ足を踏み入れる。埃っぽさと、紙のにおいが混ざりあう空間。目的のものを探しに、奥へと歩みを進めた。
膝丸さんに料理本の場所を教えてもらった時、ふと目についたものだった。
──あった。
出陣記録。
それは製本された既製のものとは違う、ファイルとして綴じられたもの。
おそらく、ここの記録なのだろう。出陣記録と書かれたもの以外にも、数冊ファイルが並べられている。どれも全て、手書きの筆質で見出しが書かれてあった。
出陣記録、日誌、刀帳──。
刀帳。思わず目を止める。彼らは刀の付喪神だ。彼らを知るには、まずこれから見た方がいいかもしれない。
得体の知れない緊張がこみ上げ、手が震えそうになる。静かにその刀帳ファイルを抜き出し、表紙をめくれば、カビ臭さが鼻をついた。
まず目に入ってきたのは、一覧表だった。表のように枠が並び、文字の書かれた箇所と、空欄の箇所が入り交じっている。
そして早々に飛び込んできた文字に、どきりとした。
三日月宗近。
三日月さんのこと、なのだろう。彼がこの一覧での先頭だった。
番号は三。太刀。刀派三条。
星のマークが、五つ付いている。その横には、まるで注釈を付けるように『米印』が付けられていた。
意味もなく、その米印をそっと撫でてみる。星のマークも気にはなる。けれど何故か、この米印がひどく心に引っ掛かった。
とりあえず全体を見ようと、一覧をゆっくり読み進める。
すぐ近くに髭切さんたちの欄もあるかと思いきや、そうでもなかった。知らない名前もたくさんあり、ふと、この本丸の広さや、大浴場で見た脱衣かごの多さを思い出す。
この本丸、やっぱり元々は大所帯だったのかもしれない。
そんなことを考えながら目を滑らせていけば、ある文字に視線を留めた。
髭切。
番号は百七。太刀。
髭切さんは三日月さんとは違い、枠が四つある。違いはよく分からない。けれど番号百十で、星は四つだった。
髭切さんに、米印はない。
米印の有無は何を意味しているのか、分からなかった。むしろ米印がないものの方が多い。
髭切さんのすぐ下に、膝丸さんの名前が。
彼には、米印がついている。
そして更に進め、番号は百三十。太刀。
鶴丸国永。
名前を脳内で復唱した途端、ぎゅっと肺が締め付けられた。昨日のことが尾を引いているらしい。トラウマのように、苦手意識が強く根付いてしまったようだった。
彼の欄にも、星マークが四つ。
米印がついている。
そのまま最後まで目を通しても、この米印がついているのは三人だけだった。
一体、何なのだろう。この米印は──。
「おめでとうございます。無事に顕現が叶いましたね」
ふと響いた声に、驚きから顔を上げた。
目の前に、何かがいる。それは、人ではなかった。
動物だった。ピンと耳を立て、こちらを見上げるのは狐のように見える。けれどその顔には、紅化粧を施していた。
──管狐。
不意に浮かんだ単語に、自分でも驚いた。同時に気道がキュッと狭まるような、呼吸のしにくさを感じる。
管狐は刀の顕現を喜んでいる。
それなのに、どうしても。苦しく、胸のつかえるような思いは拭いきれない。
「なんだ、きみもか」
今度は突然、後ろからかかった声にびくりとする。
弾かれるように振り返れば、そこに居たのは鶴丸さんだった。
「全く。刀を振るえるかどうかは、使い手の技量の問題だというのになぁ」
彼は前髪を気だるげにかきあげると、はぁ、と深くため息をつく。目線を下へ向けた彼は、忌々しげに眉根を寄せた。
これは……一体、何だというのだろう。
目の前の、彼は。
彼は、私に言っているのだろうか……?
「なあ、きみ。俺たちが何と呼ばれているか、知ってるかい?」
鶴丸さんは覗きこむように、上目でこちらを見る。
黄金色の瞳と、視線がかち合う。
彼の薄く整った唇が、ゆっくり、音を織り成すために動いた。
──混ざりもの。
「大丈夫か?」
聞こえた声に、ふっと目を開いた。
目を、開いた。そんな感覚だった。視界に映るのは、刀帳の一覧。先ほどまで私が見ていたものだった。
心臓が、思い出したかのように強く胸を叩く。ドッドッ、と、耳の奥までその重い鼓動が届く。
同時に、思考が急にクリアになったような……それはまるで、夢から覚めたような錯覚を覚えた。
「どこか具合でも悪いのか?」
隣から再び聞こえた声に驚き、顔を上げれば、目の前の人物に目を見開いた。
こちらをじっと見つめる藍色の瞳に、思わず息を呑み込む。
「あ……み、三日月さん」
彼の名を呼べば、三日月さんは少し首を傾げる。
真っ直ぐな髪がさらりと垂れ、艶やかともいえるその表情に、思わず見惚れてしまいそうになる。
けれど正直、昼間に出会うとは思ってもいなくて。
目の前にいる三日月さんの姿に、度肝を抜かれてしまったのが本音だった。
「ええと、具合は大丈夫です……たぶん」
問われた質問を思い出し、何とか会話を繋げる。
三日月さんはこちらを見て数回瞬きすると、「そうか?」と呟いた。
「あまり大丈夫そうには見えなかったぞ。頭を垂れて、どこか痛そうだったが」
「あ……そう、なんですね。いえ、もう大丈夫です」
「ならいいが」
おそらく、私は意識が飛んでいたのだろう。なぜかは分からないけれど……それより今は、三日月さんと会話をしなければ、という方へ意識が働いていた。
彼は得体の知れなさが強く、どうしても苦手意識が拭えない。
「あの……三日月さんは、どうしてここに?」
「ああ、なに。珍しく書庫が開いていたんでな。気になっただけだ」
そう言って、彼は品よく微笑む。
「おぬしは、何か気になることでもあるのか?」
「え?」
「それは刀帳であろう」
静かに視線を下げる三日月さんにつられて、私も自分の手元を見やった。開かれているページは、依然として一覧表のままだ。
彼らを探っているような後ろめたい気持ちになり、何となく心落ち着かなくなる。
「あ、これは、その。ごめんなさい……探るような真似を」
「いやなに、全く構わんよ」
三日月さんは柔らかく笑むと、「だが」と続ける。
「俺たちはもう、その頃とは違うからなぁ」
「え?」
「俺たちが何者なのか知るために、それを開いたのだろう?」
「あ……はい。もし分かれば、ちゃんと祀り直せるかと思って」
「そうかそうか。それは有りがたい」
三日月さんはくすくす笑う。着物の袖で口元を隠す姿は、まるで女性のようなしなやかさがあり、色っぽさがある。
そんな彼に見とれていれば、私と目が合った彼は、その目元を和らげた。
「知りたくはないか? 今の俺たちが、何者なのか。此処が、どんな場所なのか」
奏でるように紡がれた言葉が、鼓膜を揺るがす。
艶やかに微笑むその表情に魅入らせられ、深く青い瞳に吸い込まれるように、彼から目が離せなかった。
「え……あの」
「うん?」
「教えて、くれるんですか?」
「なに、じじいの節介だ。もし知りたいのなら、連れていってやろう」
「どこへ……ですか?」
途切れ途切れに、質問するのがやっとだった。彼の雰囲気に呑まれ、言葉が上手く出てこない。
見るもの全てを魅入らせるほど美しく微笑んだ彼は、囁くように続きを口にした。
「鶴が行くと言っていた場所を、覚えているか?」
三日月さんは笑みを乗せたまま、その目元を細めた。
「知りたいのなら、 俺たちがよく集う『街』へ。連れていってやろう」