野苺ノイ②
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18〜20p 《有明の狭間のフクロウの仔》
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【海と金琥珀とカズラ】
コロポックルは、山、海に暮らす者に大別される。
カズラは山に生きるコロポックルなので、海は見たことがない。
「海かあ。行ってみてえなあ!」
幼いカズラは、本体の樹にスルクと腰掛けて、高いところから西陽を見ていた。
壮大な夕陽は渓谷を照らしていた。けれど、この先にはまだ世界がある。
憧れに目をキラキラさせて、夢を語るカズラを、スルクはじっと見ていた。
スルクは、海を見たことがある。
「白いスルク」だった時代、カズラと出会う前に。
トリカブトの白い根は、切り落とした直後に赤や黒へ変化するものが最も毒性が強い。当時、スルクの腕の入れ墨はまだ「白」で、矢に毒がなく見掛け倒しだったため、トリカブトの出来損ない、「犬のスルク」と揶揄されていた。
火打石の黒曜石を矢尻として使いこなし、冬眠時には火を焚くスルクは、ただでさえ周囲から嫌われる。森の防人として役に立たない当時のスルクは、いつ山火事を招くか分からない厄介者だった。
そんな現状に嫌気がさして、その日スルクは森の外に出た。
目的地はなかった。ただ、限界まで遠くに行きたかった。
コロポックルは、本体がある場所から離れられない。
だが、飛んだ種や株分けした個体のある場所から一定の範囲までは動くことができる。
森から逃れることはできないが、スルクのトリカブトは森を超えて散在するので、かなり遠くまで行くことができた。
そして、当てもなく行き着いた「限界」が、海だった。スルクは海を越えられない。
だからスルクにとって、海は良いものではない。スルクの進める限界線、超えられない壁だった。
「海見たことあんの!?」
スルクは成長と共に毒が強くなり、今は赤い段階だった。
スルクが口にすると、カズラは勢いよく振り返った。
「海!見てみてえなあ!」
西陽を見るカズラの金琥珀の目が、夕陽に照らされて煌めいていた。夢を語るカズラの目。
「なあスルク!海ってどんなん!?」
問われ、幼いスルクは困った。
長年独りで生きてきたので、何かを伝えようとすると、どうしても言葉が拙くなる。
(現在のスルクの言葉遣いが荒いのは、だいたいカズラのせいだ)
「広くて…」
「そんで!?」
「……とにかく広くて……」
「そんでそんで!?」
「………でかくて」
貧弱な自分の語彙に泣きたくなった。
しかし、カズラは気にしたそぶりもなく楽しそうに笑っていた。
「あの湖よりでっけえの!?」
「ああ」
「マジかよ!」
はしゃぐカズラ。楽しげに笑うカズラの金琥珀の瞳は、西陽でキラキラ輝いている。
「きっれえなんだろうなあ!」
確かに海は美しく、夕陽でキラキラと輝いていた。
けれどスルクはもう、海よりずっと、美しくキラキラしたものを見つけた。
「それでそれで!?」
「陽が沈むと……お前の目に少し似てる」
※そして琥珀粉々事件へ。
【ある日のカズラとスルク】
「スルクぅ!火ぃくれ!」
早朝のことだった。
川辺でスルクが顔を洗っていると、派手な掛け声と共に、親友の顔が逆さに降ってきた。
足だけで樹の幹にぶら下がって、首の後ろで手を組んだまま、カズラがぷらんと逆さに笑った。
「ガマのおっちゃんから穂はもらってきたからよ!」
洗いかけの顔から水滴を落としながら、スルクは長いため息を吐いた。
「カズラ、今度は何を始める気だ」
「そこはお楽しみっつーことで!」
「またお前は…」
定期的に騒動を起こす親友の「にっしっし」という笑い方は、騒ぎの前兆だ。とんでもないことを思い付いた顔である。
コイツがこうまで機嫌が良いと、経験的にだいたいろくなことがない。
「火の始末は自分でやれよ」
「さっすがスルクちゃん!愛してるぅ!」
そうは言っても、スルクはこのトラブルメーカーの頼みをどうも断れないので、結局半分は共犯の自業自得かもしれなかった。この笑顔に、どうにも弱い。
火打ち石で火花を起こして、ガマの穂に火を移す。空気を含ませて大きく振り回すと、大きくなった火種が手の中に残るから、薪を組んだかまどに放り込んで、あとは燃え広がるのを待つばかり。
鮮やかな手付きで火を起こしてみせたスルクに、カズラは手を叩いて「さすがあ」と笑った。
「お見事!さすがオレの親友!」
「調子良い割にいつも後始末を押し付けられるのは気のせいか?」
「かたいこと言うなよスルクちゃん」
口笛を吹きながらあらぬ方向を見るカズラに、スルクはまた嘆息した。
「で?さっきから抱えてるそれは何だ」
「よくぞ聞いてくれました!」
ヒョウタンを掲げて、じゃーん!と親友は能天気に笑った。
「見ろよスルク!塩だぜ塩!珍しいだろ!」
飛び退いた。
派手なバク転で距離を取ったスルクに、カズラが「おー、空中三回捻り」などと阿呆なことを言って手を叩いていた。
スルクは目を剥いて叫んだ。
「馬鹿かお前は!何でそんな危ない物を持ってる!」
「なんでって、欲しいってフクロウのじい様に頼んだからだな」
「土地が枯れる猛毒だぞ!植物に塩がどれほど危険か知ってるだろう!」
「薬師が毒を怖がってどうするよー」
あはは!と楽しげに笑った親友のツラをぶん殴ろうかと思ったが、手の中の塩をうっかりばら撒かれなどすれば事だ。塩は生涯分解されないのでそこに二度と植物が生えない。一帯が不毛の地と化してしまう。あまりにも危険すぎる劇薬を持つ阿呆を蹴り飛ばすのは躊躇われた。
そんなこんなで時間をロスしているうちに、カズラはさっさと鍋を火にかけ始めてしまった。すわ何が生成されるかとスルクはヒヤヒヤした。
「火といい塩といい、お前は本当に天敵を怖がらないな。どういう神経をしてるんだ」
「えー。さすがに山火事とかは怖えけどよぉ。この火はお前のじゃん。お前がすることなら怖くねえよ」
当たり前のように寄越される信頼に、ぐらりと絆される。鍋の中身を笑顔で差し出されたら断れるか自信がなくなってきた。
「さすがの猛毒も塩を飲まされたら死ぬからな……?」
「今回は食いもんじゃねーよ。見てろって」
言うや否や、おちゃらけ顔がスッとなりを潜め、瞳に真剣な色が宿る。
普段の粗雑さとは打って変わって静かに、繊細な手付きでカズラは鍋の上で枝を削り始めた。
流れる空気が静かに絶える。
鍋の中に、すり潰した山葡萄の皮が少しずつ入れられていく。適温の湯の中に、カズラの手が慎重に入れられて、じっくりと皮を揉んでいた。掻き混ぜて、今度は丁寧に実が入れられていく。
いつもとは打って変わって静かで慎重な、別人のように丁寧なカズラの仕事ぶりを、じっとスルクは見ていた。
「……スルク、火。少し強く」
「ああ」
「……やめ。そう、そのまま」
山葡萄の芳香が流れる。不思議な何かはゆっくりと形作られていく。
何やら少し薬を入れて、またじっくり鍋が掻き回される。
魔法のように何かが生み出されていく、その手がスルクは好きだった。
水で絞った何かを鍋に入れ、最後にカズラは、塩をわずかに鍋に入れた。
山葡萄の香りが、グッと濃くなった。
「できた!」
見惚れているうちに時間が経って、ハッとする。
水が勢いよく掛けられて、ジュッ、と音を立てて火が消えた。
カズラは鍋から出した何かを掲げて満面の笑みだった。
「何だそれは」
「染めモンだよ染めモン!オレ染めのオレ仕様!塩入れねえと色が出ねえんだ。こうすっと虫も付かねえし、カビも寄らねえ特別製だぜ」
綺麗に洗い上げられた布は、太陽の下で鮮やかな薄紫色に染め上げられていた。
綺麗だな、とスルクは思った。アイツの色だった。
「あとは陰干しにして、オレのツタを通して仕上げ。カズラさま特製マントの出来上がりってわけよ!」
「たまにはまともな物を作るじゃないか」
美しい外套は、驚くほど鮮やかに、まるで咲く花のように存在した。
コロポックルは夏季にはどうしても乾燥や気候の変化に弱いから、日除けのマントというのは良い案だった。
「だが、その色はお前には派手すぎないか」
「なに言ってんだよ、これお前のだぜ」
は、と息が止まった。
カズラは鍋の中身をせっせとヒョウタンに移し替えながら、さも当たり前のように言った。
「お前また遠出じゃん。外はカビも多いし、気温差も激しいだろ。泥跳ねも無え方がいいじゃん」
移し替えた中身にしっかり封をして、鍋まで綺麗に片付けてしまうと、カズラは「お、いい感じ!」と干していた布を枝から下ろした。
カズラの手の中には、スルクのための一番染めの外套が、誇らしげにキラキラ輝いていた。
「んー、さすがオレさまプロデュース!いいじゃん!」
カズラは太陽の下で、眩しく笑った。
腕を伸ばして、スルクに見立てるように、外套を掲げた。されるままに、スルクは固まったままそれを受け取った。
ふわ、と山葡萄の残り香が、目眩がするほど優しく香った。
「俺、の?」
「そー言ってんじゃん。あー、どっちかっつーとオレは赤が良いなー。次チャレンジすっときは野苺とかありゃあ良いんだが、この辺は野苺無えしなー。あれ?なに、気にいンなかったか?」
「いや、……大事に、する」
親友は満足そうに笑った。
いつの間にか真上に登った真夏の太陽より、眩しくまばゆい笑顔だった。
「ところでさあスルク」
ヒョウタン片手に、カズラが妙に真剣に首を捻った。
「この塩入り煮汁、塩に強えアカシアあたり適当に混ぜたらやっぱ食えると思わねえ?」
「食えるか馬鹿野郎!」
今度こそスルクは阿呆を川に蹴り落とした。
幸せだった。あの頃は。
この幸せがいつまでも続くと信じて疑わなかった。
【今は滲む毒で黒く染まった外套を、ただ抱きしめるスルクの独り語り】
【ノイと、『???』】
スルクが弓矢をノイに向けた直後の話。
紫陽の槍とスルクの矢。互いに本気の毒を込めて斬り結んだ瞬間、紫陽を庇ってノイが、間に飛び込んでヤマブーが受傷する。
スルクが切り裂いたのは紫陽を庇ったノイで、紫陽が薙ぎ切ったのはスルクの間に入ったヤマブーだった。
紫陽はノイを、スルクはカズラの名を絶叫する。生命の危機に陥ったノイは消えかけて、気付けば真っ暗な空間にいた。
ここはノイの夢の中。今際に見る夢。
◇ ◇ ◇
真っ暗な場所。川の流れる音がする。気付いたときにはここにいた。
ぺたん、と座り込んでノイは首を傾げた。
ここはどこだろう。
どうして自分はここにいるのだろう。
「あ…れ…?」
うまく思い出せない。ここに来るまで何をしていたのだっただろう。くらりと世界が回った。
夢を見ているみたいに、頭がふわふわした。
座り込んだ場所に、川の水がいつの間にか満ちていた。
寄せては返す波のように、ノイの膝をくすぐって消えていく。不思議なことに、濡れたはずの服は、水が引くとすっかり乾いて何もなかったように消えてしまう。
ノイはますます、自分がどこで何をしているのか分からなくなった。
「シーくん…?」
心許なくなって、思わず呟いたけれど、闇の中から返事は返ってこなかった。
迷子なのだ、とノイは直感したけれど、どちらに帰ればいいのか分からなかった。
ゆらりと波がノイをさらうたびに、方向が分からなくなって頭がぼうっとした。
そのとき
ぽろん、と柔らかな音色が耳朶を打った。
オルゴールのような優しい旋律だった。
ノイは導かれるように顔を上げた。
ぽろん。ぽろん。雨の音のようだった。
紫陽が優しく傘をさして自分を見るときのような、とても優しい旋律だった。
「だぁれ…?」
少しだけ紫陽に似た雨音。水の気配。
けれどもっと温かな、子守唄のような音だった。
暗がりに、灯りがともった。
遠くで蛍のように、柔らかな光が揺らめく。
暗闇の中に、顔がぼぉっと浮かび上がる。
「よぉ」
気さくな笑顔で呼びかけた知らないお兄さんは、ヤマブドウの彼と、とてもよく似ていた。
手のひらに小さな青い火を灯して、その人は口元だけでニヒルに笑った。
「ここに来んのは千年早いぜ、野苺ぼっちゃん」
「?ノイのこと、知ってるの?」
「おー、知ってるぜ。オレ様はなーんでも知ってるさ」
その人は機嫌良さげに、気前よくあぐらを叩いた。その膝に頭を預けるように眠る、彼。その存在に、遅れて気づいた。
膝にくたりと体重を寄せて、ヤマブドウの彼が、眠っている。
「こいつの知ってることは、何でもな」
手元の小さな明かりの中で、その人の目元は見えなかった。
「悪りぃなあ、オレのダチがよぉ。アイツ、昔っから頭に血ィのぼるとしょーがねえんだ」
気心知れた親愛をにじませて、カラリと愛情深くその人は笑った。
「悪いヤツじゃねえんだけどさあ。まあ拗ねてんのさ、可愛いもんだ」
真っ暗な空気を揺らすのは、からかうような優しい声だった。
まるでノイの大切な紫陽花色の人が、ノイに笑いかけるときのような。
「ちょっと行き過ぎたトコもあるけど、許してやってくんな。悪りぃなあボウズ、巻き込んじまって」
「お兄さんは、ここがどこか知ってるの?」
「ああ、知ってるぜ。けど、お前は知る必要のねえことさ」
「でも、ノイ、帰らないと」
「でぇじょーぶ、帰り道ならオレが知ってる。何でも知ってるって言ったろ?だから、まあ。ちょいと付き合ってくンなァ。コイツが起きるまでの短い時間だ」
やんわり微笑んだその人の、小麦色の肌がゆらゆら鬼火で揺れる。
その笑顔がどこか寂しく見えて、ノイは、トトト、と寄り添うように横に座った。
「お兄さんは、なにをしてるの?」
「ダチを待ってんだ」
「おともだち?」
「ああ。怒るだろうなあアイツ。オレ見たらぜってー」
「けんかしちゃったの?」
「そうじゃねえさ」
やんわり苦笑するように、瞳を細めた気配がした。
「オレが先に約束破っちまったからなぁ……」
よく見ると、その人の手にあるのは、紫色のワインだった。
ワインの上に、アルコールを燃やした青火がゆらゆら揺れている。
その人は、寝物語でも語るように、ゆったりと言葉を継いだ。
「むかーし昔、あるところにスーパーグレイトなヤマブドウがおりましたとさ」
闇の中で、声は優しく響いた。
誰かに言葉を伝えることに慣れた、雄弁で軽やかな語り口だった。
「そいつには親友がいた。手のかかるヤツだったが、根っこは生真面目でイイやつだったよ。けど、そいつはいろんな事情でみんなにやっかまれてた。生まれはどうしようもねえのにな」
ぽろん、と優しい音がした。
手慰みにその人が鳴らすオルゴールの音だった。小さな楽器がその人の手の中で、柔らかに音色を響かせていた。
「笑わねえヤツだった。けど、アイツの眼がさ、ゆるっと緩んで、仕方ないな、みてえに細まる瞬間が好きだった。そういうとこをみんな見りゃあ、アイツが怖くねえのはすぐ分かんのに。もったいねえなあって、ハイパーカッコいいヤマブドウ様は思ったわけだ」
「そこでヤマブドウは思った。親友がもう、怖がられねえで済む万能薬を作っちまおう」
「ところがどっこい、天才のヤマブドウ様にも難しいことはあった。大見栄切ったはいいが、時間はどうしても掛かっちまった。どーも上手くいかねえ。そんなときだ、ヤマブドウは知った。いつのまにか親友が、同じ薬師を目指してたんだ」
「やっぱり天才なヤマブドウさまは、これまた天才なことに気付いた。つまりよ、二人合わせりゃ、何だって出来るってことさ」
「森一番の天才と最強さまが手を組みゃあ、どんな病気もイチコロよ。そう、つまりな。探してた万能薬は、案外すぐそばにあったのさ。二人揃って、オレたちがなりゃあいいんだ、最強最高の薬師に」
「なるほど、天才ヤマブドウさまも、一人で出来ねえことがあったのさ。それはなぁ、すげえ良いことなんだぜ。それを忘れねえ限り、繋がりは消えねえ」
「だからヤマブドウは、親友の毒を消す薬じゃなくて、親友が笑って酔えるような美味え酒を作ることにした。それが素直じゃねえ親友の万能薬だって、天才なヤマブドウはちゃぁんと気付いてたのさ」
「そのあとどうなったかって?そりゃあもちろん、天才ヤマブドウは天才だからな。ちゃあんと最高の酒を作ったさ。けど、一つだけ誤算があった。残念だが案外時間が無かったのさ。親友に渡す前に、伝えるチャンスを逃しちまった」
「ワインの熟成は、甘口のモンだとザッと150年ってとこかな。そろそろ良い頃合いだ。ボウズ、白樺林の三ツ首塚の右奥を掘ってみな。お前のサイズなら入れるはずだ。オレさまの最高傑作があるからよ」
「めんどくせえヤツだけど、オレの親友を頼まぁ」
すい、とその手が真っ直ぐ伸ばされた。
蒼い鬼火は優しく、ノイの行く先を照らした。
照らされた膝の上で、ヤマブドウの彼がわずかにぐずって身動ぎした。
「時間だ。アイツによろしくな」
ノイとヤマブーが死にかけた例の事件が風化し、スルクがヤマブーを受け入れて久しくなった頃。今度はいよいよスルクが死にかける事件が起こる。
【スルクが死にかけて見る彼岸】
暗闇の中で気付いたスルクは、なぜ自分がここにいるか分からなかった。
夢を見ているような感覚だった。
暗がりの中、蒼い焔が揺れる。
視線の先で蛍のようにゆらりと揺らぐ炎に釣られて振り返って、スルクは息を呑んだ。
瞠目して、そして。
スルクは、顔をくしゃりと泣き笑いの形に歪めた。
「カズラ……」
アイツは、笑っていた。
青い焔に照らされながら。
記憶そのままの、眩しい笑顔で。

「ようスルクちゃん、久しぶりー」
呑気な声だった。
ああ、と声を詰まらせて、膝から思わず泣き崩れた。
地面に付いた膝が、パシャンと水音を立てる。川の中に、いつの間にか立っていた。
数百年ぶりの親友の声は鼓膜を揺さぶって、優しくスルクの脳天を震わせた。
クツクツと、喉を静かに震わせて、からかうようにカズラは笑った。何百回、何千回と聞いた、そして渇望した声だった。忘れかけた声だった。涙があふれて川の中に落ちた。涙はポチャンと川の一部になった。
友は、川辺の中洲の岩の上に腰掛けて、暗闇の中でニカッと眩しく笑っていた。闇の中でも変わらない、陽の光のような笑顔だった。太陽のような金琥珀がゆっくり細まって、仕方ねえなあ、みたいに苦笑の形でスルクを優しく見るのを、スルクは、夢より夢のような幻の中で見ていた。
「ここに来ンのだーいぶ早すぎるんじゃねえのスルクちゃん。せっかちでいけねえや」
ほんと変わんねえなあ、お前。
そう言って静かに微笑む親友の幻に、どれだけ会いたいと願っただろう。こんなやつが他に世界のどこにいるだろう。こんな変わり果てた自分を、変わってないなんて本気で言えるのは。
猛毒を相手に、赤子にするように笑ってみせる底抜けの懐の大きさ。何もかもそのままだった。スルクが擦り切れるほど思い返した記憶のまま鮮やかだった。
「カズ、ラ」
「んー?」
「カズ…ラ…」
「おう。なんだよスルクちゃん」
揺りかごに揺られているようだった。
あやすように言う笑顔が温かすぎて、まろぶように川からカズラのもとに足を進めた。
カズラは咎めるように片眉だけ上げて苦笑した。
泣き崩れながら岩辺にたどり着いた。
濡れたはずの裾は水の一滴も含んでいなかった。
「カズ、ラ」
言いたいことが喉から出てこなかった。
何百年分の伝えたいことがあったはずなのに、あれほどもう一度と願ったはずなのに、親友の笑顔を前にして浮かぶのは後悔ばかりだった。目の前の笑みと、自分を庇ったせいで消えた最期の姿が重なって、頭がぐちゃぐちゃだった。
「カズ…ラ…」
「ばーか、聞こえてるっつーの」
優しい声に涙腺は決壊した。ゆっくり口を開いた。
「すまな、」
言いかけた瞬間、カズラに途端に人差し指で口を塞がれて「んぐっ」と口ごもる。
「あーダメダメ。そーゆー野暮なのは言いっこなし! だろ!」
にししっと至近距離で笑ったカズラが、悪戯っぽく囁く。
「それに、時間ねえの分かってるだろ、お前も」
唇から離れていく指に、スルクは気付いた。猛毒と化した自分に触れて平気なカズラに。まるで過去のままのように。そんなことはありえないのに。
ますます夢まぼろしでしかありえない今に、スルクは
(ああ、)
と心の中で深く息をついた。
(これは、夢だ。都合のいい、幸福な)
「それよりスルク、ほら座れって。土産土産」
隣の岩肌をペシペシと叩いて、カズラは笑った。旅先の話をねだるいつもの仕草だった。
「オレの知らねえお前の今を聞かせろよ」
片膝を抱えて、その上に顎を乗せて金琥珀を細める、その眼。微笑むまなざし。
ぐらりと飲み込まれるような引力だった。切望させる甘い誘惑だった。
消えて欲しくなかった、もう二度と。永遠に夢から覚めたくなかった。瞬きすら惜しかった。
◇ ◇ ◇
(※現世ではスルクを生かそうとみんなが叫んでいる。)
◇ ◇ ◇
他愛無い話をたくさんした。
俺の拙い語り口を、カズラは柔らかな目で聞いていたと思えば、腹を抱えて笑ったりもした。昔から、聞き上手なやつだった。
懐かしかった。
時間は瞬く間に過ぎて、夢のように溶けていった。
「なーあスルク、オレに訊きたいことねーの?」
話の合間に、見透かすようにカズラが言うのでスルクは怯んだ。
あくまで柔らかく、諭すようにカズラが促すので、スルクは恐々口を開いた。
「なあ、ヤマブドウの、あいつ、は……」
それきり言葉をどう継いでいいのか分からなくて、スルクはただ俯いた。カズラはふっと優しく吐息をもらした。
「ありゃオレじゃねえ、なんてこたぁ全くねぇが、まるきりオレとも言いがてえなあ」
謎かけのようにカズラが、片膝を引き寄せて目を伏せて笑んだ。
「あれはオレの半分」
「はんぶん…? じゃあ、お前は…?」
「お前との思い出は、欠けなく全部オレがちゃあんと持ってるよ。渡したくなかったしな」
「どういうことだ」
「どーゆーことだろーなあ」
煙に巻くようにクスクス笑うカズラは、鷹揚に笑った。
「お前が決めていいぜ」
ぽん、となんてことのないように投げて寄越す選択肢。
蒼い焔が揺らめく。
「そろそろ目ぇ覚ます時間だ」
ああ、夢が終わるのだ。
夢より夢のような、幸福な幻が。
「頼みが、ある」
「んー? どーしたスルクちゃん。珍しいじゃねえか、ココはどーんとオレ様に話して、」
「お前のぶどうが食いたい」
カズラの表情が、ハッキリと固くなった。
「渋くてすっぱい、あれが食べたい。お前の、お前のじゃなきゃ」
「ダメだ」
初めて与えられた明確な拒絶だった。スルクは顔を歪ませた。
「なんで!」
「こっちのモン食うと戻れなくなる」
「嫌だ」
「お前も薄々分かってるはずだ」
「嫌だ、帰らない」
「聞き分けねえこというな!」
「嫌だ!!」
スルクは勢いよく立ち上がって、顔を歪ませた。
「スルク、この馬鹿」
「置いていくのは、嫌だ!!」
カズラは目を丸くした。
「こんな! こんな真っ暗なところに、静かなのは嫌いなくせに! 俺がいなくなったらまた独りで!」
「なんだ、お前、オレが寂しいから一緒にいるって?」
心底驚いた顔でカズラはきょとんとして、次いで「ははっ!」と腹を抱えて声を上げた。
「ばーか。寂しかねーよ」
優しく抱擁するように、背中をとんとん、と強く二度叩いて離れた。スルクの泣き顔をカズラは、至近距離で笑った。
ジャラ、とスルクの首元で琥珀が鳴った。
首から下げた玉飾りを、するりと上手に取り去った。
「オレはこれでじゅーぶん」
カズラが笑って身に纏った宝物。欠けた玉を琥珀で補ったもの。泣きたくなった。
「よおスルク。約束、覚えててくれてサンキュな」
「オレの夢は知ってんだろ?」
「……万能薬」
「そ。だから、お前がいねえと意味ねえよ」
カズラは笑った。暗闇にも負けない眩しさで。
「オレとお前なら、できねえことなんてねえ。そうだろ?」
「だからな、帰れ。お前はオレの夢だ」
胸を突かれた。
「俺はお前を」
涙腺が決壊する。
「護れなかったのに……!」
「じゅーぶん貰ってたさ」
川の向こう。遠くで微かに、すすり泣くような声がした。
「ほら、呼んでる」
カズラが指をさした。水音にかき消されそうな密やかで遠い声だった。耳を澄まさなければ絶えてしまいそうなほど。
「約束したんだろ? 教えてやるってさ。なら、帰らねえとな。そうだろ?」
琥珀色は柔らかに細められた。
「オレの酒はどうだった?」
「あんな美味いものは、二度と」
泣き崩れて
「飲めないと、思った…!」
「また呑ませてやるよ。お前がこっち来る頃にはな」
「アイツはオレだし、オレの系譜でもある。アイツの見たもの聞いたもの、過ごした全てが財になる。オレが見れなかった夢の先だ」
「だから、頼むぜスルク。オレたちの弟弟子を、頼まぁ」
「おとうと…弟子…?」
「おー。だってそうだろ?」
カズラがこともなさげに指を折って数える。
「オレだろ、お前だろ、そんであいつがいっちゃん下。ヤマブドウのじいちゃんの教えを継ぐ新しい夢の芽だ」
限界まで目を見開くスルクに、カズラは重大なことに気付いたようにハッと振り返って、ビシッと指を指した。
「あっ、でも兄弟子はオレだかんな! オレ一番! おまえ次! 二番弟子! ここは譲らねえ!」
衝撃を飲み込めずにただ固まるスルクに、訝しげにカズラが首を捻った。
「どうした?」
「俺は、お前たちの……ヤマブドウの薬師の、一員で、いて、いいのか」
ふはっ、とカズラは破顔した。
「あったりまえだろ。お前の他に、誰がいるよ」
カズラは岩から飛び降りた。
パシャン、と足元で水音が鳴る。いつの間にか川が満ちていた。
「でかくなったなあ……」
カズラが手を伸ばしてスルクの両肩を優しく叩くので、スルクもようやく気付いた。
記憶のままのカズラ。同じだった身長は、今はもうスルクの方が高かった。刻が二人を隔てているのだと分かった。
「立派な薬師だ。野苺のぼっちゃん、助けてやったんだろ?」
「どうしてそれを」
「見てたさ。…だから、これからも見守ってる。お前の行く先を」
カズラが両手を、優しく握った。
「トリカブトのスルク、ヤマブドウのじいちゃんが残した最後の弟子」
ぐいっとカズラがスルクの片腕を引いた。
バランスを崩したスルクは、抱きこまれるように、カズラの肩に額を預けることになった。スルクは瞠目した。
「捻くれ者で優しい、オレの一番の親友」
ふわ、と山葡萄の香りがスルクを包んだ。
「誰がなんというと、お前がお前を疑っても。オレがお前を信じてる」
くしゃ、とスルクの髪に手を入れて後頭部をかき回された。
温かさで泣きたくなって、止まったはずの涙があふれたのを知った。溶けそうなほど温かい体温だった。
「オレはここでお前の土産を待ってるよ。一生ぶん泣いて笑って、世界を見てこい。そんで、いつかオレに話して聞かせろよ。お前が見つけたキラキラしたもんをさ。お前、得意だったじゃねえか」
耳朶をくすぐる声が、体に染みていく。
こんなに近くにいるのに、とても遠いのだと分かった。別れの手向けはあまりにも優しく温かかった。
「生半可な量で満足するカズラ様じゃねえからな。ぜってー幸せになれ。辛くても、苦しくても、大丈夫。信じろ。だから、途中で投げ出したりすんじゃねえぞ」
ひとことひとこと、魂に刻み込むように言祝ぎを贈られて、スルクはただ「カズラ…」と名前を呼んだ。ただそれだけの拙い応えを、カズラは嬉しそうに笑って受け取った。
こんなにも大切なのだと伝えたかった。
「いつか、うんと先。オレたちの弟弟子が巣立って、お前もこれ以上無えってくれえ世界を見て、そしたらさ。また一緒に馬鹿やろうぜ」
ドン、と強く突き飛ばされたのが、別れだった。
川に落ちていくその一瞬、カズラが優しく微笑んだのを見た。
「この先でも、二人で最高の薬師やろうぜ。オレはここでちゃあんと待ってっから」
◇ ◇ ◇
※スルク、泣きながら現世で目覚める
縋り付いて泣くヤマブーがそこにいる。
【コロポックルとカムイ】
この世界は「植物の精霊」と「動物の霊獣」で大別される世界。
植物はコロポックルに、動物はカムイになる。
動物がコロポックルになることはないが、植物がカムイになることはあるので紛らわしい。
彼岸にいるカズラが今まさにカムイになりかけているので、これを元に解説する。
【動物のカムイの成り立ち】
「フクロウのじい様」を例に取る。
フクロウのじい様はとても長生きなフクロウで、別名をコタンコロカムイという。人の村々を見守る神様という意味で、時に人間に金銀財宝を降らせることもある(アイヌ神話より)。これは野苺のコロポックルが野苺を出すのと同じ概念。コロポックルもカムイも、自分の属するものを自由に出すことができる。つまりコロポックルもカムイも根本的には同じ存在だ。
フクロウのじい様は天寿を全うしたあと、肉の衣だけを残して魂だけカムイの国に行き、数百年のあいだ現世を見守って、時が来るとまた別の肉体に魂を宿らせて現世にやってくる。動物のカムイは、そういうサイクルを繰り返している。
【コロポックルの成り立ち】
一方「コロポックル」は、植物の精霊。
本株に宿る九十九神のようなもの。そこから広がった種や花や木は全て株分け(眷属のようなもの)である。
属するものを自由に出し入れ出来る。紫陽が紫陽花だけでなく雨にまつわる傘を出し入れできたり、スルクがトリカブトにまつわる矢を出し入れ自由であるなど。
コロポックルは輪廻を繰り返し、転生を繰り返すごとに能力の扱いが上手くなる。ノイは『生まれたて』の一回目で、これはとてもレア。新しく生誕するコロポックルは、大概はヤマブーのように世界のどこかの『二回目』以降だ。
そして何回か繰り返したあと、まれに神様になって、『カムイの世界』の住人になる。そこから降りてくることは滅多にない。こういうサイクルで回っている。
【ヤマブドウの一家の薬師】
ヤマブドウのじいちゃんは輪廻を繰り返したとても力の強いコロポックルで、カズラもその力を受け継いだ。
じいちゃんとカズラは森の多くの存在を助けてきたので、二人揃って「ヤマブドウの薬師」という概念でカムイになりかけていた。
じいちゃんは魂が天に登ってカムイになった。カズラもそうなるはずだった。
ところが、カズラは天命を全うする前に人食い熊によって真っ二つに割れてしまった。
そのため、カムイになるにはだいぶ不安定だった。
そんなところに、スルクがあまりにも強い願いで無理に引き留めたので、カズラは「カムイになるはずだったカズラ」と「まだ現世に留まるべきだったヤマブドウ」という二つの存在に分かれ、川を渡れずに彼岸に留まってしまった。それが「彼岸のカズラとヤマブー」という存在の正体。
【スルクはアイヌ神話ではカムイそのもの】
トリカブトは人間の生活に最も近しい存在の一つなので「スルク」とはカムイの化身を指した。
なので、実はスルクはヤマブドウよりずっとカムイ化が近く、一度死んだらカムイになって戻ってこない可能性が高かった。スルクの方が遠い存在だったのだ。
その辺をヤマブドウのじっちゃんは知ってたし、カズラも気付いてたかもしれない。
カズラがあのまま薬師として生きていけば。
カズラとスルクは現世で並んで薬師で
カムイの国で揃って一緒にいられる存在だった。
カズラは今も彼岸で、ちゃんと二人揃って薬師をする未来を諦めてない。
だから、相棒が悪い神様に堕ちては困るし
足りなかった自分の経験を増やしてもらわねば困るのだ。
カズラは今も
未来を諦めず、相棒を見守って笑っている。
……なお、ノイがカズラに会った彼岸は
つまり幻ではなく実在する死者の国への通過点なのだが
「超かっこよくなったオレ」とたびたび夢の中で会うという、ヤマブーは実は…?
そう、つまり。
ふとした拍子に消えかねない
かなり危うい存在であるということだ。
【スルクの冬眠と枯れ葉のベッドと子守唄】
◼︎トリカブトは凍ると毒性が落ちるため、スルクは寒さを避けて冬眠する。晩秋が近くなると火を焚いて洞窟にこもるのだが、昔はよくカズラが潜り込んだ。
◼︎子どもの頃はカズラが「いっしょにねよーぜ!」と枯れ葉を山ほど出して勝手にベッドを作った。紅葉の時期なので、カズラが出す枯れ葉は鮮やかな赤や黄色。そこにスルクを引っ張り込んで冬眠の真似事をしたこともあった。誰かと一緒に寝るなんて初めてだったスルクはずいぶん戸惑ったし、温かすぎて寝ている間に溶ける心配までした。
◼︎カズラは樹木のコロポックルなので、草花のコロポックルと違って冬眠はしない。だからスルクが完全に眠ると、枯れ葉のベッドからのそのそ這い出して洞窟を出て行く。そして秋の間に準備した薬草で、冬しか作れない薬をたくさん作るのだ。
◼︎冬の間、カズラは道具や薬草を何かひとつ作る。袋詰めの傷薬セットのときもあれば、甘い菓子だったこともある。スルクの矢筒も黒曜石の護り刀もそのとき作ったもの。最後の冬に作ったのが、ワインだ。
◼︎成長後は、焚き火が薬を煮るのに便利なので、鍋を火にかけてゆっくり過ごすのが慣例だった。カズラは鼻歌を歌いながら、ふくろうのじい様がくれたカリンバ(ハンドオルゴール)をポロン、ポロンと弾いていた。煮る時間を測るタイマー代わりにちょうどいいからと。
◼︎カズラのずるいところは、昼と夜で全く違う顔を見せるところ。普段は調子に乗って木から落ちて川で流されて「またお前は!!」ってスルクに引き上げられたりしている。なのに、夜はこんなにも柔らかに音色を奏でる。
◼︎夜。音色が優しく反響して、包み込むようで。子守唄代わりに聴きながら眠る冬の始め。スルクにとって何より安らぐ時間だった。もう二度と、その音色を聴くことはできないけれど。
◇ ◇ ◇
雨の匂いが濃い。
むっと鼻孔を突く緑の呼吸。
洞窟に満ちるその匂いで、目が覚めた。
ぼんやりと霞む思考を持て余しながらだるい体を起こせば、湿気を吸った鮮やかな紅葉が肩から滑り落ちる。親友がかけた枯れ葉のブランケットが、雨の匂いを吸って呼吸している。
のろのろと瞬いて、紅と黄の渦から這い出して手を伸ばす。溶けかけた雪の壁を掻き分ければ、雪の上にそそぐ雨の音と外の光。楽しげに歌う雨音。
「はよースルク! おせーぞ寝坊助!」
雨の中で踊る親友が、楽しそうに笑った。
【冬眠明けの春の雨】
雨が降れば喜んで
陽が照れば張り切って
風が吹けばワクワクして
嵐が来ればはしゃぎ回る。
あいつは毎日の些細なことにも楽しみを見いだす天才で、そんなカズラに連れ回されるのが好きだった。
俺は過去の孤独や苦しみや冷たさに、足を取られてばかりだったから、自力で楽しさを見つけるなんてできなくて、カズラに手を引かれて初めて、いろんなものがキラキラした。
火がつきにくい憂鬱な雨も、カズラが歌って奏でれば優しく反響するとか。
苦手な日照りで乾く時も、二人で水浴びをすれば宝石みたいに飛沫が輝くこととか。
矢の飛び方が不規則で神経質になる風の日に、わざと変な方向に射って狙う遊びだとか。
周囲から音が消えて警戒しなければならない嵐の日も、寄り添えば何より心強いこととか。
そういう些細で温かいことは、ぜんぶカズラから教わった。
◇ ◇ ◇
【トリカブトの兄ちゃんとヤマブー】
◼︎スルクがヤマブーに薬師の知恵を教え始めた頃、川辺で焚き火をしながら夜通し教えた。そしてヤマブーが眠る頃、時折、揺れる川辺に鏡のように映るヤマブーの寝顔が、ニコリと笑って手を振るカズラになって、また水面が揺れて消える、そんな光景が何度か見たスルク。火の番をしながら、夜通し眠らない。
◼︎スルクはカズラを失って数百年、感情が凍結していたが、ヤマブーの師匠を務めるようになってから、解凍した哀しみがあふれて、たまに一人で泣いている。ときどき、ヤマブーの寝顔にどうしようもなくカズラを見て、一人で膝をついて、隠れるようにボロボロ泣いてる。ヤマブーが初めてこれを発見したとき、本当にどうしようって困ってオロオロした。自分の山葡萄を出して「く、食う……?」って差し出す。酸っぱくて未熟なその味に、スルクはますます泣いた。あまりにも懐かしく恋しい味だった。
◼︎ヤマブーはよく寝る。どこでも寝る。しかも、わけわからん寝相してるので、うつ伏せで倒れたみたいな格好で草っ原で寝てたりするのでスルクが発見して肝を冷やす。いまだにカズラが自分を庇って倒れた瞬間はトラウマ。
【フクロウのじい様とカリンバ】
◼︎シマフクロウのじい様(コタンコロカムイ)は非常に長命で力の強いカムイ。寿命を終えると肉体を置いて魂だけカムイの国に渡って、また何百年かするとヒトの世界に降りてくる。
◼︎ヤマブドウのじっちゃんとは数百年来の旧友で、カズラが生まれたばかりの頃に久しぶりにヒトの世界に降りてきて、生まれたてぷにぷにのカズラを発見。生まれたてのカズラを子守して可愛がっていた一匹。カズラもよく懐き、親戚のじいちゃんと孫のような関係だった。ヤマブドウのじっちゃんとカズラの成長を肴に良く呑んでいた。
◼︎途中、何度か肉体替えをしてカムイの国とヒトの世界を行ったり来たりしていたが、最近の二百年ほどは、カズラとスルクを見守っていた。
◼︎ヤマブドウのじっちゃんが亡くなったときには、哀しみで動けなかったカズラの代わりに、森に訃報を知らせて回った。
◼︎ヒトの集落を司る存在で、ヒトが礼儀を尽くすと金銀財宝を与えると言われている。そのため、ヒトの世界にしかないものを時々森にもたらす。カズラの持つ金属鍋などがそう。
◼︎カズラのカリンバはフクロウのじい様がくれたもの。
◼︎カズラ亡き後、フクロウのじい様も寿命で亡くなっている。本来なら何年か後に再びヒトの世界に降りるはずだったが、彼岸を渡る途中でカズラを見つけ、カズラが独りぼっちで彼岸から数百年動けないことを知り、ヒトの世界に降りず、カムイの国と彼岸を行ったり来たりして、カズラの話し相手になってやることにした。カズラが話せるのは、ノイのような彼岸に迷い込む存在を除けば、フクロウのじい様だけ。彼岸は静かで寂しい場所。
◼︎スルクが彼岸に迷い込んだ後、カズラは「フクロウのじい様もそろそろ下が恋しいだろ? 降りてやってよ。アイツに助けがいるだろうからさ」とフクロウのじい様を現世に送り出した。だから今は、カズラは本当に独りでスルクを待っている。
◼︎スルクを寝かし付けたあのカリンバは、カズラ亡きあと行方不明になっていた。フクロウのじい様が預かり、彼岸でカズラに慰めのために再び与えた。
◼︎スルクがヤマブーに薬師のことを教え始めた頃、じい様が二人の前にバサリと革袋を落としていった。スルクは袋を開いて硬直した。失われたはずのカリンバ。ヤマブーがそれを興味深そうにポロンと鳴らしたのを、スルクは顔を覆って泣いて聴いた。二度と聴けないはずの音色だった。
【フクロウのじい様と山葡萄ハツ】
◼︎シマフクロウのじい様とヤマブドウのじっちゃんはマブダチ。
◼︎島梟の「シマ」と山葡萄の「ハツ」
◼︎ハツは若い頃ヤンチャで(※カズラの生き写し)、シマが何だかんだ面倒を見ていた。憎まれ口を叩き合いながら毎日酒盛りしていた。少しスルクとカズラに似た関係だった。
◼︎カズラは、山葡萄の株分けから生まれているので、見た目は本当に生き写し。
◼︎ところで、シマフクロウの「島」とは北海道のこと。シマフクロウは北海道の東の非常に狭い生息域を持っていることから。フクロウは虫やネズミを狩るイメージが強いが、シマフクロウは魚を食べる特殊な梟。
◼︎大木の樹洞にゴザを作って冬を越し、卵を抱いて暖める習性を持つ。
◼︎山葡萄の樹には大きな樹洞があり、梟はそこを好んで冬のねぐらにしていた。ところがある秋、久しぶりにやってきた樹洞に、眠る小さな影。生まれたてのカズラである。梟は習性通り大きな翼で温めてやったし、子育てもした。
◼︎カズラが成長して樹洞に収まらなくなって以降、カズラはスルクの洞窟に入り浸る。この頃の体験が根底にあるから。狭く温かな洞窟は、カズラにとって一番安心できるゆりかごだ。
◼︎梟と山葡萄の出会いは、山葡萄が成人して以降。
◼︎梟はある日、この森にたまたまやって来た。羽の付け根を怪我していた梟は、ちょうど良い止まり木を見つけて、誰も届かないような高い枝に止まって寄りかかって羽を休めて、はあ、とため息を吐いた。
そうしたら、誰もいなかったはずの枝に、いつの間にか青年があぐらで
並んで座っていて、突然「よっ」と横から声をかけた。びっくりして梟は枝から落っこちかけた。
「おっとっと!」
青年は梟の足を逆さに掴んだ。
「あぶねー」
びっくりしたぁ、と笑う青年。驚いたのはこっちだ、と梟はプラプラ逆さに吊られながらごちた。
「誰だお前は。何でこんなところにいる」
「オレの枝に止まったのそっちじゃん」
カズラが青年になったような見た目の山葡萄だった。梟をあぐらの上に抱え直して、青年は笑って「食うか?」と実を差し出した。
はるか高い地上の、細い枝に青年。重力を感じさせない軽やかさ。
「お前、コロポックルか。珍しいな」
「シマフクロウも珍しいじゃん。あいこあいこ」
ここは誰も来ねえからなぁ。
と、梟を抱えたまま、はるか高い枝の上から夕陽を見る青年は、広大な渓谷にまさしく独りだった。
「ん? あれっ、怪我してんじゃん!」
青年は梟を猫のようにプランと吊り下げて目を丸くした。七キロを越える大型の猛禽類である梟を子猫のように吊り下げるとは、なかなかの怪力だった。
「離さんか」
「だめだめ。飛べなくなっちまう」
グッと握って、ぽんっと開いた片手に、手品のように葉っぱが生まれた。
青年は羽の付け根に葉っぱを押し当てて、手早くツタでくるりと縛った。
「葉の傷薬か。古い作法を知ってるな」
「少し休んでけば。うろで寝てっていいぜ。遠慮すんなよ、久々のお客さんだ。もてなすぜ?」
青年は笑った。
これがシマとハツの出会い。そして山葡萄のじっちゃんが薬師を志すキッカケ。
◼︎今、それを思い出す梟の手元では、まだまだ幼いカズラが「ふくりょのじしゃま?」とつぶらな瞳でコテンと小首を傾げている。旧友と瓜二つの、まだ幼い未来の子だ。
「昔はな、この島梟 の祖父の祖父の代の者を始め、多くの島梟 がカムイの国から降りて、ニンゲンの村々を見守っておった」
ある冬のこと、樹洞の中で身を休めながら、島梟 は山葡萄 にこう語った。
まだ山葡萄 が若かりし頃、今と比較すれば幼いと言い換えても差し支えないほど、遠い昔の話だ。
「だが、この地に古くより住む者は攻め滅ぼされ、いつの頃からか移住する者が後を経たなくなった。古い作法を知る者は減り、正しく祭られることなく、目の効かない強い明かりばかりが村々を覆うようになった」
島梟 はそう言って深く嘆息した。シマフクロウは皆、夜目が効く代わりに、強い照明が当たると視野が効かなくなるのだという。
「供えが無くなり怒った者もいた。このように眩しくてはどちらにせよ見守ることもできぬと天に帰った者もいた。もう今となっては、この翼と衣を選んで大地 に降りてくる変わり者はごくわずか」
山葡萄 は何度か瞬いて、じっと見晴かすように親友を見つめた。真剣で、真摯な眼差しだった。
「じゃあ、島梟 は、どうして今もその衣を選ぶんだ?」
「無論、まだ見守りたい村 があるからだ」
島梟 の返答は迷いなかった。
「コタンが移り変わるは世の常、仕方ないことだ。永遠に続く村など無い。だから見守る者が必要なのだ」
問われた島梟 は気をよくしたように、朗々と語った。
島梟 のような古いカムイは、他者との問答を好む者が多いという。
人の世とカムイの国を繋ぐ言葉。
それが急激に減りつつある時代だった。
「たとえ忘れてしまった者がほとんどでも、まだ忘れておらぬ者がわずかでもいる内は、な」
山葡萄 は表情を曇らせて「それって、何だか寂しいな」と相槌を打った。島梟 は首を左右に振った。
「だが、まだ言葉の伝承が絶えていない。言葉とは祝詞、祝詞とは手紙だ。望む者がまだいる内は、手紙が届くかもしれんからな。だからこうして大地に降りるのよ」
島梟 は目を閉じて「ふむ」と深く考え込んだ。閉じた瞼の裏側で、いずれ来たる遠い未来を眺めているのかもしれなかった。
「コタンコロカムイの名を知る者が絶えるまでは、人里を見守りたいものだがな」
「じゃあ、絶えてしまったら?」
「人が決して追いかけて来れない森の奥深くに皆で引っ込むさ。その時は、番の孫の孫のその孫たちと、この森にふらりと現れることとしよう」
【カズラとスルクの組み手】
◼︎カズラは時々「スルクー!組み手しよーぜ!」と突然現れることがあった。
◼︎コロポックルの能力をフル活用したスポーツのようなもの。コロポックルは自分にまつわるものを自由に出し入れでき、スルクは矢を、カズラは山葡萄のツタを出すことが出来る。
◼︎カズラはとにかく身軽。自分のツタを使いこなして笑いながら森を駆け回る。足元を中心にぶわっと伸びたツタを足場に高く飛ぶ。それ目掛けてスルクが矢を射る。カズラは変則的な動きで翻弄するが、スルクは基礎能力が高いので蹴り飛ばして吹っ飛ばす。毒を塗っていない矢で服の裾を正確に狙って縫い止めたりする。
◼︎そもそもスルクは、カズラに矢を向けられるようにメンタルが出来ていないので、絶対に裾から狙いを外さないように練習して精密さがどんどん上がってる。それを避けるのでカズラの身軽さもどんどん上がる。
◼︎変幻自在でトリッキーなカズラと、冷静で正確なスルク。最終的にはスルクに軍パイが上がる。
◼︎カズラはとにかく身軽でスルクの良い練習相手だった。逆にカズラがいない今は誰も相手できない。
◼︎身軽さは天性なのでヤマブーも身軽。
【しらかばの白樺姉】
◼︎山葡萄より少し年上の見た目の、しっかり者の姉御肌のコロポックル。古風な白を基調とした着物の、綺麗な色白の女性。歩くとシャラランと非常に透明感のある綺麗な葉擦れの音がする。片耳にしている、飾りの多い長い耳飾りからしている音。このコロポックルの森では、山葡萄に次いで二番目に古く生まれた。
◼︎ヤンチャな山葡萄を良く叱り付けて説教していたが、長らく独りぼっちで生きてきた山葡萄にとって、そんなふうに関わってくれるのは嬉しく、叱られたくてあれこれヤンチャしていた。叱りながら何だかんだと「ばかねえ」と笑ってくれるのが嬉しかった。
◼︎山葡萄に巻き込まれて、よく島梟まで正座させられていた。解せぬ。
◼︎下戸で、山葡萄のワインを呑むと物凄くふにゃっとした笑顔になる。山葡萄はこの笑顔に落ちた。近所のねーちゃんに懐いているような感覚から気持ちが変化し、長い片想いに。山葡萄は、種族の違いに気後れしていたようで、結局最後まで告白しなかった。
◼︎最盛期には、この森の三分の一を覆うほど株を増やした。これは、滝の上流から流れてくる重金属の悪影響にいち早く気付き、自分の根でトラップすることで妹分だった桜への影響を少なくするためだった。このため、地下に白樺の根が形作った空洞が山ほど残っている。このひとつが、カズラが残したワインの隠し場所。紫陽とノイが落ちた穴もこれ。
◼︎最期はこの湿地帯の影響で根が腐り、寿命で亡くなった。最期まで山葡萄を出来の悪い弟分扱いする、竹を割ったような気持ちの良い気性の人だった。
◼︎ノイが生まれたフキ広場は、元は白樺姉の本体の古木があり、倒れた場所が空洞になってできた場所である。そのため、周囲は白樺の株分けである白樺林であふれかえっており、カズラが話す「白樺の樹液」、ノイの話す「白樺のお姉さん」は代替わりしており全員世代が違う。いわば、ひ孫やひひ孫にあたる。白樺の世代代わりは性別が固定で、どの世代のコロポックルも女性。
【コロポックルの夢は追体験】
◼︎コロポックルの見る夢は、過去の追体験が多い。
◼︎ノイは生まれた日の火事を。紫陽はノイが倒れた瞬間を何度も夢に見ている。鮮辛い体験を何度も夢に見るノイや紫陽と違い、スルクは幸福だった過去を見る。特にカリンバの音色は何度も夢に見た。目覚めたときが一番辛い。
◼︎ところで、そんな中でカズラだけ「スーパーウルトラな万能薬になった自分」が夢に出てテンションが上がる。つおい。精神がワイヤーロープで出来てる。
◼︎ヤマブーは冬に夢を見ている間、明滅して消えかけている。
本来、樹木のコロポックルは冬眠しないはずなのだが……その理由は、彼岸のカズラが知っている。
◼︎コロポックルは果実を無限に出せるので、森に「飢饉」という概念が無い。(調子が悪くて産出量が減ることはある)
◼︎そのため、飢餓に囚われた人喰い熊は、進んでコロポックルを喰いにくる。
※ヤマブドウのじっちゃんが亡くなった夜明けの話
夜明けと共に、ヤマブドウの翁の皺だらけの手は、するりと空気に溶けて消えた。
カズラはずっと、亡骸の木に縋り付いて泣いていた。
胸は酷く痛んだが、告げねばならなかった。
「カズラ。……時間だ」
雨の気配が近かった。
今を逃せば葬送できなくなってしまう。
病気の残る亡骸を、火にくべなければならない。
カズラは動かなかった、もう消えた翁の手を握るように座り込んだまま。
ヤマブドウの翁が消えた朝。
憎らしいほど澄んだ夜明けだった。空が黒から緩やかに群青に移り変わる。
スルクは松脂を用意して、松明に火を付けた。
「……カズラ」
再度声を掛けたが、カズラは俯いたまま動かなかった。
スルクは瞑目して、しばし黙祷した。深く息を吸って、覚悟を決めた。
「すまない」
謝罪は翁と親友の二人に向けてだった。
松明を手に、スルクは亡骸に火を付けようとした。
その腕を、突如カズラがぐっと掴んで制止した。
座り込んだカズラが、俯いたまま告げた。蚊の鳴くような細い声だった。
「そこまで、お前にさせられねえよ」
そう言って、カズラはスルクの腕を掴んだまま立ち上がった。腕に縋って、よろけながらやっと立ったような有様だった。それでも松明を手に取るカズラを、スルクは止めなかった。
松明を取って掲げ、カズラは亡骸に向き合った。
「……じっちゃん」
放った火は、高く高く燃え上がった。
「……我らを育てる火よ、この者をお送りください」
カズラが、かき消されそうな涙声で細く歌った。
葬送の唄。別れの歌を。
送られる魂が、ゆく道を迷わぬように。
「天の国のおとうさんと
天の国のおかあさんのもとに
無事に帰りつきますように」
高く昇る火柱。
やがて、旋律は大きく空に響いた。
カズラは唄った。空に届くほど、立派に。
「この酒をそえて
送ります
この者はヤマブドウの長
名を山葡萄の翁と申します。
どうか天の国でも
大いに喜び騒いで
酒盛りを始めて
楽しんでくださるように
何の心残りもないように
おとうさんおかあさんのもとに
戻っていって
くださいますように』
亡骸が火にくべられて、灰になって土に帰る。
ヤマブドウの翁が、炎の向こうで
最期に優しく笑いかけてくれたような気がした。
全てが燃え切った頃には、空はすっかり白んでいた。
哀しいほどに何も残らなかった。
火の消えた松明を手に
何もなくなった場所をぼうぜんと見上げて
魂が抜けたように動かず、カズラはただ涙を流した。
胸が痛んだ。だが、カズラの方が何倍も辛いはずだから
スルクは黙って痛みを呑み下した。
頬を雨粒が叩いた。
ザァザァと雨は降り注いで
痕跡を洗い流していった。
◇ ◇ ◇
「じゃーん!」
カズラは、ソレを掲げて、得意げに笑った。
一見、何の変哲もない木の皮だった。灰色で砕けやすそうな、脆い印象のある木だった。カズラはそれを小さく砕いて、麻袋に入れる。
ざぶざぶと入ってきた湖の真ん中で、カズラは麻袋を軽く水に浸すと、わしゃわしゃと布を揉んだ。
すると、途端に、魔法のように白い泡が立ち始めた。
モコモコとあふれる、白い泡。
カズラはそれを、されるままだったスルクの頭にすくって乗せて、わしゃわしゃと揉んだ。
「これ、は?」
「ラスパの木のシャンプー!」
「らす…ぱ?」
「槍(ラスパ)の刃と柄を繋ぐ木だよ。ぬるぬるした糊が出るから糊空木(ノリウツギ)とも言うぜ」
カズラは布の中に再び木の破片を入れたと思うと、水に浸して布を揉んだ。白い泡がたくさん出て、あっという間にいっぱいになった。泡が膨らんで、風に乗って弾けて消える。
きれいな泡は空にたくさん舞って、太陽の光を弾いて、消える。
シャボン玉、というのだとのちに知った。
「こいつで髪とか顔を洗うとよく落ちるんだ」
カズラはにぱっと破顔した。
太陽を弾くまぶしい笑顔だった。
カズラの指先は心地よかった。
頭を撫でくりまわされるみたいに、優しく髪をすいていく指先が、幼いスルクを優しく甘やかした。
長らく泥と埃を被っていたスルクの頭から、みるみる内に汚れが洗い流されていく。
カズラは鼻歌を歌っていた。
生まれて初めて誰かに髪を洗われて、ふわふわとした心地でいたスルクに、不意にカズラは、にぱっと笑いかけた。
「ほら、きれーな髪してんじゃん!」
紫色に近いスルクの髪を、すくってカズラは、無邪気に笑った。
あの日、そんなふうに不意打ちされた言葉を。
今も忘れられなくて、スルクは髪を少し伸ばしたままでいる。
泥だらけのスルクを洗ってくれた、幼い日のカズラは。
あの日、初めてみたシャボン玉のように、泥だらけなのに、キラキラしていた。
◇ ◇ ◇
スルクは太い根に足を掛けて、ぶら下がるように空洞を覗き込んだ。
「あった…ノリウツギのシャンプー、これだ、間違いない」
くん、とひょうたんの匂いを確かめて、指先に乗せてすり合わせる。独特のぬるつきと少しの粘り気、間違いなかった。
(カズラの泥を落とさないと。灰にカビが残っていたら事だ。とにかくまず水辺に…)
ごし、と目を擦った。
(ダメだ、カズラが泣かないのに、俺が泣くわけには)
気を抜くとあふれ出しそうになる両眼の灼熱を、ごしごしと擦って無かったものにして、スルクは急いで来た道を戻った。
戻ると、びしょ濡れの雨の中、立ち尽くして
動かないカズラが
虚ろな目で、ゆるり、振り返る。
「…………スル、ク」
「いい。なにも考えるな。任せて寝てろ」
外套で雨を遮ると、カズラは糸が切れたように崩れ落ちた。
バチャッ、高い音を立てて水が跳ねる。
何もかも雨に紛れて分からなくなる。カズラは腰まで水に浸かったまま、川の中で微動だにしなかった。
ザァザァ ザァザァ
雨が降る。土砂降りの中、雨音だけが響く。
膝からくずおれたカズラの、腕を掴んで、スルクは自分にカズラをもたれかけさせた。腕をスルクの腰に回させ、くったりと弛緩したカズラを支える。
スルクの胸に体を預けたカズラは動かない。
雨の中、カズラは人形のように光の消えた目で、ぼうっと動かなかった。
微動だにしないカズラの弛緩した体を支えながら、布袋の中にノリウツギの破片を入れて泡を立てていく。
カズラの柔らかい髪に指を入れていく。
雨のシャワーがすべてを洗い流していく。残っていたカズラの祖父の痕跡も。
髪を洗われている間、やはりカズラの表情は動かなかった。
スルクは、唇をキツく噛み締めて、天を仰ぎ、無力な自分を呪った。
▼to be continued
【霧のウララ】

スルクは見回りで森の外に出るとき、必ず霧の中を通る。
急勾配の崖を降りて進むと、どの方角に歩いても決まってこの霧に当たるのだ。
どうやら崖を中心に森をぐるりと覆っているようで、霧を抜けずに森の外に出られた試しはない。まるで内と外を隔てる結界のようだと思う。
この霧は不思議なことに、夜でもぼんやり白く光っている。足元すら見えないほどの濃霧なのだが、抜けた先がバラバラなのだ。
霧を抜けると渓谷だったときもあれば、平地や砂地だったときもあった。そして逆に、外から森へ帰ろうとすると、方角もわからないのにいつの間にか霧に行き当たって、そして霧を抜けるといつの間にか見知った森のどこかにいるのだ。
まるでこの世のものでないようなこの霧は、「狐草」が化かす霧、というらしい。外の様子に興味津々なカズラが、フクロウの翁から聞いたらしい。
この霧の中を歩くと、頭がぼーっとして、うまく思考がまとまらない。強い香りに包まれていたような気もするが、どんな香りだったか思い出せないし、頭が麻痺したように動かなくなる。なるほど「化かされている」というのは言い得て妙だった。
フクロウの翁いわく、この霧があるから、古くから悪しきものは森に入れず、森の者も一部の例外を除いて外に出ることは叶わないのだという。
そしてスルクは、どうやらその「例外」に当たるらしかった。それが何故なのかスルクは知らない。フクロウの翁なら知ってるのかもしれないが、何にせよ、問題なく通れるのなら不満は無かった。
いつものように霧に行き当たったその日。
昼なお薄暗く、同時に仄かに明るい不思議な場所。
誰にも会わないはずのそこは、その日だけはいつもと様子が違った。
霧の中から、急に気配がした。
「やあ、セタスルク」
スルクは飛び退いて、声の方向から距離を取った。
反射的に矢をつがえた。
「誰だ」
「そう警戒しないでおくれよ。ちょっとした親切じゃあないか」
霧の中からする声は、姿を見せないままコロコロ笑った。鈴を転がしたような美しい声だった。
目を凝らせば、濃霧の奥で、黒い影だけがゆらゆら揺れていた。
「そちらは今は良くないよ。こちらではなく、あちらにお行き」
影がすうっと右の方向を指して、スルクが行こうとしていた逆手に導いた。
「……信用ならない」
「えー。こっちに行ったら、永遠にぐるぐる迷ってもらうけど?」
スルクが警戒でぐっと顔を顰めると、影は老獪な翁のように、あるいは年若い子供のように、するりといなくなった。
「じゃ、警告したからね。寄り道しちゃあ、だめだよ」
その日、スルクが行こうとしていた方角で、大規模な人食い熊の行進があったと後に耳にした。
「やあ、セタスルク」
二度目の邂逅はずいぶん経ってからだった。
影は霧の中から急に現れて、また人を煙に巻くように笑った。
「……あんたは」
「やあ」
ニコニコと微笑む気配だけがした。
「そっちは良くないよ。今日は引き返すといい」
「……なぜ熊の進行があると分かったんだ」
「ボクだからね」
するりと返された自負は、自慢でもなんでもなく真実なのだと分かった。
スルクでは敵わないほど強い力を持つ存在なのだと感じた。相変わらず、霧の中で姿は見えなかった。
「名は」
「ナイショ」
「なぜ姿を見せない」
「ボクって恥ずかしがり屋なんだぁ」
ひたすら煙に巻くような態度だった。
スルクは眉をひそめて、そいつがテコでも動かないとみると、深くため息を吐いた。
「ならば、なぜ俺の前に現れる」
「キミってばボクの香りが効きにくいんだもん。参っちゃうねえ」
「……なに?」
「未熟でもさすが最強の猛毒といったところかな? さ、お帰り」
その日、増水した上流の川が決壊して、下流が土砂崩れに見舞われた。
「やあ、セタスルク。ご機嫌いかが?」
「……お前に会うまでは好調だった」
「つれないねえ」
気にしたふうもなくコロコロ笑う影は、やはり霧の中で見えなかった。
「ツンツンしないで。仲良くしようよ」
「お前は誰なんだ。なぜ姿を見せない」
「ナーイショ。いいじゃない、名前なんて。いっぱいあって忘れちゃったよ。そうでしょ? セタスルク」
「もう犬のスルクじゃない。赤毒だ」
「さびしいこと言わないでおくれよ、セタスルク。ボクからみれば、まだまだ赤ん坊みたいなものさ」
ニコニコと楽しげな気配だけが霧に溶けていた。
霧の中にいる間だけの短い邂逅も、もう幾度目か分からないほどだったが、知っていることは極端に少なかった。
こいつについて分かったことがあるとすれば、鈴を転がすように声が美しいことと、つまりとにかく暇なのだということくらいだった。相変わらず読めない存在だった。
「で? 今日も俺は追い返されるのか?」
「いや、ちょっかい掛けにきただけ」
影は悪びれもせずコロコロ笑った。
名前も知らないそいつは、時々こうやってスルクを引き留めた。
本当に危険だったときもあれば、こうしてただ気まぐれに引き留められるだけのこともあった。スルクはため息を吐いた。影がふふっと笑った。
「そう邪険にしないでおくれよ。ただ、そう。同胞につい構いたくなってしまってね」
「同胞だと…?」
煙に巻くような態度で、ニコニコと笑った気配だけがあった。
「なぁんでもないよ。そんなに名前が気になるなら、ボクのことは好きに呼ぶといい」
スルクは、しばし悩んだ。
「……ウララ」
「霧?」
「いつも霧の中でしか現れない。だから霧」
「ウララ……ウララねえ。ふふ、この身にずいぶん綺麗な響きを付けてくれるじゃないか。そうしよう。ボクのことはウララと呼びたまえ」
「やあ、セタスルク。今日はちょっと日和が悪いよ。引き返したほうがいいんじゃないかな」
「……?」
スルクは、霧の中でいつものように振り返りかけて、ふと鼻を異臭が突いたのに気付いた。
まるで、傷が膿んだような腐臭だった。
「!! ウララ、お前どうしたんだ!」
「おや? どうしたんだい?」
「とぼけるな。膿の臭いだ。どこを怪我した!」
「……ほんとうにボクの匂いが効きづらいったら。調子狂うなあ」
コロコロと笑う霧のウララは、それでも煙に巻くような態度を崩さなかった。
スルクは柳眉を立てて怒鳴りながら影に近付いたが、やはりするりと距離を取られて、捕まえることは叶わなかった。
「傷を見せろ、こっちに来い!」
「やーだよ。えっちぃ。いやん」
「ふざけてる場合か!」
それでもやはり姿を見せない霧のウララに、スルクは歯噛みした。
腰紐をブチリとちぎって、革袋を投げ付けた。
霧の向こうで、難なくそれを掴んだ影が、きょとんと首を傾げたような気配が分かった。
「傷薬だ。どれが効くのか分からない、勝手に使え!」
「おや? これは……いいのかい? 丸ごと譲ってしまって。キミの親友にもらった宝物だろう?」
「なに? なぜそれを」
「ボクって、なぁんでも知ってるからね」
コロコロと鈴を転がすように笑った霧のウララが、袋の中身をのぞいて微笑んだ気配が分かった。
「有り難く使わせてもらおうかな。弟子のほうとはいえ、山葡萄印の薬は昔からよく効くからね」
霧の向こうで、薬袋の中身を取り出したウララが、どうやら中身のひとつを呑み込んで、別の中身を身体に塗ったようだった。膿んだ匂いが薄くなった。
「良い薬だね。山葡萄は、良い『サン・テク』を持ったようだ」
聴き慣れない古い言葉が混ざる。スルクは胡乱に思った。
「……サン、テク?」
「伸び行く枝葉、子孫のことさ」
霧の中でウララは、今までの飄々とした声とはまるで違う、ひどく優しい声を出した。
長く誰かを見守ってきたような、包み込むような声だった。
「さ、お帰り。セタスルク。寄り道してはいけないよ」
投げ返された薬袋から減っていたのは、熊の爪傷に効く塗り薬だった。
「セタスルク」
「……、……」
ぼんやりと、顔を上げた。
虚ろに視線を彷徨わせれば、いつの間にか霧の中にいた。
霧に浮かんだ影は、ゆらりと哀しげに揺らめいた。
「無茶をしたね」
「……ウラ、ラ…?」
「数百年ぶりだね。まだ憶えていてくれたようで重畳。けど、止まりなさい」
ついぞ聞いたことのない厳格な声だった。
「そんな体でどこに行く気だい。死ぬつもりか」
「……」
「のたれ死んだところで、山葡萄の童に会えるとは思えないけど」
ピクン、と肩が揺れた。
山葡萄の童。それがカズラを指しているのだと気付いて、スルクはまた頭の中が死にそうにぐちゃぐちゃになった。
「……ほっといてくれ」
「そうはいかないよ」
「ほっといてくれ!」
悲鳴を上げるように叫んだ。
カズラは還らなかった。目覚めた山葡萄は自分を憶えていなかった。
触れようとすれば相手は焼けるように爛れた。そばにいることすらおこがましいと悟った。
この世から消えたかった。後を追いたかった。あの時間は二度と還らない。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。ボロボロと流れる涙は黒かった。
霧の中で、ウララが静かに長いため息を吐いたのが分かった。
「仕様がないなあ」と声がして、影がぬっと這い出した。スルクの襟首を引き上げたのは、想像より数十倍は大きな影だった。
霧の中に立っていたのは、白銀のたてがみをもつ大きな狼だった。
右眼は醜く潰れていて、顔には大きな三本傷が入っている。まるで、熊の爪痕のように。
「ウララ……? お前、狼だったのか……?」
「いや。本当の顔は二目と見れぬ醜い引き攣れになってしまってね。これも仮の姿なんだ」
「狼……セタ、そうか」
目眩がした。力尽きたように膝を折ったスルクは、柔らかい白銀の毛並みに顔から受け止められた。
地面に近くなった目が、足元に群生する白い花を捉えた。
ゆら、と花が揺れた。
「ウララ、お前……鈴蘭の神か」
鈴蘭は強い芳香で方角を惑わす。
この一帯をずっと守っていた霧は、こいつの力だ。
「すまないことをしたね。ボクもちょっと手傷を負ってしまって。一匹追い返しそびれてしまったんだ」
「……違う」
くしゃりと、白銀の毛並みを掴んだ。
温かい体毛が、優しくスルクを覆った。銀のたてがみに、ぽたた、と黒い滴が落ちた。
「俺が、弱かったからだ……っ!」
柔らかい尻尾が、優しくスルクの目を覆った。銀の毛並みはスルクの涙を弾いた。

「心が壊れかけている。少し休みなさい」
「……ぁ……?」
体に力が入らない。めまいがして起き上がれない。
キラキラと綺麗な花粉が視界に散って、鈴蘭の毒だと遅れて気付いた。
「キミに必要なのは休養だよ。冬眠もせず、無茶をしたね」
セカイが回る。くらくらと視界が揺れて、意識を保っていられない。
「安心おし。ボクが見張っておく。遠慮することはないよ、狼の毒の同胞。猛毒なら、キミの毒は効かないからね」
声がすうっと遠くなった。気絶するように意識を落とされたのが分かった。
「お眠り、誰とも繋がらないボクの枝葉。百年ばかり眠れば、多少元気が出るさ」
◇ ◇ ◇
◼︎【鈴蘭】
山葡萄のじっちゃんが生まれるよりさらに昔からこの大地にいる古い神様。別名、狐草。谷間の姫百合。君影草ともいう。トリカブトに準じる猛毒。
◼︎アイヌの伝承では、侵略者に追われるコロポックルを匿い、その芳香で侵略者を迷わせたとされる。スズランの群生地の先にコロポックルの楽園があると言い伝えられている。
◼︎遠い昔、伝承通り、古い古いコロポックルを匿ってやった。そのときから、人や人の臭いのするもの(人喰い熊)を通さない存在として、この楽園を守ってきた。本質的には芳香にまざる花粉と毒で方角を惑わせる樹海のような働きだが、トリカブトともなると毒が効きづらく、スルクが霧を通り抜けられるのはそのため。スルク以外では、ウララの存在を知覚することすら難しい。
(フクロウのじい様は上空を飛んでいるため森に来ることが出来る。ノイは山火事の上昇気流に乗って飛んできた)
◼︎「セタ」は近代のアイヌ語では「犬・似て非なるもの・役に立たないもの」を指す言葉だが、古いアイヌ語では「狼」を指す。そして狼といえば、非常に強力な存在だ。
◼︎もともとは非常に綺麗な美しい麗人のコロポックルだったが、顔に熊の傷を受け、片目は潰れ、顔の皮がずる剥けている。精霊から神様になれるだけの力があったので、カムイの国で名前通り狼の衣を纏って再び降りてきた。現在は熊を追い払う狼(大神)として機能している。吠える神、狩をする神、狩の神などとも言う。本人が名乗らないのは、鈴蘭として名乗るべきか狼として名乗るべきか悩ましいからだろう。姿を見せないのは、大きな体躯で怖がらせないためと、顔の傷を気にしてのことだ。
◼︎鳥兜と鈴蘭。同じ狼の猛毒として親近感があったのだろう。ウララにとって、この森の存在は等しく己の枝葉だ。
◼︎スズランの花言葉は「幸福の再来」「幸せは再び訪れる」。眠りに落ちたスルクにもそうであるように、ウララは願っている。

◇ ◇ ◇
【コタンコロカムイは語る】
ウラルカントは霧の国。
あの世でもこの世でもないところ。
我らは皆、霧の国を通って天に至る。
天の国は美しく、豊かで、皆が思い思いに過ごしている。
捧げた供物は何十倍にもなり、飢えることはない。
我らはそこへ至り、命は巡る。
そのためには、霧の彼岸を通らねばならぬ。
彼岸は暗く、じめじめして、良くないものもたむろする。
だから、長く居ってはならぬ。
日頃よりみだりに死者を騒がせることを
良くないとするのは
死者を立ち止まらせ、心残りを与えるのは
彼岸に長く留まらせることだからである。
【とあるスズランが謳った歌】
愛しい愛しい、僕の枝葉
よぉく聴いておいき。
サンとは流るること。上から下へ、山から海へ。水があるべき流れへ還ること。流れて流れて、火のそばに行き着くこと。
サンは水であり火である。水と火は相容れぬものではなく、行き着く先で交わるもの。
この「サン」に、物を表す「ぺ」をつけて、「サンペ」という。心、心臓という意味だ。
僕の枝葉、憶えておきなさい。流るるものが心。火のそばに行き着くのが心臓。お前の心は移ろい、流れ、やがて火を求めるだろう。お前の心が熱を求めるなら、それに逆らわずに流れなさい。その先で交わる水と火が、お前の心臓を形作ることだろう。
注釈)サンテクとは、枝葉および子孫という意味である。
この歌は、ヤマブーという熱に近付くことをためらうスルクに贈られた。
【霧のウララと山葡萄】
◼︎山葡萄は、島梟から外の世界の話を聞いて、森の外に出ようと無謀なチャレンジをしたことがある。島梟が長く不在にしており、身を案じ、会いに行こうとした。
◼︎霧に行き当たり、同じ場所を何度も迷った挙句、諦めずに99日間チャレンジし続けて行き倒れた。
迷い子が何度返してもまた迷いにくるので、ウララはなんとも困って額に手を押し当てた。99日目、ついに根負けし、バッタリ大の字に行き倒れた山葡萄の横にしゃがんで「キミはほんとうにばかだねえ」と笑って眉をハの字にした。
◼︎山葡萄はそこで薬師としての知恵を授かった。さらに様々な森の動物たちから聞いた知恵や、知識袋の島梟に聞いた知識を織り交ぜて独自に発展させたのが、現在の「山葡萄の薬師」としての源流だ。
◼︎ウララ「ハツ坊はおばかさんだったけど器用で頭は悪くなかったし、努力家だったからねえ。つい周りが手助けしたくなる才能があったのさ。人望だねぇ」
◼︎つまり、ウララは実はスルクの師匠の師匠、大師匠と孫弟子の関係にあたる。
◼︎しかし、霧と毒の影響で、山葡萄はウララのことを憶えていられなかった。霧はまさに霞、幻。実に正鵠を射た名だ。
◼︎山葡萄は三日三晩教えを受け、帰る段になって「また来るからな!」と笑顔で言ったが「それはむりだねえ」と言われる。ここから出たら忘れてしまうこと、ハツは山葡萄で弱い解毒作用があるから三日保っただけなことも教えられて、ハツは滅茶苦茶泣いた。
◼︎山葡萄はギャン泣きして、泣いて泣いて泣いて、でも最後はぐいって涙を拭って、オレが忘れてもそっちは憶えてる、だから約束しようと言う。とても真っ直ぐに。
◼︎立派な薬師になるし、おいしい酒も作れるようになるから、オレが忘れてもこっそりオレの酒を呑みに来てくれと。
◼︎ウララは「若くてまぶしいったらないね」と笑う。半日陰を好む鈴蘭に、太陽はまぶしい。
◼︎ハツは一生懸命憶えていようとしたし、がんばったが、霧はまさに幻のような存在。知識は残っていても、誰に教えてもらったのか思い出せなかった。トリカブトほど強い毒でもなければ、霧のことを憶えているのは不可能だ。
◼︎のちにハツは酒盛り好きになって森のみんなと騒ぐようになる。たまに大事な酒瓶が一本いつのまにか消えている。
◼︎ウララは神様の側の人なので、ハツが作った酒は御神酒として、まだウララの手元にある。捧げ物は何倍にも増えるので。
◼︎後にスルクと一緒にあけて、スルクは懐かしい味がしてボロボロ泣く。ハツの酒もカズラの酒も、どちらも大事なともだちにあてた酒、漬け込んだ友愛の形が似ているから。
◇ ◇ ◇
◼︎広大な森に独りぼっちだった山葡萄は、島梟と会って独りではなくなった。島梟は秋が深まるとやって来て、冬を樹洞で越して、春に出ていくことが多かった。だから山葡萄は、冬をうんと楽しみにしていた。
◼︎例年通り「また秋に来る」と言って別れたのに、島梟は数年経っても戻って来なかった。
◼︎最初は「寝坊でもしたのかなー」と呑気に構えていた山葡萄だったが、独りぼっちの静かな冬を数回繰り返すうちに、どんどん不安になってきた。冬は音が絶え、わずかな小鳥のさえずりすらなくなる。山葡萄は冬が苦手だった。けれど、島梟が来るから顕現して待っていたし、一緒に遊べるから冬眠しない樹木のコロポックルの性質を嬉しいと思っていたのに。独りで待つ冬は、以前よりも一層、長く辛かった。
◼︎そして雪が溶けた春。雪の下から凍って死んだスズメが出てきたのを見て、山葡萄の不安は頂点に達する。
◼︎そう、永遠にも等しい時間を持つ精霊と違い、動物の命は有限だ。忘れているのでも怒っているのでもなく、もう戻ってこないと、したら?
◼︎気付いた山葡萄は、たちまち恐怖に駆られて、いてもたってもいられなくなった。動けないのかもしれない。病気をしたのかもしれない。こんなふうにひと知れず冷たくなっていないでくれ、どうか。山葡萄は生まれて初めて、住み慣れた森を飛び出す決意をした。
◼︎このとき、山葡萄は初めて自分の本体の樹から離れたが、離れすぎると消えてしまうコロポックルの性質は自覚がなかった。ウララは親切に離れすぎると元の道に戻してやっていたのだが、山葡萄は自覚がなかったため、ずっと外を目指して歩き続けた。
◼︎最初は、霧に行き当たっている自覚すらなく、進んでも進んでも迷ってしまうし、よほど自分は方向音痴なのかと思っていた。延々と森を歩き続け、ウララが何度戻してもやはり進もうとして、やがて霧の中を長く彷徨いすぎて毒が回り、大の字でうつ伏せにバッタリ倒れて行き倒れとなる。そこを、くすくすと苦笑いするウララに拾われた。
「キミねえ。普通はいくら力の使い方が下手でも、自分が消える限界線くらいは分かるものだよ。生まれたての猪だってもうちょっと思慮深いだろうに。しょうがないおばかさんだねえ」
「無理だよ。キミはこの外には出られない。出れば消えてしまうだろう。諦めなさい」
「永く生きていれば、別離なんてありふれてどうということはなくなるよ。いやなの? 幼いねえ、かわいいかわいい。キライじゃないよ、そういうの」
「アレとはおともだちかい? アレは少々うっかり者だからね。なに、だぁいじょうぶ。あと数度春を越えれば、けろりとやってくるさ。キミがそんなに会いたいなら、道行きは問題ないよ」
「仕様がない。慰めに構ってあげよう。ほら、なんでも言ってごらん。どんな話が聞きたい? 寝物語は山ほどあるからね」
そんなふうにウララに言われて、山葡萄は少し考えた結果、ウララに薬の知識をねだった。戻ってきたとき、もしも怪我をしていたら、助けてやりたいからと。あんなふうに独りで冷たくなっていることがないように。友達を助ける知恵が欲しいと。
霧は目を細めた。
「キミは愚直で心根が優しい子だね。性根が動物やヒトに似過ぎている。永く生きるコロポックルとしては生き辛かろう。知恵をあげるから、周囲に寄り添って生きなさい」
◼︎そうして、薬の知識の手ほどきを受けて、懐いて、そしてウララとの別離を経験する。
◼︎この後、島梟は衣を変えて戻ってきた。番いが子供を産んで餌場を離れられなくなっているうちに、体に寿命が来たのでカムイの国に帰っていたのだ。島梟は自分がカムイで衣替えをすることも、衣替えをすると年単位で戻ってこないことも、山葡萄に言っていなかったし、それに気付いていなかった。山葡萄も既に長く生きたコロポックルなので、当然知っているものと思っていたのだが、山葡萄は衣を変えて戻ってきた島梟を見てギャン泣きした。島梟は物凄くオロオロして動揺した。もともと島梟は赤子の泣き声に弱い性質だったので、このときから島梟の中で山葡萄の性根は非常に幼いものとして印象付き、ついつい保護的になって、以降の苦労性の面倒見ポジションが確立されることになった。
◼︎霧の国はこの世とあの世の境目にあるので、後に山葡萄はカムイの国からウララの霧の中に降りてくる。わずかな時間の夢幻だ。
「あんたの孫弟子を頼むよ」
「やれやれ、仕様がないねえ」
◼︎山葡萄はもともと、存在するが顕現しないコロポックルだった。島梟と話したくて顕現した。ウララと会って以降、ずっと顕現している。
◼︎山葡萄のじっちゃんの木は、周囲から頭ひとつ抜きん出て高い。土地自体が他より少し高く、広大な森と渓谷が一望できる。
◼︎カズラが高所好きなのは、この木がゆりかごだった影響も半分ある。もう半分は争えない血(ハツも高い所が好き)
◼︎樹木のコロポックルは寝るとき、自分の樹に寄りかかって寝息を立てる。
◼︎草花のコロポックルは冬眠中、存在が希薄になる。眠りに落ちるとき、透けて明滅する(完全には消えない)
◼︎なおウララはたぶん冬眠しない。
◼︎一輪の赤いスズランは、ウララの心の傷。
誰にも見せない最奥に、ひっそりと今も。
【山葡萄の目も耳も口も、いまの山葡萄のすべては、親友といるためにある】
◼︎森に独りぼっちだった山葡萄は、顕現する必要がなかった。だから顕現せず長い時を生きてきた。
◼︎だから今の山葡萄の手も足も目も口も耳も、すべて親友の島梟と過ごすためにある。
【羽根をあげる話】
◼︎島梟は「ヒトの集落を見守る」という大切な役目があるので、雪が溶けると山葡萄の樹洞を出ていく。そのとき、山葡萄は「えっ……」と縋るような心許ない顔をして、もう帰ってこないような気がして不安で、けれどそれを飲み込んで笑って見送ろうとした。島梟はその、幼子が迷子になったような顔にため息をひとつ吐いて、くちばしで自分の翼を探って、引き抜いて、自分の羽根を一枚、山葡萄に渡した。
◼︎島梟の羽根。淡く光る。
全身が燐光を纏い、暗闇の中で道を照らす。
迷いを晴らす道しるべ。
コタンの祝福。村長の才の証。
◼︎島梟が自分の気配を辿るための目印。これはヒトに祝福を与える時の目印で、大切に持ち続ければまた加護を授けに来る、という特別な約束の証。それを貰った山葡萄は、目を輝かせて喜んだ。
◼︎「プレゼント!オレ初めてだ!」とハツは大はしゃぎした。
光にきらきら透かして、それ以上に目を輝かせて、子どもみたいに嬉しそうに笑うから。
ひとりぼっちの〝こども〟を見つけたシマは、ああ他にもこの童に与える物はないだろうかと。
金銀財宝を雨のように与える自分の力を、らしくもなく、これでは足りぬと思うのだ。
◼︎以降、山葡萄の最も大切な宝物のひとつとして、大事に大事に持っている。現世の生を終えて焼かれたときも、一緒に焼かれて、唯一カムイの国に持っていった生涯の宝物。
◼︎だから、長い役目を終えて島梟がカムイの国に久しぶりに帰ったとき、自分の目印の気配がした。そちらに飛んでいくと、山葡萄が羽根を掲げて手を振って待っていた。変わらない笑顔で。
◼︎山葡萄が白樺と出会い、桜と出会い、動物たちと育んできたこのコミュニティは、いわば山葡萄が作り上げた「村」だ。島梟は村を守護し、祝福するカムイ。村を作り上げ、絆を維持することがどれほど難しく、尊いことか誰より知っている。
だから島梟は山葡萄を、朋友として心から尊敬している。
宴の日、コロポックルたちの森に生きる皆の心がひとつであったとき。島梟は宴の余興を乞われて、舞うように飛んだ。
「銀のしずく、降る降る周りに。金のしずく、降る降る周りに」
翼をはためかせるたびに空から降り注ぐ祝福の光は美しく、山葡萄の目に最も美しい光景のひとつとして刻まれた。
この日から、この森はひとつの村だ。
いま「山葡萄の長老」と尊敬を込めて呼ばれる山葡萄が作ったコタンを、島梟は今も心から愛し、見守り続けている。
◼︎カムイの国にて。目を細める島梟
「懐かしい姿だな、朋友」
「よう親友。若くて格好イイだろ?」
「オレの孫と弟子が世話になったなあ」
「なに、お前に比べれば手も掛からん」
「ひっで! ハハ!」
「鳥兜の坊も気掛かりだが、心配なのはカズ坊だ。彼岸は良くないものも出る。迷わんようにしてやらねば」
「悪りぃなあ親友」
「なに、赤子の頃からのよしみよ。冬はお前のウロでたらふく食わなんだ。返しの子育ての一環と思えばそれもまた」
「山葡萄はお前に頭が上がんねえなあ」
「そう思うなら多少は大人しくせんか」
「ムリ」
「だと思うたわ」
「スルク坊やはウチの孫が何とかすんだろ。オレに似て行儀良く諦めるような性格してねえからな」
「現世のことは現世に任せて、オレたちは見守ろうや、親友」
◼︎水没した紫陽花
大雨の翌朝のこと。雨上がりの世界はキラキラしている。
紫陽の声が聴こえた気がして、ノイは振り返った。
風の中、白樺の葉がサラサラ揺れる。
「……シーくん?」
花摘みをやめて、籠を放ってノイは駆け出した。
紫陽の気配は遠かった。森のどこにも気配を感じない。遠い。
池の中で水没した紫陽。
毒の回る速度が遅くなるので、湖の中に沈んでじっとしてる紫陽を見つける。
ためらいなく水の中に飛び込んで、浮遊する紫陽をぎゅっと抱きしめるノイ。
紫陽は、気付くとノイの膝の上に抱き上げられていて、目を覚ます。
ノイの手から、そっと甘酸っぱい野苺が口に入れられて、噛めば甘くほどける。体が楽になるのを感じる。
「……昨日、大雨だったろ」
「うん」
「いつもより上からの毒の量が多くて」
「うん」
「水の中は、毒の回りが少し遅くなるから」
「うん」
「……また、色が変わってた」
「うん、そっか、そっかぁ……」
ぎゅっと紫陽の頭を抱くノイ。
「俺が望んだことなんだ。少しでも多くの毒をトラップしねえと」
「うん、うん」
「でも、嫌なんだ。色が変わるたび、離れていくようで……あの頃愛された色から離れていくのが、とても、」
ぎゅ、とノイは抱きしめて
「シーくんは、シーくん。だいすきだよ」
◇ ◇ ◇
◼︎「始まりの野苺」はすでにカムイ化してるかもしれないし、ノイは生まれ変わりかもしれない。容姿はノイに酷似している。
【鹿の章】
その昔、大地が毛皮の色で赤く染まるほど大量の鹿がいた。
ユクとは食糧、獲物の意で
鹿はあふれるほど簡単に獲れる恵みの食糧だった。
天上にいる「鹿を司る神」は鹿を大地に投げ落として、人々に恵みを与えていたが、中でもある地方には角が光る特別な鹿がいて
その鹿を「新しき角を持つカムイ」と呼んで祀ったそうだ。
【落雷と角の光る鹿】
ある雷の鳴り響く嵐の夜だった。
スルクは遠出した際に崖から滑落し動けなくなり、立派な雄鹿に助けられた。雄鹿は普通の鹿より二回りは大きく、両角は眩く光り輝いていた。雄鹿は静かな目でスルクを見遣り、礼にスルクの腰にある矢筒の中の飾り矢を欲した。スルクは怪訝そうに言った。
「おかしなことをいう神獣だ。普通、動物は俺の矢を忌うだろうに」
「矢を忌うのは年若きものだけだ。歳を重ね、生を重ねたものにとって死は恐れるものに在らず。天上の国では、皆細工のされたヒトの矢を欲しがる。気に入りの人間がいれば、あえて矢に当たってやって衣を与えてやるもの。天上の国に帰るならば、より立派な細工の矢を欲しがるが常だ」
ただし、毒は不要だ、スルクカムイ。と。
そう告げた雄鹿に、スルクはさらに怪訝な顔をした。
「なぜ俺をカムイと?」
「ヒトの世に近しいものは、主を尊ぶ。私は遣わされたに過ぎない」
スルクは良くわからない、といった顔をした。
じっと佇む雄鹿に、スルクは折れた足を投げ出したまま、崖を背にゆるりと矢を射た。それをパシリと咥えた雄鹿が、近くの木に頭を擦り付けて、立派な角を落としていった。
「いいのか」
「良い。いずれ生え変わるものだ」
そして雄鹿は最後にひとこと、こう告げ残した。
「くれぐれも、悪い神と化さぬことを」
そうして、雄鹿は去っていった。
スルクは、雄鹿が去っていった森の奥をじっと見はるかして、そして長いため息を吐いて、角を松葉杖がわりにゆっくり起き上がった。
立派な角は、スルクの全身を支えてなお余りあったが、抜け落ちてからは、もう光らなかった。
そうして、無事に帰還したスルクに、カズラは仰天して、慌てて手当てした。
そうしてすっかり傷が癒えたある日、スルクの洞窟にそのまま掛け置いてあった角を、カズラが目を輝かせて見ていることに気付いたスルクは、少し悩んだあと、カズラにそれを丸ごと譲ることにした。
「えっっっ!?くれんの!?いいの!?」
「いい。俺の手元にあっても、杖代わりにしかならない。あのカムイも、否とは言わないだろう」
あの矢が雄鹿の目に止まったのも、元を正せばカズラが作った矢筒があったからだ。カズラの手元に収まることに否は無い。
譲られた鹿の角を、カズラは洞窟で少しずつすりつぶしながら、ふとスルクに尋ねた。
「なあスルク。その雄鹿は、自分を遣わされた、って言ったんだよな?」
「? ああ。意味はよく分からないが、そう言っていたな」
「じゃあ、きっとスルクが会ったのは『新しき角を持つ神』だったんだな」
「? アシリ、キラウシ?」
「むかしフクロウのじ様が言ってたんだ。天上の国には鹿の恵みを与える神がいて、鹿を司る神が大地に大量の鹿を投げ落とす時には雷が鳴るんだって。雷鳴を吸ったように角が光り輝いているのは、雷を落として直々に大地に遣わした特別な一匹な証だ、ってさ」
「雷と共に降り立つ、特別な鹿……」
「よし!できた!」
カズラが見事に調合してみせたのは、粉末状の傷薬だった。
袋に詰めてスルク用の薬袋に詰めて、カズラは大いに満足そうだった。
切り落とした角の先は、立派な角細工としてカズラの首飾りに加えられた。
「なあ、やっぱ角細工だけでもスルクが持ってた方が良くないか?確か、狩猟の加護があるって話だし、ピッタリじゃん。せっかく祝福を貰ったんだしさ」
「いや、なおさらお前が持っておけ」
「? お前がいいならいーけど」
シカの樹皮喰い、という言葉がある。
鹿は飢えると木の皮を食べ、樹を枯らしてしまうという意味だ。
カムイは礼を尽くせば加護を与える存在だ。スルクが出逢ったのが力ある存在なら、加護の証を持つカズラが尊重される可能性は高い。
崖を登ろうとする獣は軒並み追い払ってはいるが、用心に越したことはないだろう。
「あー、オレも会ってみてえなあ、光る角の雄鹿かあ。鹿の薬はすげー効くって話だからなあ。もっかい会いに来てくんねーかなあ」
「カズラ……お前本当にのん気だな」
カズラは天敵を怖がらない。
それどころか、必要があれば進んで治癒に力を尽くすだろう。スルクの知るカズラはそういう奴だった。
だから、生憎カズラを鹿と会わせる気は毛頭なかった。それが力あるカムイだとしても。
「ん? スルク、機嫌良いな。なんか良いことあったか?」
「まあな」
怪我という醜態はさらしたが、自分の矢と引き換えた成果がカズラの身を守るなら、悪い気はしなかった。
カズラの胸元で、ジャラ、と角細工が光を弾いた。
スルクは目を細めた。
「そう言うお前こそ、機嫌良いだろ」
「おー? そりゃあな! だって嬉しいじゃんか、森の外にお前の味方になってくれる相手がいるんだなって思ったらさ」
スルクは密やかに目を細めて笑った。
考えることは同じらしかった。
『くれぐれも、悪い神と化さぬことを』
雄鹿の忠告の意味を知ったのは
血塗れのカズラを抱いた落雷の夜だった。
目の前が憎悪に染まるのも
正気を失うほど誰かの死を願うのも
肉が腐り落ちるほどの猛毒を得て
この身が神格を帯び始めて、ようよう知る。
過ぎた毒は、この身も滅ぼし得るのだと
【落雷と光る鹿の角】
◇ ◇ ◇
◼︎削り花とは
木を削って美しい枝垂れ花のようにする捧げ物。
ヒトとカムイの言葉を仲立ちし、これを土産にすると武器や着物、さまざまな宝に変化するためカムイに喜ばれる。
キハダ(黄金色の木)やミズキ(白銀色の木)が特に喜ばれ、日頃のさまざまな祈りに加え、
誰かが大怪我をして死にそうなときなど、特に強い願いを捧げるときに作って捧げる。
◼︎キハダのあんちゃん
黄金色のド派手な着物を身に纏って下駄。
極道寄りの外見をした二十代〜三十代の見た目のあんちゃん。
片目に縦に走った傷があり、そちらの目はいつも閉じている。
袖の中に片腕を入れ、見事な細工の煙管を構える。腰帯には山葡萄の刺繍がある。
派手に笑い、見た目に反して面倒見はよく、カズラに様々なことを教えた。山葡萄を「ヤマブドウのオジキ」と呼んで慕う。
「よぉちび助!ちくっと見ん間に大きくなったのう!」
◼︎山葡萄とキハダとミズキ
当時、この森には山葡萄以外のコロポックルがいなかった。
ウララから薬師の知恵を授かった山葡萄は、以降は人の世に近い島梟から知恵を授かるようになった。
キハダは黄金の木、ミズキは白金の木。この二つは人間が最も重用する樹木の一つで、特に有用な樹木として島梟に教わった。
当時、この森のキハダとミズキは並んで立っていて、まだ若木だった。冬眠前の動物に傷を付けられたのか、縦に大きくヒビが入り、めくれ上がった木の皮。このままでは冬を越せないかもしれない。山葡萄は傷口を優しく撫でながら「少しだけもらっていいか。オレの親友が危なっかしくてさ。薬を作ってやりたいんだ」と、手を合わせて祈り、むき出しの内皮を取り、代わりに自分の衣を脱いでツタで縛って覆ってやった。雪に負けてしまうかと思われたキハダはその後も繰り返し冬を超え、山葡萄は元気そうな樹木をたびたび訪れては、「おかげでいい薬になったよ。ありがとう」と笑ってツタを締め直してやった。
そんなことを百年、二百年、数えきれない年数を超えた頃。並んだキハダとミズキの木の前に、自我も定かでない小さなコロポックルが生まれた。
小さな男の子は片目に大きく傷が入り、小麦色の肌。小さな女の子は白銀の柔肌。
二人はただ寄り添うようにぎゅっと手を繋いでそこにいた。
山葡萄はそれを見て大きく目を見開いて、そして泣き出しそうにくしゃりと顔を歪めて笑って、雪に凍える小さな兄妹を抱きしめた。真実、山葡萄の祈りに応えて生まれ落ちた幼いコロポックルだった。
森中に満ちた山葡萄の祈りに応えるように、これを皮切りに連鎖するように小さなコロポックルが立て続けに生まれ始める。山葡萄がたったひとりぼっちで森を歩き続け、たくさんの樹木や草花に声をかけながら祈り過ごした数百年が、やがて新たな世代の命を育む礎となる。
現代ではキハダは黄金色の着物の肩に、子どもがするような小さい羽織りを掛けている。この赤い羽織りが、山葡萄が昔掛けてくれた上着だ。
カズラは、染め物も削り花も実の出し方も、全てキハダに教わった。その心構えも。
「さてちび助、こう実を出すわけだ」
キハダは幼いカズラを前に、右手と左手をそれぞれ開いてみせた。
何もない右手は開くとこぼれ落ちるほどの緑の実があふれ、左手には黒く熟した実があふれた。
「見ての通りじゃけ。こっちは未熟で、こっちはいい具合に熟した実が出とるじゃろ?まずは熟したモンとそうでないモンを出すとこからじゃな。ほれ、やってみ。そーだ。うまいぞちび助」
カラカラ笑って、根気強く教えてくれたキハダのあんちゃんは、カズラの感覚としては兄に近い叔父にあたる。
結局カズラは熟した実を出すのは下手だったけれど、そんなカズラを「ちび助ちぃっとも上達せんなあ」とカラカラ笑ってくれた、あけすけで気の良い兄貴分だった。
「いいかちび助。よーく覚えとき」
わしゃわしゃと頭を撫でくりまわして、幼いカズラに合わせてしゃがみ込み、二カッと笑ったキハダの叔父を、カズラは今もよく覚えている。
「白銀は何にでも使える。どんなときでも使えるオールラウンダーってとこじゃな。黄金は違う。むやみやたらに使ったらあかんのじゃ」
いいかちび助。よーく覚えとき。生死が掛かったここぞで使うのが黄金じゃ。
いつも胸に黄金を構えとき。
いっちゃん大事なモンが掛かったとき。そのときこそ心は真価を発揮する。
人間は一番大事な時に黄金を使う。じゃけんど、わしら樹木のコロポックルにとってはちくっと事情が違う。
樹木で削り花を作るっちゅーんは、魂をむき出しにしてさらすっちゅーことじゃ。
素のままの心をさらけ出して、捧げるっちゅーことは。
心根の善し悪しも、一目で伝わるっちゅーことじゃ。
魂を込めて削り上げろ。
心を磨いて、研ぎ澄ませ。
いつも胸に黄金を構えとき。
削り花を掲げたとき
その心根に相応わしいカムイが現れる。
悪しき願いには悪しきカムイが
純粋な願いには純粋なカムイが。
魂の写し身に相応わしいカムイが、おんしの声を聞き届けるじゃろう。
あの日わしとミズキの前に
山葡萄のおじきが現れたように、じゃ。ちび助。
カズラはゆっくり目を開けて、長い物思いから醒めた。
深い呼吸を三つ。
カズラは高らかに鹿笛を吹き、五つ呼吸を数えた。
石の上に蹄の音が二度鳴って、神獣が降り立ったことを悟ったカズラは、うやうやしく一礼し、見事な口調で祝詞を唱え上げた。
「新しき角を持つ神よ、このような不浄の地に足労を賜り心より感謝したてまつる。借り物の宝物にてお呼び立て奉った非礼をなにとぞお許し下さい。貴方様がこの宝物を与え賜った鳥兜のせがれはわたくしめの朋友、兄弟同然に育った村の家族なれば、どうか多大なる寛容にて目こぼしを賜りたく存じます。わたくしめは未熟ながら山葡萄の薬師の系譜、今は天上の国に座します山葡萄の翁の孫にあたり、島梟に育てられ葡萄葛の名を賜りし者に存じます。新しき角を持つ神よ、黄金や純銀に及ばねど、心より削り上げ申しました削り花をお受け取り下さい。なにとぞ、なにとぞ、わたくしめの願いを聞き届け給え」
高らかに朗々と。流れるように見事に謳い上げ、深々と礼をして、カズラは額を地に置いた。
雄鹿は角を暗闇で光らせながら、光る目でカズラをじっと見下ろした。
「山葡萄の薬師の孫息子よ、お前は我の名を正しく唱え、正しき手順で笛を鳴らして削り花を捧げた。お前の持つ宝物と見事な削り花に免じて一度だけ聞こう。望みは何だ」
カズラはスッと顔を上げ、鹿神を視線でまっすぐ射抜いた。
「我が友、トリカブトのせがれをお救いください」
◇ ◇ ◇
ir-rek-te-p イレクテプ 我らが鳴らすもの
転じて、鹿笛のこと。
◇ ◇ ◇
◼︎ヒロハノキハダ(別名:エゾキハダ)
ミカン科キハダ属の落葉高木。湿気を好む。
外皮を剥ぐと鮮やかな黄金色の内皮が取れるため、「黄金に変わる木」として最も尊ばれる樹木のひとつ。ミカン科の名に違わず、蜜柑や柚子に近い柑橘の芳香を放つ。
アイヌ語で黄金を指す「コンカニ」は黄金の語源で、直接このキハダを指すこともある。
【薬効・効能】
黄金色の内皮は主に①捧げ物②薬用③染め物という三つの側面を持つ。
①樹皮で作った黄金色の削り花は最も序列が高く、天上で黄金の武器や衣類に変化するため、山で瀕死の重症人が出た時など、生死が掛かった最も重要な局面で捧げる。
②内皮は水や油で練ると天然の黄金色の軟膏となり、打ち身などに有効な傷薬として重用される。現代でも漢方「黄檗」として使用される。
③内皮を乾燥させ刃物で削ると鮮やかな黄色の染料が取れ、美しい黄色に染まる。草木染めで最も有名な染料のひとつである。
このように、現代でもあらゆる局面で「黄金の木」に名に恥じぬ有用性の高い樹だが、アイヌの民は樹皮だけでなく実も利用した。
山葡萄に似た数ミリサイズの外見で、緑から鮮やかな赤、やがて黒へカラフルに変化する。味は特有の強烈な辛味と苦味があり、実山椒の親戚。
かぼちゃの煮物や粥などに入れる他、煎じて茶にする、のど飴のように舐めるなどした。現代ではこれを利用したのど飴(キハダ飴)が商品化されている。実を取った後の枝はそのまま櫛として利用した。
◼︎キハダとミズキは兄妹のような関係で、ミズキは「水の木」の名前の由来となったあふれる樹液を惜しみなくキハダの兄に与え、キハダは自分の枝で削った櫛をミズキに与えている。兄妹のようで、どこか夫婦のような空気感がある二人。
◼︎キハダの煙管は火をつけない刻みハーブ、ハッカパイプ。山葡萄が山葡萄の葉を刻んだ火煙草を愛煙していた時期があり、それを真似た物。
【ヤマブドウの翁とスルク】
スルクが遠出に持参する袋には、カズラが持たせた栄養満点な食料がたくさん詰まっている。
カズラの実に、酸味のあるピンク色のヤマブドウの新芽、丁寧に下処理してゆがいたどんぐり。火を通したラウラウに、のど飴代わりのキハダの実。いわば森の弁当箱だ。
コロポックルに必要なのは綺麗な水と空気と光。本来食事は必要ないが、同じコロポックルからもたらされた豊かな幸、特に甘い物や栄養価の高い品は活力を与えてくれる。肥料のようなものだ。
遠出で何日も帰らなくても、スルクの腰袋にはいつだって栄養満点の森の恵みが詰め込まれていて、ひとつ摘まんで口に入れれば、ほろりと蕩けて望郷を掻き立てる。
カズラの気配はいつもそばにあって、そのたびのんきな笑い声と「おかえり」を聞きたくて仕方なかった。
いつもスルクは早く帰りたい気持ちと、何かカズラの喜ぶものを持ち帰ってやりたい気持ちとの間で板挟みだった。
カズラがくれたものは数多い。
たとえばこの矢筒はカズラが自分のツタで手ずから編み上げたものでいたく重宝するし、外套はカズラが自分の実と貴重な塩で染め上げた日除けと虫除けを兼ねた一点物だ。
薬袋の中にはキハダの軟膏や傷薬代わりのヤマブドウの若葉、火起こしに重宝するガマの穂に、疲労回復に特化した白樺樹液を煮詰めた貴重なシロップの小瓶も入っている。
どれも、スルクひとりでは手にすることの叶わないものだ。どの樹木のカムイも、カズラだから貴重なそれらを分けてくれたのであって、スルクではこうはいかない。遠出の時のスルクは、いつだってカズラの心に護られていた。
そんなカズラに応えるには、スルクの生み出せるものはひどく限りがあった。
普通の草花のコロポックルなら作れる花の蜜も、スルクのそれは猛毒入りだ。間違ってもカズラに飲ませるわけにはいかない。自在に出せる弓矢は狩りの必需品だがカズラの周囲は害獣が少ない。せいぜいが黒曜石の矢じりで火種代わりの火打石になってやるくらいしか、普段スルクがカズラにやれるものなどないのだ。
だから、スルクは遠出を繰り返す。
スルクは草花のコロポックル。各地に点在する自分の株を、どちらにせよ定期的に見て回らなければならない。
カズラは樹木のコロポックル。森を出ることは叶わない。けれどカズラは焦がれている。外の自由に。無限の空に。カズラが欲するものがあれば、どこにだって取りに行く。危険な岩場も獰猛な害獣のあふれる洞窟も、スルクにとってはようやく特技を生かせる狩場だ。そうして見つけてきたものをカズラにやるとき、喜ぶ顔が見たかった。
とはいえ正直、「カズラが喜ぶもの」は、長い付き合いでもさっぱり分からない。
スルクとカズラの感覚はどうも根本的に違うらしく、スルクが感動したものにまるで関心を示さないこともあれば、逆にスルクがまったく関心を持たないような路傍の石ころを劇的に喜ぶこともあった。だから、贈り物探しはいつだって難題だ。
どうやらカズラは実用性のあるもの──たとえば薬の材料になるような──を見て喜ぶらしいのは分かるのだが、知識の無いスルクには判別できない。
普通こういったことは、樹木の精霊や位の高い神獣 から自然と教わるというが、スルクは……
(……)
スルクは自分の手のひらを掲げ、見つめた。
揺れた指先から、わずかに砂が舞うように、きらきらと赤い光が散っていった。
スルクの手のひらからもれ出すこの光は、スルクの花粉だ。
昔はこうじゃなかった。当時のスルクは「白い毒」で、指先からほんの少しだけ散るのは白い光で、ほぼ無害に近い物だった。
けれど、カズラと過ごすうち。成長するごとに、いつの間にか指先からは赤い粉が散るようになった。
「赤い毒」は遅効性だ。最初は効果が無いが、量を浴びれば死に至る。カズラは解毒作用を持つコロポックルの中でも、かなり強い力を持つ樹木であったから、たとえ吸っても体に回り切る前にすっかり解毒され、害が無かったのだけは幸いだが、それにしたって傍にいるときは極力浴びせぬよう気を使った。
初めて自分の変化に気付いた時、スルクは必死になってそれをカズラに隠そうとした。
もしもカズラに嫌われたらと思うと体が凍えた。必死になって隠して避けて逃げて、けれどあっという間に見つかった。
「なにそれすっげー綺麗じゃん!」
キラキラ舞い散る赤い粉に、カズラは身を乗り出してそう言った。
大きな瞳をもっと大きく見開いて輝かせて、スルクの指先から散る赤い光をそう言った。
「すげーじゃん!紅葉と同じ色!」
秋にかけて赤く色付いた髪をつまんで、屈託なく笑ったカズラの笑顔を
スルクは、今も、鮮やかに思い出せる。
恐れぬカズラが特別なのであって、周囲のカムイは皆ますますスルクを恐れて離れていった。だからスルクは、カズラが教わったような実りの良し悪しも良く分からない。スルクが知っているのは、いつだってカズラを見て学んだことだけだ。
スルクは初めて、知りたい、と思った。
カズラがどんなものを見聞きして、どういうものに心動かされ、何に喜ぶのか。
薬師はカズラの夢だ。そのために、スルクは。今まで興味が無かった薬作りというものを、初めて真剣に学びたいと思ったのだ。できることなら、カズラより多くを知りたかった。そうしてカズラを驚かせて、喜ぶ顔を見てみたかったのだ。
「なんだ、薬作りに興味が湧いたのか? スルク坊や」
そう笑ったのはヤマブドウの翁だった。カズラの祖父は、カズラ以外にスルクを隔てなく受け入れてくれる稀有な樹木だった。目元の笑い皺がカズラとそっくりな、温かい人だった。
「教えてやってもいいが、まずはソイツを何とかせにゃならんなぁ」
好々爺じみた笑い方で、皺の刻まれた手でスルクの手をするりと取った。スルクは自分の指から赤い粉がもれるのを見て、慌てて手をひっこめた。ヤマブドウの翁は、若いカズラほど毒に強くないはずだ。けれど翁は、ただ穏やかに笑うばかりだった。
「毒と薬は表裏一体なんだよ、スルク坊や。怖がるこたぁない。お前さんは強い毒だから、強い薬になれるはずだ」
だからまずは、お前がそれを覚えにゃならんなぁ。
カズラの祖父は、スルクも怖がるその赤い粉を、美しい石英の小瓶でするりとすくって集めてみせて、樹皮で作ったコルク栓でキュッキュと蓋をした。
瓶の中でサラサラ流れる赤い砂を、光にかざして「うん、いい色だ」としわがれた声で優しく言った。
その声が、どんなにスルクを救っただろう。
翁はカズラと同じ澄んだ眼でやわく笑んだ。
ぽろぽろ泣き出したスルクの毒混じりの涙を、翁は指で柔らかく拭ってくれた。
このひとを生涯、翁 と仰ごう。
森の古い長だからでも、カズラの祖父だからでもなく、ただスルクに与えてくれた温かなものが生涯きっとスルクを生かすから。
だから、スルクの翁 は、生涯ただこのひとだけだとそう決めた。
アイヌ神話に、人間の血を引くカムイが「お前は人間の子、大地を焼き尽くす者の血統」と小鳥に言われて悔しくて泣きわめく話があります。
ハツは美しい金琥珀の眼を持ち、山葡萄の葉の葉煙草のキセルで美しく火を操る薬師でした。
その美しさは、鳥たちには恐ろしいものだったのかもしれません。
山葡萄の葉煙草のキセルに煙をゆるりとくゆらせ、鍋を火にかけながら、火と煙で虫除けしながら薬を作って、くるりとかき混ぜて歌う、そんなハツの牧歌的で美しい在り方を、島梟(シマ)はずっと見てきたし、カズラもそんなじっちゃが大好きだった。
#野苺ノイ
◇ ◇ ◇
エゾユズリハの「リヤ」君を
を出そうかなと密かに思ってる。
好きなアイヌ語に「サクコタン・リヤコタン」(夏の村・冬の村)ってのがあって、リヤは「冬を越える」という意味。
エゾユズリハは「リヤ・ハム」(冬越えの葉)といって、今はもう製法が失われてるけど煙草になる。
#野苺ノイ
アイヌ文化には、煙草を挨拶がわりに交換する文化があって、山葡萄(ハツ)と譲葉(リヤ)で煙草を交換して、ハツは譲葉の煙草が好きで、リヤは山葡萄の煙草が好きで、っていう、ハツの古いお友達っていう。
#野苺ノイ
◇ ◇ ◇
受け取った山葡萄の煙草をくゆらせ、冬の銀世界を素足の下に踏みながら。彼はキセルをくるりと回してカッと叩いた。キセルの中身が白銀の雪に散る。
「あきれたやつだな。弓絃葉 はいちおう毒草だぞ。解毒草 じゃなきゃとっくに息ができなくなってぽっくりだっての」
「ふはっ、おかげでいい虫除けだよ。今年も良い葉をありがとう、リヤ」
「物好きめ」
「お互いさまだろう?」
弓絃葉 の煙草をくゆらせながら、山葡萄 は笑った。山葡萄の煙草をくゆらせながら、弓絃葉 が苦笑する。
「そうだ、今年は島梟 も来てるけど、起こそうか?」
「バカ、やめろよ、アイツとはどうにも反りが合わねえ」
嫌そうな顔をする友人に、山葡萄 は腹を抱えて愉快そうに笑った。
村守りの神 と冬越え村の神 。
夏はフクロウが、フクロウが冬眠する冬は彼が。集落を見守り続けて現代 がある。
「リヤ、もう行くのか?」
「ああ。そろそろ次の冬越えの村 を見て回らないとな」
「わかってはいるけど、寂しいな」
「しっかりしろよ山葡萄の古翁 」
パンッと背中を叩かれる。山葡萄 は「まだ慣れないんだ、それ」とくすぐったそうに頬をかいた。
キセルを口の端に咥えたまま、彼はニヒルに笑ってハッと煙を吐いた。
「お前が良い村 を納めてるうちは来てやるよ。手ぇ抜くなよ」
「もちろん」
「へっ。……じゃあな、ご馳走 さん」
吊り上げた口角から長く煙を吐き出して、手を上げて肩越しにひと振り。崖の先でトンっと軽く飛んで、飛び降りる。
白銀の雪野原に足跡ひとつ残さず
彼は煙だけ残して消えた。
山葡萄 は、彼の残した葉をキセルに詰めて、静かにくゆらせると、長く吸って、吐いた。
「うまい」
艶やかな煙草入れと、美しい細工の木煙管 。
雪がキラリと朝陽を反射して、腰に下げたその宝物 を照らし出す。
古い友と交わした友誼の証が、冬の空気の中でキンッと黄金色に輝いた。
◇ ◇ ◇
《エゾユズリハのリヤ》
元はエゾユズリハ(リヤ・ハム:冬越えの葉)の古木のコロポックルだが、古くから縁起物として正月飾りに譲葉(弓絃葉:ゆづるは)が使われるようになり、長く祀られるうちに人の世を見守る役目を与えられたカムイ。
北の国では古くは四季がなく「夏 の年」と「冬 の年」が交互に来ると考えられており、正月に譲葉を飾る風習と相まって「冬 の年(雪の降る期間のこと)にだけ村を見守りに現れる存在」として概念化したのが「リヤ・カムイ」。
夏は神獣 であるシマフクロウが
冬は精霊 のリヤ・カムイが。
村々を見守るという形で、長くバランスが保たれてきたのである。
リヤ・カムイは煙草を愛飲し、山葡萄の前だけでなくツツジやヨモギのところにも葉を採りにくるそうだ。
山葡萄 と弓絃葉 は
どちらも刻み煙草の葉となり
非常によく似た紫の実をつけるが
片や解毒草、片や毒草なのが面白い。
特に弓絃葉 は、古くは殺虫剤のような形で使われていた。現在は毒草指定されている。
アイヌ文化において、木を見事に彫って作られた小さなケース「煙草入れ 」は常に腰に下げて持ち歩く宝物で、木煙管 とともに非常に大切にされてきた。アイヌ神話によればカムイは皆とにかく煙草が好きで、木から樹皮を剥ぐときは、煙草を捧げるのがルールだ。
ウェンカムイの一種と思われる山の妖怪と遭遇してしまったとき、腰の煙草入れから煙草を捧げれば悪さをされずに助かるといった話もある。
《山葡萄 と弓絃葉 》
アイヌ民話における「煙草入れ 」は非常に強力な道具で、特に「金の煙草入れ 」は、高位のカムイが知恵ある人間に手渡した伝説上の道具。素晴らしい富を与えたり、強力な魔除けであったりする。
山葡萄 が持つ煙草入れとキセルは、その「金の煙草入れ」にあたるもので、山葡萄 が弓絃葉 と出会ったとき、気に入られて弓絃葉 から与えられたもの。火を絶やさない弓絃葉 の煙管は、薬師として火を操る山葡萄 にとって欠かせないものだ。
ウラル・カントの霧の中。
月に照らされ、崖先に佇む、美しい青年が。
口から「ふーっ」と煙を吐き出した。
【旅煙管の弓絃葉 】
うんと昔の話。まだ、山葡萄 が青年だった頃の、大昔の話だ。
森に濃い霧が掛かった日。森は息を潜めていた。霧の国 の霧はこの世のものではない。下手に出歩けば戻ってこられない、そんな、恐ろしくも美しい霧の日だった。
そんな日、山葡萄 は、ここにいない親友、島梟 を待って、遠くに遠くに目を凝らしていた。
島梟 が訪れる日は気まぐれだった。少し前までここに居たが、忘れ物でも気付いたように、数日前に慌てて飛んでいった。
なら、また思い出したように山葡萄 のもとを訪れるのも充分ありうると思った。山葡萄 の数少ない親友は、物知りだがいささか慌て者だ。
霧というより煙 とか水煙 といったほうが正しいような、あまりにも深い濃霧だった。
風がゆっくりと重い煙を押し流すような、重い重い霧の日だった。隣の木も見えないような霧と、少し先を見晴らせる霧の切れ目を繰り返す。
こんな日は出歩いてはいけないことを、山葡萄 もまた、誰に教わることもなく本能的に知っていた。
けれど、慌て者の親友は、もしかしたら慌てて霧に突っ込んで、道に迷ってしまうのではなかろうか。
それが実に心配だった。島梟 はどうにも抜けているのだ。
だから、山葡萄 は濃い霧を見張るように。じっと、霧の切れ目を待っていた。
霧の向こうに、親友の大きな翼が見えないだろうかと、目を凝らして。
ヒュウ、と風が吹いたのは、そんなときだった。
煙 のような真白のセカイは、空気 の波 の名にふさわしく、波立つように道を開けた。
ひらけたセカイの向こうに、崖と。
崖の際に立つ、知らない青年がいた。
「!!」
この森でひとを見るのは本当に稀なことで、山葡萄 は慌ててヤマブドウの木のてっぺんから転げ落ちそうになった。
美しい青年だった。横顔は冬のように冷ややかで、口に咥えた美しい煙管が、青年を取り囲む霧をさらに濃くしていた。
雁首をゆるりと揺らし、吸い口に口付けを落とすさまが見惚れるほど伊達っぽく、粋な仕草が濃霧と相まってひどく現実離れしていた。
山葡萄 は思わず見間違いでなかろうかと目をこすった。
しかし次の瞬間、青年が崖の際から前に屈むので、山葡萄 はまさか身投げかと青くなって飛び出した。
「ちょ、危ない!」
木の枝を飛び移って急に飛び出した山葡萄 に、見知らぬ青年はギョッとした。
山葡萄 が慌てて腕を引いた拍子に、二人揃ってバランスを崩して、もつれ合うように転げ落ちた。
「あ」
「げっ」
べちょん。
大の字で倒れた青年と、カエルのようにうつ伏せで潰れた山葡萄 。
二人揃ってしびれて動けないまま、無駄に時間が流れた。
「なにすんだテメー」
「ご、ごめん……」
霧で高い崖と勘違いしたが、実際の高さは大したことなく、下の落ち葉は柔らかく、どうやら青年は単に移動しようとしていただけだったようだった。
「飛び降りかと思って……」
「勝手に自殺志願者にすんな」
舌打ちした青年が、あきれたように身体を起こした。
青年の片頬には、見事な流線の入れ墨があった。
「…!」
目を惹く入れ墨に、思わず目を奪われた。
青年は、手慣れた仕草で煙管に葉を詰めて、すぅっと吸った。
青年は、黒を基調とした現代的な服を着ていた。ポケットで、金属の飾りチェーンが揺れる。
ベルトには、小さな入れ物がいくつも吊り下がっていた。木彫りの入れ物もあれば、金属の入れ物もあった。青年はそこから刻み葉を取り出して、咥えた煙管に詰めていた。
纏う服から、排気の街の気配がする。森や川と対称的な、人工的な臭いだった。どこもかしこも、緑の香りのする山葡萄 とはまるで違う。
そんな中で、青年がふかす煙だけが。
香ばしく、みずみずしく、大地の生命力にあふれて、鮮やかだった。
青年は、まじまじと山葡萄 を見た。
「なんだ、どんな馬鹿かと思やぁ、珍しいな、山葡萄の原種か」
「え?」
痺れてまだ動けない山葡萄 は、目をぱちくりと見開いた。
「オレ、名乗ったっけ?」
「見りゃあ分かる」
不思議な青年だった。
ふーっと青年は煙を吐いた。その仕草が何とも色男で、様になっている。
煙管をふかし、青年はくるりと羅宇 を回して、カツンと刻み葉を地面に落とした。
美しい仕草をぼーっと見つめていた山葡萄 は、ハッと我に返って、アワアワと意味もなく手を右往左往させた。
「ご、ごめん! 怪我しなかったか? ヒトがこんなところにいるなんて思わなかったから、びっくりして……」
「あぁん?」
青年は怪訝な顔をした。まるで奇っ怪なことでも聞いたような顔で、青年は吸い口を吸った。
「ヒトだぁ? なんだ、ずいぶんとぼけた野郎だな」
「え?」
「ニンゲンがこんな辺境にいるわけねえだろ。トロいやつだな」
青年は苦笑した。ズケズケとした物言いは、けれど、ひどくさっぱりしていて、嫌味をあまり感じさせなかった。
山葡萄 は目を丸くした。
「オレと同じ、コロポックル?」
山葡萄 は、座り込んだまま、首を捻った。
纏う空気が、あまりにも人工的で、本能的に自分と「違う」感覚がした。
山葡萄 とまるで違う気を纏った不思議な青年は、やはりコロポックルには見えなかったが、青年は否定も肯定もせず、ふーっと煙をふかした。
「旅煙管 のリヤ、と呼ぶやつもいる。好きに呼べ」
「リヤ……」
「なぁ。お前、この辺りに詳しいか」
青年は、そう山葡萄 に訪ねた。
「小鳥たちが近寄らねえような場所。虫たちが逃げるような場所。行方不明がよく出るような場所。何でもいい。そういう、忌み地や忌み穴に心当たりはねえか?」
「忌み穴?」
パチ、と瞬いた山葡萄 は。
脳裏に弾けた心当たりに、教えていいものかしばらく悩んで、結局、おずおずと口を開いた。
「ここ。虫も小鳥も逃げるんだ。オレも、何だか、嫌な感じがして、あんまり……」
「どれ」
青年は川の水を手ですくった。くん、と匂いを嗅いで、わずかに口に含んだ。
「川の水は鉱毒か。奥だな」
「あっ……! 待って!」
口に含んだ水を、飲み込むことなくペッと吐き出した青年は、迷わず歩み出した。
ずいずい進んでいく青年に、山葡萄 は慌てて着いていった。心配だったのだ。
青年は、山葡萄 の制止などお構いなしで、川の飛び石を渡って対岸へ行ってしまった。
川岸の向こう、異様にいっそう濃い霧の先に、ゆらりと小さな洞窟が顔を出した。
山葡萄 は、何だか、その洞窟に、ぞわりと良くないものを感じた。
その異様さを、まるで意に介さず、青年は、平然と洞窟の中を覗き込んでしまった。
「瘴気が濃いな、アタリだ」
青年は、口角を皮肉げに吊り上げて、吸った煙管から、霧より濃い煙を吐き出した。
「でかした、坊主」
「坊主って……」
ぷくーっと頬を膨らませた。
「オレ、こう見えても生まれて数百年も経ってるんだけど」
「その程度じゃ、まだまだ坊主だな」
ハッと口角を上げて笑う、その尊大な物言いが、咥えた煙管と相まってひどく色っぽい。
大人の男の色気、といった雰囲気だった。
「もう用はねえ。坊主、帰りな」
「あっ……!」
踵を返して、穴に突入しようとする青年に、山葡萄 は慌てて、黒い服の裾を掴んだ。
「ま、待って!!」
山葡萄 は真っ青になって、必死に青年を引き留めた。
「入るのか!? ここ、なんか、嫌な感じがして……!」
「だから入るんだよ。そいつが俺の仕事だ」
「でも……っ!」
山葡萄 は、この恐ろしい穴に入ろうとする青年が、心配で心配でたまらなかった。
知恵 も葉 も山葡萄 も、乞われれば、惜しみなく与えるのがコロポックルの在り方だ。
だが、こんなことになるなら、教えてはいけなかった。ゾワッと肌が粟立つ。
鮮烈な、悪い予感がした。
進めば戻れなくなりそうな、死に直面するような、強烈な警句の、感覚。
「い、行かないで! やめた方がいいよ、ねえ!」
「参ったな」
青年は片眉を跳ね上げた。
聞き分けのない子供をなだめすかすような調子だった。
「いいか、坊主。俺は用がある。で、道案内はもう要らねえ。つまりお前はさっさと帰ればいいわけだ。俺に何があろうが、お前は何の責任もねーだろ?」
「でも…!」
どうやら、青年の意思を変えることは、不可能なようだった。
山葡萄 は必死に頭を回して、懸命に言い募った。
「……っ……オレも行く」
「なんだと?」
「オレも行く!! 連れて行ってくれ!」
青年は、美しいかんばせを、初めて崩して、驚きに目をみはった。
「何でそうなる?」
「だって、オレが教えたのに…! 嫌な予感がするんだ、ほっとけない…!」
じっと山葡萄 の金眼を見つめた青年は、山葡萄 の意志が変わらないのを見て取ると、大きくため息をついた。
「ったく、参ったな」
青年は、ガシガシと頭をかいた。
苦笑した青年の瞳は、どこか、優しげだった。
「コロポックルってのは、普通もう少し情に淡白なモンだが……こりゃ生きづらかろうな」
青年がふーっと煙を吐いた。霧より濃い煙だった。
煙は、山葡萄 の体にふわりと纏わりついて、山葡萄 の身体の周りに残った。
「これ……?」
「煙 がありゃ、最低限の自衛はできんだろ。行くぞ」
洞窟は徐々に狭く、小さくなっていった。
進めば進むほど霧が濃い。吹雪の中をかき分けるみたいだった。
青年の背を見失わないように懸命に目を凝らしながら、山葡萄 は青年の背について行った。
青年の背はすらりと高かった。
山葡萄(ハツ)は青年をちらりと見上げた。
「なあ、その綺麗なタトゥーは、厄除け?」
「そうだ。よくわかったな」
「島梟(ともだち)が教えてくれたんだ。棘は魔除け、入れ墨は祈り。見るのは初めてだ。綺麗だな」
「くく、変わってんな、お前」
煙管を咥えながら、青年はくつくつと笑った。
「いや、悪りぃ悪りぃ。最近は人里でばっか過ごしてたからな、入れ墨(コイツ)見たら逃げてく野郎ばっかりでよ。寄ってくんのが珍しかっただけさ」
「? 逃げる? なんで?」
「さあ、なんでだろーな」
くく、と青年は笑った。
山葡萄(ハツ)は人里に降りたことがない。だから、青年の言っている意味はよくわからなかったが、青年が自分よりずっと広い世界を知る知恵人なのは、なんとなくわかった。
「ねえ、リヤは、どうしてここに来たんだ」
「アレを塞ぐためさ」
青年は、洞窟の奥を、くいっと親指でさした。
どこまで行っても果てがない。
白い白い霧は、まるで洞窟の奥からあふれ出るようだった。
「塞いでも祓っても無限に湧いてきやがる。けどよ、少しでも塞がねえと、事故の元だからな。安心して冬を越せねえだろ」
言い方は軽いが、危険で、良くないものに対する口振りだった。
山葡萄(ハツ)は、洞窟の奥を見はるかした。
無限に湧き出る白いもや。手招かれているようで、嫌な予感に、ゾワゾワした。
「アレは、なに?」
「地獄穴。死の穴。あの世に通じる穴さ」
良くないものだと肌でわかるのに、奥に進めば進むほど、どこか抗いがたい誘惑にクラクラした。深い洞窟の奥から、死臭が手招いているようだった。
青年は、急に何もないところで立ち止まると、腕で山葡萄(ハツ)を静止した。
「迷いの霧さ。悪しき道(ウェン・ルパル)──ここから一歩でも向こう にいけば、あっという間にお陀仏、ってわけだ」
ヒュッ、と息を呑んだ。
何も知らずに足を踏み入れようとしていた山葡萄(ハツ)は、片足を宙に浮かせたまま固まって、ゾッと二歩下がった。
「油断したら魂(ラマチ)を抜かれる。大事に抱えてるんだな」
ゾワッ、と背筋が粟立つ。山葡萄(ハツ)は、反射的に両手で口を塞いだ。
そんな山葡萄(ハツ)を見て、青年が「へえ」と感心したような声を出した。
「勘がいいな。そうだ、そのまま黙ってろ。余計なことを言えば、連れていかれる」
口を手で塞いだまま、コクコク、と頷いた。
ぐらりと引き寄せられる、恐ろしい気配が、足下から這い寄るようだった。
「この奥は、夜に太陽が昇り、夏に雪が降るセカイ」
青年は、咥えた煙管をくるりと回すと、カッと刻み煙草を地に落とした。
落ちた葉が、ぼうっと光を放つ。薄暗い洞窟が、蛍色の光で照らされる。
青年の周りが、円形に輝いた。山葡萄(ハツ)は、光る足元に驚いて、たたらを踏んだ。
「わっ…!」
「死にたくなきゃ黙ってるこった。捕まるぜ」
▼to be continued
【きび団子を作るカズラ】
その日、川辺で。鍋の煙が空に上がっているのに気付いたのは、スルクが崖の見回りを終えた夕刻のことだった。
この森で火を扱う存在は限られている。
片方は薬師のカズラの祖父。そして、もう片方。川辺を拠点に使うのは、スルクの親友のほうだ。
木の枝を飛び移って水辺に足を向ければ、やはりカズラが鍋で何かを煮ていた。
スルクは高所から飛び降りて、軽々とカズラの近くに降り立った。
カズラは、スルクが着地した音に気付いているだろうに、振り返らなかった。
スルクは妙に思った。普段のカズラなら、よほど慎重に扱う品を作っているとき以外は、嬉々としてスルクを巻き込んで、聞かなくても騒がしく報告してくる。
「今度は何だ」
「きびを炊いてんだよ」
光を弾く、丸っこい、黄色の粒々。
鍋にきびが敷かれ、注がれた水に沈む。
「珍しいな、穀物か」
「じいちゃんの貯えの中にあったやつ。時々小鳥が薬代のかわりに置いてくんだ」
答えるカズラは、普段の楽しげな様子はなく、淡々としていた。
スルクはいぶかしく思った。そんなスルクの様子に応えることなく、カズラは淡々と、手際よく穀物をすりつぶしていく。
「こーして炊けたら、すり鉢でよく練って、できあがり」
カズラは手の中に、ぽん、とヤマブドウの葉を出して、団子を包んでいく。
最後にツタできゅっと締めれば、完成。
カズラ特製、きび団子だ。
貴重な穀物の団子は、捧げ物にも使われる特別な品だ。
祭事に疎いスルクでも知っている、普段はなかなか見ない品だ。
「今回、かなり遠くまで行くんだろ。 黍 の団子 は身の守りになるから…」
肩を落としたカズラの、その言葉を聞いて。
ようやくスルクは。この前の遠出で崖から落ちて怪我をしたのを、カズラが心配しているのだと、気付いた。
「あんな下手は、もう打たない」
「どうかな、お前って案外ぬけてるトコあるしなあ」
心外だった。
だが、カズラがあまりにしょげているので、文句の矛先も見失ってしまった。
「オレも、一緒に行けたらなぁ……」
そう、カズラは、この森から出ることができない。
カズラの足の及ぶ範囲は、この森の全周にほぼ等しい。
他のコロポックルに比べれば相当に広い活動範囲だ。規格外のスルクが、特別なだけで。
植物のコロポックルの生態は主に二つに分かれる。
スルクのように広範囲に株分けを繰り返す、草木のコロポックル。
そして、カズラのように本体の株から離れない、樹木のコロポックルだ。
樹木のコロポックルは、草木のコロポックルと違い、本株はごくわずかであることが多い。
そして、株分けした株は、大本のコロポックルとは違う人格を持つことが多いのだ。
カズラの祖父とて、かなり老齢になってからカズラの株を分けたのだ。カズラは若すぎる。万が一カズラの行動範囲が広がるとしても、もう数百年は待つ必要があるだろう。可能性はかなり低いが。
カズラは、薬師の祖父が分けた株に宿ったコロポックルだ。カズラに最初から両親はいない。
動物の場合、祖父の下に必ず父と母がいて孫が生まれると聞いたことがあるが、コロポックルはその限りではない。もしカズラの祖父がもう少し若ければ、カズラの祖父も父親を名乗ったかもしれない。コロポックルにとって直系の概念は曖昧だ。
株を分けるのも善し悪しだ。
樹木のコロポックルは株を分けると力が落ちると言うし、草木のコロポックルの場合は影響が及びにくくなってスルクのように定期的に巡回に時間を割く必要が出てくる。万が一カズラが株を分けると言い出したら、できるできないは置いておいて、スルクも止めるだろう。
「そうは言っても……」
「わーってるよ。ただの愚痴だ」
スルクは、なんと言っていいものか言い淀んだが、カズラも最初からそんなことは百も承知なのだろう、そんなため息を返すだけだった。
気の利いた言葉のひとつも見つからない。
スルクは、自分の乏しい語彙が恨めしかった。
「……なあ、カズラ」
スルクは、少し逡巡すると、そう切り出した。
「お前を連れ出すことはできないが……」
カズラが顔を上げた。スルクは代案を提案した。
「お前が望むなら、俺は別に、森から出られなくなっても構わない。遠出もやめて、他の株をすべて枯らしてしまえば、俺はお前と同じになれる」
カズラは目を丸くして、スルクを見返す。
神妙に返事を待つスルクに、カズラは、ふっと笑った。
「ば〜か。自分で可能性を狭めんなっての」
カズラは破顔して、スルクの眉間を指で弾いた。
「草木 の場合、株は多けりゃ多いほど病気になりにくいんだし、力も増すんだから、んなもったいねーことすんなって」
「だが……」
「それに、お前が叶えてくれんだろ? オレの夢」
こともなげに、カズラは。
スルクが二番目に欲しかった言葉を投げかける。
「第一、外に連れてけって言いたかったんじゃねーよ。オレが隣にいりゃあ、うっかり屋のスルクちゃんをフォローしてやれんのになって話」
「……この前も川に落ちてうっかり下まで流されかけたお前に言われたくない」
「そーだっけ?」
ケタケタ笑うカズラは、もうすっかりいつも通りだった。
だから。遠出のたびに持たされる薬袋で、もう充分手助けされている、と言いそびれてしまった。言えるうちに、もっと言っておけばよかった。
俺は、お前がいればよかった。
お前の夢を手助けできるのが自分だけなのは誇らしかったが、薬が完成しなくて、生涯俺に触れるのがお前だけでも構わなかった。
お前がひと言、ここにいろと言えば。
◇ ◇ ◇
■「遠出には、穀物をお守りに持っていくといい」とされているそう。カズラ手製の薬袋を紐で腰に締めて。スルクの回想。
■植物のコロポックルは、自分の株が病気や環境変化などで全て絶えてしまうと消えてしまうので、株をあちこちに分散して増やすのは本能に近い健全な行動です。
だから普通、自分の株を自分で枯らす、なんて発想は出ません。
■カズラは「ほんっとスルクちゃんはアホだなあ」と思ってます。
■ちなみに、先日イナキビご飯を初めて食べたのですがめっちゃ美味しかったです。白米にイナキビを混ぜて炊飯器で炊く時に、熊の油(は希少な超高級品なので、現代ではごま油で代用)をひとたらし入れて炊いたイナキビご飯。白米にポツッと黄色いイナキビが小さく付いた感じの、見た目はほとんど白米と変わらない雑穀米ですが、よりモチっとしてしっとりしてお米らしい甘さがほんのり増した感じの食が進む美味しいご飯でした。
<あるマムシが語った歌>
あるとき私が森を歩いていると、クモが酒を飲みながら機嫌良く酔っぱらっていた。
八本もある手足を代わる代わる叩きながら語るには
「自分は大きな熊であっても転ばせることができる強い毒を持っている。この森に自分にかなう者はない」
それを聞いて、私も百本ある足を叩きながら、クモに言った。
「お前は自分を強い毒だと言うが、本当に強い毒は私なのだから、それは間違いだ」
それを聞いてクモは立腹して
「それなら比べてみようじゃないか」
と酒に毒を入れて杯を掲げた。
私は毒に強いので、大抵の毒杯は効きはしない。ひといきに飲み干して、返しの杯に酒と毒を注いでやった。するとクモもひといきに飲み干して、何度も繰り返すうちに私もクモもすっかり酔っぱらってしまった。
私もクモもすっかり気分が良くなって、「こちらも強いが、お前もなかなかやるじゃあないか」などと言い合って、楽しくなって酒瓶をいくつも空けてしまった。
さてそろそろお開きという段になって、クモも私も痺れて動けなくなってしまった。調子に乗って杯をやりすぎたので、いくら強いと言っても限度を超えて痺れ毒をあおりすぎたのである。
「やあ、やあ、誰か助けてくれまいか」
私もクモもぴくりとも動けず、小鳥のようにぴいぴい助けを求めるばかりである。そんなところに、ある青年が通りかかった。
「これはマムシのカムイ、クモのカムイ、いったいどうしたのでしょう」
「毒比べをしていて、調子に乗って動けなくなってしまったのだ」
「それは大変だ。私の実は、少しだけ毒を弱めることができます。お二人とも毒に強いカムイですから、毒が弱まればすっかり元気になることでしょう」
そうして青年は、何もないところからヤマブドウの実を山ほど取り出して、私とクモに気前よく分けてくれた。
山のように積まれたヤマブドウの実を食すうちに、力がみなぎり、私たちはすっかり元気になったが、青年はお礼をする前に立ち去ってしまったので、次に会ったときはことさら親切にもてなそうとクモと話し合ったものだった。
このように、痺れにはヤマブドウの実を食すのである。
それからずいぶん時間が経ったが、クモと私はすっかり仲良くなって、やはり互いに酒をあおる仲であったが、さすがにこりて毒杯は程々にしていた。
けれど喉元をすぎれば少しはめを外したくなるもので、久しぶりに毒比べをしていると、そこへひとりの童が通りかかった。童は丁寧に一礼すると
「マムシのカムイ、クモのカムイ、お二人の杯を分けてはくださらないでしょうか」
という。
おかしなわっぱである。我らを怖がらないばかりか、毒の杯を分けてほしいというのだ。
悪いことに使われては事だから、我らも本来なら断るのだが、用意された削り花がこれまた見事で、性根がまっすぐなものだから、我らもついほだされて、まじまじとそのわっぱを見た。
よくよく見れば、ずいぶん昔に見たことがある顔立ちである。聞けば、どうやら以前自分たちを助けてくれたヤマブドウの孫のようだ。
なるほど道理で我らを怖がらぬわっぱである。これは恩返しの機会だと、事情を聞いてやることにした。
聞けば、友人のトリカブトのせがれに効く薬を作りたいのだという。
それを聞いて、私もクモも震え上がった。
トリカブトといえば、ひと塗りで百本の足が腐り落ちてしまうほどの猛毒である。私もクモも、たくさんある足を小さく丸めて、びくびくした。
なるほどトリカブトでは生半可な毒も薬も効かぬだろう。トリカブトはたいそう毒が強いらしく、私とクモの毒を合わせてもまるで効かぬほどに強いのだ。
我らは調子に乗って自分の毒を比べていたのがすっかり恥ずかしくなって、毒比べをする気はもうすっかり失せてしまった。
それならばと代わりに杯になみなみ満たしてやると、ヤマブドウのせがれはたいそう喜んで、土産に削り花とヤマブドウの実を持ちきれないほど持たせてくれた。
さらに飾り矢を一本投げてよこしてくれるので、我らはそれに乗って意気揚々とカムイの国に帰った。
このようにして、いつしか削り花の代わりに毒を授けて、薬として使うようになったのだ、とマムシのカムイが語ったとさ。
創作:野苺ノイ
《前書き:スルクの寝床の洞窟ついて》
スルクが寝床にしている洞窟は、「旅煙管のリヤ」で登場した地獄穴と同じもの。
スルクは重金属毒の濃い川辺の洞窟を寝床にしてるんだけど、そこって大昔に山葡萄 と弓絃葉 が塞いだ「死の穴」の名残り跡で、いくら塞がってるとはいえ、そんなとこを寝床にするとか他の生き物からすると本能的に正気じゃなくて、原種で強すぎて全く気にしないスルクは逆に「外敵が誰も近付かなくてラッキー」ぐらいのノリでそこを使ってる。
カズラが初めてスルクの寝床に招かれたとき、カズラが最初にしたのは「奥に続く道を岩で塞ぐ」だった。
スルクが「? なにしてる?」って首を傾げたので、カズラは「スルクが迷子にならないようにしてる」って答えたし、スルクは「意味が分からん」って答えた。
幼いカズラは、スルクの寝床から帰った後、暗い顔で山葡萄のじっちゃんに引っ付いて「何だかすっごく哀しくて悔しかった」と口にする。
じっちゃんは鍋を火に掛けながら、とんとん背中をなだめて、根気強く話を聞いてくれた。
カズラは、いくら平気って言ったって、危ない気配の名残がある場所に居を構えてるスルクが、哀しくて悔しくて、じっちゃんはそれを、ゆっくり聞いてくれた。
「それは、難しいだろうなぁ」
「! じっちゃんまで、あいつが悪いって言うのか!?」
「いいや、そうじゃない。じっちゃんがお前のともだちを、悪く言うわけないだろう?」
山葡萄の翁は、なだめるように優しくぽんぽんとカズラの背を叩いた。
「森の誰もが幸せであるよう祈っている。とりわけ、お前の幸福を形作る全てが大切だ。わかるかい?」
優しく沁み入るような愛の雨が、惜しみなく注がれて、カズラは、恥じ入るようにしおしおと小さくなってぎゅっと翁の服に顔を埋めた。
「ごめん、じっちゃん…」
「いいんだよ」
丸くなったカズラの背中を、皺のある優しい手が往復する。
「じっちゃんが言いたかったのはなぁ、その子は今それを望んでいるのか、ってことさ」
山葡萄の翁は、ゆっくりと噛み砕くように、カズラの眼を見て、優しく告げた。
「その子は、本当はそこに住みたくないのに、無理やり住まわされているのかい? それなら、ここに連れてきたらいい。大歓迎だ。それで解決だろう?」
「……うんん。あそこが落ち着くって……」
カズラは、きゅっと眉を寄せた。
他の生き物が近寄らないところを、スルクは本当に気に入っていた。気が休まると。
「オレ、それが、なんだか、すごく、いやで、かなしくて、くやしくて……!」
「うん、うん、そうさなあ」
カズラの背を撫でながら、山葡萄の翁は思案げにした。
「なあ、カズ坊。思うに、その子は、ずっと独りで生きてきたんじゃないか」
山葡萄の翁は、幼い孫へ、どう伝えるべきか、思案しながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「カズ坊や、お前さんは、生まれたときから、たくさんの命に見守られて生きてきた。だから、誰かと繋がることを、当たり前でいられる。それは、お前さんの幸運で、才能だよ」
カズラは、顔を上げて、パチリ、パチリと瞬いた。
祖父の言う幸運も才能も、どれもカズラには、息をするように当たり前のことだった。だから、祖父の言うことを、カズラは少し上手く飲み込めないでいた。
そんなカズラを充分に分かっていて、翁は優しく微笑んだ。
「じっちゃんはな、そうじゃなかったなぁ。生まれて最初の何百年かは、周りに誰もいなかった」
カズラは、大きく眼を見開いた。
誰かが絶えずそばにいるのは、幼いカズラの当たり前だった。
でも、祖父はそうではなかったのだという。
「じっちゃんは、少しわかる気がするよ」
翁は、どこか哀しみを内包した声で、雨のように言葉を降らせた。
「想像してごらん。生まれたときから、お前にじっちゃんも他の森のみんなも居なかったら。何かの理由で住処を追われたら。とても傷付いていたら。お前は、暖かいすべてを、急に受け取ることができるかい? 受け取った全部を失うことを、怖がらずにいられるかい?」
カズラは、ピンとこなくて、首を傾げた。
だから、翁の言うとおり、目をつぶってじっくり思い浮かべてみた。
背を撫でるこの翁の手が無い夜を。
当たり前に与えられる島梟の翼の暖かさが無い冬を。
この森を失った行く宛のない夕暮れを。
とても痛くて痛くて痛いのに、抱きしめてくれる誰かが居ない、夜明けを。
その全部を、一生懸命に思い浮かべてみて
カズラは、それを、とても恐ろしく寒いことだと思った。
「……寒い……」
「おいで」
翁は優しく、カズラを抱きしめてくれた。
温かさに包まれて、ほっとしたカズラは
そうか、この温かさを、アイツは知らないのだと気付いた。
「差し伸べた手を取る準備が、その子はできていないかもしれないなあ」
ぽん、ぽん、と歌うようなリズムで、優しくカズラの背を叩いた翁が、思案げにそう言った。
「大事な相手に安全に暮らして欲しいっていうのは、根底的な欲求だ。お前さんは、その子にもっと幸せで暖かいものに囲まれていてほしいんだ。なのに、それをその子が望まないから、哀しくて悔しいんだ。違うかい?」
ぽっかり空いた穴のような何かに、ピタリとハマる言葉を与えられて、カズラは、ああ、それだ、と思った。
「うん……」
「なら、カズラや。お前が注いでやればいい」
秋には実りを、冬には落ち葉を、春には芽吹きと目覚めの歌を、夏には新緑を、お前が届けてやればいい。
翁はそう、子守唄でも歌うように、カズラの背を優しく叩いた。
「火傷するような熱も、ゆっくり注げば暖かさになる。そういう愛し方もあるということを、お前が教えておやり」
「……できるかなぁ、じっちゃん」
「お前にできないことなんて無いよ」
その言葉を指針に。
カズラは、スルクとの接し方を決めた。
◇ ◇ ◇
雨の音がする。
長引く夜闇の雨だった。今夜は晴れないだろう。
絶え間なく続く雨音を聴きながら、片膝を抱え、洞窟に反響する水滴の響きに身を晒す。
雨の洪水に身を浸していると、あらゆる生き物の気配から隔絶されて、独り、雨粒のヴェールに包まれているのを感じる。
その静寂が、かつては心地よかった。だが、今は。
雨音の中に、別の音が混じらないかと
耳を澄ます。
ほどなく、待ち人の気配がした。
雨の暗幕が途絶えて、洞窟に入り込む足音がする。
「よお、スルク。すげえ雨だな」
ツタと葉の外套を頭にかぶって雨を避けた、夜闇より鮮やかなスルクの太陽が、笑った。
スルクたちの住まうこの森は、豊かな水源と清らかな空気に恵まれた、断崖絶壁の上に成り立つ禁域だった。
コロポックルは皆、雨に喜ぶ。「すごい雨」は「いい天気だ」に近いニュアンスとなる。
確かに今日の雨は、一段と激しい。崖崩れに注意する必要があるレベルの豪雨だった。
恵みの雨が降ると祭りとばかりに踊り明かす者も多い中、カズラは物好きなことに、雨がひどいとこうしてスルクの寝床を不意に訪れることがままあった。
「今日は何の用だ」
「ん? なーんも? 様子見に来ただけ」
「物好きだな」
「火ぃ入れてくれよ」
パッパ、とツタと葉の御簾を振って雨粒を払うと、カズラは当たり前みたいな顔で、スルクの隣に座った。
消えた焚き火の跡に、スルクが慣れた手付きで火打石で種火を放り入れるのを、カズラは膝に頬を乗せてニコニコと待っていた。火を炊いていれば大概の森の生き物は近付かないというのに、かえって近付いてくるのだから、本当に変わっている。火を焚いていなかったのは、この豪雨では火が無くとも外敵が寄り付かないからだ。
スルクの寝床の洞窟は上流の川沿いにある。洪水や土砂崩れに巻き込まれるほど近くはないが、道行きの途中で必ず川を横断することになる。途中で鉄砲水に当たればさすがに命が無い。本当は、雨の日にこうしてたびたびカズラが訪れるのを止めた方がいいのは分かっているが、そのまま雨が上がるまでスルクの寝床で眠るカズラを、いつもスルクは追い返せないでいる。
どうせ止めても、恐れ知らずのカズラは止まらないと、分かってはいるが。
「でさぁ、ホントはオレも調合やりたかったんだけど、じっちゃん、オレにはまだ早いって────……」
とりとめなく笑って今日の出来事を語るカズラに、焚き火の番をしながら、子守唄程度の緩やかな相槌を打つ。
カズラの取り留めのない日常の語り口は、段々とゆっくりになって、うつらうつらと、カズラの眠気に溶けていく。
「だから……よ……おまえもさ……ん……」
やがて、「スー、スー……」と寝息しか聴こえなくなる頃には、夜半を過ぎて、雨の静寂だけが洞窟に満ちる。
焚き火が跳ねないように、スルクが少し勢いを弱めた火のそばで、カズラはこんこんと眠った。
カズラは樹木のコロポックルだから、夜はこうして深く眠る。冬眠の時期にしか眠らないスルクとは対照的だ。
洞窟に満ちるカズラの寝息を聞きながら、スルクは一晩中、火の番をする。
ヤマブドウの翁は鍋の火を絶やさない。そんな翁に育てられたカズラにとって、焚き火の音は安堵を誘う子守唄だからだ。
やることのない夜半は、ひどく長いものなのに
カズラの気配がそばにいると、それだけであっという間に過ぎていく。
幾度となく越えてきた雨の夜なのに
カズラと出会う前の過ごし方を、今はもう、よく思い出せない。
夜が明ければ、雨上がりの地平に差す朝陽より先に、閉じた瞼が開くだろう。
金琥珀色のカズラの瞳が、光をはらんで、寝ぼけてあくびをする。
「ふわ……おはよーさん、スルク」
それが、スルクの夜明けだ。
それだけが、スルクの夜明けだった。
◇ ◇ ◇
「じっちゃぁん、たでーまぁ」
ふわぁ、と大きなあくびをしながら、カズラは、祖父のツタと葉の御簾をくぐった。
祖父は鍋に火を絶やさないまま、ゆっくりとかき混ぜる手を止めずに「おかえり、カズ坊や」と、柔らかで優しい声で朝帰りの孫を迎えた。
「トリカブトの坊や、どうだい」
「んー、やっぱ、あんま分かってねー感じかなー」
大きなあくびをしながら、カズラは祖父の差し向かいに胡座で座った。
カズラの本体は、祖父の広大な枝葉に並んで、ここにある。樹木の本体からあまり離れて寝ると、疲れが取れにくいのだ。
それでも、スルクの寝床に足を運ぶのは
少しでもスルクを独りにしておきたくないからだ。
「やぁーっと寝床にオレがいても気ぃ抜けるようになったかねーってとこ。眠れるようになるのは、まだまだ先っぽい」
「そうかい。最初に比べればずいぶん進歩だろう」
「そーなんだけどさー、たぶん、オレが来んの、気まぐれだと思ってっかなー。昨日も何の用って訊かれたし」
いささか不本意そうにカズラはぼやいた。
ヤマブドウの翁は優しく微笑むだけだった。
スルクは他と比べ物にならないほど強大な力を秘めている。
地上最強と言われるトリカブトの毒性の中でも、さらに最も強力な種としてスルクは生まれた。
エゾトリカブトのスルク。名高いスルクカムイの名をそのまま持って生まれた鳥兜。原種と呼ばれる彼らは、太古の時代の強力な神性を身に宿している。
そのはずなのに、この森に行き着いたスルクは、白い毒、セタスルクと呼ばれる段階まで程度にしか、毒を発現できていなかった。
体に秘めた毒性を正しく発露できず、過剰に抑え込んだ状態が常態化して、自分を蝕みかけているということだった。
それが明らかになったのは、スルクが最初にこの森で冬を越え、春先に知恵袋のシマフクロウの翁がコタンを見守りに来た時だった。
『アレはまずい。まずいが、まずいと自覚させるのはもっとまずい』
大きな翼をバッサバッサとはためかせて、シマフクロウの翁は、カズラの祖父に急ぎそう告げに来たという。
はるか上空から幼気なスルクを見定めたシマフクロウの翁いわく、翁の目にスルクは破裂寸前の毒袋、土地を枯らす禍神の一歩手前だったという。
そして、一歩手前で押し留めていたのは、そんなスルクの手を恐れず繋ぐカズラだった、らしい。
カズラがスルクと出逢ったのは夏だった。
次の春にはもう、カズラの中ではスルクが最高の遊び相手なのは当たり前になっていたし、転々と各地をさすらって決して一ヶ所に留まらず生きてきたスルクが、この森での越冬を選んだのは、それほど親友の隣を離れがたかった証だった。それをカズラは、感覚的に理解していた。
カズラはスルクの手を離さなかったし、スルクはそれを躊躇いながら振り解かなかった。
カズラはスルクを恐ろしいと思ったことはないし、繋ぐ手をためらったことは一度もない。
むしろスルクの方が、いつもおそるおそる握り返して、カズラを傷つける日を怖がっていた。
スルクは誰かに手を握られたことが無かった。当たり前のぬくもりも柔らかさも知らなかった。
誰かに触れると暖かいことすら知らなかった。
それがカズラは、とてつもなく悔しい。
だから、幼い二人の友情を優しく見守ってくれていた祖父も、その親友であるシマフクロウの翁も、頭を悩ませながら、カズラとスルクが、どうにか今のまま手を繋いでいられるように、密かに手を尽くしてくれていた。
カズラに必要な知恵を与え、解毒草としての能力が伸びるように計らい、カズラがスルクの隣を諦めなくていいように育ててくれた。
聡明で機微にさとい子供だったカズラが、それに気付いたのはかなり早い方だったと思う。
カズラに充分な知恵と力が備わった頃、祖父とシマフクロウの翁は、どことなく感じ取っていたカズラにそれを包み隠さず明かし、カズラに道を選ばせてくれた。
『カズラや、どうしたい』
祖父の問いに、カズラは迷わなかった。
『オレの夢の隣には、アイツが変わらずいてほしい』
必要な知恵を持ち、充分な勇気を持てるように、祖父たちはカズラを育ててくれた。
知恵も勇気も与えてもらった。持って生まれたのは心だけだ。
火も塩も雷も、森のあらゆる生き物が、本能的に恐れるスルクの毒すら、欠片も恐れぬ心だけ。
『カズラや、よくお聞き。お前は本当に恐れがない』
キラキラ揺らめく炎の囲炉裏に、無邪気に手を伸ばすカズラを捕まえて諌めて、幼いカズラの頭を撫でてくれた祖父の手のぬくもり。忘れたことは一度もない。
『それはとても危ういことだが、────そんなお前を愛しているよ』
だから、愛してもらった、この心ひとつで
カズラは未来を選ぶと決めた。
何も恐れぬカズラの未来を
スルクも恐れなくていい日が来るように。
「ほんっとーはさぁ、オレもじっちゃんみたいに、こーぉんな立派な寝屋を出せればいいんだけど」
「ほっほっほ、千年早い」
「ぐぅぅ…だよなぁ……」
カズラはガックリ項垂れた。
この御簾の内側の家 は
ヤマブドウの枝葉に仕切られた内側は
現実とは入り口を異とする虚 、翁の裾の内側だった。仮に外から覗いても、そこはただの空洞に見えるだろう。招かれた者しか入れぬ迷い家 なのだ。
ここには決して、外敵は入って来れない。
孤独は心を蝕む毒だ。
それが遠い昔の幻になる日まで、カズラは寄る辺ない親友を、この暖かで安全なヤマブドウの御簾の内側に招いてやりたいと思っている。
親友より一歩早く熟した心は愛の差だ。
あいつにはカズラの他にも愛を注いでくれる誰かが必要だった。
カズラはそれを、限りなく分けてやりたかった。喜びも夢も分け合う友に、カズラを育てた愛を分けてやりたかった。
隣にカズラが立つだけで
己の力を恐れて眠らなくなるスルクが相手では
まだまだ時間が掛かるだろうが。
「うう〜……」
「カズラや、焦ってはいけないよ」
頭を抱えて悩むカズラに
水面に石を投げ込むように、凛と静謐な忠告が投げかけられた。
決して声を荒げることのない祖父の忠言に、カズラはハッと顔を上げた。
「教えただろう? カズラや、────『フクロウが翼を持つように』?」
「…………オレには恐れを知らぬ勇猛な心がある」
カズラは、ググッと眉間に皺を寄せ、その教えをそらんじた。
「『汝はフクロウの仔。さりとて、ゆめゆめ忘れるな。フクロウが崖に手招けば、獣はなす術なく地に落ちるだろう。勇気を履き違えることなかれ。知の研鑽を怠ることなかれ。己の持つ才を他者が持つと考えるな。崖に手招くフクロウとなりたくなくば』────……」
「若い頃、口うるさい島梟 がじっちゃんに口酸っぱく教えた警句だな」
ころころと笑った祖父に反して、カズラは厳粛な顔で笑わなかった。
その教えが正しいことを、カズラは身をもって知っている。
「カズラや、お前の才も過ちも愛しているよ。だからこそ、傷付いて欲しくはないんだ。わかるだろう?」
こくん、とカズラは首を縦に振って、唇を引き結んだ。
「大丈夫。お前も、お前の愛するものも、等しく愛しているよ」
うん、とカズラは祖父の衣に顔を埋めた。
二度目の眠りに落ちる孫の背を撫でながら、ヤマブドウの翁は、ゆっくりと、子守唄のようなリズムで、鍋をかき混ぜ続けた。
やがて、カズラの寝息が深くなる頃、翁は御簾ごしに、上空を見上げた。
ヤマブドウの高い高い枝葉の上に
羽根を休めたシマフクロウが一羽。
「……山葡萄 、お前の愛し子は、間に合いそうか」
「微妙かな。この身の寿命が保てばいいが」
幼子の眠りを妨げないよう、密やかな音量で紡がれた返答を、千里先も聴き分けるコタンコロカムイは、目を伏せたまま静かに聴き取った。
「すまないが、万一があれば頼むよ、親友」
「分かっている。お前が愛した村 を、見守るためにここに居る」
シマフクロウは、音も無く、巨大な翼を広げ、飛び立った。
美しい羽根だけを一葉残して去ったコタンコロカムイを見送って、ヤマブドウの翁は優しく子守唄を歌った。
ヤマブドウの系譜の愛しい子よ
フクロウの知恵を授かりし愛しい仔よ
愛に包まれて深く眠れ
早熟とはいえ、眠る孫の横顔は、まだまだ幼い。
ヤマブドウの翁は歌う。
幸あれ。愛し子たちに、幸あれと。
同胞もおらず、話し相手もいなかった
かつての、とあるヤマブドウの千年のような、長らく孤独な者など、一人も居なくなるように、と。
《有明の狭間のフクロウの仔》
トリカブトは本来、無臭に近いと言われる植物だ。
だが実際は、小さな虫にしか捉えられないような、かすかな甘さを帯びている。
コロポックルの写し身は、それぞれ満開の花の香りを漂わせていることが多い。
香りの強さはコロポックルの健康のバロメーターであり、花盛りの者ほど香 は強く、老いると衰える。
逆に言えば、老いてなお、あまりに強い芳香を放つ桜 や山葡萄 は、想像を絶するほど絶大な力を持っているということだった。
その系譜たるカズラも、まだ幼いのに、ひとたび姿を現せば、花も盛りとばかりに甘酸っぱい香りを目一杯漂わせている。芳醇で豊かな強い香りから察するに、いずれ成長すれば、森長 の祖父のように強い長命種として大成するかもしれない。
一方、スルクの場合は少々事情が異なる。スルクは先天的に絶大な力を持ちながら、トリカブトの性質を正しく引いて、無臭の出立ちだった。
だから、匂いで誰かに気配を悟られたことは一度も無い。風上に居ても気取られないから、狩りには大いに役立った。そうやって身を潜めて生きてきたのだ。
トリカブトの香りを嗅ぎ取るなど、できるはずがない。スルクはそう、たかを括っていた。
なのに、ある日。トリカブトの匂いが分かるようになったと。幼い親友がそう言い出して、スルクは仰天することとなった。
「わかるぜ!!!!」
「な、に?」
狼狽えて動揺するスルクに、あどけないカズラはこともなげに笑ってそう告げた。
スルクが根城にする洞窟に満面の笑みでカズラが飛び込んで来たのは、ある秋の暮れのことだった。

まだカズラもスルクも、今よりうんと幼かった頃のことだ。
スルクがこの森に足を踏み入れて、まだ数度しか冬が来ていなかった、そんな幼い日の遠い昔話だった。
思えば、ここしばらく、カズラはまたおかしなことばかりしていた。両眼両耳をぐるりと布で覆って、よたよたと森を出歩いていたのだ。
幼いカズラの奇行には皆慣れているので、誰もがああ山葡萄の童がまた珍妙なことを始めたな、としか思わなかった。
現場に遭遇したスルクはあきれて「今度は何の遊びだ?」と尋ねたが、幼いカズラは膨れて「ちっげーもん! 遊んでんじゃなくて、特訓!」と腕をブンブン振り回した。
「特訓? 花の宴の一発芸か?」
「ちげーってば! 山葡萄のじっちゃん直々のちゃんとした特訓だって!」
「なに?」
スルクは眉をひそめた。
山葡萄の翁は、この森一番の知恵者だ。
その翁の言い付けならば、何か本当に意味のあることなのだろうか。
コロポックルは眼だけで物を見ているわけではないから、目を覆っても完全に何も見えないわけではないのだが、とはいえ、それにしたって奇妙だった。
「…………まあ、翁も変わってるからな………」
「うわ、信じてねーな? 見えねーけど分かるぜ」
そんなやり取りがあったのは、雪が溶けたばかりの春の初めのことだった。今は秋の盛りを少し過ぎた頃だった。
確かに木染月(8月)から初霜月(10月)に掛けて花の盛りを迎えるトリカブトは、今が最も香りが強い。
とはいえ、誰にも気付かれたことなどないのだが。
「あっ、信じてねーな? ほんとだって! すごく弱いけど、少しだけ甘い」
「おい、バカ! 吸うな! 危ない!」
そもそも、トリカブトの香りを嗅ぐのは危険なことなのだ。匂いの出所は花粉であり、動物がうかつに肺に吸い込めば死に至る。
幸い、カズラは強い解毒草だからスルクと一緒にいても無事だが、かすかなトリカブトの香がわかるほど近付き、密着して何度も吸うのは危険だ。
無害な白ならともかく、微毒の赤も量を吸えば良くない。ましてや、猛毒の黒など吸えば動物ならたちまち死に至る。コロポックルとはいえ用心が必要だった。
「バカッ! うっかり間違って黒の花粉が出たらどうする!」
「だいじょーぶだって、お前、間違ったことなんてねーじゃん」
「それは…!!」
それは、万が一にもカズラを傷付けたくないから、死ぬほど練習して、決して油断しないようにしているだけだ。
こんなふうに恐れることなくスルクに触れるのは、カズラとその祖父だけだから。
引っ付いてくるカズラを慌てて引き剥がしたスルクに全く頓着することなく、カズラは能天気にニカっと笑った。
「すんげー薬師になるなら、匂いは嗅ぎ分けらんねーとダメだってフクロウのじさまも言ってたし、山葡萄のじっちゃんと特訓したんだぜ」
「ああ……特訓って、それで……?」
確かに、言われてみればトリカブトなど、嗅ぎ分けの警句の代表のようなものだった。
トリカブトの葉は採集の鬼門だ。花が咲く前は、ヨモギのような香りの強い植物と見分けがつかないことがままある。だからヨモギなどの有用な香草を見つけても、迂闊に近付いて匂いを嗅いではいけない。危険なのだ。
これほどかすかな匂いを遠くから嗅ぎ取れれば、誤ってトリカブトの花粉を肺に入れることはない。だからこそ、鼻は鍛えておいて損は無い、ということだろう。
本来、香草を口にするのは動物であってコロポックルではない。嗅覚を鍛えるのは、動物がすることだ。
けれど、カズラは薬師になるのだから、香草の扱いを学ばせたいと、そういうことなのだろう。
だが、それはあくまで、トリカブトのような危険なものと嗅ぎ分けて避けるためであって、わざわざ世界一の猛毒の花粉を自分から吸いに来る馬鹿は居ないのだが。
引っ付いてくるカズラを引き剥がしながら、スルクは焦れて大きな声を上げた。
「あーもう、わかった! お前が頑張ったのはよーく分かった! だから離せ! もう充分だろ!?」
「へ? なんで?」
「なんでって、トリカブトの香りも分かるぐらいなら、ヨモギと間違えるようなことは二度と無いだろ!」
「なに言ってんだスルク? オレがお前と他のやつ間違えるわけねーじゃん」
「は? じゃあ何のために……」
「お前の匂い、いつも抑えてるからよくわかんねーじゃん」
カズラは、ようやく幼さを脱し始めたばかりのまろい頬を、不服そうにぷっくり膨らませた。
「前の秋、お前、調子崩したのに、隠したろ」
「そ、れは……」
「他のやつなら匂いでちゃんと分かるのに、お前よく分かんねーから。次はじっちゃんじゃなくてオレが薬作るって決めたの」
去年の夏は、雪解け水が枯れるほどの猛暑続きだった。
この一帯は水源豊かで問題無かったが、スルクの飛び株が密集している外 つ森の乾燥地帯は水場が枯れていた。
トリカブトは寒さには強いが、乾燥と日照りにはどうしても弱い。それで去年の秋は、飛び地の株が軒並み一斉に枯れてしまい、そのせいで体調を崩していた。
匂いが薄い自分なら冬眠に入るまでは誤魔化せると踏んでいたのに、最終的にはこんな時ばかり聡いカズラに隠れているのを見つかってしまったのだ。
あの時期は冬眠前の動物たちで翁の囲炉裏が賑わう季節だというのに、囲炉裏に運び込まれてしまって迷惑をかけた。よりによってスルクが囲炉裏に寝ていては、獣も鳥も一匹たりと寄り付かない。森中に振る舞われる秋の実りに、トリカブトの花粉など一雫でも混ざっては、どれほど甚大な被害となることか。
そのせいで翁は、冬の薬作りに必要な秋の仕入れが何も出来なかったはずだ。なのに翁は、ただ優しく笑ってスルクを手当てしてくれた。
スルクはバツが悪げに目を逸らして、項垂れた。
「…………よりによってあの時期に、翁に迷惑を掛けたのは、本当に悪かったと」
「ちっげーーよ!!!」
カズラは突如、がばりと顔を上げて大声を出した。
顔を真っ赤にして、物凄く怒っていた。同時に、とても哀しい顔をしていた。
スルクは困惑した。カズラの怒りの理由が分からない。
カズラが代わりに薬を作れば、スルクが翁の囲炉裏に運ばれて迷惑をかけることは無くなる。てっきりそういう意味だと思ったのに、違うのだろうか。
戸惑いを顔に貼り付けたスルクに、カズラはぐっと眉根を寄せて、ぎゅっと唇を引き結んだ。
「ばーか、ばーか、スルクのばーか。鈍ちん。わからんちん。ばーかばーか」
カズラはひと通りスルクを罵ると、ぐす、と鼻をすすった。
「……!!」
泣いている。
気丈なカズラがいきなり涙ぐんだので、スルクは頭が真っ白になって、「お、おい!」と意味もなく右往左往して狼狽した。
カズラは力の入っていない拳でぽかすかとスルクの胸を殴ったが、スルクはいったい何が起きているのかさっぱり分からなかった。
カズラはキッと涙の浮かんだ眼を吊り上げた。
「……心配したんだからな……!」
「…………?」
スルクは、何を言われているのかよく分からなくて、ただ困惑した。
泣かれる心当たりなど無かった。カズラが何を憂いているのかよく分からない。
ここで心配すべきなのはスルクではなく、むしろカズラ自身やその周囲の方だ。
コロポックルは皆、体調が不安定だと、力が安定しなくなる。
たとえば、周囲に不必要に花が咲き乱れたり、傷んだ果実が周囲にあふれたり、蔦が変に伸びたり、花粉のコントロールが効かなくなったりと、そういったことだ。
だからこそ、トリカブトの体調不良は嫌われる。
トリカブトの花粉は命を奪う毒だ。抑えている今でも忌諱されるのに、抑えすら効かなくなってしまえば、疎まれるのは当然のことだ。
トリカブトと言えば、別名を「捻じ切れて死ぬ毒」だとか「内臓が腐り落ちて死ぬ毒」などと言う。
「附子 」の別名が指す通り、事実、捻じ切れたように顔が無様に歪んで死ぬのだ。まさに内臓が腐り落ちるほどの、想像を絶する苦痛だという。
その凶悪な毒がひとたび全身に回ってしまっては、肉は腐り、食すことはできず、カムイの住まう天に昇ることはできなくなり、地獄とも呼ばれる地下の国から出ることはできなくなるのだと。
実際は、それほどまでに強い毒は、幼いスルクにはまだ作れない。
そうでなければ、スルクは忌み嫌われるどころか、今も糾弾され、石を投げられ続けていただろう。
なにせ、実際にスルクはかつて、生まれたばかりの頃、祝いの実りに毒を混入させて甚大な被害を出した実例まである。
恐らく大昔、神代の頃には、毒を自在に正しく扱える正当なトリカブトの原種が居たのだろう。そこから二世代、三世代と年月を経るごとにコロポックルは生まれにくくなり、ついに絶えて久しかったと聞く。古い集落どころか、広大な森すらもトリカブトの扱いを忘れるほどの遠い歳月。
そんな頃に、何かの間違いみたいに、神代に匹敵するトリカブトが生まれた。何の予兆もないまま。
スルクを、珍しいコロポックルの新たな誕生を。盛大に祝うはずの実りの席は、一瞬にして阿鼻叫喚となったらしい。
生まれたばかりのスルクの毒はまだ未熟だったから死者こそ出なかったが、それでも、そら恐ろしいほどの規模の被害が出たという。
それからずっと、スルクは放浪を続けている。
ひと所に留まることを許されないからだ。
恐怖し忌み嫌うのは当然だった。草木が山火事を恐れるのと、同じくらい当たり前のことなのだ。
忌諱され続ける事実に、否を唱える気は無い。
だから、あの日は、寝ぐらの洞窟を離れて、誰も知らない崖のうろに慎重に隠れていたのに、カズラは残されたかすかな花粉の跡を辿って、まるで隠れんぼの延長みたいに、自分を見つけ出してしまった。
────いたッ!!
カズラの声が上からして、息を呑んだ。
絶対に見つからないと思っていたのに、スルクは、崖の割れ目に体を押し込んだまま震え上がった。
高い熱を出しながら、スルクは震えるほど息を殺した。
必死になって息を止めて、両手で口を押さえて、花粉があふれるのを止めようとした。必死になるほど逆に花粉はあふれ出た。
トリカブトの花粉は毒だ。甘い粉が漏れれば、無条件で厭われる。
万一カズラに嫌われたらと思ったら、熱い体が凍り付くようだった。
なのにカズラは、スルクが高熱で朦朧としている内に、得意のツタを使って崖の割れ目からスルクをいとも簡単に引っ張り上げて、そのまま山葡萄の翁の囲炉裏に運び込んでしまった。
気付けばすっかり熱は下がり、スルクは何が起きたのかよく分からないまま介抱され、帰されたのだった。
山葡萄の翁の行動は、まだ理解できる。
翁は変わり者だが、森に住まう者には万人に優しい。それは、この森の長 だからだ。
迂闊に花粉をばら撒かれては森全体に迷惑が掛かる。特に水場に撒かれては大事だ。だから、見過ごすこともできなかったのだろう、と思う。
だからスルクのような外つ森の異分子にも、早く事態が収束するように優しく治療を施したのだ、と思えば、不可解だが道理は理解できた。
だが、カズラの行動は本当によく分からない。
まるで、危険を察知する能力が壊れているみたいだ、と思った。体調不良のトリカブトを厭うのは当然なのに、そんな素振りもない。
カズラと数回冬を超えたが、やることなすこと、分からないことばかりだ。
カズラはじっとこちらを見つめて、深々とため息を吐くと「スルクは頭いいのに時々バカだからなあ」とぼやいた。心外だった。
「いーよ。じっちゃんもまだしょーがないんだって言ってたし」
「……? 何の話だ」
「それが分かるまで、オレ、ぜってー隠れんぼ負けねーって話」
カズラは頬を膨らませて、背中からスルクにぎゅっと懐いた。
おぶさるようにくっついてくるひっつき虫に、スルクはよく分からない顔をしながら苦笑して破顔した。
「変なやつ」
「お前ってほんっと、強情なの。素直に治療受けりゃいいのに」
苦笑するカズラの軽やかなテノールの声が耳に響いて、スルクは古い夢から覚めた。
幼い日の高くまろい声は夢に溶けて、目覚めたスルクが見上げた先には、成長した手足で軽やかに岩肌にぶら下がるカズラの姿があった。
金琥珀色の綺麗な目が、スルクを見つけて悪戯めいた煌めきを見せる。
「すっげー、滝壺の裏にこんな場所あったんだな。こんなの、よく見つけたなあ」
「……お前こそ」
ぴちゃん、と滝の裏の岩肌に水滴が落ちた。
スルクが身を潜めたのは、ごく小さな割れ目から地下へ潜り込んだ先、滝裏に広がる空洞だった。
水滴がぴちゃり、ぴちゃりと落ちて、岩肌で弾ける。
久々の発熱だった。
スルクがまだまだ幼かった百年前に比べて、広大な雪の大地は年間を通してずいぶん気温が上がった。狐の鼻すら凍り付く氷点下の日は減り、干ばつと見まごうような暑い日が増えた。
大地の地熱が上がっても、トリカブトの性質は何千年も変わらない。
スルクは今でも、熱と乾きに弱かった。
そこを病気にやられた。
カズラはツタを使ってしゅるしゅると器用に天井から降りてきて、絶壁の上からこともなげにスルクに声を投げかけた。
カズラの落ち着いた声が、空洞に反響する。
「で、今回は? 乾燥? 根腐れ? 菌? カビ?」
「……菌」
「どれだけやられた? 殺菌と間引き焼きは済んだか?」
「……五株程度の小さな集落が枯れただけだ。もう焼き終わってる」
「おし」
身を細く捩るように、岩壁の割れ目から体を滑り込ませたカズラは、高い高い天蓋からシュタッと軽やかに着地した。
山葡萄染めの鮮やかな紫布でカズラの口は覆われていて、スルクは反射的にホッと力を抜いた。
「あっ、勘違いすんじゃねーぞ! オレは口布なんか別にしなくてもいーけど、それだとお前が落ち着かないだろうってじっちゃんが言うから」
布の上からでもわかるほど、カズラが不服そうに頬を膨らませてそう言った。図体はぐっとデカくなったのに、そんな仕草は、幼い頃とまるで変わらない。
漏れ出る花粉を懸命に抑えてはいるが、用心に越したことはない。あまりに無謀な孫を説き伏せてくれた翁に感謝だった。
近付いてくるカズラに、スルクは抵抗するのを諦めた。こんな袋小路の中だ、今から逃げてもどうにもならない。
「ほらよ」
「ん」
カズラに差し出された匙を、スルクは中身を確認することなく口に含んだ。信じているから、確かめるような手間は踏まない。
スルクの口の中に、木べらの匙で、とろりとした甘い液が放り込まれる。
「ん……これ、は?」
「白樺樹液とハチミツ煮詰めてオレとじっちゃんの実とか色々混ぜた、お前専用の特製栄養剤。じっちゃん直伝だから、安心していいぜ」
喉をするりと流れ落ちる甘さの中に、強い祝福の気配がする。
機を熟した山葡萄を二度霜に当てて甘さを増した濃厚な味の中に、一年や二年ではない歳月準備された、実りの祝福が込められていた。
「悪い癖だぜスルクちゃん。調子崩し始めたいっちゃん最初、オレに相談しねーで逃げたろ」
「そ、れは……」
図星にスルクは視線をうろうろと彷徨わせて、口ごもった。
体調を崩し始めた最初に浮かぶのは、いつも幼いカズラの顔だった。どれほど口酸っぱく治療を受けろと言い含められても、脳天気なカズラの笑顔が瞼に浮かぶと身が竦む。
これだけは失いたくない、と願った幼い日の必死な祈りが、スルクの胸で花を咲かすから。
ピタリと口を閉ざしたスルクに、カズラが片目をすがめて苦笑した。
夢の中と同じ声で、カズラが「スルクは頭いいのに時々バカだからなあ」と笑った。甘やかすような声だった。
「どーしてそんな嫌うかね。オレはこの甘さ、嫌じゃねーのになあ」
カズラが鼻をすん、と鳴らした。
そんなことを言う途方も無い馬鹿は、世界でただ一人だ。昔も今も。
「おっしゃ、帰るか」
カズラは自分のツタをぶんぶん回して、投擲の要領で割れ目の外に投げ出した。そこから近くの岩にツタを這い出させて固定すると、反対側をスルクの体に巻きつけたまま、しゅるしゅると登っていく。
「今回もかくれんぼはオレの勝ちだな、スルクちゃん」
「……お前がなぜ怖がらないのか、いまだに分からん」
無謀さは天性としても、懐が広すぎて逆に異常だ。
まるで、危険を察知する何かが壊れてるみたいに。
どうしてこんなやつが、こんなにも安全な、祝福の森の中心に生まれたのだろう。どうしてこいつは、嫌悪の逆にあるものを、ずっと注ぎ続けることができるのだろう。
スルクはいつだって、こいつを危険に晒すことしかできないのに。
「んー、お前からすると、おかしーってことになるのかね」
軽々とスルクを引き上げながら、カズラはそうぼやいて苦笑した。
「オレからすりゃ、当たり前のことだぜ。言葉にしねーといけねーなら、あー、そうだな」
独り言のような調子で、カズラは「んー」と言葉を選んだ。
「ある所に、無力な小鳥がいたとしてさ」
カズラの語り口は、いつもどこか、水を打ったように周囲の音を鎮める。
まるで、森長 の祖父のように。
「小鳥は、巨大な鷹に巣を狙われた。けど、勝てるはずないのに、逃げずに必死に卵を守って戦った。それってさ、おかしなことか?」
「……いや、そうは思わない」
「なんで? その小鳥は、何で逃げなかったと思う?」
「それは、……それは、もちろん、卵が大事だったんだろう。命に替えても護りたくて、自分を護るのを忘れるくらい、大事だった、んじゃないのか」
「そーゆーことだよ」
「……?」
カズラは苦笑し、答えた。
わからないならわからねーでいいよ、今はまだ、と。
「なあスルク。ヤマブドウの実の効果は?」
「……解毒と、滋養強壮」
「それがわかってるなら、お前がオレの隣に居りゃいーだけだってわかるだろ」
与えられた言葉は、いとも容易くスルクの胸を打ち抜いて、心臓をぐらっと揺さぶった。
「さ、帰ろうぜ。山葡萄のじっちゃんがオレたちを待ってる」
「────さて、島梟 や、我らの愛孫はそろそろトリカブトの坊やを見つけた頃かな」
森の翁は囲炉裏で鍋をかき混ぜながら、年老いた喉で歌うように穏やかにそう言った。
火のそばで翼を折りたたんで静かに瞑目する島梟 は、ぱちりと片目を開いてどこか遠くを見やった。
シマフクロウは遥か遠くを見やる眼を持っている。古くから集落を見守り続けた彼らはヒトの百倍の視力を持つとも言われているが、カムイの祝福を色濃く宿した島梟 は千里を見通す特別な眼を持っている。
昼にも関わらず、森はひっそりと息を潜めている。森長の孫が、よりによって病気の鳥兜を連れ回しているからだ。どれほど慎重に事を運んでも森は繋がっている。だからカズラは、適切な対応さえしていれば隠れるだけ無駄だと潔く堂々としている。それでも真に厭われることのない人望は森長の孫という立ち位置を引いても中々大したものだが、厄介者の鳥兜に対する一部の視線は未だに冷ややかだ。
トリカブトを連れて一目散に駆けるカズラは、やがてこの囲炉裏に駆け込むだろう。あれはまごうことなく才だが、同時に鳥兜よりタチの悪い毒でもある。
「山葡萄 よ、用心せよ。アレは有明の狭間の子」
「そうだね。キミに育てられたからだろうか、あの子は翼を持っている。見えないけれど、誰にも侵せない自由の翼だ。あの子は望むまま、どんな危険なところだって行ける」
二人きりで酒を呑む時にはもっと砕けた口調で話す山葡萄 も、この時ばかりは孫や周囲に話すように穏やかで威厳のある年相応の口調を使う。
「だからこそ、崖を崖と思わない。思えない。フクロウが崖を平然と飛ぶように、あの子もまた崖に誰かを導く。その子が飛べないなんて思いもせずに」
愛しいあの子がまた間違えないように、我らが見守ってやらねば
山葡萄の翁はそう言って、深く祈るように目を閉じ、回想した。
カズラがトリカブトの坊やを見つけて絆を結んだのは、まだ本当に幼い頃だった。物の道理もわかるはずのない、本当に幼い頃だったのだ。
外敵がおらず飢餓もないこの森で、生まれた時から欠かさず強力な加護で守られ、湯水のように一身に愛を受けて育ったカズラは、フキが太陽を目指すように、愛情を糧にあまりにまっすぐに育った。
樹皮喰いの鹿にも手を伸ばし、猛毒も恐れぬあの心胆。
それが才であると同時に薬であると、使い方を過 てば毒であると教えるには、あの子はまだ幼すぎた。
だから、生まれついての日陰草のトリカブトを、ただの善意で、火傷するような明るい日向に──雛鳥の誕生で浮き足立つ春の祝いの宴の場に、無邪気に手を引いて無理やり引っ張り出してしまった。
隠れていた猛毒 の原種が、突如、生まれたばかりの雛を抱える母鳥たちの前に、森中が実りを祝う盛大な場に、突如現れた時の阿鼻叫喚を。
自分を優しく抱きしめるばかりの周囲の大人たちの、友達への憎悪にも近い激しい拒絶を。
想像しろと言う方が、酷なことだったかもしれない。
だが、それは最悪の形で起こってしまった。森長の正しい庇護の下でゆっくりと時間をかけて森に馴染んでいけば話は違っただろうが、正規の手段を取らなかった猛毒草の強引な乱入は、カズラの大事な大事な友達、罪の無い幼い鳥兜と、周囲の軋轢と亀裂を決定的なものにしてしまった。
幼さと無知からそんな恐ろしい騒ぎを起こした山葡萄の孫を、あの子を愛する皆は許した。
まだ幼いから、純粋だから、道理を知らなかっただけだから、悪気はなかったから、優しい子だから、幸い深刻な被害は出なかったから、事故だったのだからと。
皆、皆、愛され祝福された森長の孫を許した。
そのことの方がよほど、カズラにとってはショックだった。
悪いのは自分なのに、決して許されないのは友達の方だった。
過ちを犯した自分を憎まずに済む術は皆が優しく教えてくれるのに
憎しみに近い恐怖の視線を何の罪の無い幼子に向けるのは誰もやめてくれない。
それは、幸福なだけの日々にいたカズラにとっては、それまでの価値観の全部がひっくりかえるような、殴り飛ばされるような茫然自失だったらしい。
どれほど泣いても変わらない現実を直視したあの子は、それまで五秒だって向き合おうとしなかった薬師の勉強に人が変わったように打ち込むようになった。
聞けば、自分の手で万能薬を作るという。無知な自分のせいで周囲に溶け込むことを完全に諦めてしまった親友が、もう誰にも恐れられなくて済むように。
未来永劫、最恐の猛毒をもう誰も怖がらずに済む薬を作るという。
友達がもうどこへ行っても憎まれないように。遠い未来の果てまで、永遠に、誰かと生きるのを諦めなくて済むように。
それだけは、自分がしなければならないからと、唇を噛み締めて幼いあの子がギラギラと前を睨んだ日を、山葡萄の翁は昨夜のことのように覚えている。
あれからずっと、山葡萄の森長は、カズラの目指す途方もない未来の唯一の味方だった。どれほど周囲が無理だと諌めても、翁は一度もカズラを止めなかった。
幼かった愛するあの子はもう、その身に宿した猛毒を薬に換える術を知っている。
薬師の翁がたとえ猛毒草を怖がらなくても、それを周囲に強いることはできないということもわかっている。
自分の過ちの取り返しのつかなさを、その苦さを正しく飲み込んで、ただ償うのではなくまばゆい未来に変える術を手に入れようと必死に足掻いている。
あの子が注ぐ湯水の愛は、生まれた日から孤独なトリカブトの坊やを変えるだろうか。
既にはるか遠い昔に失ったまま、失ったことすらまだ知らない坊やの、既に枯れた芽をもう一度芽吹かせることができるだろうか。
願わくば、どうか。
愛する孫の目指す未来が叶うその日を、翁はずっと心待ちにしている。
他の誰がその未来を信じずとも、たとえ鳥兜の坊や自身すら欠片もそんな日が来ると思っていなくとも。
それでも、あの子の夢と決意を、翁はただ愛し続けている。
アレは有明の狭間のフクロウの子。
自ら望んで、日向と日陰のあわいに立ち続ける朝焼けの子。
「さ、島梟 。そろそろ」
「わかっておる」
島梟 が音もなく翼を広げて囲炉裏を去った。
聡明で知恵あるコタンコロカムイは表立って鳥兜を厭わぬ数少ない一羽だが、万一にも羽毛の狭間に猛毒の花粉を運んでは周囲に甚大な被害が出る。だから孤立する鳥兜の現状を憂いてはいても、ただ遠くから見守る他ない。カズラを通して間接的に可能な限り智慧を授けるに留まる。
この森における鳥兜を巡る現状は、百年経つ今も島梟 の立ち位置と似たり寄ったりだった。
「────じっちゃんっ!」
駆け込んできたカズラがほっとしたように表情を緩める。
得意の蔦でぐるぐるにされて連れてこられた鳥兜の坊やが、ひどく気を張りながら固い表情でほぼ無理やり暖簾をくぐらされた。ここに来るまでも散々隙を見て逃げようとして揉み合ったのだろう、カズラの蔦さえなければ、今にも一目散に逃げ出しそうだった。
「さ、二人とも、おいで」
翁はゆるりと両腕を広げて、ことさらゆっくりと穏やかに、そう言って囲炉裏のそばの敷物へとスルクを促した。
何もかも分かっている翁の穏やかな受容に、張り詰めた気が緩んだのだろうか、スルクは糸が切れたようにかくんと脚をもつれさせてしまった。
カズラが慌ててスルクを両腕で抱き止めた。
「スルクっ!?」
躊躇いなく触れるその腕 には欠片の恐怖も畏れもなく、危険な猛毒を纏わせた親友を容易く受け入れる。
もう少し、あと少し早く、その正しい使い道を教えていればと、翁が思わぬ日はない。
「大丈夫、少しばかり疲れたんだろう。休ませておやり」
カズラの腕の中で気を失ったスルクを、囲炉裏の敷物に導きながら、翁はそう穏やかに孫を諭した。
カズラはこくんと幼い子供のように頷いて、腕の中の親友を寝かせてから、途方にくれたみたいに大人しく座った。
俯くカズラの頭に、ぽん、と皺だらけの手が優しく乗せられた。
「大丈夫、お前の過ちも愛しているよ」
カズラは顔を上げると、一瞬泣きそうな顔をして、けれど、それを親友に気取られまいと、すぐにニカッと笑ってみせた。
強い子だ。まっすぐな子だ。愚直なまでに。
自分は、この子の夢が叶う日まで、枝葉を伸ばして立ち続けることができるだろうか。一秒でも早くと願うのに、時間はどれほどあっても足りなかった。
《有明の狭間のフクロウの仔》