「どしたの? 寂しくなっちゃった?」
「今の私は猫なので、人間の言葉はわかりません」
疲れ切って猫になりきっちゃったPさんとじろちゃんのお話です。
@toasdm
疲れているのはお互い様だと思った。ハードなレッスンで肉体的に疲れた次郎と、ミーティングに次ぐミーティングで精神的に疲れた彼女とは、夕食を作って食べる気力もなく、口からぽわんぽわんと何かが出そうな腑抜け具合で、二人で大の字になってリビングの床で寝転がっていた。
「じろー、さぁん……」
「んー……?」
もう何度目になるかわからない疲れたぁ、を口から吐き出して、彼女は次郎にしがみつく。ついでに言うと暑い。エアコンから吹き出してくる冷たい風は部屋全体を冷やすにはまだ少し時間がかかるようで、床の方から冷えてきたとはいえ、心地よさはまだずっと、二人の遠くにあるように思えた。
「もー、疲れちゃいましたよぉー……」
「はぁー……ねえ。おじさんもくったくたよ」
今日のレッスンハードだったー、と大の字になった次郎の腕に、ミーティング疲れたぁーと彼女がしがみつく。もう晩ごはんいらないですー、と泣き言を言う彼女に、それじゃ元気になるものもならないでしょうよ、と次郎はダメ出しをする。
「作るのも食べるのもめんどくさくてー……」
くたり、とした彼女をなんとかしたい気持ちと、あとはエアコンの時間差の後押し。疲労が蓄積された体に愛情という名の気合を満たして行き渡らせて、次郎はよっこいせ、と跳ね起きた。
「わ」
「はぁ……簡単なものでいい?」
「んぅぅ……」
すみません、と床に突っ伏したままの彼女をとりあえず担ぎ上げてソファに移動させると、次郎は髪を結わえてキッチンに立つ。ご飯炊いてないから今から炊いて一時間、それくらいあれば適当に、なんか作れるでしょ、と炊飯器に米をセットすると冷蔵庫の前でしゃがみこむ。
「んー……」
冷蔵庫の中身はどれもぱっとしない。買い置きなんかあったっけ、と冷蔵庫に見切りをつけて立ち上がり、今度は次郎は食器棚の下のパントリーコーナーを開けて覗いた。
「お」
レトルトのハヤシライスがちょうど二つ。確か冷蔵庫に卵あったはずだけど、とそれを掴んで立ち上がろうとした次郎の背中に、のし、と気怠い柔らかな重みがのしかかってきた。
「ちょ、な、何?!」
「うにゃーん」
やる気のない猫の鳴き声が、次郎の背中にしがみつく。あーらら、とそのまま片手で彼女のヒップを支えると、次郎はゆっくり、前傾姿勢のまま立ち上がった。
「どしたの? 寂しくなっちゃった?」
「今の私は猫なので、人間の言葉はわかりません」
「えぇぇ……」
はっきり人間の言葉喋っちゃってるよね、とそのままシンクに移動して、次郎はレトルトのパックを置いて両手を自由にする。
「わからないですにゃん」
「あーらら、可愛いにゃんこもいたもんだ」
くたくたの体に成人女性一人分のウエイトは正直きつかったが、こうして体が触れ合っていると、なぜか気力が満ちてくる。しょーがない子だ、と次郎は彼女を背中に背負ったまま、冷蔵庫から卵を取り出した。
「ほい、これ持って」
「猫なので持てません」
持てません、と言いながら、彼女はちゃっかり卵を両手でひとつずつ持つ。次郎は片手に二つ、合計四つの卵を入れるボウルをシンクの下からよいしょと取り出すためにしゃがんで立ち上がるのも、かなりの重労働だ。
「もー、おじさん疲れてるって言ってるのに」
「飼い主の次郎さぁん、何作るんですかぁー」
猫になってしまうほど疲れきった彼女を癒やすメニューを考えるだけの余裕があるのは、ちょいちょい、と結わえた次郎の髪の毛にじゃれつく彼女の可愛らしさのおかげかもしれない。俺いつの間にあんたの飼い主になったの、と苦笑して、次郎は彼女をよいしょと背負い直す。
「にゃっ、にゃっ」
「こらこら、じゃれないの」
「猫なのでじゃれてしまいます」
そんな冷静な猫いないでしょ、と次郎は卵を割りほぐす。ご飯炊けたらオムハヤシにしよっか?と背中の猫に尋ねれば、やったぁ、と彼女はすっかり猫を手放す。
「あれ、にゃんこおしまい?」
「おしまいです、その……」
トン、と床に足をつけて次郎の背中から離れた彼女は、恥ずかしそうにおずおずと、広い背中に抱きついてくる。
「ねこ、ちゅー、できないので……」
ねえなんでそんな可愛いこと言ってくれちゃうの?とすっかり元気になった次郎が振り向いて、腰をかがめて彼女に軽いキスをする。
「これでいい?」
「……うぅぅぅ」
ご飯できるまで待ってて、と頭をぽんと優しく撫でられた彼女が恥ずかしそうにソファのクッションに埋まるのを微笑ましく眺めながら、これならサラダも作れちゃうかな、と次郎は冷蔵庫からいくつかの野菜を取り出す。
「♪~……」
じゃれる猫などもういないのに、次郎の結わえた髪の毛は、それはそれは楽しげにしばらく揺れていた。