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炳煥終焉譚 試し読み

全体公開 18537文字
2020-08-15 23:48:44

9月6日開催の文学フリマ大阪にて販売する『炳煥終焉譚 一』の試し読みになります。本編のプロローグと第一章です。




 走る。走る。走る。

 ただひたすらに、少女は駆けていた。絢爛豪華な宮殿で、長い衣の裾を引きずりながら。時々転びそうになりながらも、済んでのところで体勢を立て直してまた走る。
 少女は醜女という程ではなかったが、美女というには少々癖のある顔だった。要するに、万人に好かれるような顔立ちではなかったのだ。
 少女の年の頃はまだ二十歳にならない程度で、大人の女性と形容するには些か幼さの残る顔付きをしていた。切れ長の瞳は鋭く、表情によっては見ている者を睨み付けているように思われても可笑しくはなさそうだ。その色がやや特殊で、光の当たる角度によっては真紅にも見える不思議な色合いをしている。全体的な顔の造形は整っている方に入るのだろうが、目付きの鋭さと真一文字に引き結ばれた唇のせいで刺々しい印象を与える。
 容姿を特徴付ける他の部分はというと、艶やかな黒髪を長く伸ばし、今は結ぶことなく下ろしたままにしていた。身に纏う衣装はその髪の毛と同じように黒を基調にしている。
「はぁ、はぁ、はぁっ……!」
 形振り構わずに、少女は駆ける。幾度となく曲がり角を曲がり、階段を上ったり下りたりしている。
 その足取りから、少女に目的地がないことは明らかだった。
 彼女は逃げているだけだ。己に向かって迫り来る何かから、懸命に逃げているだけであった。

「無駄な足掻きはお止しなさい、『公主様』」

 少女の背後から、かつかつという靴音と共に歩みを進めてくる者。
 その者の声を耳にした瞬間に、少女の顔色は一気に青くなる。恐怖心を抱いていることは明白である。
 少女は咄嗟に走る速度を上げようとしたが、前方からは幾多の兵士が駆け付けてくる。詰まるところ、少女は挟み込まれてしまったのだ。
……っ!」
 少女の喉が鳴る。口には出さずとも、彼女は怯えきっていた。
 そんな彼女の前に、悠然とした足取りで歩いてくる男が一人。
 まだ若く、風采もなかなかの青年だった。着ている服装からして、武人ではなく官吏であることがわかる。しかしながら、彼の背後にはこれまた多くの兵士たちが構えていた。
 青年の表情は至って穏やかそのもので、怯えている少女とは恐ろしいくらいに対照的だった。その口元にはうっすらと笑みが湛えられている。
……私たちとの追い掛けっこは楽しかったですか? 公主様。よくもまあ、私の手を煩わせてくれたものです。あなたのお転婆ぶりにも苦労させられる」
 青年の口調はゆったりとしている。しかし、その言葉尻には言い様もない苛立ちが含まれていた。
 少女はがたがたと震えながら、青年の顔を見上げる。そして、不安げでありながらも芯の通った声音で彼に問いかけた。
「何故──何故、お前が私の命を狙うのです、陶鉄青(とうてっせい)! あなたは義兄上に仕えてはいないはずです! むしろ私たち……公主や妃たちに近しい立場にありました! それなのに、お前は……!」
「おや、公主様。これはまた、小うるさく喚きなさる。私があなた方公主の側で仕事をする宦官だからといって、あなたの義兄上──すなわち『皇帝陛下』に取り入る隙がない訳ではないのですよ」
 陶鉄青と呼ばれた青年は、ますます笑みを深めながら答える。
 彼の言葉からは少女への確かな憎しみと、思うように動かない彼女への苛立ちがない交ぜになっている様が見て取れた。
 要するにこの宦官の青年は少女に敵意を抱き、悪意を以て接している。それは相対している少女が誰よりも、何よりも理解していることだろう。先程から少女が怯えているのは、自分が身の危険に晒されているというだけではなく、鉄青の真意に気付いてしまったが故である。
「皇帝陛下のご命令は絶対です。陛下はあなたの死を望んでいる。故に、私はあなたを殺めなければならないのですよ、公主様」
……戯言を。義兄上は皇帝などではない。この国の皇帝は、後にも先にも父上一人だけです。義兄上など、皇帝の位を僭称しているだけに──」
 過ぎない、と少女が言い終わる前に、その横っ面は鉄青によって殴り飛ばされていた。
 何が起こったのかわからない、という表情のまま、少女は体勢を崩す。しかし少女は後方にいた兵士たちによって取り押さえられ、倒れることすら出来なかった。
 にっこりと笑いながら鉄青が近付いてくる。そして身動きの取れない少女の腹を蹴り付ける。ぐぅっ、と少女の口から苦悶の声が漏れた。
「痛いでしょう? 苦しいでしょう? ですが、私があなたのお父上に与えられた苦痛と屈辱に比べれば、まだまだ足りない。あなたは女性ですからねぇ、私が奪われたものとは別のものを奪って差し上げましょうか」
 そう告げてから、鉄青は少女の顔を何度も何度も殴り飛ばした。
 初めこそ声を上げていた少女だったが、次第にその声も掠れ、ただ淡々と打撃音が響くだけとなった。それでも鉄青は殴ることを止めない。時に蹴り飛ばし、時に平手に変えて、心の赴くままに少女をいたぶる。それは一方的な暴力であった。
 しばらく恣に少女をいたぶり続けていた鉄青だったが、やがて肩で息をしながらその手を止めた。いくら自分が有利な状況にあると言えど、武術に通じている訳でもない宦官がずっと体を動かしているというのはなかなかに消耗するものらしい。
 少女の顔は赤く腫れ上がり、潰(つぶ)れてはいないものの片目を開けられない状態であった。瞼(まぶた)が腫れてしまったが故だろう。鼻と口からは血の混じった汁がどろりと流れ出ている。ぽたぽたと垂れるそれは、床に赤い染みを作った。
「ふふ、良い気味だ。……ああ、ご安心を。あなたを此処で殺しはしませんよ。名目上、あなたはお父上に殉じたということにしなければならないのですから」
…………
「そうですねぇ……。では、あなたのことはこのまま生き埋めにしてしまいましょう。お父上と同じ廟に葬られるのです。あなたも悪い気はしますまい。迫り来る死の影に怯えながら、独り虚しく死ねば良い」
 くつくつ、と鉄青は笑う。少女には答える力もなかった。ただ、ぐったりとしながら彼の言葉を聞いている他に出来ることはない。
「私の父上はね、あなたのお父上によって生き埋めにされて死んだのですよ。何も悪いことはしていないのに、ただ悪しき者を告発しただけだというのに。そして私は宦官にされた。これでは、死んだ方が余程ましだったというもの。あなたのお父上亡き今、その罪を償えるのは公主様しかおられません。お父上の犯した大罪を背負い、冥土の土産にすればよろしい。さすれば、あなたのお父上に殺された同胞たちも報われるでしょう──」
 両手を広げて、鉄青は天を仰ぐ。少女には訳がわからなかった。ただ、呆としながら彼を見上げているしか、彼女には出来なかったのだ。

「嘆かわしいなぁ」

 そんな中、響いたのはあまりにも呑気な声であった。それは少女のものでも、鉄青のものでもない。第三者が割り込んできたことは明白だった。
……?」
 これには鉄青さえも、疑問を心の内に隠すことなく振り返った。誰だ、と彼の唇が動く。

 ──前に、異変は起こっていた。

「ひっ、な、何だ、これはっ……⁉」
「あ、ああ、鉄青殿……! 足が、私の足が、砂になって……!」
「ど、どんどん砂になる……! 砂になって、崩れてしまう……!」
 次いで辺りに広がったのは阿鼻叫喚。少女を取り押さえ、鉄青を守るように囲んでいた兵士たちの口から悲鳴が迸る。その内容は、自分たちの体が砂に変わり、瞬く間に崩れていくということ。
 信じられない話ではあった。しかし、少女は霞む視界の中で確かに見たのだ。鉄青を含む、自分以外の人間が砂に変わっていく光景を。
「き、さまァ……! 我等に、何を……!」
 鉄青自身も砂に変わりつつあった。下半身はほとんど砂に変わり、今では少女を見上げるくらいの高さになっている。彼は驚愕と少女への恨みを視線に入り交じらせながら、少女のことを睨み付ける。
 だが、少女は彼に答えない。──否、答えられないのだ。
 少女はこの現象を予期してはいなかった。ついでに、鉄青に殴られたせいで口の中はじんじんと痛み、話すだけでも激痛が走る。それゆえに、彼女は砂の塊になっていく彼らを眺めているしか出来なかった。
 やがて、少女をいたぶっていた者たちは全て白い砂へと変わった。辺りには大量の砂が散らばり、少女がぺたりと床に手を付くと、じゃりじゃりとした感触が手のひらを通して伝わってきた。

「吃驚したかな?」

 のんびりとした、場違いな声が耳に入る。
 おもむろに少女が顔を上げてみれば、其処には一人の人物が立っていた。
「あ……あなた、は……
「うん、それは追々話すとしよう。まずは眠ると良い」
 少女の質問に、その人物が答えることはなかった。少女に近付くと、その手を少女の目元に翳す。
 瞬間、不思議なくらいに強い眠気が少女を襲った。痺れ薬でも打たれたかのように、痛みもすうと遠退いていく。少女は閉じゆく瞼に抗(あらが)うことなく、暗闇の中に意識を手放した。




一 公主と終末執行装置

 ふにふにと、誰かに頬をつつかれる感触を覚えて、少女は目を覚ました。まだ視界はぼんやりとしていて、意識も覚醒しきってはいない。
(此処は……)
 どうやら此処は武具庫のようだった。つんと鉄の匂いが少女の鼻孔を擽る。
 願わくは、先程の出来事は全て夢であって欲しかった。いや、そもそも父である皇帝が崩御したことさえも、悪い夢であったなら。それならどれだけ良かっただろうか。どれだけ楽であっただろうか。

「おぉ、起きたか」

 しかし、少女の希望は瞬く間に打ち砕かれる。
 傍らから聞こえてきたのほほんとした声。それを耳にした瞬間に、少女は飛び起きて後退りした。
……左様に怖がらずとも良いではないか」
 次いで返ってくるのは、しょんぼりとした声。少女は警戒心を解かぬまま、目の前の人物を注視した。
 其処にいたのは年若い少年だった。少女と同じくらいか、少し年齢差があるか程度に見える。白い肌に黒檀のような髪の毛、そして優しげな目元が印象的だった。横側の髪の毛は結わえており、着ている衣服は絢爛の一言に尽きる。
 やんごとない、という表現がこれほど似合う人物はそうそういないだろう。下手したら、公主である少女よりも気品に溢れている。
 とりあえず、この少年は少女に敵意を抱いている訳ではないらしい。そう確認してから、少女は咳払いをして口を開く。
……先程は助けてくださり、ありがとうございました。あなたのお力添えがなかったら、私は父上の廟に生き埋めにされていたでしょう」
「うむ、うむ。其方が無事で、余も嬉しい」
……して、如何様にして陶鉄青らを滅し、私の傷を癒したのですか。私の無事を喜んでおられるのなら、私の問いに答えなさい」
 少女の口振りは丁寧だったが、それと同時に威厳を湛えてもいた。普通の──彼女たち一族に支配される立場の人間であれば、きっと少女に平伏していたことだろう。それだけ少女は公主としての風格をかもし出していた。
 しかし、眼前の少年はきょとんとした顔をするだけだった。数秒間少女と見つめ合ってから、彼は「……ふむ」と納得した様子を見せる。
「たしかに、全てを説明せぬ訳にはいくまい。余の力は人智を超えるもの。其方が疑問に思わぬことはなかろう」
…………
「故に、な? そう怖い顔をしないで欲しい。余は、其方と敵対したい訳ではないのだ。まずは其方の名前を教えてはくれぬか? 名も知らぬままでは、話しづらくて堪らぬ」
うるうるとした瞳で少年は懇願してくる。これを口にしたら失礼に値することは少女もわかっていたが、この少年はあまりにもあざとい。無意識なのか意図的なのかわからない辺りが特に厄介だ。
 案の定、少女は少年の提案を受け入れた。受け入れなければならないような気がしてならなかった。
 内心悔しさに歯噛みしながら、少女は自らの名を名乗る。
……私は、煌(こう)と申します。不敬と見なされないようなものであれば、どうぞお好きなようにお呼びください。……して、あなたの名は何というのですか? 私だけ名乗るのは不平等です」
「煌……煌、か。良い名をしている。余のことはそうだな……焉(えん)、と呼んでくれ」
……偽名ですか?」
 少年──焉のあやふやな口振りに、煌は眉を潜める。煌の刺々しい視線を感じ取った焉は、悲しげに眉尻を下げた。
「いや、其方を騙すつもりはないのだ。ただ、余には名乗れる名がない」
「いいえ、そんなはずはありません。あなたには名付け親がいなかったのですか」
「親はいたよ。しかし、それは遠い遠い昔の話だ。かつて呼ばれていた名を、余は思い出せない。それに、余には大きな『お役目』がある。それもあって、余は焉と名乗ることにした」
「お役目……?」
 いまいちはっきりとしない焉の話にますます煌の疑念は深まった。先程から聞いていれば、彼の話は釈然としなさすぎる。煌とて愚鈍ではないが、焉の話を噛み砕くことは出来なかった。
 首を傾げた彼女に、焉は微笑む。麗らかな春の日差しの如き表情で、謎めいた少年は口を開いた。

「余はな、この世界を滅ぼさねばならぬのだ」

一秒、二秒、三秒。煌は硬直したまま、にこにこと微笑む焉の顔を見つめるしかなかった。
聞き間違いのはずがない。この少年はたしかに世界を滅ぼさねばならないと言った。
煌は眉間を揉み、一度深く深呼吸をした。そしてなるべく平静を装って、焉を白眼視する。
……何処の手の者ですか? 撹乱のつもりなら、いくら恩人であっても──」
「余は撹乱など目論んではおらぬ。これはれっきとした、変えようのない事実だ。余は世界の終焉のためにこうして再びこの世に顕現した。其方も先刻目にしたであろう? 余の手によって、砂塵と化した者たちを」
 焉の表情は変わらない。にこやかな表情のままに、到底信じられないような話を次から次へと繰り出してくる。
 はっきり言って、不気味であった。 鉄青のように愉しんでいる訳でもなく、ただ淡々と、業務連絡のように事の次第を伝えられる。下手な嗜虐趣味よりも余程恐ろしい。
 とにもかくにも、煌はこの焉という少年をただ者ではないと判断した。その話の真偽はさておき、敵に回してはいけない曲者であることに変わりはない。立ち振舞いを間違えようものなら煌も砂塵に変えられてしまいそうだ。
 煌はごくりと唾を飲み込んでから、注意深く焉に問いかける。
「しかし……何故、あなたは世界を滅ぼさねばならないのです? 私の知る限り、この世界は……少なくとも中華は、荒廃することも災禍に喘ぐこともなさそうですが」
「うむ。それは余も理解しているよ。今の中華世界に戦はなく、大きな災害に見舞われることもない。せいぜい河川の氾濫程度のものであろう。聞けば、戦乱の時代は少し前に終わったのだとか」
「それがわかっているのなら、何も世界を滅ぼすことはないはずです。悪逆を為す国家があるのならば、それのみを滅してしまえば良いではありませんか」
……其方の意見も、わからなくはないのだがなぁ。世界の終焉は、定められたことなのだ」
 ゆるゆると焉は頭を振る。其処には、やんわりとした拒絶と諦念があった。
「たしかに、長年続いていた戦は終わった。大きな飢餓や天災もない。だが、それでも。民たちは危惧しているのだ。いずれ訪れるであろう終末を」
……何が言いたいのです」
「余は、民衆の潜在意識から生まれたようなものなのだ。嗚呼、もう少しで世界は滅びてしまうかもしれない。この世の全てが終焉を迎え、もう何も残らないかもしれない……。民衆がそう思うことによって、余──すなわち、終末執行装置は機動する。中華だけではない。この世界の何処かで、終末を迎えるのではないかと怯える者がたくさんいる」
 焉は何処か悲哀を感じさせる笑みを浮かべながら目を伏せる。彼もまた、この世界の終焉を憂えているのだろう。本人が滅ぼす立場でありながら、である。
「故にな、煌。余は滅ぼさねばならぬ。今この時を以て、この世界全てを砂塵に変えねばならぬ。民が嘆く世界など、存在する価値があろうか。苦しみ、いたぶられる者たちを、このまま放っておくのはあまりにも酷だ」
 微笑みながら、焉は立ち上がる。これから世界を白砂に変えてしまわんとばかりに。笑んでいながらも泣きそうな表情で、少年はこの世界に引導を渡そうとする。

「──待ってくれ!」

 がっ、と焉の豪奢な衣装の袖を、煌は遠慮のえの字もなく掴んだ。意外だったのか、焉の瞳が大きく見開かれる。
 煌はぶるぶると震えながらも、確と焉を見据えた。彼から目を離せば終わりな気がしてならなかったのだ。
「こ、この世界を滅ぼすのは、早計だと思うのですが!」
 煌の喉から飛び出したのは、先程までの威厳や風格を捨て去った、頼りない一人の少女の声だった。焉の服の袖を掴みながら、駄々っ子のように訴える。
「あ、あなたは、中華以外の世界をその目で見たことがあるのですか? ただ民たちが嘆いているからといって、すぐに事を実行するのはあまりにも理不尽です!  あなた自身がこの世界を滅ぼしたがっているのなら、まだ話はわからなくもありません。でも、あなたは世界の終焉を望んでいないままこれを実行しようとしている! この世界を見極めようともせずにこれを滅ぼすのは、形容し難き愚行だと思います!」
 考える暇も、言葉を選ぶ暇もなかった。いつこの少年に世界を滅ぼされるかわからないのだ。言い様のない焦燥感に苛まれながら、煌はひたすらに捲し立てた。
 焉は特に反論することもなく、黙って煌の言葉を聞いていた。やがて彼女が唇を閉じると、困ったような顔をして告げる。
「左様に言われてもなぁ……。この世界の浅ましさ、愚かしさは其方が一番理解しておるはずなのだが」
……それは」
「このまま世界を放置しておけば、先程其方をいじめていた者たちのような人間が蔓延っていくぞ? そのような世界を其方は、そして世の民たちは望むまい。悪徳や混沌がこの世界を占めることになるならば、いっそ滅ぼしてしまった方が良いのではないか?」
 こてん、と焉は首を傾げる。そんな幼げな仕草が、煌からしてみれば何よりも恐ろしくて仕方なかった。
(この男に、希望はないのか)
 たしかに、根付いてしまった痼というものはなかなか取り除くことが出来ないものである。だが、時が経てば何らかの方法でその痼は取り除かれ、永劫消えないことはない──。少なくとも、煌はそのように考えている。
 しかし焉は違う。彼は諦めているのだ。
 何を、と断定は出来ない。ただ、この世の全てを諦めている。滅ぼすしかないのだと、そう考えるしか出来ないでいる。事態が好転することなどないと、端から決め付けているのだ。
(そのような奴に殺されて堪るものか)
 煌の胸中に生まれたそれは、お世辞にも美しいとは言い難い反骨心だった。
 このような男に世界など滅ぼされたくはない。世界を知らぬ未熟者ならば尚更だ。
きっ、と煌は焉を睨む。焉は相変わらず困ったように眉尻を下げながら、柔らかな微笑を浮かべていた。
「焉、とかいいましたね。やはりあなたの為そうとしていることは愚かだ」
「うむ、わかっているよ。余は愚かだ。なればこそ、民の嘆きに呼応せねばならぬ」
「あなたは人智を超えたモノ……すなわち神仙や妖怪と同様の存在です。ならば、人とは皆身分や生まれを問わず民であるはず。故に、一人の民たる私の言を聞くことに、何の制限もないと思いますが」
「それは──まあ、そういうことにもなるのやもしれぬな」
 此処になって、ようやく焉が劣勢に入った。
 むぅ、と悩む様子を見せる彼に、煌はずいと詰め寄って畳み掛ける。
「たしかに、この世界は善きものが退けられ、悪逆の徒が専横するものかもしれない。でも、それでもこれまで人は生き永らえてきた。その生き永らえてきた人々の全てが悪逆の徒とは思えません。きっと何処かで分岐点があるはずです。だから、あなたはもっと世界を見るべきだ。美しいもの、醜いもの。何であれ、経験を積まないよりはましでしょう。中華以外も滅ぼしたいのなら、色々な地域に足を運べば良い。見られるだけのものを全て見て、それから世界を滅ぼすか否か決めたらどうです?」
 一歩間違えれば煌の体は白砂に変えられてしまう。それを覚悟で彼女は進言したのだ。今砂になるか後で砂になるかの問題だったら、少なくとも後者の方が良い。
 焉はしばらく煌の顔をじっと見つめていた。彼の深い緑色の瞳の中に煌が映っている。その表情はあまりにも不安げで、より弱々しい印象を与えた。
……では、其方も付いてきてくれるのか?」
 焉の口から放たれたのは、思っていたよりもか細い声だった。
 ぽかんとする煌を余所に、焉は再び笑みを浮かべる。
「其方が我が旅路に同行するというのなら、世界の終焉を後回しにしても良いぞ?」
……っ、行きます。勿論、私もいっしょに行きますよ」
 良かった、と焉は口にしたが、そう言いたいのはむしろ煌の方だった。 何はともあれ、一先ず焉は世界を滅ぼさないことにしてくれたのだ。少なくとも、今すぐに煌が死ぬということはなくなった。
 まずは一安心──といきたいところだが、そう言ってもいられない。煌はすぐに自分の置かれている状況を思い出した。
「あの、焉殿」
「焉、で良いぞ」
……では、焉。まずは此処……宮殿から脱出しましょう。あなたが私の怪我をどのようにして治したのか、その他諸々の質問はそれからにさせていただきます」
「うむ、わかった。余も、其方に聞きたいことがたくさんある。故に、其方のことは必ず此処から連れ出してみせよう。しっかりと気を持つのだぞ」
「はい────はい?」
 煌が反応した時にはもう遅かった。焉は煌の体を横に抱えると、そのまま武具庫の中を疾走していた。
「な、な、な──⁉」
「少し揺れるぞ、舌を噛まぬようにな」
「あ、あなたこの宮殿の造りとか知ってるんですか……⁉」
「知らないぞ? まあ、勘で突き進めば何とかなるだろう」
「なる訳ないだろう! 私が指示を出しますから、その通りに進みなさい!」
 呆れるくらい前向きな焉に、ついつい煌の語気も強くなる。
 しかし焉が嫌な顔をすることはない。むしろ楽しそうな表情で「あいわかった」と答えたのだった。



 宮殿からの脱出が容易ではないということを、煌はよくよく理解していた。だからこそ、彼女は細心の注意を払っているのだ。焉に抱えられたまま、きょろきょろとせわしなく辺りを見回している。
 先程、煌はそのまま兵士たちのいる方向に突っ走ろうとする焉を何とか止めて、二人はかつて煌の父が使っていた専用の書斎へと移動した。新しく皇帝となった義兄はきらびやかなものばかりを好み、それ以外のものは放置している。この書斎も彼に放置されたもののひとつであった。
「其処まで警戒する必要もないと思うのだがなぁ」
 そんな煌を見て、焉はふにゃりと締まりのない顔で苦笑いした。かれこれずっと煌を小脇に抱えているというのに、彼は息を荒らげることもなくけろりとしている。
 相変わらず呑気な彼を、煌はじっとりとした目で睨み付ける。相手が人智を超えたモノであろうと、主張はしっかり通したい。
「警戒するに決まっているでしょう。相手はいくら馬鹿とは言え皇帝なんですよ。その権力の使い方もわからない愚か者が、私を逃がす程寛大だと思いますか?」
「皇帝に対して凄まじい言い様だな」
「本人が聞いていないならそれで良いんです。それに当たり前のことですし」
 つん、と煌は突き放すように言い捨てる。焉はやれやれとばかりに肩を竦めた。
 とにもかくにも、この宮殿及び京師にいる限り皇帝である義兄の目を欺くことは難しいだろうと煌は考えた。
 まだ皇帝の座に就いて間もない義兄だが、早速その権力を乱用しているところからしてこれからも好き放題にやっていくつもりなのだろう。父上が見たら怒り狂って下手すれば義兄上と彼を唆した者たちを根こそぎ処断しそうだなぁ、と煌はぼんやり思った。何を想像したところで父が戻って来る訳ではないということはよく理解していたが。
「とりあえず、この宮殿には父上とその血縁、そしてごく限られた者たちしか知らない抜け道があります。一か八かですが、其処を通っていきましょう」
「しかし、相手は其方の異母兄弟なのだろう? 彼方も抜け道の存在を知っておるのではないのか」
「この宮殿に通じている抜け道はひとつではありません。父上は、敢えて子供たちにそれぞれ別の抜け道を教えていたのです。……と、一番上の義兄上や義姉上たちの何人かがおっしゃっていました。ですから、皇帝である義兄上は私の通ろうとしている抜け道の存在を詳しくは知らないはずです。多少見張りを付けられている可能性はありますが、其処は気合いで振り切ってしまいましょう」
「其方は、見かけに似合わず豪胆なのだな」
「不敬ですよ」
 にこにこしながら割りと心に来る一言を放ってくる焉に釘を刺してから、煌は深く息を吸う。──大丈夫だ、きっとやれる。そう信じるしか方法はない。
 煌は焉に向き直る。焉は相変わらずにこやかだったが、ただ朗らかに笑っているという訳ではなさそうだった。
 その目は、煌を見極めている。これから彼女が何を口にするのか、彼は鎌首をもたげて待っている。
 焉は、煌などという小娘相手に怖じ気づくような存在ではないのだ。故に、彼は微笑んでいる。泰然自若として煌を見据えている。
……私がこれから為そうとしていることは、とてつもなく危険で、とてつもなく困難です」
 最早焉に見栄を張ることは出来なかった。胸の内に燻る恐怖と戦いながら、煌は告げる。
「もしかしたら、失敗するかもしれません。その時は、あなたのお好きなようになさってください。あなたまで巻き込む訳にはいきませんから」
……既に余は其方の計画に巻き込まれているようなものだぞ?」
……っ、いえ。それとこれとは、別の話です。今私が話しているのは、この宮殿を脱出するということ」
 一瞬、煌は言い淀む素振りを見せた。だが、すぐに焉を見つめ返す。
「とにかく、私はこれから危険を冒します。この宮殿から脱出するためには、あなたのご助力が必要不可欠です。私が絶体絶命の状態に陥るまでは、どうか私の指示通り動いてはいただけませんか」
「其方は、大胆なようでいて怖がりなのだなぁ。……いや、すまなかった。これも不敬になるかもしれぬのだったな。余に異論はない。出来る限りではあるが、其方の言う通りに動いてみるとしよう」
「ありがとうございます」
「ふふ、そう畏まらずとも良いのに」
 煌が緊張で固くなっていることをわかっているのだろうか。焉はよしよしとその頭を撫でる。煌は思わず、びくりと震えて身を引いた。
「すまない、嫌だったかな?」
 焉に悪気はないようだった。其処がなかなかに厄介だが、いちいち気にしては時間の無駄だ。煌は素っ気なく何でもありません、とだけ返しておいた。
「まあ、何はともあれ……頼みますよ、焉」
「任せておいて欲しい。余も、民のためならば一肌脱ぐとも」
 今の煌が頼れるのは焉だけなのだ。彼が乗り気になってくれているだけでも幸運といったところか。本人はむしろ楽しんでいるようにも見えたが。
 目を閉じ、呼吸を落ち着ける。やれるかやれないかではなく、やらねばならない。
 恐怖を何とか抑え込み、煌は未だ強張った表情のまま覚悟を決めた。



 新しく皇帝となった男は、まだ二十歳を過ぎて間もない青年だった。 きらびやかに飾り立てられたこの若者は、むすっとした表情で頬杖をついていた。
「煌を追わせていた陶鉄青らが消えただと? 冗談も休み休み言うが良い」
 彼の機嫌が悪い理由は、先刻持ち込まれた報告にあった。何でも、義妹である煌を処分せよと命じていた宦官の陶鉄青、並びに兵士たちが突如として姿を消したのだという。
 皇帝は特段鉄青を信頼しているという訳ではない。ただ、自分の言うことをよく聞き、服従する様子を見せているから命令を与えたに過ぎないのだ。
 故に、皇帝は姿を消した鉄青を許すことは出来なかった。今にも歯ぎしりをしそうな勢いの彼を、側にいた宦官が宥める。
「陶鉄青が叛意を抱いていたのかはわかりませぬ。しかし、陛下の義妹君はまだこの宮殿にいらっしゃるはずです。彼女に頼れる者はおりませぬ。きっとすぐに陛下の思う通りの結果となりましょう」
「だが、現に彼奴が死んだという知らせは入っておらぬ。何処を逃げておるのかわからんが、宮殿の兵士たちを総動員するのは御免だぞ」
「わかっておりますとも。義妹君が見つかるのも時間の問題にございます。そう焦ることはありますまい。ごゆるりとお待ちいただくのがよろしかろう」
側に控えている宦官に宥められて、一先ず皇帝は口をつぐむ。
 周りに侍っている側近たちは一斉にほっとしたようで、張り詰めていた空気の中に多少安堵の色が加えられた。
 皇帝が義妹である煌の存在を抹消したがっている理由は、彼の側近のほとんどが理解するところであった。
 ──いや、煌だけではない。皇帝は、皇族の血を引く者を父の殉死という形を用いて始末しようとしていた。
 彼や煌の父は偉大な人物だった。時に暴君と評されることもあるが、長きに渡る戦乱の世を終わらせ、中華世界の統一を成し遂げたのは紛れもない事実である。
 その父が亡くなったと聞いた矢先に、この若者は宦官や臣たちによって擁立された。嫡子でもないのに、である。
 まあ、言ってしまえば彼は傀儡にされようとしていたのだ。
 権力を欲する臣下たちは、自分たちの思うように動くこの青年こそが皇帝に相応しいと阿った。青年は彼らの思惑を気取ることもなく、有頂天で皇帝の座に就いた。
 だが、皇帝になったからと言ってそれで全て上手くいく、ということはない。彼にとって──いや、『彼を擁立させようとする手合い』にとっての不穏分子は何人も存在した。それこそが先代の皇帝の子供たちである。
……それにしても、兵士たちは何をしているのでしょうねぇ。義妹君は末子故、追わせた者たちの人数も他の方々より少なめにしておきましたが……。まさか、事前に計画が漏れていたのでしょうか」
「それはあるまい。煌は凡庸だ。父上の子の中で一番父上に似ている顔立ちというだけの小娘に過ぎない。特にこれといった力もないしな。そう手間取る程の存在ではないはずだ」
……その小娘に、実際手間取っているのですがねぇ」
 皇帝には聞こえない程度の声音で、彼を擁立させた宦官は呟く。
 聡明でないことは救いだが、この皇帝は少々傲慢に過ぎる。こうして我を遠そうとしてくる辺りが何とも厄介だと、宦官は溜め息を吐いた。
 皇帝にとって、煌が脅威と見なされることは父が死ぬまでほとんどなかった。
 彼女はあくまでも末子であり、しかも公主。女性の身で自分に楯突くことはあるまいと皇帝は踏んでいた。優秀な嫡子や義姉である公主たちから可愛がられていたのは事実だが、だからと言ってこれといった入れ知恵をされた様子もない。さっさと殺してしまえば問題はないだろう。 そう、皇帝は考えていた。よもやその煌に手を焼くことになるとは知らずに。
……か、陛下!」
 忌々しい思いで思案していた皇帝の耳に、やけに慌てた兵士の声が届く。彼は苛立ちを隠そうとすることもなく、舌打ちをしてから声のする方に視線を寄越した。
「なんだ、騒々しい」
「そ、それが……。現在捜索していた公主様が、自ら出頭なさられて……
 その言葉を聞くや否や、不機嫌に曇っていた皇帝の顔に笑みが生まれた。いっそ清々しいくらいの満面の笑みである。
「そうかそうか! して、彼奴に始末は付けたのか⁉」
「い、いえ……。ご本人が、一度で良いから陛下にお目通りを願いたいと仰せで……。如何致しますか、陛下?」
「通して構わぬぞ。どうせ彼奴には何も出来まい。最期に我が威光を目にしたいのだろうよ。ならば皇帝として、それに応えねばならぬ」
 皇帝は嬉々として伝令の兵士に告げる。兵士は戸惑った様子で、はぁ、と何とも言えない相槌を打った。皇帝の側近たちは、皆溜め息を吐きたそうな顔をしながらその場に屹立している。
 この皇帝は、感情が行動に影響を及ぼすきらいの人間であった。機嫌が良ければ太っ腹で気前が良くなり、不機嫌であればより一層残虐で横暴となる。現在は前者の状態だ。
 普通に考えてみれば、何の後ろ楯もなく、それでも逃げ回っていた煌がたった一人でやって来るのはあまりにも不自然である。彼女が何かを企んでいると考えても良いだろう。
 しかし皇帝は煌に疑念を抱くことはなかった。室内に控えていた兵士たちが、皆自主的に気を引き締めたのがせめてもの救いか。
 そうこうしているうちに、ぎぃ、と重苦しい音を立てて扉が開かれた。其処には、たしかに煌がたった一人で立っている。
…………
 煌は黙ったまま何も言わなかった。
 先程まで乱れ、解かれていた髪の毛は簡素ながらも結い上げられている。しっかりと簪も挿している辺り拝謁に気を遣ったのだろう、と皇帝は勝手に解釈した。
 煌は黙ったまま、しずしずと皇帝の方に向かって歩を進めていった。手には何も持っておらず丸腰だというのに、その足取りは毅然として澱みない。まだ二十歳にも満たぬ少女の身でありながら、確かな気品と風格を兼ね備えている。
 相手が皇族である以上、兵士たちや皇帝の側近は皇帝から命令が下されるまで煌に手出しは出来ない。皆固唾を飲んで事の成り行きを見守っている。

 そして、煌は皇帝の座す玉座を素通りした。

 素通り。まさかの素通りである。
 皆、煌は玉座の前で跪くか立ち止まるかのどちらかを選ぶであろうと考えていた。
 そんな矢先に、彼女は玉座を素通りしたのだ。まるで、皇帝など見えていないかのような素振りで、あっさりと。
「ふ……不敬なッ……!」
 皇帝が怒りに戦慄(わなな)くのも無理はなかった。彼はわなわな震えながら、最早後ろ姿を振り返る程度の距離まで進んだ煌を指差して金切り声を上げる。
「誰ぞ、誰ぞ、彼奴を殺せ!」
 兵士たちの構える剣の鋒が煌に向かう。それを感じ取ったらしい煌は、そちらに振り返ることもなく凛とした声音で叫ぶ。

「──焉!」

 その刹那、固く閉じきられていたはずの扉が一瞬にして瓦解した。扉だけではない。兵士たちの構える剣も同様である。壊れた、というよりは崩れた、と表現した方が妥当であった。
 そしてそれと同時に、扉の向こうから何かが弾き出されたように飛び込んできた。付近にいた兵士たちは、情けなくも「ひぃっ」と悲鳴を上げる。
「焉、此方だ!」
 その隙を煌は見逃さない。長い裾を器用にたくし上げて、彼女は一直線に走っていった。
 煌が向かう先は玉座から死角になる室内の隅。本来ならば行き止まりになるはずの場所だが、彼女はその壁を思いきり引く。其処は壁と見せかけた扉となっており、先の見えぬ暗闇が広がっていた。
 煌は躊躇うことなく暗闇の中に飛び込む。兵士たちも追いかけようとしたが、彼らを飛び越えて先程の侵入者が先行した。つい、と侵入者の視線が兵士たち、側近の者たち、そして皇帝に絡み付く。
……っ!」
 その視線の冷たいことといったら、思わず皇帝が身震いしてしまう程であった。そんな最中に焉と呼ばれた侵入者も暗闇の中に飛び込み、扉は完全に閉じてしまう。近くにいた兵士が押したり引いたりしてみたが、施錠されたのかびくともしなかった。
 ぎり、と皇帝が歯ぎしりする音が聞こえる。彼は顔を真っ赤にして、怒りを隠そうともしなかった。
「~っ、あの小娘……!」
「陛下、くれぐれもお言葉には気を付けられるように。何処で誰が聞いているかわかりませぬ故」
「左様なこと、わかっておるわ!」
 だんっ、と皇帝は肘置きを叩く。
 彼は酷く憤慨していた。煌を逃がしたことに、逃げた煌に、憤慨していたのだ。
「良いか、彼奴とその協力者を中華の外に出してはならん! そうなれば収拾が付かなくなるばかりか、野蛮な異民族に協力を仰ぎかねんからな。何としてでも、早急に彼奴らを抹殺せねばならぬ!」
「ええ、勿論ですとも、陛下。我が国には名うての凶手が多数おりまする。彼らを動員致しましょう。相手はたった二人、救援出来そうな人材にたどり着くまでに、どれだけの時間がかかりますやら……。奴等を始末するのに、そう手間取ることはありますまい」
 にぃ、と宦官が笑む。皇帝に何度か進言していた者だ。
 彼は激昂する皇帝とは対照的に、ひどく落ち着き払っていた。袖で口元を隠しながらくつくつと笑う。
「ふ、ふん。まあ、そうであろうな。我が国の脅威になることはあるまい。せいぜい一月逃げ切れるかどうかであろうよ」
 皇帝やその側近たち、そして兵士たちは宦官の言葉を聞いて安堵したらしい。無理矢理に勝ち誇った笑みを浮かべてふんぞり返る皇帝に、周りの者たちは直ぐ様首を縦に振って彼に同意したことを示した。



 煌の作戦は上手くいった。上手くいったはずなのだ。玉座の裏手から続いている抜け道を歩きながら、煌は自身の中で何度もそう反芻する。
(……なのに、この有り様と来たら)
 大きな溜め息を吐きたくなったが我慢した。この距離では相手に気付かれてしまう。
 松明を持つ焉は、どういう訳か不機嫌そうな雰囲気をかもし出していた。それが煌の心労の原因である。
 宮殿から脱出する作戦がほぼほぼ成功したのは良いものの、焉はどういった理由でか機嫌を損ねてしまった。先程から一度も口を利いてくれない。薄暗いので表情までは見えないが、恐らく彼は笑っていないだろう。彼の放つ空気はぴりぴりとして、肌を突き刺しそうな鋭さを湛えている。
 一体何がいけなかったのだろうか。自分は何かへまをしたのだろうか。もしかしたらこのまま世界を滅ぼされてしまうかもしれない。
 言い知れぬ不安感に鳥肌を立てていた煌を余所に、焉は突然立ち止まった。いきなりのことだったので煌は彼の背中にぶつかりそうになってしまう。
「え、焉……?」
 何とか焉の背中にぶつかるまいと急停止してから、煌は恐る恐る彼の様子を窺う。くるり、と振り返った焉の表情は、ぞっとするくらいに冷徹だった。
「も、申し訳ありません。何か、不手際があったでしょうか」
 これはちょっと機嫌を損ねている、なんてものではない。少しつつけばそのまま爆発してしまいかねない勢いだ。
 煌は喉元までせり上がってきた悲鳴を何とか圧し殺して、焉に謝罪の言葉を述べる。
……いや、其方に非はない」
 返ってきた焉からの台詞は冷たく凍てついている。自分が責められているのではないとわかるものであっても、煌の背筋はぞっと凍った。
 これ以上関わりたくはなかったが、このまま黙るのはさすがに気まずい。煌は一度も振り返らない焉の背中を見ながら、ぼそぼそと問いかけを続ける。
……ならば、何故」
「何故、余が機嫌を損ねているのか……と?」
……はい」
 焉は先読みの力でもあるのだろうか。図星を突かれた煌の語気は弱々しくなる。焉は表情を見せぬまま、ゆるりと言葉を紡ぐ。
「あの皇帝とやらとその周りの者たち。彼奴らのおぞましさに虫酸が走っただけだよ。あれは酷い、余の頃よりも酷い。あのような者たちが中華を統べようとは、呆れ果てて笑うことも出来ぬ」
……まあ、その気持ちはわかります。義兄上は馬鹿ですし、正直宦官や臣下の操り人形に過ぎませんから。多分、どうにかして手を打たないとこの国は数年か其処らで滅びますね」
「全くだ。あのような男が皇帝になるくらいならば、女子たる其方を皇位に就けた方がまだ良かったであろうな。……この国には、他に男子はおらなんだのか?」
 此方を見ることもなく、焉は煌に問いかけてきた。煌は気まずく思いながらも、彼の疑問に答える。
「それなりにいました。特に嫡子である義兄上は優秀で、臣下たちからも期待されておりました。私や他の皇族たちにも良くしてくださいましたし、まさに非の打ち所がない方でした」
……何故その子は皇位に就かなかった? 周りからも期待されておったのなら、今のような有り様にはならなかったであろうに」
「一応、父上はその義兄上を後継にしようとしていたらしいですけど……。恐らく、間が悪かったのでしょうね。義兄上は以前に父上とぶつかって辺境に左遷されていましたから、父上の死を知るのが遅かったのです。父上に随行していた今上皇帝……すなわち昏(ばか)義兄上やその奸臣たちによって父上の死が隠され、その令まで改竄されてしまいました。きっと優秀な義兄上は、昏義兄上からいずれ死を賜されるのでしょう」
 話しているうちに、煌の口振りには私情が込もっていった。皇帝のことをわざわざ昏義兄上、なんて呼んでいる辺りがまさにそうである。下手すれば不敬罪で首が飛びかねない発言だ。
 だが、煌が苛立っていることは確かである。嫡子である義兄には本当に可愛がってもらっていたのだ。煌も彼のことを慕っていたし、何かあれば彼が皇位を継ぐものだと信じてやまなかった。嫡子の方も、年の離れた義妹である煌のことを案じてくれていたのだろう。彼からは様々なことを教わった。
「きっと、嫡子たる義兄上を慕う者たちも昏義兄上によって始末されてしまうでしょう。この国は駄目になってしまう。父上がお隠れになられただけで、この国は脆くも崩れてしまう」
……しかし、余が見た限り、この国は先代の皇帝の頃から民の不安が絶えなかった。故に余が顕現したのだ。恐らく、民たちは其方の父に命を脅かされていたのだろう。世の乱れは収まらぬ。これからより増大していくに違いない。斯様な世に、其方は何を見出だす?」
 ぴたり、と焉の足が止まる。やがて振り返った彼の顔には、喜怒哀楽どの感情も浮かんではいなかった。
 ぐ、と煌は足を踏ん張る。恐怖に飲まれてはいけない、と自分に言い聞かせる。
 焉はこの世界に希望をこれっぽっちも抱いていない。だからこそ、彼はこの世界を滅ぼしたがっている。煌はそれを止めなければならないのだ。焉が『その気になった』のなら、彼に立ち向かわなければならない。
……つてがない訳ではありません。私にはまだ道が残されています。ですから、これからきっと良いこともあるはずです」
「この苦しみばかりの世でもか?」
「ええ。苦しみの中だからこそ、人は幸福を見出だせるものです。幸福と苦しみは平等に配分されるものでなくてはなりません。今享楽を謳歌する者はやがてそれらを失い、今苦しむ者は後に苦労が報われる。……そのようであると信じなければ、人間はまともに生きていけないでしょう」
 優れた功績をあげた者は必ず賞を与えられ、罪や過失を犯した者に対しては必ず罰を与えられなければならない、と煌は思う。それが世の常でなければ、この世が出来た瞬間から人々の秩序は崩壊していたことだろう。
 故に、煌は信じるのだ。生き抜けば、いつかその年月が報われる日が来るのだと。今の皇帝や奸臣たちには、いずれ罰たる報いが訪れるのだと。
 誰に何も与えられないままに世界を滅ぼされては困る。立ち止まったままの焉の前に進み出ると、煌は彼を見上げて告げる。
「行きましょう。いつ追手が迫ってくるかわかりません。この先を抜ければ宮殿の出口である城門の内部にたどり着きます。まずは其処から市井に抜けましょう」
「門番がいるのではないか? その者らはどうする」
「出来れば気絶させたいところですね。この服装のまま市井に出てはすぐに身元が明らかになります。出来れば庶民の中にいても目立たない格好になりたいですし、追手に私たちの情報が漏れるのも避けたいですから」
「しかし、門番がいなくなれば民たちも訝しく思うだろう。其処で余に考えがある。……大丈夫だ、まだ世界は滅ぼさないとも。余は其方に付いていくと決めたからな。出来る限り、其方のことは助けるつもりでいるのだぞ?」
 だから聞け、ということらしい。先程までの冷たく凍てついた雰囲気は何処へやら、すっかりもとの調子に戻っている。何とも切り替えの早いことだ。
……わかりました。して、あなたの提案とは如何様なものですか?」
断ったら後が怖い。そのため、煌は焉の提案を飲むことにした。せっかく機嫌も直りかけているようだし、焉が満足するならばそれに越したことはない。
 うなずいた煌を見て、焉の表情はぱっと明るく輝いた。そして、こそこそと煌に耳打ちする。
……大丈夫なんですか、それ」
「大丈夫だと言っておろう。とにかく、事の次第は余に任せておけ。きっと上手くいくぞ」
 本当かなぁ、と煌は思ったが口には出さないでおいた。気を遣ったのである。
 自信満々といった様子の焉は、再び先頭に立って歩き出す。そんな彼に一抹の不安を抱えたまま、煌はその背中を追いかけた。


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