@Southerndwarf
第一幕 さらば青空、向かうは地底
それは、きっと其処に住む者か、もしくはとんだ物好きな冒険家しか訪れないような辺鄙な場所にある、小さな小さな村だった。
その村の中心部からそれなりの距離を置いたところにひとつ、石造りの神殿があった。村人たちが近付くことはほとんどなく、神殿に入っていくのはたいてい神官のような出で立ちをした者だけ。彼らは一日にほんの二、三回ほど出入りするのが常だった。
そんな静謐とした神殿の中で、何やらもぞもぞと動くものがあった。
階層でいうと、三階辺りに位置する場所である。其処で、しゃらしゃらと金属のものと思わしき軽やかな音を立てながら、こそこそと動く影がひとつ。
夜闇の中にポゥとひとつ、松明の光が灯って何処と無く不気味な雰囲気を漂わせている。頭から毛布のようなものを被ったその影は、しきりに辺りをきょろきょろと見回していた。まるで何かに見つかるのを恐れるかのように。
不意に、その影が勢いよくしゃがみこんだ。毛布を頭から被っているせいか、その姿は饅頭か何かのように見えて滑稽である。
そんな饅頭が背にしている壁の向こう側から、焦ったような人の声が聞こえてきた。
「見つかったか」
「駄目だ、寝所にもいらっしゃらぬ。一体御子様は何処に行かれたのか」
「何としてでも見つけ出さねば、儀式に間に合わぬ。それだけは避けねばなるまい」
バタバタと饅頭がいるのとは反対方向に足音が遠ざかっていく。しばらくしゃがみこんだまま動かなかった饅頭だが、足音が完全に聞こえなくなると立ち上がって少しだけ毛布を持ち上げた。
其処から見えた相貌はまだ若々しいものであった。
少年とも少女ともつかない幼さを微かに残した中性的な顔立ちは、警戒一色に染まっている。松明の光に照らされるその瞳は燃える焔の如き色合いをしており、僅かな光さえも反射して綺羅めいていた。
さらりと毛布の隙間からこぼれ落ちる髪の毛も、瞳と同じく炎を宿したかのような、神秘的な色。普通の人間にはまずありえない代物だった。
長い髪の毛に中性的な整った顔立ち、そして炎をそのまま写し取ったかのような色の髪の毛と瞳。それら全てを持ち合わせるこの若者は人の手で触れてはいけないような、安易に関わってはいけないような雰囲気さえかもし出していた。不安に震える薄桃色の唇を噛む仕草さえ、可愛らしさよりも作り物めいた美しさの方が勝っている。
毛布の裾を少し引き摺りながら、饅頭こと若者はそろりそろりと隠れていた壁から離れる。そして、幾つもの開口部を有した渡り廊下のような空間へと出た。
夜風が通るせいか、それとも神殿が冷たい石造りのせいなのか、ひんやりとした空気が若者の頬を撫でる。
「……此程……高い所にあったのか。我が住まいは」
開口部から外下の風景を見下ろして、若者はひゅう、とひとつ息を飲んだ。
若者はこれまで外の風景というものを見たことがない。だからこそ、この高さに不安を感じたのだろう。
然れど、若者はその細く華奢な足を縁へとかけた。一瞬躊躇うかのように動きを止めたが、後ろを一度振り返って再び夜空へと視線を戻す。その目には何らかの決心と、そして仄かな恐怖が孕まれていた。
とん、と。
若者は何も言うことなく、夜空へとその身を投げ出した。
天に浮かぶ星々を、このような形でゆっくりと見たのは初めてだった。ぼんやりと星空を見上げながら、若者はたしかに地上へと落下していく。
……しかし、その華奢な身体が固い地面に叩きつけられることはなく、ふわりと若者は不思議な浮遊感に襲われた。
いざというときのためにと覚悟はしていたのに、つい目を瞑ってしまった若者が異変に気づくのはそう遅くはなかった。
恐る恐る若者が瞳を開いてみると、二つの黒い眸が此方を見つめているのがわかった。
「……投身自殺とは、感心できませんよ」
若者を受け止めたのは、女にしては背の高い、しかし格好は華やかな踊り子のようなそれだった。
僅かに波打つ黒髪を一本の三つ編みにし、彫りの深い魅力的な顔立ちをした人物である。若者とて決して小柄な訳ではないが、それにも関わらず軽々と落ちてきた若者を横抱きにして、しかも涼しい顔をして問いかけてくるではないか。
そのため若者は少しの間呆気に取られた。しかしすぐにぱっと表情を綻ばせて、横抱きにされたままその踊り子のような風体の人物へときらきらした視線を向ける。
「凄い、凄いな、そなたは! うむ、そなたは我が恩人だ! よくわからんが感謝するぞ!」
「……? あなたは、自殺を図ったのでは……?」
「否、我は自殺ではなく、脱出を図ったのだ。とにもかくにも移動せぬか? 此処ではそなたも狙われてしまうぞ」
「はぁ……承知致しました」
何処にどう転んだら自殺を図るのか──と思わせるほどに、若者は堂々としている上に明るい表情を浮かべていた。
そんな若者が腑に落ちないといった顔色で、しかしながら話の流れは理解したのか若者を助けた人物はこくりと首を縦に振った。
踊り子のような風体の人物に横抱きにされたまま、若者は神殿から大分離れたところまで連れて行かれた。其処にはまだ燃え続けている焚き火や幾つかの荷物がきっちりと整えられて置かれている。
地面に降ろされた若者は、興味ありげに己が恩人に問いかける。
「此等の荷はそなたのものなのか?」
「そうですよ」
「旅をしているのか?」
「そうでなければこのような所まで来ないものですよ。遊び心でヒマラヤまで来る者がいたらたまりませんから」
そんな風に恩人たる人物は口にしたが、若者はいまいち自分の住んでいるこの土地の地理をわかっていない。
封鎖的な空間でずっと暮らしていたということもあるが、それを学ぶことを許されていなかったのだ。神殿には数多の書物が納められていたが、その中に地図が描かれたものはなかった。
訝しげな表情を浮かべた若者に、はぁとひとつ溜め息を吐いてから踊り子めいた人物は続ける。
「──して、あなたはどうしてあのような場所から飛び降りたりなどしたのですか。普通死ぬか大怪我をしますよ」
「それは逃げるためだ。あの神殿に居続けたら近々我は殺されてしまうからな」
「……あなた、何をしたのです?」
踊り子めいた人物は眉を潜めて若者に尋ねる。若者は膝を抱え、しかし決して落ち込んだ様子を見せることはなく答える。
「我が生まれたからだ。我が生まれれば、いつか供物(くもつ)として精霊に捧げることになっている」
「精霊に……?」
「うむ。御霊宿りの子──というらしい。数十年に一度、精霊の気を体内に宿して生まれてくる子供がいるらしい。我は炎のように紅い髪の毛と眼だろう? 普通の人間には、まず有り得ぬ色合いだ」
「……それで、生贄にしようということになったのですね。辺境の村には精霊信仰を未だに貫いている所もあると聞きましたが、本当だったとは……」
「もしかしてだが、都では他の教えを信じているのか?」
「ええ、それはもう」
そうなのか、と若者の瞳が純粋な驚きに染まる。ずずいっ、と若者はわかりやすく踊り子めいた人物に近づき、見るからに相手から何か聞き出す気満々である。
見てくれは十代を半ばほど過ぎた頃に見える若者だが、その言動はどこか無垢な子供のようなものさえ感じさせる。……なぜだか物言いはやたらと尊大だったが。
「ふむ、そなたとの語らいはなかなかに面白いぞ。えー、その……」
「私の名前、ですか?」
「そう、そうだ! そなた、名は何という?」
問いかけをどうすれば良いのかいまいちわかっていないらしい若者に、踊り子めいた人物が合いの手を入れる。
しかしながら、なんとなく予想がついているというのにあえて答えることなく問いかけの内容を聞いてくる辺り、この人物も意地が悪い。案の定図星だった若者はわたわたと慌てている。
「私の名ですか、そうですね……エルト、とお呼びください。あなたのお名前は何というのですか」
「ないぞ」
「はぁ?」
落ち着き払って名乗ったエルトというらしいその人物だったが、自分が聞き返した質問に対して返ってきた若者の答えにすっとんきょうな声を上げた。これまで落ち着いた丁寧な口調で話していたのもあって、エルトが拍子抜けしていることがよくわかる。
「我にはもともと名などないのだ。御霊宿りの子というのは人間に非ず、半ば精霊のようなもの故な。そのため我のこれまでの暮らしは普通の人間のそれとは大きく異なるらしい。無礼と見なされる行動を取ってしまったら申し訳ない」
「……なるほど、そういうことだったのですね。それなら咎め立てるのは理不尽というもの、多少の不敬は大目に見ましょう。しかし、呼び名が無いのは少々困りますね。……あなた、呼ばれたい名前はありますか?」
「うーむ……そう言われると何とも言えぬな。これまで名前を付けられたことがない故……」
顎に手を当てて真剣に考え込む若者に、エルトは小さく嘆息した。まだ出会ってから少ししか経っていないが、それでもエルトは理解してしまったのだろう。
この若者の精神は幼子のそれに近い。純真で世間知らずで天衣無縫。騙そうと思えば容易く若者を欺くことはできるが、本当にそのようなことをして良いのかと思わせてしまう危うさを携えている。
故にこそ、エルトは難儀するのだ。この者、果てしなく御しにくい。
「……ヴィアレ、というのはどうです?」
少し思案してから、エルトは顔色を窺うかのように若者へとそんな提案を持ちかけた。
これまで機嫌の良かった若者だが、いつでもそうとは限らない。況してや、名前を付けることになるなんて、エルトも考え付かなかった。もしも若者の気にそぐわなかったのならどのような反応が返ってくるかわからない。
「……ヴィアレ、か……」
当の本人はというと、一瞬目を見開いてから訳ありげに顔を伏せた。
長い紅の髪の毛がぱさりと若者の頬にかかる。伏し目がちになった若者の表情は夜ということもあってかエルトからはよく見えない。
ごくり、と思わずエルトは緊張から唾を飲み込んだ。
「──良いっ!」
──のだが、若者が勢い良く顔を上げたことでエルトの不安は杞憂に終わった。
瞳をきらきら輝かせながら、たった今ヴィアレと名付けられた若者はぶんぶんとエルトの手を握り締めて上下に振る。
「気に入ったぞエルト! よし、我はこれからヴィアレだ! うん、良い響きだな! そなたには先程から感謝してばかりだ!」
「そ……そうですか。それなら何よりなのですが……」
「うむ、うむ! して、そなたに問いたいことがある。エルト、そなたは何故我が神殿の傍などに居たのだ? 彼処は村人でも近付くことを許されぬ場所、そなたは神官でも何でもないのだろう?」
機嫌が良いからか饒舌になるヴィアレだったが、エルトはというとヴィアレからの問いかけにさっと表情を曇らせた。エルトの黒い瞳が余計に暗く翳ったような気がして、ヴィアレは思わず身をすくませる。
僅かに緊張した空気が流れ、これまで明るく口を回していたヴィアレが静かになったことで雰囲気は一気によろしくないものへと変貌した。
「……私には、行かねばならない場所があるのです。そのために、私はこれまで旅をしてきました」
暫しの沈黙を破って、エルトがおもむろに口を開いた。その言葉にヴィアレはやや上目遣いになりながらもエルトの顔を見上げる。
「今宵一晩は身の回りのこともありますから、私が番をしておきましょう。ですから安心して眠りなさい。しかし私は明朝には出立します。此処にある程度の資金と地図を置いておきますから、あなたは都にでも何処にでも行くがよろしい」
そう言うと、エルトはこれ以上何も言わせまいとするかのようにぼふ、と自分の分なのであろう毛布をヴィアレに向けて軽く投げつけた。
もともと頭から毛布を被っているヴィアレからしてみればいらないものなのかもしれないが、エルトの纏う剣呑とした空気から突っ返すことは出来なかった。すごすごと二枚目の毛布にくるまって、ごろりと横になる他ない。
隣からエルトが溜め息を吐く音が聞こえたが、これまでの疲労からかヴィアレの意識は徐々に微睡みの中へと沈んでいった。
日が上ってからまだ間もない時刻、エルトは早々に荷物をまとめていた。
横では毛布に二重にくるまっているヴィアレがすやすやと規則正しい寝息を立てている。
そのあどけない寝顔をちらりと一瞥してから、その傍らに丸めた地図と金の入っていると思わしき皮袋を置いた。そして自分は荷物を背負い歩き出そうとする。──が、一瞬立ち止まると干し肉の入った箱と水筒も置いておいた。
「……無事に都に着けると良いですね」
そう呟いてから、エルトは今度こそ荷物を背負って歩を進めた。
ヒマラヤ山脈は地域により気候が異なり、現在エルトがいるこの場所は熱帯にあたる。そのため高山病などに冒されることはないだろうとエルトは踏んでいたが、万が一に備えてできるだけヴィアレが早く起きるようにと内心で祈った。
それからエルトは途中で休憩を挟みながら、黙々と道なき道を進んでいった。
特に大きな障害物に当たることもなかった──のだが、どうもエルトの表情は晴れない。
時おりちらちらと後方を確認するが、またすぐに前を向いて歩き出す。そんな行動を何回か繰り返しながらも、エルトは確実に目的地に近付いていた。
エルトの片手に収まっている地図には赤い染料で×印が付けられている。周りの状況から見るに、その印の付けられた場所はそう遠くにあるわけではなさそうだった。
「…………」
そんな中、エルトが唐突に足を止めた。その目がある一点へと向けられる。
其処にあったのはひとつの大きめの洞窟だった。人間なら容易く出入りできるだけの大きさを有している。けっこうな深さがあるのか、洞窟の中は不思議なほどに真っ暗だった。いっそ暗い、というよりは黒いと表現した方が適切かもしれない。
見るからに不気味なこの洞窟を、エルトはきっと穴が開くかと思わせるほどに睨み付けていた。……しかし、すぐにその視線は外されることとなる。
「っ、何奴!」
エルトはそう叫ぶや否や瞬時に身を翻すと、腰に引っ提げていた剣を素早く抜いて勢い良く地を蹴った。
弾丸のように飛び出したエルトが向かった先から、「うわぁ⁉」という明らかな驚きの声が上がり、何かが思い切り草むらに倒れ込んだ音が聞こえてきた。
目標物に避けられたエルトだったが、直ぐ様受け身を取ると、剣を構え直して改めて目標物へと体を向ける。
「……何故此処にいるのです、ヴィアレ」
つい先程まで殺気を漂わせていたエルトだったが、目標物──もとい、尻餅をついているヴィアレを見下ろしてからは、呆れたような表情を浮かべていた。剣を鞘へと戻してから、ヴィアレに手を貸してやり起き上がらせる。
ヴィアレはというと、「いてて……」と顔をしかめながらもあまり大きな怪我をしたわけではなさそうだった。目立った外傷はないので、せいぜい打撲といったところだろうか。エルトから差し伸べられた手を借りて立ち上がっていたが、平然とした顔付きで服についた土を払っているところから無事だということがわかる。
「べ、別に疚しい気持ちがあってつけてきた訳ではないのだ。そなたの事情に介入することが良いことだとは思わぬ。しかし、しかしだ。我には行き先がないと言っても過言ではない。故にそなたに着いて行こうと思ったのだ」
「ない訳がないでしょう。あなたは都に行くのではなかったのですか」
「初めはそうしようと考えていた。しかし、斯様な場所からやって来た者を、都の人間が歓迎すると思うか? 異教徒と見なされ、排斥されるのではないかと我は思うのだ。さすれば我は最早どうして良いのかわからぬ」
困ったように眉尻を下げるヴィアレの姿は何処と無く庇護欲を掻き立てるものであり、これにはエルトもぐぬぬと口をもごもごさせた。
なんとか手助けしてやりたい。しかし此処まで付いてこられると困る。そんな葛藤の末に、エルトは決断する。
「……良いでしょう。着いて来るか来ないかはあなたの勝手にしなさい」
「良いのかっ⁉」
「ただし、後から如何に後悔しようと私は責任を負いませんからね。それを理解したのならご自由になさい」
そのまま後ろを向いて洞窟へと向かっていくエルトを、ヴィアレは嬉々とした表情でパタパタ追いかけていった。まるでカルガモの親子のようである。恐らくヴィアレはその光景を見たことはないのだろうが。
「斯様な洞窟に何かあるのか、エルト?」
「それはあなた自身で確認なさい」
「……むぅ」
躊躇うことなくずんずんと進んでいくエルトの背中を追いかけながら、ヴィアレは好奇心から質問を投げ掛ける。しかしエルトから返ってきたのはすげない返事であった。ヴィアレは見るからに不服そうな表情を浮かべたかと思うと、歩く速度を早めてエルトに並走する形を取った。
足の長いエルトの歩幅はヴィアレのものよりも広い。そのため、ヴィアレが頑張って早歩きをしなければすぐに距離が開いてしまうのだった。
初めは強気だったヴィアレだったのだが、進んでいくうちに段々と暗くなっていく視界に不安を覚え始めたらしい。ちゃっかりとエルトの服の裾を掴み始めた。
ヴィアレのことは無視しようとしていたエルトだったが、これにはさすがに反応しない訳にもいかなくなったようで、じっとりとした視線をヴィアレに突き付ける。
「私の服を掴まないでください。怖いのなら帰れば良いでしょう」
「こ、怖くなどない! 何処に行くのかわからなくて不安なだけだ!」
「怖いんじゃないですか……」
「それで、だ! エルト、そなたは一体何処に向かおうとしているのだ⁉ 洞窟の中に何かあるというのか⁉」
もう遠慮など皆無と言わんばかりに引っ付いてくるヴィアレに業を煮やしたのか、エルトは「わかった、わかりましたよ! 教えてあげますからまずは離れなさい!」とこれまでの落ち着いた物言いとはかけ離れた声を上げた。
「私が向かうのは地の底です。陽の光など全く当たることのない、深く暗い場所」
ぴたり、と歩くのを止めて、エルトは呟くような声音で言う。洞窟の中ということもあってかエルトの声は反響し、二人の立っている空間によく通った。
異様な雰囲気ということもあってか、ヴィアレはぐっと唇を噛んで数歩後ずさる。そんなヴィアレに振り返りながら、エルトは全くの無表情で続けた。
「その地の名はシャルヴァ。光を捨てて地底へと逃げた人々の創り出した理想郷ですよ」
「シャル……ヴァ……?」
聞いたことのない単語だ、とヴィアレは思った。外に出たことがないので、当然と言えば当然なのだが。
ヴィアレの反応はなんとなく予想がついていたのか、エルトは軽く肩を竦めた。
「まあ、知らずとも良いのですよ。むしろ知らないでいてくれた方がずっとましだ」
冷ややかな視線を向けられるものかと考えていたヴィアレだったのだが、エルトからの返しは至極穏やかなものだった。
目をぱちくりとさせるヴィアレに「先に行っていますよ」と告げてから、エルトはまたずんずん歩いていく。慌ててヴィアレもその背中を追いかけた。
エルトは躊躇いなくずかずかと進んでいく。洞窟は奥に行けば行くほど暗くなっていき、ついには太陽光さえ入らなくなった。さすがのエルトも蝋燭に火を灯したが、それでも足場が悪いのに変わりはない。
ヴィアレは二重にくるまっている毛布のどちらか片方をぎゅっと握り締めながら、それでもエルトに着いていった。エルトの方も観念したのか、ヴィアレに歩幅を合わせてくれている気がしないでもない。──あくまでヴィアレの気のせいかもしれなかったが。
そうこうしているうちに、不意にエルトの足が止まった。唐突に目の前で立ち止まられたためにヴィアレはその背中に危うくぶつかりそうになってしまったが、なんとか踏ん張って耐えることに成功した。
「何かあったのか?」
何も言おうとしないエルトを見かねて、ヴィアレもひょこりとその背中から顔を出す。エルトはヴィアレよりも頭ひとつ分程背が高いために前に立たれると前方が見えない。
其処にあったのは古ぼけた大きな扉だった。その左右には獅子の彫刻が鎮座している。遺跡の一角かと思わせる光景に、ヴィアレも思わずごくりと生唾を飲み込む。
そんなヴィアレを尻目に、エルトは真っ直ぐに目の前の扉に向かい歩いていくと、まさに目と鼻の先といった距離で立ち止まった。
「…………」
エルトは何も言わない。ただ無言で、目の前の扉を睨み付けるだけである。
正直なところ、ヴィアレは開かないのならこんな暗いところは早く出てしまいたかった。しかし、その望みはすぐに断ち切られることとなる。
左右に鎮座していた獅子の彫刻の目が、突然に光ったのだ。右は赤、左は青。暗かった洞窟が一瞬にして明るくなり、ヴィアレの視界はちかちかとした。
そうしている間に重い音を立てて扉が開いていき、エルトがその中に向かって真っ直ぐに歩いていく。進もうか戻ろうか、そんな葛藤がヴィアレの脳裏に浮かぶことはまずなく、エルトの背中をまた急ぎ足で追うしかなかった。
「……これは」
ヴィアレは扉を潜り抜けると、エルトを追うことなど忘れて周囲の光景に魅入ってしまった。
先程まで周りは光を通すことなく、不気味なまでの暗闇であったが、扉を抜けた瞬間温かな明かりに包まれたのである。
それもそのはず、扉の向こうにあったのは一種の街だった。煉瓦造りの家が建ち並び、至るところに灯籠が設けられているために外部とは比べ物にならないくらいに明るい。道行く人々は皆生き生きとした表情で生を営んでいる。
そして、見上げた先の天井には、見事としか言い様のない巨大な曼荼羅が描かれていた。
「何をぼうっとしているのですか。見惚れるのはわかりますが、まずは私に着いて来なさい」
立ち止まったヴィアレのもとまでわざわざ戻ってきたエルトは呆れ顔だった。
腕組みをして溜め息を吐いているが、本気で怒っているという訳ではなさそうだ。むしろ子供をあやすかのような素振りである。詰まるところ、エルトには謎の余裕があった。
「……全く、呑気なものですね。無知は時に人を救うとは言いますが、これ程とは……」
「なんだエルト、我を馬鹿にしているのか? だとしたらそれは良くないぞ」
「何処目線から話しているんですか、あなたは……。良いですか、あなたがもしもシャルヴァについてもっと学習をしていたのなら、今こうして生きていられることを喜んでいるはずなのですよ」
自分が馬鹿にされているという自覚はあるというのに、怒ることも機嫌を損ねることもしないヴィアレはエルトからしてみれば異常としか言い様がないのだろう。
これまでの付き合いでエルトはヴィアレの面倒臭さを重々承知しているつもりだったが、まだまだ振り回されていると思う場面が多い。ヴィアレにそのつもりがないのがこれまた厄介だ。
「あの獅子の彫像は入国者を見定めるもの。シャルヴァに相応しい人間ならば先程のように瞳を光らせるだけですが、相応しくないと判断されれば彼らは容赦なく私たちの息の根を止めていたでしょう。つまりは命懸けなのですよ、シャルヴァへの入国は」
「そうなのか。全く知らなかったぞ」
「……まあ、無事に入国出来たのですから此処で文句を垂れても無意味でしょう。ともかく、ヴィアレ。あなたはこれからどうしたいのですか。それによって私の予定も変わってくるのですが」
何処かで選択を間違っていれば今この場に立っていることすら出来なかったというのに、ヴィアレは取り乱すことなくしれっとしている。感情が欠落しているという訳ではないのだが、エルトはそんなヴィアレを少し恐ろしく思った。
ヴィアレからは死に対する恐怖というものが全く見受けられない。そうでなければ、あの高さの神殿から飛び降りようとは思わないだろう。
あの時エルトが受け止めていなければ少なくとも怪我は免れていなかっただろうし、運が悪ければヴィアレは彼処で死んでいた。それほどまでにヴィアレの行為は危険極まりなかった。
「うーむ……左様に問われてもな。我に行き先はない。そなたに着いていくことしかできぬのだ。そなたさえ許すのなら、我はそなたに着いていくぞ」
「……それ、本気で言っているんですか? 私の行く先がどのような場所でも、あなたは付いてくると言うのですか?」
「ああ。そなたは聡明に見えるのでな。よっぽどのことが無ければ、まかり間違うことはなかろう。それに、我はそなたに恩を返したいのだ。何か手伝って欲しいことがあるのなら、我なりに力となろう」
「……そうですか。ならば止める理由はありません。あなたには私に同行していただきましょう」
ヴィアレにはこれ以上止めても無駄だとわかったのだろうか、エルトはそう言うとそっぽを向いて再び歩み始めた。
ヴィアレは心なしか嬉しそうな表情を浮かべてエルトの元まで駆け、横に並ぶ形となる。二人並んで歩く姿は、何処と無く彼らが同胞であるかのようにも見えた。
シャルヴァの街は、控えめに言っても繁栄の二文字を欠かせないほどの賑わいぶりであった。
様々な商品の売られている市場には見向きもせずに歩くエルトとは対照的に、ヴィアレはしきりにきょろきょろ興味深そうに辺りを見回していた。本当ならば商品に近寄ってみたいのだろうが、エルトに着いていくと言った以上離れられないのだろう。それでも後悔する様子を一切見せることなくエルトを追いかけている。
「エルト、そなたは何処へ向かおうとしているのだ? 行き先はもう決まっているのか?」
「当たり前でしょう。初めから私は計画を立てていますよ」
「成る程、やはりそなたは聡明にして冴えておるのだな。それで、その行き先は?」
「……東の市です。此処よりも寂れているところと聞いているので、あなたの望むものは売っていないでしょうが……其処は妥協してください。それからその髪の毛は極力隠しておくこと。私の目的は、決して買い物などではありませんからね」
釘を刺すかのようなエルトの口調に、あからさまにしゅんとした空気をかもし出すヴィアレ。買い物をしたかったのは本当だったようだ。生涯埃臭い神殿で生きてきた人間が、活気溢れる市場での買い物というのは非常に魅力的なのかもしれない。
そういったやり取りも踏まえつつ、二人は街の東側へと歩を進めていった。初めは賑々しかった市場だが、歩いていくうちに段々と人が少なくなっていく。というよりは、武装した人間も度々見受けられることから単純に人々が近寄りがたいのだろう。
それでもエルトに臆する様子はない。実際に見たことはないが、兵士という概念を理解しているヴィアレはやや肩身が狭そうだった。怖いもの知らずなヴィアレではあるが、空気が読めない訳ではないらしい。
「……どういうことなのだ、エルト。なんだか空気が変だぞ。このようなところに市場などあるのか?」
「ありますよ。ほら、彼処を見てご覧なさい」
エルトが指差した先は柵に囲まれた一角であった。柵の前には武装した兵士と思わしき人間が二人ほど仁王立ちしている。
進んでいくうちに、柵の内側には先程見てきたものに比べたら寂れているなどという程度ではない、簡素な市場のようなものが設けられていた。
「あ、あのようなところに何の用があるというのだエルト⁉ なんだか怖いぞ⁉ 多分まともな品は置いていないぞ⁉」
「……怖いのなら戻ればよろしいと何度言わせるのですか。私に付いてくるとは、そういうことですよ」
「う、うむむむ……!」
ぴしゃりとエルトに言い放たれて一瞬立ち止まろうとしたヴィアレだったが、こうなったら意地でも着いていくつもりなのか地団駄を踏むかのような足取りで再び歩き出した。
柵の近くまで歩いていくと、其処にいた兵士が此方に視線を向ける。良い感情とは言い難いそれに慣れていないヴィアレはつい縮こまってしまったが、エルトは気にする様子もない。彼らに一瞥することもなく、堂々とした足取りで市場へと入っていった。
「……う、うぅ。なんなのだ、あれは……」
「諸々の事情は後程お話しますよ。とりあえず今は私の言う通りにしなさい」
エルトの背中に引っ付きながらぶるぶる震えているヴィアレだったが、引っ付かれている側がそれを引き剥がすことはしなかった。そのため非常に歩きづらそうである。
エルトはヴィアレを背中にくっつけたまま、幾つか品物を見るような素振りを見せた。しかし実際には明らかに見ている振りだ。商品よりもむしろ辺りの状況の方に注視し、視線は兵士たちや周りの人々に向けられている。
隙のないエルトをぼんやりと眺めていたヴィアレだったが、突如そのエルトに襟首を引っ張られた。
「此方へ。声を出さないでください」
「──⁉」
声を出すなとは言われたが、そもそもそんな暇はなかった。
エルトに半ば力任せに引っ張られ、ヴィアレはつんのめりながら後ろへと倒れ込む。どういう訳か、一気に視界が暗くなった。
「な、何を……もごっ⁉」
何をするのだ、と抗議しようとしたヴィアレの口はエルトの手によって塞がれた。もごもごと奮戦していたヴィアレだったが、自分たちが今近くにあった荷馬車の荷台にいることに気づいて静かになる。
エルトは、上に被せてあった布の中に潜り込むことで姿を隠したのだろう。この近くは人通りも少ないので、静かにしていれば周りの人物に気づかれることはなさそうだ。誰かが先程の場面を見ていなければ、の話だが。
「……ヴィアレ。あなたにひとつ、話をしましょう。この荷馬車が動き出すまでにはまだ時間があるでしょうからね」
隣で伏せていたエルトがつ、と近寄り、珍しいことに自分から話を振ってきた。その声音はやけに静かで、だがしかし不思議と重苦しい。
嫌でも耳に残りそうな吐息混じりのそれに、ヴィアレは無言でエルトの方を向くと、こくりとうなずいた。
「これはシャルヴァ──否、人が理想郷と謳う地で起こった、あるひとつの悲劇です」
幕間 シャルヴァなる地
日の目を見ながら暮らす人々は、必ずこう言ったものだった。
──シャルヴァ、それは地底に築かれた理想郷。五大の恩恵を受けし神代の都。其処に行けば、地上で味わうような苦しみは二度とない、と。
だがしかし、それは全くの虚偽である。
シャルヴァの中は地上と然程変わりない。数十年前までは幾つもの小国が連なっており、各々の国ごとに内政は異なっていた。ある国は善政を敷いていたかもしれないし、またある国は圧政を敷いていたかもしれない。
今となっては詮無きことだが、その辺りがどうだったのか、かといって知りたいと思わない訳ではない。時には過去に目を向けることも肝要だ。
閑話休題。
とにもかくにも、最終的にこの地底の理想郷に残ったのは二つの大きな国だった。
シャルヴァの東側を領地としたエーカム国と、西側を領地としたティヴェラ国。どちらの国も長き時を駆け抜けてきただけの技量は持ち合わせていた。だからこそ、小競り合いはあっても大々的にぶつかることなどほとんどなかった。
このシャルヴァでは力なき民よりも、もともとシャルヴァの生まれの者に多い神代の名残とも言える戦闘力を持った人間を兵士として扱う風習がある。そのため民が徴兵されることはほとんどなく、戦争といっても民にはあまり実感のないものだった。
いざとなれば強国に逃げれば良いし、たいていの力なき民はたとえ敵国の者であれ恭順の意を示したのなら受け入れてもらえるようになっている。実際に戦争らしい戦争というのはほとんど起こることはなく、民の減少に国家が立ち行かなくなり、その国の王族が強国に降伏する形が多かった。
無辜の民の殺戮などなく、最終的には平和的に解決する。まさに理想郷と、何も知らない民は謳ったものだ。
──だが、それが通じたのはあくまでも十年前までの話。
十年前、突如ティヴェラ国はエーカム国に戦争を仕掛けた。
何の前触れもなく軍を挙げたティヴェラ国と、戦争が勃発するとは予期していなったエーカム国。エーカム国の領土は日に日に蹂躙されていった。如何に国土が広かろうと、エーカム国が慌てて軍を挙げようとも、戦力差が埋まることはなかった。挙げ句の果てには出陣した王と何人もの王子が討ち死にしてエーカム国軍は内部から瓦解していったというのだから本末転倒だ。
王宮に残っていた妃や王女たちも、その後王宮に進軍してきたティヴェラ国軍によって殺害されたという。一説には、ティヴェラ国軍の兵士たちが駆けつけた頃にはもう王族はほとんど死亡しており、瀕死の者が殺してくれと嘆願していたという話も聞く。大方、王族のうちの誰かが狂乱したのだろうと噂されているが、真偽は定かではない。
王族全員分の遺体がなかったことから外界落ち──シャルヴァから地上世界へと逃げたのではないかとまことしやかに囁かれているが、これもあくまで仮説に過ぎない。古き歴史を持つエーカム国の王族が滅亡するはずがないと信じたい人間によるものなのだろう。
こうして、シャルヴァの地はティヴェラ国によって統一された。とはいってもエーカム国の領土であったシャルヴァの東部は捨て置かれたにも等しい。今もこうして限られた地域でのみ商業を許され、廃れ、寂れた地で細々と故郷を捨てきれなかった人間が生活しているのみだ。
だからあえてこう言おう。
シャルヴァが地底に創られた理想郷などという話は真っ赤な嘘である。シャルヴァというのは、むしろ地上よりも醜悪な地獄に過ぎないのだから。
第二幕 王子の帰還
これまでのシャルヴァ史を一通り話し終えたエルトは、ふぅとひとつ息を吐いてからちらとヴィアレに視線を向けてきた。
それは黒曜石のように澄んだ黒である。その瞳を縁取った長い睫毛も、ぱっちりとした瞳の形も全てが計算されているかのように整っている。
それを向けられて普通は平然としていられるものではないが、ヴィアレは例外だった。ぱちぱち、と何度かまばたきをしてエルトを見返す。
「して、結局のところ、エルトは何が言いたいのだ? 親切に教えてくれたことは助かったが、いまいち意図がわからぬでな。馬鹿と罵られる覚悟はしておるぞ」
「……いいえ、お気になさらず。回りくどい言い方をした私が悪かったですよ」
がっくり、という効果音が似合いそうな感じで項垂れるエルトを、ヴィアレは不思議そうな表情で見つめていた。どうしてこの人は落ち込んでいるのだろうか、とでも言いたげな顔だ。
そのままつんつん、とエルトをつつこうとしたヴィアレだったが、突然「わっ⁉」と声を上げた。
「なんですか、静かになさい」
「そ、そなた、我の髪を触ったか⁉」
「触るわけないでしょう、大体……」
この距離でならすぐわかるはず、と言おうとしてエルトは口をつぐんだ。
荷台に被せられている布地の上から、たしかにさわさわと此方を触ってくる感覚が伝わってくる。初めは恐る恐るといった風だったが、次第にがしがしと手つきが強くなっていく。
二人して体を強張らせていると、布地の上の手は其処から離れた。そして、突如として視界が明るくなる。
「──え」
嗚呼、布を退けられたのだとエルトが認識するのと、その先にいる人物と視線がかち合ったのはほぼ同時だった。
其処にいたのは十代半ばほどの小柄な少女で、驚きからか目を丸くして固まっていた。どうやら布を退かしたのはこの少女らしい。
艶やかな黒髪を肩口に届かない辺りで切り揃えた、色の白い少女である。東洋系の血筋なのか、彫りが浅く涼やかな顔立ちをしていた。ぽかん、という効果音がこれほどまでに似合うだろうかとばかりの表情で、その切れ長の目を見開いている。
暫しの間、彼女は二人のことを見下ろしていたが、やがてばさりと布を投げ捨てるようにして荷台に戻した。
顔面に当たったらしいヴィアレが「うぇっ⁉」と叫ぶ。しかし少女はそれに気を留めることもなくどたばたと駆けていく。
「うっ、あ──ウェンさぁん……!」
「ま、待て! 誤解なのだ!」
「馬鹿、追いかける奴がありますか!」
なぜか誤解を解こうと荷台から飛び出すヴィアレを、エルトは必死に引き戻す。しかしヴィアレの力は思ったよりも強く、エルトでさえも引き留めるのに苦労することとなった。細い身体に似合わず力はそこそこあるようだ。
「おぅおぅ、どうしたよ。お前が人を呼ぶなんて珍しい……な…………」
荷台の上の二人が押し合い圧し合いしている間に少女は連れを伴って戻ってきた。伴って、というよりはその連れの背中に隠れているような形になっている。
少女が連れてきたのは亜麻色の髪の毛を無造作に結わえた、体格の良い青年だった。むさ苦しいという訳でもなし、かといって貧弱でもない清涼感を感じさせる美丈夫である。
彼は初めはけらけらと笑っていたが、荷台にいるヴィアレとエルトを見るや否やその語尾を空気に溶かしていった。一気にその場の雰囲気が何とも言えないものに変わる。
「……こいつら、お前の知り合いか?」
「ちっ、ちが、違います……! 私、こんな人たち、知りません……!」
「……だよなぁ」
焦っているせいか声は掠れ、吃り気味になりながらもなんとか否定の言葉を伝えた少女の顔を見て、青年は困ったように頭を掻いた。
少女の方はというと、警戒心むき出しといった様子で此方を見ている。青年の逞しい背中を盾にして此方を睨み付ける様子はさながら人見知りの激しい子猫のようだ。
「……ナラカ、とりあえずお前はリリウム姐さんかアシェリム辺りの馬車に乗せてもらえ。こいつらは俺がなんとかする」
「い、良いんですか……?」
「こんな馬車に乗り込んでまでこっちに来たいってんなら、俺たちが止める理由はないさ。連れていくくらいなら咎められもしないだろう。まずは様子見だ、様子見」
青年の言葉に、ナラカと呼ばれた少女はこくりと小さくうなずいてぱたぱたと他の人々が集まっていると思わしき方向に走っていった。その小柄な背中をしばらく見送ってから、青年は停めていた馬に荷台を連結させる。
「……あー、手始めに聞いておくがな、嬢ちゃんたち。あんたら、本当にこっちに行こうと思ってるのか?」
「無論です。此方の者はどうだか知りませんが、少なくとも私に二心はありません」
「わ、我だって承知の上だぞ!」
反射的に言い返したヴィアレを見て、青年はぶふっと吹き出した。
そんな彼の意図がわからなくてむっとした表情を浮かべるヴィアレに、青年は詫びるかのように両手を合わせる。
「いやぁ、悪い悪い。そうだよな、覚悟決めてなきゃこんなところに潜り込んだりしねぇよ。よし、出発だ。ついでだから俺たちの集落に着くまで駄弁ってこうぜ」
からっとした口調でそう話す青年は、なかなかに陽気で気さくな性分をしているらしい。エルトはやれやれとでも言いたそうに眉間を押さえていたが、少なくともヴィアレはこの青年に好感を抱いた。
馬車の持ち主である青年はウェントゥスと名乗った。シャルヴァの生まれではあるのだが、遠いご先祖様がどうやら西方の生まれだったらしく、そっち系統の名前を付けられたのだという。
彼によると、シャルヴァが存在するのは東はチベットから西は印度まで続く地域なのだという。つまりヒマラヤ山脈の真下にあるから、やはりその辺りの文化が強いらしい。
ウェントゥス、という名前は少々堅苦しく本人としても居心地が悪いので、彼は周りに自分のことを愛称の『ウェン』と呼ばせているとのことだった。
「俺たちの住んでる東側は、どちらかと言えばチベットに近いな。あんたらが入ったのは十中八九印度側だろうよ」
「待ってくれ、ウェン。我は地理に詳しい訳ではないが、印度からチベットに行くのはさすがに無理があるのではないか? そんな、馬車で行くには気軽すぎやせぬか?」
事も無げに言ってのけるウェントゥスではあったが、世間知らずなヴィアレでさえもそれには突っ込まざるを得なかった。
チベットから印度の距離なんて、こんな荷馬車でなんとかなるものではない。たしかにシャルヴァには地上のような山々がないので、いくらか旅路を阻むものが減るのだろう。
だが、それでも限度というものがある。平坦な距離であろうと、印度とチベットの間の距離がどうにかなるものではない。馬車で向かうとなれば、少なくとも数日はかかるはずだ。
そんなヴィアレからの指摘に、ウェントゥスは「まあ仕方ないわな」と苦笑いを浮かべる。
「にわかには信じられないかもしれんが、このシャルヴァには五大の力ってのが未だに働いててな。ちょっと工夫さえしちまえば、地上じゃ無理だと言われることだってけっこうさらっと出来るもんなんだ。それに俺たちの住んでる集落はあの市場からそう遠くないからな。飛ばしていけばすぐだぜ、すぐ」
「五大、とはなんなのだ?」
「その点については私から説明しましょう」
再びウェントゥスに問いかけたヴィアレの言葉に被せるようにして、横でこれまで一言も発することなく静かに馬車に揺られていたエルトが口を開いた。
「シャルヴァはもともと神と人との関わり合いが強かった時代……すなわち神代において、この周辺で権勢を誇っていた国の王族が、隠居の場として開いたものです。そのため、今では魔法やまやかしと呼ばれる力も同時に持ち込まれました。当時の王族は神々とも密接に繋がっていましたからね、それくらいのことは造作もなかったのですよ」
そしてエルトによると、五大というのは印度において発達した哲学における、あらゆる世界を構成しているとされる五つの要素のことだという。俗に言う地水火風の原理、其処に空と呼ばれる性質が加わったものがいわゆる五大と呼ばれるものである。
大地・地球を意味し、固い物、動きや変化に対して抵抗する性質を持つ地。流体、無定形の物、流動的な性質、変化に対して適応する性質を持つ水。力強さ、情熱、何かをするための動機づけ、欲求などを表す火。成長、拡大、自由を表す風。これらに加えて、虚空、空間、天空を意味し、しばしば悟りの境地を表すこともある空。これらを合わせて五大と呼ぶのだ、とエルトは言った。
五大はあくまで地上では自然界を構成する要素として扱われるものである。しかし、神代の力を絶やすことなく閉鎖的な存在を保ってきたシャルヴァでは、自然的にそれらの恩恵をある程度受けられるだけでなく時に個人の力として手にすることも不可能ではないという。
「シャルヴァで生まれた人間には、ある程度五大に対する適性があります。ですが、それはまだ人間の範疇での話です。個人の力として五大の力を手に入れた者は、その要素を元として人間離れした能力を得ることとなります。もっとも、そういった人間はたいていが要職に就いているものですから、そう身近な存在とは言えないかもしれませんがね」
「つまり、一部分だけに特化した魔法使いのようなものなのか?」
「そういうことになるな。シャルヴァで使われている馬車は、大体が風の適性を持つ職人が造ったものなんだ。だからこうやって、地上の数倍の速さで進むことが出来るんだよ」
エルト及びウェントゥスからの説明を聞いて、ヴィアレはまだしっくり来ない部分がありつつもなんとなく自分の示した疑問点について納得することができた。
何はともあれ、郷に入れば郷に従えという奴だ。シャルヴァの慣習や常識はこれから覚えていけば良い。とりあえず概要は理解できたので一段落だ。
「エルトは凄いな、シャルヴァのことならなんでも知っているのではないか? 何も見ずに斯様な説明が出来るなんて、只人の所業ではないぞ」
「……あなたねぇ、それは褒めているんですか?」
「まあまあ嬢ちゃん、ぴりぴりしなさんな。そっちの紅い嬢ちゃんはあんたのことを褒めてるんだろうよ。俺からしてみても、此処まで調べ上げた奴なんてそうそういないからな。感心せずにはいられるかっての」
「……そういうものなのですかね。私にはわかりかねます」
「ははは、まあ考え方は人それぞれだ。嬢ちゃんが好きなように受け取ってくれて構わんさ。……ほら、見てみろ。彼処に見えるのが、俺たちの集落だ」
片手で器用に手綱を操りながら、ウェントゥスは前方を指差してみせた。ヴィアレは身を乗り出して注視し、興味なさげなエルトもちらと視線を彼が指差した方向へと向ける。
見えたのは幾つもの簡素な石造りの家々である。どれも小ぢんまりとしていて明らかに大きいものは見受けられず、村ではなくあくまで人が暮らすための集落であることが二人の目にも理解出来た。
段々と近づき行く集落に、ごくりと生唾を飲み込む音がウェントゥスの耳に入る。しかし、彼はそれが誰のものかを察することは出来なかった。
集落に到着すると、荷物の搬入や仕分けがあるとのことで一旦ヴィアレとエルトは馬車から降りるようにと指示された。
ウェントゥスによると、此処の集落は人口が少ないらしく、今日のように市場に出るときにはたいていの人間がそちらへ向かうのだという。それもあってか、集落はやけにがらんとして見えた。
「ああ、そうだ。たぶん皆後片付けで忙しいだろうから、体を洗いたいなら今のうちに洗っておきな。あっちの方にちょっと行ったところに井戸があるから、其処を使うといい。そう遠くないからすぐに見つけられるさ」
「わかりました」
去り際のウェントゥスからの言葉に、相変わらずの無表情でエルトが応じる。
そのまま片付けの方に入るウェントゥスを一瞥もせずに、エルトは荷物をまとめてヴィアレに振り返った。
「私は軽く体を流してきますが……あなたはどうしますか? 使うというのなら先に使って構いませんが」
「いや、我は良い。皆の手伝いをしたいからな」
「そうですか。では誰かに聞かれたら、私は体を洗いに行っているとお伝えください。仮にも不埒者を見つけたら、決して私のいるところに行かせないこと。そして此方の木札を集落の方々に配っておきなさい。良いですね?」
「う、うむ」
凄まじい圧をかけられた気がして、エルトから手渡された木札の束を抱えながらヴィアレはたじたじといった様子で何度も首を縦に振った。その様子をちらりとだけ見て、エルトは先程ウェントゥスが指差した方向へと歩き始める。
真っ直ぐ進んでいくと、彼の言っていた通りに井戸を見つけることが出来た。立派なものとは言い難いが、一人で使う分には差し支えがなさそうである。
エルトは少し離れたところに荷物を置くと、身に纏っていた踊り子を思わせる衣装をするすると手慣れた手つきで脱ぎ始めた。
踊り子と言っても、腹部などの露出がない比較的地味な服装だ。一般人のものとして見てみれば華やかで派手な部類に入るのかもしれないが、踊り子の纏うものにしてはおとなしめなものと言っても良い。
そうして一糸纏わぬ姿となったエルトは脱いだ服をきちんと畳んでから、井戸の傍にあった桶に水を汲んでばしゃばしゃとその褐色の身体にかけた。
冷たい真水が気持ち良い。そのまま髪の毛にも水をかけて、ぎゅっと絞ってからふるふると頭を振って水気を落とす。そして荷物の中から取り出した手拭いを水に浸し、それで身体を拭こう──としていたエルトだったが、どさりと何かを落とす音を耳にした。
咄嗟にばっとそちらに顔を向けると、其処にはひとつの人影がある。
「え……あ……」
エルトが振り返った方向にいたのは、市場で見かけたあの色の白い、小柄な黒髪の少女であった。たしかナラカ、と呼ばれていた気がする。
しかしエルトからしてみればそんなことはどうでも良かった。慌てて手にしていた手拭いで身体を隠そうとするものの、それは無意味な行為にも等しかった。なぜなら少女は既に見てしまっていたのだから。
「な……なんで……なんで……」
少女が慌ても照れもせずに、むしろ顔を真っ青にしてぶるぶる震えている理由は、もちろんエルトの姿にある。
今でこそ手拭いでなんとか要所を隠しているエルトだが、少女はその前の光景をばっちり目に焼き付けてしまっていた。しかも不本意なままに、あまりにも突然に。
エルトの日に焼けた小麦色の肢体、それは無駄な肉のない引き締まったものだった。しかしそれは女性らしい魅力的な、豊満な体つきではない。むしろ硬く、骨張った部分の多い、程よく調和の取れた滑らかな筋肉を湛えている。
エルトの体型は、明らかに男性のそれだった。
手にしていた荷物のほとんどを落としてしまう程に、少女にとっては衝撃的な光景だったのだろう。
しばらく硬直してしまっていた少女だったが、事の重大さに気づいたようで、唇をわなわなと震わせながら後退りし始めた。
「ち、ちが……。私、何も……。──っ、失礼します……!」
「──待ちなさい」
少女は顔を真っ青にさせながら、脱兎の如く逃げ出そうとする。
しかしエルトは直ぐ様少女のもとへと移動すると、彼女の細い腕を掴んでそのまま力任せに地面へと押し倒した。少女がそれを避けられる訳もなく、彼女はエルトに組み敷かれる形となる。
ぽたぽたとエルトの髪の毛から水滴が落ちる。それは少女の頬を僅かに濡らした。
少女を見下ろすエルトの表情は冷たく凍てついている。先程までは化粧を施していたのか、市場で見たときよりも男らしく精悍な顔つきをしていた。
突然の事態に、少女はただ口をぱくぱくとさせていることしか出来ない。エルトの顔が整いすぎていて、逆に少女は底知れない恐怖に襲われていた。
身体が動かない。逃げようと思っているのに、本で読んだ蛇の怪物に睨まれたかのように身体が動いてくれない。
「良いですか。此処で見たこと、そして私の性別や容姿について、私が口外していない者に密告してはいけません。それがたとえ、どれだけ信用に足る人物であっても、です。私が良いと言った人物にのみ、あなたがこのことを告げる権利を与えましょう。これは私の計画に関わるもの。破ればどうなるか──余程の愚か者でなければ解りますね?」
少女の首筋に濡れた手を這わせながら、エルトは淡々と告げる。まるで抵抗すればお前の首を絞める、とでも言うかのような手つきに、少女はぞっと鳥肌が立つのを感じた。
まともな言葉を発することもできずに、少女はただただ首を縦に振り続ける、助けを求めるような眼差しで、恐怖に顔を染め上げて。
「……わかったのならよろしい。用事が終わり次第、集落の広場へ来なさい」
「…………っ!」
少女が抵抗しないと察知したのか、エルトは少女を押さえ付けていた手を緩めた。
途端、少女は弾き出されたかのように、一目散に駆け出してしまう。よっぽど恐ろしかったのだろう、落とした荷物を拾おうともしなかった。
エルトはため息を吐くと一通り身体を拭く。そして下着を身に付けてから、少女の落としていった荷物をひとつひとつ拾い始めた。
一方その頃、エルトから札配りの任務を命じられたヴィアレは、一足先に広場に到着していた。というのも、皆手慣れた手付きで作業に従事しており、とてもではないがヴィアレが入る余地などなかったのである。
とりあえず渡された分だけ札を渡しては来たものの、はてさて人が来てくれるものか。別にヴィアレは呼ばれているわけでもなんでもないのだが、他にやることもないので広場に積み上げられた石の上に腰掛けて足をぶらぶらとさせていた。
やることがない時間ほど暇なものはない。──はずだが、この時のヴィアレはわくわくする気持ちを抑えられなかった。
生まれてからずっと閉鎖的な空間で過ごしてきたヴィアレにとって、新天地というものは暇さえ感じさせない魅力に溢れている。そのため、不思議と退屈を感じることはなく、ヴィアレは天上に描かれた巨大な曼荼羅を眺めていた。
地底だというのに明るいのは、この曼荼羅がうっすらと光っているからなのだろう。しかも時間が経つにつれて光の強度も変化しているらしく、シャルヴァに入ったときよりも光が弱まっているように思えた。
「……まるで太陽だなぁ」
ぽつり。そんな風に呟いたヴィアレの言葉に反応するかのように、目の前に積み上げられていた別の煉瓦の山からかたり、と小さな音が聞こえた。思わずヴィアレはそちらに視線を向ける。
「あ……そなたは」
「……!」
積み上げられた石の後ろに隠れてひょこりと顔を出していたのは、市場で出会ったあの少女だった。先程のエルトとのやり取りを知らないヴィアレは、彼女の姿を見つけるとにこりと朗らかな笑顔を浮かべる。
しかし、少女は表情を強張らせたままヴィアレを睨み付けるばかりだった。彼女からしてみれば、ヴィアレもあの恐ろしい女装男──もといエルトの仲間のようなものに見えているのだろう。大方エルトから何かされるのではないかと不安になって急いで広場に向かってきた、といったところであろうか。
にこにこしながら近付いてくるヴィアレを前にして、少女は緊張の色を濃くしていくばかりだった。みるみるうちに表情が強張っていく。
「そなたと会うのも先程ぶりだな! 何故斯様なところに縮こまっておるのだ? 良ければ我と話そうではないか!」
「…………そ、そういうの、いいので……」
「遠慮するな、少しくらい良いではないか! ほれ、近う寄れ!」
「ちょっ……⁉」
ぐいぐいと腕を引っ張られて、少女は明らかに戸惑いの色を顔に示した。
しかし、彼女はなんだかんだで受け入れるエルトとは違い、抵抗をやめようとはしない。引っ張られているのとは反対方向に逃げようとしている。まるで綱引きでもしているかのような光景である。
「な、何故逃げるのだ⁉ 我はただそなたと親睦を深めようとしているだけでだな!」
「そっ……そんなもの、深めなくて良いですから! あなたはあの糞女装野郎とでも仲良くしてれば良いでしょ!」
「く、糞女装野郎⁉ なんだそれは⁉」
「あなたの傍にいた、死んだ魚みたいな目の煮卵みたいな色の肌をした踊り子の格好をしてた野郎ですよ! 私に構ってる暇があったらあいつのところにでも行ってなさいよ!」
「あー…………ナラカ?」
余程必死なのか、声を張り上げてなんとかヴィアレを引き剥がそうとしていた少女だったが、背後からかかった声にぴたりと彼女の動きという動きが止まった。そしてきりきりきり、と壊れかけたぜんまい仕掛けの人形のように首がゆっくりと動いていく。
「……悪いな、取り込み中に……。今のことは忘れておくからよ……」
「ふむ……ナラカ、お前でもそのような声を出せるのではないか。見直したぞ?」
「リリウム姐さん、たぶんそれ逆効果だぜ……」
ナラカと呼ばれた少女の視線の先にいたのはウェントゥスと、彼に寄り添う妙齢の美女だった。
黒髪を太腿辺りまで長く伸ばし、喪服のような黒く飾り気はないが品のあるドレスを纏っている。流麗な流し目は何処か揶揄うような余裕さえ湛え、口元に浮かんだ微笑も相まって大人の貫禄のようなものを感じさせる。踵の高い靴を履いているからか、ナラカと比べると随分と背が高かった。
ナラカはかあっと一気に頬に紅葉を散らし、もじもじしながら縮こまった。先程までの威勢は遥か彼方に飛んで行ってしまったらしい。
この変貌ぶりにはヴィアレも驚いて、つい彼女から手を離してしまった。
「な……お二人とも……。ど……どうして、此処に……」
「そこの嬢ちゃんから渡された札を読んだんだよ。リリウム姐さんも同じでな、ついでだからいっしょに来たって訳さ」
「リリウムさんも……ですか……?」
「うむ。意外だったか? それとも妾が表に出てはいけなかったか、ナラカよ」
「いえ……決して、そのようなことは……」
つ、と何処と無く艶かしい仕草でリリウムと呼ばれた美女はナラカの頤に指をかける。
ナラカはしどろもどろになりながらすすすとさりげなく後退した。リリウムのこういった行動には、ある程度慣れているらしい。
リリウム本人もナラカをこれ以上弄ることはなく、ヴィアレの方へと視線を向けた。
「其処のお前、名を何と云う?」
「我のことか?」
「お前以外いなかろう、紅き童よ。渡すだけ渡しておいて、その場には留まらぬものだからな。名を聞きそびれてしまったではないか」
「そうか、そういうことだったのならすまなかった。我はヴィアレ、つい先程シャルヴァにやって来た。よろしく頼むぞ、リリウム」
「ふふ、妾に名乗らせぬと申すか。なかなかに肝の座った童よな」
ちゃっかり名前を覚えているヴィアレに、リリウムは言葉とは裏腹に満更でもなさそうな微笑みを浮かべた。
一見妖艶に見えた表情も、よくよく見てみればヴィアレの言動を微笑ましそうに見ているようにも感じられる。艶やかさの中に垣間見える謎の母性といったところだろうか。
そんなやり取りをしていると、一人の連れを伴ってエルトが広場にやって来た。びくり、とナラカの肩が大きく震える。
エルトは先程と同じ踊り子姿だった。そのため事情も何も知らないヴィアレは、どうしてナラカは其処までして驚くのだろうか、と微かな疑問を胸中に浮かべる。
そしてエルトが連れてきたのは、彼よりも幾分か背の低い人物だった。真っ黒なローブを頭から羽織り、目元から下をまたしても黒い布で被っている。そのため、性別や顔立ちといったことがはっきりしない。しかし集落の人々はその人物を知っているらしく、特段驚くような素振りを見せる者はいなかった。
「皆さん、お待たせしました。お集まりいただいたところ恐縮ですが、此処で立ち話もなんですので、此方のアシェリム殿のお宅にてお話を進めたく思います」
「そういうことだ。故に皆、疲れているとは思うが、一旦私の家まで移動してはくれないかね?」
アシェリム、というらしい人物は声色からして男性だということがわかった。しかし男性にしては小柄──というか体型が小ぢんまりとし過ぎているような気がしてならない。エルトと並ぶとそれがよくわかるし、ついでに言うと彼はリリウムよりも小さかった。
まあ特段突っ込むべきところではないので、これ以上掘り下げないようにしようとヴィアレは内心で決める。顔を上げてから、ヴィアレは真っ直ぐな足取りで家へと歩いていく一同を追いかけた。
アシェリムの家も周りのものと同じ石造りのもので、幾分か他の家よりも大きいように思えた。しかし大きいとは言っても広さを感じさせる訳ではなく、むしろ四方に高く積み上げられた書物がかなりの面積を占めている。
茶の間に通された一行は、何やら準備があると言って別室に去っていったエルトを待つことになった。ウェントゥスやリリウム、アシェリムは見知った間柄なのかお喋りに花を咲かせている。しかし、どういう訳かナラカだけはぽつねんと膝を抱えて部屋の隅っこで座り込んでいた。
ヴィアレは彼女に声をかけてやりたかったが、先程怒鳴られたこともありなんとなく気まずかった。ちらちらとナラカに視線を向けてみるものの、なんだか意図的に避けられているような気がしてならない。
むむむ、と口をへの字にしていると、横合いからウェントゥスが声をかけてきた。
「嬢ちゃん、ナラカが気になるのか?」
「嬢ちゃんではない。我はヴィアレだ」
「わかったわかった。ヴィアレ、さっきからナラカのことちらちら見てるけど、あいつがどうかしたのかよ」
「……まあ、何だ。独りだったからな。仲間に入れてやらないのか?」
そんな風に聞くと、ウェントゥスは「……あー……」と気まずそうにがしがしと頭をかく。するとアシェリムが肩を竦めながら話の輪に入ってきた。
「ナラカは私たちとは違って外界の人間でね。半年くらい前に此処に来たばかりなんだよ。だからあまり私たちの中に馴染めていないようでね。端的に言えば、彼女は人と関わろうとしないんだ」
「まあ悪い奴じゃないし、今日みたいに市場に行くときは手伝ってくれたりするんだぜ。……けど、普段はああやってずうっと独りだ。俺たちが何かに誘う前に逃げて行っちまうから、むしろこっちに誘ってると申し訳なくなってな。人見知りなのかもしれないが、怖がられてんならちょっとばかし悲しいぜ」
「左様なことはあるまい。妾やアシェリムはともかく、ナラカはお前にはそこそこなついている方だろう。少なくとも妾よりは話す回数も多いと見た。気を落とすな」
ウェントゥスにだけ聞いたはずなのに、いつの間にか一同の話題が共通のものになってしまっていた。リリウムに至っては少し悲しそうな雰囲気すら出している始末だ。
ナラカに話しかけられない──というか避けられているのがそれほど悲しいのだろうか。眉尻が少し下がってしまっている。
「とにかく、だ。ナラカは基本的に人との関わりを避けるような奴だからさ。たぶん嫌われてる訳じゃあないと思うぜ。安心しな」
「それだと良いのだが……。我はこれまで誰かに嫌われるようなことをした経験がないのでな、些か不安なのだ」
「……君、何気に物凄いことを言うのだね」
そもそもまともな人付き合いをしてきたことがないヴィアレからしてみれば、誰かに好かれることも嫌われることもなかった訳だ。だからこそ否定的な感情を抱かれるということが不安でならないのだろう。
周囲が聞いたらとんでもない爆弾発言であること間違いなしなのだが、そういったことは気にしないヴィアレである。アシェリムの突っ込みに反応を示すことはなかった。
「……皆様、お待たせいたしました」
ナラカはともかく、集落の住人たちとは常人からしてみればかなりの早さで交遊を深めていたヴィアレの耳に、今まで準備をしていたと思わしきエルトの声が入る。
エルト、とその名前を呼ぼうとしたヴィアレだったが、ひゅっとその言葉を飲み込むことになった。
別室から出てきたエルトは、これまでの踊り子のような衣装ではなく、男物の服を身に纏っていた。簡素な上衣と裾を絞った袴だが、均整の取れた健康的な体つきのエルトによく似合っていた。髪の毛も三つ編みにしていた部分をひとつに結わえ、男性らしさを漂わせている。
着る服ひとつで美丈夫にも美女にもなれるとは末恐ろしい。これでは国を傾けることも難しくないのではないか、そう思わせるだけの美しさをエルトは有していた。
「え、エルト……」
案の定ヴィアレは衝撃を受けていた。この中の誰よりも何よりも、驚愕を色濃くその顔に映しながら、よろめくようにしてエルトに近付いていく。そして彼の両腕を掴んで、ふるふる震えながらその顔を見上げる。
「そなたも、男だったのか……」
「──はい?」
先程までこの場でいちばん動揺していたのは恐らくヴィアレであった。しかし、その本人の言葉によって対象が一気に逆転したのである。
それまで涼しい顔をしていたはずのエルトは困惑し、ウェントゥスをはじめとする集落の面々は硬直し、顔を背けていたナラカでさえも目を見開いて此方を向いていた。
それほどまでにヴィアレの言葉は衝撃的だったと言っても過言ではない。
「……ヴィアレ、あなたもしや……男性、なのですか?」
「うむ、そのように我は思っておる。……いや、出会った時から不思議だとは思っておったのだ。男子一人を軽々受け止められる女子が居るものかと……。しかし……うむ、驚きだ」
「それは此方の台詞ですよ!」
神妙な表情をしてエルトを凝視するヴィアレは、まさに真剣そのものといった面持ちだった。しかし、これまで悠然としていたはずのエルトは、踊り子の姿をしていた時と同じように周りの目を気にすることもなく突っ込みを入れる羽目に陥った。
「じゃ、じゃあ嬢ちゃんっていうのは……」
「うむ、間違いだな!」
「うっそだろ…………」
「ならば証拠を見せよう。そなたが納得するまで、我は諦めぬ!」
「……いやはや、人は見かけによらないというけれど、まさか此処までのことが起こるとは思わなかったよ」
「人生、色々あるものだな」
案の定、ヴィアレのことを女性だと思っていたらしいウェントゥスは衝撃を受けたようだ。あっけらかんと答えるヴィアレを前にして、唖然とした表情で硬直している。完全にヴィアレの勢いに押されるような形だ。
リリウムとアシェリムから何処と無く微笑ましげな目を向けられて、エルトはぐっと言葉に詰まった。これでは段取りと違う。違いすぎる。
「……ごほん。話が逸れましたが、それはさておき本題に入るとしましょうか」
ヴィアレの突然の性別暴露によって一時室内が騒然としたが、エルトが咳払いをしてなんとかこのおかしくなってしまった空気をもとへ戻した。
先程まで「本当に男なのか」と詰め寄るウェントゥスに証拠を見せてやると言わんばかりにまっ平らな胸を見せつけていたヴィアレは、申し訳なさそうな顔をして正座している。さすがにあの主張の仕方は色々と問題があったと自覚しているのだろう。
おかげでウェントゥスは少し顔を青くさせており、リリウムやアシェリムから憐れみの視線を向けられていた。
「確認ですが……皆様は、この者から手渡された札を見て広場に集まった、という認識でよろしいでしょうか?」
「ああ、そうだとも。ウェントゥス君とリリウム君も同じかね?」
「うむ。とは言え、妾はウェントゥスのものを見て……だがな。直接貰ったわけではない」
エルトからの質問に対して、ナラカ以外の面々は揃って首を縦に振る。
ナラカだけはぐっと唇を噛んで膝にかけた腕に力を込めた。自分は半ば脅されて来たのだ、と言ってはやりたいものの何をされるかわからないので怖いのだろう。ただただそっぽを向いて小さな抵抗に徹していた。
ちなみにヴィアレが配った札には整った文字で『山羊の角譲ります』と記されており、その下に何やら判子のようなもので印が捺されていた。最初にヴィアレがこれを見たときには山羊の角を欲しがる者なんているのか、と疑問に思ったものだ。まさか人が集まるとは考えてもみなかった。
「成る程、それならよろしい。では聞きますが、この中で山羊の角が欲しい方はいらっしゃいますか?」
一同の反応を見てから、エルトはそんな風に問いかけた。
しかし誰もそういった意を示そうとはしない。ナラカは「……?」とこいつは何を言っているのだとでも言いたそうな表情でエルトを一瞥したが。
「……なぁ坊っちゃん。山羊の角ってのは、正直言って偽の知らせだろう? 本当ならこの印……王家の押印に意味があるんじゃないのか」
つ、とウェントゥスがチラシを手にしたままエルトに近付く。彼の顔には不敵な笑みが浮かび、そんな人間に迫られようものなら普通の人間は萎縮してしまうものと思われた。
だがエルトはそれに気圧されることはなく、むしろふっと口角を上げてみせた。そして懐をごそごそと漁ると、金色に光る小さな判子を取り出す。
素人目から見てもそれが一般人の持つべきものではないことがわかるくらいの輝きを放つ一品に、その場にいる誰もが息を飲んだ。
「大当たりですよ、ウェントゥス殿。山羊の角など私は持っていません。本来の目的はまた別のところにあるのです」
「……して、だ。君の本来の目的とは何なのだね?」
唯一見える目を細めて、探るようにアシェリムが問いかける。
それはヴィアレも、ウェントゥスもリリウムも知りたいところだった。ナラカは相変わらず目を逸らしていたのでどうだかわからなかったが、この場にいる以上関わらなければならないことは確かだった。
エルトは判子を弄んでいた手をぴたりと止めて一同に向き直った。その真っ黒な瞳に感情が映ることはない。何を考えているのかもわからない、まるで深淵をそのまま体現したかのような瞳は見た者を射竦めるほどの力を持っていた。
それだけの威圧感を込めて、エルトは此方を見つめたのである。
「十年前に我が故郷エーカムを滅ぼした、ティヴェラ国への報復ですよ」
エルトの口調はぽつりと呟くようなものであった。
しん、と室内が静寂に包まれる。荷馬車の中でエルトから話を聞いていたので、ヴィアレもある程度の概要はわかっていた。やけに詳しいとは思っていたが、まさかエルトがその滅ぼされたエーカム国の出身だったとは。
ごくり、と生唾を飲み込むヴィアレには見向きもせず、淡々とエルトは続ける。
「我が名はエルティリナ。エーカム国の第八王子の位を有していた者です。此度はティヴェラ国への報復に当たり、外界よりこのシャルヴァに舞い戻った所存にございます」
「……ふむ、エーカム王国の王族が外界落ちしていた……という噂は、真だったのか」
顎に手を遣りながら、感慨深そうにリリウムがエルトを見やる。しかしヴィアレとしては疑問点が幾つかあった。
「ウェンよ、外界落ちとはなんなのだ?」
「ああ、このシャルヴァから外の……地上の世界に出ることを外界落ちというんだ。尤も、理想郷たるシャルヴァから出ようなんて思う人間はほとんどいなくてな。たいていは複雑な事情を抱えた奴だよ」
「地上に行くのに落ちるのか?」
「それは言葉の綾って奴だろ」
細かいところはまだよくわかっていないヴィアレはさておき、である。
とにもかくにも、エルトはもともとシャルヴァの出身で、十年前の戦争により外界落ちせざるを得なくなった王族であるということは理解出来た。しかしながら、王族と聞くと普通は萎縮してしまったりそれなりの敬意を表したりするものなのだろうが、そもそも階級やら何やらについて疎いヴィアレはいまいちその偉大さをわかっていないようだったが。
「私はこの地にて同胞を探し、報復を実行するつもりです。皆様を此処に集め、我が素性を明かしたのもそのために他なりません。──力をお貸しいただけますか」
一同を見据え、エルトはそう問いかける。きっぱりと、然れど何処か探るような口調。それは単に彼の思慮深さと自信が相反してのものなのだろう。
遠慮する気持ちがないわけではないが、エルトには人よりも強い自信がある。これらはそれゆえの言動であろう。
何も言うことなく、まずはウェントゥスが立ち上がった。次いでリリウム、アシェリムも腰を上げ、エルトのもとへと近付いていく。そして相対する形となったエルトとウェントゥスだったが、数秒間の沈黙の後にウェントゥスが口を開いた。
「……いいぜ、王子様。俺たちはこれからあんたに付いていく。俺たちも故郷を奪われた身だ。折角の機会だ、生きているうちにやれるだけのことはやっておかなきゃな」
「ウェントゥス殿……。……しかし、その、王子様、というのは……」
「わかってるよ。外ではあんたのことを新入りとして扱う。そのための女装なんだろ?」
「……はい。ありがとうございます」
目を臥せ、薄く微笑むエルトに、ウェントゥスもにかっと歯を見せて笑う。アシェリムも心なしか微かに目を細めているかのように思えた。
円満な雰囲気がその場に流れ、ヴィアレも「勿論我も手伝うぞ!」と元気よく宣言する。こういった雰囲気も悪くない。誰かと力を合わせて何かを成し遂げるなんて、素晴らしいことこの上ないではないか──。
報復の意味合いをよくわかっていないヴィアレは、そんな風にこれから行く先を前向きに考えていた。……考えていた、のだが。
「……ナラカ。お前はどうするのだ?」
「──あ、わた、しは──」
リリウムがナラカにそんな質問を振ったために、一同の視線という視線が一瞬でナラカに突き刺さった。
これまで部屋の隅っこで何も話さず我関せずといった風でやり過ごしてきたナラカだったが、さすがに最後までそうはいかなかったようだ。
合計十個の目から放たれる視線に、口をもごもごとさせながら彼女は目を泳がせる。そして俯きながら、やっとのことで喉から声を絞り出した。
「私、も……皆さんに、協力したい……です」
「よっしゃ、じゃあ決まりだな! もうすぐ炊き出しの時間だし、キリよく終わって良かったぜ」
バシバシとウェントゥスがナラカの背中を叩くのは友好的な理由なのだろうが、ナラカは顔を下に向けたまま何も言うことはなかった。
皆がやんややんやと賑々しく騒いでいる間に、ナラカはふらふらと覚束ない足取りでアシェリムの家を出ていってしまった。仲間を得たことに湧くウェントゥスや、彼と話をしているヴィアレやアシェリムは彼女に気づくこともない。
リリウムだけはそんなナラカの様子に気づいたのだろうか、彼女がいた場所に目を向けたが、既にナラカが去っていった後であった。