@Southerndwarf
序
みんみん、じりじり。みんみん、じりじり。
蝉が五月蝿い。然れどそれも夏の醍醐味。
そう思いながら、青年はおもむろに筆を置く。ぐ、と伸びをすると、背中を幾筋もの汗が流れ落ちていった。
少し前まで絶え間なく降り続ける雨に辟易としていたのに、気が付けばもう夏である。日が落ちるのも遅くなり、日中は茹だるような暑さに汗を流す他出来なくなっていた。
しかし、青年は夏の猛暑が嫌いではない。たまに苛立つことさえあれど、季節の移り変わりというものは基本的に好ましく思っている。
暑いこの季節だからこそ映えるもの、輝くものがあり、それは決して他の季節ではあり得ない。決まった季節にしか見られない景色、文化、その他諸々の煌めきを、この青年はこよなく愛していた。
「この暑さだから、久しぶりに怪談でも読んでみようかな。古書店に行けば、掘り出し物があるかもしれない」
机に置いていた手拭いで額の汗を拭ってから、青年はよいしょと立ち上がる。行き着けの古書店で、背筋の凍る作品を探しに行くつもりだった。
がま口を懐に入れて、青年は玄関へ向かう。彼がいつも通りに下駄を突っ掛け──ようとしたところで、壊れるのではないかというくらいに勢い良く戸が開かれた。
「朱華(はねず)! 朱華! いるか⁉」
「……目の前にいるじゃあないか」
息を切らして駆け込んできたのは、まだ二十歳にも満たなそうな若者であった。朱華と呼ばれた青年よりも、幾分か年下に見える。
焦げ茶色の髪の毛を所々跳ねさせた長身の若者は、じっとりとした視線を向ける朱華の肩を掴む。そして、彼に満面の笑みを向けた。
「良かった、朱華! 頼みたいことがあるんだけどよ!」
「お断りさせてもらおう」
「は、話くらいは聞いてくれよぉ~!」
即答した朱華に、若者は一瞬で顔をぐしゃぐしゃにして飛び付いた。
突然のことに朱華は対応しきれず、若者の身体を真っ正面から受け止めることになった。ただでさえ暑いというのに、こうも密着されたら暑苦しいことこの上ない。加えて、若者の涙と汗が染み付いて肌がべたつく。
「本当に、本当にお前にしか頼めないことなんだよぉ~! 蕎麦奢るから付き合ってくれよぉ~!」
「こら、宗一郎(そういちろう)! 君の言いたいことはわかったからとにかく離れてくれないか! 暑苦しくて仕方ない!」
「わぁ~、ありがとよ! やっぱりお前は良い奴だなぁ、ずびっ」
「僕の服で洟を拭かないでくれるかい⁉」
宗一郎と呼ばれた若者の勢いに、さすがの朱華も押し負けたようだ。力任せに彼の身体をぐいぐいと押しながら、目を三角にして叫ぶ。
一方、朱華にくっついている宗一郎はというと、彼の快諾の言葉をしっかり聞き取っていたらしい。泣き笑いのような表情でちゃっかり朱華の着物を手拭い代わりにしている。おかげで朱華の着物には宗一郎の洟が付着してしまっていた。
やっと離れた宗一郎は、ぐいと目尻を拭ってからにかっと快活な笑みを浮かべる。そして、先程まで号泣していたとは思えない程の明るい声音──鼻声ではあったが──で、朱華に声をかける。
「さ、そうと決まったなら善は急げだ! 蕎麦食いに行こうぜ!」
「……僕の着物……」
「大丈夫大丈夫、この暑さだしすぐに乾くって!」
「……君は少し反省というものを覚えたまえよ」
すっかり開き直った様子の宗一郎に、朱華は疲れきって頭を抱えた。
それはもう、比喩ではなくそのままの行動で表す程に。
暑い日に食べるざる蕎麦は格別だ。
喉を通り抜けるそれに爽快感を覚えながら、朱華は目の前の席で蕎麦を美味そうに啜(すす)っている宗一郎に向き直った。
「それで、頼みたいことって何なんだい? やけに切羽詰まった様子だったけれど」
「ほうほう、ほれなんらけろよ」
「飲み込んでから話したまえよ」
口の中に蕎麦が入ったまま話し始めようとする宗一郎を、朱華は呆れ顔で見る。
この宗一郎という若者は悪い人間ではないものの、時々……というかしょっちゅう間の抜けた言動に及ぶことがある。愛嬌があるので何とも言えないが、礼儀作法を重んじる朱華としては注意せずにはいられない。
素直に口の中のものを全て飲み込んで、茶を呷ってから宗一郎は身を乗り出した。泣いたからか少し目が赤い。
「俺ん家って銭湯なんだけどさ、其処の常連さんが近々出かけるらしいんだよ。それに付いていってくれる人を探してるって言ってて、俺にどうかって話が来たんだけど、家の手伝いをしなきゃいけなくてさ。もし良かったら、お前が行ってやったら良いんじゃないかと思って」
「あのねぇ、宗一郎。僕にだって予定があるんだよ? 突然出かけるなんて言われても困るよ」
「けど朱華、お前暇だろ? 仕事も特にしてないんだしさ」
「っ、ぐ」
宗一郎の何気ない一言に、朱華は声を詰まらせる。
はっきり言えば、図星だったのだ。それもあまり突いて欲しくない類いの、である。
朱華はいつか物書きになるのだと豪語し、日夜執筆活動に勤しんでいる。詩歌も好むが、何よりも彼は物語を綴ることに執心だった。そのため、朱華は机に向かって安物の和紙に思い付いた物語を綴るか、良いネタを探して町内をぶらぶらと散歩するかの毎日を送っている。
詰まるところ、朱華はろくに仕事もしていないのである。独り暮らしで家事を全て自分一人で済ませている辺りまだましなのだろうが、このご時世で職に就いていないというのはなかなかのものだった。
朱華としては、自分の生活に関してはあまり触れて欲しくはなかった。というか触れられたくなかった。いつか人気戯作者になって儲けるのだ、などと開き直って胸を張る程の図太さを朱華は有していない。
一人で勝手に傷付いている朱華だったが、宗一郎はそれを気にする様子もなかった。彼は変わらぬ口振りで話を続ける。
「それに、その常連さんってお金持ちのお家でお手伝いさんとして働いててさ。今回のお出かけも、お坊っちゃんの付き添いなんだとよ。何でも、避暑地にある別邸の整理整頓をするんだとか」
「……それはそれで魅力的ではあるけれど、そのようなことは身内でするべきじゃないのかい? 僕たちみたいな庶民を招いたら、それこそややこしいことになりそうだけど」
「俺だって最初はそう思ったぜ? けど、その常連さんが言うには、今回のお出かけはお坊っちゃんのお忍び旅行らしいんだ。ほら、良いところの子って色々制約が設けられてるだろ? だから家の者をたくさん連れてくと窮屈なんだってさ。だから敢えて年齢の近い、常連さんの知り合いを連れてくんだと」
良いよなぁ、と宗一郎は唇を尖らせる。銭湯の仕事がなければ本当に付いていきそうな様子である。
たしかに、避暑地への旅行なら朱華としても興味がある。風情のある場所で創作に勤しむのも悪くはない。むしろとてつもなく行きたい。
しかし、宗一郎の話には引っ掛かるところがありすぎる。彼が嘘を吐けない性分の人間だということはわかっているので偽りではないと思うのだが、やはり何処かきな臭いというか、曖昧模糊として信用し難い。
「……ちなみに、そのお坊っちゃんとやらはお幾つなんだい?」
「確か十八だって言ってたぜ? 俺や常連さんと同い年なんだとよ。だから俺はその常連さんとは意気投合したんだけど……何か気になることでもあるのか?」
「いや、僕では年齢が離れている気がしなくもない……というかそれなりに離れているんだけれど、大丈夫なのかい?」
「大丈夫だろ、一回り離れてるんじゃねぇんだからさ。十八も二十四も四捨五入すれば二十だろ。いけるいける」
「そういうものなのかな……僕にはわからないけれど」
朱華は今年で二十四歳になった。
この年齢で定職にも就かず配偶者もいないというのは世間からしてみてもかなり辛いものだが、朱華はあまり気にしないことにしている。もとより世間体は気にしないつもりでいるのだ。気にしないとは言っていないが。
「朱華よぅ、そんな落ち込むなって、な? 俺はよくわかんないけど、お前があれだけ熱心に書いてるんだから絶対将来は売れっ子戯作者になってるって。それに、お前はすこぶる美形だからな。お前が気付かないだけで、朱華のことが好きな女の子だって結構いるんだぜ? 元気出せよ」
そんな朱華の憂いを感じ取ったのか、宗一郎は彼の肩をばしばしと叩いて慰めた。地味に痛かったが、気遣ってくれたことに変わりはないので朱華は何も言わないでおいた。
「とりあえず、さ。無理に行けとは言わないけど、夏の過ごし方のひとつとして頭に入れといてくれないか? ずっとこの町にこもってるのもどうかと思うしさ。創作意欲? とやらを刺激するためにも、たまには遠出するのも良いと思うぜ」
「……ありがとう、宗一郎。そうだね、少し考えておくよ」
「おうおう、そうしとけ。すぐに決められるような話でもないしな」
人懐っこい笑みを浮かべた宗一郎に、朱華の表情も思わず綻ぶ。
朱華はもともとこの町の人間ではない。二年程前に引っ越してきたのである。小ぢんまりとした風情のある良さげな一軒家を買い取ったは良いものの、一人では苦労することも少なくはなかった。
そんな時に率先して手伝いに来たり、声をかけてくれたのが宗一郎を初めとする町の住民たちだった。朱華がこの町での生活に馴染むことが出来たのは、紛れもなく彼らのおかげなのである。
この話だって、朱華のことを気遣ってのものなのだろう。そう思うと、朱華としても悪い気はしなかった。たまの休暇も良いかもしれない。──仕事をしていない身なので、休暇も何もない訳だが。
「ところで、その避暑地の場所は聞いていないかい? 場所によれば、僕も考える余地が広がるから」
それゆえに、朱華は柔和な表情で宗一郎に問いかけた。彼の気持ちを無下にしたくはなかったのだ。
柔らかな表情を浮かべた朱華は、さながら白皙の麗しき貴公子である。
優しげな目元とふんわりとした髪の毛、そして何よりもよく整った、とてつもなく精緻な顔立ちに微笑みを湛えれば、何とも言い難い気品が溢れる。魔性のそれとは対極にある、言うなれば相対した者すらも和やかな気分にさせるような雰囲気を朱華は醸し出していた。
案の定、宗一郎は朱華の笑みに釣られるかのようにさらに表情を明るくさせた。その顔付きは子犬のそれに近い。
「おう、確か千世ヶ辻(ちせがつじ)村とかいうところらしいぜ。やたら長い地名だったから、俺も覚えて──」
覚えてるんだよ、と宗一郎が口にする前に。
ばん、と大きな音が店内に響く。喧騒に包まれていた蕎麦屋の中は、一瞬静寂に支配された。
何だ何だ、と客や店員が振り向く先には、うつむいた朱華がいる。長めの前髪が彼の目元を隠すせいで、顔が上がるまでその表情ははっきりとはわからなかった。
ぽかんと呆気に取られている宗一郎を、朱華は赫と見据える。其処にはもう、先程までの穏やかな微笑みは浮かんでいない。
「──行くよ」
朱華の唇から漏れるのは、いつになく低く潜められた声。え、と宗一郎が疑問をその顔に映し出すが、朱華はそれをも遮った。
「僕が行こう。その、千世ヶ辻とやらに」
みんみん、じりじり。みんみん、じりじり。
汗ばむ七月の昼下がり。朱華の瞳は、真夏の陽炎が如く揺らめいた。
一 千世ヶ辻
お忍びとは言っていたものの、お金持ちのやることはいちいち派手である。家の前に馬車が停まるという体験をした朱華は、つくづくそう思い知らされた。
馬車に乗っていたのは四人。いずれも、まだ若く青臭さの残る若者たちだ。
「これがお前の知り合いか、平太(へいた)? 無駄に洒落っ気を振り撒いている素振りをして、いかにも自分はハイカラなのだと言わんばかりの生意気なこの男が?」
一人は、つんと棘のある美貌を有した若者。身なりからして、支配する側の人間であろう。赤みを帯びた茶髪がよく目立つ。欧州の人間の血でも入っているのだろうか。日本人が着れば滑稽に見えることもある洋装も、彼は何食わぬ顔で着こなしている。
そんな彼にへこへこと頭を下げているのが、平太と呼ばれている若者。此方は凡庸な見た目をしており、着ているものも庶民のそれと大差ない。宗一郎の家の常連というのは、平太のことで間違いないようだ。
「俺がこういった、口先だけの人間が大嫌いなことはお前もわかっているはずだろう? だというのに、何故お前は適当な人材を選んで来なかった? この俺を見くびっているのか?」
「ひっ、も、申し訳ございません、旦那様……」
「謝るだけなら農民にも出来る。お前には富ノ森(とみのもり)家に仕える使用人としての礼儀作法を叩き込んだはずだろう? このような体たらく、単なる謝罪だけで済むと思ってはいないよなぁ?」
どうやら平太の主人は、嫌になる程高圧的らしい。銭湯の番頭にすがりたくなる気持ちもわかる気がする。
朱華はやれやれ、と肩を竦める。
大方、この平太という使用人は屋敷の風呂にも入れてもらえないのだろう。恐らくこのお坊っちゃんは下人が自分と同じ湯に浸かることすら嫌っているに違いない。そうでなければ、残り湯くらい使わせてやるはずだ。わざわざ平太が銭湯に行く必要などない。
助け船を出してやりたい気持ちも山々だが、下手に口出しをしようものなら此方に矛先が向きかねない。残念だが、朱華は黙って二人のやり取りを聞いているしかなかった。
「ええい、喧しいわ!」
此処で苛立たしげに発せられた声がひとつ。朱華から一番離れた、端の席からである。
其処に座っているのは、立派な眉をつり上げている古風な出で立ちの若者である。ザンギリ頭が増えたこのご時世に、髪の毛を長く伸ばしてひとつに括っていた。服装も洋装ではなく袴姿だ。書生風の朱華とは違い、元号が変わる前でも通用しそうな、謂わば武士のような風采をしていた。
「せっかくの休暇だというのに、出発して間もない時点から言い争うとは何事か! 貴様らは場を弁えんか!」
「まあまあ、雪乃丞(ゆきのじょう)。気持ちはわかるけれど、落ち着いて」
「しかし、真幌(まほろ)様!」
「ボクは大丈夫だから、ね? ……和比古(かずひこ)、そういうことだからあまり使用人の子をいじめないでやってくれないか。その気になれば、お前だけをこの馬車から降ろすことも出来るのだよ」
古風な若者──雪乃丞を宥め、高圧的な平太の主人──和比古を諌めたのは、雪乃丞と和比古に挟まれる形で座っていた、真幌と呼ばれた若者だった。
さらりと揺れる黒髪に、透き通りそうな程に白い肌。儚げな印象を与える美少年だが、不思議とその声には芯がある。外柔内剛とは、まさに彼のような人間のことを言うのだろう。
和比古はすっかり真幌に圧倒されたようで、何も言えぬまま悔しげに唇を噛み締めた。お呼ばれされた身では、言い返すことも出来ないのだろう。
一先ず、当分は平太が理不尽に叱責されることはなさそうだ。これ以上胸糞悪いものを見なくて良くなったことに関しては、朱華もほっと胸を撫で下ろす。
「ところで、其処の……和比古のところの使用人にお呼ばれしたという、お前。名前は何というの?」
そんな矢先に、真幌の視線は朱華のもとへと移った。自分に向けられた笑みに、朱華は一瞬言葉を失う。
柔らかな口調であるが、其処には妙な威圧感があった。これは下手に嘘でも吐こうものなら、そのまま馬車から降ろされてしまいかねない。
「……僕は斯波(しば)朱華。平太君の知り合いには良くしていただいていてね。彼がどうしても行けないと言うから、同伴させてもらうことにしたのさ」
「へぇ……。珍しい名前をしているんだね。ボクは白木院(しらきいん)真幌。こっちの古風なのは、ボクの従者の筧(かけい)雪乃丞。雪乃丞共々、よろしく頼むよ」
真幌は雪乃丞の紹介も済ませてから、たおやかな微笑みを浮かべて見せる。髪の毛を伸ばして女物の着物を着てしまえば、きっと可憐な美少女に変わるだろうと思わせるような美貌であった。
硬派な雪乃丞と、柔和な真幌。なるほど、これはなかなかに均衡の取れた主従である。
(此方の主従とは大違いだな)
ちら、と朱華は和比古と平太を盗み見る。
和比古は機嫌を損ねてしまったのか、むすっとしてひとつも口を利こうとしない。俺に話しかけるな、と全身が物語っているかのようだ。
平太の方も、そんな和比古の雰囲気に圧されてすっかり縮こまっている。まるで蛇に睨まれた蛙だ。彼の普段の振る舞いや事情を何も知らない朱華でさえも、憐れに思う程の怯えぶりであった。
「ああ、其処の仏頂面は、富ノ森和比古。ボクの学友でね、暇そうだったから連れてきたんだよ」
にこにことしながら真幌は言うが、和比古の眉間の皺は深まるばかりだった。暇人扱いされたことが気に食わなかったのだろう。
朱華はそうかい、とだけ返事をするに止めておいた。
真幌はともかく、和比古は話がわかる類いの人間とは思えない。突っ掛かられるのも面倒だが、何よりも平太が巻き込まれるのは可哀想だ。此処は大人の余裕なるものを見せなければ。
「ところで、えー……白木院氏」
「真幌で良いよ。そんなに畏まらないで」
「……では、真幌君。これから千世ヶ辻に向かうそうだが、其処には知り合いとか、頼れる人物がいるのかな?」
「……どうして、そんなことを聞くの?」
朱華が投げ掛けた問いかけに、真幌は僅かに目を細める。探るような目付きだった。
彼の後ろでは、雪乃丞が警戒心丸出しの表情で朱華を睨み付けている。ずっと静かだと思っていたら、真幌と朱華の会話を漏らさず聞いていたようだ。朱華が真幌君、と呼んだ時に殺気のようなものを感じたのは、決して気のせいではないのだろう。
朱華は溜め息を吐きたくなる気持ちを必死で抑える。ふとした行動で無礼だと殴りかかられても可笑しくはない。行動には逐一注意するべきだ。
「いや、これほど年若い、この国の将来を担った子たちが集まっているんだ。保護者がいなくてはいけないと思ってね」
「ふふ、そういうことか。その点については、心配しなくても良いよ。千世ヶ辻には叔父の家があるんだ。別邸は少し離れたところにあるけれど、何かあったら親戚の家を頼るつもりでいるからね。それほど気負う必要はないよ」
朱華の杞憂も、真幌によってすぐに退けられる。彼の後ろでは、雪乃丞が至極当然だろう、とでも言いたげな顔でふんぞり返っていた。何に対して威張っているのだろうか。
とにもかくにも、今のところこの中で一番年長だからと朱華が保護責任を押し付けられることはなさそうだ。むしろ朱華は巻き込まれた側だし、何かあれば一人で逃げることも吝かではない。見知らぬ若者たちにまで気を配っている余裕などないのである。
(まあ、何も起こらないのが一番だがね)
平穏無事に時が過ぎること程望ましいことはない。朱華は改めてそう思いながら、なるべく話を振られないようにと窓の外に視線を向けた。
一行が千世ヶ辻村に到着したのは、すっかり日の沈んだ時分の頃であった。まだ落日の残光が残っていて良かった、と御者は言っていた。
千世ヶ辻、というのはこの村を含んだ一帯の地名らしい。千世ヶ辻村の背に聳える山々を越えれば様々な地に赴くことが出来ることから、千の世界に繋がる地──すなわち千世ヶ辻と呼称されるようになったとのことだ。
「いやぁ、真幌坊っちゃんがいらっしゃるのは何時ぶりのことでございましょう。少し見ぬ間に大きくなられて……」
真幌の親戚がいるという屋敷──近永(ちかなが)邸に仕える年配の女中は、真幌の姿を見るなりよよよと目元を袖口で押さえた。
何でも、真幌が千世ヶ辻を訪れるのは十年ぶりになるのだという。そりゃ十年も経っていれば人間は成長するものだし、育ち盛りを過ぎた頃であれば尚更だ。
そのおかげもあってか、一行は近永家の者たちから手厚い歓迎を受けた。夕食も豪勢なものを出され、庶民の朱華はそれらを目にした瞬間に思わず生唾を飲み込んでしまった。
「この地は山がちですからね。猪や鹿の肉はとびきりのご馳走なのですよ」
近永家の当主、近永松之助(まつのすけ)は四十路に差し掛かったまだまだ働き盛りの男だった。瑞々しさこそなかれど、十分に整った目鼻立ちをした美形である。若い頃はさぞ女性たちから黄色い悲鳴を受けたことであろう。
真幌から、松之助は彼の父親の弟であり、近永家には婿養子として入ったのだ──と朱華は聞かされた。
松之助は庶民である朱華や余所者の従者という立場の平太に対しても丁寧な物腰で応対した。てっきり淡白な対応をされるかと考えていた朱華としては、良い意味で驚かされた。
松之助いわく、千世ヶ辻に外からの客がやって来ることなどほとんどないのだという。真幌のような、千世ヶ辻に縁のある人間ならばともかく、全くこの地を知らない人間は滅多なことでは千世ヶ辻を訪れないらしい。
「他の地域であれば山で遭難した人間が迷い込むこともあるのでしょうが、この辺りではそういったことがありませんからね。皆様のような賓客は滅多にございません。鄙びたところではございますが、是非千世ヶ辻で佳き時をお過ごしくださいね」
「ありがとうございます」
食事も終えたところで、一行はそれぞれの寝室に案内された。真幌と雪乃丞、朱華と富ノ森主従という割り振りであった。
平太はともかく、和比古と同室なのは不安である。朱華はちらと和比古を一瞥して、彼に知られぬ程度に嘆息した。
和比古は夕食に出た山の幸が合わなかったのだろう。どうやら胃もたれしてしまったらしく、顔をしかめて座り込んでいる。少し離れたところで、平太がおろおろとしていた。
(こういった時は、どうするべきなのだろう)
持ってきた本から視線を離し、気まずそうにしている平太を横目で見つつ、朱華は思案する。
朱華はあまり人付き合いが巧みとは言えない。どちらかと言えば、一人で部屋にこもって読書や創作をしている方が好ましい類いの人間である。
他人と全く話せないという訳ではないが、知り合いでなければ上手く話題を振ることが出来ないし、それなりに鍛えてきたはずの語彙力が一瞬にして消滅する。誰かと話す時は、宗一郎のような人間を間に挟まなければ会話するのは難しかった。
詰まるところ、朱華は人見知りなのである。もう二十四歳にもなって何を言っているんだと呆れられてしまいそうだが、こればかりはどうしようもない。直そうにも直せないのだ。
どうしたものか、と朱華は悩む。平太をこのままにしておくのは可哀想だし、憐憫の情すら湧いてくる。しかし、こういう時にどのような声のかけ方をすべきなのか朱華にはわからない。
悩んでいる間も、時間は無慈悲に過ぎていく。朱華が勇気を出すのが先か、それとも和比古の機嫌が一定値を越え、平太に八つ当たりするのが先か──。
「やあ、三人とも起きてる?」
嫌な静寂を突き破ったのは、何の合図もなく襖を開け放った真幌だった。
唐突な登場に、三人は同時にびくりと身体を震わせる。
「あれ、驚かせちゃった? それならごめんね、そんなつもりはなかったんだ」
「……何の用だ、白木院」
片目を瞑って手を合わせる真幌に、和比古が鋭い視線を送る。
本当にこの二人は学友なのだろうか、と朱華は思う。馬車の中でも、真幌と和比古はほとんど会話らしい会話をしていなかった。加えて、真幌はともかく和比古はやたらと刺々しい。友人というのなら、もっと友好的であるべきだろうに。
和比古から睨まれても、真幌は特に気にする様子を見せなかった。言い争いにならないのは、真幌の背後に雪乃丞が付いていないからであろう。
「せっかくの機会だし、三人と話しておきたくてね。今、大丈夫かな?」
「僕は構わないけれど……。二人はどうだい?」
「あ、えっと、私は大丈夫、です……!」
「……勝手にしろ」
朱華が富ノ森主従に尋ねると、平太は声を上擦らせながらうなずき、和比古はふいとそっぽを向いてしまった。真幌を追い出さなかっただけましなのだろうか。
三人の答えを聞いた真幌はありがとう、と告げてから座布団を引っ張ってきて其処に座る。平太が申し訳ございません、と謝ろうとしたが、真幌は微笑だけでそれを制した。
良家の人間であれども、真幌には驕ったところが見受けられない。和比古とは大違いである。何がどうしてこの二人は共に休暇を過ごすことにしたのだろう、と朱華の中の疑問は膨らむばかりだった。
「さて、三人には話しておかなくちゃならないことがあってね。今回の旅行の目的──つまり、ボクの別邸についてさ」
来客用にと置かれていた煎餅をつまみながら、真幌は口を開く。煎餅一枚を食べるにも、不思議なことにやたらと様になる。
「件の別邸は、この村の外……山の中にある。其処に行くまでは、山道を歩いていかなくてはならないんだ」
「山歩きくらいなら、僕は大丈夫だけれど……。険しい道なのかい?」
「ううん、それほどでもないよ。ボクが気にしているのは、山歩きや、山の危険性についてじゃないんだ」
「そ、それじゃ、どうして……?」
ちゃっかり朱華の背中に隠れるようにして話を聞いていた平太が、首をかしげて疑問を示す。彼は真幌のことも怖いらしく、朱華に頼ることを選んだようだった。
平太からの控えめな問いかけを受けた真幌は、にこやかだったその表情を刹那のうちに潜めた。端正な顔立ちが、能面がごとき無に包まれる。
「……ボクたちが向かう別邸は、今でこそ近永家のものだけれど、近永家が所有するようになったのはつい最近のことなんだ。それまでは、熾野宮(しのみや)という一族が其処を所有していた」
「熾野宮……?」
「そう。この辺りの山の中に、由緒あるお武家様の墓があったのだけれどね。お武家様の棺と共に葬られた遺産は相当歴史のあるものだから、お宝目当ての墓泥棒が多発したんだ。しかし、その墓泥棒たちがお目当ての品に辿り着くことはなく、皆山中で何者かに首を斬られ、首のない遺体だけが人里に打ち捨てられていたらしい。だから、近隣の人々は呪いだ何だと山を恐れた。でも、当時の人々は、生活のために山に入らなければならないこともあったから、犠牲者は減らなかった」
真幌の口調は淡々として、抑揚がない。それが一層不気味な雰囲気を孕み、朱華は知らず知らずのうちに唇を噛んでいた。
「確か徳川の時代の初め辺りだったかな。都の方からやって来た熾野宮という姓を名乗る人たちが、山での凶事をなくす代わりに、山中に住まわせてくれって頼みに来たらしくてね。彼らが山中に屋敷を建て、其処で暮らすようになってから、変死体が里に打ち捨てられることがめっきりなくなったんだって。一説には、彼らは迫害を恐れて逃げてきたキリシタンで、神の御業によって呪いを退けた──なんて話もあるけれど、真偽は定かではないんだ」
「へ、へぇ……。良い話じゃないか」
「それが、そうでもないんだよ。この話には続きがあってね。本題はむしろこっちの話の方にある」
気付けば、この場にいる誰もが真幌の話に聞き入っていた。そっぽを向いていた和比古も、いつの間にか真幌の方に顔を向けている。
それを知ってか知らずか、真幌は一呼吸置いてから話を続けた。
「熾野宮家の者たちは、村人が山に立ち入ることを禁じた。しかし、それでは村人たちの生活にも影響が出る。其処で熾野宮家の者たちは、熾野宮家に子が出来た時には、村人の中からその婚約者を差し出すようにと命じたんだ。村人たちはその取引を飲んで、熾野宮家に子が出来る度に婚約者となる若者を彼らに差し出した。そして、熾野宮家は山の幸を村に提供したんだよ」
「なるほど、需要と供給ということだな」
「……和比古、君は興味がないように見えていたけれど……本当は気になっていたの?」
「う、五月蝿い! 良いから早く続けろ!」
ふむ、と相槌を打った和比古を、真幌は悪戯っ子のような目で見た。恐らく確信犯であろう。
揶揄われた和比古はというと、顔を真っ赤にして真幌を怒鳴った。不機嫌な表情を隠さないところといい、和比古は己の感情に素直な性分のようだ。
「この取引は上手くいっていた。この明治の世まで続いていたくらいだ、お互いに満足のいく取引だったのだろう。──けれど、そう。明治という時代に入ってから、熾野宮家と千世ヶ辻村の関係に暗雲が漂い始めた」
「……どういうことだい」
「ボクも噂に聞いただけだから、詳しいことはわからないけれど……。何でも、嫁いでいった村の娘が姿を消してしまうんだって。熾野宮家はその度に新しい娘を村に要求したらしいよ。でも、姿を消した娘たちは村に帰ることはなく、熾野宮家にも戻ってこなかったらしい」
「そ、そ、それ、お嫁さんたち、熾野宮家の人に殺されてしまったんじゃ……」
「へ、平太っ!」
「おやおや、二人とも。ボクはまだ其処まで言っていないのに」
震えながら口を開いた平太を怒鳴り付けたのは、しきりに二の腕を擦っている和比古であった。
見れば、彼の顔は真っ青で、平太と同様にがたがたと震えている。すまし顔をしていたかと思いきや、深読みをして戦慄していたようだ。
朱華とてうすら寒いものを感じない訳ではなかったが、まずは話を最後まで聞かなくてはならない。彼は目線で真幌に続けてくれと促す。
「まあ、村人たちも二人と同じように考えたのだろうね。これは可笑しいと訴えたらしいけれど、熾野宮家は黙りのままだった。そもそも、熾野宮家と取引するとは言っても、熾野宮家の血を引く者は表に出て来ないんだ。村人たちと取引をするのは、専ら熾野宮の使用人の役目だった。だから村人は熾野宮家の当主や、その子と話すことも出来ないまま、生活のために娘を差し出すしか出来なかった。この辺りはとても辺鄙だし、政府の役人の目も届かないからね。村人たちは、熾野宮家に従うしかなかったんだよ」
「そ、そんな……」
「けれど、そう……今からちょうど五年前のことだったかな。熾野宮家に嫁いでいった娘が、嫁いでから一週間もしないうちに村に舞い戻ってきたんだ。しかも日の沈んだ真夜中に、襦袢姿のままでね。彼女は取り乱しながら、心配して駆け寄ってくる村人たちにこう言ったそうだ。『熾野宮家が滅んだ、熾野宮の者は皆死んだ』──とね」
「なっ……!」
どういう意味だ、と和比古が言おうとしたが、真幌は構わずに口を動かす。
「村の男たちは翌朝、熾野宮の屋敷へと大勢で乗り込んだそうだ。屋敷の中はまさに血の海といった様子でね、使用人から家人に至るまで、大勢の人間が斬り殺されていたんだって」
「……皆殺しにされた、ということか?」
「そうだね、きっとそうだよ。嫁いだ村の娘以外に逃げ出した者がいたのだとしても、村人は熾野宮家の内情を知らないからね。嗚呼、熾野宮の人間は禁忌に──かつてこの山に在った呪いを受けて、皆死んでしまったのだと彼らは解釈したそうだよ」
「山の、呪い……」
「熾野宮邸にあった遺体の数々は村外れに運ばれて、皆いっしょくたに弔われた。祟りがあってはいけないからと、高名な僧侶まで呼んだらしい。そのおかげかな、今は例のお武家様のお墓があったところにでも近寄らない限り、村人たちが山に入っても何の弊害もないらしいよ」
はい、おしまい。
あまりにも明るい調子で、真幌は話を終えた。それこそ、ちょっとした噂話でも話すかのような口振りだった。
「熾野宮が可笑しくなり始めたのは、ボクが最後にこの村を訪れた数年後からなんだって。だからこの話も、松之助叔父さんやよしゑさんからの手紙で伝え聞いただけだ。もしかしたら所々事実とは異なる点があるかもしれないけど、其処は許してね」
「……では、真幌君。僕たちはその熾野宮邸に行くために千世ヶ辻に連れて来られたということなのかい?」
「そっ、そうだぞ白木院! それに、な、何故、現在近永家が熾野宮邸を所有している⁉」
なるべく平静を装う朱華とは対照的に、和比古の声は誤魔化しがきかない程度まで引っくり返っていた。真幌の話はかなり堪えたようだ。何も言わないが、朱華の後ろにいる平太も顔を青くさせてぶるぶる震えながらしがみついている。
怖がらせた張本人──真幌は数秒間きょとんとしていた。そして、「ああ、それがね」と何事もなかったかのように答える。
「実は、よしゑさんの妹さんが熾野宮邸に嫁いでいてね。近永家って男の子が産まれなかったから、よしゑさん以外皆お外へお嫁に行ってしまったんだ。本当は四人姉妹なんだよ。確かお嫁に行ったのは、一番末っ子の──」
「御託は良い! 詰まるところ、近永家しかあの屋敷を引き取れる者がいなかったのだな⁉」
「そういうことさ。話が早くて助かるよ。まあ、引き取ったと言ってもあの屋敷は遺体を片付けただけで手付かずの状態だ。例の事件からもう五年も経ったことだし、いい加減に整理をしなくちゃならないと思ってね。この休暇を利用して、片付けをすることにしたんだ」
「……なるほど、僕たちは生贄のようなものなのだね」
「言い方が良くないよ、朱華。死にに行くのではないのだから、生贄という言い方は可笑しいと思うな。皆で生きて帰って来れるよ、多分」
くすくす、と笑む真幌は確実にこの状況を楽しんでいる。多分、などと付け加えたのも、富ノ森主従を怖がらせるために違いない。
朱華は眉間を揉む。
何にせよ、此処まで来てしまったからには引き返せない。今の自分には、千世ヶ辻から自宅に帰ることすら出来ないのだ。此処は腹を括る他ない。
「とりあえず、このことはボクたちだけの秘密だ。松之助叔父さんやよしゑさんに知られたら、叱られるだけでは済まされないからね。明日の明朝、こっそりと此処を脱け出そう」
「……ちなみに、このことは雪乃丞君に知らせているのかい?」
「いいや、今から伝えるつもりだよ。雪乃丞の奴、お客様の身分なのに皆の手伝いに勤しんでいるからね。そうだな、寝る前にでも伝えておくのが良いだろう」
就寝前にこのことを伝えられる雪乃丞のことを思うと、朱華は彼が不憫で仕方がなかった。何処の家も、従者は苦労するものらしい。
それじゃあ、明日ね。そう告げてから、真幌は軽やかな足取りで部屋を出て行った。儚げな見た目でありながら、野分のような男だと朱華は思った。
「……俺たちに、拒否権はないのか……」
見れば、後方でがっくりと項垂れている和比古と、朱華の背中にくっついて離れないのではないかという勢いで震える平太がいた。
今ばかりは、この二人に同情せざるを得ない。朱華はおもむろに天を仰ぎ、己が境遇をひっそりと嘆いた。