@shikanoko_aki
長らく住んでいたアパートが、遂に取り壊されることが決まった冬。鄧艾は否応なしに、新しい引っ越し先を考えなくてはならなくなってしまった。
どうせならば、海の近くに住みたいと思った。海は好きだった。数年前、スキューバダイビングの資格を取った。音のない海の中にいると、心がとても落ち着いた。元々、人といるのを好まない鄧艾にとっては、心地の良い場所だった。
「して、士載よ。先日の件なのだが」
「はい。御子息殿のことでしょうか」
「うむ…」
鄧艾の上司であり、古くからの恩師でもある司馬懿は歯切れの悪い返事をした。
先日の件というのは、丁度、二週間前に遡る。
それはあまりにも謀ったかのように、タイミングが良すぎた。鄧艾が引越しを検討し始めたのと同時に、その案件は司馬懿より告げられたのである。
「同居、ですか?」
「うむ」
「自分が、御子息殿と…?」
話の概要はこうである。今年四月より大学生になる司馬懿の長子・司馬師と、間もなく宿無しになる鄧艾とで、部屋を借りて一緒に住まないかという提案であった。
「あれはわたしの血を引いて、わたしによく似てしまった。つまり…」
「つまり…?」
「家事の類が壊滅的に苦手で、生活能力が皆無なのだ」
要するに、司馬師は一人で暮らしていくには、些か不安であるというのが父親の見解であった。
「しかし、なにゆえ自分が」
「気に入られているようだぞ。お主は」
司馬懿の口調は、どこか辛辣めいていた。
鄧艾が初めて司馬師と出会ったのは、まだ彼がランドセルを背負っていた時分だった。詳しくは割愛するが、司馬懿には長らくの恩があり、その家族とも鄧艾は幾分か交際があった。
「でしたら、直接仰って下さればよろしいものを」
司馬師とは連絡先も交換しており、父を介さずに会うこともしばしばあった。二人が逢瀬する大抵の理由は、彼からの誘いであったが。
「わたしの口から申せば、お前は必ず応ずると考えたのだろうよ。狡猾に育ったものだ」
自分の息子を狡猾と評する司馬懿の意図は分からなかったが、鄧艾は話を続けた。
「自分は構いませんが」
「…目論見通りの返答だな」
司馬懿はなんとも、面白くなさげな顔をしていた。まるで、彼自身はこの件を了承してはいないようにも見える。
「まあ、良い。師には伝えておく」
早々に、その日はこの話題の幕は引いた。
海の近くに住みたいなどというのは、ぼんやりとした願望に過ぎず、別段、鄧艾は住居に拘りなどなかった。雨風さえ凌げる寝場所があれば、事足りると思っていた。今回、取り壊されるアパートなど、築八十年越えの木造建築というとんでもない代物だった。
おもむろに、司馬懿がデスクの引き出しより資料を取り出す。鄧艾が手に取って見遣れば、それは高級マンションの間取り表だった。
「物件は師が勝手に決めてしまったが、構わんな」
「…あ、はい。自分はなんでも。しかし……」
思わず、鄧艾は書かれた家賃のゼロの数を数えてしまった。都内一等地の高層マンションは、鄧艾の収入でも住めなくはないが、選択するのは躊躇われる価格だった。
「心配せずとも、家賃は払う必要はない。その代償に、家事は軒並みお前の負担になるだろうが」
「それは問題ありません。ですが、些か金額が。これを司馬懿様がご負担なさるのでしょうか」
司馬懿は息子を甘やかし気味ではあるようだが、それにしても、学生の身分で与える住居として、それは過分すぎるように思えた。
「いいや、わたしではない。師が自分で賄うと申しておる」
「え!?お言葉ですが、御子息殿はまだ学生ですし…」
鄧艾は狼狽気味、声を荒げてしまう。つい数日前まで高校生だった子に、到底、払える金額とは思えなかった。
「あやつは何年か前から、密かにデイトレードをやって幾らか稼いでおったようだ。詳しくは把握しておらんが、この程度の出費は問題ない程度の蓄えがあるのだろう」
絶句してしまった。司馬師は未だ十八という若さながら、鄧艾とも遜色のない、いやそれ以上の稼ぎを有しているようだ。
「さすがは司馬懿様の御子息殿。敬服致します」
「わたしは我が子ながら、出来すぎていて恐ろしいよ。いつか、牙を剥かれるやも、とな」
「まさか。御子息殿はお父上を敬愛していらっしゃいます」
側から見ても、本当に仲の良い家族であり、父息子であると鄧艾の目には映っていた。司馬師は親への反抗心を抱くどころか、優秀な父をいたく尊敬していた。
「あやつもわたしに似て、表面を取り繕うのは上手いからな。この件とて、真意はどこへやら」
「…真意とは?」
「さて、な。知りたくば、師に直接聞くと良い」
その一時は、司馬懿の含みある言動に疑問を抱いたものの、それはすぐさま鄧艾の頭より忘れ去られてしまう。終ぞ、鄧艾はその真意とやらを司馬師に聞くことはなかった。
新しい暮らしにも随分と慣れてきた。少なくとも司馬師は、今の生活にある程度の満足を覚えていた。
当初、自分が想定していた筋書きから、それは殆ど外れてはいなかった。それでいて尚、十分に満たされるには至らない。
「では、先に出ますので。お出かけになる際は鍵を…」
「毎日、言わずとも分かっている。鄧艾」
苦笑気味に応答して、司馬師は読みかけの新聞から彼へと視線を移した。
もう半年は経過したというのに、同居人の対応には少しの変化もない。まるで子供のような扱いを受けるも、甘やかされ慣れて育った司馬師はあまり意に介さなかった。
「あ、あとお弁当をお忘れなく」
「学食があるから良いと言っているのに」
鄧艾は当たり前のように仕事と並行し、あらゆる家事を完璧にこなしていた。その働きは司馬師の期待以上であり、且つ、過剰と呼べるほどだった。
「ですが、栄養バランスが…」
「分かったから。早くゆけ。遅刻するぞ」
スーツは常に皺ひとつなくて、それでいて朝食の準備から片付けまでを一通りこなし、おまけに弁当まで持たせてくれる。鄧艾の毎日は完璧の体現だった。
「では、行って参りますので。司馬師さん」
「行ってらっしゃい。鄧艾」
司馬師の言葉は最後まで聞かず、ダイニングのドアはパタリと閉じた。それを司馬師はほんの少しだけ、不服に感じた。
まさしく、家政夫として鄧艾は有能だった。けれど、別に司馬師は本気で家事代行が欲しくて、彼をわざわざここに住まわせているわけではない。
「…まあ、焦ってはおらぬが」
再び視線を落とした新聞をめくりながら、司馬師は独白の声を漏らした。大学の講義は十一時からで、司馬師はもう少しだけゆったりとできた。
今の生活の気に食わぬ点を挙げるとするならば、まさに彼の態度に何一つ変化のないことであった。
「奇妙な男だな。とても、同じ人間の男とは思えぬ」
普通ではない鄧艾の様々な対応を思い起こしつつ、司馬師は自然と笑みを零す。そもそもとして、彼が正常な男であれば、このような異常な同居に承諾をするはずがないことを、提案した本人すら心得ていた。
一人きりになったダイニングは少々、物寂しい。などと思った矢先、司馬師のスマホの着信は鳴った。
「もしもし。どうした?子上」
ワンコールで通話ボタンをフリックし、特別に優しい声音で司馬師は通知画面に表示された名を呼んだ。すぐ、聞き慣れた声が電子機器を介して聴こえてくる。
『お久しぶりです。兄上。ご息災でしょうか』
「二週間前に会ったばかりではないか」
『二週間も、です。兄上』
弟である司馬昭の口調に気迫が籠もっていて、思わず司馬師は苦笑してしまう。弟は実家を出た自分の元に、両親以上の頻度で連絡を遣してくる。その大抵は、大した用事などなかった。
『先日の連休も、一度も帰って来て下さらず』
「悪いな。大学の課題が沢山あってな」
適当な理由を並び立てて、兄の帰省を求めて止まない司馬昭を、司馬師は宥めすかした。実際のところ、それはただの方便であって、司馬師の帰らぬ理由は此処にいたいため、だけだった。
『だいたい、実家を出る必要などないではないですか。俺は未だに反対して…』
「分かった、分かった。次の休みは顔を出す」
司馬昭の声を遮って、司馬師は曖昧な口約束を交わした。
司馬師の現在の生活環境に関して、弟はやたらと不満を露わにしていた。兄は居なくなって寂しいというのもあるだろうが、どちらかと言えば同居人が彼であることが気に食わぬのだと思われる。
『……アレは?』
「鄧艾なら、もう出勤した」
まるでおぞましいものの名を口にするかの如く、司馬昭は物のように鄧艾を形容した。司馬師と対照的に、弟はどうにも彼とは昔から馬が合わないようだった。というよりも、司馬昭の反応こそが実のところは正常なのかもしれないと司馬師は思うことすらある。
鄧艾はお世辞にも、性格が良いとは言い難い。先に述べたように、どこか常人とは違う感性をしていて、どうにも他人の気持ちを理解し兼ねるきらいがある。
『兄上は、何故あのような…』
「子上」
『………』
あまり人から好まれる人間ではない鄧艾と、兄が共にいることを司馬昭は快くは思っていなかった。
声音と口調をわずかに変化させて、司馬師が弟の発言を諌めれば、司馬昭は素直に口を噤む。が、此度は何やら少し頑固なようだった。
『いいえ。兄上。今日こそは言わせて貰います。わざわざ、あのような輩と暮らす真意はなんです?』
厳しい語気でまくしたてる弟の剣幕を思い浮かべながら、司馬師ははぐらかすような曖昧な微笑みを浮かべる。しかし、電話越しではその機微は相手に伝わることはない。
その疑問は、至極当然に浮かぶものであると、司馬師も理解はしていた。鄧艾本人にはその本意を詮索するほどの興味がなく、父は何か意図があってか、幸いにも詮索してはこなかった。故に、のらりくらりと司馬師は現状に甘んじていられた。
「そんなに鄧艾のことが気になるか」
『兄上を、慮っているのです』
我が弟ながら、なかなかに手強いと司馬師は嘆息する。方便なら、幾らだって吐けた。それが必要だと感ずれば、司馬師は躊躇わず、嘘を吐いただろう。
「いけないか。好いた者と、一緒に暮らしたいと思うて」
『……!?』
殊更、流暢に、すんなりと、司馬昭の望む答を告げる。と、途端に、弟の絶句する様がその息遣いより伝わった。きっと、想像に絶する狼狽ぶりを示している真っ最中だろうと思えば、司馬師はとうとう、声を出して笑ってしまっていた。
『兄上!?からかわないで下さい!!』
笑われたせいで、その兄の台詞を司馬昭は冗談と捉えたようだった。
嘘を吐くこともできた。けれど、司馬師は本心を述べた。しかし、弟が都合のいい捉え方をしてくれたため、これ幸いと、司馬師はその勘違いを訂正することはしなかった。
「子上。そろそろ、大学に行かないと」
まだ、そんな時刻ではなかったのに、根掘り葉掘り問われる徒労を危惧して、司馬師は弟からの電話を切る理由を捏造する。
『……次は、きちんと返答して頂きますからね』
「ああ。分かった。じゃあ、またな」
優しく述べて、司馬師はプツリと通話を切った。
司馬昭に告げた言葉に、嘘偽りは何一つなかった。鄧艾を好いていればこそ、司馬師は用意周到に、同棲にまで漕ぎ着ける算段を練り、見事にそれを実現まで至らしめたのだ。
「…いけない。の、かな」
自分自身で吐いた言葉を、司馬師はなんとなく反芻してみた。
愛する人と共に暮らすことは、悪いことではない。それが恋人関係として成立する、男女であれば。けれども、司馬師は男でり、鄧艾もまた自分と同一の性である。
―――恋をしては、いけないのだ
自分に言い聞かせるみたく、司馬師は心の中で唱えてみた。しかし、もう遅いのだと思う。
彼を恋しいと初めて想ったのは、もはや幾つの時だったかすら定かではない。今まで女性に、誰かに、恋愛感情というものを抱いたことのなかった司馬師は、それを自覚し苦悩した。自分は同性愛者なのかもしれぬ、と。
「……?子上、また…」
司馬師が仄暗い思考に囚われ始めた矢先、再び、切れたはずのスマホのコール音が鳴り響いた。何か言い忘れたことがあって、司馬昭が再度掛け直したのだろうと、司馬師は画面を確認することなく通話に応じた。
「子上。だから、もう学校に…」
『司馬師さん…?』
けれど、それは紛れもなく、今し方出勤して行った鄧艾の声だった。電話の向こうは弟だとばかり思い込んでいた司馬師は驚いて、一瞬、息を止めてしまう。
『まだ、お早いように思いますが、もうお出になられましたか?』
「…いいや。まだ家だよ」
司馬昭と会話していた時の声音とは、随分と違う色の声を司馬師は放つ。馬鹿げているなと自嘲しながらも、好きだ、と心の内で確かに感じた。
『…良かった』
「何かあったか?鄧艾」
今のところ、彼以外にこのような感情を抱いたことはない。弟や家族のことは愛していたが、それとこれが別の感情であることくらい若年の司馬師にも判った。
『いえ、夕刻から雨の予報だというのを失念していまして』
「洗濯物か?」
『いえ…』
だからと言って、己が同性愛だと決め付けるのは早計かもしれない。純粋に、彼にしか性愛を抱いていないだけの可能性もあった。けれど、そっちの方がより厄介であると司馬師は思っていた。
余計に、苦し無事になる。鄧艾以外誰も愛せぬと知ってしまったら、彼を失った場合、どうやって生きてゆけば良いのか。司馬師には分からなかった。
『傘を、お持ち下さいとお伝えせねばと』
「それだけのために、わざわざ電話をかけて来たのか?」
大学近くのマンションを選んだ故、ここから学舎まで、わずか十分もかかりはしない。帰り道に雨に降られたとて、少々濡れれば良いだけのことだった。
「司馬師さんを濡させるわけには、参りませんので」
そんな愛おしさを孕んだような台詞が、どういう感情を背景に鄧艾の口から吐き出されているのか。司馬師には彼の優しさに触れる度、どうにも不可解な心地に陥るのであった。何故ならば、彼は自分に特別な感情など抱いてはいないのだから。
「…お前は、わたしに酷く優しいな」
『そうでしょうか?』
「ああ」
勘違いしてしまいそうになる程に。だが、それは都合の良い曲解でしかなく、やはり、鄧艾は司馬師を愛してなどいなかった。
彼が自分と暮らすことに合意したのも、熱心に自分の世話を焼いてくれるのも、自分を気遣ってくれるのも、全て鄧艾がそういう性分だからに過ぎなかった。
「お前は現状に特に不満はないのか?」
『いいえ。特には』
当然のようにキッパリと返答して、鄧艾は続けて、何故そんなことを問うのかを司馬師に訊ねる。だけど、司馬師はそれに答えることなく、ただホッと胸を撫で下ろす。
「…そうか。なら、良い」
『…?はあ』
鄧艾は海月の漂うにどこか似ている。こうと望む先もなく、なすがままに生きることが彼にとっての普通なのだろう。
誰とも深く交わらず、流れのまま、己の思うままに生きて、一人で死んでゆく。鄧艾は多分、そういう男なのだと思う。
―――それを、閉じこめた
この広く、狭い、一室に。海中に漂わせておけば、無限に何処へでも行けたものを。その自由を司馬師が奪い、縛りつけて、己だけのものにしようとした。
けれども、未だそれは成らず。閉じこめたところで、無形の意思の読めぬ海月の心までは、どうしたって自分のものにはできなかった。
「傘、持って出る。弁当もな。感謝する」
『いえ、お礼を言われるようなことは何も』
真に、鄧艾はそう思っているのだろう。彼にとって、家事をするのも、司馬師の世話を焼くのも、寝食を共にすることも、何ら特別性はない。ただ、海に漂うのと同じ。
何処でどう生きても同じというならば、どうかここで生涯を共に過ごしてくれ、と司馬師は電子機器越しの声に耳を傾け願う。この狭い、水槽の中で。
「そうか。ありがとう」
もう一度、謝辞の言葉を述べて、二言三言交わした後、司馬師は鄧艾との通話を終えた。電話を切った後、司馬師は深く息を吐いてから、少しの間、目を閉じた。
果たして、海月は恋などしたりするのだろうか。きっと、しないような気がする。だけど、他の誰かを愛するくらいならば、誰をも愛さぬ方が良い。海になど出ず、自分だけの水槽の中で、永遠に漂って―――