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海色ソーダと恋と夏

全体公開 6667文字
2020-08-30 19:25:49

現パロ鄧艾×司馬師

 白く細い指先でスマホの画面をタップすると、その指が触れた箇所が赤く色付く。少しだけ、画面の文字が読み取り難くて、司馬師は眼鏡を外し、瞼を擦って霞む視界の調整を試みた。
「あまり強く擦られますと、余計に悪くされますよ」
 ソファの背もたれの裏側から、鄧艾がやんわりと司馬師の手首を掴んで制した。最近、自分でも無意識の内に目を擦る頻度が増えたことを、司馬師は彼に阻まれることで自覚する。
「変わらぬよ、その程度で」
 努めて明るい口調で笑ったのに、鄧艾の表情はわずかに曇る。それが建設的な意味合いではないことを、彼は知っていたから。
 司馬師は再び、眼鏡を掛け直す。何度か作り直して、度数は随分と高くなってしまった。外では視力の低下を悟られぬようコンタクトを用いているが、その目は年々悪くなり続けていた。
「ところで、何を熱心にご覧になられていらっしゃったのですか?」
 この話題を司馬師が嫌うと知って、鄧艾は話を変える。関心などないくせに、バレバレの気の使い方が不器用な彼らしくて、司馬師の機嫌は幾分か良くなる。
「インスタだ」
「インスタグラムというSNSの類ですね。存じ上げております」
 その受け答えから、興味の無さが有り有りと見て取れてしまって、自然と司馬師の口元を緩ませた。腰を屈めて顔を寄せた鄧艾にも見え易くなるよう、司馬師は少しだけスマホを傾けた。
「羊祜の投稿を見ていた」
 今どきは、SNSくらい当然にチェックしておかないと時世にも乗れぬ。司馬師とて、この手のコミュニケーションツールにそこまで興味が深くはない。しかし、付き合いという言葉の辞書にない鄧艾とは違い、交際の一環程度には触れていた。
「綺麗な写真だろう?」
 司馬師が同意を求めれば、鄧艾は思い通りに頷く。そこには羊祜の投稿した文面と写真が表示されており、写真には美しい青色のソーダ水が映されていた。休日、友人とカフェに行った際の投稿だった。
「まるで、海の色のようで美しいな」
 近頃になってようやく、美しいものを見て美しいと思う当たり前のことを、幸せと感じるようになった。
 視力はやがて、完全に失われる。そう、医師からの宣告があってようやく、だ。それがいつなのか、一年後か、五年後か、十年後か、それとも明日か。期日は定かではないものの、失うという事実を突きつけられ、司馬師は今更ながらにその存在を惜しむ日々を過ごしていた。
「お作り致しましょうか?」
「作れるのか?」
「はい。恐らく、シロップで彩色されているだけでしょうし」
 元々、司馬師に甘い鄧艾は失明宣告以来、拍車をかけて甘やかす度合いが増した。思いの外、落ち着いてその宣告を受けた本人よりも、彼の方がよっぽど狼狽したほどだ。
 鄧艾が心配するから、司馬師は幾分か冷静でいられた。彼が悲しむから、自分の不安も少しは和らいだ。
そうだな。己の目で、まだ見られる内に」
 こういう卑屈っぽい言い方をすれば、鄧艾の表情はあからさまに曇る。そうやって、彼を悲しませることで、自分の身を案じてくれていることを、直に感じられるのが嬉しかった。だから、わざと不穏な台詞を吐いてしまう司馬師の意地悪さを知っても、彼はきっと許してくれるのだろう。
「どうか、そのような悲しいことを仰らないで」
 司馬師を慮り睫毛を伏せる、鄧艾のこの顔もいずれは全部見られなくなってしまう。その未来を想像すれば、彼の言葉の通り、司馬師も悲しみという感情を胸に抱いた。失うことはいつだって、怖いことだった。
 鄧艾との結び付きには、確かなものなど何もなかった。けれど、不思議と今は、彼を失うという不安からは解放されていた。それは多分、なんてことのない、ほんの些細な言葉の積み重ねから為された信頼だった。

 鄧艾は無性愛者だった。異性にも、そして同性にも、誰にも性愛を感じなかった。ただし、不能とは違い機能は健全で、セックス自体ができないというわけではなかった。とはいえ、鄧艾はその行為に対して何の興味も持ってはいなかっただろう。
「無理して付き合うことはないんだぞ」
 嫌な奴だ。そう思いながらも、司馬師の口からその台詞はつい、口を突いて出てしまった。
 恋人になるという司馬師の提案に、彼が同意してからもう随分と経つ。それは、鄧艾が同居を合意した時とまるで同じのように、すんなりと受け入れられた。それから、数えきれないほど恋人のようなことをした。デートも、キスも、セックスも。
「いえ。あなたが望むのでしたら、自分は
「確かに、わたしはこうなることを望んだ。だが」
 シャワーは浴びないと言ったから、鄧艾が身体の汗を拭うための、ぬるま湯に漬けたタオルを用意してくれる。いつもとあまり変わらぬ、事後の光景だった。
 なのに何故、自分は不機嫌なような素振りで、あんな嫌味のような言葉を吐いてしまったのだろうか。時折、司馬師は訳もなく、暗闇に沈むような感覚に陥ることがあった。あたかも、視力を失なうように、何も見えなくなる。人はそれを不安と呼ぶのだろう。
「お前は望んでいない」
 身体を拭いてくれようとする手を引っ掴んで、司馬師は怒ったような顔で睨む。鄧艾は何一つ、悪いことなどしていないのに。今更のことを責め立てるように問い詰めて、自分勝手で司馬師は己が嫌になる。
 無性愛者なのだから、当然、相手が司馬師とて鄧艾は性愛を感じることはない。性欲がないまま抱くというのがどのような感覚なのか、彼を性的対象として見ている司馬師にとっては想像しても解るものではなかった。
「別に嫌ならば、無理に抱くことはしなくとも良い」
 彼の手からタオルを奪い取ってしまい、司馬師は自分で己の身体を清める。鄧艾は何が司馬師の機嫌を損ねているのか理解できず、困惑していた。それもそのはず。これはただの癇癪なのだから、誰の何が悪いわけでもなかった。
 天邪鬼な台詞など、決まって、否定の言葉を期待して吐かれるのだ。嘘でもいいから、嫌ではないと言って欲しい。逆の返答は、恐れているくせに。
「確かに、自分は無性愛者です。ですから、司馬師さんが自分に抱いて下さる感情と、自分のものは同一ではないのだと思います」
 鄧艾に背を向けて、彼の言葉に耳を傾けた。そんなこと最初から分かっていて、この関係性を続けていたのに、いざ言葉にされると、チクリと司馬師の心は軋んだ。
「ですが
 その時、背中に鄧艾の触れる感触があって、司馬師はわずかに驚いてしまう。だって、彼から自分に触れてくることなど、滅多にあるものではなかったから。
 当たり前である。人は触れたいと思い、相手に触れるのだから。その触れたいという感情の動機が欠如している鄧艾が、彼の意思で司馬師に触れてくる必要性などなかった。
「あ、あなたの望むようにして差し上げたいというのは、自分の意思だと思います」
それは、献身だ。恋ではない」
「そ、そうかもしれませんが」 
 殊更に優しい声をはね除けるように、理屈っぽい言葉ばかりが条件反射に溢れてしまう。恋をすると、自分がどんどん嫌な人間になっていくような気がした。
解っている。これ以上を求めたとて、仕様がないことくらい解っているのだ」
「司馬師さん
 自分は同性愛者だ。どんなに己の欠陥を呪っても、性的指向は変えられない。それと同様に、どんなに愛して欲しいと望んだところで、鄧艾が無性愛者であることがこの先変わることではないことも、頭では理解していた。
 なのに、彼が中途半端に関係を許してくれてしまうから、欲が出てしまう。司馬師はどんどん我が儘になっていく自分を止められなかった。
「解っていたとて、どうして良いのか判らぬ
 最初は共に暮らすだけで良かった。だから、半ば強引にそういう状況を作り出した。恋愛対象として好きだという旨を告げて、ほとんど一方的に関係を結んだ。彼は拒まないだろうという勝算があったから。
 それで幸福だと思い込めば良いものを。愛されたいという身勝手な想いは、年を重ねるごとに強くなっていった。司馬師はまるで、未だに片恋をしているような心地で、鄧艾の肌に触れる。
「いつまで、どこまで恋をしたら良い?どこにも終わりも、果てもないのだ」
 それが苦しくて仕方がないのだという思いを込めて、背中から回された彼の腕を、爪の立つくらいギュッと強く握った。
「恋、という言葉ですが。辞書によって定義が異なり過ぎていて、自分には少々理解しかねます」
 定義などどうでも良い、と言い返そうとした声が震えそうで、司馬師は思わず口をつぐんだ。
「あなたのお気持ちも明確には判断しかねるのです。じ、自分は察するのが不得手ですので
 鍛えられた鄧艾の胸板が、ピタリと司馬師の背中にくっつく。少し引いた汗が、またじわりと滲み出てきた。深夜と言えども、エアコンを消した夏の夜は息苦しさを覚えるほどに暑い。
「ですが、ひとつだけ、確かなことはあります」
なんだ、申してみよ」
 暑くて溶けそうなのに、離れて欲しいとは思わなかった。ああ。自分の恋はこの夏の心地のようだ、と司馬師は思う。暑さの中に居続けるのは苦しいくせに、離れてゆくのは怖いのだから。
「自分の意思でここに居る、ということです。嫌ならば、既にここには留まっておりませんし、あなたにも触れません」
“嫌ではない”の対義は“良い”ではない」
 また、卑屈な台詞を返してしまった。という後悔が、口を突いてから生じてくるのだから腹立たしいものだ。自分の恋愛事に関して以外なら、司馬師はもっと、ずっと理性的であるはずなのに。
「では、お訊き致しますが。恋の対義は何でしょうか?」
「それは……
 司馬師は回答に窮する。恋に既定の対義語はない。その反対は無関心という説もあるが、それは少し違うように思う。恋心を抱く側からすれば、求める以外の感情は、関心があろうが、やはり、無意味と同義なのである。
「恋の明確な定義を知らぬ以上、恋をしていると定義づけることは難しいかと。しかし、恋をしていないと言い切ることも出来ません。それでは、ご納得いただけませんか?」
……ずるい」
 わずかに力を籠めて、鄧艾の腕が後ろへと司馬師の裸体を引き寄せた。
 ふと、司馬師は彼がどんな顔をして、そんな恋人じみた行為をするのか見てみたくなる。だから、そっぽを向いてしまう以前より、ずっとずっと不機嫌な顔で、司馬師は背後に首を捻った。
「そんなずるい台詞を吐く男ではなかったぞ。わたしの知る鄧艾は」
「ほ、ほうへしょうか?」
 振り向き様、その小憎たらしい頬をかなり、容赦のない力で抓ってやったら、鄧艾の呂律はてんで滅茶苦茶になった。それが何故だか司馬師のツボにハマって、さっきまでうじうじと仄暗い感情を抱えていたことなど忘れて、可笑しくなって笑ってしまった。
「もう、良い。本当に、無理に愛して欲しいと思うているわけではないのだ」
 そっと、司馬師は鄧艾の胸に身体を預けた。それを当たり前のように抱き締めてくれる男の心を、疑うべくなどない。
「けれど、わたしはずっと恋をしているから」
 そういえば、彼と恋仲になったのもこんな暑い夏の季節だった気がする。夏は恋に落ち易いと言うが何故だろうか。夏のこの暑さを、恋の熱と勘違いでもするのだろうか。
「ずっと、受け止めろ。永久に」
「はい。誓って、仰せの通りに」
 極めて仰々しい返答が彼らしくて、司馬師はまた笑う。ああ、これは勘違いなどではなく、本当に好きなのだと確信する。鄧艾の言う通り、嫌ならば、こんな曖昧で歪な関係からなど、とっくに離れてしまっているだろう。
 夏の幻だったならば、とっくに覚めていただろうに。未だ、彼に愛も欲も感じるのであれば、きっと、やはり、これは永遠に続く夏の恋。
「ならば、結婚しよう」
「はい。……はい?」
 唐突に、突拍子もない提案してみれば、鄧艾は条件反射で肯定の返事をした。やはり、言いなりではないか。などと司馬師が意地悪く追及すると、鄧艾はしどろもどろになって、吃音混じりに弁解をする。
「報告したら、父はなんと言うだろうかな」
「だ、旦那様にお伝えなさるのですか!?」
「当たり前だろう」
 さらりと司馬師が言ってのけると、鄧艾は殊更に狼狽して、顔を青くしたり、赤くしたりと、珍しく百面相する。
 すっかり困り果てた彼の様子を前に、司馬師は少しの憐みの感情も抱かない。いつも自分ばかりが恋煩って、心を乱しているのだから、たまには鄧艾にも同じ気持ちを味わってもらわねば、フェアではない。そんな意地の悪いことを考えながら、司馬師は悪戯っぽく声をあげて笑った。夏の気怠く、暑い夜。

 そっと、左手の薬指に触れる。そこに嵌められたリングの形を覚えるように、司馬師は丁寧にその縁をなぞった。もしも、この目が完全に見えなくなったとしても、その感触を指で確かめれば、思い出せるように。
「どうぞ。司馬師さん」
 言って、鄧艾がテーブルの上に差し出したのは、例の綺麗な海色をしたソーダ水だった。
「本当に作ったのか」
「お約束致しましたので」
 本当に律儀な男だと感心しながら、司馬師はテーブルに置いたままだった眼鏡を顔にかけた。その色が、もっとよく見えるように。
「やはり、お前の作ったものの方が写真よりずっと美しいな」
「そうでしょうか?店で出されるものに比べましたら、見真似で作ったものなど見劣りするように思いますが」
 その青を瞳に焼き付けてから、司馬師はそっと瞼を閉じる。見た瞬間は、すぐさま思い描けるものの、この記憶を一体いつまで保持できるものなのだろうか。
「いいや。お前と見るものの方がずっと美しいよ」
 司馬師はもう、青いソーダ水の美しさなど見てもいなかった。毎日飽きるほどに眺めている、鄧艾の顔を真っ直ぐに見つめて、司馬師は意中の者でも口説くような台詞を吐く。
「そう申して頂けましたら、お作りした甲斐がありました」
 しかし、鄧艾はニコリと微笑み返すだけで、司馬師の睦言などちっとも効果はなかった。これがもっと別の誰かであったなら、自分の色香で容易に落とせる自信が司馬師にはあった。しかして、自分の好いた相手に限って効かぬのだから、ままならぬものである。
「今度は何を見ていらっしゃったのですか?」
 画面を表示したまま、ソファの上に置きっ放しにされていたスマホに目を遣って、鄧艾は訊ねる。司馬師がソファの隣を少しばかり空けて、そこに座れと指図をすれば、彼は素直に従う。
「物件だ」
「引っ越しをお考えで?」
 いずれは、このマンションとは違う家に引っ越そうと司馬師は考えていた。同棲を始めた頃は大学の近く、今は会社の近くのマンションを間借りしている。
 どうせ、目が見えなくなれば、今の仕事は続けてはゆけぬ。ならばもう、ここに拘って住む理由もなくなる。
「海の見える場所にでも住もうかと思ってな」
「良いですね。海は好きです」
 それを知っていて、海の近くを選んだのだ。けれど、司馬師はあえて、そうとは告げなかった。
 鄧艾が司馬師の良いと言ったものを覚えてくれているのと、司馬師がそうしたい気持ちは多分、同じものだと思う。
「視力が失われても、海の匂いと波の音は分かるからな」
 残る感覚を少しでも大事にしたくて、司馬師は先のように、触覚で得られるものを覚えようと彼に触れた。けれども、やはり、失われる視覚が口惜しくて、何度も何度も、しつこいくらい、鄧艾の姿を網膜に焼き付けようとしてしまう。
「ずっと、お傍におりますよ」
 司馬師の触れる指を、鄧艾が手のひらでそっと包んでくれる。この顔をあと何度、見られるのだろうか。目を失った後も、あの海色ソーダの色や、彼の顔やかたちを、いつまで覚えていられるだろうか。
「誓いましたから」
 視力を失うのは恐ろしいが、鄧艾を失うことに比べれば、存外に耐えられる。そう思っている自分は、なかなかに重症ではないのかと司馬師は自嘲気味に嘆息した。立派な恋の、病である。
「わたしがお前の姿が見えなくなっても、永遠にな」
 来年も、再来年も、また気怠く暑い夏が来る。そうして、司馬師の恋も続くのだ。きっと、永遠に。夏の恋は終わらない。


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