@Southerndwarf
序
──関東の冬は寒い。
ほう、と息を己が両手に吹き掛けながら、少女──祝はどんよりと垂れ込める冬空を見上げた。
祝はもともと関東の生まれではない。瀬戸内海に程近い、小ぢんまりとした村である。
地元の冬も寒いには寒かったが、関東に比べたらずっと優しいものだった──と、祝は今更ながら痛感する。
関東に住まうようになってから今年で三年目になるが、どうにも気候の差異には馴染めない。体に染み付いた瀬戸内の風がまだ抜けないのだろうか。
率直に言えば、祝は寒さが得意ではなかった。むしろ苦手である。
それなのに、彼女は口元まで届くであろう首巻きを巻いて、もこもことする綿入り半纏(はんてん)を羽織り、鼻の先を仄かに赤くさせながら縁側に座っている。手袋は持っていないので、両手は既に悴(かじか)んでしまった。息を吹き掛けてみたは良いものの、今度は口元が寒くなったので慌てて首巻きを上げた。
詰まるところ、祝は人を待っている。待っているとは言っても、此処は彼女の住まう家なので、待ち合わせではなく人が帰ってくるのを待っていると言うのが適切だろう。
程なくして、祝は何かを視界に留めたらしくがばりと勢い良く立ち上がった。
「兄様!」
ぱっと表情を輝かせ、祝はぱたぱたと門前に向かっていく。走るのはさすがにはしたないので、早足で我慢する。
門前には、三十路に差し掛かった辺りなのであろう優しげな顔立ちをした男がいた。門の施錠をしているのだろう。
彼は向かってくる祝を目に留めると、目尻を細めて彼女を見た。慈愛に満ちた視線である。
「──ただいま、祝。寒かったろうに、わざわざ待っていてくれたのかい」
「いえ、いいえ! 寒くなどございませ──へきしっ」
「言ったそばからくしゃみをしているじゃないか。待ってくれているのは嬉しいが、あまり無理をしてはいけないよ。風邪を引いたらいけないからね」
さ、中へ入ろう。
優しく声をかけてくる男に、祝は嬉しそうに微笑む。余程、彼の帰りが待ち遠しかったのだろう。
背が高く大柄な男の隣にいると、祝は自分が幾分か縮んでしまったかのような感覚に包まれる。もともと上背が高い方ではなかったし、十六歳になった今も五尺弱しかないものだから、当然と言えば当然なのだが。
この男、名を匂坂八尋という。齢は二十七。もうとっくに所帯を持っていても良い年頃だが、仕事の都合や本人が乗り気でないこともあってなかなかそれらしい出会いはない。
彼は穏和な顔立ちそのままの穏やかな性格をしており、血の繋がっていない祝に兄様、と呼ばれてもにこにことしている。おおらかで寛大、滅多なことでは怒らないが、その分本気で激怒した際には震え上がる程恐ろしい──と祝は聞いている。まだそれほどきつく怒られたことがないのだ。
ただ、屋敷で働いている使用人たちの話によると、八尋が激怒した時には本気で雷神でも乗り移ったかと思った──とのことである。話してくれた使用人は顔を青くしていたから、脚色している訳ではないのだろうと祝は思っている。それはそれは凄まじいのだろうと、嫌でも察してしまう。
「まずは座りなさい、祝。今日は、君に関する話をしてきたのだからね」
屋敷の中に入るなり、祝は八尋の部屋へ来るよう促された。それが決して日常的なことではないと、祝もすぐに理解した。
八尋は滅多に自室へ祝を入れない。むしろ、呼ばれでもしない限りは入ってはいけないと、祝に口酸っぱく言い含めるくらいだった。
そんな彼が、祝に関する話をしたから自室に来いと言うのだ。否が応にも緊張してしまう。
綿入り半纏や首巻きといった防寒具を脱ぎ、祝は恐る恐る八尋の自室へと入る。かちこちとぎこちない動きの義妹を目にした八尋は、困ったように苦笑いした。
「そう畏まらなくても良いよ。あまり力まずに──普段のようにしていれば良いから」
「は、はい」
そう言われても、祝の緊張は解けない。
がちがちに固まったまま正座した義妹を見遣ってから、八尋はふうとひとつ息を吐いた。
「……祝。唐突な話ですまないが、君は近いうちに新しい家に行かなければならなくなってしまった」
「え──⁉」
八尋の言葉は、至極簡潔なものだった。だからこそ、祝にとっては理解出来てしまった衝撃に身を晒さねばならなかった。
新しい家に行かなければならない。それはすなわち、この屋敷──匂坂家より追われるということではないか──!
「あ、兄様、わた、私、何か粗相を──」
「ああ、違う違う! 君が何か悪いことをしたから勘当する、という訳ではないよ。むしろ君の自発的な行動は無関係だ」
気付かぬ間に許されない粗相を犯してしまっただろうか。そう思い血相を変えた祝だったが、八尋の言葉を受けて一先ず落ち着くことにした。取り乱していては上手くものも考えられまい。
祝が落ち着いた頃合いを見計らって、八尋は続ける。
「本来ならば、このような話が持ち上がることもないはずだったんだがね。いきなり事情が変わってしまって、急に事を進めることになったんだ」
「事情……?」
「──祝。君の目は、此処に来る前と比べてどうだい」
じ、と八尋が真っ直ぐに祝の目を見つめる。
祝は匂坂家にやって来た頃から眼鏡をかけている。初めは眼前に隔たりがある感覚になかなか慣れなかったが、今では身体の一部のようにさえ思えるのだから不思議なものである。
地元にいた頃はこのような高価なものを買ってはもらえず馴染みがなかったが、いざ使用してみると便利なものだ。文明の利器に尻込みすべきではないと、かつての祝は思い知らされた。
「はい、特に問題はありません。眼鏡をかけていれば、ものもまともに見えますし……。今のところ、このままでも大丈夫だと思います」
「……そう、か。それなら、良いんだ」
祝の目には、生まれつき異常があった──らしい。
というのも、物心ついた頃から異常と隣り合わせだったものだから、祝にとっては異常と共にあることが日常だったのだ。それが異常なのだと知ったのは、周りからの視線を感じ取れるようになった時分であった。
しかし、そんな異常も匂坂家に入ったことである程度は解決されることになった。八尋が専門家に頼み込んで、祝専用の眼鏡を作ってくれたのである。
それもあって、現在祝は眼鏡をかけている間は普通にものが見えている。不調がある時にはすぐに八尋へ相談しているし、今のところ目立った問題はない。
八尋は一瞬顔を険しくさせた──かのように見えたが、すぐにもとの穏やかな表情に戻った。そんな彼を前にして、祝はある考えに思い至る。
「あの、兄様。もしかして、私の目が関係していることなんですか」
「……ああ、やはり祝は聡いね。その通りだ。君の目に関しての話が、今日の仕事で持ち上がってね……」
口には出さないが、八尋は相当疲弊しているのだろう。眉間に手を遣りながら、彼は疲れの混じった声色で話す。
「……何でも、曰く付きの家があるらしい。──いや、建物に問題はないそうなんだがね。家主が怪しいのだという話が持ち上がった。まだ確実にそうと言える情報が挙がった訳ではないけれど」
「そ、それじゃあ──私が行くのって、その──曰く付きのお家なんですか」
ぶるり、と祝は震える。曰く付き、と言われてどのような家なのかはわからなかったが、尋常ならざる環境であるということは察する他なかった。
八尋は渋い顔をする。普段にこやかな彼がこうも険しい顔をしていると、何とも言えない凄味がある。
本心では、祝を行かせたくはないのだろう。血の繋がらぬ祝を、真の妹のように可愛がり、案じ、世話をしてきた男である。まだ幼さの抜けきらない祝に苦難を背負わせるという事実を、多かれ少なかれ受け止めたくなかったに違いない。
ぎり、と八尋が歯を噛み締める音が祝の耳に入る。そして、次の瞬間には目線を上げた八尋から真っ直ぐ見据えられていた。
「──祝。君には、清里香散見なる人物の家に入って欲しい」
一 鬼が出るか蛇が出るか
よすが町、という町がある。
横浜や横須賀と並び立てる程栄えている訳ではなく、閑静な町並みをしてはいるが、鎌倉に程近いこともあって交通の便はそれほど悪くない。自然豊かではあるがある程度手が加えられており、四季の風情を楽しめる余裕を持てるような環境とも言える。
加えて、御一新の余波を受けたような事件が起こっていないことも特徴のひとつとして挙げられる。
維新より十年近くが経つが、未だに火種は全て揉み消された訳ではない。都会に行けば異人絡みで何かと揉めることもあるし、時たまには物騒な事件も起こる。
そんな世の中ではあるものの、よすが町ではそういった話はなく、比較的長閑(のどか)な場所と言っても差し支えはなかった。
景観や治安の良さからであろうか。上流階級の者たちが屋敷や別荘を構えることも多いのだという。
道行く人の中には、ハイカラな洋装に身を包んだ者もいる。似合うか似合わないかはさておき、時代の移り変わりというものを目の当たりにさせられる光景でもある。
(──の、はずなのに……)
これまで通ってきた道のりを思い出していた祝は、目の前に立ち塞がる現実に泣き出したい気持ちでいっぱいだった。
「──遠路遥々よくぞ参った、匂坂の」
眼前に座する人物は、異様の一言に尽きた。
明治と元号が改められた今からしてみれば、時代遅れも甚(はなは)だしい狩衣。頭には黒の立烏帽子(たちえぼし)。座する人物の左手──祝から見た右側──には、きらびやかな装飾の施された太刀。
そして何よりも目を引くのは、人物の顔全体を隠す能面である。 凄絶な憤怒と嫉妬を宿したその面は、確か真蛇(しんじゃ)と言ったか。かつての美女の片鱗を残さぬ形相は、まさに鬼女と言うべきであろう。
男性のものと思わしき装束に、鬼女の面。しかも傍らには武器があるときた。最早恐怖するなという方が難しい。
祝はぶるぶると震えながら、どうにか頭を下げた。礼儀を尽くさねば叩き斬られてしまうかもしれないという恐怖が、大波となって祝に襲い掛かる。
「お──お初に、お目にかかります。貴殿が、清里香散見様──にございますか」
祝の声は情けなく震えていた。無理もない。目の前にいるのは鬼面を被った、得体の知れない──しかも曰く付きの人物なのだから。
鬼面の人物は、こくりと首を縦に振る。平伏しているので、その光景は祝の見えるところではなかったが。
「──如何にも。我が名は清里香散見。この館の主である」
鬼面の人物──清里香散見の声は、男とも女ともつかない不思議な響きをしている。祝にとっては、それが一層不気味でならない。
曰く付きというからどれだけ珍妙奇天烈な家主なのだと思っていたが、こうまで攻めた外見をしているとは予想外だった。少しでも気を抜こうものなら、何か考える前に足が玄関口まで向かいそうである。
ごくり、と祝は唾を飲み込む。
──臆してはならない。退いてはならない。弱気なところを見せようものなら、それ相応の攻撃が飛んで来ることだろう。ならば、真っ向から対峙する他にない。
「こ、此度は、この匂坂祝の身を受け入れていただき、誠に感謝致します」
平伏したまま、祝は言葉を連ねる。敬語やら作法やらを完璧に弁えている訳ではなかったが、この際敬意が伝われば何でも良かった。
「当方は未熟故、粗相を犯すこともあるかもしれません。しかし、この身を受け入れていただいた御恩を仇で返すことは、天地神明にかけて為さぬと此処に誓わせていただきます。何卒、何卒よろしくお願いいたします」
どのくらいの時間、床に頭を付けていたことであろうか。
全ての言の葉を紡ぎ終え、祝が息を整えている間、清里香散見は一言も発しなかった。気まずい沈黙が室内に垂れ込めて、祝はまたしても泣き出したくなってしまった。
──駄目だ。泣いては駄目だ。私はもう、十六歳になるのだから。
そう自分に言い聞かせながら、祝は平伏の姿勢を維持する。下手すれば震える体躯を晒すことになっているかもしれないが、この際顔さえ見られなければどうということはない。
「面を上げよ」
──が、いつまでも逃げてはいられなかった。
すぐ傍から──それこそ、頭上から聞こえてきた声に、祝はびくりと肩を揺らしてしまった。顔を上げた先に何があるのか、見ずともわかってしまう程にその声は近かった。
動きたくない。だが、声は面を上げよと告げている。
祝は、顔を真っ青にさせながら顔を上げた。もう勘弁してくれ、とその表情が痛切に物語っていた。
声のした方向には、やはり清里香散見がいた。しゃがみこむようにして、祝のことを見下ろしている。
「──匂坂の、それは」
「…………へ」
「お前の鼻にかけた、その……鏡のようなものは、何という?」
清里香散見から投げ掛けられた問いかけ。それは、至極単純なものであった。
鏡のようなもの、というのは、十中八九眼鏡のことであろう。 一等珍しいものではないはずだが、かけている者が後世と比較して少ないことから、一生のうちに目にせず死する者も少なくはあるまい。
清里香散見という人物がどのような生活を送っているのかは祝にもわからなかったが、少なくとも客人を前に平安装束と能面で出てくるような者である。眼鏡を知らなくても可笑しくはないと判断した。
「え、ええと……。これは、眼鏡という装身具です」
「めがね」
「はい、眼鏡です。私は生まれつき視界に難がございましたので、義兄が生活しやすいようにと職人に作らせたんです。これがあれば、私のような──ものの見え方に難がある者も、そうでない者と同じようにものを見ることが出来ます」
清里香散見はへえ、とかほう、とか、そんな響きの吐息とも声ともつかぬ音を上げた。鬼の能面に隠されているので、どのような表情をしているのかはわからなかった。
しかし、これで鬼面の人物は満足したらしい。す、と流麗な動作で身を引くと、もともと座っていた上座に戻る。
「──下がって良い、匂坂の。お前の部屋は東側の、最も奥まったところにある。荷物なども其処に置いておくように」
「はあ」
「何かあれば北東の部屋まで来るように」
気の抜けた返事しか出来なかったが、どうやら此処は退室する流れのようだ。
祝はいそいそと居住まいを正すと、最後に改めて一礼した。そして、清里香散見に背を向けないようにと心掛けながら、そろりそろりと部屋より退いた。