「葛之葉さんって、やっぱり子供の頃よく寝てよく食べてよく遊んだんです?」
「ん?身長のことかい?」
雨彦さんとちっちゃいPさんの、身長と見たことのない景色のお話です。
@toasdm
事務所のドアを、文字通りくぐるようにして少し腰をかがめて入ってきた雨彦を見て、彼女は初めて雨彦と出会ったときのことを思い出す。お疲れさまです、と声をかけながら、冗談みたいな背の高さだ、と改めて思う。見上げる高さにある顔よりも高い位置にある顔は、彼女の知る限り見たことがなかった。ソファに腰掛けた雨彦に、冷えた麦茶を差し出しながら、彼女はなんの気なしに聞いてみた。
「葛之葉さんって、やっぱり子供の頃よく寝てよく食べてよく遊んだんです?」
「ん?身長のことかい?」
「そうですそうです」
麦茶を乗せていたお盆をさっと拭きながらそう問いかけてきた彼女に、そうさな、と雨彦は麦茶を一口飲んで笑って答えた。
「まあ、程々だな。睡眠時間があるに越したことはないらしいが、身長に関しては遺伝要素の方が強いって話だぜ」
「寝る子は育つ、って嘘なんですか…」
少ししゅんとした表情の彼女が戻ってきて、すとん、とデスクに腰を下ろす。お前さんはいつも忙しそうだな、と目を細めながらそれを眺めて、雨彦は苦笑する。
「まるっきり関係ないってこともないが、何時から何時は必ず寝るとかとにかく長く寝るとか、そういう厳密な決まりはないってことさ」
「うぅん……」
「お前さんくらいの歳になっちまったらもう伸びないだろうしな」
百九十一センチの雨彦に対して、彼女の方は百五十センチあるかないかの小ささだ。日本人女性の平均身長より十近く小さい彼女の可愛らしさは、雨彦をいつもなんとも言えない気持ちにさせる。
「私の頭を肘置きにしないでください!」
「っはははは」
その小ささも相まって、むぅぅ、と頬を膨らませれば、雨彦からして見れば、子供のような印象が強くなる。いつも俺達を引っ張っていってくれるお前さんの中身と、この子供みたいな外見との違いはなんなんだろうな、と苦笑しながら、雨彦はいつものようについ悪戯をしたくなってしまうのだ。はぁぁ、と小さい体から小さい溜め息を吐き出して、彼女はぽつりと呟いた。
「いいなぁ、背が高いってどんな景色なんです?」
これだけ背丈が違えば、見える景色もさぞかし違うんだろう、という彼女の言い分はわからないでもなかった。雨彦の方は屈めば彼女と同じ景色が見えるが、彼女の方はそうはいかない。顎に手を当て考えて、雨彦は言葉をひとつ選び出す。
「そうさな……人の頭がよく見えるぜ。てっぺんがな」
「へぇ……」
てっぺんなんだぁ、と感心したように呟くのがおかしくて、雨彦は彼女の隣に背中を向けてしゃがみこみ、肩越しに振り返ってぽんぽん、と自分の肩を叩いた。
「どれ、見たことない景色見せてやろうか」
「肩車しようとしないでください!高いとこ苦手なんです!」
「っくく……そうかい」
そうやってすぐからかう、とぶつくさ文句を垂れる彼女が、チェアをくるりと雨彦の方へ向けてぺしぺしとその肩を叩く。いつもの礼さ、と笑う雨彦に、お礼になってないです、とふてくされて、彼女は普通のお世話しかしてないですよぼそぼそと言った。
「お前さんが先に見せてくれたんだろう?」
「何をです?」
雨彦の意図がうまく掴めず、彼女は首を傾げた。見せるって何を?と雨彦の肩をじっと眺める彼女に、雨彦はウィンクしながら答える。
「俺達が見たことない景色をさ」
あー、そういう?と理解した彼女と、ま、そういうことさと笑う雨彦が、一呼吸の後くすくすと笑い合う。その礼さ、と彼女をひょいと抱えた雨彦が、まるで子供にそうするかのように彼女を自分の肩に乗せて立ち上がり、どうだい見えるかい、とその場でゆっくりぐるりと回った。
「だから肩車禁止ですって! うわ高っ、怖っ」
「暴れたら落ちるぜ」
「た、高い……」
不思議と恐怖感はそこまでなかった。そこまでではなかったが、やはり普段の視界とはまるで違うその景色に、知らず彼女は足に力を入れていた。
「お前さんお前さん、腿の力抜いてくれ、アイドルの顔が潰れてる」
押さえててやるから、と緊張した太腿をぽんぽんと叩く雨彦の頬を挟み込んでいた彼女が、すぅ、はぁ、と深呼吸をして、事務所の中を見渡す。
「うぅ……高い、怖い……けど」
「ん?」
ゆっくりと力が抜けて、少し笑ったような声で彼女は言った。
「いい、眺め、初めてかも」
「そうか」
これが葛之葉さんがいつも見てる景色かぁ、となにやら感慨深げに言うのがおかしくて、雨彦は流石にそれよりは低いがねと苦笑する。百九十一に彼女の上半身の身長が足された景色は、雨彦だけでも彼女だけでも見ることができない景色だ。
「なんか、いいかも」
「……ッフ。そうかい」
慣れてきたのか、雨彦の上で彼女はあちこち見回している。雨彦の頭に軽く抱きつくように掴まったまま、彼女は小さな決意を口にした。
「もっと、頑張って、いっぱい、いろんな景色一緒に見ましょうね」
「そうだな」
一人では見ることのできない景色を、お互いに見せてあげられるという信頼が、この肩車にあるような気がして、彼女はくすくすと笑う。しかし――…。
「ところでおろしてくださいこわいです」
高さに慣れてしまうと、今度は別なことが気にかかってしまう。子供じゃないんですから、子供扱いしないでください、と雨彦の頭を軽くぺしぺしと叩いて、彼女は肩車に対しての抗議を始めた。
「……はは、そうだな」
お前さんは大した御仁さ、とまた子供でも扱うかのようにひょいっと彼女を抱きおろして、雨彦はにんまりと笑った。
「もう……葛之葉さんの方がよっぽどイタズラ好きの子供みたいじゃないですか!」
「そうかい?」
そうですよ、とデスクに戻った彼女の頬と耳の赤を見つけて嬉しくなった雨彦は、たしかに、お前さんの言う通りかもしれないな、とソファに戻る。
氷が溶けた麦茶は程よく薄く、雨彦の方の赤を冷ますにも丁度いい冷たさになっていた。