風花雪月 ディミトリとベレス結婚後の暗いやつ
@syuu_29
夜はすでに明けていたが、時間を確認するつもりも、起き上がるつもりもまだなかった。理由は一つしかない。隣で眠っている人を眺めるためだ。
朝日の差し込む寝台で、静かに眠る女の目が覚めるのを待っている。
こちらに横向き眠る彼女の頬には、髪と同じ浅緑の睫毛の束が微かな影を落としている。無防備な眠りの様子は飽きもせず眺められるが、それでも滑らかな頬に手を伸ばし、造形をなぞるふりでその呼吸が穏やかに続いていることを確かめる。
その左手では咎めるように白銀の指輪が夜を流れる星のようにきらめいて、意識を引く。男の指にはやや華奢な指輪には、若紫色の石が輝いている。日が落ちる前に遠くの空から盗み出したような石の色は彼女の与える祝福のように静かで優しい。どうせ手袋をするだろうと押し切られるままサイズを直させられたものだから、今や自分の一部のように違和感はないが、それでも自分の指にそれがおさまっているのを思い出すたびに、奇妙な気持ちになるのが本音だった。なにしろ想像もしなかった未来の最たるものだ。得られると思わなかった平穏。温もり。未来という道の先。唇が綻ぶ自覚があった。
だからこそ。
「――いいなあ」
文字通り水を差すように、冷たい声が落ちる。
恨めしげな声は若い。女だ。だが誰なのかはわからない。そもそも誰かがほんとうにいるわけじゃない。誰の声でもない。
「きれいですね」「ずるいなあ」「殿下は何でも手に入れられて」「人殺しのくせに」「見捨てたくせに」「どうして」
声は重なり、次第に性別の区別すらつかなくなる。
重なる声はいつも冷たく恨みがましく湿っている。誰の声でもない。
わかっているのだ。区別はつく。つけられるようになった。
それは姿を現さない。こうして暗闇の中から囁いてくる声たちは皆等しく姿を持たない。
それでもこうして、死者の声はふいに落ちてくる。足元に落ちる影に釘を刺すかのように。
ひやりと心が冷えるその瞬間はいつも、幸福のすぐ隣にある。その影の中から伸びてくる指先で、後ろ髪を引く。振り向けと訴える。足元の屍たちが前を向くなと足首を掴む。燃える血肉の匂いが追る。闇の帳が背後に落ちている。横たわっていたはずが、ちらちらと頼りない松明が影を伸ばす回廊に立っている。背後から誰かの腕が伸びてくる。冷たいとも思わない。ただ、胸の奥がしんとして、逃れる気にもなれない。
「ディミトリ?」
あたたかな声が落ちてくる。
名前を呼ばれ、我に返る。
目の前は眩しいぐらいに明るかった。
ディミトリは寝台に横たわる自分を自覚して、それからもう一度、目の前の女に意識を向け直す。夢の中のような現実を見る。暖かな指を感じる。
いつの間にか眼前で眠っていたはずの女の浅緑の瞳は開かれ、その呼吸を確かめていたはずの指先は暖かく華奢な手に絡め取られていた。
「……ベレス」
名前を呼べば、「おはよう」とベレスは答えながら惚けている隻眼の男に空いているほうの手も伸ばした。その手が額を撫でるようにして額に貼り付いた前髪をかきあげると、ようやくディミトリは汗が噴き出ていたのを自覚した。
「夢見が悪かった?」
やわらかな声の問いかけに絡め取られた指先を握り返しながらディミトリは答えを探した。
指先には彼女の熱が移っている。どれほど惚けていたのかを知る術はない。
「……どうだったか」
濁す言葉にベレスが僅かに眉根を寄せたのを視界に捉えてはいたが、うまい答えを見つけられない。
そもそも夢見は悪くない。本当だ。そもそも夢は見ない。眠りはただの闇だ。ディミトリを苛まない。
厄介なのは眠りと現実のあわいだ。
だがそれでも悪夢に落ちるディミトリの手を、ベレスだけがこうして何でもないように拾い上げる。
お前をみたら忘れてしまった、と真面目に答えながら、ディミトリは横たわる彼女の身体の下に腕を差し込んで、柔らかな身体を引き寄せる。絡め取られた指先は自分の首後ろへと回させて、頭を彼女の額のそばへ寄せて甘える。
そうして額を寄せると昨晩じゃれ合うように肌へ馴染ませあった香油の残り香が感じられた。
自分にもすっかり馴染んだその香りをディミトリは深く吸い込みながら、瞼を下ろした。
唇が綻ぶ。けれどもう声は聞こえない。
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末永くいちゃいちゃと暮らしてほしいというのと永劫苦しむ殿下みたいという気持ちを書き留めたものです