@ayame0601s
知りたいのなら、『街』へ。連れていってやろう。
三日月さんのその言葉は、あまりに魅力的に聞こえた。鶴丸さんが出かけて行った『街』へ行けば、彼らが何者なのか、この世界がどんな所なのかを知る事ができる。
それは確かに、彼らを祀り直すために必要な事に思えた。
真実を知れば、込める心も違ってくるはずだ。しかし同時に、その真実を知るのが、ひどく怖くもある。
まるで、土の奥深くに埋めた秘密に、触れるような。
触りたくないから埋めたのに、わざわざそれを掘り起こしてしまうような、恐怖に近い感情がわき起こる。
それに、ふと、髭切さんの言葉も思い出す。
『君は行かない方がいいよ。人の子だから』
初日、お肉を買ってもらった日に言われた言葉だった。万屋のようなものがある、と。しかしそこへは、私は行かない方がいいと言われた事を、ふと思い出したのだ。
私は、人、だから。
「どうする? 無理強いはしないが」
口をつぐんでしまった私の心を見据えるように、三日月さんはその目元を細める。
吸い込まれるような深い藍色の瞳と、落ち着いた響きを持つ声色。艶やかに微笑むその表情は、人を魅了するようなもの。
彼を見ていると、思考を放棄して、ただただ見惚れてしまいそうになる。蠱惑的。まさにその表現がぴったりだった。
自我を保つためにぐっと腹部に力をこめると、言葉を選びながら口を開いた。
「あの、聞いてもいいですか?」
「ああ。なんだ?」
「その……『街』は、人間の私にとってどのくらい危険な場所なんでしょうか」
変に言葉は濁さない方がいいだろう。そんな直感が、頭の片隅で囁く。
三日月さんは興味深そうに目を見開くと、直後、くすくすと笑った。
「なるほど、なるほど。いや、そのくらいの警戒心は持っておいた方がよいな」
喉の奥でクツクツ笑うと、三日月さんは和らげた目元はそのままに、私へ視線を向ける。
「妖物は、人の心を惑わせる。それは無論、俺だけに限った事ではないからな」
意味深なその言葉に、思わず眉根が寄った。それはどういう意味なのだろう、と考える間も与えられず、三日月さんは「危険かどうかだが」と続きを口にする。
「人間のおぬしにとって、安全と呼ぶには程遠い場所だ。なにせそこは、人々に捨てられ、神ではなくなったものたちの集まりなのだから」
え? と疑問が口から溢れそうになり、しかしそれを音にせず、飲み込む。疑問を口にするより先に、心臓が大きく脈打ったためだった。
三日月さんは終始変わらない笑みで私を見ている。
そんな彼へ視線を返しながら、あの夜──三日月さんが月見酒をしていた、あの夜の会話を、必死に思い出そうとしていた。
「だが、もし行くと言うのなら、おぬしに危険が及ばぬようにしよう」
三日月さんの視線が、真っ直ぐ私へ注がれる。それはまるで、心内までも見据えるかのようなもので、思わず後退りそうになってしまう。
彼は、私の反応をただ観察している。その微笑みは怖いほど、全く動じないものだった。
「して、どうする? 主よ」
緩やかに弧を描くその唇が紡いだ言葉に、目を見開いた。
主──今までしてこなかったその呼び名を、ここで出してくるなんて。
試されている。もう、そうとしか思えなかった。
高まる緊張を必死に抑えながら、三日月さんから目を離さずに口を開く。
「……行きます。私を『街』へ連れていってください」
三日月さんと書庫で別れ、30分後に玄関で待ち合わせとなった。
髭切さんに一言でも伝えておかなくては、と、そう思ったものの、「俺から伝えておこう」と三日月さんに先を越されてしまった。
「あやつは、寝起きがあまりよろしくないようなんでな」
愉快そうに笑う三日月さんに何も言えず、結局、彼に伝言をお願いすることになる。
外出の準備といっても、特別これといってなかった。相変わらず使えない携帯は持っていても仕方ない、と思いつつ、一応バッグに入れる。この世界でお金が使えるか分からないものの、お財布も入れた。
寒くないようにだけなるべく着こんで、コートを羽織り、頃合いを見て部屋を出る。
さっきはつい、虚勢を張ってしまったけれど。本当は恐怖心が胸の底でくすぶっていた。
本当に『街』へ行って大丈夫なのだろうか……。
きゅっきゅと鶯張りの外廊下が鳴る。空を見上げれば、朝は少し明るかったというのに、今はどんよりと厚い雲に覆われていた。その重々しい空を見ていると、尚のこと不安に煽られる。
この不安は、連れていってもらうのが三日月さんだから、というのもあるのかもしれない。先ほど話していても、やはり彼は、どこか得たいの知れなさが強いのだ。
髭切さんや膝丸さんよりも。おそらく、鶴丸さんよりも。
幾つかの部屋を通りすぎ、玄関へ着いたものの、そこにはまだ三日月さんの姿はなかった。
少し早かっただろうか。とりあえず靴を履いておこう──そう思いながら腰をおろした、その時。
ふと鼻を掠めた、お香のような香りに、ハッとした。
『行ってしまうのか』
聞こえた声に、弾かれたように後ろを振り向く。
「……すまん。驚かせてしまったか?」
部屋の入り口から顔を覗かせた三日月さんが、目を丸くしてこちらを見ていた。手に持つ煙管から、ゆらゆらと白い煙が揺らいでいる。
その部屋は、ついさっき通りすぎた和室だった。どうやら彼はそこで待っていてくれたらしく、私は気付かずに通りすぎていたらしい。
それよりも。聞こえた声に、心臓が胸の内側を激しく叩いている。
「あ……あの、さっき何か言いましたか?」
「ん? 準備はできたかと問うたが」
「あ、はい。準備は、できました」
言葉が、しどろもどろになってしまう。三日月さんは不思議そうに小首を傾げるも、「なら行くか」と笑みを作って言うと、一度部屋の中へと姿を消した。
再び姿を現した彼の手に、煙管はない。代わりに一切れの布を手にしていた。
「おぬしは、これを着けておいた方がよかろう」
差し出されたその布に視線を落とす。
「これは?」
「面布だ。まじないを施しておいたから、他から手を出される事は防げるだろう」
三日月さんはその布を広げ、全貌を見せてくれた。
白い布に、墨で何やら複雑な文字が書かれてある。護符で見るようなその文字は、記号のようにも見え、私には解読できない。
「この文字、三日月さんが書かれたんですか?」
「ああ。まーきんぐ? と言ったか。そのようなものだ」
三日月さんはそう言うと、楽しそうに笑う。
「どれ、着けてやろう」と言われ、頭の後ろで面布の紐を結んでもらった。ふわりと、先ほどのお香に似た香りが鼻腔をくすぐる。
面布を着ければ視界が悪くなったものの、完全に遮られたわけではなかった。不思議と周りは見えるため、歩く分には何も困らなそうだ。
「きつくはないか?」
三日月さんに問われ、頷く。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
「うむ。それを外すでないぞ。直に目が合おうものなら、連れて行かれかねんからな」
その言葉にぞくりとし、三日月さんへ振り向けば、彼はいつもの微笑みで私を見下ろしていた。
「さて、行くとするか」
→
暗く鬱蒼とした森の中、髭切さんの背を追って歩いたその道を、今度は三日月さんの後をついていく。
刺すように冷たい風が頬を撫で、木々の葉をざわつかせている。
相変わらず不気味なその森を、三日月さんも髭切さん同様、慣れた様子で進んでいった。面布越しだと視界が悪いため、『街』に着くまでは頭の上に捲った状態で、私も歩みを進める。
体が震えて仕方なかった。それは寒さからか……緊張や不安からなのか。おそらくどちらもあるのだろう。
胃酸が込み上げるような不快感も感じ、少しでも和らげるために、手を胃の辺りに当ててみる。そうしていればほんの少し、楽な気もした。
荒れ果てた鳥居をくぐり、しばらく獣道を進めば、暗闇に滲む朱色の明かりが、視界に映り始める。灯籠の明かりだ。そこに砂利道でできた本道がある事は、この道を往復した経験から察していた。
その明かりのそばには、長い長い階段がある事も。
「さて、心の準備はよいか?」
獣道を抜け、灯籠の明かりが灯る砂利道へ足を踏み入れれば、三日月さんはこちらを振り向いて言った。彼の言葉に頷き、すぐそばにある石畳の階段を見上げる。
上へと続く、長い長い階段。階段の両脇には灯籠が連なり、一段一段を朱色の明かりで照らしていた。その先の頂上には、大きな鳥居がそびえ立っている。
髭切さんが言っていた。長い階段の先に、万屋のようなものがある、と。
あれが『街』の入り口なのだろう。
「ほう……すでに行く先が分かっているようだな」
三日月さんの言葉に、ハッとする。
口角を緩やかに上げて微笑むその表情は、全てを見透かすような、隙のないもの。
後ろめたい事など何も無いのに、その視線に捉えられると、そわそわと居心地の悪さが襲ってくる。
「……髭切さんが言ってたんです。万屋のようなものが、階段の先にあると。ここを通ってきたので」
嘘はついていない。けれど、何故だろう。三日月さんの前で髭切さんとのやり取りを口にするのは、どこか引っ掛かりを覚えるような、躊躇いが生まれる。
三日月さんは微笑んだまま、「そうか」と言った。
「この階段の先が『街』だ。行くとしよう」
ひらりと狩衣の裾をひるがえし、三日月さんは階段をのぼり始めた。そんな彼の背を視界に入れ、さらにその先に佇む鳥居を見上げる。
朱色の光で照らし上げられた、大きくて立派な鳥居の威圧感に、無意識のうちにこくりと唾を飲み込んだ。
一段、一段、足を踏み外さないよう慎重に三日月さんの後を追っていく。石畳の階段は、随分と足場の悪いものだった。でこぼことしていて、おまけに斜面が急だ。
「この長い階段は、じじいにはちと堪えるんだがなぁ」
三日月さんは冗談混じりに笑う。それが冗談だと裏付けるように、彼の足取りは軽やかだった。
対する私はというと、まだ半分のぼったところだというのに、すでに息切れを起こしていた。
階段が急で、緊張も相まってか、体力が奪われる。
しかし、それだけではなかった。
ひどく寒気がするのだ。冬の凍てつく外気のせいもあるだろう。けれど、明らかにそれだけではない。
もっと、足元から悪寒が這い上がってくるような。
その悪寒が、内臓を撫でるような、気味の悪さ。
一段一段あがるたび、その寒気がひどくなる感覚に、緊張の糸が張り詰め、呼吸を早めていく。
気味が悪い──その先へ行くのが、怖い。行きたくないと、本能が必死で引き止めるような。そんな感覚だった。
それでも、ここまで来てしまったのだからと、何とかのぼりきる。頂上に立ち、間近で鳥居を見上げれば、その威圧感に思わず足が竦んだ。目眩がしそうになり、腹に力を入れる。悪寒が、ひどい。
「大丈夫か? 引き返してもいいが」
三日月さんの声に彼を見れば、彼は息切れひとつしない表情で私を窺っている。
「……いえ、大丈夫です」
「無理はするな。此処はおぬしにとって、さぞかし空気が悪いのだろう」
俺にはもう分からんが。そう続けた三日月さんは、鳥居の内側へと視線をやる。つられるように私も『街』へと目を向け──言葉を失った。
暗闇の中で、赤く染まった世界だった。
それは提灯の明かりによるものだと理解するのに、少しの間が必要なほど、闇に浮かぶ赤い光は不気味なものだった。
階段での朱色とは違う、赤一色に包まれた町並み。
一本の石畳の道が、奥まで続いていた。そこを、人が疎らに歩いている。
道の両脇には木造の家屋が軒を連ね、真っ赤な提灯が、その家屋同士を繋ぐように張り巡らされていた。
風で、吊るされた提灯が個々に揺れる。
滲む赤は血の色を連想させ、その景色に、そこに渦巻く禍々しくも感じる空気に、冷たいものが背筋を走った。
「面布をせねば、連れていかれるぞ」
三日月さんの言葉に、ハッと我に返った。捲ったままの面布を急いでおろして、顔を隠す。
視界が悪くなったものの、布一枚とはいえ隔たりがあるからか、ほんの僅か安心感が生まれた。しかし、肌で直接感じる空気は変わらない。
「どこまで行こうか。とりあえず、ぐるりとその目で確かめてみるか?」
「……はい。お願いします」
「あい分かった。俺から離れるなよ」
三日月さんは笑むと、鳥居をくぐって中へと足を踏み入れた。そんな彼に遅れるまいと、念のため一礼して、私も鳥居をまたぐ。
どうやら、三日月さんは口で全てを説明してくれないらしい。まずは自分の目で確かめろ、という事なのだろうか。そもそも、本当にこの世界の事を教えてくれるつもりで、此処へ連れてきてくれたのだろうか……。
今更ながらに不安になりながら、三日月さんのすぐ後ろをつく。彼の背中を常に視界に入れ、ちらりと周りを見渡した。
そこは本当に『街』だった。
私の知っている街は道路に車が走り、コンクリートの建物が多いけれど、此処は木造で出来た町屋ばかりだ。それは随分と古い造りのものに見えた。
格子造りに、瓦の屋根。どれも古い歴史を思わせるもの。
町屋は主に店のようで、のれんがかかっている。各々ののれんに何か文字が書いてあるも、それを読み取る余裕はなかった。
すれ違う人々と、目が合いそうになる。
いや、人ではないのだろう。この場所で平然と歩けるものが、人のはずがない。人以外の何かなのに、皆、人のような姿形をしている。
服装も様々だった。和服に、洋服。年齢も様々だ。子供までいる。
よく見れば、誰もが皆、刀を携えている。もしかしたら三日月さんたちと同じ、刀の付喪神、なのかもしれない。
容姿は様々だった。けれど皆一様なのは、私を興味深そうに見る視線だった。
その視線が、ひどく気味が悪い。悪寒が走り、怖い、という感情が肺を締め付ける。じっとりと、まとわりつくような。「連れていかれる」と言っていた三日月さんの意味を、肌で感じるようなもの。
鳥肌がおさまらなかった。奥へ進むたび、入り口で感じた寒気が一層強くなっていく。たくさんの視線も感じ、恐怖で胃が縮みこむ。
もうこの辺で音を上げたかった。帰りたいと言えば、三日月さんは帰らせてくれるだろうか──。
口を開こうか迷っていたその時、ふと、視界に入ったその姿に、目を見開いた。
「……髭切、さん」
髭切さんだった。
彼から視線を離せないまま、思わず歩みを遅める。
ここから斜め前の、少し離れた場所に、髭切さんがいる。
町屋の前で、誰かと立ち話をしている様子だった。
ふわりと、柔らかそうな髪が風に揺れている。肩にジャケットを羽織った服装に、引き締まった身体と長い足。上から下まで眺めれば、少し離れていても彼だと認識できた。
よくよく見れば、髭切さんが話している相手は、膝丸さんだ。
──なんで、此処に二人が……。
不思議に思い、あまりに凝視しすぎたのかもしれない。私の視線に気づいたのか、髭切さんがこちらを見やり、どきりと心臓が跳ねた。
足を完全に止めて、彼を見返す。彼はそんな私を見て小首を傾げると、こちらへと歩みを進めた。
髭切さんが近づいてくる。彼の姿を見つけて、どこか安心する自分がいた。この気味が悪い街の中でも、髭切さんがいるなら──頭の隅でそう思ったのは確かだった。
しかし、そう安心したのも束の間、違和感が顔を出し始める。
近づいてくる髭切さんは、その目元と口元に笑みをたたえている。その顔は間違いなく彼なのに、その表情を見た途端、冷たくぞわりとしたものが肌を滑った。
──違う。彼じゃない。
そう察すれば、恐怖心が一気に膨れ上がる。
──目を、離さなければ。
彼から、視線を逸らさなければ。足を動かして、三日月さんを追いかけなければ。
直感が言う。彼から、離れなければ。あれは、私の知る髭切さんじゃない。怖い。はやく、逃げないと──
頭で強く命令しているのに、体は金縛りにあったかのように、動かせない。
髭切さんが、こちらへ視線を固定したまま、近づいてくる。
「これ。離れるなと言っただろう」
三日月さんの声にハッとし、びくりと肩が跳ねた。
先ほどまで動かせなかった体に神経が伝わり始め、ゆっくり顔を動かして、三日月さんを見上げる。
目があった彼は眉を下げ、困り顔をしていた。
三日月さんの声をきっかけに、金縛りが解けたかのように体が軽くなる。
「あ、三日月さ──」
「ありゃ。その娘、君の?」
私の言葉に被せられた声に、再び緊張が走った。
そちらへ視線を向ければ、一体いつの間に距離を詰めたのか、思っていたよりもすぐ近くに髭切さんがいた。彼は、三日月さんへ視線を向けている。
間近で見ても、やはりその顔は髭切さんにしか見えない。
「ああ、すまんな。俺の連れだ」
隣で、三日月さんが穏やかな口調で言う。
「なんだ。残念」
そう言った髭切さんは、三日月さんを見ていた瞳を、ふと私へ向けた。心臓が跳ね、また金縛りのようになるかと思ったものの、今度は大丈夫だった。
髭切さんは私を見て、にこりと微笑む。
笑ったその表情も。柔らかい声も、話し方も。
全て一緒なのに、やはり目の前の彼は、私の知る髭切さんじゃない。
怖い、と思った。何がこんなにも恐怖を煽るのか、分からない。
しかし目の前の彼から、どうしても逃げ出したい衝動に駆られる。
「おや。僕が怖いのかい」
髭切さんは笑みを浮かべたまま興味深そうに言うと、自身の膝に手を当て、腰を僅かに屈めた。近づく目線に、体が強ばる。
一歩後ずされば、彼は目尻を和らげて笑みを深めた。
「こっちを見ていたから、思わず近づいてしまったけど。怖がらなくて大丈夫だよ」
「……」
「君、まだ此処に来たばかりだね?」
それは何の脈絡もなく、唐突に言われた言葉だった。いきなり、何を……そう思うものの、投げられたその言葉がやけに引っ掛かる。
それは、問いかけではなく、確信を持った言い方だった。
一体、どこからそう確定できたのか分からない。何を見て、彼がそう思ったのかも分からなかった。
しかし彼が言うことは確かであり、その言葉には何かしらの意味が含まれているようで。
どうしよう……何か、答えた方がいいのだろうか。
そう思うも、会話をする事に躊躇いが生まれた。
一言でも声を発する事すら躊躇してしまうほど、目の前の髭切さんから、恐怖心を拭いきれずにいる。
「これこれ。あまりからかってくれるな」
私と髭切さんの間を、三日月さんの腕が遮る。彼のゆったりとした着物の袖が、私と髭切さんとの間に壁を作るようだった。
たったそれだけでも、一気に安堵感が生まれる。
三日月さんを見上げれば、彼の横顔は髭切さんを見据えるものだった。その唇は緩く弧を描いているものの、目元は全く笑っていない。
そのまま視線を髭切さんへ移せば、三日月さんを見やる彼も、同じ様な笑みをたたえていた。
「……ふふ、ごめんね。つい。だって、君さ」
髭切さんは目線を私へ戻すと、その目元を細めて言う。
「僕の気、少し交ざってるから」
──え?
思わず、疑問符が口から溢れ落ちそうになる。
言葉に、頭を殴られたかのようだった。
髭切さんの気が、交ざっている。
誰に──私、に。
何を言っているのか分からなかった。目の前のこの人は、一体、何を。
呼吸さえ忘れてしまうほどの衝撃に、何も言えず、ただ彼を見つめる事しかできなかった。
髭切さんは面布越しでも、しっかりと私と目を合わせてくる。
一体、どういう意味なのだと。
そう問いたいのに、言葉が出てこない。
「悪いが、ちょっかいもその辺にしてもらおう。俺は、あまり気が長いほうじゃないんでな」
緩やかな声と共に、三日月さんの狩衣が視界に入る。私を静かに後ろへ追いやった後、髭切さんとの間を遮るように、三日月さんが割って入ってくれた。
今は、彼の大きな背中しか視界に映っていない。
「ありゃ。悪かったよ。君を怒らせたいわけじゃないんだ」
いつもと同じ調子の、穏やかな髭切さんの声が耳に届く。
「それじゃあね」
あっさりそう言ったかと思えば、直後、靴の音が遠ざかり始めた。三日月さんの背中から恐る恐る前を覗くと、髭切さんの後ろ姿が目に映る。
緊張は居残るものの、髭切さんが離れていくのを見て、ホッと胸を撫で下ろした。
「……食えぬ刀よ」
ぼそりと三日月さんが言う。見上げれば、横目で私を見下ろす瞳とかち合った。
「大丈夫か?」
「あ……はい。ありがとうございました」
「なに、大した事はしていない。おぬしに何かあっては、うちの髭切が煩いからな」
三日月さんは笑う。それはさっきまでの緊張感をまるで感じないような、軽快なものだった。
──うちの、髭切。
「あの。さっきの髭切さんは……よその本丸の、ですか?」
言いながら、鶴丸さんの事を思い出していた。まるで瓜二つ。見た目も姿も、彼らは全く同じだった。私には、見分けがつかないほどに。
それは先ほどの髭切さんにも、同じ事が言える。彼の場合は違うと分かったけれど、それでも外見は全く同じものだった。
「ああ、そうだ。そこまで聞いているのだな。此処には、ああいうものが多くいる」
無論、俺も含めて。と三日月さんは続ける。
「引き返すなら今のうちだが。どうする?」
三日月さんはゆっくり私へ向き合い、問いかける。思わず、答えに詰まってしまった。
引き返すなら、今のうち。
本当は、もう引き返したい。この場所が怖くて仕方なかった。得たいが知れず、不気味で、気味が悪い。鳥肌もずっと立っている。
もしかすると、実際にこの身に危険が及ぶかもしれない。そんな予感は強かった。それならば、もう引き返すべきだ。そう思うのに。
そう思っているのに、心の奥底で何かが引っ掛かっているような、気持ちの悪さがある。
もう帰りたい。けれどその感情に反して、直感のようなものが引き止めるような。
私は何のために此処へ来たのだ、と。知らないふりをしたいのに、心の奥底で理性が私を引き止めていた。
「……三日月さん」
「なんだ?」
「もしこのまま帰っても、この世界の事は分からないまま、ですよね?」
聞き返せば、彼は微笑んだまま小首を傾げる。
「さてな。それはおぬし次第だ」
最もな答えが返ってき、ぐうの音も出なかった。けれどそれは逆に、私が本当はどうするべきなのかを、問われているような気にもなってくる。
嫌だ……これ以上先に、行きたくない。
「……まだ、大丈夫です。案内の続きをお願いします」
行きたくない、のに。頭を下げて、三日月さんに続行のお願いをする。自分の意思とは真逆の決断だった。
「あい分かった」という彼の承諾の言葉を境に、再び街中を歩き出す。
先ほどの髭切さんとのやり取りがあったからか、周りの視線がより強くなったように感じた。
→
そんな街中をしばらく歩いていれば、ふと、目の前に大きな門が見えた。町屋の並ぶ通りが一区切りしている事を示すように、その大門が厳かに佇んでいる。
瓦屋根のついた、木造の立派な門だった。両脇に提灯が取り付けられ、街中と同様、赤く滲んだ光を灯している。門はその戸を開いた状態で、奥にもまだ街並みが広がっていることが窺えた。
「さて、ここからだが」
前を歩いていた三日月さんが立ち止まり、こちらへ振り向く。
「おぬしにとって、あまり気分の良いものではないだろう」
どうする? と、彼は再度問いかけてくる。
そのいかにも意味深な言葉は、私の決意を揺るがせた。まだ、これ以上に気分の悪さを感じなくてはいけないのか。そう考えると、もう引き返したくて仕方がない。
それに、三日月さんの……彼の真意が測れないのも、気味が悪い。
この世界の事を知りたければ、街へ連れていってくれると彼は言った。しかし、彼が直に教えてくれる、とは言っていない。実際何も説明がなく、彼の後をついていきながら、まるで自分で見て考えろ、とその背中に言われているようだった。
けれどそれが強制かといえば、そうじゃない。現に今も、こうして「どうするのか」選択肢を私に与えてくれている。
彼は、何をしたいのだろうか。私を此処に連れてくる以外に、意図はないのだろうか。もしかして、何かを試されているのだろうか──そんな気がしなくもない。
それに、やはり胸の奥で引っ掛かりを覚えているのは、確かだった。
「……大丈夫、です。三日月さんが、守ってくれるのなら」
危険が及ばないようにしよう、とは、言われていた。それを確認するような言い方を選べば、三日月さんは意図を汲み取ってくれたのか、はたまた別のところに何か思うところがあったのか、目を僅かに見開き、口角が機嫌良さそうにクッと上がる。
その後、目尻を和らげて微笑んだ。
「ああ。おぬしが離れなければな」
重厚な門から覗くその先の世界は、先ほどより一層、禍々しさか渦巻いているように思える。三日月さんの意味深な言葉が、そう感じさせているのかもしれない。
けれど門を一歩くぐれば、そのおぞましい気配が、肌を直に撫でるようだった。
門の先も、今までと似たような光景だ。赤い提灯の明かりが、木造の町屋を照らし上げている。違うのは、先ほどは平屋の造りが多かったのに対し、ここは二階建ての造りが多い。一軒が大きく、格子窓から、室内の明かりが漏れ出ている。道には一定の間隔で灯籠が置かれ、人通りも、先ほどより多かった。
こっちが、彼らの主な拠点なのだろうか。そう思うほど密度が高く、手を伸ばせば届いてしまいそうな近さで、それらとすれ違う時もある。
洋装に、和装。大人に、子供。どれも刀のようなものを所持している。それは、先ほどとあまり変わらない。
けれど、その中に。
明らかに先ほどは見なかったそれに、呼吸が震えた。
顔にかかった面布が、歩調と共に微かに揺れる。
洋服に、和服。様々だった。皆、人ではないものにその手を、あるいは手首を握られ、引かれるように歩いている。
どの人も痩せて見えた。生気が感じられず、ただ引かれるままに足を運んでいる。
その光景は、あまりに異様で。胃酸が逆流してくるほどの、気持ちの悪さが込み上げてくる。
彼ら、彼女らは、私と同じ人間なのだと。
それを見た瞬間、すぐに察してしまった。
「俺たちはその昔、人の子にこの世に降ろされ、この身を与えられてな」
唐突に語られた言葉に、ハッとした。その声は他でもない、前を歩く三日月さんのものだった。
「愛され、頼りにされて。この身を保つために、そうして苦難を共に乗り越えるために、主の霊力を絶えず与えられてきた」
多弁になり始めた彼の言葉に、ただ耳を傾ける。少しでも気を抜けば、言葉が耳を滑りそうになった。戸惑い、動揺で、足元がふらつきそうになる。
三日月さんはそんな私に構う事なく、言葉を紡いだ。
「それ故か、人の子が恋しくてなぁ。身体が欲してしまうのだ。いつまで経っても、どのような形でも」
目眩がする。三日月さんの声が、どこか遠くで聞こえるような感覚。心臓の鼓動は喉元まで伝わり、動悸で息が上がり始めていた。
人の子が、恋しい──? そんな生暖かい表現のものには、到底見えない。
手を繋がれている者もいれば、手首を掴まれている者もいる。どういった形にせよ、どの人も皆、引っ張られているのだ。自分の意思でそれについていっているようには、全く見えない。
いや、意思すらないのかもしれない。
ただ、体だけで動いているような。生気が全く感じられないように見える。
足元もおぼつかない。皆、異様に痩せている。魂の抜けた人形のように、ただ手を引かれるままに足を動かしているような、そんな様に見えた。
「……霊力を、喰う」
ぼそりと呟けば、三日月さんが肩越しにこちらを向いた気配がした。けれど、目を合わせる気になんてなれない。
「鶴丸さんが言ってました。……そういう、ことですか」
ほとんど独り言だった。答え合わせを、ただ一人でしていた。
彼らは、人間の霊力を食べているのだ。
霊力が何なのかなんて、私にはあまりピンとこなかった。けれどおそらく、霊力を奪われるというのは、生気を吸いとられるのと同義なのだろう。ただ動く屍のような人たちを見て、そう思う。
それに、鶴丸さんにキスをされた時の、力の全く入らなかったあの感覚。
このままでは死んでしまう、と、感じた直感。
全てが繋がり始めてしまう。
きみは、いつから喰っていないんだ。他本丸の鶴丸さんが言っていた。
食事から霊力を喰うのはまどろっこしい。と、うちの本丸の鶴丸さんも言っていた。
『あの二人は、こういう食事をしないから』
不意に、髭切さんの言葉を思い出し、ハッとした。あれは、初めて朝食を一緒に食べた時の事だった。髭切さんと膝丸さんと、私の三人で朝食を取っていた時の会話だ。
他の二人──鶴丸さんと三日月さんは朝食を取らないのかと尋ねた時、返ってきた言葉だった。
あの二人は、こういう食事をしない。
鶴丸さんはおそらく、人の霊力を食料としている。
もし、そういう事なら──
思わず、三日月さんの背中を見つめる。
心臓がより一層、強く脈打ち出した。
「──あの。もう、大丈夫です」
出た声は、少し掠れてしまった。三日月さんは足を止めると、ゆっくりとこちらへ振り向く。
音を立てぬような静かなその動作さえ、恐怖心を煽られるもので。危機感が、肺を締め付ける。
彼は、私を何のために此処へ連れてきたのだろう。本当に、この世界の事を見せるためだけなのだろうか。
そこに、他意はないのだろうか。
先ほどまで抱いていた疑念が、急激に膨らみ始める。
「もうよいのか?」
三日月さんの落ち着いた声が降ってくる。
立ち止まった私たちを避けるように、人と人ではないそれらが横を通りすぎていく。その際、人ではないそれからどこか物珍しそうな視線を感じたものの、必死に気がつかないふりをした。
「……はい。もう、大丈夫です。これ以上は、もう。気分が」
せりあがってくる緊張が、言葉を片言にさせる。何とか自分の意志を紡げば、三日月さんは「そうか」と言った。
彼はただ私を静かに見下ろす。整いすぎているその顔は本当に作り物のようで、何を考えているかなんて、私には分からない。
見透かすような、その瞳が。その、得たいの知れなさが。私の不安感を、どんどん煽っていく。
「なら、帰るか。此処は空気が良くないのだろうからな」
ふと辺りへ目配せした三日月さんは、あっさりとそう言った。
含みも何もないような、軽い言い方。そんな彼の言葉に、少々拍子抜けしてしまう。
三日月さんは言葉通り、こちらを振り返ったままの方向へ──つまりは来た道を戻るべく、足を進め始めた。唇に笑みを漂わせたまま、立ち止まっている私を見下ろし、そのまま横を通りすぎる。
あまりにすんなりとした答えに、思わず呆然としてしまったものの、我に返りすぐ彼の背を追った。
もしかしたら他に意図があるのかもしれない、と、そう思ったけれど。
ただの、考えすぎだったのだろうか……。
このまま帰れる事に少し安堵しつつも、緊張感は拭えなかった。時々、すぐ横をそれらが通りすぎるたび、思わずビクリとしてしまう。
一体、この世界にはどれくらい人間がいるのだろう。それに、どうやって此処に。私のように、あの橋を渡ってきたのだろうか──。
『最近、行方不明になる人が多いんですよ』
不意に、思い出す。あれは、此処へ来る前。まだ京都観光を楽しんでいたあの日、カフェで聞いた話だった。
『神隠しとまで呼ばれるようになってしまって』
タイミングを見計らったように思い起こされる会話に、一瞬、呼吸を忘れた。
繋がって、しまった。自問自答している間に、答えにたどり着いてしまった。
同時にもう一つの答えを予測してしまい、息が詰まる。
もし、そういう事なら。行方不明になった人たちが、此処に居るというのなら。
私はきっと、この世界から帰れない。
絶望感が足元から這い上がってくる。それは肺を締め付け、呼吸を震わせた。
何も知らないから、頑張ってこれたのだ。緊張の糸を、張り詰めて。まるでその糸がぷつりと切れてしまったかのように、先への失望に、行き場のない感情が目の奥までせり上がってくる。
帰れない。此処にいる人たちのように。私も、あの様になってしまうのだろうか。
嫌だ。帰りたい。
あの本丸ではなく、元の世界へ帰りたい。
髭切さんの言葉は、ただの甘い誘惑だったのだろうか。三日月さんは、私をどうしたいというのだろう。私は……私は、この先どうすればいいのだろう。
この世界への恐怖。疑念。先への絶望。
全てが入り交じり、何一つ答えを見つけられない。冷静に考える事なんてできず、パニックに陥りそうだった。
──その時。
ふと、声が聞こえた。まるで、耳元で囁かれるような。
聞こえたその言葉に、心臓が大きく、脈を打つ。
「 」
言葉が、紡がれる。それは本当に、すぐ耳元でささやかれたかのようだった。もしくは、頭の中で響いたかのような。
無意識のうちに、立ち止まっていた。周りの雑音が消え失せる。目に映る人通りが、まるでスローモーションになったように見えて。
早鐘を打ち始める自分の心臓の音が、緊張で震える自分の呼吸音だけが、やけに響いて聞こえた。
そんな中、彼は再び口にする。
私の、名前を。
「 」
それは確かに私の名前だった。
呼ばれた、その瞬間。足に根が生えたように動けなくなり、声を出そうにも、微かな呼吸音しか出なくなる。
雑音が消え、全てがゆっくりになったその視野で、三日月さんの背が徐々に離れていく。
「おいで」
続けられたその言葉に、身体は自然と動いていた。
──違う。自然なんかじゃない。それは強制的だった。
三日月さんがいる方向とは全く別の方へと、身体が勝手に動き出す。
違う……そっちじゃない。早く、方向を変えないと。三日月さんを、追いかけないと。本丸へすら、戻れなくなってしまう──。
頭で必死に言い聞かせているのに、身体は全く言う事をきかなかった。
無音の中を、機械的に歩く。ふわふわとして、地に足がついていないような感覚。目に映るものの動作はどれも遅く、しかしこちらに向けられた視線だけはしっかりと感じる中、ただ声に導かれるままに、足が勝手に動いていく。
建物と建物の間の路地裏へと入り、奥へと歩みを進めていく。一人しか通れないほどの、狭い道だった。
こんな裏道でも、一定の間隔で設置された小さな灯籠が足元を照らしていた。建物の窓から溢れる明かりも、暗闇の中で僅かに滲んでいる。
けれど、わざわざこんな裏道を通るものはいないのだろう。そこを歩くのは、私一人だった。
この先がどこに繋がっているのかなんて分からない。ただ、身体は声に呼ばれるままに動いている。
抵抗する事もできず、ひたすら歩みを進めて。行き着いた先は、行き止まりだった。
どうやら袋小路だったらしい。しかし、目に入り込んだ光景に、息を呑みこむ。
枯れ果てた、一本の大木。元々、御神木だったのだろうか。それを守るように、手前には鳥居が。その両脇には、狛狐の石像が静かに佇んでいる。鳥居はひどく廃れ、狛狐の石像も、腐蝕がかなり進んでいた。片方の狛狐はかろうじて形を留めているものの、もう片方は、首から上が崩れている。
その、首なしの狛狐に、腰を掛けている一人の人物。
思わず後ずさりそうになるも、再び彼に名を呼ばれ、それは叶わなかった。
──なんで、彼が。私の名前を。
「よっ。遅かったな。道に迷ったかい?」
彼は狛狐に片足をかけて座り、頬杖をついて私を見下ろす。唇の端を上げ、その目元に笑みを乗せて。
そこに居たのは。
私の名前を呼んだのは、彼──鶴丸国永だった。