「えいが……」
「ええ」
「みるの」
「観ましょうか」
「うん……」
レイトショー観に行ったけど疲れて開幕五分で寝ちゃったPさんと、起こさないクリスさんのお話です。
@toasdm
お疲れでしたからね――…。
暗闇で目を細め、クリスは眉尻を下げて笑う。銀幕に映し出されている映像は、ドキドキハラハラのアクションシーンや胸がときめくラブシーンではなく、画角いっぱいのオーシャンブルーだ。癒やし効果もあるのでしょう、とシートにゆったり身を沈め、クリスはドリンクを口に含んだ。
この映画、見に行きませんか?と彼女が提案してくれた映画は、以前から情報をチェックしていた海に関するドキュメンタリー映画だ。ドキュメンタリーと言っても堅苦しさや辛くなるような展開はなく、とある国の港に生きる人々の日常や関わる動物たちの、等身大の目線で語られているものだと前情報で知っていた。二つ返事でそれを了承し、レイトショーの特等席をその場で押さえて一週間。彼女の仕事は多忙を極めていた。
レイトショーでよかったですね、と電子チケットを発券して、ポップコーンやドリンクを買う列に並んだときから、兆候は見受けられていた。あくびが出る、目をこする、口調が少しゆったりめになる。いずれも、彼女といわゆる男女の仲になってからクリスが知った、彼女の眠たい時のサインだった。本当にレイトショーでよかったのでしょうか、と考えながらそっと彼女の手を握って、シートに腰を下ろした時には、既に彼女はとろんとし始めていた。
「プロデューサーさん」
「んん……うん」
はい、ではなく、うん、と返事をするのもそうだ。えいがみるの、と甘えたようにひらがなで喋るのだって、繋いだ手をにぎにぎと握り返してくるのだって、全てクリスが知っている彼女の眠たいサインだ。
「えいが……」
「ええ」
「みるの」
「観ましょうか」
「うん……」
ぎゅ、とまた、繋いだ手の指先が甘えてくる。あまり可愛いことをしないでください、と囁いて、劇場内の照明が落とされたのをいいことに頬にそっとキスをしたそれが、今夜のレイトショーではおやすみなさいのキスになってしまった。
「……ふふ」
一面の青、ゆったりとした音楽に、海鳥の鳴く声。イワシの群れが銀のきらめきを、まるで海中にカーテンをかけるかのようにひらり、ひらりとしたあたりで、彼女は静かな寝息を立ててしまっていた。
(起こして差し上げるべきなのでしょうが――…)
ちら、と横目で確認すると、スクリーンの青を反射した、彼女の透き通るような白い頬が笑みを浮かべている。海が笑っているようですね、と目を細めて、クリスはバッグからブランケットを取り出した。
(そんなに安心して眠ってしまわれると、それも難しいですよね)
くすり、笑って彼女にブランケットをかけてやり、クリスは映画を堪能する。海辺で生きる人々も動物たちも、海の中の生き物たちも皆、ありのままを捉えているだけなのにやけに魅力的に見える。それはクリスが海を愛しているからというのはもちろんだったが、この映画を観た誰しもが、そんな感情を胸に抱くだろうと思えるような、素晴らしい映画だった。エンドロールまでの二時間、彼女は疲れた体を存分に癒せたようだった。劇場内が明るくなって、人が捌けたあたりで、クリスは彼女をそっと揺さぶった。
「プロデューサーさん」
「んっ…………ぇ、ぁ、ええっ!?」
「ふふ……」
青に引き込まれてちょっと意識を失って、は、と気がついた彼女の視界いっぱいに、穏やかな笑みを浮かべたクリスの整った顔面が飛び込んでくる。うわぁ、とシートからずり落ちそうな勢いで驚いた彼女の手をぎゅっと握って、クリスはゆっくりと引き起こしてやる。
「おはようございます」
「うわぁぁ……寝、寝ちゃって、ましたね……」
「ええ、ぐっすりとお休みでしたよ」
「ぅ……」
起こしてくださいよぅ、と気恥ずかしそうに言うのがまた可愛らしくて、人の捌けた劇場内でクリスはたまらず彼女を抱きしめキスをする。
「んっ――」
「っふふ……すみません、あまりにも穏やかに休まれていたもので、ためらってしまいました」
謝るとこそこじゃなくないですか、と腕の中でもごもご言う彼女を解放して、クリスはにっこりと笑って言った。
「Blu-rayを買いましょう。来月二十日に出るそうですよ」
「うぅ……ごめんなさい」
「いえ、元々買うつもりでしたし、何度でも観たいものですし――…」
しおれた彼女の頭を優しく撫でて、クリスは嬉しそうに言う。
「あなたと共有したいものがひとつ増えて、嬉しいです」
先の楽しみですよ、とブランケットをバッグにしまって、クリスはゴミを片付け劇場を出る。そんな細やかな気遣いに甘えているようで申し訳ない気持ちすら打ち消すように、クリスは映画がどれだけ素晴らしかったかを雄弁に語る。
ただ、それと同じような熱量で、眠る彼女がどれだけ可愛かったかを、まるで打ち寄せる波のように語るものだから、彼女としてはもう本当に、逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。
眠ってしまった罪滅ぼし、と一晩付き合う覚悟を決めた彼女は、そんなクリスの微笑みを、海が笑っているようだと思った。