@toasdm
飲んでも飲まれるな、と言うだけあって、彼女は雨彦が泥酔したところを見たことがない。節度を持って場の空気を楽しんで、嗜む程度に飲んでいる――そんな雨彦のことを、大人だと思っていた。ついさっきまでは。
「ただーいまっ♡お前さーん♡」
「ぎゃあああああ重たい! ちょっ、雨彦さんっ、ねえっ!」
たった今、彼女の中の雨彦に新しい情報が追加された。
酔った雨彦さん、ボディタッチ過多。
玄関で靴も脱がずに彼女に抱きついて、可愛い、可愛いと頭を撫でて抱きしめて、頬にキスをしてでれでれとする。ぎゅうぎゅうと抱きしめる腕の力の強さも、遠慮なくかけてくる七十四キロも、彼女の自由を奪うには十分過ぎるほど十分で、だからこそ、彼女は炙り出された事実に愛情を感じて邪険に出来ずに戸惑う。
――普段は、思いっきり力加減してくれてたんですね。
こんな風に強く抱きしめられることもなければ、甘えるようにのしかかってくることはあってもここまで盛大に全体重を預けてくるようなこともなかったのは、理性と愛情で力加減をしてくれていたおかげだろう。親しい人間との楽しい飲み会だったことは表情や態度からも伺えたが、それにしたってかなり飲んでいる。別に強いってわけじゃないからな、と日頃言っていたあれは本当だったのか、と七十四キロをずりずりと引きずって、彼女はひとまずソファへ雨彦を運んだ。そこが精一杯だった。
「んーーーー……」
「お水、飲めますか?」
「腹いっぱいで無理だなぁ」
さすさすと腹をさすっている酒臭い雨彦を、愛しいと思う彼女の油断を、普段の雨彦なら見逃さないだろう。お前さんの腹も撫でてやろうか、と気にしている柔らかな腹をここぞとばかりに揉みしだいてきたりしそうなものだったが、今の雨彦はそこまで頭が回らないようだ。少しは飲まないと、と水を持ってこようと立ち上がる彼女を、一人にしないでくれよ、と寂しそうにつぶやいて、彼女の手首をぎゅっと掴むのが精一杯のようだ。
「すぐ戻りますから」
「すぐ? すぐってどのくらいだい?」
「十秒以内でしょうか」
「…………」
不承不承といった拗ね顔で、雨彦は彼女の手首をぱっと離してソファに横たわり目を閉じる。ちゃんと意思の疎通はできるんだ、とほっとしたのもつかの間、雨彦は朗々と、よく通る耳に心地よい声でカウントダウンを始めた。
「じゅー、う……」
「えっ、ちょ待っ、ほっ、ほんとに数えるの!?」
「きゅーーーーーー、う……」
バタバタと慌ててキッチンへ滑り込み、樹脂製のコップに水をジャッと汲む。雨彦のカウントは三まできていて、うわうわうわうわ、と焦って水を零さないように雨彦のところへ戻った瞬間、ゼロのカウントとともに雨彦は目を開けた。
「はは……ちゃんと、いたなぁ……」
「んんっ、ちょ、雨彦さんお水」
「あー……」
目を開けて、一番最初に飛び込んできた彼女の顔を見て、にへら、と雨彦は赤ん坊のように笑う。手を伸ばし、彼女の頬に触れて、親指と人差し指で彼女の頬をむに、と摘んで、雨彦は目尻を下げた。
「柔いなぁ……餅でもついてたかい?」
「ひゃめひこひゃっ」
「っはははは……あーいいなあ」
指二本はいつの間にか、手全体になっていた。むにむに、こねこねと彼女の柔らかな頬を包んで捏ねて、彼女の頬は雨彦の手の中で自由自在に形を変えさせられる。
「んにぇぇぇ」
「こりゃいいな……いい」
零してしまいそうな水はひとまずテーブルに置いて、彼女は自分の頬を捏ねる雨彦の手を掴んでみるが、この力では到底敵いそうにない。雨彦さん、と悪戯をする手をいくら窘めても、雨彦の手は彼女の頬を捏ねたままで、しまいにはうとうととし始める。
「ちょっと、お水」
「んー……」
いつから「あとでな」は「おやすみなさい」の代わりになったのだろうか――彼女の頬が解放されたのは、雨彦の寝息が聞こえたのと同時だ。
「もう……」
ブランケットをかけてやり、ボディタッチ過多の悪戯おててをその中にしまい込んでから、彼女は溜め息をつく。
頬にはまだ、雨彦の手の感触が残っているようで、彼女の手は知らずその悪戯をなぞるように、しばらく頬に触れていた。