@toasdm
「お前さん、下がってろ」
「は、はい……」
困惑する彼女を背中にかばって、雨彦はデッキブラシを構えた。きり、と引き結んだ唇には、こんな状況でもうっすらと笑みが浮かんでいることを、知っているのは今雨彦の目の前にいる怪しげな長身だけだ。
「掃除ブラシで俺に対抗しようってのかい?」
目深に被ったローブのフード、見えている長身の口元にも笑みが浮かんではいるが、雨彦のような緊張感のあるものではなく、やけにぞくりとするような嗜虐的な笑みだ。
「さてな……どこのどなたかは存じ上げないが、こちとら大事なもんを背中に背負ってる。出し惜しみはなしだぜ、全力でいかせてもらおう」
「っくくくく……ああ、いいぜ、そうでなきゃ、な」
見えない火花がバチバチと、二人の間で爆ぜている――と、思ったのも束の間、閃光がその場を包んだ。
「きゃあっ!」
「っく」
「ははッ、ちょっと遊んでやっただけじゃねえか」
見えない火花を可視化するように、アロルドの手から紫紺色の雷が、パンッ!と乾いた音を立てて二人の目の前で拡散する。それを雨彦は、構えたデッキブラシで横へと祓ったが、祓うだけで手一杯のようだ。ザマねぇな、と蔑むように笑う男の名を、雨彦も彼女もよく知っている。
「アロルド、お前さん」
「あんたを倒せば俺は自由なんだろ?」
手のひらにゆっくりと魔力を集めていくアロルドの、存在を閉じ込めているのは他ならぬ雨彦の精神力だ。集まっていく魔力が空間を膨張させて、ィン、と耳鳴りがする。はためいて広がって、ふわりと裾が浮いたローブのフードが外れて、雨彦と同じ顔の別人がにたりと笑った。
「全力で楽しませてくれよ、俺はあんたを葬って真の自由を手に入れたい」
意志の強すぎる役に取り込まれて、雨彦は雨彦の中にアロルドを産んで飼ってしまった。飼いならしていたつもりだったが、どうやら一筋縄ではいかない史上最悪の魔術師様は、百九十一程度の檻の中で大人しくしているような行儀の良さは持ち合わせてはいないようだ。ぎり、と奥歯を噛み締めて、雨彦は密かに冷や汗を垂らした。背中の彼女を振り向けば、この場をどう切り抜けたらいいのかがわからないなどと言っていられなくなる。さてどう切り抜けるか、と前方を睨んだ雨彦は、ふ、と違和感に眉をひそめた。
「…………ああ、そうかい」
「……?」
ゆら、と揺れるアロルドの影に、雨彦はこの奇妙なからくりの真実を掴む。お前さん、と目の前のアロルドをまっすぐ見据えて雨彦は言った。
「役が独り歩きするくらい、俺はお前さんを――アロルドって史上最悪の魔術師を、演じきったんだな」
「過去の話さ」
「ああ、だが――ちゃんと、お前さんに休みをやってなかったな」
「…………フン」
カツ、カツとブーツを鳴らし、雨彦はアロルドに歩み寄る。手を伸ばし、自分と同じ背丈のアロルドの頭に、雨彦はその大きな手をぽんと置いた。
「お疲れさん。お前さんは最初から自由だぜ。お前さんを演じられて楽しかった」
「……俺を」
ローブの裾からゆっくりと、アロルドの存在そのものの不透明度が下がっていく。ただの役ではない、魂の底から演じきった一人の存在への労いを、忙しさにかまけてすっかり忘れていたな、と眉尻を下げた雨彦の頭に、アロルドもまた同じように手を置いて、ぽん、ぽん、と撫でて言った。
「俺を演じてくれたのがあんたでよかったよ」
消えちゃうんですか、と不安そうな彼女が雨彦の斜め後ろにすっと立ち、アロルドと雨彦とを見比べる。
「消えるんじゃない、ただの『やくおとし』さ」
漢字変換のない音だけの言葉に、雨彦がどんな思いを込めたのか、彼女にはわからない。だが目の前で、勤めを終えたアロルドが満足そうにしていて、雨彦もつきものが落ちたような顔をしていて、どこかその二人の間に流れる空気が穏やかになっていたものだから、きっとこれはいいことなのだ、と彼女も理解する。
「っと……元に戻るか」
急に引きずり込まれた黒い霧が、徐々に晴れていく。あの時僅かに目線を泳がせていたアロルドの戸惑いは、雨彦の「やり残した」戸惑いの現れだったのかもしれない。やくを落としてすっきりとした雨彦は、霧が晴れて元に戻った事務所できょとんとしている彼女に目線を合わせるようにして、少し屈んで言った。
「面倒なことに巻き込んじまってすまなかったな」
「いえ……なんか、あまりにも、現実味がなくて」
夢でも見てたんでしょうか、と狐にでもつままれたような顔をする彼女の頭を、アロルドにしてやったようにぽんと優しく撫でて雨彦はニッと笑う。
「案外、そうかもしれないぜ」
お前さんが好きに捉えてかまわない、そういって姿勢を戻した雨彦の手の感触は、奇妙な体験と共にしばらくの間、彼女の頭に残っていた。