@ayame0601s
第1話
貴女の余命は、あと半年ほどです。
審神者が医師からそう告げられたのは、今から約半年前のことだった。
神無月の恋人
「一ヶ月間だけ、私の恋人になってくれませんか?」
審神者が口にすれば、目の前に座る髭切は目を見開き、唖然とした。
開けっぱなしの窓から、チリン、と風鈴の音を乗せて、風が入る。
日が落ち始めた夕暮れ時。茹だるような暑さがやっと落ち着きをみせ、肌を撫でる風は随分と涼しいものとなった。
いつの間にか、あんなにも鳴いていた蝉の声を耳にすることがなくなっていた。限られた時間を精一杯生きた彼らは、役目を果たし、深い眠りについたのだろう。
季節は秋。10月に入ったばかりだった。風鈴もそろそろしまわなければいけないな、と審神者はぼんやりと思いながら、髭切の返事を静かに待つ。
出陣報告のために審神者の部屋を訪れた髭切にとって、審神者の言葉は予想だにしなかったものに違いない。
しばらく審神者の言葉を反芻していたのか、何度か瞬きをした髭切は、ゆっくりと口を開いた。
「それはまた唐突だね。何か理由があるんだろう?」
先ほどの少々驚いた顔から、穏やかな笑みが滲む。
目尻を和らげるその微笑みも、落ち着いたその口調も、審神者にとってずっと好きなものだった。
審神者の突然の申し出に対して、驚きはしつつも、きちんと理由を聞いてくれる。そういう懐の深さも、ずっと、好きなものだった。
だからこそ、彼がいい。残された、限りなく少ない時間を過ごすのなら。
「実は……実家の事情で、急遽、現世に帰らなければいけなくなってしまったんです」
審神者は口にする。それは真実を覆い隠した、偽りの言葉だった。気を抜くと震えそうになる声を、毅然とした態度で何とか保つ。
髭切は審神者の言葉に、再び目を見開いた。
「実家に帰るって、一時的なもの?」
「……いいえ」
審神者の答えにさすがの髭切も動じたのか、笑みを消すと、その顔を僅かにしかめた。
「それは、この本丸から居なくなってしまうということ?」
眉をひそめたまま、髭切は審神者に問いかける。
本丸から居なくなる──その言葉を他者から聞くと、実感が湧き上がり、胸が詰まって苦しくなる。
審神者はその感情を抑え込むように、コクリと唾を飲み込むと、ええ、と頷いた。
「とても急で、皆には大変申し訳ないと思っています」
私も、とても心苦しいです。そう続けようとした本音は、声に出せなかった。言葉にしようとした途端、目の奥が熱くなり、泣き出してしまいそうだったからだ。
「突然でごめんなさい」審神者はただ呟く。
眉尻を下げた髭切は審神者の言葉を反芻しているのか、何も言わず、どこか呆然としているようにも見えた。そんな彼の表情は今まで見たことがなく、審神者は思わず驚いてしまったものの、すぐに罪悪感と寂しさに襲われ、彼から視線を外した。
沈黙が落ちる。しかしそれも長くは続かなかった。
「そうなんだ」と呟いた髭切の言葉が、やけに響いて聞こえる。
「正直、突然すぎて実感が湧かない、というのが本音だけど」
「……」
「とても寂しくなるね。だが、君も苦渋の決断だったんだろう」
審神者は何も言えなかった。髭切を真っ直ぐ見ることができず、視線は下げたままだった。
そんな彼女をじっと見据えた髭切は、しばらく沈黙すると、再び静かに言葉を落とし始める。
「あとどのくらいしか、この本丸に居られないの?」
「一ヶ月くらいです」
「一ヶ月……ああ、だからか」
「……。もう、引き継ぎの話は進んでます」
「そっか」
互いの言葉が途切れる。チリン、と鳴る風鈴の音が、寂しさを助長させた。
「現世に帰ってもさ、君が元気ならそれでいいよ」
髭切の言葉に、審神者は顔を上げた。彼の表情には寂しさが滲んでいるものの、微笑むその顔は慈愛のこもったものだった。
彼の、その表情に。その、言葉に。込み上げてくるものを堪えられなくなりそうで、審神者は再び俯く。
「それで、最初の話だけど」
髭切は続ける。それは説明をこちらに促すものだと、審神者は察した。
審神者は静かに深呼吸すると、視線を髭切に戻す。
予め用意していた話の手順を頭の中で確認し、口を開いた。
「はい。現世に戻る前の一ヶ月間、私の恋人になってほしいんです。といっても、フリでいいんですけど」
「フリ?」
「ええ。私の護衛を、常にしてもらくて」
それは、政府から言われたものだった。
審神者が何らかの理由で、本丸の主を辞めざるを得ない場合。任期終了の予定日より前に、突如、この世からいなくなることが多々あるらしい。
刀剣男士による、神隠しだった。
そのため、信頼のおける刀剣男士を一振り、常に護衛につけておけと。政府からそう言い付かっていたのだ。
大体の審神者は、初期刀を選ぶようだった。一番初めに顕現させ、一番長く、苦楽を共にした刀。そこにある信頼感や絆は、やはり他の刀とは別枠のもの。
彼女も、始めは初期刀へ相談したのだ。しかし彼女の想いを知る初期刀は、その役割を、髭切へと移す提案をした。
初期刀は知っていた。彼女があと一ヶ月しか過ごせない、本当の理由を。
だからこそ、髭切の名を挙げたのだ。
「神隠し、か。なるほどね」
一通りの説明を聞いた髭切は、独り言のように呟く。顎に指をあて、視線を下へ向けて考え込むその仕草さえ、審神者の胸を淡く締め付けるものだった。
「神隠しされないように君を守るためには、常に側にいる必要がある。それには、恋人のフリの方が都合がいい。そういうこと?」
「はい。残された時間を、たった一振りへ特別に割く、というのは、特別な理由があった方がいいと思うんです。そこには私の恋心があるからだと……そういう方が、皆がまだ納得しやすんじゃないかと思って」
「ああ、そうかな。そうかもね」
髭切は尚も考え込む。
──フリでいいのかい? ちゃんと、告げなくても。
不意に、初期刀との会話が頭を過ったが、これでいいんだ、と審神者は言い聞かせた。
「選んでもらえたことは嬉しいけど。僕が、君を神隠しするとは思わなかったの?」
苦笑が混ざるような、しかしどこか挑発するような声色だった。審神者はそんな彼の言葉に、少々面食らう。
正直、彼が神隠しする可能性を考えていなかった。髭切は、こちらに『主』としての情はあれど、執着するほどの感情はない。それは彼女自身、十分分かっていたからだ。
「その可能性は無いと思ってます。貴方は惣領の刀だから。情に流されず、冷静に判断を下す。そんな刀でしょう?」
本音をそのまま言えば、今度は髭切が面食らう番だった。
「へぇ、そんな風に思ってくれてたんだ。まいったな……そう言われたら、したくてもできないじゃないか」
髭切は困ったように笑う。それは場を和ませるための言葉であり、彼が神隠しをしようと思ってもいないことなど、審神者には分かっていた。
「承知したよ。選んでもらえて光栄だ。君が現世へ帰ってしまうまでの間、しっかり護衛を務めよう」
真っ直ぐとした視線を注がれ、彼の頼もしさに、気持ちが溢れそうになる。しかし審神者はそれをグッと抑えるように、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
「ふふ。こちらこそ。よろしく頼むよ」
ああでも、寂しくなるなぁ。付け足された最後の言葉は、本当に彼の心情が滲んでいるように聞こえて。
胸の詰まる思いに、審神者は頭を上げられなかった。
これで良かったのだ。自分の持つ、本当の想いを。残された時間が限りなく少ない、本当の理由を。有りのまま伝えてしまえば、優しい彼は──それは髭切だけに限らず、おそらくこの本丸の誰もが──心を痛め、余計に悲しませてしまうだろう。
だから、一身の都合で現世へ帰ることとした方がいい。
髭切への想いも、有りのまま伝えなくていい。
半年前。余命宣告を受けたあの日からずっと考え、悩み、たどり着いた結論だった。
第2話
──貴女の余命は、あと半年ほどです。
医師からそう告げられたのは、今から約半年前のことだった。
刀の付喪神を、この世に降ろす。人間の身体に神々の魂を宿させ、身体の機能を保たせ、怪我を負えばその傷を癒す。拠点とする本丸は、敵からの侵入を防ぐために、結界を張り続けなければならない。時の政府からのサポートもあるとはいえ、審神者の負担は多大なるものだった。
その負担を、どこで補っているのか。人間には生まれつき、持ち得る能力の差がある。
十分量の霊力を持って生まれる者もいれば、限られた霊力しか持ち合わせていない者もいるのだ。
彼女の場合、明らかに後者だった。
霊力の枯渇。
審神者自身の生命活動に必要なエネルギーを、刀たちへ注ぎ、本丸の運営に注いでいる。
いわば、寿命を削っている状態だった。
新薬の副作用が、明らかになる過程と同じだ。副作用が出てくるまでには、数年かかることもある。それまで何ともなくても、いきなり副作用を出し始める人が現れ、その時にやっと、その薬のデメリットが明確となる。
戦争が始まって、数年。刀の付喪神をこの世に降ろすという行為の『副作用』が、やっと明らかになり始めた頃だった。
「このままだと、貴女はあと半年くらいしか生きることができません」
半年前に医師から告げられた言葉を、今でも鮮明に思い出すことができる。
「ただ、今すぐ現世へと戻れば、もう少し長く生きられるはずです」
あの時、審神者が医師から告げられたのは、二つの選択肢だった。
今すぐ──半年前のあの日から、今すぐ審神者としての責務を他者へ移し、霊力が完全に枯渇する前に現世へと戻る。
そうすれば、削られた分の寿命は取り戻せないが、この生活を続けるよりは、人としての余生をもう少し長く過ごすことができるだろう。
しかしもし、このまま審神者としての生活を続けるのであれば、もう後戻りはできないところまできている──つまりは、あと半年ほどしか生きることが出来ないだろう。
医師はもちろん、現世へ戻ることをすすめた。貴女は審神者としての責務を十分果たした。あとは他へ引き継ぎ、残りの人生を少しでも長く過ごすべきだ、と。
しかし審神者は、後者を選んだ。
今さら現世に帰る場所などない。審神者としての役割を担った時から、実の家族とは切り離されたのだから。
それならば、たとえあと半年だとしても。本丸の皆と過ごしたい、と、審神者自身が決めたことだった。
決めたはいいが、彼らにいつ、どこまで伝えるべきなのか。真実を伝えるべきか否か。神隠しの案件も政府から聞いている。それならば、いつ伝えるのがいいのか。
自分たちの顕現のために、寿命を削っていたと知ったら、彼らはどう思うだろう。
主があと半年しか生きられないと知ったら、どう思うだろう。
散々考え、悩み抜いて。結局出した結論が、先に髭切へ伝えたものだった。
(あと、およそ一ヶ月か……)
机に突っ伏し、放心しながら、審神者はぼんやり思う。
あと一ヶ月間は、おそらく大丈夫だろう。定期的な検査の末、医師が予測した残り時間だった。
もしかしたら、それより延びるかもしれない。だが現世へ帰るという理由にするならば、寿命が尽きる前に本丸を離れた方がいい。
そのためどちらにせよ、寿命関係なく、本丸へ居られる残り時間はあと一ヶ月とした。
髭切に伝えたのが夕方だった。その後の夕餉の場で、皆にも伝えた。その時の彼らの動揺は明らかなもので、いくら想定していたとはいえ、彼らを残していく罪悪感と寂しさに押し潰されそうだった。
やっと自室へ戻った時、もう涙は我慢できなかった。
部屋で独り、涙が枯れるほど、散々泣いて。
泣き疲れた審神者は、今はただ机に突っ伏して、ぼうっとしていた。
窓は相変わらず開けっ放しの状態だ。夜の幾分冷たい空気が、部屋に入り込む。チリリン、と鳴る風鈴の音を、ただただ聞いていた。
(もう寝ないと。明日も日常があるんだから)
今寝たら、確実に目が腫れるだろうな……そう思いつつも、厨まで行って氷で冷やす元気がない。今は、誰にも会いたくない本音もあった。
(とりあえず、布団敷こう……)
審神者はのそのそと立ち上がる。布団を出そうと押し入れの戸に手をかけたところで、「あるじ」と、部屋の外から声がかかった。
ドキリと心臓が跳ね、審神者は押し入れの戸から手を離す。
「……はい。どうしました?」
無意識のうちに髪を整え、審神者は襖の外へ視線を向ける。散々泣いたためか、出た声は掠れてしまった。
「今、大丈夫?」襖を隔てて聞こえる声は、髭切のものだった。
「開けてくれると助かるんだけど」
続けられたその言葉に、審神者は迷った。泣き腫らした目元は、さぞかし赤いだろう。それでも断る言い訳が見当たらず、審神者は躊躇いながらも、襖へ近づいた。
小さく深呼吸したあと襖を開ければ、まず目に飛び込んだのは、ふかふかの布団の塊だった。
予想もしていなかったものに、審神者は唖然とする。
「あ。開けてくれてありがとう。助かったよ」
そう言いながら、髭切は審神者の部屋へと足を進める。部屋へ入ってくる髭切を、審神者はつい避けて、室内へと招き入れてしまった。
髭切は、よいしょ、と言いながら持っていた布団を畳の上に置く。そんな彼の動作を、審神者はただ呆然と眺めていたが、はたと我に返ると口を開いた。
「え……あの、どうしました?」
「ん?」
「いや、あの、そのお布団……」
動揺から、片言になる。髭切は笑みをたたえながら審神者を振り返ったが、彼女を映したその瞳は、驚いたように丸くなった。
そんな髭切の表情に、審神者はびくりとする。きっと、泣き腫らしたこの顔に驚いているのだ……その考えが頭を過り、審神者は咄嗟に俯いた。
「……今日から、僕もここで寝ようと思って」
少し間を開けて、髭切は審神者の問いかけに答える。
そんな彼の言葉に驚いたのも束の間、畳を踏み鳴らす音に、審神者は肩を震わせた。
髭切が近づいてくる。しかし、審神者は顔を上げられなかった。
「君は、いつも独りで泣いていたんだね」
柔らかい声が降ってくる。同時に、頭に触れた感触に、審神者は息を呑んだ。
ぽんぽん、と、優しく頭を撫でられる感触。
そっと顔を上げれば、少し困ったように微笑む髭切と目が合う。
「良かったよ。こっちに布団持ってきて」
「……あの、い……一緒に、寝るんですか?」
「そうだよ。だって『恋人』でしょう?」
小首を傾げて平然と言ってのける髭切に、審神者は言葉が詰まった。
いえ、フリでいいんですけど……そう言おうと思うも、煩い心臓が口から飛び出してきそうで、審神者はキュッと唇を結ぶ。
そんな彼女を見て気をよくしたのか、髭切はふふっと楽しそうに笑った。
「氷か何か、持ってきてあげる。明日も早いだろう。君も寝る準備を整えておいて」
髭切は微笑むと、審神者の頭を再びぽんぽんと撫で、部屋を出ていった。
(……ああもう。フリでいいのに)
今まで抑え込んできた想いが、溢れ出してしまいそうで。しかしその感情を、必死に殺そうとした。
この半年間、どれだけ自身に言い聞かせ、覚悟を決めてきたか。
揺らがないようにしないといけない。
この世にさよならを告げることを、今さら怖いと、思わないように。
第3話
瞼の裏で朝日を感じ、審神者の意識はふっと上昇した。
毎朝同じ時間に起床すれば、目覚まし時計がなくとも、体は自然と目が覚めるものだ。
アラームの音を感じる前に夢から覚め、同じ体勢で固まった体をほぐそうと、審神者は伸びをしようとした。
しかし体は重く、思うように身動きができない。
横向きで寝ているその体の上から、ずしっとした重みを感じる。ああそうか、掛け布団を冬用の重たいものにしたためだろうか──実際に冬用のものを出した覚えはないが、寝起きの上手く働かない思考でぼんやり思いながら、審神者は眉根を寄せ、ゆっくり瞼を開いた。
徐々に定まる焦点。視野がクリアになり始めると同時に、目で捉えたその姿に、思わず息を呑み込む。
長い睫毛に、スッと通った鼻筋。陶器のようなきめ細やかな肌。
静かな寝息を立てるその顔に、彼のふわりとした髪が、僅かにかかっている。
あまりに整っているその顔の持ち主について、審神者はしばらく理解できずにいた。しかしやっと理解した途端、激しい焦りと緊張に襲われる。
(なっ……な、え?)
寝起きの心臓は無理やり働かせられ、勢いよく胸の内を叩き始める。ドッド、と、その脈が頭にまで伝わり、審神者は現状に困惑していた。
目の前で寝ているのは、髭切だった。すぐ手を伸ばせば、その肌に触れられるほどの距離。どうやら同じ布団で寝ているらしい。しかも感じる重みは、髭切の腕によるものだと──掛け布団越しに体を包み込まれているような体勢、なのだと。
そう理解した途端、混乱しつつも緊張から顔に熱が集まり出す。
(ど、どういうこと……? あ、服は着てる)
思考は混乱を極めていた。しかしその中で、審神者は何とか貞操の確認をする。
服は、着ている。貞操は守れているらしい。しかしこれはどういうことなのか……審神者は一度目を閉じ、昨夜までのことを必死に思い起こした。
髭切に、この本丸の皆に、残りの時間を伝えてから数日が経つ。髭切が同じ部屋で寝ると言い出したのは、伝えた初日のことだった。
それから数日経ったが、夜は布団を2つ、少し離れたところに並べて眠る──そういった日常が始まっていた。
審神者にとって変わったことと言えば、寝る直前に「おやすみ」を言う相手ができたことぐらいだ。初日はさすがに緊張したものの、髭切の寝付きの早さにどこか拍子抜けし、審神者もいつもと変わらない睡眠時間をとることができていた。
昨夜も同じだったはずだ。布団を2つ敷き、「おやすみ」と言って互いがそれぞれ眠りについた。そのはずだった。
それなのに、なぜか今は、同じ布団で寝ている。
(しかもこれは……これは、抱き締められているようにも、見えなくはない……)
審神者はゆっくりと瞼を開ける。しかし目の前の光景は何一つ変わっていない。髭切の安らかな寝顔が、視界に映る。
(……。とりあえず起きなくちゃ)
審神者は決意を固めると、静かに、それはもうゆっくりと寝返りを打った。もぞもぞと、布団の中で方向を変える。
髭切を背にして、ふぅ、と一息つき。
このまま静かに布団から出よう──そうして動き出そうとした、まさにその時。
後ろから伸ばされていたその腕に、ぐっと力がこもった。
「──ッ」
審神者は息を呑む。掛け布団越しにぎゅっと抱きしめられたかと思えば、そのまま僅かに、抱き寄せられて。
背中に密着された感覚に、緊張感が高まった。
「ん……もう起きるの?」
掠れた声が、うなじにかかる。
状況を冷静に分析できるような思考はもう働いておらず、審神者は緊張しながら、ただただ困惑していた。
自分の心臓の鼓動が、聞こえてしまうのではないかと思うくらい。そのくらい激しく、心臓が鳴り響いている。
「あ……あの、髭切、」
何とか出した声は、若干震えていた。
「うん?」とまだ眠たそうな髭切の声が、すぐ後ろで落ちる。
「あの……あ、の。もう、起きないと」
あまりにしどろもどろで、自分でも恥ずかしくなるくらいだった。しかし審神者にとって、これが精一杯だったのだ。
この状況の説明を求められるほど冷静でいられず、声を出すだけで、いっぱいいっぱいなのだから。
そんな彼女の心境を知ってか知らずか、髭切は「んー」と寝ぼけた声を出す。
「まだ、いいじゃない。たくさん寝ないと疲れてしまうよ」
「そうは言っても、……ッ!?」
ヒッと引きつった声が出そうになり、審神者はそれを何とか堪えた。
髭切の腕に力がこもり、更にぎゅっと抱き寄せられる。
それと同時に感じる、うなじに顔を寄せられる感覚。頭をすり寄せられ、甘えてくるようなその行動は、まるで『恋人』にするようなもので。
あまりに密着度が高く、審神者は何が何だか分からずに、ただ羞恥と困惑に襲われていた。
「あ、あの、あの、髭切、さん」
「んー」
「髭切さん」
「髭切さん? 新鮮だね、その呼び方」
寝ぼけているのか、若干舌足らずな彼はくすくす笑う。
「……髭切、」
「ん」
「いやあの、一体何を……」
「うーん? まーきんぐ」
「マーキング?」
「僕の神気、たくさん付けておこうと思って」
「なっ」
髭切の言葉を、審神者は上手く呑み込めずにいた。
ただ、それでも。困惑の中に生まれる淡いときめきを無視することはできず、どんどん顔に熱がこもっていく。
「そ、そんなことしなくても」
「だって『恋人』だろう?」
「そう、ですけど……」
いや、あくまでフリなのだけれど。そう続けようとしたが、審神者は口を閉じた。恋人のフリというのは、すでに伝えてある。それを、彼自身も忘れるはずがないだろう。
「まだ、もう少し」
後ろで髭切が呟く。今にも二度寝しそうな声色だった。
髭切は何を考えているのだろうか。審神者には全く検討がつかなかった。それでも彼に淡い恋心を抱いてる彼女にとって、この状況は、切なく胸を焦がした。
(寝ている場合じゃないのだけれど……)
残された時間は限りなく少ない。その時間を睡眠にあてるのは、勿体ないように思える。
しかし、そうは思っていても。髭切に抱き締められている感覚は心地よく、緊張で強ばった体は、だんだんと力が抜けていった。
後ろから、穏やかな寝息が聞こえ始める。すっかり彼のペースに巻き込まれてしまいつつも、彼につられるように、意識が沈み始める。
包み込まれる温かさを感じながら、審神者はゆっくりと目を閉じた。
第4話
フリでもいいから、恋人になってほしい。神様たちから、万が一にも神隠しを受けないように。
髭切にそう告げてから、彼は可能な限り、審神者の側にいるようになった。
審神者が一人になりそうな時は、ふらりといつの間にか側にいる。かと言って、常に一緒にいるわけではない。審神者が他の刀と共に過ごす時間は、尊重してくれているようだった。
少し離れていた後に髭切と合流すれば、彼は審神者の顔色や全体の様子を眺める。頭の上から爪先までサッと目を通した髭切は、彼女に微笑みを向けて何事もなかったかのように隣を歩く。そういう仕草が、常となっていた。
彼が何を見ているのか審神者には分からないが、おそらく、何かを確認しているのだろう。
そういった行動や、日頃の些細な言動からも、髭切は審神者の『恋人』として、端から見ても分かるものになっていた。
「主、疲れてないかい?」
髭切はよく、審神者にそう問いかける。
日頃の業務──特に霊力を使った後は、正直、疲労がどっと押し寄せる。その度に審神者は、自分の残り時間を自覚せざるを得なくなるのだが、まるでそのタイミングを計ったかのように、髭切に気を遣われるのだ。
(疲れが顔に出ちゃってるんだろうな……)
そんなことじゃ駄目だと、審神者は自身を叱咤する。
皆に心配をかけないために、嘘の理由をついたのだから。
「少しだけ疲れちゃいましたけど、このくらい大丈夫ですよ」
審神者は微笑みを作り、隣を歩く髭切に言う。
疲れが出ていたのは確かなのだろう。それなら変に嘘をつくより、少しの事実は入れておいた方がいい、と、そう思って出てきた言葉だった。
髭切は歩きながら審神者を見下ろし、「そう?」と小首を傾げる。
そしておもむろに、その手を審神者へと伸ばした。
審神者の小さな手が、髭切の大きく、骨張った手に包み込まれる。
審神者は始め、状況を理解できなかった。彼の手袋の感触を受け取った後、次いでやっと『手を繋いでいる』という状況を把握し、彼女の肩は大袈裟なくらい跳ねた。
「ッ、あ、あの」
「少しでも疲れたなら、休憩にしようよ。確か厨に、かすてらあったよね?」
それ食べたいなぁ、と髭切はのんびり言う。
髭切の様子は、至って普段通りだった。そんな彼のペースを崩せるはずもなく、審神者は何も言葉が出てこないまま、コクンとただ頷いた。
髭切に手を繋がれ、外廊下を歩く。
涼しくなり始めた風が、甘い香りを運んできた。庭に咲く、金木犀の香りだ。その優しい秋の香りが審神者は大好きだった。穏やかな気持ちにさせられるその香りは、どことなく、髭切のもつ雰囲気に似ているような気もする。
「そうだ。今度、町に出ようよ」
髭切は唐突に言う。審神者はきょとんとしながら彼を見上げた。
「町、ですか?」
「うん。万屋とか、甘味処とか。二人でさ、色々と見て回らない?」
審神者を見下ろす髭切は、にこりと微笑む。その柔らかい表情にドキリとしつつ、審神者は髭切の言葉に、静かに頷いた。
まるで、デートのようだと。
そう自覚すれば顔が熱くなり始めるも、それをすぐ隣にいる彼に隠す術がない。
この熱がどうか伝わらないようにと、審神者は胸の内で祈ることしかできなかった。
*
目の前に差し出された鏡を見て、審神者は目を見開いた。
鏡の中には、自身の顔が映っている。しかしそれは、いつもの見慣れたものとは少し違っていた。
メイクの仕方も、髪型も。シンプルでいて、しかし華があり、艶がある。
自分でするのとは格段の差を見せつけられ、さすが我が初期刀だと、審神者は感嘆のため息を溢した。
「さすが歌仙……すごいですね」
鏡の角度を変えながら、審神者は呟く。そんな彼女を見て、歌仙は満足気に微笑んだ。
「今日の着物に合わせたんだ。きっと、皆が君に振り向くよ」
歌仙の言葉に、審神者は目を丸くする。手に持つ手鏡の角度を変え、後ろにいる歌仙を映した。
鏡越しに目が合った彼は、怪訝そうに片眉をつり上げる。
「……なんだい」
「いや、歌仙がそんなことを言うなんて」
「だって当たり前だろう? 僕が仕立てたんだから」
雅にならないはずがない、と、さも当然のように続けられ、審神者は思わずふふっと笑った。
「そうですね。こんなに素敵にしてもらえて嬉しいです」
「それなら良かったよ。特別な日だからね」
特別な日、という言葉に、思わずドキリとする。端からみると、そんなに大層な日ではないのだ。ただ、髭切と二人で町に出る、というだけで。
それでも審神者にとってそれは嬉しいことであり、彼女の恋心を知っている初期刀にとっても、同じ認識であるようだった。
「……主、本当に告げなくていいのかい?」
鏡越しに歌仙と目が合う。どちらのことについてだろう、と審神者は思ったが、あえて聞かなかった。
審神者の恋心についてだとしても、本丸を去る本当の理由だとしても。
どちらにせよ、審神者の中の答えは変わらなかった。
「いいんです。このままで。もう十分、よくしてもらってます」
審神者は鏡を静かに置きながら言う。歌仙の表情が分からなくなったが、苦笑しているのだろうな、とは想像がついた。
自身の想いをきちんと伝えたい気も、初めはしていた。寿命の話も、ちゃんと告げるべきなのかもしれない。そう思っていた。
しかし本当のことを告げると、気を遣わせてしまうかもしれない。残す身より、残される側の方が辛いことはよく分かっている。それならば、なるべく辛い思いをしないように。
はじめは、そんな理由だった。
しかし今は、わざわざ伝えなくてもいい、という気持ちが強くなっていた。
恋人のフリといえど、髭切にはそれ以上のものを与えてもらっている。それだけで審神者は幸せだった。
だからこれ以上、わざわざ言うこともない。
それが今の、彼女の結論だった。
「ただ、歌仙には……一番辛い思いをさせてしまっていると思っています。ごめんなさい」
初期刀の歌仙だけは、本当のことを知っている。
残りの寿命も、その寿命が削られた理由も。
半年前に初めて告げたその時、後悔と悲しみの滲んだ彼の顔が、今でも忘れられなかった。
審神者は歌仙へと振り返る。目を見開いていた彼は審神者と目が合うと、眉根をよせ、不器用に笑って見せた。
「謝らないでおくれよ。……ただ、そう思っているなら。今日は目一杯、楽しんできてくれないかい」
ほら、そろそろ時間だろう。と歌仙は審神者を促す。
「ああそうだ。僕が仕立てたと言ってくれてもいいんだよ?」
そう言った彼は、もういつもの表情に戻っていた。
「そうですね。聞かれたら素直に言おうと思います。聞かれたら」
「まあ、そうだね……彼、ちゃんと気づくだろうか」
この雅さに。とは続けなかったが、おそらくそう言いたいのだろうと審神者は察した。そんな彼にくすりと笑みながら、「それでは行ってきます」と審神者は部屋を後にしようとする。
「主」
呼ばれ、審神者は振り返る。
「たくさん楽しんでおいで」
慈しみのこもった歌仙の声が、耳に届く。
そんな彼に、できる限りの笑顔作って、審神者は深く深く頷いた。
第5話
「おや。今日はいつもと少し雰囲気が違うね」
待ち合わせの門前で、審神者をしげしげと眺めた髭切はそう言った。
今日の髭切はいつもの洋装とは違い、和装姿だった。
白地の着物に、襟元には竜胆色のラインが。袖と裾には黒色、芥子色の差し色が入ったもの。軽装の着物姿だ。
そんな彼は両腕を袖の中に隠し、本丸の外門の前で審神者を待っていた。
審神者自身、待ち合わせの時間に遅れたわけではない。むしろ少し早めに着いたくらいだった。
しかしそれより早くに居たらしい髭切の姿は、審神者にとって意外なもので、思わず目を丸くする。
おおらかな彼の性格もあってか、時間前行動をする印象があまりなかったからだ。
少々驚きつつ、「お待たせしてすみません」と言った審神者に、「僕も今来たところだから大丈夫だよ」と髭切は答える。そのやり取りはまるでデートのようだと、そう実感し始めた審神者をまじまじと眺めた髭切は、冒頭の言葉を続けたのだ。
今日は少し雰囲気が違う、と、審神者の変化を髭切は感じ取ったらしい。
先ほどまで歌仙としていた会話が、脳裏をよぎる。
髭切がこういう変化に気づくことも少々意外で、審神者はパチパチと瞬きをした。
「あ、はい。歌仙に色々と手伝ってもらって」
僕が仕立てと言ってくれてもいいんだよ、と、そう言っていた歌仙の言葉を思い出す。彼、気づくだろうか。ふと溢していたその言葉も、続けて思い起こしていた。
歌仙も、髭切がこういう変化に気づくとはあまり思っていなかったのだろう。
しかし当の本人は、「ああ、やっぱり」とくすりと微笑んだ。
「そうじゃないかなって思ったよ」
そう言った髭切は、自身の顎に手を添えると、審神者を観察するように視線を滑らせる。
「彼、君のことよく見ているからね。どういうものが似合うのか、彼ならよく知っているだろうし」
その言葉に、審神者は再び目を丸くする。
まさか髭切が、そういう細かい部分まで見ているとは思ってもみなかったのだ。
むしろ、あまり興味がないのではないかと。そうとすら思っていた。
「よく似合ってるよ」
にこにこと続けられた言葉に、審神者は我に返る。
次いで言われた言葉を理解し、胸がくすぐったくなった。
「ありがとうございます。髭切も、今日は少し雰囲気違いますね」
照れを隠すように、話題を髭切へ振る。
髭切も、今日はいつもと雰囲気が違っていた。それは和装だから、ということもあるが、髪型が少し違うのだ。
片側だけ軽く編み込みがされ、普段隠れている耳があらわになっている。
髪の分け目も編み込みがされている側に近く、もう片方へと流したような髪型だった。
「ああ。これ、粟田口の子がしてくれたんだ」
「乱あたりですか?」
「そうそう。よく分かったねぇ。今日は主と、でーと、だからって」
自身の編み込み部分に触れながら、髭切は言う。彼の口から出てきた「デート」という単語に、不意に気恥ずかしさがこみあげた。
「……乱も、よく分かってますね。似合ってます」
「ふふ、そう? ありがとう」
乱もよく分かっている。心の中で、審神者は再度呟く。
片耳がよく見えるその髪型は新鮮であり、彼によく似合っていた。
そんな彼の姿に、胸がときめかないはずがなかった。
「それじゃあ、行こうか」
自然に手を差し出され、審神者は恐る恐るその手に自分の手を重ねる。
フリでいい、と言っているのに、髭切はいつも審神者と手を繋ごうとしてくれていた。いまだに慣れず、ただそっと重ねることしかできない。
髭切の手袋は、少しひんやりと冷たい。
それなのに何故か、彼と手を繋ぐといつも、そこから温かいものが流れ込んでくるような感覚がした。
*
髭切と手を繋ぎ、街中を歩く。万屋を覗いたり、食べ歩きをしながらお団子をつまんでみたり。お昼は和食屋に入って、髭切は大盛りのカツ丼を、審神者は天婦羅定食を頼んだ。それからはまた街中をふらりと歩き、雑貨屋に立ち寄ってみたり。
それは端からみても、デートのようだった。
「大丈夫? 疲れてないかい」
髭切は度々、審神者にそう問いかける。彼は審神者の近くに居るようになってから、よく彼女の体調を気遣うようになった。
問いかけられるたび、審神者は疲れが滲んでしまうのかと、ふと思ってしまう。
寿命の残り時間を感じ始めてから、確かに身体は疲れやすくなっていた。霊力を使っていなくても、ちょっとしたことですぐ疲れてしまう。
それは半年前から少しずつ感じ始め、ここ一ヶ月は特に、それが顕著になってきたことを、審神者自身も自覚していた。
しかし、なるべくそれを表に出さないよう気を付けていたものの、やはり常に近くにいれば、隠しきれないのかもしれない。
(実は、周りをよく見ている刀だから……)
審神者は髭切のことを、そう評価していた。
あまり物事に囚われず、関心が薄いように見えて、実は誰よりも周りの挙動を観察している。
そういうところがさすがは惣領の刀なのだと、そう気づいたのはもう随分と昔のことだった。
「疲れていませんよ。大丈夫です、ありがとうございます」
審神者は髭切の問いに答える。それは本当のことだった。今日は何故か、疲れがあまり襲ってこない。髭切とデートだから浮かれているのだろうか……そう思ってしまうほどだった。
「それなら良かった」と髭切は微笑む。きゅっと繋いだ手から、またじんわりと温かみを感じた気がして、胸の内側がくすぐったく、頬は思わず緩んでしまう。
「あ。あのお店、少し寄ってもいいですか?」
照れくさい気を紛らすように、審神者は目に入った店を指差す。
外から見た感じは、どうやら小さな雑貨屋のようだった。
そのまま足を踏み入れれば、黄金色の落ち着いた明かりに包まれた店内に、和の小物やアクセサリーが品よく並べられている。手作りなのかどれも一点物のようで、つい目移りしてしまうほど、どれも魅入ってしまうものばかりだった。
(可愛い……)
お財布や小物入れ。ネックレスにピアスなど。審神者は、ほぅっと見とれながら、辺りを見回す。
頻繁に揃えるわけではないが、こういう小物類が審神者は大好きだった。
「主」
ふと髭切に呼ばれ、審神者は彼へと振り向く。しかし何やら品物を眺めている彼とは目が合わず、何を見ているのだろう、と、審神者も彼の視線の先を見つめた。
そこはどうやら、簪のコーナーのようだった。髭切はその中から一つを手に取る。
「うん。これが良いかも」
手にした簪を、審神者へとかざして髭切は言う。突然のことに、審神者は呆然と彼を見上げた。
髭切の視線は僅かに横に逸れていて、彼と目が合わない。
少し間して彼と目が合ったかと思えば、髭切はにこりと目尻を和らげ、審神者の目の前にその簪を差し出した。つられるままに、審神者は簪へと視線を向ける。
淡く透き通ったトンボ玉に、細いチャームが揺れる簪だった。
「これ、どう?」
簪を差し出したまま、髭切は問いかける。
「え? ど、どうって……」
「好き?」
「え、あ、はい。綺麗な色ですね。チャームが揺れるのも可愛いですし」
「うん。じゃあ決まり」
辺りを見回した髭切は何かを見つけると、審神者から手を離す。
「少し待ってて」と、そう言ったかと思えば、彼は簪を手に持ったままどこかへ向かい始めた。
審神者は一瞬困惑するも、彼の向かった先がお会計だと分かれば、察しないほど鈍感ではない。
「えっ。あの、待ってください」
審神者は髭切に駆け寄ると、彼の着物の袖を掴み、咄嗟に引き止めた。
「おっと」急に引き止められた髭切は、若干後ろのめりになる。
「あ、ごめんなさい。いやそれよりも」
「なんだい?」
「それ、もしかして……」
「うん。そのもしかして」
たくさん使ってね。と、髭切は微笑みながら続けた。その優しい笑みに、審神者は思わず見惚れてしまった。
「それに、狡いじゃないか。初期刀くんばかり」
「え、歌仙、ですか?」
「そう。僕も君を仕立てたい」
「なっ……」
予期せぬ言葉に、審神者は唖然とした。その際に髭切の袖を掴んでいた手が緩んでしまい、隙を見て、髭切はするりと会計へ向かう。
しまった、と審神者が思うと同時に、髭切は楽しそうに笑った。
選んでもらった簪はどちらかというとシンプルな物で、洋服にも合いそうなものだった。
もしかしたら、それも見越して選んでくれたのかもしれない、と審神者はふと思う。普段から、つけられるように。
髭切にお礼を言えば、彼はどこか満足げに、しかし柔らかく微笑む。
そんな彼を見て心は温かくなり、彼女の恋心は募るばかりだった。
第6話
審神者が残り一ヶ月しか居られない、と、皆にそう告げた日から、本丸では数日に一度は宴会が開かれていた。
限りある時間を、審神者とできるだけ楽しく過ごしたい。刀剣男士たちのその思いから、毎日とは言わずとも、豪勢な夕餉となる日が頻繁にあった。
皆と酒を飲み、美味しい食事に舌鼓を打つ時間は、審神者にとっても楽しく、貴重なその時間を噛み締めるように過ごす。
審神者自身、アルコールに特別強いわけではないが、弱すぎるというわけでもなかった。嗜む程度には飲め、酒の席でも楽しめる。
しかし体調によって、アルコールの回り方が違う日もあった。
この日は、別段疲れていた自覚はなかった。それでもやはり、寿命は日々少しずつ削られているためか、この日はアルコールの回りが早かったらしい。
「主、大丈夫かい?」
ふわふわと脳が緩やかに揺れるような感覚の中、髭切の声が審神者の耳に届く。ゆっくり顔を上げれば、覗きこむ髭切と視線が交わった。
大人数の宴会となれば、いくつかのグループが自然と出来上がるものだ。審神者はこの日、伊達の刀たちと飲んでいた。髭切とは別々であり、しかし目の前にいる彼を見て、ああ髭切も今夜は伊達の刀たちと飲むのか、と、審神者は酔いの回った頭で考える。
「ひげきりは、何をのみますか?」
注ぎます、と、口から出た言葉は呂律があやしい。
髭切はそんな彼女の言葉に僅かに目を見開くと、苦笑を溢した。
「僕はもう部屋に戻るよ。君もね」
「わたし、も?」
「そう。今夜はこのくらいにしておいた方がいいよ」
「……いや、です」
まだ、大丈夫。まだ飲める。もっと……もっと、皆と一緒に居たい。
その思いが強く、アルコールで理性が上手く働かなくなっている審神者は、思わず駄々をこねた。
そんな彼女の言葉は珍しく、髭切にとっても意外であり、彼は再び目を丸くする。しかしそれも一時のことで、彼はその目元を和らげて審神者を見つめた。
「主、今日無理をしては明日に響いてしまうよ」
「……」
「これが最後の宴会じゃないんだから。また次も、皆と楽しくしたいだろう?」
「……はい」
「それなら、今日はもう無理しないでおこうね」
柔らかく、まるで幼子に諭すような声色。髭切の言っていることは、酔いが回っていようとも、審神者もよく理解していた。
アルコールで気持ちが悪いとか、視界がぐらぐら揺れているわけではない。まだ、悪酔いしていない。むしろ心地よい気分だった。
しかしこれ以上飲めば、その域を越えてしまい、明日に響くことなど、彼女自身も分かっている。
審神者は髭切の言葉に、小さく頷く。髭切はくすりと笑むと、「よいしょ」と言って審神者を抱き上げた。
「それじゃあ、僕たちは一足お先に休むとするよ」
横抱きにされ、すぐ近くで聞こえる髭切の声に、審神者はトクンとときめく。
「ありがとう。主をよろしくね」という光忠の声が、下の方から聞こえた。
髭切はゆっくりと歩き出す。彼から伝わる振動や、体温は心地よく、同時に胸のときめきに審神者はふわふわと夢心地だった。
酔いのためか、いつもなら恥ずかしいと思う気持ちさえ、今は心の隅へと追いやられている。ただただ、愛おしい。髭切のことが好きでしかたがない。この時間がずっと続けばいいのに、と、素直なその気持ちが溢れていた。
だからか、髭切が布団に審神者をおろした時、審神者はつい、彼の首へと手を回していた。離れていく彼を、引き止めるように。
「……主、どうしたの?」
少し驚いたような髭切の顔。いつもならここでハッと我に返る審神者だが、アルコールが彼女の思考を、理性を麻痺させていた。
「……。……まだ、寝たくないです。まだ、一緒に」
まだ一緒に居たい。寝てしまえば、今日が終わってしまう。今日が終われば、また一日、一緒に居れる時間が少なくなってしまう。
審神者の言葉はそんな気持ちから出たものでもあったが、彼女ももう、十分いい大人だ。
まだ、寝たくない、と。その言葉が相手にどう捉えられるか、その可能性を考えられないわけではなかった。
髭切は彼女の言葉を聞いて、再び目を見張る。
しかし彼女の潤んだ瞳を真っ直ぐ向けられ、察することができない鈍感さは持ち合わせていなかった。
「そんなこと言われると、もう我慢できなくなってしまうんだけど」
髭切は苦笑を落とす。我慢していた、というニュアンスの言葉に、審神者の胸がキュッと狭まった。もしかしたら、リップサービスかもしれない。けれど彼女の素直な気持ちとしては嬉しく、その気持ちのままにコクンと頷く。
そんな彼女を見つめた髭切は、困ったような、それでいて慈しみのこもった笑顔を彼女へ向けた。
髭切は自身の首に回された審神者の手を取り、そのまま布団に縫い付ける。
「本当にいいの?」
髭切の影が、審神者に落ちる。琥珀色の瞳は熱を孕み、それでも優しく、全てを包み込むような眼差しだった。
その瞳も、彼の纏うその雰囲気も、審神者の大好きなもの。
胸が切なくときめく。緊張で、心臓の鼓動が速くなっていた。
審神者は再び頷く。それを見届けた髭切は、ゆっくり、彼女との距離を縮める。
髭切の視線がほんの僅かに下がったのを合図に、審神者は目を瞑った。
唇と唇が、静かに触れ合う。
酔いは回っていても、緊張から審神者は身体を強張らせていた。そんな彼女の緊張をほぐすように、髭切は彼女の唇を柔らかく食み、その先へと甘く誘っていく。
唇の感触を、確かめ合うように。吐息は溶け合い、互いの体温が、交ざり合う。
触れ合うところから髭切の体温を感じ、まるで全てを包み込まれるようなその温かさは、とても心地の良いものだった。
もっと、もっとずっと一緒にいたい。
お別れを、したくない。
溢れる想いは堪えきれず、髭切に抱かれるまま、涙は自然と頬を流れていた。
第7話
ふと目が覚め、徐々に覚醒する頭で出てきた最初の言葉は、やってしまった、だった。
明け方の、まだ日の光が室内に入り込んでいない時間帯。薄暗いなか、目を覚ました審神者はその状況を確認した途端、焦りと緊張にドッと襲われた。
目の前の、端整な寝顔を凝視する。いつの間にか彼と一緒に寝るようになって数日経つも、いまだにその整った顔が間近にあることに慣れず、審神者は寝起き早々いつも心臓を速めていた。
しかし今日はそれに加え、いつもと違う状況に心臓はうるさく鳴り響く。
直接、肌と肌が触れ合う感触。直に伝わる体温。髭切の腕は、今日は掛け布団越しではなく、直接彼女を包み込んでいる。
ゆっくりと彼の顔から視線を下げれば、予想していた通り、その上半身に何も纏っていない状態だった。
それはもちろん、審神者自身もしかり。
(や……やってしまった……)
貞操を確認した審神者は、再び焦り出す。
昨夜のことを忘れているわけではない。記憶を飛ばすほど、酔っていたわけではなかった。自分が言ったこと、彼との行為、与えられたもの──全てを鮮明に思い出すことができる。
ただ昨夜と違うことは、隅へ隅へと追いやった理性が、すっかり元通りに帰ってきていることだった。
(ど、どうしよう)
好きな相手と体を合わせる。それはとても幸せなことだ。しかし元々、審神者としての責務を負ってきたこともあってか、彼女はとにかく真面目な面があった。
審神者は髭切のことが好きだが、彼との関係は本当の恋仲ではない。けれどもう、今さらだとも思っていた。自分の残された時間は限りなく少ない。いくら酔いに任せたとは言え、本心を出したわけであり、良い思い出ができたと思っておこう……。
そうやって自身を納得させようとするも、やはり恥ずかしさは拭いきれないもので。
(髭切は、どんな気持ちで抱いてくれたんだろう)
そう思いながら彼の顔を見つめていれば、穏やかに閉じられていたその瞼が震え、審神者は思わずびくりとした。
咄嗟に顔を下へそむける。それとほぼ同時に、髭切の腕に抱き寄せられ、ぎゅっと彼の胸元におさまる形になった。
「おはよう」
すぐ頭上で、髭切の掠れた声がかかる。間近で聞こえたその声と、抱きしめられたその状況に、審神者の顔にカァッと熱が集まり出した。
「あ、おはよう、ございます……」
「ん……まだ暗いね。もう少し寝よ」
髭切は審神者の額あたりに、顔を寄せる。その甘える仕草は本当の恋人同士のようで、審神者は緊張の中で、胸が淡く締め付けられていた。
「あ、あの、髭切」
「ん。なぁに?」
「昨夜の……ことなんですけど……」
「昨夜……ああ、昨夜ね」
「……」
「ふふ。主、可愛かったねぇ」
まるで猫のようにすり寄る髭切に、審神者は恥ずかしさと緊張で体を強張らせる。
寝惚けているのだろうか、と、彼の言動から思わずそう思ってしまった。けれど嬉しいことには変わりなく、恥ずかしさの中に、幸福感がじんわりと広がり始める。
「髭切……」
「ん?」
「あの、」
「うん」
「わ、私……誰でもいいわけじゃ、ないので……」
最後の方は、ごにょごにょと歯切れの悪いものになってしまった。
初めは、自身の気持ちを伝えるつもりなどなかった。残された一ヶ月、あくまで「恋人のフリ」を通すつもりでいた。
しかしこういう状況になってしまったのなら、と、審神者は勇気を振り絞って口にする。
勇気を出したはいいが、言い様のない不安があるのも確かなことで。本当の気持ちを伝えたら、どう思われるのか……明確な伝え方ではなかったものの、語尾は情けなくも段々と萎んだものとなってしまった。
「うん。知ってる。ちゃんと分かってたよ」
笑みを含んだ声が、すぐ上から落ちてくる。
「僕も、誰でもいいわけじゃない」
そう言われたかと思えば、更にぎゅっと抱き締められ、審神者は息を飲んだ。
包み込まれる温かさ。彼ら刀剣男士は刀の付喪神といっても、今は人の身体を持ち、確かに生きている。
心臓の鼓動も、流れる血が運ぶ温かさも、審神者と同じもの。
しかし胸にまで染み渡る温かさは、髭切にしか貰えないものだった。
(幸せ、だなぁ)
あまりに幸せで、温かくて、思わず泣きそうになってしまう。
審神者は髭切の胸元に顔を埋め、今のこの時間を噛み締めるように、ゆっくり瞼を閉じた。
*
半年前、突然、余命を宣告されて。それから悩みに悩んだ時間は長く、しかし皆へと告げてからは、あっという間に時間が過ぎていった。
もっと早く告げれば良かったのだろうか。度々そう思うも、過去にした決断については、もう後悔しないことにした。それよりも、残された限りある時間を、精一杯過ごすように。近づくタイムリミットの中で、心残りがないよう、審神者はやりたいことを毎日考えていた。
「へぇ。夢の国?」
髭切は興味深そうに聞き返す。
それは自室で、二人しておやつを口にしていた時の事だった。
初期刀である歌仙は、審神者の好物をよく知っている。歌仙に余命の話をしたのは、皆に伝えるより早い、半年前のこと。その日から特に、彼は審神者の好物を多く出すようになった。
本日の八ツ刻に出てきたのは、チーズケーキだった。それを二人で堪能しながら和やかに過ごしていた中で、審神者はタイミングを見計らって、髭切に提案をした。
「はい。現世にある遊園地なんですけど。そこに、ふたりで行ってみたくて」
自分からデートのお誘いをするというのはなかなか気恥ずかしく、審神者は思わずはにかんだ。
本丸の主としての役割を担ってからというものの、審神者自身、現世へと赴くことは滅多になかった。遊園地へ遊びに行くだなんて、もっての他だ。しかし現世のことは情報として定期的に入ってき、その中である遊園地のことを知った時、一度でいいから行ってみたい、と心底憧れたものである。
もし、好きな相手と──髭切とそこへ行けるのならどんなに楽しいだろう、と。
その遊園地に憧れを持っていた審神者は、最後の思い出作りの場所として、そこを選んだ。
「いいね。楽しそうだ」
髭切は微笑む。そんな彼の顔を見て、審神者の胸はきゅっと締め付けられ、つられるように微笑みを返した。
一夜を共にした日から、髭切の笑みは、以前にも増して優しいものになった気がしていた。以前ももちろん優しく柔らかいものだったが、それよりももっと、慈しみのこもったような。
その笑みを向けられるたび、審神者の胸はいっぱいになり、思わず頬が緩んでしまう。
「行くとしたら一日かけてだよね?」髭切が審神者に問いかける。
「そうですね。朝少し早めに出て、夜は閉園まで居れたら嬉しいです」
「うん。せっかくだしさ、目一杯楽しみたいよねぇ。体調は大丈夫?」
「え? 体調は、はい。大丈夫です」
「良かった。許可って、上から貰わないとなの?」
「あ、許可はもう貰ってます」
「そっか。じゃあもう、すぐにでも行けるね」
トントン拍子に話は進み、行く日程も無事に決まる。
「さて、今日は僕が夕餉当番だから」と、夕餉の準備のために部屋を出ていった髭切を見送り、審神者はカレンダーを手に取った。
先ほど決まった日付に、印をつける。
夏の暑さはすっかり消え失せ、秋の空気に、一足早くも冬の気配が混ざり出している。
印を付けた日にちから、次のページを捲るまで。残された日にちはすぐに数えきれてしまうほど、限りなく少ない。
10月も、もうすぐ終わる。
きっとこの日が、彼と二人きりで思い出を作れる、最後の日だろう。
寂しいかといえば、そうに決まっている。しかし込み上げるその寂しさを、目一杯楽しむんだという決意で包み込んで。
審神者は印したその日付を、指先でゆっくりとなぞった。
第8話
空気の澄んだ青空の下、そこは軽快な音楽と活気に包まれていた。
すぐ側を、若い男女のグループが笑いながら走り抜ける。制服を着た女学生はカメラを向けて笑い合い、幼い子供は、親に買ってもらった風船を嬉しそうに握っている。
どこを向いても笑顔で溢れていた。楽しそうに笑い、はしゃぎ合っている。人間だけの平和な空間。『夢の国』と比喩されるだけのことはある、幸せに溢れた場所だった。
「此処は、居るだけで楽しいねぇ」
髭切の声がすぐ隣から聞こえる。その頭にクマの耳をちょこんとつけ、美味しそうにチュロスを頬張っている髭切もまた、楽しそうだった。
この遊園地には様々キャラクターがいるらしく、それぞれのモチーフとなる耳カチューシャを付けるのが流行りのようだ。
全員とまでいかずとも、視界には必ず、その耳カチューシャを付ける人が目に入るほど。それを見た髭切が、「僕もあれ付けたい」と言い出し、たくさんある中から二人で選び、今はお揃いのクマ耳カチューシャを付けている。
髭切の色素の薄い髪色と、そのクマ耳の色はよく馴染んでいた。可愛い、と思わず見惚れてしまうほど、彼に似合っている。
「次、どこに行く?」
髭切に問われ、審神者はマップ表を広げた。
現世では常に人気のトップに立つ遊園地とあって、その敷地内はとてつもなく広い。一日ではとてもじゃないが、全て回りきれないだろう。
審神者はあらかじめチェックしておいたアトラクションと、現在位置から、「これはどうですか?」と髭切に提案する。
「これ、ジェットコースターみたいなんですけど……」
「じぇっとこーすたー?」
「とても速い乗り物です」
「馬よりも?」
「ええ。馬よりも、もっともっと速いですよ」
「へぇ」
髭切は口角を上げ、興味津々といったように目を見開く。その表情はまるで新しいおもちゃを発見した幼子のようで、審神者はくすりと笑った。
「髭切は、速いの大丈夫そうですね」
「馬も好きだけど、もっと速いのかぁ。楽しそうだね」
そんなことを話しながら到着した先は、随分と長い行列ができていた。この遊園地はどのアトラクションも、人気なものは特に待ち時間が長い。審神者も、幸い髭切も、『待つ』という行為にそこまでの苦痛を感じない性格だった。
二人で最後尾に並ぶ。何列にも折り返すように並んでいるため、最後尾にいても、少し前の方の人々の表情がよく見えた。
並び始めた途端、色々な方向から視線が集まる。それらは全て、隣にいる髭切へ注がれているものだった。
端整な顔立ちに、すらりとしたスタイルの良さ。細身のパンツスタイルに、薄手のチェスターコートを羽織る彼は、どこからどう見てもモデルさながらだった。おまけに頭につけたクマ耳も、よく似合っている。
男女問わず、髭切に熱い視線が向けられていた。そしてチラチラと、その視線が隣にいる審神者にも向けられていることも、彼女自身分かっていた。
おそらく、見比べられているのだ。完璧すぎる彼の隣にいるのが、それに似合う、彼女であるのか。
向けられた視線から感情すら伝わってくるようで、気にしないようにしつつも、居たたまれないような気持ちが心に染みを作り始めていた。
「あるじ」
小声で、髭切に呼ばれた。そう思うと同時に、肩へと手を回され、ぐいっと引き寄せられた。
バランスを少し崩した審神者は、髭切へ凭れかかる。
咄嗟に隣を見上げれば、いつものように笑みをたたえた髭切と目が合った。
「っ、髭切、どうしました?」
「ん? いや、何だかやたら視線を感じるから。君が連れ去られないようにと思って」
穏やかに笑いながら髭切は言った。その言葉に、審神者は目を瞬かせる。
「あ、いえ、皆さん髭切を見ているんですよ」
「うん。殺意は感じないけど、鬱陶しいよねぇ。牽制かけておく?」
「えっ? いやいや、あ、とりあえず、次どこ行くか決めましょうか……!」
牽制という言葉に不穏さを感じ、審神者は話題を逸らすようにマップ表を取り出した。くすくすと笑う髭切は、どうやら冗談で言ったらしい。
審神者がマップ表を広げれば、髭切はそれを覗きこむ。次はここに行きたいだの、これも食べたいなど話していれば、もう周りの視線も気にならなくなった。
「主。これ、つけてきてくれたんだね」
唐突に言われ、審神者は顔をあげる。彼の顔は思った以上に距離が近く、ドキリと心臓が跳ねた。
「え?」
「かんざし。ありがとう」
言われ、審神者はそっと後ろ髪に触れる。雑貨屋で髭切が買ってくれたものだった。淡く透き通ったトンボ玉に、細いチャームが揺れる簪。
シンプルなそれは、洋服にもよく馴染んだ。
「こちらこそありがとうございます。洋服にもよく合うので、いつでもつけられます」
「ふふ。なら良かった」
「……ずっと、大切にしますね」
たとえ、この世の物を何も持っていけないとしても、これだけは持っていきたい。そう心の中で付け足せば急に寂しさに襲われそうになり、審神者は気を紛らすために、再びマップ表を見ながら次の話を始めた。
*
それからもいくつかアトラクションを回り、食べ歩きもしながら、二人は目一杯、時間を楽しんだ。
レストランに入れば、出てくる料理まで可愛くデコレーションがされており、審神者は色んな角度から写真を撮る。本丸に帰ったあと、作ってもらうためだった。
歌仙なら雅さに欠けると言いながらも、結局作ってくれるだろう。光忠なら、むしろ喜んで作ってくれそうだ。
土産屋を覗けば、あのヘンテコな被り物は鶴丸が好きそうだ、このお菓子の詰め合わせは短刀たちが喜ぶだろう、など、色々なものに目移りしてしまう。
「弟にはこれをあげよう」と、髭切は緑色の、宇宙人のようなキャラクターのキーホルダーを買っていた。
「こういう愛嬌あるの、なんかいいよねぇ。色も緑だし」と彼は笑う。
髭切と居ると話題は尽きず、アトラクションに乗らずとも、一緒に居るだけで楽しかった。
しかし時間は止まってはくれない。気がつけばすっかり日が落ち、ライトアップされた園内は、昼間とは別の雰囲気を醸し出していた。
様々な色の光が、夜の空気に鮮やかに滲む。夜という、本来静かさが生まれる時間帯だが、休むことを知らないように園内は賑やかだった。
審神者と髭切は、ベンチに座る。どうやらもうすぐ夜のパレードが始まるらしく、パレードコースから離れたこの場所には、人が疎らにいる程度だった。
「主、疲れてないかい?」
髭切は審神者に問いかける。彼は今日、そうやって度々、彼女を気遣っていた。
「ええ。大丈夫ですよ。ありがとうございます」
それは本当のことだった。審神者が笑顔で髭切に答えれば、彼はそれを見て、「良かった」と微笑む。
あんなにはしゃげば、多少疲れはする。しかしまだ大丈夫なことは、本当だった。
残りの寿命があと僅かだなんて、思えないくらいで。特に最近は、なぜか体調が良かった。
寿命が延びたのだろうか、とつい思ってしまったものの、先の定期検診では、寿命に関する結果はそう大きく変わらなかった。
それでもどうやら、霊力低下のスピードは緩やかになっているらしい。
(だからといって、今さら期限を延ばすつもりはないけど……)
いずれは霊力も底を尽きる。ただ、元気な姿のまま本丸を去ることができれば、皆が心配することもないだろう。その点では、有りがたい結果でもあった。
(でもなんで、低下の速度が緩やかになったんだろう)
審神者は、そっと髭切を盗み見る。繋がれた手からは、やはりじんわりと温かさが伝わってきていた。それは彼の体温というより、もっと深くに伝わってくるような。
ふと、視線に気がついた髭切が審神者を見やる。
目と目が合えば、彼はにこりと微笑んだ。
それだけでもう、十分幸せだった。好きな人と手を繋ぎ、憧れの遊園地に遊びに来れたのだから。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったです」
審神者が言えば、髭切は数回瞬きをした後、目尻を和らげて「僕も」と頷いた。
「僕はあれが好きだったな。馬より速いやつ」
「ジェットコースターですか?」
「そうそう。あれは何回でも乗れるなぁ」
髭切は楽しそうに笑う。そんな彼を見て、審神者も嬉しくなった。
今日一日を振り返れば、楽しいことばかりだった。こんなにも、心ゆくまで一日を楽しめたことが今まであっただろうか。そう思うほどだった。
それも、もうすぐ終わってしまう。
仕方ないとは思いつつも、物寂しい気持ちにはなってしまう。
今見えている光景を焼き付けるように、ライトアップされたきらびやかな園内を眺めていれば、「ただ、」と隣から声が届いた。
「ただ、やっぱり一番は、君と一緒だったからな」
髭切の言葉に、審神者は彼を見る。
髭切は横目で審神者を一瞥すると、口元に笑みを漂わせ、視線を再び前へと戻した。
街灯に照らされたその横顔は、どこか憂いが滲むように見えて。
そんな彼の表情に、審神者は思わずどきりとする。
前を向く髭切は、しばらく園内を眺めていた。
まるでこの場所だけ、園内の賑やかさから切り取られたかのように、静かな間が落ちる。
そしてそんな中、髭切はゆっくりと口を開いた。
「僕は刀だから、もちろん戦も楽しいけれど。それでもやっぱり、君と居る時が一等楽しいし、幸せを感じる」
一つ一つの言葉が、彼の口から静かに溢れていく。
そこに感情が乗せられ、大切に紡がれていることが伝わり、審神者は息を詰めた。
遠くで、パレードの音楽が鳴り始める。周りは人が少なくなり、ここだけ、夜の静けさが戻ったようだった。
頬を撫でる風は、だいぶ冷たい。それは寂しさと切なさを助長させ、審神者は自身の膝へと視線を落とすと、耐えるように唇を結んだ。
「ねえ、主」
髭切が審神者を呼ぶ。
「はい」と返事をしたものの、彼女は視線を落としたままだった。
「僕も、一緒に連れていってよ。君の、いく先に」
呟くように落とされた言葉に、審神者は目を見開いた。
髭切へと振り向けば、柔らかく微笑む彼と視線が絡む。
「え……」
言葉が、詰まる。辺りの音が、急に消え失せたように思えた。
「な……にを。何を、言っているんですか」
聞き間違えかと、そう思ってしまうほど。動揺で、うまく言葉が出てこない。
審神者の言葉に、髭切は再び、静かに口を開く。
「本当は、現世に帰るわけじゃないだろう?」
それは問いかけだったが、確信を持った声色だった。向けられた瞳に真っ直ぐと捕らえられ、それは目を逸らすこともできないほど、芯のこもったもの。
はったりなんかじゃない。
ここで誤魔化しても、彼には通じない。
そう思わされるものだった。
「……それは、誰かに聞いたんですか?」
恐る恐る問いかければ、髭切は「いいや」と首を横に振った。
「誰にも聞いていないよ。ただやっぱり、誰か知っていたんだね」
髭切はため息をつくように苦笑する。
「ずっと君のそばにいて、気がつかないはずがない。いつも心配だったんだ。朝起きたとき、君が……君の魂が、もう居なくなってしまうんじゃないかって」
髭切は、気づいていた。審神者の寿命が、限られていることに。
突然、同じ布団で眠るようになったり。度々、体調を気遣ってくれるようになったり。
思い返せば、彼の行動に思い当たる節はいくつもあった。
「だからさ。君が、いく先に。僕もお伴させてくれないかい」
その声色はいつもと変わらない、柔らかいもので。しかしそこには、揺るぎのないような、決意が滲んでいる。
彼は、冗談で言っているわけではない。本気なのだと。そう伝わるからこそ、審神者は動揺してしまった。
まさか、髭切が。そんなことを言うとは、思ってもみなかったのだ。
「そんなこと……できません」
審神者は思わず、視線を逸らす。声を出すだけで、精一杯だった。
髭切は少し間を置くと、「そっか」と呟く。
「それなら、君を隠したくなってしまうなぁ」
「っ……貴方は、神隠しなんてこと、しないでしょう?」
「そんなことないよ。君が、許してくれるのなら」
髭切は呟くように言葉を溢していく。
「君が許してくれるなら。いってしまう前に、隠してしまいたい」
髭切の言葉に、胸が詰まる。込み上げる感情は肺を震わせ、目の奥を熱くさせた。
切なくて、胸が苦しい。
泣いては、だめだと。
そう思うのに、溢れる感情を抑えきれず、視界が滲み出す。
「あるじ」
髭切の声が、鼓膜を震わす。柔らかいその声色も、ずっとずっと、大好きなものだった。
肩に手を回され、そのまま優しく引き寄せられば、彼の感触が直接伝わる。
全てを包み込むように、髭切に強く抱き締められて。伝わる温かさは優しく、慈しみのこもったもの。
溢れる涙は堪えきれず、頬を流れた。
「無理強いをするつもりはないんだ。ただ、そういう道もあるんだと。考えておいて」
最終話
迎えたその日の朝。空は青く澄み渡り、うろこ雲が風に乗って静かに流れていた。
肌を撫でる風は冬の気配を含み、地上から遠くなった太陽は、程よい温かさを地に注ぐ。
10月の最終日、審神者を含め、本丸の皆が外門へと集まっていた。
最後は笑ってお別れをしたい。審神者のその願いから、どの刀も笑みを作るものの、その奥にある寂しさは隠しきれず、笑顔が歪んだ刀も多かった。
「ふふ。皆、ひどい顔ですね」
審神者はへにゃりと笑う。昨夜は最後の晩餐で、ほとんど寝ずに皆と過ごした。たくさん笑い、たくさん泣いて。寝不足も相まってか、どの刀も、もちろん審神者自身も、目が腫れて疲れきった顔をしている。
「話した通り、夕方には新しい審神者が来るはずですので。安心してお任せできる方です。皆、仲良く過ごしてくださいね」
引き継ぎの話はしっかり終わらせていた。新しい審神者とも顔合わせは終わっており、この人なら安心して任せられるだろう、と彼女は直感の部分で感じていた。
本丸は審神者の霊力によって、機能が維持されている。そのため、『本丸の主』の不在を、一日と開けられなかった。
夕方には新しい主へ本丸が引き継がれ、彼らにとっても新しい日が始まる。
そのため、いつまでも後ろ髪を引かれるようなことがあってはいけないと、審神者は挨拶もそこそこに、本丸を去ろうと考えていた。
そのための、昨夜の宴会だったのだから。それぞれに対する最後の挨拶は、もう終わっていた。
「歌仙」
審神者は初期刀の名を呼ぶ。「なんだい?」と彼女に近づいた歌仙は、穏やかな笑みをたたえて審神者を見下ろした。
初めて、この手で顕現した刀。苦楽を一番長く共にし、審神者の性格も全て理解してくれている刀。
そして、本当のことを知っている刀。
「今後を、よろしく頼みます」
審神者は深々と頭を下げる。
「もちろんだよ。君の意志は僕と、僕たち皆で引き継ぐから。だから安心しておくれ」
今までありがとう。そう続けた彼も、深々と一礼した。
歌仙の言葉に、目の奥が熱くなる。これ以上はだめだ、また泣いてしまう、と、そう感じた審神者は深呼吸をして顔を上げた。
「……それじゃあ、そろそろ行きますね。皆、どうか決して無理はしないで。お元気で」
審神者は精一杯の笑顔を作る。泣きたい気持ちを必死に堪えて。皆の思い出に、笑顔の自分を残しておいて欲しかった。
皆が口々に審神者へと別れを告げる。笑顔を一生懸命作る刀もいれば、涙を流す刀もいた。
一振り一振りに視線を配り、手を振って、審神者は歩き出す。彼らの顔を記憶に焼き付けるように、順に見つめていく中で、髭切と視線が絡んだ。
目が合った髭切は、柔らかく微笑む。今まで彼女に向けてきた、優しく、温かい笑みだった。
審神者も、彼へ微笑みを返す。
静かに踵を返せば、彼女の簪が揺れる。そして審神者はゆっくりと、慣れ親しんだ本丸を去っていった。
*
審神者の後ろ姿を皆で見送り、彼女が見えなくなった後も、しばらくその場で呆然と立ち尽くして。やっと刀たちが疎らに屋敷内へと戻った後も、本丸内は生気を失ったかのように静かだった。
悲しみに暮れるものもいれば、放心しているものもいる。審神者の居ない初めての昼餉は、意図せずとも通夜のようで、皆がほとんど何も言わず、黙々とした食事の場はとても重々しいものだった。
しかしその通夜のような昼餉を境に、本丸内は急に騒がしくなる。
バタバタと忙しなく、刀たちが行き交う。そして皆、口々に言った。
「髭切が、居ない」
そんな騒がしくなり始めた屋敷内をよそに、歌仙兼定はただ一振り、中庭に佇んで空を眺めていた。
空気の乾いた、澄んだ青空。風は止み、日差しの温かさだけを受ければ、まだ冬も遠く感じる。
(10月──神無月、か)
歌仙が審神者の余命を聞いたのは、今から半年前のことだった。あの日もよく晴れた温かい日だったと、歌仙はふと思い出す。
神に愛された子は、長生きできない。昔からよく言われる言葉だ。
彼女は神に愛されたから、人として長く生きられなかったのか。ならば神とは一体、何を指すのか。
彼女の寿命が縮んだのは、自分たち刀への霊力供給も一要因だった。自分たち、刀の付喪神が、彼女を愛したから。だから彼女は長生きできないのか。
半年前からずっと、歌仙は誰にも言えずに同じようなことを繰り返し考え、胸を痛めていた。
彼女が長く生きられない悲しみ。生かしてあげられない苦しみ。早くに別れなければいけない寂しさ。自分たちが原因だという、後悔。
一言では言い表せられない感情は、常に胸の内に巣食い、しかしこんな思いをするのは己のみでいいとも思っていた。彼女の申し訳なく思っている気持ちも十分伝わっていたからこそ、己の胸の内だけで留めることができていた。
それが今、この瞬間。ずっと胸に巣食っていた重く苦しい感情が、スッと消え失せたように、歌仙の心を軽くしていた。
(彼が。彼も、居ないからなのか)
歌仙は尚も空を見上げながら、ぼんやり思う。
その時ふと、背後で砂利を踏む音が聞こえ、歌仙はゆっくり振り返った。
そこに居たのは、源氏の重宝。弟の、膝丸だった。
「兄者が、居ないらしい」
膝丸は歌仙を見据えながら、口を開く。その眼差しは真っ直ぐとしたもので、動揺など微塵もない。
審神者のことをよく理解している歌仙は、全てを察していた。同様に、兄である髭切のことをよく理解している膝丸も、全てを察しているのだろう。そう窺えるような眼差しに、歌仙は眉尻を下げて笑った。
「そのようだね。確かに、昼餉の時も姿が見えなかった。本体も無いのだろう?」
「……ああ」
頷く膝丸を見て、歌仙は肩の力が抜ける感覚を覚えた。
その答えを聞けて、安心したのだ。
「君は、知っていたのか?」
膝丸は歌仙に問いかける。言わんとしているところを察し、歌仙は首を横に振った。
「いいや、僕も知らなかったよ」
「そうか」
これに関しては、歌仙も知らなかった。
ただ思い返してみると、審神者は髭切に、ちゃんとした挨拶をしていなかった。あんなにも慕っていた、彼に。最後の別れが辛くなるからなのかとも思っていたが、今思えば、別れの挨拶をする必要がなかったのだろう。
水くさいとは少々思ったが、神隠しなど一大事だ。誰にも言わぬよう決断を下したのは、おそらく審神者ではなく髭切の方だろうな、と、歌仙は彼と同じ立場から考えた。
「兄者は……無理矢理、主を隠すような方ではない」
膝丸は毅然とした態度で言う。そんな彼を見て一瞬だけ目を丸くした歌仙だったが、すぐに相好を崩した。
「ああ、もちろん分かっているさ。だから主も、彼を好きになったんだろう」
それに、と歌仙は続ける。
「髭切も、彼女を大切に想っていたようだったからね」
審神者の髪に挿されていた、簪を思い出す。
簪を女性へ贈る意味は、特別なものだ。それを、彼が分からずに贈るはずがないだろう。長い年月、人のやり取りを見てきた刀なのだから。
「だから僕は、彼が強引に主を隠したとは、全く思っていないよ」
「……そうか」
そこには二人の合意が、確かにあったに違いない。
歌仙が本音を言えば、膝丸はホッとしたように頬を緩めた。もしかすると、本丸内では色々な憶測が飛び交っているのかもしれない。
後でしっかり収拾をつけておかなければいけないな……そう思いながら、歌仙は再び空を見上げる。
10月──神無月。神無月は、神の月、という由来もある。
(髭切という刀の付喪神に愛され、彼と共に旅立つには、良い月か)
審神者は、一人きりで旅立ったわけではない。彼と共に、旅立つことができたのだ。二人、手を取り合って。
そう思えば、歌仙の心は穏やかになった。
(幸せになっておくれ)
彼女にこの世に降ろされ、初めての刀として傍に仕え。色々なことを彼女から学び、愛情を与えてもらった。
そんな愛しい人の子の幸せを、願わずにはいられない。
心の中で、二人に祝福を贈る。
そんな歌仙に答えるように、突然、止んでいた風が吹き始める。
それは冬の気配を忘れるほど温かく、彼の頬を優しく撫でると、空高くへと舞い上がっていった。
完