@irie_q
残り香
とさり、と軽い音が聞こえたのは、バスルームのドアが閉まるのとほぼ同時のことだった。その時銀時は風呂上りの水を口に含みかけたところで、ん、とその音源を目で探し、すぐに音の出元に気づいた。
土方の着物が、落ちている。
備え付けのハンガーに掛けていったそれが、黒い塊になり床にわだかまっていた。
「あららぁ」
着物の主はたった今、バスルームに消えたばかり。烏の行水気味の男ではあるが、それなりに時間はかかる。その間、あれをあのままでいいのか、と考えて、まあ拾っといてやろうか、という結論はすぐに出た。
久々の逢瀬だった。双方、仕事やら依頼やらでごたついて、ようやっと一緒に酒を飲んだ。となればその先など知れたこと、食事と酒をそこそこで切り上げて、そういうことのための場所にしけこんだ。
たまにホテルでいいか、と言い出したのは土方だった。常は和風旅館のタイプを好む男が珍しいなと思ったが、何のことはない、いかがわしいホテル街で使えそうな宿のうち、一番手前にあったのがこのホテルだ。銀時がそれに気づいたのは、部屋に入ったその時。ドア脇の壁にもたれ掛かり、ねっとり唇を吸われた時に、あ、そうか、と閃いた。がっついてんじゃねえよ、と憎まれ口を叩いてはみたが、それを悪くないと思っている自分にも既に気づいていた。いわば、同じ穴のムジナだ。
ベッドにもつれ込まないうちに、と、銀時が先に風呂を使いに行った。上がると、煙草をふかして待っていた土方が、バサバサと脱衣してバスルームに消えた。
そして、着物が床に落ちた。
やれやれ、と腰を上げ、銀時は落ちた着物に歩み寄る。
近年、洋装が増えたせいもあり、この手のラブホテルの備品は衣紋掛けではなく、「ハンガー」が常だ。このホテルもご多分に漏れず、やや幅が広めのハンガーだった。それだけでも和服派には不便である上に、土方の場合は背丈がある分、裄丈もある。ハンガーでは滑り落ちるのは当然の結果だ。故に同様の体格である銀時はハンガーになど掛けず、脱いだそれを下のジャージと共にソファの背にバサッとかけただけだ。皺になるかどうかは微妙なところだが、片袖脱ぎの格好でそこそこ誤魔化せる。
意外と迂闊だな副長さん、と腹の中で少しだけ微笑ましく思いながら、拾い上げた黒い着物をハンガーに掛け直そうとして、ふと、手を止めた。
袖を掴んだことは何度も。胸元に手で触れたことも、その背に触れたこともある。
だが、そういえば袖を通したことは、ない。
「………、」
それはちょっとした出来心だった。
風呂上がりに雑に羽織っていた浴衣を肩から落とすと、そのまま、手にした着物の袖に手を差し入れてみた。思いのほかしっかりした重みのそれは、まだ少し、着ていた主の体温を残してでもいるようで、ひやりとはしていなかった。
思い切って肩を通し、両手で前を合わせてみる。
背丈も同じ、ウェイトもさほど変わらないはず。誂えたように身に馴染む着物は、自分のものでもおかしくないほどだが、ひとつだけ違う点があった。
匂い、だ。
襟のあたりに手を添えて、すんすんと鼻で嗅いでみると、今では嗅ぎなれた苦い煙草の香と、土方の匂い。身体を重ね合わせる時に汗の匂いと共に立ち昇る、肌の匂いだ。
途端に脳裏に蘇る。合わせた肌の熱、手指の動き、身体にかかる重み、交合の熱。果ても無く押し上げられるような快楽の瞬間。着物の残り香をかいだだけで瞬時に鮮やかに蘇ったそれらを持て余し気味に、銀時は背筋をぶるりと震わせた。
その拍子、素肌に羽織った着物が肌をこする感触に頬の熱が上がる。
「……ヤニくせえ」
自分に対する照れ隠しもあり、そう呟き、ベッドにゴロリと転がった。
数度、ゴロゴロ転がって、ばふん、とうつ伏せにベッドに収まる。その間も着物の匂いは否が応でも記憶をくすぐり、その上、今夜これからのことに思い馳せると、どうしようもなくあちらこちらが火照るのを自覚した。
何やってんの俺、と、ふと我に返って起き上がろうとしたタイミングで、ガチャリとドアの開く音がした。
バスルームのドアの音、だ。
「……───…!」
びくっと身体ごと跳ねたに違いない。どんだけ烏の行水なのコイツ!と土方のせいにしてみようとも試みた。だが何にせよ、もう手遅れだ。
そのままベッドにうつ伏せたまま、息を殺して気配を探る。
バスルームから出た土方は、何も言わずに近づいて来て、ベッドの足元近くで立ち止まったようだ。
じっと眺めるような時間がいくばくか。やがて、
「何をしてるんですかね」
と降ってきた声は、完全に面白がっていた。
答えず、狸寝入りを決め込んでみると、今度はギシリとベッドが軋んだ。腰でも下ろしたのだろうか、マットレスの重心がわずかに傾いた。
そして、背中に手が、触れる感触。
「何で俺の着物を着てるんですかね?」
ちょっとした出来心です、もしくはちょっと酔ってました、という答えは腹の内だけだ。
「待ちきれなくなっちゃったんですかね?」
違います、絶対違います、と、それも腹の内でだけ。だが、その言い訳は少々苦しい。
何故なら、着物に包まれているうちに待ちきれなくなりかかっていたからだ。
なんとも言いようもなく、だんまりを決め込んでいると、突然、尻をビタンと張られた。
「いてぇッ!」
「起きてんじゃねえか。とっとと脱げ」
嫌がらせしてんじゃねえよこのバカ、と続いた土方の言葉に、銀時は少しホッとした。
何かまるで恋人を待ちきれないような風情に受け取られるのではなく、いたずら、もしくは嫌がらせの方向に受け取って貰えた、と思ったからだ。それならば、この状態からでも再起動は容易い。渋々を装い起き上がり、くせーんだよおめーの着物、と悪態をついてぱっぱと脱ぎ捨てればそれで終わりだ。
だが。
「…………、」
モソモソと寝返りを打ち振り返ったそこに見えた光景に、それができなくなってしまった。
土方はベッドの端に腰かけて、じっと銀時を見つめていた。
赤い顔で。瞳孔を開かせて。引き結んだ口許がへの字になり切らず、歪んで少しおかしなことになっていて、それはまるで、何かを必死に堪えている顔にしか見えなかった。
なんて顔をしているのか、と、詰りたくなる顔をしていた。
その顔が思い出させるのは、匂いと同じ、肌を重ねるあの瞬間だ。
達するその少し前、必死に腰を打ち付ける雄の顔。快楽を追うだけではない、自分の痴態を見つめるその目が、どうしようもない熱を帯びるその瞬間を。
故に、伸びてきた土方の手から逃げることなど思いもしなかった。
軽く合わせただけの着物の前を性急にはだけた手の意図は、抱き締めようとしてだとすぐに気づいた銀時は、着物をまとったままの両腕を土方の首に巻きつけた。常から刀を振るう男の膂力は伊達ではなく、難なくベッドから抱き起こされ胸と胸を合わせた頃、首筋に触れたのは土方の頬。土方の腿に跨る格好で熱い頬を擦りつけられて、かあ、と身体が更に熱を帯びた。
背を抱いた手も、熱かった。
「なぁ、」
息だけの声が耳元をくすぐる。ん、と聞き返すと土方は少しだけ笑った。
「彼シャツって言うだろ。あれか。あれだよな」
「ば……!」
「俺の着物脱がせンの、たまんねえ」
「ちょ、何興奮してんだ、待て、って、……!」
嬉しげに囁いて、土方の手がゆるゆると背を、そして腰を撫でさすり始める。着物の下で動き出した手に、喚き、身を捩れば尻を割られた。ぞろりと指先で撫で上げられたそこは、下準備をしたせいだけでなく、既に整い『待って』いる。
「着物、汚れても知らねーぞ」
頭を抱いた手で髪をひと房引っ張りながら脅すようにそう告げても、土方の手は止まりなどしなかった。
やわやわと尻の丸みを揉む手にいたたまれず、目を閉じ、そろりと息を吐き出すと、首筋に熱い唇を感じた。
肌を吸い上げられる感触に、く、と唇を噛む。確実に痕を印されているだろうと分かっていても、止める気にすらならなかった。
尻の丸みを撫で尽くした手が、片方、銀時の下腹にあてがわれた。
下着などそもそもつけていない。素肌のそこをゆるゆると撫でる手は、銀の下生えをかき乱す。やがて性器を握りこまれ、やわやわと扱かれるだけで息が乱れた。
「どう、されたい」
「……、っ、どう、って、」
「お前がされたいこと、してやる」
「……、あ、」
首筋をついばむ唇が、耳朶を食みながらそう囁く。低く、息に近い囁きは甘く、腰の奥底を震わせる。
理性をどろどろに溶かされる。
ためらい、開いた唇を舐め、声を押し出した。
「ちんこ、欲し、」
「……どこに?」
「あ、あ、……ん、ハラ、ん中、」
「ここ?」
問いながら、性器を握っていた手で土方が腹を撫で回す。ガリ、と鎖骨あたりを噛まれて、夢中で頷いた。
「ん、ん、そこ、欲し、こす、って、」
「……オイ、」
「なか、擦って、ぐちゃぐちゃに、して、」
「……っ、知らねえぞ…!」
泣いても、と続いた土方の声も既に上擦りかすれ気味だった。
性急にベッドに突き倒される。土方の腰を挟み、脚を開いたソコに、昂った雄が押し当てられた。
待っていたソコに押し込まれ、咄嗟に噛んだ着物の袖から立ち昇るのは濃い煙草のかおり。
腹の中を容赦なく擦り立て始めた熱に身を任せ、畜生、この着物、どろっどろにしてやる、と、心に決めた銀時だった。