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二本松藩戊辰史解説#1 二本松少年隊

全体公開 2 64414文字
2020-11-15 22:49:50

二本松藩の戊辰戦争を代表する「悲劇」、「二本松少年隊」について、簡単にまとめてみました。
必ずしも「通説」どおりの記述ではありませんが、ご興味をお持ちの方のお役に立てれば幸いです。
とても長いです。

Posted by @hono_mt

目次
0.「二本松少年隊」研究史と本稿の目的
1.少年兵動員の諸相
2.二本松藩の軍制度における少年兵
3.装束と装備
4.大壇口の「少年隊」
5.落城後の少年兵
6.補論 明治の軍制改革と少年兵
7.筆者私見 「二本松少年隊」研究の展望

0.「二本松少年隊」研究史と本稿の目的
 「二本松少年隊」という言葉は、二本松藩の戊辰戦争に際して正規非正規問わぬ兵員として出陣した12歳~17歳の少年兵の総称として使われています。二本松藩士の出陣可能年齢の下限は18歳とされている(後述)ため、「二本松少年隊」という言葉が示す範囲は、それに満たない年齢で出陣した年少の兵士一般ということになります。現在62名(12歳1名、13歳14名、14歳19名、15歳10名、16歳12名、17歳6名)の姓名が判明していますが、後述するとおり、彼らは全員が一隊を組織していたわけではありませんでした。数名ずつが正規非正規問わぬ各部隊に配属されていたケースが多く、「二本松少年『隊』」という総称は実態を反映していないといえるかもしれません。
 奥羽越列藩同盟の一員であった二本松藩は、白河戦争にはじまる南東北の戦闘に参加し、慶応4年(1868年)7月29日には城下に新政府軍を迎え撃って落城を遂げました。同年9月に降伏するまでの一連の戦いの中で、同藩は奥羽越列藩同盟方として会津藩や仙台藩に続く300名超の犠牲を払いましたが、この犠牲者たちの中には既判明分だけで14名の少年が含まれています。二本松藩が窮地に陥った7月末に大人たちと肩を並べて戦闘に臨み、その果てに命を落とした少年兵です。
 会津藩における白虎隊と異なり、「二本松少年隊」は戊辰戦争後約50年の長きにわたって、郷土史の文脈においてさえ大々的に取り上げられることはありませんでした。しかし、大正6年(1917年)、戊辰殉難者五十回忌において戊辰当時14歳で出陣した水野好之(水野進)が自らの戦争体験を綴った小冊子「二本松戊辰少年隊記」を発刊、関係者に頒布したことで潮流が変わります。少年たちは小冊子にちなんで「二本松少年隊」と呼び倣わされるようになり[1]、以後郷土史家による調査研究が本格的に行われることとなりました。とりわけ、日本の軍国主義化の中で、「二本松少年隊」は白虎隊と共に「忠君愛国」のモデルケースとしての意味を付与され、小説や映画を通してその存在が全国的に喧伝されるに至ったのです。
 大正~昭和期に展開された「二本松少年隊」の調査研究における主要な関心事の一つが、構成員の人数や姓名でした。水野は当初「隊員」として13歳から17歳までの少年兵25名(戦死15名、負傷1名)の名を挙げていますが、水野を含む旧藩関係者の手によって編纂され、昭和元年(1926年)に刊行された『二本松藩史』は51名(戦死14名、戦傷3名)を計上した上で「(少年兵の出陣は)危急の際なるを以て確実なる記録なし、百方調査氏名判明せる者のみを掲げぬ。故に掲載漏れ、又は誤記無きことを保すべからず」と調査状況に課題が残ることを指摘しました[2]。そこで「掲載漏れ、又は誤記」を修正すべく二本松史蹟保存会(青山正一・平島郡三郎・加藤哲寿・紺野庫治)が調査研究を続けた結果、「総員数」は昭和15年(1940年)には61名(戦死14名、戦傷7名)にまで増加します。昭和56年(1981年)には二本松史談会が『絵でみる二本松少年隊』において磯村力(15)を追加したことで「二本松少年隊」の「総員数」は62名(戦死14名、戦傷7名[3])となり、その後は現在まで変動していません。
 姓名・人数の洗い出しと共に行われたのが、戦場における少年兵の実相の掘り下げです。各人が辿った経過やその死傷の様相が明かされるとともに、装束や装備、配属状況、出陣経緯についての検討が重ねられ、後述するような個別具体的状況が明らかにされていきました。この分野においての功労者としては、郷土史家の紺野庫治が挙げられます。二本松史蹟保存会委員にはじまり二本松市文化財保護審議会委員、二本松市史編纂専門委員、二本松史談会代表幹事として人物史を中心とする郷土史研究に取り組んできた紺野は、二本松史蹟保存会の研究成果を踏まえつつ、今村剛介(戊辰当時の名前は武谷剛介、戊辰時14歳)ら古老への聞き取りや市内文書の調査によって考察を深め、その知見は『二本松少年隊の話』(カメヤ書店、1961年)、『二本松少年隊』(福島テレビ、1976年)、『絵でみる二本松少年隊』(国書刊行会、1977年)、『武士道二本松少年隊の記録』(歴史春秋社、1994年)といった複数の著書に結実しました。以後出版された「二本松少年隊」関連書籍は概説書・創作物ともに多くの記述を紺野の著書に依拠しており、名実ともに「二本松少年隊」研究の第一人者というべき人物でしょう。
 しかし、このようにして研究されてきた「二本松少年隊」の「実相」には、常に史料的限界が付きまとっています。この点について、紺野は少年兵の実情を物語る資料を「回想以外に求めることは容易なことではなかった」と述べています[4]。戊辰戦争に際し城郭と武家区画の大半を焼失した二本松藩において、幕末~維新期の一次史料(特に武家保管の文書類・公文書類)の散逸は著しく、実際に、同時代史料から「二本松少年隊」の実相を跡付ける作業は非常な困難を伴います。さらに、「二本松少年隊」の「通説」を形作る個々の「回想」も、オーラルヒストリーの手法に基づいて記録され、また検証可能な方法で公開されているわけではありません。本稿もまた多くを紺野の著書に依っていますが、「私見憶測誤伝等も多く」含む古老の回想が既存の言説の基盤となっており、再検討の可能性にも留保が付いていることには注意が必要です。実際に、「通説」として語られる事項についても、史料と照合した時に疑義が生じる点が少なくないことは本稿にて後述するとおりです。
 また、「二本松少年隊」の「物語」は、小説や映画を通して巷間に流布する過程において、脚色を含むようになりました。これらの各作品における少年隊イメージそれ自体はとても興味深い題材ですが、出典が明らかでないものも多く、本来は無批判に引用すべきものではありません。とはいえ、近年も「二本松少年隊」を取り扱った歴史読物の中には近代の脚色に由来すると思われる記述が少なくありません。「二本松少年隊」をめぐる言説は史資料や証言に基づく「史実」と「物語」をドラマティックに盛り上げる虚構とが混在した形で日々世に送り出され、結果として、各文献の記述に異同が大きく、実相がつかみにくくなっている点は否めません。加えて創作物における「二本松少年隊」像は「武士道精神」称揚や悲劇性の強調といった特定の価値観に依拠して語られがちで、本来客観的な論述を要する文脈においても、それらの価値観が影響を及ぼす傾向が見られます。
 以上のような研究史と現状を踏まえたうえで、本稿は戊辰戦争期二本松藩における少年兵の実相について、史料に基づいて検討することを目的としています。
 事実誤謬憶測創作が入り乱れた状態で構築されてきた「二本松少年隊」を史的事実として検討するためには、「通説」を含め、現在に伝わる各事象のどこまでが客観的裏付けをもち、またどこまでが「推測」あるいは「創作」なのかを明確にしておく必要があります。この過程で本稿が重視しているのが、現代を生きる我々にも客観的に検討可能な同時代史料です。二本松藩においては落城の混乱によって多くの史料が失われた旨を先述しましたが、その一方で当時の様子を生き生きと記録した同時代の私的記録(日記など)、町方・村方の文書、非文書史料(墓碑銘など)は決して少なくありません。落城直後に大目付らの手によって作成された報告書集である「覚 戊辰ノ役各地へ出張諸士ノ報告」(『広瀬静樹家文書』、福島県歴史資料館蔵。以下「申聞」と略称)や明治7年1月~2月にかけて旧藩士の提出原稿を集めて作成された「戊辰戦時諸隊長及事務ニ関候面々書出」(『丹羽家記録』、東北大学附属図書館蔵。本宮町史編纂委員会編『本宮町史資料双書第2集』1998年、39-68ページに活字化収録。以下「書出」と略称)をはじめとする落城直後~明治初期に作成された戦争関係調査記録、旧藩関係者の回想も、戊辰戦争との時間的「近さ」故に無視できない貴重な記録です。このような状況を踏まえれば、幕末期の二本松藩について検討する上で、史料の散逸を自明視すべきではありません。たとえ「二本松少年隊」の実相を直接的に物語る史料を求めるのは困難でも、こうした断片的な周辺情報の集積を通して少年たちの輪郭をつかむこと、往々にして主観的になりがちな証言を補完・照合することは可能ですし、必要な作業でしょう。
 なお、史料に基づいた論述とは元少年兵たちの回想を軽視した再検討ではありません。出陣経緯や各個人の状況など、回想によってしか得ることのできない情報の存在は間違いなく、むしろ欠くべからざる一次史料と言うことができるでしょう。
 本文中で特に参照する元少年兵の手記や回顧録については予め紹介しておきましょう。(以下発表順)
 
1 「二本松戊辰少年隊記」(水野好之、1917年。二本松市立図書館蔵)
 「二本松少年隊」が世に知られる発端となった小冊子です。著者は戊辰戦争当時14歳で大壇口に出陣した水野好之(戊辰当時の名前は水野進)で、落城後は会津方面に退却した藩兵に従い、母成峠戦に参加しました。本冊子では、木村銃太郎の配下として大壇口の守備に就いた少年たちの動向を中心に、水野自身が母成峠の戦いを経て降伏後に城下へ帰還するまでの経緯が語られます。

2 「木滝良行氏談」(木滝良行、年不詳。収録:二本松藩史刊行会(編)『二本松藩史』、1926年、220~224ページ)
 戊辰戦争当時15歳だった木滝良行(戊辰当時の名は木滝幸三郎)の談話です。出典は明らかではなく、「戊辰戦争五十年祭講和筆記」からの出典との記載もないため、あるいは刊行会の独自取材に依るものかもしれません。木滝は二番組(日野大内蔵隊)所属として両社山(現:二本松神社)の守備についており、本談話では出陣から同所での戦闘、庭坂への引揚の経緯が語られています。藩の正規部隊に配属された少年たちの証言自体が決して多くないなか、その様子を窺わせる貴重な証言であるといえます。

3 「上田孫三郎氏談」(上田孫三郎、年不詳。収録:佐倉達山『霞城の太刀風二本松老少年隊の勇戦』日東之華社、1928年、48~57ページ)
 話者は戊辰戦争当時13歳で大壇口に出陣した上田孫三郎で、出陣から米沢への引揚に至るまでの経緯が述べられています。上田は水野と同じく木村銃太郎の指揮下に属していましたが、大壇口敗退後の足取りを異にしているほか、出陣時の武装や軍資金などについても水野の言とは異なる記述があり、「二本松戊辰少年隊記」と照合することで大壇口に出陣した少年たちの状況を複合的に理解することができます。

4 「二本松少年隊 奮戦の思ひ出」(堀通名、1941年。収録:佐藤利雄(編)『二本松少年隊秘話』、霞ヶ関書房、1941年、197~220ページ)
 1941年4月8日、戊辰当時14歳だった堀通名(戊辰当時の名前は堀良輔)が佐藤利雄の取材に応じて語った内容を文字化したものです。戊辰当時の堀は父親に従って城内の守備に就いていたため、落城のその時の城内の様子や、その後同行した藩主一行の逃避行の道中について詳細に述べました。
 
 これらはいずれも長い年月を経ての回想である上に、木滝や上田の例を見ればわかるように「いつ」「どこで」「どうやって」「誰によって」採録されたのか明確でないものを含んでおり、史料として利用する上では注意が必要です。ただし、前述の目的に従って同時代史料と照合した際の矛盾は(皆無とはいえないまでも)少なく、相応の精確性を期待できるものと捉えて良いでしょう。
 以下本稿では、まず「1.少年兵動員の諸相」と称して、実際に少年兵がどのように軍役に動員されていったのかを動員時期と経過の観点から論じ、次項「2.二本松藩の軍制度における少年兵」にて、少年兵動員の制度的背景について考えます。続いて、「二本松少年隊」に関して従前より人々の関心を集めてきた装束や装備の問題と大壇口に出陣した少年兵25名の動向、降伏に至るまでの経過について、「3.装束と装備」「4.大壇口の『少年隊』」「5.落城後の少年兵」の三項を使って述べていきます。そして最後に、補論として戊辰戦争後廃藩置県に至るまでの二本松藩の軍事制度下における少年兵の位置付けについて言及(「6.補論 明治の軍制改革と少年兵」)した上で、筆者個人の私見として、今後「二本松少年隊」を考える上で考察を深めたいと考えている課題について付記(「7.筆者私見 「二本松少年隊」研究の展望)したいと思います。
 
 なお、本稿では先述のとおり「二本松少年隊」という言葉を便宜的な総称と捉えています。本稿の主題はあくまでも戊辰戦争期の二本松藩兵中にあった「少年兵」であり、その範囲については通説に倣って12歳~17歳で軍役に従事した士分の男子と定義しています。この定義自体の妥当性についても今後改めて検討されるべきでしょう(筆者私見参照)が、本稿は旧説の否定や新説の提示に主眼を置くものではないため、そこまで言及しません。



1.少年兵動員の諸相
 戊辰戦争当時の二本松藩において、少年たちはどのように戦争へと動員されていったのでしょうか。
 少年兵動員の実相を考える前提として、まずは二本松藩が戊辰戦争中に辿った軍事的な経過を概観しておきましょう。ここでは便宜的に、二本松藩の軍事行動を以下の3つのフェーズで捉えています。

1期:対会津交渉期(1月~閏4月下旬)
 鳥羽伏見の戦いによって戊辰戦争の幕があがり、奥羽鎮撫総督府が東北諸藩に対して旧幕府軍の主力であった会津藩の「追討」を呼びかけた時期に相当します。この時期、二本松藩兵は城主不在の城郭となっていた白河城に恒常的に駐留するほか、新政府の求めに応じて京都に軍勢を派遣しており、4月下旬頃からは会津藩境の警備にも従事していました。とはいえ、白河城在番中の藩兵が奥羽鎮撫総督府の指揮下で会津藩兵と衝突した閏4月20日の戦闘の外には目立った戦闘をしておらず、同日死亡した2名のほかには戦死者も出ていません。
 この時期の軍事行動に共通する特徴としては、いずれもが新政府および奥羽鎮撫総督府の命令・指揮によって行われた、あるいは新政府軍と共同して行われたということが挙げられます。当時二本松藩は仙台藩や米沢藩と共同して会津藩の謝罪降伏を目指した交渉に関与しており、この時点で新政府軍と対立する必然性はなかったのです。

2期:白河戦争と近郊警衛(閏4月下旬~7月下旬)
 最終的に会津藩と新政府の和平は失敗に終わり、閏4月下旬には攻守同盟としての奥羽越列藩同盟が結成されます。早速に加盟した二本松藩は、今度は同盟諸藩と共闘すべく白河に派兵しました。白河戦争における同盟軍の戦況は思わしいものではなく、5月~7月にかけて白河方面に藩兵を増派し、近郊警衛のためにも順次藩兵を繰り出すこととなります。

3期:城下戦、奪還戦(7月下旬~9月上旬)
 7月26日に隣藩・三春藩(秋田氏、5万石)が降伏、城内に新政府軍の軍勢を引き入れてしまいます。三春藩領内に出張していた二本松藩兵は新政府軍の奇襲を受けて潰走(小野新町戦)、翌27日早朝には領内糠澤・上之内が、午後には同じく領内本宮宿が敵の手に落ち(糠沢上之内戦・本宮戦)、二本松城下は間近く敵影を望むに至りました。一時降伏論に傾いた藩論は主戦派の重臣によって抗戦に定められ、7月29日、二本松藩は城下に敵を迎え撃つや、半日の戦闘の果てに落城を遂げました。生き残った藩兵は二本松城の奪還(8月17日二本松城奪還戦・同23日母成峠戦)を図るものの叶わず、9月初旬、藩主丹羽長国の寄留先であった米沢藩の降伏に伴って新政府軍に降りました[5]。9月中旬にかけて米沢、福島、会津方面に分散していた二本松藩兵は次々に武装解除され、順次領内寺院での謹慎に入っています。

 一般に、二本松藩における少年兵の動員は、同藩が陥った深刻な兵力不足と関連付けて説明されています。奥羽越列藩同盟に加盟した二本松藩は白河口をはじめ領内外各所に藩兵を派遣しましたが、戦況悪化と死傷者の発生によって交代要員・補充要員や藩兵自体の増派が必要になりました。さらに、7月26日~27日にかけて小野新町や糠沢上之内の藩兵が大敗すると共に奥州街道の中継地である本宮が新政府軍に奪取され、白河方面の藩兵の帰藩は大きく阻害されました。このような状況下で二本松藩は緊急の措置として出陣可能な年齢層を段階的に拡大し、特に7月末に至っては少年兵を大規模に動員せざるを得なくなったと考えられているのです。
 実際に、後年戊辰戦争における従軍体験を語った元少年兵たちも「七月二十六日俄然余等に出陣の命下る」(水野)、「余は戊辰の当時十五歳にて従軍を許されず、兄万次郎(廿歳)の従軍せるを見て羨ましく藩庁に向つて数回歎願せしかば、七月二十七日に至て漸く許可せられ、雀躍して喜べり」(木滝)、「七月二十七日小先生なる木村銃太郎より命あり、(中略)予ら同門の従弟を以て、二本松の最も要所なる大壇口を守備する様、藩の重役よりの内達により、可成急速武器弾薬等を携帯し、道場へ参集すべしとの事に就き」(上田)と揃って7月末に出陣した旨を語っており、緊急事態を背景として数多くの少年が戦場に赴いたことはほぼ確実視できます。
 しかし前述のとおり、「二本松少年隊」は白虎隊と異なり、単一の組織ではありません。それだけに実際には出陣の態様も時期も様々で、「少年兵の動員」の実態を捉えようとする上では、7月末以前に戦場に立っていた少年兵の動向をも踏まえる必要があります。
 比較的早期の段階(ここでは7月中旬以前)に出陣していた少年たちの存在については、従前から認識されていました。下表は、先行研究における指摘[6]および同時代史料から、7月中旬以前に城下を離れた各隊に所属していたとされる少年兵をリストアップしたものです。
 なお、城下出立日および隊としての行動歴は全て各隊関係者の「書出」に基づいています。

城下出立日:3月18日
所属:五番組(大谷鳴海隊)
所属少年兵:松井官治(17)・小山貞蔵(16)大砲方?・久保鉄次郎(15)大砲方?
【備考】
・当初の出陣目的は白河城在番。閏4月20日白河城退去、郡山警衛へ移行。5月5日白河へ再出陣、7月28日城下引揚、同日再出陣。
・現状五番組の名簿は確認できないため、証拠史料なし。紺野の『武士道』および『二本松少年隊』による。
・久保は7月27日に負傷したとされるが、同隊幹部の「書出」には言及なし[7]
・松井に関しては「黒田傳太回顧の記」に7月27日の本宮戦中に活躍した旨の記述がある[8]ほか、父親(松井政之進)の同隊所属が確認できる[9]

城下出立日:4月18日
所属:四番組(種橋主馬介隊)
所属少年兵:下河辺武司(16)大砲方
【備考】
・4月18日の出陣理由は会津藩境(永田口)警備。閏4月下旬城下引揚、7月26日再出陣。
・下河辺の名は「慶応四年四月急御用被仰付諸控」[10]においても四番組の大砲方として確認できる。また、本人による「戦歴書」[11]にも城下戦の時点で四番組所属である旨が明記されている。

城下出立日:閏4月26日
所属:七番組(高根三右衛門隊)
所属少年兵:西崎銀蔵(14)鼓手
※現在では奥田午之助(15)および平島太郎八(15)も同隊所属とされることがあるが、「諸番組役割面々」には記載がなく、同隊所属と見做す明確な根拠を欠く[12]
【備考】
・出陣方面は白河。7月28日城下引揚、同日再出陣。
・「諸番組役割面々」に名前があり[13]、同隊の白河方面出陣当初から所属していたものと推測される。また、父親(西崎園右衛門)が白河派遣軍中の「役人組」に所属していた[14]

城下出立日:5月25日
所属:六番組(大谷与兵衛隊)
所属少年兵:山岡房次郎(14)鼓手・松田馬吉(16)鼓手?[15]
※前掲『二本松少年隊』の段階では小川淳吉(17)も同隊所属とされていたが、父親(小川又市)との混同と思われる[16]
【備考】
・出陣方面は三春藩境周辺。7月26日に小野新町の戦闘によって同地で潰走し、隊として城下に帰還することはなかった。
・六番組の名簿は現状確認できないため、証拠史料なし。紺野の『武士道』および『二本松少年隊』による。
・山岡と松田については父親(山岡仁右衛門・松田久右衛門)の同隊所属・戦死が確認できる[17]

城下出立日:6月29日
所属:三番組(樽井弥五左衛門隊)
所属少年兵:岩本清次郎(17)・中村久次郎(17)・田中三治(16)・武藤定助(15)鼓手
【備考】
・出陣先は糠沢村。7月27日早朝、同地で新政府軍の奇襲を受け潰走。28日城下引揚、同日再出陣。
・岩本・中村・田中は7月27日に戦死。武藤は後に生存者として糠沢・上之内戦に関する証言を残したとされる。

城下出立日:7月4日
所属:遊撃隊(大谷志摩隊)
所属少年兵:上崎鉄蔵(16)・根来梶之助(16)
【備考】
・出陣先は須賀川。7月28日城下引揚、29日早朝再出陣。
・上崎・根来ともに7月29日戦死。同隊指添飯田唱の「書出」添付名簿に記載あり。

 ただし、これら諸隊の「城下出立日」を単純に少年たちの「出陣日」と同一視することはできません。白河の前線に派遣された隊に顕著ですが、戦死傷者の発生を受け、隊員の組替や補充が不定期に行われていたためです。したがって、表中に挙げた少年たちについても、交代要員や補充要員として後日参入した可能性を考慮しなくてはなりません。この点に注意しつつ情報を精査すると、7月27日以前の出陣がほぼ確実視されるのは、松井、下河辺、西崎、岩本、中村、田中、武藤となります。中でも下河辺と西崎については、出陣の時期が早く、かつ史料的な根拠のある事例として注目されます。西崎が出陣したのはおそらく白河戦争の初期段階であり、下河辺に至っては奥羽越列藩同盟結成以前の4月のことなのです。以上の事例から、少年兵の出陣が上記の区分でいうところの2期末期~3期に特有の事象ではなかったということがわかります。
 また、二本松藩における少年兵動員の実態という視点に立てば、彼らが実際に「出陣」した日付にのみ注目するのは必ずしも適切ではありません。
 戊辰当時15歳だった平島太郎八(後、平島松尾)に関して明治3年に作成された「軍務方平島太郎八入隊通知[18]」には、出陣に至るまでの彼の足跡が詳細に記されていますが、そこからは「出陣」以前の軍事的動向を見て取ることが可能です。

砲術者斎藤彦之進方同(※筆者注:慶応)四辰年三月入門執行仕候事件前足軽共練兵教師手傳等相勤候旨馬術者加藤清右衛門方同年正月入門仕候貸馬ニも拝借執行仕候旨去ル辰年四月諸口御門警衛被仰付当番相勤同年七月弐番組番士加勤被仰付御城当番相勤其後同月廿七日大砲方被仰付高田船場江出陣仕候旨ニ有之

 つまり、平島は4月の時点で既に足軽に対する練兵補助や関門警衛に従事し、7月時点では二番組の「番士」、すなわち正式な戦闘員としての立場を得て「御城当番」を務めていたのです。彼の勤務地は実際の戦場でこそありませんでしたが、要地(ここでは城および城門)の警備という極めて軍事的な任務に就いていたという点で、既に軍役に動員されていたと見做すことができます。
 同じく当時15歳だった安部井壮蔵(後、安部井香木)についても、7月3日付の父親(又之丞)の書状[19]に「惣蔵(※原文ママ)義去月廿六日夜四番組大筒方被仰付」と記されており、「出張之日限今以不分」という状態だったとはいえ6月末の時点で出陣待機中の立場にあったと考えられます。この件について、書状内には「難有事に候得共、若輩の事にて御用立之程無心許心配に御座候(ありがたいことではありますが、若輩なので御用に立つかわからず心配です)」と記されるのみで、15歳の息子の軍配属を心配こそすれ、異常事態とまでは捉えていないことがわかります。
 以上の事例からわかるのが、二本松藩が4月~6月時点で既に15歳前後の少年たちを軍役に動員していたという事実です。下河辺と西崎は言うに及ばず、平島も安部井も実際に戦場に立った時期こそ7月末でしたが、それより以前に出陣のための準備は十分に整っていたといえるでしょう。十分な記録が確認できないため明言はできませんが、平島や安部井のように、実際の出陣を待つばかりの状態にあった少年たちは、実際にはもっと多く存在していたのではないでしょうか。
 さらに補足として視線を過去に転じれば、戊辰戦争の4年前(元治元年)、天狗党の乱に際して水戸へと出陣した二本松藩兵の中にも少年兵の姿がありました。現在二本松神社の社殿前には水戸からの凱旋者の名が刻まれた石灯篭が現存しますが、そこに名を刻んでいる人物のうち、青山助之丞は当時17歳であったとされているのです[20]
 従来、兵力不足と少年兵の出陣が結び付けられて語られる中、少年兵の動員は戦況悪化に合わせて段階的に開始されたと考えられていました。早くは平島郡三郎が『二本松寺院物語』において「十七才になつた者、即ち岩本清次郎、中村久次郎少年の如きは六月初旬の頃から追々に各隊に編入され、鼓手すなわち太鼓方の山岡房次郎、西崎銀蔵少年の如きは十四才であつても、よれより(※原文ママ)以前に従軍していましたが、それ以外の十五、六才の者は小野新町口の敗報と、三春藩の帰順とが明らかになつた二十六日の晩方から二十七日の朝にかけて出陣を許されて所定の各隊に分属しました」[21]と段階的な出陣年齢引き下げについて言及しているほか、紺野は7月上旬に17歳までの、7月27日に15歳までの出陣が許可されたとする説(次項にて詳述)を提唱しています。
 しかし、実際には少年兵の出陣は4月の時点から確認できますし、15歳前後の少年が鼓手であると否とに関わらず6月頃から各隊に配属されています。4月中の国境警備出兵や関門警衛、閏4月時点での白河派兵、ひいては元治元年の水戸出兵までもが異常事態ともいうべき逼迫した兵力の下で行われたとは考えにくく、少年兵の動員は戦況悪化に伴う「兵力不足」のみでは説明しきれません。ここでは、戦況の如何に関わらず、年少の兵の動員を可能にする素地の存在を想定するのが自然ではないでしょうか。


2.二本松藩の軍制度における少年兵
 先述のとおり、二本松藩士たちの標準的なキャリアは、概ね20歳前後での「番入」に始まり、60歳前後での隠居に終わるとされています。実際に、藩士たちは嫡男が20歳になった時点でその旨を藩に届け出ることになっており[22]、20歳という年齢が彼らのライフステージの一つの区切りと見做されていたことがわかります。また、「番入前の嫡子に家督を譲った者には、その嫡子が20歳になった正月から隠居扶持を支給する」という俸禄支給規定も、番入が20歳で行われるという前提に基づいて設計された制度でしょう[23]
 以上のような年齢規定を前提とすれば、武士としての軍役の義務も当然20歳~60歳前後の年齢層に対して課せられるはずです。では、この年齢層に達しない少年兵の出陣は、一体何故可能となったのでしょうか。
 現在、二本松藩における少年兵の出陣は「出陣可能年齢の引き下げ」と「入れ年」制度によるものとして説明されるのが通例となっています。
 このうち「入れ年」とは、藩に成人年齢を届け出る際、2歳多く年齢を数えることを黙認する制度だとされています[24]。本来の成人年齢を20歳とすれば、「入れ年」によって多くの藩士が18歳で成人扱いを受けることになります。「二本松少年隊」に数えられる少年たちの年齢の上限を17歳とすることも、このような考え方に由来しているのでしょう。
 一方、出陣年齢の引き下げについては前項でも言及しましたが、その具体的なプロセスとして現在最もよく知られているのが、紺野の『二本松少年隊』および二本松史談会の『絵でみる二本松少年隊』の中で提示された「七月初旬、藩は兵員不足を補うべく一七歳までの出陣を許した(中略)七月二七日に本宮が占領されて、一五歳までの出陣となった」[25]という二段階の出陣可能年齢引き下げ説です。ここに先述の「入れ年」の考え方を組み合わせると、7月初旬の段階で15歳での出陣が、7月26日には13歳での出陣が可能となったことになります。この説は、二本松観光協会・二本松少年隊顕彰会発行の小冊子『二本松少年隊 戊辰百三十年』(1988年)や二本松市教育委員会発行のリーフレット「二本松少年隊」(2008年~順次)、戊辰戦争150周年記念事業だった慰霊式典用小冊子(2018年)にも引用されており、通説として扱われていると言っても良いでしょう。
 しかし、前項に見たような4月から6月にかけての少年兵の出陣や軍役への動員について、この説では十分に説明できません。また、藩当局による二段階の出陣年齢引き下げなるものの存在も同時代史料上確認できず[26]、論拠が明らかとは言い難い状態です。
 そもそも、「20歳での番入によって軍役義務が発生する」という前提条件は妥当なのでしょうか。この点、幕末期の藩士たちの履歴を記した「諸士元帳」という史料[27]からは、二本松藩士たちが本格的にそのキャリアをスタートさせる年齢や事由が、「20歳での番入」のみに限られないことが確認できます。例えば、500石以上の重臣家の嫡男たちは、15歳前後で「新知拝領」するのが通例でした。また、生年あるいは没年が判明している小~中身階層(50石以上500石未満)の藩士について追っていくと、18歳~19歳、時には17歳程度で「番入」「召出」を経験している者が多いことがわかります。その他「児小姓呼出」といった理由により10代前半で出仕することもあり得ましたし、当主の死亡や急な隠居に伴って乳幼児が家督を相続するケースも頻発しました。本項後半に述べるように、出仕と軍役義務の発生とは同義ではありませんが、「二本松藩士」という集団ははじめから少年といって良い年齢の若者を数多く含んで構成されていたのです。
 とりわけ、こうした事例の中に18歳未満での「番入」事例が散見される点には注目すべきでしょう。例えば、後述する木村銃太郎は「文久三亥年七月廿六日」に「番入」しており、享年から逆算した番入当時の年齢は17歳となります。彼の他にも、青山半蔵(明治27年55歳没、安政3年番入)や青砥孫太夫(明治19年64歳没、天保10年番入)、赤田数右衛門(慶応4年45歳没、天保11年番入)、飯田唱(明治14年62歳没、天保7年番入)、野田弥五郎(明治40年56歳没、慶応3年番入)など単純計算上18歳未満で「番入」した可能性が高い人物が複数確認でき[28]、彼らのケースは「入れ年」の通説に当てはまりません。
 この点について、平島郡三郎は著作『二本松城沿革誌』にて次のように解説しています。

一、 本士ノ身分ハ御番入(十七才以上二十才)ニ始マリ、隠居(六十才五十五才以上)差許即チ退役ノ免許ニ終リシモノゝ如シ
 但シ、コレヨリ先大番組入ノ儀アリ、本士ノ子弟十二才ニ達スレバ、特ニ謁ヲ賜ハリ士分ニ列シ、士籍ニ登録セラルゝモノトス。総領ノ子息ニアリテハ、父祖ノ功労ト生活ノ状態トヲ斟酌シテ、或ハ二・三才若シクハ生後僅ニ一週間位ニシテ大番入ヲ命ジ、相当ノ扶持米ヲ賜ハル特典モアリタリ。
一、 本士ノ子弟二十才ニ達スレバ、不具廃疾者等ニ非ザル限リハ、御番入トテ現役編入本士任官ノ宣誓式ヲ行ハレ、又若干ノ俸給ヲ賜ハルヲ通例トスレドモ、文武練達ノ俊秀ニアリテハ、十八・九才若シクハ十七才ニシテ特ニ御番入ヲ命ゼラルゝコトアリ。無上ノ光栄トセシ所トス。[29]

 ただし、平島が番入年齢上限としている20歳を過ぎても番入を行わない事例も確認でき、一例を挙げれば丹羽寛蔵(慶応4年37歳没)が安政2年に24歳で番入しています。彼の場合は江戸遊学中に兄が死亡したため帰郷し嗣子となった[30]という経緯があるため、こうした事情が影響しているのでしょう。番入は本人の個別事情も勘案しつつ、柔軟に取り扱われたのです。
 番入と年齢の関係については、安永2年(1773年)に家中の風俗向上・諸芸奨励の目的の下で、藩士子弟のうち「芸術番入前ニ押方壱通りも相済候歟又者目録等取り候者共」を「別段之思召を以番入前之年齢ニ而も出番被仰付」ることが図られ、文武に秀でた「番入前之面々」を報告するよう家老から番頭に口達があった[31]ことも注目されます。番入には一応の年齢基準が設けられていたことが窺えますが、実際には年齢に関わらず個人の能力によって「出番」が命じられる可能性があったのです。
 さらに、実は番入自体も軍役義務の発生と同一視できないことを指摘しておかなくてはなりません。元禄十三年(1700年)に布達された「軍役之定」には、「番入前に候共嫡子之義は勿論給人の次男等十五才以上之者ハ至于時呼出其身相応ニ勤方申付候并大組以上之無足倅共是又可為同勤事」「惣而侍は十五才以上出陳(※原文ママ)致すべし」という文言が見られるといいます[32]。この記述を裏付けるように、享保15年(1730年)に改訂された「御備定」では、「番入前之宗領給人次男」のうち「十五歳以上」の20余名を宗領無足に加算する形で計上していました[33]。「番入前」の藩士子弟が軍事編制の中に組み込まれているということはすなわち、「番入」とは出陣を含む軍役に従事するための必須条件ではないということになります。藩の制度上出陣するためには必ずしも番入を経ている必要はなく、この点で番入と軍役義務の発生を直結させて論じてきた通説には修正の余地があるといえるでしょう。
 出陣年齢の下限をめぐっては、「安井時僚覚書」[34]に興味深いエピソードが紹介されています。享保15年(1730年)、領内で発生した大規模な一揆に際し藩兵九番組(※幕末期と異なり、当時の二本松藩兵は全九番組編制でした)のうち二組に出陣が命じられましたが、二組だけでは人員が微妙に不足するため、残り七組の中から応援人員を籤引きで選ぶことになりました。しかしこの時番頭たちが相談して「給人にて幼少前髪有之もの」を籤から除外したため、当時四番組に所属していた16歳の矢野半之介が「十五才よりハ御出陣御供被仰付候由ニ御座候(15歳から出陣が命じられるはずだ)」と抗議したのです。
 このエピソードは、二本松藩における少年兵の取り扱いについて考察する上で非常に示唆的です。第一に、矢野が「15歳から出陣できるはず」と述べていることは、先述の「軍役之定」や「御備定」と一致しています。実際、矢野は父親が早くに死去したという事情があってのこととはいえ、16歳で番組に所属していました。とはいえ、「幼少」の兵は番頭たちにとって、あえて応援のために提供したい人員ではありません。このケースにおいて番頭たちは「幼少」の基準を年齢ではなく前髪の有無(≒元服済みか否か)に求めていますが、結局は籤から除外することによってその出陣を避けさせようとしました。つまり、出陣可能年齢に関する規定はいかなる場合も厳密に適用されるわけではなく、ある程度現場判断での変容が可能だったと考えられます。なお、この時矢野に応対した四番組番頭の本山内記は、「拙者江被仰付罷出候義ニ御座候ハゝ御組之義可相除様無之御一所ニ御出候申達候事ニ候(出陣を命じられたのが私の組だったなら、あなたにも一緒に出陣するよう申し渡しただろう)」が、今回はあくまで他組への応援人員の選定でのことであり、四番組以外でも前髪のある年少者は一律に除外されたのだ、と説明して矢野に理解を求めたといいます。矢野に出陣資格があることを、本山自身も認めていたことが窺えます。
 以上にみたように、15歳以上の二本松藩士の子弟たちには、番入の有無に関わらず軍役に従事する道が公的に開かれていました。もちろん、以上に述べた事例は戊辰戦争より100年以上前のものが多く、戊辰戦争期の事象を語る上で無批判に援用して良いものではありません。とはいえ、前項にみたように、実際に戊辰戦争下においても4月~6月の段階で15歳前後の少年たちが軍に加わって城下を発っているほか、ある者は城下において警衛任務に従事し、またある者は出陣待機状態にありました。このような実態を踏まえるならば、出陣可能年齢の下限は100年来ほぼ変わっていなかったと考えるのが妥当ではないでしょうか。つまり、戊辰戦争当時においても、15歳以上の少年たちは藩の制度上初めから「出陣予定者」と位置付けられていたのです。
 もちろん、本項に述べた藩の制度だけでは13、14歳で出陣した少年たちの事例を十分に説明できるわけではありません。ただしこの点については、確かな技能を持つ年少者(芸術番入前ニ押方壱通りも相済候歟又者目録等取り候者共)を「出番」させようとした安永2年家老口達との関連性を指摘できるのではないでしょうか。14歳で白河へ出陣した西崎は鼓手という専門的な技能を要する任に就いていました。現在名前が判明している13、14歳の少年たちの半数弱を木村道場の門下生(砲術の専門的な訓練を受けた者)が占めている点も無視できません。単純戦力を求めて藩が一律に年齢規定を変更したというより、確かな戦闘技能を有する年少者が制度の例外として戦場に連れ出されたと推測するのはあながち的外れではないでしょう。
 二本松藩の武家社会における年齢規定の多くは、個人の能力や家柄に基づく例外を含む曖昧なルールでした。番入の規定にしても、本人の事情によって早められたり遅らされたりとその運用は柔軟でしたし、「安井時僚覚書」の例に見たとおり、現場の担当者の判断で規定に合致しない決定が行われることもありました。
 また、同時代の人々の中で、「幼少」「若輩」であることと「戦力」であることは必ずしも矛盾しなかったことが窺えます。当然のことですが、戦後間もない二本松藩の人々はごく幼い少年兵の存在を知っていました。少年たちは彼らの家族であり、友人であり、知人であり、あるいは自分自身であったからです。しかし、戦後において二本松藩の人々が少年兵を特別視した形跡は見受けられません。彼らが「幼少」であったことは敢えて隠されたわけではなく[35]、だからといって殊更に語られるわけでもなく、極めて冷静に受け止められた結果忘却されていきました。少年兵の出陣が同時代的には決して「奇妙」でも「特別」でもなかったが故の帰趨でしょう。
 結局のところ、「二本松少年隊」は近世の子供観とおおらかなルール設計の中で生み出された存在だったのではないでしょうか。二本松藩の戊辰戦争をめぐっては、「少年兵を駆り出してまで戦わなければならなかったのは何故か」が問われることがあります。しかし、我々が意識すべきはむしろ、「果たして少年兵の出陣は異常なことだったのか」という点ではないでしょうか。


3.装束と装備
 戦場における少年たちの姿を一層具体的に捉える上で、無視しては通れないのが出陣装束や使用武器といった装備の要素です。
 少年たちの出陣装束について、生存者は自身の体験を踏まえて様々に語り残しましたが、その中でも有名なのは水野好之による「二本松戊辰少年隊記」中の少年兵一般の出陣装束の記述でしょう。

少年隊の服装は上衣は呉呂又は木綿の筒袖にして、力紗羽織又は陣羽織を着し、下衣は一定せす タン袋あり、股引あり、義経袴あり、立附あり、兵糧袋に肩印、帽子は用ひす、概ね白木綿の鉢巻なり、髪は髻を打糸にて結ひ背に下けたり。
一 筒袖は大概木綿又ハ呉呂にして今ノ小学校生徒の着用せる筒袖の丈短く膝の辺迄位なり。
一 力紗羽織は地質は概ね絹呉呂にして(当今のアルパカ)普通の羽織の袖を筒袖とし、背の縫目半分位裂けたるものなり。
一 兵糧袋は、概ね呉呂にして長円形の袋の前後に縁を附け、紐を通して屈伸を自在にして肩掛とせり。
一 肩印の地質は麻布にして長さ三寸、巾一寸五分位中央に違棒の紋を書き、一方に鯨又は竹を当て其中央を紐にて括り、左の肩先に結ひ附けたり。

 同じく14歳で大壇口に出陣した武谷剛介は、自身の出陣姿を孫に再現させた写真を残しており、鉢巻、筒袖、立附袴、兵糧袋、髻に結った髪といった主要な特徴が水野の言と一致しています。それだけ水野の描写は的確なものだったのでしょう。ただし、肩印の寸法については当時二本松藩が新政府に届け出たものと微妙に相違しており[36]、その理由は判然としません。
 水野が語る少年たちの出陣装束は、おそらく二本松藩兵の一般的なそれと大きく異なるものではなかったことでしょう。木滝幸三郎は「当時従軍者の服装は大抵手縫の呉呂服にて」と回想していますが、当時の二本松藩においては幕末期の軍制改革の結果として軍装の軽装化・平準化が進んでいました[37]。慶応4年1月に二本松藩領内を偵察した会津藩の石井重右衛門は、二本松藩兵の軍装について「近来一統改革に相成、甲冑は不用義に相成候処、夜軍には着用致の旨」と報じており[38]、実際に白河戦争の記録からは二本松藩兵が身分に関わらず「筒袖」を着用している様子が窺えます[39]。少年たちの出陣装束は父親や兄の着物を縫い縮めて作られた急ごしらえのものも多かったと伝えられてはいますが、遠目に見る彼らの姿は、一般の二本松藩兵と何らの区別もつかなかったのではないでしょうか。同時に、二本松藩の戊辰戦争をめぐっては「敵兵を味方と見誤る」「外見だけでは敵と味方の区別がつかない」エピソードが複数伝えられており、その軍装が新政府軍側の諸藩兵とも酷似していたことが垣間見えます。
 とはいえ、当時二本松藩兵は制服制ではなかったため、出陣装束は個人によって異なりました。

長兄の十匁筒と弾薬箱を携へ、白呉呂の筒袖に紅葉の浮き織ある白茶純子の野袴を着し、同脚絆を着け、紺足袋草鞋を穿ち、蝋色黒鞘の大小を帯し、頭髪は紫緒にて巻き上げ後ろに切り下げ、(上田)
自分は緋呉呂の服なりしが、餘り目に立つとて黒呉呂に改めたり。(木滝)

 戦闘服であると同時に「晴れ着」であり「死装束」でもある戎衣には華やかさも求められ、彼らは機能性を損なわない範囲で美しく装い、個性を主張しようと試みたのでした。
 その他、少年たちは個人装備として各々大小刀と小銃を携えていました。いうまでもなく大小刀は武士に欠くべからざる装備ですが、背の低い少年たちにとって、腰への帯刀は動作を阻害する要因ともなりました。そこで、大刀を背に斜め掛けした上で、二人一組で向かい合い、お辞儀をするような形でお互いの刀を抜きあう姿が見られたことが古老の言として伝えられています[40]
 個人装備の中でも、使用小銃についてはとりわけ各人ごとの記憶の違いが目立ち、「小銃元込と二口バンドウ」(水野)「エンピユール二ツ盤胴の銃」(木滝)「長兄の十匁銃」(上田)「二本松で造つたもので、三匁銃を直したもの」(堀)と実に多様です。この点に関して、二本松藩が降伏時に新政府に納入した武器類を確認すると、9月26日納入分に関しては和小銃132挺に対し西洋小銃が457挺、10月6日納入分に関しては和筒36挺(十匁玉筒20挺、三匁玉筒16挺)に対し西洋小銃は441挺に上っており[41]、西洋小銃が多数を占めていることがわかります。このうち銃種別の内訳を確認できる10月6日納入分についてみてみると、441挺の西洋小銃のうちミニエー銃(ミニヘール筒)が400挺を占めています(残りは元込銃18挺、ゲベール銃23挺)。先述した石井の報告書において二本松藩の兵器事情が「西洋銃和銃交り 七百挺程」と報じられているほか、堀も「当時の銃は、主にゲベールとミニール(※ミニエー)だつたが、ゲベールは足軽が用ひ、それよりもよい方のミニールは藩士が用ひた。だが、何れも先込銃で、後で南北戦争に使つた古物とわかつた」と回想しており、西洋銃、特に士分の間ではミニエー銃(エンフィールド銃はミニエー銃の一形態)が主力武器として用いられていた可能性が高いと考えて良さそうです[42]。幕末期の日本にはオランダ、ベルギー、イギリス、アメリカ、オーストリアといった各国のミニエー銃が輸入され、大きさも口径も弾底部の拡張方式も一定ではありませんでした。そのような中でも、「少年隊」として大壇口に出陣した水野と二番組の戦闘員を務めた木滝の証言において「二ツバンド」という要素が共通しており、散開隊次で活躍する軽歩兵向きの二帯型が広く用いられていたことが窺えます。しかし、ここで注目したいのはむしろ、生存者の証言が「多様である」という点そのものです。これらの「違い」が単なる記憶違いに留まらない可能性は否定できません。上田が持参した和銃や堀の改造銃、水野が言及している元込銃など性能を異にする銃が混在し、出陣に際して藩から銃が支給されるケース(水野・木滝)、私有の銃を持参するケース(上田・堀)の両方があり得た、すなわち武器の種類も準備も一様ではなかったとすれば、射程、命中精度、装填方法、果ては入手経路に至るまで多様な銃が混在する最前線での指揮は混乱を極めたのではないでしょうか。
 ここまで述べてきた個人装備とはやや異なりますが、二本松藩兵の大砲事情についても少し触れておきましょう。石井の報告書には二本松藩の所有砲について「大砲七八百匁以下 七挺」との記述がありますが、修史館に対する丹羽家の報告によると、4月中の会津藩境警衛に際して二本松藩兵は塩沢口10挺・永田口5挺の大砲を用いたとされています[43]。同時期の白河城在番でも大砲5挺を使用したとされるため、二本松藩の実際の所有砲数はもっと多かったのではないでしょうか。しかし同時代史料の中で大砲の正式名称にまで言及したものは少なく、断片的な記述に基づいてその所有状況を推測することになります。
 二本松藩の大砲事情についてまず推測できるのが、幕末期~明治初期日本における主力野戦砲として知られる四斤山砲が複数使われていたということです。大壇口に出陣した少年たちは一門の大砲を使用していましたが、当該砲について、水野は「ライフルの大砲」、上田は「四斤半砲」と記しています。四斤山砲は前装式の施条砲であるため、この証言同士には矛盾がありません。少年たちの回想以外にも、藩士植木十郎は6月25日に七番組(高根三右衛門隊)が「四斤半破烈丸」を田島村の敵陣中に撃ち込んだことを記しており、薩摩藩兵は7月29日の城下戦における鹵獲物として「四斤半砲二門」を挙げています[44]。四斤山砲はその単純な構造(国内での模倣・量産が可能)、性能の高さ、軽量性(山岳地帯の多い日本でも運搬が容易)故に明治初期に至るまで日本国内で広く用いられました。二本松藩も例外ではなく、同砲をおそらくは主力砲として重用したのでしょう。
 ただし、薩摩藩兵は届書の中で7月29日に四斤山砲の他にも「艇忽砲 壱挺」「大砲 八挺」を鹵獲したことを述べています[45]。城下戦時には仙台藩兵や会津藩兵の来援があったためこれらの大砲が二本松藩兵の装備であったという保証はありませんが、大砲についても複数種が併用されていた可能性を当然考慮すべきです。富津在番中の在番名主の日記には砲術師範の朝河八太夫が江戸製の二貫目筒二挺を購入した旨の記述がありますが[46]、こうしたものも砲種不明の「大砲」の中に含まれていたかもしれません。
 以上に見たような少年たちを含む二本松藩兵の装備をどう評価すべきかについては議論の余地があるでしょう。彼らの装束は幕軍や新政府軍と同様に軽装へと移行しつつありましたし、ミニエー銃や四斤山砲は当時全国的に広く使用されていた主力火器でした[47]。戊辰戦争の技術段階を前装式施条銃段階と見做すなら[48]、全国規模で概観した際に装備に著しい不足があるとまでは言い切れません。その一方で、後装銃の普及とそれに伴う散開隊次・各個射撃戦法によって、前装式施条銃段階における密集隊次が不利になりつつあったことも事実です。
 とはいえ、往々にしてその後進性を強調される二本松藩が、実際には西洋銃砲や軽装の軍装束を取り入れ、活用していたことについては今少し注目されても良いのではないでしょうか。
 確かに、慶応年間に至るまで二本松藩兵は旧態依然の軍制を保ち、文久3年(1863年)当時富津在番中だった藩兵は「御土蔵より御具足並御道具夫々御取出」て異国船との戦闘に備えようとしましたし[49]、元治元年(1864年)に水戸に出兵した藩兵は時に弓矢や槍・長刀を用いて戦いました[50]。また、旧藩士村島清右衛門は幕末当時の兵制の後進性を後年強く批判しましたが、彼によれば「罐打鉄砲御調への上試可然」という家老・浅尾数馬介の進言はなかなか諸役人に受け入れられず、慶応2年(1865年)1月に行われた平石仏ヶ原での鉄砲調練に際しても「御馬印又は諸道具は山鹿流の陣配り」「弓術師範の人物などは鉄砲は足軽入用などゝ申し、新渡来罐打鉄砲は武衛流などにては用ひ兼申候とて一切不聞入候」という様子が見られたといいます[51]。つまり、戊辰戦争当時に多くの藩兵が甲冑を用いなくなっていたほか、数百挺規模の洋銃を取りそろえるに至ったのはその後の軍制改革の成果でしょう。各指揮官や兵員が銃砲の取り扱いや技術レベルに即した戦法を十分に理解・習得していたかはまた別の問題ですが、少なくとも二本松藩の装備状況について散見される「火縄銃を主力武器としていた」「戦国時代そのものの装備と陣容で戦った」「ゲベール銃が主力であった」等の説明は、仏ヶ原調練以降の動向や実態を無視したものといえます。
 本稿はあくまで「二本松少年隊」をテーマとし、彼らの実相を探る要素の一つとして装備の問題に触れているため、幕末期の軍制改革の経緯にこれ以上の紙幅を割くことは避けます。その上で、本項を締めくくる前に確認しておきたいのは、以上に述べたような装備状況であった少年たちは、おそらく他の二本松藩兵に比しても極端に「進んだ」存在でも「遅れた」存在でもなかったであろうという点です。そして、この点については全国規模で見た際にも同様だったことでしょう。少年たちは名実ともに、当時の標準的な「兵」だったのではないでしょうか。


4.大壇口の「少年隊」
 二本松藩の少年兵の中でも特に有名なのが、大砲方木村銃太郎(22)の指揮下にあって大壇口で奮戦した少年たちです。他の少年兵が既存の諸隊に個々に配属されたのに対し、彼らに関しては20余名の少年が砲手と銃手の役割を分担しつつ一定の纏まりを保って行動しており、「二本松少年隊」の中で唯一少年兵によって構成された部隊(=少年隊)の体をなしていました。そのため「二本松少年隊」といえばこの一団を指すことも多く、今や二本松藩の戊辰戦争を語る上でも欠かせない存在です。本項では共に木村の配下として大壇口に出陣した水野好之の「二本松戊辰少年隊記」および上田孫三郎の「上田孫三郎氏談」の記述を中心に同時代史料と照合しつつ、大壇口に出陣した少年たちの顛末を辿っていきます。
 大壇口の少年隊について語る上は、現状25名とされている彼らの総勢のうち実に16名が木村の門下生、あるいはそれに近い存在だったという点に触れておかなくてはなりません。木村は武衛流砲術師範木村貫治の嫡男で、数年来江戸で砲術の修行に取り組んでいました。不穏な情勢下で帰藩[52]して父の道場で砲術を教えはじめたとされていますが、この時彼の下に集ったのが13歳7名、14歳9名の少年たち[53]だったのです。この人数は紺野が古老への聞き取りによって明らかにしたものであり、「ほぼ間違いない」と考えられる旨が付記されていますが、木村と少年たちの関係を考える上で、「16名」のなかに計上されている水野と上田が共に手記中で木村貫治の門下生を自称している[54]点には注意が必要です。実際には、貫治と銃太郎の門下生は明確に区分されていたわけではないのでしょう。堀良輔は井上権平の門下生としてその嫡子・門多(門太)による指導を受けた[55]旨を回想していますが、木村道場もこれに類似した状態だったのではないでしょうか。
 7月末に至るまで、木村と少年たちは一日の大半を砲術の調練に費やしました。白河戦争における弾薬の大量消費の影響を受けた弾薬製造作業にも時間を割かれつつ、少年たちはわずかの間に技能を向上させていったといいます。この間で少年たちは木村を非常に慕うようになり、「若先生(※木村のこと。小先生とも)と一緒なら死んでもいい」と考える者さえあったと伝えられています[56]
 木村と少年たちに城下南方に位置する大壇口への出陣が命じられたのは、城下戦の直前でした。従前より出陣を希望してやまなかった少年たちは非常に喜び、意気揚々と戦場へ向かったといわれています。当時の心境について、水野は「余等の満足例うるに物なし」、武谷剛介(14)は紺野の取材に答えて「藩のため戦争に出て戦うことは、武士の子として当然のことであって、特に語るべきことではない。生まれながらにして、既に心に決めていた事だから、戦争に出ることになって恐ろしいとは思わなかった。出陣の前夜などは、今の子供の修学旅行の前夜のような燥ぎようだった」[57]とそれぞれ語り残しました。
 その後少年たちは道場に集合してから城で武器や軍用金を支給され、後に「副隊長」と呼ばれることとなる二階堂衛守(33)と合流して[58]大壇口に向かっています。
 大壇口着陣に至るまでの過程を、水野と上田はそれぞれ以下のように述べています。 

七月二十六日の朝、俄然余等に出陣の命下る。余等の満足例ふるに物なし。(中略)やかて一同学館に集合し特別に「ライフルの大砲」一挺小銃元込と二口バンドウ軍用金一両三分を渡され総勢二十五人隊長木村銃太郎に従ひ大壇口に出陣し向かって右手に陣を布く。(中略)夜明けて幾程もあらさるに命あり、一同松坂御門に引揚くへしと。(水野)
 
同年(筆者注:慶応四年)七月二十七日小先生なる木村銃太郎氏より命あり。白川口の戦争は漸次味方に於て不利の状態にて、且つ戦線の延長に伴ひ国境の準備手薄にして、到底完全を期しがたし。依て予等同門の従弟を以て、二本松の最も要所なる大壇口を守備する様、藩の重役よりの内達により、可成急速武器弾薬を携帯し、道場へ参集すべしとの事に就き直に帰宅せしも、(中略)祖母、母に永訣して家を出しは、其日の午後五時なりき。(中略)銃太郎氏より一朱銀五両を渡され、午後七時大壇口に出陣せり。(上田)

 水野と上田の言には出陣の命令を受けたとする日時と軍用金の金額に食い違いが見られます。後年の回想である以上記憶違いの可能性は否めず、また実際に個別の条件が相違していたとしても決して不思議なことではありません。そのような中、紺野は出陣日時について古老への聞き取りの結果を踏まえて検討を重ねており、「二八日の朝、少年たちは千人溜に集合した(中略)二七日に集まったと言っている人もあるが、二八日朝が正しいらしい」[59]「二十八日には午前七時に道場に集合し学舘前(藩校敬学館)に引卒(※原文ママ)されている」[60]「二十七日午前九時(又は十時)に、木村塾に集った。二十名程であった。そして、銃太郎に引率されて学館前まで行き休憩している」[61]等、複数のパターンを推測してきました。しかし、上記の引用部からもわかるように、27日の夜に大壇口で野営したことについて、水野と上田の証言は一致し、出来事の前後関係にも矛盾はありません。ここから、少なくとも木村門下生たちの出陣は27日中(おそらく午後~夕方)であったと考えるのが自然ではないでしょうか。
 大壇口に出陣した少年たちは、27日~28日にかけて同地に陣地を構築しています。当時の大壇口は城下へ続く街道を囲むように高地が聳える丘陵地帯で、二本松藩兵は丘上に柵を結んで陣地としていました。少年たちが布陣した丘陵西側には一軒の民家と竹林、畑地があるのみで遮蔽物を欠いていたため、近隣の民家から運び出した畳を二枚ずつ重ねて横木を渡した柵に括り付けて胸壁を造営しています。少年たちは自分たちが作った胸壁を見ては「敵のヘロヘロ弾丸がこの畳を貫通するものか」と語り、夜になっても「江戸見物にても行きたらん心地」(水野)「野外演習にてもなす気分」(上田)で談笑に余念がなかったといいます。
 ところが、翌28日朝には一度松坂門まで引き揚げるという予想外の事態が生じました。水野によれば「藩議俄に降参に決せる」ためだと聞かされたとのことで、少年たちは口々に不満を洩らしながら松坂門へと向かっています。しかし結局は同日中に再出陣が命じられ、大壇口への道中、再度の出陣に勇み立った少年たちが大砲を曳いて新丁坂を駆け降りたため、勢いがついた大砲が坂下の桑畑に突っ込んでしまい、引き上げるのに苦労した(水野)という逸話が残されています。
 この一時引揚の正確な理由は現在も判然としていません。重臣による会議の結果藩論が抗戦に定まったのは27日夜のことだとされ、少年たちが松坂門へと向かっていた28日午前にはまさに藩主・丹羽長国が戦火を避けて城外に避難しているのです[62]。その一方、同じく28日朝には大垣藩の降伏勧告使が城内へと通されている[63]ほか、味方の誤射によって一時城下が騒然とする[64]など、全体的に城下が動揺していたこともわかっています。実際には藩論が定まりきっていなかった可能性は否定できませんし、あるいは藩論の布告が徹底されておらず情報の錯綜が生じていたと考えることも可能でしょう。また、28日には藩領内外に派兵されていた藩兵が続々と帰藩しており、29日朝にかけて城下守兵の配置換えが行われていました。少年たちの一時引揚も、このような配置転換の一環だったのかもしれません。
 翌29日早朝、新政府軍が小浜・本宮の二方向から二本松城下へ進攻し、城東方面(供中口・高田口)の戦闘によって城下戦の火蓋が切って落とされました。
 この日大壇口に迫ったのは、板垣退助(土佐藩)によって率いられた薩摩・佐土原・彦根・土佐藩兵でした。対して、大壇口守備の主力は白河から帰還した八番組(丹羽右近隊)を主力とした三個小隊だったとされています。早朝に本宮を発ち二本松へ進軍した新政府軍は、大壇口前方の尼子台に布陣していた軍師・小川平助の一個小隊を打ち破り、隊伍を組んだ状態で大壇の丘の下の街道へと姿を現しました。その隊列を少年たちが木村の指揮に従って砲撃すると新政府軍はすぐさま付近に散開し、以降は丘上の二本松藩兵と草陰や周辺民家に身を隠した新政府軍との間で激しい銃砲撃戦が展開されることとなります。
 朝霧が晴れた後の大壇口に現出した光景については、再度水野と上田の表現を借りるべきでしょう。

今迄暁霧に眠れる霞ヶ城の天地は忽ち叫喚大叫喚修羅の街とそ化しにける。血を迸らして倒るゝあり負傷して呻くあり、鬨の声と鉄砲の声と相和して山野に轟く。互の目は血走り、口は噤みて物云ふことも意の如くならす。火薬に汚れし両の手は墨もて染めたらんか如く、其の手もて顔に流るゝ汗を払ふにより少年隊面々の顔は目ばかり光る海坊主に異らす。(水野)

最初敵の銃丸プーンと云ふ音響をなして来り、敵の稍や接迫するに至てはシウツと云ふ。愈々接迫するに及んでは弾丸に聲なく、人家の瓦、雨戸、柱、樹木、足下の地面等に突撃する音響と、咽せるが如き硝烟の異臭に面を向くべき様もなし。又竹藪に入る銃丸は、一丸にて百丸の如くカラカラと板屋根に、霰たばしると云ふ形容以上に凄惨激烈なるものなりし。(上田)

 大壇口の戦いにおいて、少年たちを含む二本松藩兵の射撃は、新政府軍を相応に苦戦させたといわれています。薩摩藩の野津道貫は後年、この戦闘について「戊辰戦争中第一の激戦であっただろう」と語ったとされますが、新政府軍側における同時代記録も、「賊兵大壇ト申処ニ関門ヲ構ヘ柵ヲ結、山林之内ヨリ厳敷発砲」(土州藩届書)、「賊徒大壇ト申所ニ関門ヲ設、砲台ヲ築厳ク防戦致候」(佐土原藩届書写)、「城ヨリ十四五丁モ可有之場所ニ賊徒砲台ヲ構ヘ厳敷防戦候得共、」(薩摩藩届書)[65]等、大壇口において二本松藩兵が「厳しく」「烈しく」発砲してきた様子を伝えています。また、二本松藩側においても後年の「書出」には「大合戦ニ相成」(大津伝十郎書出)との表現が見られ、大壇口の戦いが激戦であった旨の見解は当時から敵味方双方に共有されていました。その中でも、少年たちは「戦闘開始時の砲撃において、砲弾は三発全てが新政府軍の頭上で爆発した」「新政府軍の潜んだ民家を砲撃したところ、砲弾は5軒を貫いた」とも伝えられる戦いぶりを見せたといいます[66]。明らかに経験の足りない少年兵が善戦できた理由について、『二本松藩史』は「銃太郎が命ずるがまゝに、恰も平素射撃場に於て銃を学ぶに異ならず」[67]戦うことができたからだとしていますが、この推測が当を得ているとすれば、彼らの強みはその素直さだったということになるでしょう。
 やがて、新政府軍は三手に分かれて大壇口の丘陵を包囲し、二本松藩兵を圧倒します。徐々に新政府軍が優勢に立つ中、城東方面から供中口・高田口を攻め破った新政府軍が既に城下へと進軍したことで大壇口の戦略的な重要性も低下し、同所の守備隊は城下への退却を決断しました[68]。少年たちの陣においても畳の胸壁は早々に崩壊しており、身を守れなくなった彼らは竹藪に駆け込んで跳弾の危険に晒され、あるいはその場に茫然と佇むしかなかったといいます。指揮を執る木村自身が腕に一弾を受けていたほか、少年たちにも負傷が相次いでおり、奥田午之助(15)が戦死するなど、人的な損害も決して軽微なものではありませんでした。そのような中、陣中に味方の姿が無いことに気付いた木村も退却を決断するに至り、少年たちを集合させています。
 しかし結局、木村が少年たちと共に城下へ戻ることは叶いませんでした。集合した少年たちを前に彼が何事かを訓示しようとした時、一弾がその腰部を貫いたのです。歩行困難となった木村は、共に退却してほしいと懇願する少年たちを叱咤し、自分の首を切り落とすよう指示したといいます。そこで二階堂が木村を介錯し、遺体をその場に埋葬すると、少年たちを連れてその場を引き上げました。介錯のその時、動揺のために二階堂の手元が狂い、ようやく木村の首が切り落とされたのは三度目に刀を振り下ろした時であったといいます。
 大壇口からの引揚の状況について、上田は以下のように述べています。

二階堂氏より一同陣地を引上る様命あり、各自隊を乱して引き上げたり。此時予は民家の西側を上り、桜田方面に出んとして六七丁馳せ行き、人家の間より往来に出んとせしに、五六間先き二階堂を囲み、四五人の隊員嘘唏泣涕(原文ママ)しつゝ駈け行くを見る。熟視するに二階堂氏は鮮血滴る木村隊長の首級を左手に下げ、右手に抜刀を携へ、悄然として引上げ行くを見る。

 上田の回想において、「各自隊を乱して引き上げた」とされている点は注目に値します。実際に、上田はこの後二階堂らとほぼ同じ道程を退却しているにも関わらず、仲間たちのその後の顛末を見届けてはいません。水野もまた、木村のもとに集合した少年たちの人数について「数人」だったと記しており、大壇口から退却する時点で彼らが既に統率を失っていたことが窺えます。
 二階堂について退却した少年たちは、当初椚門から郭内に入ろうとしたものの同所が既に敵に占領されていたため、道を転じて大隣寺前まで退却しました[69]。その際、同寺の敷地内(下馬の辺り)から手を振ってくる数十名の新政府軍を味方と誤認して近づき、至近距離からの銃撃を受けることとなります。この一斉射撃によって二階堂が即死し、岡山篤次郎(13)が重傷を負ったほか、水野によれば数名の少年たちが負傷し、あるいは生け捕られたといいます。
 瀕死の状態で取り残された岡山を保護し、病院に収容している[70]ことから、当該部隊には敢えて少年兵を殺傷する明確な意図はなかったのでしょう。しかし、ここで二階堂が射殺されたことで、少年たちを指導する「大人」は完全にいなくなってしまいました。ここまでかろうじてまとまりを保っていた少年たちもその場から文字通り潰走し、以後はそれぞれが自身の判断で戦うことになったのです。
 7月29日に戦死した少年兵11名のうち、実に8名が大壇口戦の関係者であった[71]ことは付言しておくべきでしょう。個々の戦死の状況は必ずしも明確ではありませんが、彼らのうち複数名(最大5名)が新丁周辺で命を落としていることがわかっています。
 四番組所属だった下河辺武司は自身の「戦歴書」において、「既ニ敵兵各所ニ有リ追撃益急ナリ身ハ重囲ノ中ニアリ逃レテ松坂門柵際ヲ登リ白石千代太氏ノ山中ノ竹林ニ入ル爰ニ木村丈太郎遊佐辰弥大桶勝十郎等三人戦死ス」「山中敵之伏兵ニ会シ味方四方ニ散乱シ残ル者松田幸吉全田熊吉ト珊瑚寺山ニ潜伏シ夜中水原村君公ノ在所ニ逃レント志ス」と新丁周辺の山林内を大壇口から退却してきた少年兵と共に彷徨したことを記しています。
 また、単独行動中だった上田は、桜田門(上記椚門と同一か)から郭内に入ろうとして果たせず、大隣寺通りを経て新町(城下新町のことか新丁の誤字かは不明)に出ようとした際に徳田鉄吉(13)と再会したといいます。徳田はその後同所に現れた実兄(宗七郎)と合流して上田と別れ、後に遺体で見つかりました。
 これらの断片的な情報からは、大壇口から引き揚げた少年兵が、敵の目を逃れるために新丁周辺の林の中に潜んでいた様子が窺えます。しかし、大壇口からの退却が遅かったこともあり、既に新丁周辺は敵味方が入り乱れて戦う混乱の様相を呈していました。さらに、共に四番組に属していたはずの徳田の兄や下河辺が四番組本隊から離れて単独行動していた[72]ことからわかるように、この地帯に潜む二本松藩兵は既に統率を失っていました。新丁近辺で少年兵の遺体が複数見つかったことも、このような成り行きを考えれば決して奇妙なことではありません。頼るべき指揮官を失った少年たちは、混乱の中自らの判断で敵弾を逃れるという難しい戦いを強いられたのです。
 さて、この顛末を「悲劇」の一言で片づける前に、我々は「彼らは結局何者だったのか」を改めて問わなくてはなりません。木村と二階堂、そしてその指揮下にあった少年たちは、当時の二本松藩兵中においてどのような存在だったのでしょうか。
 明治初期に編纂された「丹羽長裕家記」は、木村について「大砲修練ノ者」の一人として大壇口で戦っていたと記しています[73]。ほぼ同時期に作成された「丹羽家譜」においても、木村については「大砲隊」という表現があります[74]
 戊辰戦争に際し、二本松藩の砲術師範や実力ある門弟たちは主に大砲の操作を任されました。動員の形態は様々で、例えば武衛流砲術師範木村貫治と外記流砲術師範井上権平は「大砲方頭取」として共に遊撃隊(大谷志摩隊)に所属し、同隊の大砲方を指揮しました[75]。一方、白河に出陣した七番組と八番組の大砲方は砲術師範の代わりに「砲術出精」により大組入を果たした藩士の二・三男を含んでおり[76]、技能を考慮してメンバーが選定されたことが窺えます。木村も、藩当局からはこのような砲術家たちの一人として目されていたのでしょう。
 これと併せて注目すべきは、当時藩兵を率いた指揮官たちが一貫して木村らの存在に言及していないという点です。落城直後の9月に作成された八番組の「申聞」には城下戦で死傷した同隊構成員について詳細な言及がありますが、その中に、少年たちはおろか木村や二階堂の名すらも見出すことはできません。この点は明治7年に丹羽右近の子・寛が父の行動履歴を報告した[77]「書出」においても同様ですが、その他諸隊の「申聞」「書出」のいずれにも彼らに関する記述は登場しないのです。つまり、木村らはいずれの隊の構成員としても認識されていなかったと考えるのが自然でしょう。実際に、旧藩士徳田雅言も明治23年に作成した「戦死姓名簿」の中で、「木村銃太郎手」を他の正規非正規問わぬ部隊と同列に扱い、木村およびその指揮下の少年たちに「大砲方」と付記しています[78]。つまり彼らは、砲術道場を主体として構成され、既存隊から一定の独立性を保った「大砲隊」だったのです。
 先述のとおり、上田によると、木村は少年たちに出陣を告げるに際して「同門の従弟を以て、二本松の最も要所なる大壇口を守備する様、藩の重役よりの内達」を受けたと語ったといいます。先述の「丹羽家譜」「丹羽長裕家記」は城下戦で活躍した「大砲隊」「大砲修練ノ者」として木村の外にも朝河八太夫と大原銃介の名を挙げていますが、このうち武衛流砲術師範を務めていた朝河は、木村と同様に門下生からなると思われる一隊を率いて愛宕山に布陣していました[79]。おそらく、藩は城下戦に備えて砲術道場の道場主や関係者を中心とした「大砲修練ノ者」たちを「大砲方」に任じ、「大砲隊」を組織して城下各地の守備に就くことを命じたのでしょう。その一人として大壇口への出陣を命じられた木村が戦地に伴える人材は少年ばかりでした。こうして生まれたのが「少年隊」だったのでしょう。
 しかし、彼らの実態を捉える上ではまだ幾つか考慮しなくてはならない点があります。
 第一に、二階堂が木村道場メンバーとともに行動した経緯や理由が判然としていません。二階堂は1400石取の重臣・大谷家の出身で、戊辰戦争当時は二本松藩士の身分序列上「家老次男」「宗領無足座上」というランク[80]に位置付けられていました。小身家(65石)の宗領無足であった木村より僅かに高位の藩士と考えることができます。先述のとおり彼もまた既存の諸隊の構成員とは見做されておらず、現在のところ木村道場の関係者であったことを示す記録も見つかっていません。少年たちは木村を「隊長」、二階堂を「副隊長」と呼んでいますが、同時代史料にこうした序列への言及は見られず、「隊長」「副隊長」の呼称は少年たちの間でのみ用いられた私的なものであったと推測できます。また、木村と二階堂を「幼年兵指図役」であったのではないかと指摘する文献も存在しますが、これもまた史料的な根拠を伴っていません。「幼年兵指図役」に類似した呼称(幼年隊ノ指図役)は藩士佐倉強哉の手による「佐倉家家譜」に見ることができますが[81]、管見の限りでは公的文書においてこの呼称は確認できず、当然木村・二階堂と「幼年兵指図役」の関連を示す記録は見つかっていません。大隣寺に現存する二階堂の墓石には「戊辰之難以銃隊保大壇口(戊辰戦争では銃隊を率いて大壇口を守った)」と刻まれており、「大壇口の藩兵中で何らかの指導的役割を担っていた」ことが遺族に認識されていた様子が窺えますが、その「役割」が何だったのか、何故その「役割」を担うに至ったのかがわからないのです。
 つまり現時点では、木村道場を主体として構成された「少年隊」において、二階堂はやや異質な存在のまま、改めてその立場が検討されていない状態だといえます。もしも彼が藩当局から派遣された目付役、あるいは正規隊との連絡要員のような存在だったとすれば、藩は既存の藩兵組織の中に砲術道場の大砲隊を組み込もうとしたと考えることができるでしょう。一方、木村道場の門人やそれに近い存在だったとすれば、「少年隊」はより独立性の高い存在と見做せるようになります。つまり、二階堂の「立場」は、「少年隊」をもう少し明確に「二本松藩兵」中に位置付ける手がかりとなり得るのです。
 また、「隊」を構成した少年たちについても一考すべき点があります。大壇口での戦闘に参加した少年兵25名のうち木村の門下生あるいはそれに近い存在とされるのは16名と先述しましたが、残りの9名は、生存者の証言から久保豊三郎(12)、小川安次郎(13)、高根源十郎(13)、鈴木松之助(14)、奥田午之助(15)、安部井壮蔵(15)、久保鉄次郎(15)、三浦行蔵(16)、大桶勝十郎(17)とされています。生存者の証言によれば、出陣時点では20名程度だったものが28日夕刻の時点では23名に、29日の開戦直前にはさらに25名まで増えており、この理由を木村も二階堂も把握していなかったといいます[82]。武谷は出陣時点で久保兄弟、小川、鈴木、奥田の姿はなかったと回想しており[83]、この証言が正しいとすれば、28日~29日にかけて彼らが徐々に合流してきたのでしょう。出陣時点から共に行動していたと考えられる4人を含む9人の少年たちが一体どのような経緯で木村に従うに至ったのかは判然としておらず、木村貫治の門弟として銃太郎に従って行動した(ただしこの点については先述のとおり、貫治と銃太郎の門弟を明確に分けられるのかについて再考する必要があります)とも、大壇口周辺の諸隊に配属されていたため結果的に共に戦う形になったとも、他の陣地から飛び入りで参戦したとも推測されるのみです。6月時点で安部井が四番組の大砲方に任じられていた[84]ことは先述のとおりですが、他の者についても本来の所属や出陣経緯が明らかにされなくてはなりません。我々は生存者の証言に基づいて大壇口で目撃された少年たちを「木村隊」「少年隊」と称しています。しかし、その中に他隊の所属者や木村と二階堂が姓名を把握していない少年がいたとすれば、彼らをもひとまとめに「隊」として捉えてしまっても良いのかという点は改めて問われるべきでしょう。
 大正期以降人々の関心を集めた大壇口の「少年隊」については、生存者の証言によって、各個人の辿った経緯や戦場での様子がかなり細部まで明らかにされています。しかし、彼らが一体「何者」であったのかという最も基礎的な部分について、我々はまだ十分に説明できていません。今後ともこの「少年隊」を二本松藩の戊辰戦争史上重要な存在として位置付けるならば、藩兵中における彼らの位置付けを客観的かつ具体的に捉えていく必要があるでしょう。古老亡き今、彼らの実態に直接的に迫る「証言」に出逢える可能性は限りなく低い状態ですが、他の砲術道場の状況を含めた当時の二本松藩兵の実相の掘り下げを通した地道な検討が求められます。


5.落城後の少年兵
 二本松落城後、生き残った二本松藩兵は大きく三派に分かれて行動しています。藩主を慕って北方へと落ち延びた藩兵たちのうち、年少者や負傷者、事務方を多く含む第一のグループは藩主に従って米沢に引揚げ、戦闘に耐えうる者を中心とした第2のグループは米沢藩領外信夫郡庭坂村に屯集しました。さらに、会津藩との共闘による城の奪還を企図した一派を中心とする第3のグループは会津藩兵や旧幕兵に合流し、会津方面に引揚げました。第2のグループは8月17日の二本松城奪還戦、第3のグループは8月20日~21日の山ノ入戦・母成峠戦に参加するものの、いずれに失敗に終わり、降伏に伴って武装解除されることとなります。
 落城後に少年たちが辿った道も、おおむねこの3つに準じたものでした。前項までで言及した少年たちのうち、上田孫三郎と堀良輔は家族と合流して米沢へ向かい、水野進と下河辺武司は宗形幸吉(14)、鈴木松之助、全田熊吉(13)ら[85]と共に会津方面の、木滝幸三郎は庭坂の味方にそれぞれ合流しています。その他中畑ふじが浅見四郎(16)が弟の五郎(13)と共に米沢に引き上げて来て家族と合流したことを回想している[86]ほか、久保豊三郎、後藤鈔太(13)、武谷剛介、山田英三郎(15)、丹羽寅次郎(15歳が会津へ落ち延びた[87]ことが伝えられているといいますが、後述の5名については戦闘への参加の有無は明らかではなく、記録上もその動向が確認できません。
 兵員が各地に分断された状況の中、指揮を執る大身藩士の戦死や負傷、急病もあって、二本松藩兵は配属替えを余儀なくされました[88]。それに伴って少年兵も改めて配属されたようで、会津へ向かった水野と下河辺は共に番頭・大谷与兵衛の元に配属された旨を述べています。つまり、下河辺は四番組からの配置換え、水野は正規部隊への組み込みの対象者になったと捉えることができるでしょう。しかしながら、現時点では文字通りの「戦場」で戦い続けたことが明確に判明しているのは水野らのみであり、8月以降の戦闘では「二本松少年隊」に計上された少年たちの中から死傷者は出ていません。庭坂方面に落ちた少年たちの動向は明らかではありませんが、堀と上田が米沢に直行していること、木滝も「ハトロン製造に従事した」としか述べていないことから、実際に戦闘に参加した少年兵は多くはなかったのではないかと推測できます。
 また、水野も8月20日後に大谷の指揮を離れ、一時は単独行動で会津若松城を目指したものの、結局は縁戚一家と合流して米沢へ引き揚げています。母成峠戦後、二本松藩兵は同所から潰走し、少人数に分かれての逃避行を余儀なくされました。その中で米沢へ向かった藩士が複数名確認できますが、水野もその一人だったのでしょう。
 一方、引き続き戦場に立った少年たちとはまた異なる苦境に置かれたのが、味方に合流することも、家族と共に行動することもできなかった少年です。
 降伏後に藩が作成した「戦功外書上」という報告書の「潜伏」の部には、当時14歳の三浦斧吉について以下のような記述が確認できます。

治部右衛門四男 三浦斧吉
右七月廿九日戦争之節敵方江被生捕其後被免候而龍泉寺厄介ニ相成居候旨及承申候[89]

 つまり、三浦は一度敵の「生捕」の身になりましたが、その後解放されて城下龍泉寺に身を寄せていたというのです。
 「戦功外書上」には彼を含めて敵方に「降伏」した者や「生捕」になった藩兵が4名(ただし二階堂司は「欺而敵方江降伏致」その後敵中を脱走したため、実質的には3名)記録されています。そのうち、渡部竹三郎(渡部四兵衛3男)は三浦と同様の経緯で解放され、岡村兵吾は病身だったため殺害されることなく台運寺に滞在していました。彼らのケースを見る限りでは捕虜となりさえすれば助命されるようにも見えますが、実際には決してそのようなことはなく、7月29日後に敵に捕らえられた藩士原兵右衛門はそのまま殺害され[90]、小野新町戦後に守山藩兵に捕縛された郷足軽の定吉も他の捕虜と共に処刑されました[91]。土佐断金隊の一員として本宮戦に参加した河野広中も、本宮で捕えた敵兵を「斬罪に処して隊長の霊を慰めた」旨を回想しています[92]
 戊辰戦争当時、「降伏人や生け捕った敵兵をむやみに殺害し、あるいは恥辱を与えるべきではない」旨の理念が存在してはいたものの、実際の戦場でその理念に基づく行動が徹底されていたとはいいがたい状態がありました[93]。近代的な「捕虜」概念の成立はいまだ遠く、敵に捕らえらえることは命と名誉の重大な危険に直結したのです。だからこそ、三浦が命を助けられた背景を考える時、彼が年少者であったこととの関係を想起せざるを得ません。
 とはいえ、敵の捕虜となることは彼らにとって非常に不本意かつ不名誉な出来事でした。それだけに「生捕」「降伏」の状況に関する記録は少なく、客観的な検討が困難な状態です。また、捕虜の扱い方には藩や隊ごと、ひいては個人間の考え方の違いも大きく影響するため、少数の事例から全体像を推測するのも不適当でしょう。
 以上のように落城後も少年たちの「戦い」は継続しましたが、落城後の動向は、城下戦に比して語られることが少なく、詳細が明らかにはされてきませんでした。そもそも、藩兵が複数に分断された上に少人数/単独行動をとる局面が多く、全容がつかみにくいため、今後の調査にも限界があると言わざるを得ません。しかし、「落城後の『戦い』も厳しいものだった」という点は「二本松少年隊」を語る上で欠くべからざる視点ではないでしょうか。
 水野は「二本松戊辰少年隊記」のなかで、落城以降の度重なる逃避行における身体的な疲労・苦痛に繰り返し言及しています。宿陣環境は劣悪でしたし、少人数、あるいは単独で山中を彷徨する道程では時に「壮者といへとも吐血するものあり」「肉破れて血流れ、行歩の難渋言語に絶へたり」という目にすら遭ったといいます。
 一方、米沢へ向かった、あるいは庭坂の軍に加わった少年たちが会津方面に比して恵まれていたかといえば、必ずしもそうとは言い切れません。「丹羽家譜」は、落城後の二本松藩兵の間に流れていた空気について以下のように表現しています。

士卒相告テ云ク吾カ守ル所ノ土地城郭ハ敵人ノ所有トナリ吾カ仰ク所ノ主君ハ則チ他藩ノ寄留トナル剰ヘ宿痾ニ罹テミツカラ号令ヲ下ス能ハス且ツ未タ後嗣アラス臣等貴重ノ光陰ヲ費スト雖何ノ力ラカ以テ恢復ノ良策ヲ奏セント士気頗ル振ハス[94]

 寄る辺のない不安感や喪失感は藩兵たちの戦意を奪い、庭坂の陣中からは脱走者が相次ぎました[95]。大きな精神的負担を抱えることとなった二本松藩兵は結局、二本松城の「奪還」を試みつつも果たすことができず、早々に降伏してしまったのです。
 落城以降に少年たちがそれぞれに経験した「戦い」は、落城に至るまでの「戦い」とは質的に異なる厳しさを伴っていました。それだけに、「二本松少年隊」の苦悩はむしろ、城下戦以後においてより一層深いものだったのかもしれません。
 

6.補論 明治の軍制改革と少年兵
 明治2年、兵部省による全国的な通達を受けて二本松藩も改めての軍制改革に乗り出し、フランス式に倣って藩兵が再編成されました。「番組」を基礎とする旧来の編制は全年齢混合でしたが、これによって年齢別編制が導入されることになったのです。当時公用人を務めていた和田一は「於当藩も仏式ニ倣編制可仕心得之所、兵士、兵卒共老幼壮年を区別致し、正衛奇撃各四小隊ツゝ編制(兵員六十七名を以て一小隊とす)仕候処、正衛隊中ニ者老幼之者も御座候ニ付、一隊兵員確定仕かね、[96]と報告しており、ここからは「幼」の兵が正式に軍編成に組み込まれようとしていたことがわかります。
 それでは、「幼」とは具体的にどのくらいの年代を意図しているのでしょうか。
 明治3年に作成された「藩士元籍」という史料からは、明治3年に複数名の藩士たちが一斉に「兵隊入」「兵隊加入」を果たしていることが確認できます[97]。その中には武谷剛介と山岡房次郎(共に当時16歳)、平島太郎八(当時17歳)の名前が見受けられ、少なくとも16、7歳の少年については正式に「兵隊」となることが可能であったと考えられます。なお、先に引用した「入隊届」において、藩軍務局は平島の年齢を「右当午拾七歳罷成候」と正しく把握した上で「疾速兵隊入被仰付候者当人之規模ハ勿論後進之励ニモ可相成ト精議仕申立候」と述べており、紛れもなく藩が17歳の彼を兵隊加入が可能な人物として認識していた証左となります。
 しかし、新たな兵制が定められて間もない明治4年には廃藩置県が実施され、「二本松藩」という組織自体が消滅します。明治3年に「兵隊加入」を果たした少年たちはわずか1年足らずで「藩兵」の地位を失い、二本松藩において「幼」い「兵隊」たちが再び戦場に立つ機会はありませんでした。


7.筆者私見 「二本松少年隊」研究の展望
 以下は本稿執筆中に見出した課題の中から、特に今後の検討を要すると思われる点に触れておきます。

〇 武士階級以外の少年たち
 現在「二本松少年隊」の名簿に計上されている少年たちは、全員が武士階級(特に本士階級)です。しかし、戊辰戦争に際して二本松藩は多くの農民や町人を兵士として、あるいは軍夫として、時には武家奉公人として使役しました。二本松藩における急用時の若党小物の徴発基準は15歳~65歳の男子とされており[98]、条件としては武士のそれと大きく異なりません。それだけに、「在々村々一家に男子三人有るものは三人使はれ、五人有る者は五人を出す。上の夫卒、往来の徭役、一人も隙あるものなし」[99]という状況下で多くの少年が戦場に駆り出されたであろうことは容易に想像できます。厳密にいえば、戦闘を任務とする武士、足軽、農兵と現地において雑務を担当する軍夫や武家奉公人を同一視することはできません。しかし実際には、戦場における危険は身分や立場の別なく個々人に迫り、軍夫や武家奉公人からも多数の死者が出ることになりました。
 また、新政府軍の軍夫として動員された少年たちの存在も当然予測されます。落城後、新政府軍は二本松藩領において「拾五才より六拾才」あるいは「十六才より五拾九才」の年齢層から軍夫を徴発しました[100]。この結果、二本松藩領からはのべ4142名が軍夫として徴発され、うち2407名が会津若松の戦場へと送られました[101]。明治7年に福島県庁が修史局の求めに応じて提出した資料には新政府軍に協力する中で死傷した88名の姓名や死傷状況が記録されていますが、このうち56名が二本松藩領民でした[102]
 こうした「武士階級以外の」出陣者の場合、多くは姓名年齢も判然としておらず、それだけにその実態や個別事例の検討もほとんど行われないままに埋没しています。しかし、近年、福島県内の戊辰戦争研究の場では従来の大藩・武士中心の言説の見直しおよび中・小藩や農工商階級といった多様な主体の実態解明が進められています。必然的に、従来武士階級の少年兵だけを研究・顕彰対象としてきた「二本松少年隊」の語りの文脈も、今後再考されていくことになるのではないでしょうか。
 ここでは、戊辰戦争の戦場に立った「武士ではない」少年の一例として、渋川の田子屋墓地に眠る「寅吉」および新政府軍の軍夫として会津戦争で命を落とした「與傳治」の事例を紹介しておきましょう。
 寅吉は渋川村出身の郷足軽で、7月29日に戦死したとして殉難者名簿にも計上されている人物です。その墓石には「農兵討死 行年十七歳」と刻まれ、当時17歳だった寅吉が「兵」として命を落としたことを伝えていますが、無論彼の名は「二本松少年隊」の名簿に計上されてはおらず、戦死の状況も明らかではありません。
 一方、木幡村出身の與傳治は二本松落城後に土佐三番隊の軍夫となり、8月27日に会津若松で戦死しています。遺体は見つかりませんでしたが、遺族には「当辰年租税皆免」「金二両」の褒賞がありました。戦死当時の年齢は「十六年八ケ月」とされていますが、「嘉永五壬子年三月廿七日」生まれとのことなので、満年齢表記でしょう。本稿で取り上げた他の人物に合わせて数え年で考えるなら、彼もまた当時17歳だったということになります。
 寅吉と與傳治は戦死したことによってその名と年齢を記録に留めました。しかし、「二本松少年隊」の名簿の8割弱を生存者が占めていることからもわかるように、実際には名もなき生還者として特段記録されることもなく、そのまま歴史の片隅へと身を潜めてしまった人々の方がずっと多いはずです。
 実際に武士階級以外の少年たちの姓名・年齢や事績をどの程度明らかにできるかは兎も角として、少なくとも「戦場には武士階級以外の少年がいたかもしれない」「同じ二本松という地に、新政府軍として戦場に赴いた少年がいたかもしれない」という視点を持つことは必要でしょう。その上で、それらの少年たちの出陣の様相が「二本松少年隊」の少年たちとはどのように違ったのか、あるいは共通していたのかを考えることができれば、「二本松少年隊」をめぐる既存の言説を相対化することにもつながるのではないでしょうか。

〇「少年兵」を語る意味
 本稿では、大人の兵隊と区別できる「少年兵」の概念を自明としてここまで論を進めてきました。しかし、そもそも当時の「少年兵」をそれ以外の兵隊と明確に区別して語ることの意義とは何なのでしょうか。さらに言えば、「少年」とは、「子供」とは、一体何なのでしょうか。
 戊辰戦争期の二本松藩において、「二本松少年隊」の少年たちは確かに「幼少」「若輩」者でした。新政府軍の将兵が少年兵の殺傷に忌避感を覚えていたことを物語る逸話や記録は複数見出すことができますし、少年たちを戦場に連れ出した当の二本松藩士たちも、その身をしきりに気にかけています。
 しかしその一方、本稿でも確認したとおり、特に15歳以上の少年は、二本松藩において長らく実戦力と恃まれてきました。戊辰戦争を経てもその感覚は共通しており、新二本松藩は16、7歳の少年たちを正式に「兵隊」に加入させました。庇護すべき年少者であることと戦力であることとは矛盾せず、この点は現代日本の「子供」観との大きな相違です。
 また、白虎隊との対比の中でその幼さが強調される「二本松少年隊」ですが、幕末期の日本において、10代前半の少年兵は必ずしも珍しい存在ではありません。たとえば、広く知られるとおり、戊辰戦争期の新選組はやはり13、4歳程度の少年兵を複数伴っていました。戊辰戦争中に二本松へと出張してきた仙台兵の中にも「年齢十二三より十四五位」の「鼓打」が確認されています[103]し、戊辰戦争の4年前に二本松藩兵と対峙した水戸天狗党一派の軍勢の中にも、13歳前後の少年兵の姿が複数あったと伝えられています。補足として世界に目を向けてみれば、イギリス海軍における士官候補生、「サーバント」「ボーイ」などの少年兵は場合によってはもっと幼く、10歳前後で戦場に出ることもあったとされるほどでした。
 世界史上、「子供」の概念は決して自明ではありませんでした。それだけに、現代日本の「子供」観に基づいて少年たちを語ることは、現代の倫理観で過去を断罪してしまうことにも繋がりかねません。そこで、現代的な「子供」のイメージをそのまま投影するのではなく、近世当時の「子供」の概念を掘り下げていく作業が必要とされるのではないでしょうか。当時の「子供」観を踏まえて語られる「二本松少年隊」の姿こそ、「実相」と呼ぶにふさわしいものでしょう。


 今日、「二本松少年隊」の語り方は岐路に立っています。忠君愛国が徳目として重視されない現代において、かつてのようなモデルケースとしての意味合いは既に失われました。だからといって、口々に「忠」を語って身を擲った少年たちの姿は、「地域愛」や「家族愛」といった現代的文脈に包摂されるものでも、同じく現代的な反戦教育の教材として援用できるものでもないでしょう。道徳体系が異なる過去と現代とを「教訓」によって直接繋ごうとする行為には常に危うさが付きまといます。
 こうした状況を踏まえたうえで、今後の「語り」に求められているのはむしろ、彼らをどこまでも客観視することなのではないでしょうか。史料に残る断片的な記述を繋ぎ合わせて「証言」や「通説」と照合すること、社会的立場を異にする少年たちの個別状況を調べて比較検討すること、そして近世最終期~近代における「子供」概念を踏まえて再考することで、我々は「二本松少年隊」を一歩引いた視点から当時の社会の中に位置づけていくことができます。そうして見出された客観性のある「史実」は、時代ごとの価値観に翻弄されることのない価値を保って今後の歴史研究に資するものともなり得ます。
 それらの作業を経て改めて語られる「二本松少年隊」の姿が、古老の語るそれに比して生彩を欠くことになるとは、私は思いません。年月を経たからこそ得られる視点を取り込みつつ、彼らの生きた証は、事実として永く刻み込まれることになるのではないでしょうか。

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[1] この点について、安藤信は共著者として参加した『二本松少年隊秘話』の跋文において、『二本松少年隊』という呼称は地元の人々によって便宜上使用されているものであり、当時二本松史蹟保存会員であった加藤哲寿が「名づけ親」であるとしています(佐藤利雄編『二本松少年隊秘話』、霞ヶ関書房、1941年、300ページ )。
[2] 二本松藩史刊行会(編)『二本松藩史』1926年、213ページ。
[3] ただし、戦傷者数に関しては史料上・文献上ともに負傷の事実が確認できない「小川又市」を戦傷者計上しているため、本来は戦傷者を6名と訂正することが望ましいと考えられます。(脚注 参照)
[4] 紺野庫治『武士道二本松少年隊の記録』新人物往来社、1994年、1-2ページ。
[5] 当時降伏使を務めたうちの一人である和田一の日記によると、降伏の決定を知らされ降伏使の任務を命じられたのが9月4日、二本松に宿陣する新政府軍に接触したのが6日、嘆願書の草稿を備前藩士に見せ添削を受けたのが7日、降伏嘆願書の差出が9日、受理の通知が11日だったといいます。このいずれの時点を降伏とするべきか断定するのが難しいため、本稿では「9月初旬」としています(「二本松藩士和田安之日記」東京大学史料編纂所蔵 )。
[6] 各隊所属の少年兵については先行研究間でも微妙に内容に相違がありますが、基本的には最も新しい『武士道』に準拠しました。なお、紺野は松井・小山・久保・山岡・松田・小川・岩本・中村・田中・武藤については「名簿」に記名があると述べていますが(紺野庫治『二本松少年隊』福島テレビ、1976年、63-64ページ)、この「名簿」の成立年代や現在の所在が明記されておらず、筆者も現物を確認できていません。
[7] 五番組の構成員の中で「書出」を提出したのは大谷鳴海、黒田傳太、高橋文平の3名ですが、いずれも久保について言及していません。平島郡三郎は久保について『二本松寺院物語』(歴史図書社、1975年)中で「久保鉄次郎少年の出陣は、その後の調査によつて(中略)二十七日払暁大谷鳴海隊の大砲方として本宮口出陣のことが判りましたので(後略)」(504ページ)と記していますが、「調査」の具体的手法が明らかにされていません。
[8] 「茲に於て隊中より水練の達者を選抜せしに、隊長家僕清野正親、藩士松井勘治(原文ママ)等三名進みて川を越さんことを希望するに付、隊長之を許可す。彼等裸体にて刀を背にし、恙なく西岸に達し、間もなく漁船一艘を漁夫に背負せ来り、此船にて三名づゝ乗船し、数十回に一同無事西岸に渡るを得たり」(「黒田傳太氏回顧の記抄録」前掲『二本松藩史』900-925ページ。当該部分は909ページ )。
[9] 「銃組肝煎(中略)大谷鳴海組 井上勘右衛門 松井政之進」(「役人覚」『広瀬静樹家文書』福島県歴史資料館蔵 )。史料の成立過程は不明ですが、戊辰戦争中の戦死者を除いた状態で分掌ごとの構成員をリストアップしていることが特徴です。紺野は「松井官治(17)は、名簿に入っていないが、実態は大谷鳴海隊に入っていたと言う。父の政之進が鳴海隊に属していたので、大谷鳴海隊に従ったものだろう」(前掲『武士道』113ページ)と推測しています。
[10] 「慶応四年四月急御用被仰付諸控」岩代町(編)『岩代町史2 資料編 1 原始・古代・中世・近世』1985年、419~427ページ。田沢村名主伊藤市郎右衛門の手控で、奥羽鎮撫総督府からの要請を受けて会津藩境警備に出兵した際の四番組の人数割についての記述が含まれています。
[11] 原本は個人蔵。
[12] 奥田午之助は7月20日前後に成田村滞陣中の奥田誠之進に宛てて金子入りの書状を送っていることが記録に残っており(「七月 笹川宿御用状受継留帳」小原覚右衛門『会津東辺史料』歴史図書社、1994年、273~277ページ )、同時点で城下にいた可能性が高いと考えられます。平島太郎八については本文中にも言及した「入隊届」により7月27日に大砲方として高田口に出陣したことが明確にされています。ただし、この高田口の大砲隊は七番組の大砲隊(白河からの引揚途中ではぐれ、遅れて城下に到着したため久保丁方面に回された)とは異なる組織であることが斎藤半助による「申聞」で確認でき、厳密にいえば分類上議論の余地があります。
[13] 「諸番組役割面々」は「書出」に付属する史料で、白河に派兵された二本松藩兵の構成員と役割を記した名簿ですが、白河出陣後に生じた構成員の補充や交代の状況が反映されていない(例:大目付の青山甚五右衛門は6月12日に負傷して同役の斎藤半助と交代したが、「諸番組役割面々」には斎藤の名が記されていない)ことから、白河への出陣当初の構成員を記録したものと考えることができます。つまり、西崎は白河への出陣当初≒閏4月27日から同隊に所属していた可能性が高いといえるのです。
[14] 前掲「諸番組役割面々」。
[15] 松田については紺野の著書間でも鼓手とされる場合(前掲『武士道』)もあれば、分掌について言及されない場合もあります(前掲『二本松少年隊』、二本松史談会『絵でみる二本松少年隊』国書刊行会、1977年 )。
[16] 小川の姓名は一般に「小川又市」と表記されますが、戊辰戦争当時「小川又市」を名乗っていたのはその父親でした(「藩士元籍上」『広瀬静樹家文書』福島県歴史資料館蔵 )。そのため本稿では混同を避けるため幼名の「小川淳吉」で表記しています。なお、小川本人に関して前掲『二本松寺院物語』には「今年九月十五日、大隣寺に於ける戊辰の戦役七十周年法要の際に、元日野隊将の部下として出征した小川淳翁の御話」(252ページ)「淳吉氏、藩校に学んで秀才の名あり、父の又市を襲名せしが、後淳と改名して小学校教員となり(中略)二本松城藩旧七十年の大法要を嚴修しました時に、五六十年ぶりでこの法会に参会されました先生の講演によつて日野隊将の死因が、全く敵の飛丸の胸部貫通創のためであつたこともわかり、又その介錯人は、時の大砲方隊長木村貫(※原文ママ)氏なりしことも知られたのです」(368ページ)とあり、二番組(日野大内蔵隊)の所属であったと考えられます。ちなみに小川は「二本松少年隊」の負傷者として計上されていますが、これも小野新町戦で負傷した(大谷与兵衛「書出」その他死傷者名簿)父親との混同でしょう。
[17] 「但小野仁井町より隊中散乱之処、二本松へ引揚ケ隊中之内戦死左ニ記ス 山岡二右衛門(※原文ママ)(後略)」「同(※筆者注:八月)廿一日勝軍山之内八幡山ニ而戦争其節戦死(中略)松田九右衛門(※原文ママ)(後略)」(大谷与兵衛「書出」)。
[18] 「軍務方平島太郎八入隊通知」『広瀬静樹家文書』福島県歴史資料館蔵。
[19] 前掲『二本松藩史』331~333ページ。宛先は当時仙台出張中だった安部井磐根。
[20] 「明治元年七月念九日決戦死于大壇一文字石之側享二十一」(墓誌)。なお、「五番組大砲方」の「大砲方御雇」であった玉造嘉守について同時代史料である「元治元年九月常陸国賊徒騒乱記」(前掲『岩代町史2』416~419ページ)には「東条弥兵衛孫十七才」の付記がありますが、大隣寺に現存する本人の墓石には明治22年に43歳で没した(=元治元年当時18歳)と記されているため、今回は言及していません。
[21] 前掲『二本松寺院物語』504ページ。
[22] 「嫡子廿歳年齢御届ケ者親ゝより有之候」(「年不詳職例秘要「大監要録」巻二 大目付」二本松市(編)『二本松市史第4巻 近世1』1980年、199-226ページ )。
[23] 「侍共嫡子番入不致内ニ家督を譲り候者ニ候ハゝ先隠居扶持遣間敷候追而弐十才ニ至り正月より可相渡候若二十才ニ至リ候而番入時節前ニ家督候者へハ申付候翌月より可相渡事」(「年不詳職例秘要 勘定奉行」前掲『二本松市史4』314~355ページ )。ただし、「人柄ニ寄家督申付候砌直ニ扶持遣候者可有」という例外規定が設けられていたほか、20歳以前に何らかの形で出仕していた(※本文参照)人物が番入前に家督を相続した際も、同様に嫡子の成人を待つことなく隠居扶持が支給されたといいます。
[24] 入れ年については「二本松藩独自の制度」と紹介されることもありますが、出仕のための年齢操作自体は近世日本においてそれほど珍しい風習ではありません。旧幕臣の塚原渋柿園が著作「江戸沿革私記」において「この(※筆者注:湯島聖堂の素読吟味)時十一、二の小童にても十七才と年齢を書出すが掟なり。この年齢を公年と云ふ。故に幕府の頃には生年と公年の二様あり。番入の時の如きは非常の公年を書出すも頭も組も怪まず。総て十七才に至れば一人前もしくは一騎前の人間と見做さるゝこと、当時の規則なり」と語っているのは有名な事例です(塚原渋柿園『幕末の江戸風俗』岩波書店、2018年、215ページ )。
[25] 前掲『絵でみる二本松少年隊』54ページ。前掲『二本松少年隊』63-65ページにも同様の記述あり。ただし、紺野はその後に出版した『武士道』においては7月以前における少年兵出陣の根拠を本稿で言及したように「軍役之定」に求めており、他二著とは立場が変わっていることがわかります(前掲『武士道』111~113ページ )。
[26] 『絵でみる二本松少年隊』にも「藩からの責任のある許可は、どんな形式で、どんな手続きで出されたものか一切わからない」(52ページ)とあります。
[27] 「諸士元帳一~四」『丹羽家記録』東北大学附属図書館蔵。
[28] 年齢は墓石調査および前掲『二本松寺院物語』より。
[29] 平島郡三郎『二本松城沿革誌』漆間瑞雄、1998年。
[30]兄曰縫殿諱明義先没。嘗遊于東京帰家為嗣歳餘」(墓誌)。なお、同人は「好読書旁通兵事(読書を好み、戦術に詳しかった)」と評されている上に江戸に遊学しているため、「不具廃疾者」であった可能性は限りなく低いといえます。
[31] 「安永二年六月家中風俗につき口達覚」福島県(編)『福島県史第10巻上 資料編第5上(近世資料第3)』1967年、31~34ページ。
[32] 紺野、前掲『武士道』、112ページ。なお、「軍役之定」については前掲「安永二年六月家中風俗につき口達覚」の記述から安永2年に大書院において読み上げられたことが確認できますが、主だった自治体史への収録はなく、所在も不明なため、筆者自身は内容を検討できていません。
[33] 「享保十五年四月御備定」前掲『二本松市史4』584-588ページ(※前掲『福島県史10上』にも収録あり)。
[34] 「江戸屋敷勤方」前掲『二本松市史4』607-689ページ。原史料は「安井時僚覚書」(二本松市歴史資料館蔵)。本項で紹介した矢野と本山のエピソード(617-618ページ)については「本山扇斗物語也」と付記されており、安井が本山本人から聞き取って記したものだと考えることができます。
[35] 戦死した少年たちの墓には、他の藩士と同様、その享年とともに「戊辰戦争で戦死した」旨を明記した碑文が刻まれる傾向が見られます。岡山篤次郎(13歳)の墓誌が新政府軍兵士からの反感状の文面を用いていることは有名ですが、14歳で戦死した木村丈太郎についても、明治7年になって父親(五右衛門)が旧藩士飯田唱に碑文を依頼し、その戦死前後の経緯を詳細に墓石に刻んでいます(経緯は墓誌参照)。
[36] 「太政類典」(国立公文書館蔵)には縦5寸・幅2寸の長方形の布の上部に直違紋を描いた肩印が記録されています。なお、藩士広瀬正安の日記(「公私日録」『広瀬静樹家文書』福島県歴史資料館蔵)の明治元年9月17日の条および前掲「和田安之日記」明治元年9月22日の条に新政府参謀に届け出た内容として描かれた肩印の図では、縦4寸5分・幅2寸5分で上部に直違紋を描いたものとなっています。いずれにせよ、二本松藩において公的に用いられていたのは水野の言より大型の肩印であったようです。
[37] 旧藩士村島清右衛門(保之、寿山)は「昨年水府軍帰陣後、武器合印御馬印を始め仕替相成、夫々手配致候」(「村島翁見聞記抄録」前掲『二本松藩史』925-948ページ。当該箇所は944ページ)と述べており、元治元年の水戸出兵が軍制改革の一つの契機となったことが窺えます。
[38] 「正月廿二日 会津藩御用機密探索」前掲『会津東辺史料』54-63ページ。なお、夜間のみ甲冑を着用する理由について、同史料には「水戸出兵中、夜間に刀槍類の切っ先で怪我をする事故が発生したから」だという「内々噺」が記されています。
[39] 「慶応四年六月 白河杉山合戦討死手負人」(白沢村(編)『白沢村史 資料編(原始・古代、中世、近世、近代)』1991年、193~196ページ)の五番組の項には大谷鳴海(1400石番頭)と宇田宗三郎(宇田要八弟、戦士)についてそれぞれ「左之筒袖二箇所被打」「左右之筒袖被打」とあり、隊長を務める大谷と一戦士である宇田が同じく「筒袖」を着用していたことが示唆されています。
[40] 前掲『絵でみる二本松少年隊』63ページ、『武士道』126ページ。
[41] 前掲『二本松藩史』257~258ページ。なお、前掲「公私日録」にも同一の内容を確認することができます。
[42] とはいえ、実際には降伏時のリストでは9月までに破損、紛失、廃棄された武器や上田の例にみられるような個人所有の武器の事情が十分わからないため、城下戦に至るまでの武器事情を推察する上で十分な材料ではありません。また、堀は足軽がゲベール銃を用いていたと回想していますが、足軽の総数に比して参謀局に納入されたゲベール銃の数が少なすぎます。これが破損や廃棄、紛失によるものなのか、あるいは堀の回想に誤りがあるのかは戦争中の武器状況を確認しない限り断定できません。
[43] 「丹羽子爵家より修史館に提出せし書類」前掲『二本松藩史』864-867ページ。当該記述は867ページ。ただし本文中先述の納入武器リストには大砲類を確認できません。
[44] 「九月十七日薩摩藩届書写二通」『太政官日誌第九十』。ただし、この「四斤半砲」が本当に二本松藩兵の装備であった保証はない点については本文で後述したとおりです。
[45] 同上。
[46] 「二十日 雨天 昼過大筒試打弐貫目筒弐挺、浅川(※原文ママ)八太夫様江戸より持参新筒、場所ハ御台場辺ニ而」「二十三日(中略)昼過御台場大筒見ニ篠沢様と出申候、但此大筒江戸ニ而吹立候趣玉目弐貫目之趣壱挺者筒長六尺八寸口之渡三寸六分筒之厚三寸、同壱挺四尺八寸口ノ渡同断、代料弐筒ニ而金弐百四拾七両之由浅川様咄ニ而聞」(「安政六年二月~五月 富津警備出向仁井田村名主遠藤源四郎日誌」本宮町史編纂委員会『本宮町史 第5巻 資料編 2 (近世 1)』1992年、267-280ページ。当該箇所は267ページ )。
[47] ちなみに新政府軍側の使用小銃としては後装式連発銃であるスペンサー騎銃やスナイドル銃が取り沙汰されますが、当時準銃士隊長を務めた丹羽主膳(浅見捨蔵)は「書出」の中で、6月12日に家長の佐藤鉄之介が敵から「ミニイル筒壱挺」を分捕したと述べており、ミニエー銃も用いられていたことが窺えます。
[48] 淺川道夫「戊辰戦争期における陸軍の軍備と戦法」奈倉哲三・保谷徹・箱石大(編)『戊辰戦争の新視点下 軍事・民衆』吉川弘文館、2018年、2~26ページ。
[49] 「文久三年四月 富津出張佐藤東十郎より書簡」前掲『本宮町史5』291-292ページ。
[50] 「長柄之者共召連陣取罷在候処敵七八人進出、就中壱人近候ニ付不取合長柄者共為助候心得之所火急ニ近付自身槍合罷在候処(中略)拙者槍ニ而突留申候」(「元治元年 水戸天狗党の乱追討の際戦功の覚」前掲『本宮町史5』293-294ページ )、「佐倉源五右衛門様強弓ニテ白羽織着武者討留」(「元治元年 水戸戦争に従軍の記録抄出」前掲『白沢村史資料編』186-190ページ。当該箇所は188ページ )。
[51] 前掲「村島翁見聞記抄録」947ページ。
[52] 一般に木村の帰藩は慶応3年末~4年初頭だったとされますが、水野は木村の帰藩について「慶応四年四月」としています。
[53] 前掲『武士道』233ページ、他。具体的には岡山篤次郎・上田孫三郎・高橋辰治・遊佐辰弥・徳田鉄吉・大島七郎・後藤鈔太(以上13歳7名)、成田虎治・武谷剛介・全田熊吉・宗形幸吉・成田才次郎・馬場定治・水野進・木村丈太郎・渡部駒吉(以上14歳9名)とされます。
[54] 「余木村勘治(※原文ママ)を師として砲術を学ふ」(水野)、「慶応三年(※原文ママ)戊辰五月頃より、毎日弁当携帯砲術師範木村貫次(※原文ママ)先生方へ、(中略)会合し、先生指揮の下に白川口戦闘用に供する火矢に使用する火薬調製に従事せり」(上田)
[55] 「わしらは井上権平に就いて調練を受けたが、これが今の西洋式の先生で、その倅に門多といふのがあり、これが代つて『小隊進め!』『右向け!』『左向け!』をやつたものだつた。」 ちなみに木村と井上門多(※「諸士元帳三」では「門太」と表記)は同年に番入しているほか、父親同士が同一隊の所属である(本文にて後述)など共通点が多いことが指摘できます。
[56] 前掲『二本松少年隊』168ページ、前掲『武士道』234ページ。話者は明らかにされていませんが、紺野が聞き取り調査をした古老の発言だとされています。
[57] 前掲『絵でみる二本松少年隊』11ページ。
[58] 実際には、二階堂がどの時点から彼らと共に行動していたのかは必ずしも明確ではありません。水野の証言に二階堂が登場するのは大壇口の戦いも終盤に至ってからですが、上田は「勇んで木村道場へと参集した。木村方には銃太郎氏と二階堂衛守氏と両人(中略)午後七時頃大壇口に出陣せり」と最初の集合時点から二階堂がその場にいたことを述べています。
[59] 前掲『絵でみる二本松少年隊』64ページ。
[60] 前掲『二本松少年隊』72ページ。
[61] 前掲『武士道』119ページ。
[62] 藩士崎田傳右衛門の「復華日記」明治2年7月27日の条には「去辰之今日ハ城中大評定、(中略)既ニ降伏ノ事ニ相決シ候処、丹羽一学・服部久左衛門・丹和(※原文ママ)新十郎不心得ニテ、時刻ヲ失ヒ遂ニ上々様御立追ニ一決致シ、」「君公ニハ最初ヨリ城ヲ枕ノ御覚悟ニテ、御立退勧メ申上候テモ疾速御承知コレ無ク、二十八日ノ五つ過ニ漸々御納得」とあり(二本松市(編)『二本松市史第1巻 原始・古代・中世・近世』199年、811ページ。原本は個人蔵 )。28日に長国が城下を発ったことについては藩士大鐘具の「書出」および藩主夫人久子の「道の記」(前掲『二本松藩史』837-850ページ。当該記述は839ページ。前掲『二本松市史4』にも収録有)に記述あり。また、七番組番頭高根三右衛門の従僕を務めた三上金介(三上大三郎)は著書「西陲炮戦秘事記」(前掲『二本松藩史』974-951ページ。前掲『二本松市史4』にも収録有)の中で28日に城下で長国の立ち退きに行き会った旨を記しています(当該記述は961ページ)。
[63] 前掲『二本松藩史』226ページ。旧藩士玉木実(戊辰当時の姓名は山本銀平)の談話による。なお、玉木は大垣藩の使者を城内に取り次いだ日時について「七月二十七日朝」としていますが、7月27日朝の時点で八番組は須賀川に宿陣していたため、「七月二十八日朝」の誤りと考えられます。
[64] この件については前掲「黒田傳太氏回顧の記抄録」(当該記述は910ページ)・「西陲炮戦秘事記」(当該記述は961ページ)に記載があり、「敵襲」の誤報が流れると共に永田口に出陣していた四番組(種橋主馬介隊)が誤って大壇口に発砲したという経緯のようです。伝承によるとこの「誤射」は混乱に乗じて長国を城外に出すために敢えて敵襲を装ったものとも言われています。
[65] いずれも「太政官日誌」より。
[66] いずれも水野。
[67] 前掲『二本松藩史』217ページ。
[68] 「右者諸口追々相崩、大坦口江者三方より敵多人数打向、何分防兼余義なく御城内江引揚」(丹羽寛書出)
[69] 紺野によると、武谷剛介は「引き上げ時に薩摩藩兵とみられる新政府軍の一団と遭遇したが、敵将はむしろこちらを労った上で見逃してくれた」旨を回想したといいますが、水野はこの件に言及していません(紺野、前掲『二本松少年隊』107ページ、『絵でみる二本松少年隊』93ページ、『武士道』164ページ )。
[70] 「薩州土州の者憐みいたはしかども蘇みかへらす」(墓誌)。なお、大目付一同の「申聞」には「岡山篤次郎 右於滝沢辺銃創を請候処敵之介抱を受其後死去仕候旨及承申候」と記されており、その最期について大目付たちが早期から詳細に把握していたことがわかります。
[71] 高橋辰治、遊佐辰弥、徳田鉄吉、岡山篤次郎(以上13歳4名)、成田才次郎、木村丈太郎(以上14歳2名)、奥田午之助(15歳1名)、根来梶之助、上崎鉄蔵(以上16歳2名)、大桶勝十郎、小沢幾弥(以上17歳2名)のうち高橋、遊佐、徳田、岡山、成田、木村、奥田、大桶は大壇口での戦闘に参加した経緯があります。
[72] 四番組の「申聞」および種橋の「書出」によると四番組本隊は本町谷御門で防戦を試み、その後同所から庭坂へと引き揚げたといいますが、徳田宗七郎は「申聞」の中で「本町谷ニ而井上治太夫徳田宗七郎毛利謙蔵渡辺荻右衛門依包助太夫義見失申候」と本隊から逸れていたことが報告されており、下河辺は戦歴書の中で「城中敵兵充満シテ入ル事ヲ得ス退テ一之丁ニ至レバ市街戦盛ナルニ会ス」と四番組本隊とは異なる退却経路について述べています。
[73] 「丹羽長裕家記」東京大学史料編纂所蔵。
[74] 「丹羽家譜 六」東京大学史料編纂所蔵。
[75] 前掲、飯田唱「書出」添付名簿。
[76] 「諸番組役割面々」で両隊の大砲方として名を挙げられた13名のうち、七番組の大谷孫八郎、八番組の篠沢鉄之介はともに「武衛流砲術出精」によって大組入しています(前掲「諸士元帳三」)。特に篠沢は八番組の「申聞」において「鉄之助義者大筒方主立世話いたし」と評されており、同隊大砲方においてリーダー的立ち位置にあったことが窺えます。
[77] 右近が明治5年に死去したため。
[78] 「戦死姓名簿」前掲『二本松市史4』789-801ページ。「戦死姓名簿」には上崎鉄蔵を木村の配下とする(本来の上崎の所属は大谷志摩隊)などの細かい誤記がありますが、その記載内容からは明治23年時点で徳田が「少年隊」の存在を認識していたことが窺えます。徳田が木村の配下として大壇口に出陣して戦死した徳田鉄吉の叔父であったことも影響しているのではないでしょうか。
[79] 朝河の愛宕山への出陣について言及した資料としては、管見の限り『二本松寺院物語』が初出です。「丹羽家譜」「丹羽長裕家記」においては木村・大原と共に大壇口で奮闘したと記されています。
[80] 前掲「諸士元帳三」および前掲『二本松藩史』769ページ。「宗領無足」には小~中身家(50石以上500石未満)の家督相続前の嫡男、家老の弟、家老・大城代・番頭の次男などが含まれます。一般的には出仕と同時に4人扶持を給せられますが、このうち大城代や番頭の次男については6人扶持が、家老の次男については10人扶持が与えられ、その他の宗領無足とは区別されます。戊辰戦争当時、「家老次男」として10人扶持を受けていたのは二階堂と江口専治の2名でした。なお、二階堂について「本来は準銃士隊長や銃卒隊長を務めることができる身分」と指摘する文献も見られますが、実際には大身の次男として宗領無足に列せられる者たちは戦時編制において一般戦士として扱われる(例:江口専治は「諸番組役割面々」によると八番組戦士として出陣した)ため、この指摘は妥当ではありません。準銃士隊長は専ら家督相続前の大身家嫡男が、銃卒隊長は物頭が務めることになっています。
[81] 前掲『武士道』、175ページ。「竹田門ニ至リ祖父ニ面会セントセシニ幼年隊ノ指図役トシテ愚中(※原文ママ)方面ニアリトノコトニ付」とあり。なお、佐倉の祖父(佐倉定左衛門/印幡似水)は29日に戦死しましたが、戦死者名簿類には「佐倉強哉祖父隠居」(戦死手負収録)などと記されるだけで、彼が「幼年兵指図役」を務めたことを示す記述はありません。
[82] 前掲『絵でみる二本松少年隊』、83ページ、他。大壇口での戦闘が始まる直前、木村と二階堂は人員が増えたことに困惑した様子で再度点呼をとったものの、結局誰が増えたのかを突き止めることはできなかったといいます。
[83] 同上。
[84] ただし、平島太郎八が「弐番組番士」に任じられながら実際には大砲方として高田口に出陣しているように、城下戦直前には所属替えが慌ただしく行われました。安部井についても、何らかの理由で所属替えが行われた可能性は否定できません。
[85] この点について水野と下河辺の言は微妙に異なっています。水野は落城後の山中で下河辺のほか「三浦泰蔵、岡村某、宗形幸吉の四氏」に逢って共に会津へ向かったとしていますが、下河辺によると宗形(戦歴書中では「松本幸吉」と表記されていますが、宗形は後に「松本英才」を名乗ったため同一人物と考えて良いと思われます)・全田と共にいたところに「三浦泰三水野進岡村庄蔵」が合流してきたといいます。鈴木に関しては「少年隊記」において、母成峠戦後に水野らと共に退却したことが語られています。
[86] 「二本松藩家老丹羽掃部介の四女が語る落城哀史」『歴史読本スペシャル 1989年5月特別増刊』新人物往来社、1989年5月、50~55ページ。引用元は『サンデー毎日』昭和15年7月7日号とされます。
[87] 前掲『武士道』、216~217ページ。
[88] 米沢方面へと落ち延びた植木十郎は「書出」の中で「大事件惣人数散乱、隊長戦死も多法令難行届」という状況下で「旧大身衆嫡家江仮隊長御沙汰ニ相成、相纏候人員兵隊、旧官員之無区別、隊割相仕組兵制一先ツ相整候事」と急拵えの新兵制を構築したことを記しています。
[89] 「戦功外書上(潜伏)」『広瀬静樹家文書』、福島県歴史資料館蔵。
[90] 「戦死手負集録」『丹羽家記録』、東北大学附属図書館蔵。活字版は前掲『本宮町史資料双書2』215-222ページ。
[91] 「7月 松平大学頭家来額賀加藤治ヨリ届書」、国立公文書館アジア歴史資料センター蔵。
[92] 「河野広中氏談」前掲『二本松藩史』、177~183ページ。「隊長」とは7月27日に二本松藩兵との交戦中に戦死した美正貫一郎のことを指します。明治42年に報知新聞に掲載された「死生の境」という記事の抜粋稿とされますが、文中に所々同時代の記録と相違する文言が見られる点には注意が必要です。なお、この時河野らが処刑した捕虜は3名でしたが、この中に二本松藩兵が含まれていたかは明らかではありません。
[93] 保谷徹『戊辰戦争』吉川弘文館、2007年、226~230ページ。
[94] 前掲「丹羽家譜六」。
[95] 各大目付の「申聞」からは、士分の脱走者や脱走者と思しき行方不明者が各隊およそ数名ずつ出ていることが確認できます。また、藩士岡精一郎は明治2年に草した「献策」(『広瀬静樹家文書』、福島県歴史資料館蔵)の中で「足軽ハ去年七月大変ノ特ニ当テ死亡脱走残ル所ノ者一組十人ニ過キス」と記しており、姓名は明らかでないものの足軽にも相応の脱走があったことが窺えます。
[96] 「明治二年十月 二本松藩兵隊編制の届」二本松市(編)『二本松市史第七巻 近代・現代』1997年、14-16ページ。
[97] 「藩士元籍上・下」『広瀬静樹家文書』、福島県歴史資料館蔵。
[98] 白沢村史編纂委員会『白沢村史 通史編』1993年、552ページ。
[99] 「明治元年御国元始末(中島黄山日記)」前掲『二本松藩史』872-884ページ。
[100] 「九月廿三日 達し・大槻組官軍人馬申付」前掲『会津東辺史料』369ページ、「明治元年軍夫適格人調べにつき触れ」前掲『岩代町史2』450ページ、他。
[101] 保谷、前掲『戊辰戦争』257-258ページ。
[102] 同上。元データとしては「勤王殉国事蹟」(東京大学史料編纂所蔵)を参照のこと。
[103] 「奥羽騒乱日記」前掲『本宮町史資料双書2』139-154ページ。当該箇所は141ページ。「奥羽騒乱日誌」には複数の写本が現存しており、前掲『二本松市史4』『岩代町史2』にも別写本の収録あり。


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