@toasdm
「アラ」
ぱっ、と華やかな声がして、隣歩く彼女の足を止めさせた。え、と振り返った彼女の目線の先、翔真は店先の看板の前で嬉しそうに立ち止まっていた。
「もっきりじゃないのさ!」
「もっきり……?」
杉玉の下がる酒屋の前の看板を、彼女も引き返して覗き込む。日が落ちたばかりの商店街、あちこちの店先に灯る明かりの中で何がそんなに翔真を惹きつけたのかと見てみれば、「角打ち、あり〼。」の張り紙一枚があるばかりで、彼女は首をひねった。
「かど、うち……?」
「こっちじゃ角打ちって言うんだったかい」
あ、かくうちなんだ、と耳慣れない言葉に好奇心をくすぐられた彼女の手を取って、翔真は藍色の暖簾をくぐり店の中へと入っていく。
「えっ、ちょ、翔真さん」
「どうせこの後は帰るばっかりだろう?」
さあ仕事は終わりだ、と喜色満面の翔真に、半ば引きずり込まれるような形で、彼女は酒屋に足を踏み入れた。
「わ……」
足を踏み入れた先は、彼女の知る「酒屋」という概念が少し崩れるような、そんな異空間だった。
「はいらっしゃい」
暖簾と同じ屋号の入った藍染の法被を羽織った、ニコニコと愛想のいい店主が二人を出迎える。そのカウンターの端、店の隅の奥まったところでは、カウンターにつまみと酒とを並べた、いわゆる「立ち飲み」スタイルの客が何組かいる。
「へぇ、いいの揃ってるじゃない!」
「あの、翔真さん」
「アンタ、直帰の連絡は入れたのかい?」
「へ……?」
カウンターの奥にずらりと並んだ日本酒の品定めをする翔真にそう促されて、彼女はなるほど、と全てを理解した。付き合いも長く、深いから、彼女にはわかる。翔真はこのまま、ここで一杯ひっかけて帰ろうというつもりなのだと。こういうところは自由で強引なんだよなぁ、と苦笑しながら、彼女は事務所に直帰の連絡を入れた。
「ささ、こっちこっち」
「ひぇぇ……」
彼女が直帰の連絡を入れている間に、翔真はぽんぽんと注文を済ませてくれていたようだ。奥まった立ち飲みスペースの一角で手招きをする翔真のところへ並ぶと、枡が二人の前に置かれる。その枡の中に立てられた日本酒グラスめがけて、すぐさまなみなみと、日本酒が注がれてふわんとほのかな香りが立ち上った。
「わ……」
「景気いいわねェ」
どうも、と店主がえびす顔で答えて、グラスの中から溢れた日本酒が枡の中へと零れていくのを、翔真は手でも叩きそうな勢いで上機嫌で眺めている。
「鮭の昆布巻き、もらえるかい?」
「はいただいま」
立ち飲みコーナーの壁にずらりと並んだメニューの中から、翔真はつまみをチョイスして枡を手で持つ。はぁ、と満足色の吐息を吐き出して、にしし、とまるで子供のような笑みを浮かべて彼女の方を見て言った。
「アンタ、もっきりは初めてだろう」
「はい……正直、どう扱っていいのか」
彼女の方はといえば手元の酒枡の扱いすらわからない、といった困惑顔で翔真を見つめていて、こうやるのサ、と枡を持ちあげ、中のグラスに口をつけた。
「……ああ、イイねぇ、最高!」
翔真に倣ってちびり、ちびりと酒を飲みすすめているうちに、小皿に盛られた昆布巻きが五切れ、二人の間にちょんと置かれる。ささ、あがんなさいな、と翔真に勧められるままに箸をつけた彼女を満足そうに眺めながら、翔真も口の中に昆布巻きを放り込んだ。
「ん……!」
「んー、んっ」
甘さと鮭の香りとが広がった口の中に、すかさず日本酒を流し込む。すっきりとした米の風味が昆布巻きの甘さをさっと洗って、鼻へ抜ける香りはどこまでも透明で穏やかで、それでいて豊かだ。
「立ち飲みも枡酒も初めてですけど、これ、すっごくおいしい!」
「そうだろう? 酒屋の角でちょいと一杯、ってのが江戸から続く角打ちさね」
アタシの郷里じゃもっきりって呼ぶんだけどね、と昆布巻きと酒とを往復しながら、翔真は目を細める。
「さて、グラスが少し空いたら――…」
ほんのり紅の灯った頬が二人分、にんまりと笑みを浮かべた翔真は枡からグラスを取り出し、据え付けの布巾で底をちょんと拭ってからカウンターに置き、枡の角から溢れた分の酒をグラスに移した。
「おお、なるほど……」
「もちろん、逆にやったっていいのさ。枡から飲むのだってオツなもんさね」
「……」
じぃ、と見つめる彼女の目線から、翔真は何らかのリクエストを受け取ってくすりと笑う。アンタってほんとわかりやすいんだから、とグラスの中の酒をまた枡に移し替えて、翔真は今度は、枡の方を手にもって角に口を付けた。
「……!」
緩やかにウェーブの掛かった豊かな長い髪の毛をざっくりとかきあげ、目を伏せて、翔真はちびりと酒を呷る。無骨さとたおやかさを併せ持ったなんともいえない翔真の手が枡をしっかりと掴んでいるのも、伏し目がちに流し目のおまけまでつけた妖艶な視線も、枡で日本酒を嗜む、という古風で男らしい仕草と相まってそこに唯一無二の光景を生み出した。彼女は息をのみ、ただひたすらにそれを息をつめて見つめていた。
「ふぅ……これでいいかい?」
「あう、あ、えっ、はい……想像以上でした」
枡から酒を飲む翔真はさぞかし絵になるだろう、くらいの軽い気持ちだったのに、思っただけで口にすら出さなかったのに、翔真はそれ以上のパフォーマンスで魅せてくれた。今度お酒のお仕事持ってきましょうか、と言うのがやっとの彼女に、アンタはいつも仕事だねェ、とからから笑い、翔真はしばし、彼女と角打ちを堪能した。
「ごちそうさん」
「はいまいど」
程よく一杯ひっかけて、終始上機嫌の翔真は店を出て空を見上げる。すっかり星明りのちらつく時分になった、と吐き出した吟醸香をまとった息は、白くなって夜空に溶け消える。
「うわ、さっむ……」
「ああ冷えるね」
酒で温まった体に、師走の夜風は余計に冷たく感じて彼女はぶるっと身震いをする。竦んだ肩に力強く、優しい翔真の手がさも当然といった顔で添えられて、ぐ、と彼女を抱き寄せる。
「よ、酔ってるんですか」
「酔ってることにしちまおうか」
羽織の中に、まるで親鳥が雛鳥を温めるようにすっぽりと彼女をしまい込んで、翔真は笑う。いいじゃないのさ、と羽織の中の彼女に頬ずりついでに軽くキスを落として、翔真はうんと甘ったるい声で囁いた。
「アンタとうまい酒が飲めて今日のアタシは大満足だよ。もうしばらくご機嫌でいさせとくれ」
自由で強引で、からっとしてて素直だから、私何も言えないんですよ。
彼女の中に生まれてきたそんな感情は、翔真から香る吟醸香のように柔らかくて優しくて、気分がいいものだった。