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彼の指は魔法の指。【マスターと青年のお話】

全体公開 1 4745文字
2013-09-08 00:56:36

あの体躯のいい若い男が店にやってきて、もう1ヶ月が経とうとしている。此処は昔ながらの喫茶店。外装からしてレトロで、内装もアンティーク調の家具で整えられている。利用する年齢層より随分若く、どうにも場にそぐわないTシャツをいつも着ていた。大概が太いストライプの柄で、此処に置かれているインテリア用の分厚い本よりも厚い胸筋を誇示している。日焼けもしており、その浅黒い肌と体格から何かスポーツをやっているには違いないだろう。太陽の元で汗を滴らせて、笑顔で仲間達と青春を謳歌する。昔流行った、陳腐な汗臭い青春ドラマに居そうな青年だった。
だが此処ではそんな笑顔など一切見せず、壁際のカウンター席で肩身を文字通りに狭そうにしながら、大人しく珈琲を啜っている。
時折、店の外で彼を見たことがある。仲間と一緒にいた彼はまさに青春ドラマの一員だった。笑顔は底抜けに明るく、どうやら仲間内でも信頼されている人物のようだった。今のように一口ずつ焙煎の香りを楽しんで、たまに『本日のケーキセット』を恥ずかしそうに頼む姿とはとてもギャップがある。
思い出しながら、思わず微笑むと彼と目があった。

「今日の珈琲はいかがでしょうか?」
「お、美味しいです!」

いつもの勢いで答えてしまったのだろう。大きく威勢のいい返事が人の少ない店内で、更に通りが良くなった。蓄音器から流していたレコードの音が沈黙を少しだけ和らげている。少ないながらに注がれる視線に彼は罰が悪そうで、また一口珈琲を啜った。

「それは良かったです。最近、新しいお客様はなかなかいらっしゃいませんから」
「そうなんですか? こんな雰囲気のお店はなかなかないから、逆に目立つと思うんですけど」
「嬉しいですね、若い方からそんなことを言っていただけるなんて」
「お世辞じゃないですよ。本当に、此処のメニューはホッとして、安心して、美味しいです」

礼儀正しい受け答えに好感が持てる。きっと近所のおばさん達から好かれる、好青年タイプだ。こういう相手が宅配便でやってくると彼女達は色めき立つのだろう。最近そんなのが流行っていた気がする。

それから、彼とは少しずつ会話を交わすようになった。彼の話は自分の青春時代を思い出させ、逆に新鮮な世界も運んできてくれた。自分で言うのもなんだが、くたびれた喫茶店の店主と楽しげに話すのは少し変わり者と感じてしまう。
最近は「マスター、ちょっと最近楽しそうだね」「若々しくなったよ」とまで、常連客に言われる始末だ。常連の人達よりかはまだ若いのだが、この店で店主として過ごしている自分は年相応に見えないらしい。
午後1時過ぎの、昼のピークも過ぎた頃。元々客足の少ない店内にはすっかり店に馴染んだ彼と、自分しかいなかった。午後から休講なのだと言って、青年はいつもの隅の席でノートと資料を開いている。窓の外は静かに雨が降っており、この調子だと彼のサークルも今日は活動しないだろう。雨音とクラシック、それからシャーペンの走る音が合わさってハーモニーを奏でていた。
しばらくノートと向き合っていた顔を上げ、青年は精一杯の背伸びをする。それから深く息を吐いてから、ある場所に視線を移動させる。彼と親しくなって、ひとつ、気付いたことがあった。

「何かお気に召すものでもありましたか?」
「なっ、なんでですか?」
「よく見ていらっしゃるようですから」

当然、主として他の客の相手もしなくてはならない。珈琲を淹れたり、軽食も担当する。彼と話すことが無いとき、その視線はほとんどがそこに向けられている。

「そこのオルガン、ですよね」

思い返せば、よく彼はそれを見ていた。何をするわけでもなく珈琲を飲みながら、たまにケーキを食べながら。目線は店内を探りつつ反対側の壁にある、古めかしいオルガンにいつしか集中していた。
深みのあるダークブラウンの木目には百合の花が透かし彫りにされており、天板にはアンティークの硝子や陶器の置物が置かれている。内装にあったインテリアの中でも、目を引かれるもののひとつだ。

「興味がありますか?」

問いかけると、青年は分かりやすく視線を逸らした。彼の興味はやはりオルガンにあるらしい。カップから手を離し、視線が壁側にずれる。体格に見合った太い指を居心地悪そうに何度も組み直している。固く結んでいるが、何かひと押しあれば開きそうだ。待つのは嫌いではない。語り出すのをじっくりと待つ。
彼の視線が移動して、かち合った。最初に話しかけた時と同じように微笑んでしまえば、真一文字の唇から力が抜けていくのが見てとれた。

「あ、あれを弾いて、みたいんです」
「貴方がですか」
「柄じゃないし、似合わないのは分かってますよ。今でも習ってるわけじゃないけど……なんつーか、一目惚れっていうんですか?」

明るいスポーツ青年を絵に書いたような彼でも、時々は大人しく落ち着ける場所が欲しかったらしい。商店街から細道を抜けて、ビルの裏手に見付けたこの店に彼は心を奪われた。不釣り合いな存在とは分かっていながらドアノブに手を掛け、頭上から聞こえるドアチャイムに後押しされながら、吸い込まれるように香ばしい珈琲の薫る中へと進んでいった。美味しい珈琲に、蓄音機から流れる柔らかな音楽。財布と相談しながら頼むケーキセットも間違いない出来で、彼は余計に此処に夢中になった。見るだけで楽しめるインテリアを見る中で、視界に入り込んできたのは古めかしいオルガン。インテリアでしかないのかもしれないが、こんな店で演奏する人はとても幸せな気持ちになれるに違いない。そんなことを青年は思いながら、店に通っていたのだ。

相手が語る言葉はなかなか乙女なものだったので、そのギャップに改めて驚いた。と、同時に純粋な喜びが体の底から湧き上がってくる。自分が引き継いで大切にしている店を、本当に愛してくれていることが心から嬉しかった。
青年はやはり照れ臭くなったのか、小さく笑って、語りを止めた。

「やっぱり、俺がこんなこと言うのキモいですよね」
「いいですよ」
「え?」
「音は鳴ると思いますが、調律はしてないので。それでも良ければ」

乾いた布巾を片手にカウンターから出て、蓄音機の針を上げる。ぷつり、と途切れたBGMはそのまま空中に霧散して、今は雨音しか聞こえない。唖然とする彼を無視して、そのまま店のドアへと歩みを向ける。ドアに掛けられたカードをひっくり返して、こちら側に『OPEN』の文字を向ける。つまり、これでこの店は貸し切り状態になった。
上の置物を傍らのテーブルに移動させてから、うっすら被っていた埃を綺麗に拭う。普段から掃除はしていたが、やはり装飾の溝に入り込む輩はどうしても否めない。椅子もそこから拝借して、オルガンの前に近付ける。そして彼に向いてから、右手で示した。

「どうぞ」

戸惑う青年は信じられないといった表情ながらも立ち上がり、おずおずと近付いてくる。瞳を不安に染めつつも、その奥に期待を隠し切れていない。誘惑に勝てないところに若さが滲み出ている。恐る恐る腰を掛けて、両手を強く握り締めていた。自分も彼の邪魔にならないよう、だが横顔がはっきりと見える席に座る。
固く握った拳を何度も握っては放してはを繰り返し、同じように息を吸って吐いて、吸っては吐いて。貴重品に触れるように蓋を開けて、やっと鍵盤と対峙した。艶やかな白と黒が彼に「弾いて」と囁いているようだ。吸い付くように鍵盤に乗せられた指を見つめながら、こちらからもうひとつ注意を加えた。

「ペダル式ですから、交互に踏んでください」
「あ、は、はい……!」

その言葉の通り、まず彼はペダルを踏み始めた。一定の間隔で空気がオルガンの中を行き来する。此処に来て、オルガンは初めて楽器として呼吸をしている。程よい重みのある呼吸音に、音がひとつだけ乗った。静寂に包まれていた店内に反響する。はっきりとしたピアノの音とは違う、深みのあるまろやかな音色だ。
その一音だけで、彼の瞳が輝いた。純粋さが更に浮き彫りになって、見ている側としては少し滑稽だった。こちらの考えなど露知らず、余韻を楽しんだ相手は何故か少し考えてから、指を動かし始めていた。武骨な指がすべるように鍵盤の上を移動していく。踊るというよりもオルガンの音と相まって、指先が歌っているようだった。いや、彼によってオルガンが歌っているのだと思える。人の声に近い音色が耳から胸に、その奥にまで染み込んでくる。
小雨に合ったクラシックは勿論耳触りがよく、穏やかで、レコードの音質とはまた違う安らぎを与えてくれる。この曲は、確かカノンだったはずだ。あの界隈がそこまで詳しくはない自分でも分かる。彼がわざわざ選曲して、弾いてくれたのだとしたら。まさか、と思う自分を目だけで見て、浅黒いオルガニストは嬉しそうに笑った。そして、今度は耳に馴染んだジャズに似せて弾いてきた。心から弾くことを楽しそうに、驚くこちらのこともお構いなしに彼はオルガンと遊んでいた。
水を得た魚でもここまで生き生きと輝くことはないに違いない。好きなものに対して何の躊躇いなく接する、在りし日の少年の面影を色濃く乗せて、彼は夢中で弾いていた。

「お見事でした。譜面もないのに……凄いですね」

弾き終えた相手へ、拍手を惜しみなく送った。少しばかりの報復も加えてみたが、そんな些細な事など気にも止めていないほど彼は弾き終えた実感と余韻に浸っている。やっとこちらを真っ直ぐ見た瞳の中に、こちらにはないきらめきを湛えて、はにかんだ。

「ありがとうございます! こっちこそ楽しかったです」
「いえいえ、こちらもいいものを聞かせてもらいましたよ。アドリブも効かせられるなんて、弾くのが本当にお好きなんですね」
「そ、そんな褒めてもらうもんじゃ、ないですから。プロでもないし」
「私にはプロ以上です。生の演奏ほど、心に来るものはありません。それに、さっきの貴方の顔はれっきとしたピアニストでした」

この場合、オルガニストといったほうが正しいのかもしれない。だが、呼び名の正しさなど今は関係ない。何かに真摯に本気で打ち込んで、楽しむことが出来ることは貴重なことだ。事実を賛辞することは間違いでも、何でもないはずだ。
彼は視線を泳がせた後で「まいったな」と呟いて、片手を後頭部を掻いていた。多分、照れているのだろう。真っ直ぐな若者だからこそ、褒め言葉に弱いのだろうか。

「喜んでもらえて、俺も嬉しいです。でも、もう趣味だから、プロとかそんな」
「じゃあ、貴方はこれからも弾きたいですか?」

気まぐれの質問であり、裏を返せば提案だった。弾く気があるのなら、このオルガンを貸してもいい。そう捉えられるように告げた。言葉に込めた含みを彼はつぶさに感じ取ったようだった。
その相手の表情と言ったら。見開いた目と、中途半端に開けられた口元。中で声にならない声を反芻させて、嬉しさと驚きと疑いをさっきの倍以上に混ぜ込んでいる。

「え、こ、これからも……これ、弾いても、いいんですか?」
「こういう時間帯や、閉店間際は空いてますからね。貴方がもし良かったらの話なんですが……いかがですか?」
「お! お願いします!!」

彼の返事は初めて聞いたものと同じくらいの、むしろそれ以上の大音量だった。慌てて口を閉じる相手に、自分もあの時と同じように苦笑するしかない。

「ええ、待ってますよ」
「はい!」

だが彼のぎこちなくなくなった返事で、あの頃とは少し違うのだと実感した。


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