@tamaki_dd
サフィーヤさん(@kimama_ek)お借りしました
#01
遠くのほうから、何かがぶつかるような音がした。目の前を横切る川は、緩やかな弧を描きながら静かに水音を立てている。その音に時おり混じる、重く硬い衝突音。だんだんと近付いてくるそれにわざわざ目を向けることはしなかったけれど、何であるかはすぐに見当がついていた。
「……馬鹿な真似を」
微睡みに任せ閉じていた瞼をゆっくり開く。流れこそ穏やかだけれど、川面は外灯の薄明りを不気味に照らし返しうねっているように見えた。薄闇にあって黒色をした波の曲線は、見つめているだけでなんだか飲み込まれてしまいそうな心地になる。それはこれから目にする光景を想像してしまったせいかもしれないが。
視界の端にひときわ暗い影が映る。川の遥か上流、現世から流れ着いたのであろうそれは、やはり棺の形をしていた。
生者の世界と死者の世界のちょうど中間、煉獄は陽の昇ることのない常夜の街だ。この世界に住む男たちは、自分を含め元は人間の死者であり、今は死神として現世に巣食う化け物退治を担っている。死神などと呼ばれてこそいるが、神の類などでは決してない。人ならぬ外見を持っていたところで、切りつけられれば皮膚は裂けるし穴も空く。生きた人間との大きな違いをあげるならば、致命傷を負えば灰になることだとか、灰になっても即命が尽きるわけではないことだとか、せいぜいそれくらいだろう。死人の身体をして致命傷だ命だと語るのは、そもそもおかしな話かもしれないが。対峙する化け物――死屍は人の魂を喰らうのだから、言ってしまえば彼らのほうがよほど死神という名が似合っているような気さえする。ともかく、神などという立派な冠をのせたところでその下にあるのは脆い身体をした人間で、死人だ。
その死神を、不死身ならぬ不滅たらしめる力がある。今まさに眼前に流れ着こうとしているのは、そういう存在だった。
川縁のぎりぎりまで歩み寄り、目を凝らす。流れてきたのは、よくある木製の簡素な棺だ。石にでもぶつかったのか、がたん、とひときわ大きな音が響く。こうも衝突続きでは、棺での川下りは快適な旅とは言い難いだろう。川を流れる棺を目にするたび、そんなことを思う。音はいちいち頭に響くだろうし、寒さで凍えることだろうし、とてもゆっくり寝ていられそうにない。暇さえあるなら眠っていたい自分のような人種には地獄のような旅路だ。乗り心地が悪いからといって、この棺に眠る者が目を覚ましてしまうことはないのだろうけれど。
くだらない考えを頭の隅に浮かべているうちに、視界に映る手は自然と棺へ吸い寄せられていく。
「……ちっ、何をしてる」
自らのその行為に意識が追いついたのは、棺を川からすっかり拾い上げてしまったあとだった。濡れた足下から寒気が伝わったのか、目が覚めたようにはっとなる。死神の存在が信じられているとはいえ、素性も知れない者のために生きた人間が贄としてこうして送り出されているのだ。手放しで歓迎する気にはなかなかなれない。なれないと思いながら、けれど結局は頼らざるを得ない自分の脆さが忌々しい。
「は。私も大概馬鹿者だな」
このまま見送ってしまったって構わない。これまでだって、何度もそうしてきたのだから。その力を得るべき死神は、なにもこの世界に一人きりというわけではないのだから。わざわざ自分が拾い上げなくとも、きっと他の誰かが見つけるのだから。自らに言い聞かせたそれらは意識を素通りするばかりで、惰性で唱える念仏ほども響かない。
その場に力なく座り込み、棺の蓋をそっと撫でる。耳を寄せてみても、中からは物音ひとつ聞こえなかった。
「……お前も運がないな。人に捨てられ、挙げ句私のような者に拾われる」
ここでの暮らし、つまり現世で死を迎えてから、もうどのくらいの月日が経っただろう。指折り数えるにはあまりに面倒で正確な年数は把握していないけれど、おそらく900年は超えているはずだ。自分と同じ時代に此処へたどり着いた者は、その殆どが既に生まれ変わってしまっている。死屍を数討ったものから転生するというのだから、そういう意味では900年も居座る自分は死神としては落ちこぼれなのだろう。
転生を望み死屍討伐に積極的な死神ほど、棺の花嫁をより必要としている。戦いの末に肉体が灰と化しても、再び人の形を取り戻せるように。死神が死神として不死身であるためには、契りを交わした彼女らの血が必要不可欠だった。
ならば自分はどうだろう。生まれ変わりを強く望んでいるかと問われれば、首を横に振るしかない。周囲の死神たちの顔ぶれが幾度も変わるなか、900年もこの街に留まっていることが何よりの証明だ。それでも今こうして棺を引き上げてしまったのは、ほとんど無意識のことで、理由は自分でもよく分からない。そろそろ生まれ変わる気になってみたとか、純粋な興味だとか、あるいは船酔いならぬ棺酔いを心配したとか。いまいち働かない頭で考えてはみたけれど、きっとそのどれも当てはまりはしないのだろう。
花嫁は、生きた人間だ。けれど、この地に流れ着いたところで死神に拾われなければ目を覚ますことはないし、目を覚ました瞬間からその命は死神とともにある。元の場所に帰ることも、煉獄で一人きりで生きていくことも叶わない彼女らは、だから死神が現世へ生まれ変われば灰となって消えてしまう。煉獄へひとり残され露と消えた花嫁たちの、その後を知る者などいるはずもない。それこそ、神さまとやらの領分なのだろう。花嫁との関係や生活を大切にする死神も数多くいるけれど、寿命で命尽きていくのを見送るのと灰にしてしまうと知りながら転生を遂げるのとでは、いったいどちらが幸福だろうか。何度考えてみても答えは出せそうにないし、900年間ずっと、分からないままだ。
*
彼女は、名をサフィーヤといった。その身体は、指先で触れれば倒れてしまいそうなほど酷く痩せている。狭間の世界へ寄越された経緯など知る由もないが、惹かれた理由がどこか腑に落ちた気がした。
「そう怖がるな。死なせはしない」
今度こそ守ってみせろ。頭のなかで、誰かの声が言った。
サフィーヤさん(@kimama_ek)お借りしました
#140文字SSのお題(診断メーカー)より 『お前ごときに、救えるものか。』
すぐ傍らから酷く痩せた手が伸びてくる。血の滲んだ細い指先は、自ら傷付けたものだろう。息が詰まるほど痛々しく、けれど受け入れるより他にない。元より自分に彼女を救えるはずもないと、死屍を屠るたび痛感していた。彼女に命を削らせながら、その終わりが訪れないことを何より願っているのだから。
*
#140文字SSのお題(診断メーカー)より 『隣に違和感、視界に不具合』
「ダンナサマ、」
彼女の細い手が不意にこちらへ伸びてくる。真っ先に目に入ったのは、不自然なほど長く鋭いその爪。それから、裂けるような口元。まずい。そう思うのと殆ど同時に、衝撃が頭を掠めていた。
「……旦那様!」
傍らにいたはずの彼女の声が、遙か後方からあがる。無事であったことに一先ず安堵しながらも、思わず舌を鳴らしていた。ぐらぐらと揺れる視界には、こちらを見下ろす死屍の姿が映っている。
「くそ、馬鹿か私は」
彼女とは似ても似つかない、能面のような顔。これで直前まで気が付けないのだから、なんて情けのない話だろう。苦し紛れの言い訳を頭の隅に並べながら、けれど身体の内側からふつふつと怒りが湧くのを自覚した。
「……化け物め。サフィーヤを穢すな」
*
#140文字SSのお題(診断メーカー)より 『良い子、でしょ』
「旦那様もしかして、豆が苦手なんですか?」
「……は?」
もっと食ったほうがいい、もっと肥えろ。例の如く小言を並べながら自分の皿から食事を分けていると、サフィーヤがふいにそんなことを口にした。どうやら、豆ばかりを選りすぐってしまっていたらしい。
「死人が栄養を摂ったって仕方ないだろう」
「本当に、それだけですか?」
「……ぐ、」
わざとらしく訝る表情を向けられ、思わず言葉に詰まる。決して苦手なわけではないけれど、ここで食べなければそうだと認めてしまうようなものだ。決して、苦手なわけではないけれど。
「……食えばいいんだろう、食えば」
喉元から苦し紛れに出た言葉は、我ながら情けない響きをしている。口元へ差し出された豆の乗ったスプーンを渋々受け入れると、幼子を見守る母のような顔がどこか満足そうに笑うのが見えた。
*
#140文字SSのお題(診断メーカー)より 『来世は他人がいい』
生まれ変わった自分の姿など、まるで想像もつかない。きっと、今もそばにある存在が頭をよぎるせいだろう。転生と同時に灰と化す、その瞬間まで確かに生きているはずの彼女らの行く末。そのことを思うたび胸に沈むこの感情は、いつかと同じ絶望というものなのかもしれない。
人に捨てられ死神に利用され、あげく人として死んでいくことも叶わない。花嫁などと呼んだところで、結局死神は罪人だ。
彼女らのその先にも来世というものがあるならば、だから道は違えるほうがいい。たとえ記憶の一切がなくとも、出会えばきっとまた、求めてしまうはずだろうから。