トロン一家と凌牙
@fu_re_re_ra
ハートランド中心地の喧騒を離れ
常緑樹が大きく枝葉を広げる静かな並木道、木洩れ日あふれる、薄茶の煉瓦道の向こう側。
復讐を離れ、静かな森の向こうに居を選んだ
アークライト邸は、夏の暑さを離れたそこに、静かに佇んでいる。
「あれ? 凌牙、今日も来たんだ。どうしたの?」
軽やかな声で投げかけられた言葉に、アークライト邸の玄関先でウロウロしていた凌牙は顔を上げた。
「Ⅲ」
「ミハエル、だよ。もう。学校ではそう呼んでって、何度も言ってるのに」
口を軽く尖らせてから笑ったⅢは、赤い一年生の制服を翻して、バッグを持ち直して駆けてきた。
「どうしたの? 兄さまでしょ? 入らないの?」
「……呼び鈴鳴らしても出ねえんだよ」
「まだ帰ってないのかな? おかしいな、クリス兄さまは居るはずだけど、ちょっと待ってね」
Ⅲはネクタイを緩めて首から鍵紐を取り出すと、かちゃりと開けて凌牙をいざなった。
「待っててね。にいさまー! トーマスにいさまー! クリス兄さまー! いないんですかー?」
靴を脱いでパタパタと駆けていくⅢの背中を見送って、凌牙は汗を拭ってネクタイを緩めた。冷えた冷房がするりと入り込んで心地よい。
慣れた廊下を歩けば、リビングのソファで寝転がるⅤと、傍らで目を吊り上げるⅢがいた。
「クリスにいさま、またこんな所で!」
「む…ミハエルか、おかえり」
「もう、また本に熱中してたんですか? 凌牙が来てたんですよ、チャイムくらいちゃんと出て下さい」
「そうだったのか? すまない、気付かなかったな」
パタン、と片手で閉じられた本は古めかしく、いかにも難しそうな外国語の革表紙だった。
この家の表向きの家長は、髪を大きくかきあげて背中に流すと、ようやく顔を上げてソファから身を起こしてこちらを見た。目が合う。
「ああ、凌牙、よく来たな」
表情は淡々としていたが、迎える声音は柔らかかった。
どことなく落ち着かなくなって、凌牙はそっぽを向いて、鞄を適当な椅子の上に放り出した。
こうして、この家に招かれるのも、いつの間にか慣れて、馴染んでしまった。
「凌牙、外暑かったでしょ? 今アイスティを淹れるから。クリス兄さまも一緒に休憩しましょう」
「そうだな、トーマスももうすぐ戻るだろう。凌牙、たいしたもてなしも出来ないが、ゆっくりしていくといい」
テーブルを整えるⅢと、本を抱えてソファを立つVの間に挟まれて、凌牙は、当たり前のように自分の分も用意される紅茶を見ながら、落ち着かなげに、緩やかな風通しの良いリビングに腰を据えた。
秋の初めの暑い日。
世界を巡る戦いも昔日になって、早数ヶ月。
凌牙はこうして、当たり前のような顔でこの一家に招かれていることに
奇妙な感慨と、落ち着かなさと、それでいて妙な安堵を、感じるのだった。
【アークライト家でⅣを待つ、友人付き合いも板について来た頃の凌牙の話】
◇ ◇ ◇
Dゲイザーをパチン、と閉じたIIIは、凌牙に向けて朗らかに笑った。
「トーマス兄さま、渋滞に捕まってるって」
「モノレール下の高速か?」
「うん」
「馬っ鹿、あの道は週末混むから迂回しろっつっとけ」
緑のネクタイをぐいっと緩めて、パタパタと制服の襟首を扇ぐ。よく冷えた風がひんやりと汗を冷やしていく。そんな凌牙に、Ⅲは穏やかに笑った。
「急いで帰るから、待っててくれってさ。兄さま大慌てだったよ、車から飛び出しそうな勢いだった」
笑ったIIIは「帰るなんて言わないでね」と言い添えた。答えの代わりに鼻だけ鳴らした。
「モヤシに道の途中で干涸びられても面倒だろ」
「ふふ、良かった」
思ってるよりずっと、大事にされてるって、早く気付けばいいのになぁ。
他意なく落とされた甘やかな声に、部屋の熱が上がった気がした。
空調の効いた涼やかなはずの部屋が、熱っぽく凌牙に訴える。
「ゆっくりしていってね。何だったら、夕飯食べてく?」
「遠慮しとく。皿の値段が気になって、食った気しねえ」
「えー」
不服そうに口を尖らせたIIIは、またすぐに破顔する。ころりと変わる懐っこい笑顔は、遊馬とつるむようになってからIIIに増えた表情の一つだ。
どうしたって友人は似てくるもので、凌牙はそんな表情が──正確に言えば元になった奴のそれに──たまらなく弱くて、できるだけそっぽを向いて両手をポケットに突っ込んだ。
「んなモンで釣らねえでも、帰るなんて言わねえっての。それより付き合え」
親指で指したドア。続く階段は、彼らの長兄が使う広い実験室に続いている。
いつも、そこが自分たちのデュエル場。
「少し弄ったからな。兄貴をノス前にお前の相手してやるよ」
「ふふ、折角の新作に、兄さまの前に僕が土付けちゃうけど?」
「ぬかせ」
風の流れ込むリビング。この家は、いつも、時間がゆっくり流れている。
◇ ◇ ◇
待ち時間の手慰みに始めた試合だったが、思ったより白熱した。
消えていくARビジョン。Dゲイザーを外して、ふう、と汗を拭った。
その時、上の階から、美しい旋律が耳にポロン、ポロン、と滑り込むのを聴いた。
凌牙は、ふと顔を上げた。
「ピアノ?」
滑らかなクラシックだ。
「クリス兄さまだ」
IIIが、少しはしゃいだようにそう言った。
三階のテラスの間からだった。
あの場所は知っている。以前、凌牙が泊まった客間だった。
豪勢なベッドと明るい部屋。繋がった隣室には白い毛のラグが丸く敷かれ、グランドピアノが置かれて、白いカーテンの先に明るいテラス。
夢見るような部屋だった。風は明るく、光は澄んで、見える先が海ならばリゾート地にこそ相応しいような空間だった。
あいにく、凌牙は一度きり間借りしたのみで、あんなん気軽に泊まる気になるかと、二度目を断り続けている。
その度にⅣがたまらなく残念がって真剣に客間の豪華な改築を検討するものだから、凌牙はその都度この金銭感覚と交友感覚のズレた頭を、古いテレビのように叩いて直さねばならなかった。
凌牙が布張りの階段を上がっていくと、そこには開放的なテラスと白のグランドピアノ。奏でる男が、青銀の髪を緩やかに風に流しながら白い指を緩やかに滑らせていく。
ポロン、と最後の鍵盤を手放すと、Vが顔を上げた。
「ああ、デュエルは終わったのか。邪魔をしたかい」
「いや……上手いもんだな」
凌牙は、珍しく他意なく、掛け値なくそう言った。プロの演奏と遜色無い見事な腕だった。それに値する、美しく上品な旋律だった。
昔、旧神代邸にも小さなピアノがあった。璃緒は熱心に弾いていたが、凌牙はあまり関心がなく、どちらかといえば父が部屋に置いていたギターを弄る方が多かったように思う。
だが、母が連れてきたピアノ講師の見本曲はいつも聴いていたから、音の良し悪しは分かるつもりだった。Vのそれは見本よりはるかに滑らかで、跳ねる鍵盤の一つ一つが澄んだ、上品な音色だった。
「ありがとう。そういえば昔、カイトの前で弾いて見せた時も同じように言われたことがあったな」
懐かしいな、と静かに微笑むVの姿は、凌牙が知る苛烈な男と上手くかみ合わない。
だが、これが彼らの本来なのだろう。この家に来るようになって、凌牙はそういう彼らを目にすることが増えた。
「だが、まだまだだよ。所詮、嗜み程度のレベルに過ぎない」
「嫌味かよ、下手したらプロで食える腕だろそれ」
「……そうか、君は耳にしていないのだな」
「?」
Vが曖昧に微笑んだので、凌牙は落ち着かなくなって、勧められるままテラスの向かいに座らされた。紅茶を傾けたVが、優雅にカップを置いて口を開いた。
「楽譜をなぞるだけの私など、比べ物にならないよ。熱量が違う。『本物』を一度聴けば、判るだろう」
Vの白い指が、残暑の空気を払って、滑らかに外を指し示す。
テラスから見下ろした先に。
家路を急いで帰って来る、金と赤の髪の弟の姿。
「一番才能があるのは、あれだ」
凌牙が目を見開いた先で。
荷物を抱えたⅣがこちらに気付いて、足を早めて玄関へ走るのを。
紅茶を傾けたVが、ひとつ言葉を落として見送った。
「あれが鳴くのは、一度聴いたら忘れられん」
「才能があるのに、あれは人前で決して弾きたがらん。惜しいことだ」
「凌牙は、トーマス兄さまがピアノ弾くって知ってた?」
「…いや…」
「そっか。良かった。知ってたら妬いてたよ。トーマス兄さま、僕にだって聴かせてくれないんだから」
IIIは冗談めかすように苦笑して、肩をすくめた。Vもまた同じような顔をしていた。
「きちんとしたコーチをつけてやりたいところなのだがな。本人が突っぱねる」
「仕方がないです。トーマス兄さまにとってピアノの先生は、世界でたった一人だもの」
「先生って?」
問われて
ああ、と
ⅢとVは、当たり前のことを、当たり前過ぎて失念していたように
凌牙の一言に、動きを止めた。
ⅢやVは、時折こんなふうに、家族だけの世界に入り込んで会話を忘れることがある。
意識が少しだけ遅れて、やっと凌牙の存在を思い出したようにためいきを吐き出すのは一度や二度ではなくて
そんな彼ら家族の呼吸は、凌牙にとって最初は息苦しく居心地悪いものであったが
慣れた近頃は、こいつらはこうなるまで家族以外との関わりが無かったのかと、いささか、同情めいた気持ちになる。
気付いてから、遅れて申し訳なさげにこちらを見るⅢの視線や
隙を作って困ったように紅茶を傾けるVを度々見かければ、なおのことだ。
そして、ここにいないもう一人は、それがもっと顕著だ。
「トーマス兄さまのピアノは、母さまが教えたものだから」
時折こんなふうに
ぽろりと傷口を晒されてしまえば
なおのこと。
◇ ◇ ◇
慌ただしく玄関を駆け上がって、Ⅳは汗だくで飛び込んできた。
「凌牙!来てたのか」
流れる汗を顎で拭って、息を整えるⅣは、凌牙がすぐ帰るとでも思っているようで、凌牙が紅茶を雑に飲み干してカップを置くと、慌てたようにつんのめりながら駆け寄ってきた。
わざわざこんな郊外まで訪ねておいて、今さら帰るも何もないというのに。思い至りもしないらしい。
「調子狂うからさっさと着替えてこいよ」
「あ、ああ!ちょっと待ってろ、帰んなよ!」
「るせー」
慌ただしく階段を駆けていくⅣの足音を聞きながら、くすくすとIIIは喉を鳴らした。凌牙はムスッとした態度を隠さなかった。
「凌牙が来てくれると、兄さまがちゃんと休んでくれて助かるよ。僕らがいくら言ってもちっとも聞いてくれないんだもの」
「フン」
不機嫌を返した凌牙に、IIIはただ機嫌良く笑うばかりだった。
「どうやらオレの勝ちみてえだなァ?」
口角を歪ませたⅣが、ニタリと眉を落としながら嘲笑った。相変わらず腹の立つ顔だった。
「まだまだですねぇ凌牙」
「……チッ」
新しく組み直したデッキは、残念ながらあと一歩ヤツに及ばなかった。
Ⅲを相手に快勝を飾ったコンボも、プロであるⅣにかかれば鮮やかに隙を突かれる。
さすが激戦のプロの世界を生き抜いているだけあって、奇策への対応力には舌を巻く。凌牙がデッキの仕上げにⅣを選ぶ理由のひとつでもあった。
課題は山積み。
けれど、そんな穴をひとつひとつ埋めていく作業も、嫌いではなかった。この男とのデュエルなら。
「オイ、明日もう一戦やらせろ」
「あー……」
凌牙はそうⅣに迫ったが、普段なら飛びついてくるⅣはいたく残念そうに眉を落とした。
ARビジョンが消えていく。
「悪りぃ、明日からしばらく空けるんだ」
「チッ、んだよ勝ち逃げしやがって」
「拗ねんなって」
「拗ねてねえ!」
ははっ、と快活に笑うⅣの声は夏に溶けて、テーブルでしゅわしゅわ溶けるメロンソーダが軽やかに空気を揺らす。
Ⅳはグラスを取って、一気飲みした。
「ファンサービスはお預けだ。土産くれぇは買ってきてやるよ」
「今度はどこだよ」
「あー、ヨーロッパに、少しな」
「ンだよ、また仕事か?先週もニューヨークだったじゃねえか。仕事仕事落ち着きのねえヤツだな」
「いや、……」
煮え切らない曖昧な返事で、困ったように眉を落としたⅣが、静かに口を開いた。
「ちょっと、な」
「兄さま、着きましたね!」
「こらミハエル、はしゃぐと怪我をするよ」
「すみません、だって……嬉しくて」
ドイツの空は高かった。
生まれ故郷であるニュルンベルグに、足を踏み入れるのは本当に久方ぶりだった。
はしゃいだように笑うミハエルの服は、黒いスーツ。兄も、そして父も同じだ。
Ⅳは、首元の黒いタイを少し緩めながら、花束を肩に担ぎ直した。
「行こうか」
父の声に従って、三人はそれぞれ後に続いた。
母の眠る霊園は、静かな森の奥だった。
「やあ、驚いたかい」
トロンは花束を置いた。墓石は静かにたたずんでいる。
「懐かしい姿だろう? 僕もね、まさかこの姿でキミの前に立つとは思わなかったよ」
ひとりの女性の名前が刻まれたプレートは、木漏れ日を弾いてきらきら光っていた。
サラサラと風が流れる音だけが、霊園に満ちるすべてだった。
「最後に会いに来てから、もう何年になるだろうね。不義理な夫ですまない」
トロンが静かに十字を切った。後ろに並ぶ三人もまた、同じように倣った。
「話し切れないくらい、いろいろなことがあったよ。キミには聞かせられないようなこともあった。キミの残した宝物に、僕はずいぶん、手酷い仕打ちばかりしてしまったから」
「父さま……」
ミハエルがしゃがんで手を合わせたまま、トロンを案じるように見上げた。
トロンは妻の生き写しの末息子に、大丈夫と告げるようにそっと頭を撫でた。
「怖かったのかもしれない。変わり果てた姿でキミの前に立つのが」
トロンは静かにもうひとりの息子を手招いた。Ⅳは戸惑ったように拙く近付いて、片膝をついて父に跪いた。トロンの手が、末弟と同じようにⅣの髪をすいた。
「心配をかけてすまない。けれど、もう大丈夫」
ぽん、と子どもたちの頭に手を置いたトロンは、静かに微笑んだ。
「半分人間で無くなってしまったボクを、この子たちが繋ぎとめてくれている」
「父さん」
「父さま」
「この子たちがいる限り、二度と道を踏み外さないと誓うよ」
だから。とトロンは墓石に向き直った。
「どうか、見守っていてほしい。僕らの行く先を」
ザァァァ、と秋の風が草木を揺らしていく。
揺れる金の三つ編みを風に遊ばせたまま、トロンは空を仰いだ。
「大丈夫。もう、忘れはしないから」
「あまり食が進んでいないね」
ぴく、とⅣの手が止まった。
コース料理はデザートを残して最後の皿だったが、気もそぞろで半分ほどしか手を付けていなかった。
「何か気になることでもあるのかい」
やんわりトロンに問われて、Ⅳは完全に食事の手を止めてしまった。
Ⅳは、ためらいがちに口を開いた。
「ごめん、父さん、その……オレだけ先に、帰ってもいいか」
「気分が悪いなら、車を呼ぼうか」
「違うんだ、その、ホテルじゃなくて、……家に……」
トロンは瞠目した。Ⅳは反対に、小さくなるように俯いた。向かい側でミハエルがビックリしたようにフォークを置いた。
「今からかい?」
こくんと頷いたⅣの様子は、まるで寄る方をなくした迷子のようだった。
ナイフを置き、カチャ、と最後の皿を終えてしまったⅣに、トロンは困ったように眉を落とした。
「今からじゃあ、夜中になっちゃうじゃないか。危ないよ、こっちは日本ほど治安が良くない。反対だな」
モゴモゴと口の中だけで何かを言い渋っていたⅣは、結局、諦めたように小さな声で一言告げた。
「仕事、あるから」
つたない言い訳を告げるⅣに、クリスの眉がぐっと寄った。
「トーマス」
「……」
責める声音に、Ⅳは不服そうに唇を引き結んだが、結局なにも言わないまま黙り込んだ。
クリスが追及しようと言葉を重ねるより先に、無言だったトロンが口を開いた。
「良いよ、日本に着いたら、ちゃんと連絡を寄越すんだよ」
「父さま」
咎めるような非難の声が、クリスから上がった。トロンは、静かに苦笑だけを返す。
「眠れないって顔をしてるんだもの。勝手に抜け出されるよりマシさ。さ、行くなら急ぎなさい。暗くなるよ」
「ごめん、父さん」
俯いたまま、Ⅳはそれだけ言って席を立った。黒スーツのジャケットを翻して出口へ向かう後ろ姿に、ミハエルが何度も兄二人を見比べてオロオロした。
「あの、トーマス兄さま、僕も一緒に」
「ミハエル」
トロンがやんわり末息子を呼び止めた。
優しく歌うような調子で制止されたミハエルは、トロンを縋るように見上げた。
「そっとしておいておやり」
「はい、父さま……」
しょんぼり消沈した声を出したミハエルに、トロンは柔らかい苦笑だけを返した。
数年ぶりの故郷だ、末息子が家族の時間を楽しみにしていたことは全員が知っている。
だが、次男がそれを理由なく振りほどく子でないことも分かっている。
「不器用で難しい子だからね。少しそっとしておこう」
こういうのは、家族があまりつつかないほうがいいものさ。と言葉を重ねたトロンに、ミハエルは素直に従いこそしたが、心配げな表情を隠さなかった。
「ミハエル」とトロンが息子を呼ぶ。
心配で落ち着きをなくしている末弟に、指先でちょいちょい、と電話の形を作って、Dパッドを出すように促す。
パチン、と指で弾いたDゲイザーが、名前を表示した。
「こういうのは、適材適所だからね」
◇ ◇ ◇
IIIのDゲイザーから凌牙に着信が入ったのは、凌牙が夢の中に旅立って間もなくだった。
「ンだぁ…?」
欠伸を噛み殺しながら、Dパッドに表示された「III」の通知に、重いまぶたを擦る。
半分眠りに足を突っ込んだまま、緩慢にボタンに手を伸ばした。ピッ。着信が通話中に切り替わる。
「なんの用だよ……また遊馬達と遊園地行くとかいう話なら俺はもうゴメンだからな……」
「やあ」
ベッドから危うく転がり落ちる所だった。
「ねえキミたち遊園地まで行ってたの?あっソレ写真とかある?」
「おい……おい、トロン……!何でテメエが掛けてんだ!」
「父親だからね、ちょっと借りることくらいあるだろう?」
完全におちょくる口調だった。眠気は最悪の形で吹き飛んだ。
失態だ。凌牙は顔を片手で覆って恨むように呻いた。オマケにパジャマだった。ますます唸った。
「こちとら夜中だぞ……!」
「時差があるんだ、許しておくれよ」
時差?
凌牙は脳裏に疑問符を浮かべた。
電話が少し遠い気がする。そういえば数日前にⅣがヨーロッパに出ると言っていたか。てっきり一人旅かと思ったが、家族揃って海外だったのかと、凌牙はその一言でおおむねの背景を繋ぎ合わせた。
だとするとますます分からない。何故わざわざ日本に掛けてくる。
そもそもⅣを通して連絡しない意味が───
そこまで考えて、凌牙は思考を止めた。
凌牙は視線を鋭くして、低い声で唸った。
「なんの用だ」
「僕の家においでよ。そしたら、きっと良いものが見れるよ」
「良いもの、だぁ?」
「そ。キミが知りたがっていることかな」
くすりと、喉を震わす笑い声が凌牙の耳をくすぐった。
『あー、ヨーロッパに、少しな』
『ンだよ、また仕事か?先週もニューヨークだったじゃねえか。仕事仕事落ち着きのねえヤツだな』
『いや、……ちょっと、な』
Ⅳの様子はどこかおかしかった。
『一番才能があるのは、アレだ』
『トーマス兄さまのピアノは、母さまが教えたものだから』
チッ、と凌牙は舌打ちした。
「俺がなに知りたがってるってんだ。カマかけてんじゃねえぞ」
「おや。別にカマでも無いんだけどな。それとも言葉にして欲しい?」
「……」
「ふふ。それじゃあ」
よろしく。
ピッ、と通話が切れた。
ツーツーツーと、不通音だけが部屋に残る。
「乗せられたようで癪だが」
凌牙は上着をバサリと羽織って、バイクに跨った。
ドッと排気が響く。勢いよく踏み込んだエンジンが、振動を返してくる。
ドロロロと、バイク音だけがそこに残った。
ヤツを知っている、つもりだった。
けれど、改めて考えると、凌牙はⅣのことを何も知らないのだ。
◇ ◇ ◇
昼は穏やかな木漏れ日も
夜になれば、不気味さに変わる。
夜の森に沈んだアークライト邸は
息をひそめるような闇に溶け込んでいた。
見慣れたはずの既知の住まう家は。
夜半の風で揺れる木の葉で、酷くお化け屋敷じみた空気を放っていた。
開け放ったテラスから聴こえる、激しい音色
凌牙は、今はカーテンに覆われて見えない、三階のテラスを、見上げた。
バイクを止めて、耳を澄ます。
強い風に遮られた音色が、白いカーテンと共に揺れていた。
「……」
バイクから勢いよく鍵を抜いて
地面を蹴った。
アイツはたまに
ここではない何かのために
笑って消えてしまう気がするのだと
言えば、馬鹿らしいと舌打ちするだろうか
鍵は開いていた。
不用心に。閉める余裕がなかったように。ほんの少しだけ、開いたままだった。
体を滑り込ませて、ピアノの音を追う。
音を辿って階段を登って、三階のテラスの間。
ドアは少しだけ開いていた。
ピアノの音色がする。
凌牙は、ドアノブに手をかける。
思い切ってドアを大きく開け放った、途端に。
音の大洪水を、浴びた。
汗と
荒々しくも、激しく
そして、叫ぶ
音色
決してスローな曲ではないのに
叫ぶ旋律が、哀しい
奏でる激しさは
慟哭
吼える歌声が
嘆きだ
凌牙は、全身を襲った衝撃にしびれて
火で炙られたようにカッと熱くなった。
違う。熱が、迫力が、振動が
これが「本物」なのだと
理性でなく本能が叫ぶ
血が沸騰する
じぶんもともに泣かせろと
たましいの奥が震えて泣き叫ぶ。
体の半分を引き裂かれたような
ひどい喪失感と、真逆の安らぎ
相反する何かに心臓を揺さぶられて
目を回して、立っていられなくなる
音で殴られたかと思った。
ただの白と黒の鍵盤に。
どうりでⅤが謙遜するわけだ。
ポロン、と最後の譜面が鳴る。
はっと凌牙は顔を上げた。
目の端が知らないうちに濡れて
慌てて擦った。
ふう、と
流れ落ちた汗を拭いもせず
目を閉じて背を反らしたⅣが
二曲目に入ろうと、指先をピアノに合わせて
手首をくいと持ち上げて、指先を鍵盤に落とそうとした、そのとき
ゆるり、目を開けた先の
凌牙を認めてⅣはギョッとした。
「!?」
ダーンッと
耳障りな大音量がめちゃくちゃに出て
鍵盤を叩き損なった大合唱が、部屋を席巻した。
「りょ、りょりょりょ、凌牙ァ!? おま、いつからいた!!」

凌牙も長い凍結から復活して、ようやく現実を認識する。
口をパクパク開け閉めしながら絶句しているⅣに、凌牙は黙ってDゲイザーをフルフルと振った。
「てめえの親父」
着信履歴に大きくミハエルの名があって、勘の良いⅣはトロンの差し金だとすぐに気付いた。
Ⅳは額に手を当てて、撫で付けられた前髪をぐしゃりと乱すと唸った。
「トロン……ったく、こりゃ気を遣われたんだな。ダセエ」
ドサリとソファに座り込んで、胸のネクタイを抜き取った。
ソファの淵に投げ出した色は。
黒。
はた、と察した時には、Ⅳはこちらを苦く眉を下げて笑っていた。察したことを、察された。
「命日だったんだ、母さんの」
数年ぶりに家族全員で参ったのだと。
ドイツの飛行場から直接家に帰って、喪服のスーツを脱ぎ捨てて、胸に迫り上がる衝動を、誰もいない家でピアノにぶつけていたのだと。Ⅳは観念したように口を割った。
「その、父さんが……トロンが、バリアン世界から帰ったとき、な」
Ⅳは、決壊した心を抑えるのに失敗したように、肩をすくめて言葉を継いだ。
「トロンは、欠かさなかった母さんの月命日の墓参りに、行かなくなってた」
凌牙は息を呑んだ。
彼らが一家離散したのは五年以上前。トロンがⅣたちを再び呼び集めたのは、まだⅣたちが今よりずっと幼かった頃のはずだ。
まだ彼らが「Ⅳ」や「Ⅲ」や「Ⅴ」として割り切る前の、変質した父の帰還とその変貌を。
それまで愛していたはずの存在に見向きもしないトロンの行動を。
今より幼い彼らはどう思ったのだろう。
「復讐は終わった。お前らのおかげだ。父さんは戻ってきてくれた。再出発できたんだ。新しい家、新しい生活、わかってる。何も不安に思うことはないんだって。けど、それでも……」
俯いたⅣは、床に言葉を落とすように、弱々しく呟いた。
「トロンは、やっぱり母さんの霊園には、参らなかった」
凌牙は何も言えなかった。
うなだれたⅣのつむじを、ただ眺めるばかりだった。
マグマフィールドで聞いたⅣの叫びが、凌牙の耳に蘇った。
『フェイカーを倒せばきっと、トロンも昔の姿に、我が父、バイロン・アークライトに戻ってくれると……! オレはそこまでアンタのことを想って……!』
「本当は、ずっと不安だった。復讐しか口にしなくなった父さんは、もう、母さんを忘れてしまったんだろうか、って」
はは、と似合わない自嘲で、Ⅳは自分の前髪をぐしゃりと握りつぶしした。
「でも、違った。それが分かって安心した途端、想い出があふれて止まらなくなっちまって」
ポロン、とⅣは指をひとつ鍵盤に置いて、静かに鳴いた。
「母さんが元気だったとき、オレまだガキだったからさ。母さんとの想い出、これしかねえんだ。だから、もし、トロンにまたあの無関心な目を向けられたらって思ったら、……弾けなかった」
凌牙を振り返って、Ⅳはらしくなく弱気に笑った。
「似合わないって言うんだろ、分かってんだよ」
「……いや」
Ⅳ、という男は
付き合えば付き合うほど、分からなくなっていく男だ。
何もかも分かったように思えば
新たな一面をさらけ出す
荒々しく荒れたと思えば
静かに凪いで憂い顔を見せる
疑り深く警戒心が強いと思えば
あっけにとられるほど無防備に
繊細さと壊れやすさをさらけ出して気付かない。
危うい、男だと思う。
「まさかお前に聴かれるとは思わなかったけど……」
憑き物が落ちたように、Ⅳは苦笑した。
「悪かったな、どうせトロンかミハエルに頼まれて断れなかったんだろ。お前だって二親亡くしてんのに、余計な話をしたな」
「別に余計とは思ってねえよ」
静かにピアノの蓋を閉めようとしたⅣに、凌牙は遮るようにそう言った。
「音楽は嫌いじゃねえし……それより、わざわざ来たんだ、もう一曲聴かせろよ」
Ⅳは蓋を閉めようとしていた手を止めて、驚いたように目を丸くした。
やがて丸くした目をやんわり細めたⅣは、肩をすくめて
「一番のファンのリクエストとあらば」
と気負いなく、気取ったように一礼してみせた。
ポロン。
流れる優しい音色。
先ほどの荒々しい慟哭とは、似ても似つかない柔らかさ。
ファンファーレのように喜びを奏でる音の雨。
小さな声で、Ⅳは歌を重ねた。
耳慣れぬ異国語の、切なく温かい旋律だった。
凌牙を一瞬で引き込んだ弾き語りに、Ⅳは合間にぽつぽつと言葉を重ねた。
「これな、オレのいちばん好きな曲」
ラブソングなんだ、と。
似合わない単語を落としてⅣが笑うので、凌牙は一瞬固まって、うっかり反応するタイミングを逃してしまった。
どう反応するにも躊躇われる、柔らかい表情だった。
「母さんと父さんはずいぶん長く両思いだったけど、お互い家のしがらみも多くてさ。はっきり言葉にしない父さんに焦れて、母さんがこの曲で逆プロポーズしたんだってよ」
Ⅳの指先が滑らかに鍵盤を滑った。
一度わかってしまえば、まごうことなく、愛を歌う曲だった。
「だからこれは、オレたち兄弟が生まれた曲。……もう顔も朧げになっちまったが、母さんとオレを繋ぐ唯一の思い出、ってとこ」
お前にもあんの、そういうの。
そうⅣが穏やかに問い返すので、凌牙は少しだけ悩んだ後、自分の中の思い出の洪水をさらって、ただ「あるぜ」とだけ事実を返した。
凌牙の返答に、Ⅳは穏やかに「そうか」とだけ返して、ポロン、と鍵盤に指先で触れた。
「なんだろうな、お前とこんな話をする日が来るなんてな──……」
愛を歌う旋律が柔らかに重ねられて
あとはもう、美しいピアノの音が
優しく夜の闇に溶けていった。
◇ ◇ ◇
「凌牙ー!」
Ⅲに呼びかけられたのは、それからしばらくしたある日の学校帰りのことだった。
振り返った凌牙が目にしたのは、手を振るⅢの、はじけるような笑顔だった。
「あのね、僕にも聴かせてくれるようになったんだ。トーマス兄さま」
息を切らして走り寄ったⅢが、心から嬉しそうにパッと破顔した。
そうやって笑うと、ピアノを弾いていたアイツの似合わない穏やかさに少し似ていて、思わぬところで面影を見つけた凌牙は、似ていないようでやはり兄弟なのだと埒もないことを思った。
凌牙は鞄を肩に引っ掛けて、また歩き出した。
「ふーん」
気のない返事をする凌牙に、Ⅲは「ふふ」と笑って、手を後ろで組んで、いたずらめいた笑みで凌牙を覗き込んだ。
「ありがとう、凌牙。兄さまのそばにいてくれて」
「なんの話か分からねえな」
凌牙は煙に巻いて、顔を見られないようにⅢに背を向けた。
「じゃあな、来週また行く。てめえの兄貴に言っとけ」
「えっ……まさか、聞いてないの!?」
振り返ったⅢは目を丸くしていた。
振り返った凌牙に、Ⅲは真剣な顔をした。
「兄さま、今日、日本を発つんだよ」
「はぁ……はぁ……!」
凌牙は人混みの中で、両膝に手をついて顎を拭った。流れ落ちた汗が床に落ちるより早く再び駆け出す。
空港のアナウンスは、ヨーロッパ行きの飛行機がまもなく離陸することを伝えていた。
「ずいぶん前からヨーロッパのプロリーグに声が掛かってて、拠点を海外 に移すって」
Ⅳは、家族の心残りをすべて吹っ切って、ヨーロッパに発つことを決めたのだと。
そう凌牙に告げたⅢは、飛行機の便と時間を慌てて走り書きした。
「正式にオファーを受けたら忙しくなるから、下手したら年単位で日本 には帰らないって、てっきりキミに話してるものだと…!」
「……!」
凌牙は、メモを受け取るとバッと走り出した。
「凌牙!」
ミハエルの呼びかけに、凌牙は振り返る。
柔らかに微笑んだミハエルが、優しく目を細めた。
「よかったらまた来て。キミが好きな、甘さ控えめのクッキーをまた焼くから」
凌牙は少しだけ悩んで、口角を引き上げて背を向けた。
「バーカ。柄じゃねえよ」
手荷物検査場へ消えていくⅣの背中を見つけたのは、離陸の時間が迫った時だった。
「Ⅳッ!!」
小さめのスーツケースひとつで身軽に消えていくⅣの遠い背中が、凌牙の呼びかけで、ピクッと跳ねて、ゆっくり振り返った。
Ⅳは目を丸くしていた。凌牙がここに来るなんて、夢にも思わなかった顔をしていた。
「凌牙? お前、なんで?」
憑き物が落ちたような、ひどくすっきりした顔をしていた。
肩の力を抜いた、素のアイツの顔だった。
そのツラを見ただけで、納得づくのことなのだと。
未練の無い、明るい門出なのだと分かった。
それだけで、凌牙がここに来た目的はほぼ達成されたようなものだった。
「ぜぇ…はっ…ぜぇ…」
そう分かったら、こんなに必死になって走ったのが全部バカらしくなって、凌牙は汗を拭うのも忘れて息をただ懸命に整えた。
そんな凌牙を、驚きと共にじっと見つめたⅣが、じわじわと堪え切れないように笑い出した。
このまま消えてしまうのではないか、なんて。
凌牙の余計な杞憂はどうやら全て無用だったらしかった。
「ぶ、ははっ、おま、似合わねえの!」
「うるせえ…!」
この半年、共に過ごして。
言葉を交わさなくとも、様々なことが伝わるようになった。
凌牙が、Ⅳの明るい瞳を見ただけで、要らぬ心配を捨てたように。
Ⅳが、凌牙の上がった息を見ただけで、杞憂の中身に気付いたように。
デュエルと復讐だけで繋がっていた関係だったあの日が、遠い昔のようだった。
「世界タイトルに挑戦しようと思ってよ」
Ⅳが腰のデッキに手を当てながら、軽やかにそう目的を明かした。
極東エリアのデュエルチャンピオンは
世界の頂点を取るのだと、燃えるような鮮やかな闘志を眼に宿して、こともなげにそう言った。
「オレの家族はもう大丈夫だ。お前と遊馬が、そうしてくれた」
軽やかな声だった。
憑き物が落ちたような、重い心配ごとから解放されたような、長いわずらいを捨てたような、心から軽やかで穏やかな声だった。
自分のためだけに生きるコイツの言葉を
凌牙は、ようやく初めて聴いた。
もう言葉は必要なかった。
整え終えた呼吸を、凌牙は最後にひとつ大きく吸って、ぐっと顔を上げた。
Ⅳのマゼンタの瞳と、凌牙のブルーの瞳が交わって。じっと、互いの眼の中の闘志を、焼き付けた。
「勝ち逃げ、じゃねえか」
「ファンサービスはしばらくお預けだ」
Ⅳは白の裾を未練なく翻して、凌牙に背を向けた。
「てっぺんで待ってる」
肩越しにひらひらと手を振って
「先に行ってる。じゃあな、神代凌牙」
そう言って。
Ⅳは向こうへと消えた。
まるで明日また会うような
軽やかな別れだった。
「…………」
凌牙は、ぐっと唇を引き結ぶと
力強く踵を返した。
「ああ、頂点 で待ってろ、……トーマス・アークライト」
二人が立ち去ったそこには
夏より暑く熱された空気だけが残った。