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千の春に咲く(ゼロ歳)

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2020-12-23 02:35:30

退院日の話。



「あまり泣きませんでしたねぇ」
 おくるみの中、目をしょぼしょぼさせている娘を覗き込み、担当医が柔和な笑みを浮かべる。ふくふくとした頬を突つく姿は嬉しそうで、やちよもとろりと眦を下げた。
「あんまりぐっすり眠れるものだから、泣き声でも起きないのかと不安になりました」
「ふふ、たまにいるんですよ。マイペースな子なんでしょうねぇ」
 授乳は三時間に一回。親は眠る暇もない。……よく聞く話だ。母親学級でも散々脅されてきたし、やちよもかなり身構えていた。けれど実際のところ、娘は夜泣きどころか日中でも然程泣く事はせず、基本的には眠っているばかり。たまに泣いたとしても数秒でまた眠りに落ちるので、やちよはぐっすりと眠る事が出来た。
「健康そのものですし、個性ですねー。一人目がこうだったのはラッキーですよ」
「ええ、本当に。おかげさまで、今すぐにでももう一人産めそうなくらいです」
「ふふふ、じゃあその時は、是非またお手伝いさせてくださいね」
 今もまた眠りに落ちそうだ。やっと少しばかりの睫毛が生えてきた目許をくしゅくしゅさせて、歯も生えていない口が大きな欠伸をする。むにゃむにゃと何かしらの音を発する姿は愛らしく、担当医と二人、頬を緩めた。
「やちよさん、車回してきたよ」
「ありがと」
 長女……ちはるが産まれてから、一週間が経過していた。出生後の生理的体重減少も無事終わり、現在は二八〇〇グラム。生まれた時とほぼ同じくらいまで盛り返した体重は、彼女が元気な証だ。
 本日午前に入院中最後の健診を受け、いよいよ退院の時。
「気を付けて。何かあったらすぐいらしてくださいね」
「はい、ありがとうございました」
 わざわざ見送りに出てきてくれた産院スタッフに頭を下げ、向けられる笑みに照れ臭くなる。思い思いに娘へ挨拶する彼女達も、心から嬉しそうにしてくれるのが幸せだ。
「雪が強くなってきたみたいだから。本当に気を付けて」
「はい」
 やちよの腕の中、もはや半分程眠りに落ちた赤ん坊は、触られても突かれても文句ひとつ述べなかった。ただむにゃむにゃと口を動かし、温かい夢に落ちていく。
 ――だからこそ、かもしれない。
「っ本当にすごい雪ね」
「うん。足元気を付けて」
 産院から一歩踏み出し、吹き乱れる雪の洗礼を受けた……その瞬間。
 まず、ひゅっと音がした。聞こえたのは、きっと息を呑むそれ。到底赤子に出せるとは思えない風切り音を立て、いろはによく似た大きな瞳が見開かれる。そして、次に。
「っぁ、ぁぁぁぁあああああああー!!」
「ひゃっ」
 まさしく……絶叫。ごうごうという風の音に負けないくらい、いや、それすら掻き消す程の泣き声が響き渡り、なんならいろはは少し跳ねた。驚いておくるみの中の赤子を覗き込めば、大きな瞳が必死の色を宿して見つめ返してくる。
 急な寒さに襲われて、混乱と恐怖に泣き叫んでいるのだ。
「は、早く車に!」
「え、ええ」
 あーんあーんなんて、可愛らしいものではない。ぎやぁぁぁ、と泣き叫ぶ小さな怪獣に、二人は慌てて車に乗り込んだ。
「び……っくりした」
……そうね」
 車内はすでに、十二分に温まっている。自動スライドのドアが完全に閉まりきれば、風の音もいくらか弱くなっただろうか。その中でようやく落ち着きを取り戻したらしい赤子は、覗き込むやちよにまん丸の目を向けて完全に固まっていた。
「すっごい顔してる……
……ほんとだ」
 これは初めて見る表情だ。この世に生まれ落ちてまだ一週間とは言え、随分色んな顔を見てきたと思っていたが。今、目を白黒させている娘は、温度という概念に混乱しきっている様子だった。
「生まれてからずーっと適温だったものね」
「寒くてびっくりしたんですね」
 外に出るのは今日が初めて。文字通りの温室育ちだった彼女にとって、摂氏ゼロ度は未知の世界だ。大人だって二十度以上の寒暖差には身が縮むような思いがするのだから、赤子にとっては世界が変わったレベルの驚きだろう。
「シートベルトした?」
「ええ」
「じゃあ行くよ」
 その様子に苦笑を零し、いろははようやく車を発進させる。いつまでもここにいたら邪魔になってしまうだろう。それに、退院してくる赤ん坊を今か今かと待ち侘びている人達がいるのだ。あまり遅くなると怒られてしまう。
「皆はもういるの?」
「うん。実は昨日からいるんです」
「気が早いわねぇ」
「落ち着かないんだって」
 退院の日に顔を見に行ってもいい? そう聞かれた時、いろはは迷わず頷いた。鶴乃達には写真も見せていたが、実際に会うのはまた違うだろう。それに、三人には山程世話になっているのだ。おかげさまでやちよも元気いっぱいだし、少しくらい騒いでも問題はない。
「相談もしないで決めて、ごめんね」
「どうして? 謝る事なんてないわ。いろはが言わなかったら私から呼んでたわよ」
 待っていてくれる人がいるのは、どんな時でも嬉しいものだ。やちよだけでなく、いろはだけでなく、二人の子供を待ち侘びてくれる。それは決して当たり前ではないからこそ、皆の気持ちが嬉しかった。
「もう着くよ」
「ええ」
「あ、ほら、フェリシアちゃんが外で待ってる」
 いろはの言葉に顔を上げ、両手に傘を持ったフェリシアを見つけて涙腺が緩んだ。吹雪の中、体中に雪をくっつけて、鼻も頬も真っ赤にした姿。こちらを見つけてくしゃりと笑う姿がじんわりぼやけて、やちよはそっと目頭を押さえた。
「おかえり」
「っ……ただいま」
 車が止まり、ドアが開き、その瞬間に影が降る。風に傘を立てて雪から守ってくれる彼女が、なんだかやけに大きく見えた。そわそわとやちよの腕の中を覗き込み、そっと頬を緩める姿は大人びている。
「やちよとちはるだけ先連れてくぞ」
「うん、おねがい」
 当たり前のように新しい家族の名前も紡ぎ、フェリシアがやちよの肩に腕を回した。自分は吹雪にさらされながら、傘と体で守ってくれる。
「おかえりなさい」
「おかえり、やちよ」
……ええ、ただいま」
 玄関の扉は、自ら開ける必要もなかった。息を切らした二人に出迎えられ、あまりのむず痒さに頬が緩む。代わる代わる腕の中を覗き込んでくる仲間達が相好を崩すのを見れば、どうしても涙が滲んで仕方なかった。
「ココアです」
「お腹空いてるなら肉まんもあるよ」
「こたつ点いてるからさっさと入れ」
「わかったわかった、わかったから」
 けれど、涙を拭う暇もない。三方向から全く別々の事を言われ、泣きながら笑えてどうしようもなかった。まだコートも脱がない内からこたつに誘導されて、呆れるのと嬉しいのと照れ臭いので、感情はもうごちゃ混ぜだ。
「フェリシア、抱いてて」
「っお……おう」
 まずはコートからだろう。そう思って娘を差し出せば、フェリシアがさっと緊張した。それでも恐々手を伸ばす姿に成長を見て、やちよはそっと目を細める。
「そう。片腕だけで抱くイメージで。首が据わってないから気を付けて」
「ん」
「上手よ」
「ん」
 おっかなびっくり。まさしくその言葉が正しいだろう。少し震える指先で、それでもしっかりと赤子を抱き上げ、フェリシアはほうと息を吐いた。再びの寒暖差に晒されて少しご機嫌斜めな娘を、深い色の瞳が見下ろしている。
……なにか言ったら?」
「ん」
 もぞもぞ、ふにゃふにゃ。おくるみの中、小さく動き続ける命を抱いて、彼女が鼻の頭を赤くした。左腕でしっかりとその体を抱き、右手が恐々頬に触れる。呼吸を確かめるように顔を寄せ、そっと耳をそばだてる姿は優しいものだ。やがてちはると視線が合えば、フェリシアはとてもとても嬉しそうに、くしゃりと歯を見せて微笑んだ。
……あったけぇ」
 そして、ぽつり。思わずと言ったように呟かれた言葉に、やちよはまた目頭を熱くする。ごく当たり前の事に感動し、ごく当たり前の感想を漏らし、そして一等幸せそうに笑ってくれる彼女が、あまりにも尊く思えて。
「さなも抱いてみろよ」
「わ、わたしですか?」
「おう。楽しみにしてたじゃんか」
 瞳に少しの涙を溜めて、それでも嬉しそうに笑いながら。自分ばかりでなく皆と幸せを共有したがる姿が、どうしたって愛おしい。
「や、やちよさん、いいですか?」
「ええ。抱いてやって。きっと喜ぶ」
 促されて手を伸ばしたさなが、寸でのところで問いかけてきた。今更了承なんか必要ないと思うのだが、彼女は相変わらず律儀なものだ。
「わ、けっこう重い……
「三キロだっけ?」
「それくらい」
「わぁ……わぁー」
 娘はどうやら、人見知りをしない性格らしい。フェリシアに抱かれた時も泣かなかったが、さなが抱いてもむずがる事すらしなかった。ただどっしりと全体重を預け、相変わらず眠そうに目を瞬かせるばかり。
「いろはさんに似てますね」
「やっぱりそう思う?」
「はい。目許がそっくり」
 フェリシア以上におっかなびっくり赤子を抱き、それでも見ている所はよく見ている。しげしげと小さな命を眺めやり、さなは少し興奮しているようだった。いつもの彼女よりいくらも饒舌になって、あっちもこっちもぺたぺた触る。
「ちっちゃい手……紅葉みたい」
「さなの人差し指よりちっちぇーじゃん」
「でもちゃんと爪もあって……すごい。かわいい……
 戯れに伸ばした指先をきゅっと掴まれ、その頬が薔薇色に染まった。自分を握り締める手を親指だけで何度も撫でて、目を細める姿は聖母のようだった。あるいは両親よりも、さなの抱き方の方が様になっているかもしれない。
「いい子、いい子。かわいいね、ちぃちゃん」
 囁くような声で優しくあやされ、赤子はすっかり安心した様子だった。まだまだ乏しいながらも口許が緩く弧を描くのを見て、さなの表情筋は緩んでいくばっかりだ。
「鶴乃さんも」
「え、わたし? わたしはいいよ! 見てるだけで幸せだから!」
 すっかりとご機嫌らしい赤ん坊。今なら誰が抱いても泣き出しはしないだろう。そう思ってそっと腕を上げれば、鶴乃が慌てて手を振った。ついでにさっと距離を取る姿を見て、ここにいる三人、そして車を停めて戻ってきたいろはまでもがにやりとする。
「まぁまぁそう言わずに」
「大丈夫だから」
「怖くない怖くない」
「泣いても笑わないから」
 抱くのが嫌なわけではないだろう。誰もがすぐにそう察した。今鶴乃が恐れているのは、きっと号泣する事だ。破天荒な振る舞いをして見せるくせに、子供っぽく見られるのは嫌がる彼女なのだ。きっと声を上げて泣く姿を、年下組に見られたくないのだろう。
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待って。わ、わたし割ともう限界で……っ」
「知ってる」
「せめて、せめて一度落ち着く時間を!」
「いつ抱いたって同じだってば」
「あー駄目だって! だめ! だめだって言ってるのにぃ……!」
 娘が産まれてすぐ。電話で報告した時も、彼女の声は涙に沈んで酷く聞き取り辛かった。今、いろはに背後をとられ、さなにずずいと迫られた彼女も、既に涙をたっぷりと湛えた状態だ。
 それでもこの時、この瞬間、一人だけ仲間外れになんてしたくなくて、ついにはフェリシアがその腕を取る。
「ほら」
「っ」
 抱きたい気持ちは、きっと山の如くあったのだろう。散々逃げ出そうとしたくせにすんなりと腕を上げ、鶴乃がようやく、小さな命を譲り受ける。
……っうー」
「早いなぁ」
「だ、だっで、だっでこんな……うわーん……っ! 無事に産まれてきてくれてよがっだよぉ……っ!」
 まだ触れただけ。体重全てを腕に抱いたわけでもないのに、鶴乃はそう言って泣き出した。さなの腕から小さな命を受け取りながら、ぼろぼろぼろぼろ涙が零れていく。いつも快活な光を宿した瞳は水の中に沈み、眉根を寄せる姿は初めて見る彼女だ。
「っよくがんばったね……っ、やちよも……こいろちゃんも……っ」
……ええ」
「うまれて、ぎでぐれで、ありがどぉ……っ!」
 抱きしめるでも、頬ずりするでもない。ただ赤子の顔を覗き込んで、鶴乃は泣きながらそう言った。えぐえぐと何度もしゃくり上げ、それこそ滝のように涙が流れていく。
「いきてる……っ、うわぁん、ちっちゃいよぉ……っ。かわいい、かわいいよやちよ、どうしよういろはちゃん、よがっだぁ……っ!」
「っ……うん、ありがとう」
「おっきくなるんだよぉ……っ! げんきにそだつんだよ……っ。たくさん泣いて、たくさん笑って、しあわせに、しあわせになるんだよ……っ」
「はい、……っはい」
「っ……この子の、未来が、あたりまえにつづいていたらいいなぁ……っ。怖いことも、つらいことも、なんにもないといいなぁ……っ」
「っおう」
「争いなんて、命の心配なんて……っ、なんにも、なんにもしなくていい世界だといいなぁ……っ!」
……そうね」
「いっぱい、いっぱい幸せになるんだよ。あたりまえにおばあちゃんになるんだよ。わたしたちが、守ってあげるからね……っ!」
 息を切らせ、喉をつまらせ、それでも大切にちはるを抱いて、鶴乃がえんえん声を上げて泣く。泣かない幼子の代わりとでも言うように、何倍も声を上げて。そしてその強さからは考えられない程に優しい力で新しい家族を抱きしめて、まるで祈るように頬を寄せるのだ。
――……ちぃちゃん。ようこそ、みかづき荘へ」
 そっと。ただ愛しさばかりに彩られた声は、掠れているのに穏やかだった。その頬は幾筋もの涙で濡れているのに、その笑顔は晴れやかだった。嬉しそうに、そして幸せそうに笑ってくれた彼女の表情を、やちよもいろはも、そして仲間達も、一生忘れる事はないだろう。
 ようこそ、みかづき荘へ。それが、新しい家族に贈る一つ目のプレゼントだ。これから何度でも、何回でも、プレゼントを贈りたい。
 大切な人へ、愛しい家族へ。心からの祈りを籠めて。優しさで包んだ沢山の愛を、飽きる事無く積み重ねていくのだろう。


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