@toasdm
そういえば神谷さんも、普通の社会人としての経験があるんだったっけ、と彼女は耳慣れない神谷の口調と声音に高鳴る胸を少し押さえた。隣ではバッグを漁ろうとしている神谷が、片手で押さえている電話を、肩と耳とではさもうとしているところだった。
「はい、そうです。ええ――…」
彼女の方をちらりと見て、神谷は手でペンを持ってさらさらと書くような仕草をしていて、彼女はそれを察して自分のバッグから手帳とボールペンを取り出して神谷に手渡す。口パクだけでありがとうとウィンクひとつをおまけに添えて、神谷はそれを受け取り壁に手帳を押さえつけながら何かを書き込んでいく。
「納期はいつ頃でしょう、はい、ええと……納品書の三枚目、だったと思いますが」
普段の神谷なら、「だったと思うけど」くらいの言い方だと思うのだが、今電話している相手はどうやらカフェの方の仕事の相手のようで、口調が明らかに違う。彼女の知る神谷はアイドルで、明るくて、親しみやすい人間といった雰囲気が強かったのだが、今の神谷はそんな雰囲気はなりを潜めていて、しっかりとした、頼りがいのある社会人としての顔をしている。なんだろ、このギャップ、いいかも、と一瞬仕事を忘れそうになった彼女にペンを返して、神谷はにこやかに電話口で話す。
「はい、助かります、ありがとうございます。……ええ、いつでもいらしてください、それでは、お待ち申し上げております」
ピ、と終話ボタンを押して、ふぅ、とため息を吐く。その瞬間に神谷は、またいつもの、彼女のよく知る神谷にすぐに戻った。
「ありがとう、助かったよ」
「あ、はい……」
メモの一葉をピッと切り破り、手帳の方を彼女に返す。さっきまでのきりりとした、頼れるオーナー顔はどこへいってしまったのか、そのギャップに彼女はなんとも言えない表情をした。
「……ごめんね、別な仕事の電話しちゃって」
「あ、いえ、そういう、あれじゃないんですけど」
もごもごと口ごもる彼女の顔を、うん?と覗き込んで、神谷はにっこりと笑う。
「口調が違って少し驚かせちゃったかい?」
なんでバレちゃったんだろう、と丸くした彼女の目が、その質問の答えだ。こういう路線もありなんだ、と神谷が意味深なことを言ったのを聞き逃すくらい、今彼女の胸はドキドキと、始まりそうななにかに高鳴っていた。