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龍神の子

全体公開 3 17973文字
2021-01-02 22:50:36

離島組が龍遊を出るまで妄想
※龍遊を出る理由や経緯が捏造(映画と異なります)
※虚淮が途中まで弱っています。苦手な方はご注意ください。

Posted by @satomi8429

1.雨 (虚淮、子风息)

「雨はつまんない」
なりゆきで育てることになった妖精の子は、木のうろの中でごろごろと転がりながら言った。手足を持ち上げてはバタンと下ろし、遊びたい盛りの身体を持て余している。
「どうして」と、傍の枝に腰かけ雨を浴びながら虚淮は尋ねた。
「外で遊べないんだもん。虚淮は好きなの?」
「雨は元々川の水だ。太陽に温められて雲になり雨になり、また川に戻る」
氷の属性を持つ虚淮にとって、雨は仲間でもあった。
雨の日にしか現れない精霊がいる。雨粒とともに落ちてくる彼らの、飛び跳ねるのを受け止める。きらきらと笑いながら、川へと還り流れていくのを見届ける。……と言っても、樹の属性を持つこの子にはわからないかもしれないが。
うろから顔だけ出した子どもが、丸い目をして覗き込んだ。
「それに、雨は森を育てるだろう」
ふと思いついてそう言ってやる。雨を受け止め喜ぶ植物たちの発する気は心地よい。この感覚ならわかるだろうか。
子どもは納得したのか、そうだね、と笑んで空を見上げた。
「雨は木を大きくするね。それなら、好きになってあげてもいいかも」


2.水辺 (虚淮、洛竹、天虎)

夜が明けると、雨は止んでいた。
垂れた蔦には雫が連なっており、葉々の隙間から空の青がぼんやり見える。
「虚淮!おはよう、今日は遅いね」
洛竹の声に外へ這い出ると、なるほどすでに陽は登った後だった。
いつも夜明け前に起きてるのに、とぴかぴかした笑顔で洛竹が言う。洛竹の後ろからは天虎も顔を覗かせていた。
「风息は?」
「早くに出かけたよ。俺たちもこれから修行ごっこに」
「ごっこ?」
少し前は风息が洛竹に稽古をつけてやっていたが、最近は洛竹が天虎に稽古をつけているらしい。とはいえ天虎の背丈はまだやっと洛竹の腰を越えたくらいだ。ごっこ、というのも頷ける。洛竹の言葉に、天虎が嬉しそうに飛び跳ねた。
……行っておいで。私も少し出てこよう」

洛竹と天虎を見送ると、虚淮はいつもの水辺へ向かった。
最近はこのあたりもずいぶん精霊が減った。
虚淮が住処とする龍遊は、なだらかな山に囲まれた肥沃な土地だ。だいぶ昔、まだ人間が少なかった頃は、ふもとの平地に人間が、山頂に向かって妖精が多く暮らしていた。しかし人間が増えていくにつれ、龍遊の南側は土地開発とやらが進み、環境を奪われた虚淮たち妖精は追いやられる形で徐々に北側へ居を移していった。北側は人間が住むには過酷な環境のようで、妖精たちはそれでものんびり暮らしていた。
しかし最近ではこちら側の河川も、豊かだった水量が減り、よくわからないものが流れてくることが増えた。
ーー何かが起こっているのは明白だった。
风息や洛竹たちには話していないが、水辺へ出向いたところで、気を充分に集めることもままならないことが多くなってきていた。水辺までは飛んでいったほうが早かったが、飛ぶとすぐに疲れてしまう。
かつては龍遊最強の妖精と謳われていた自分がこの体たらくとは。
昨日の雨でぬかるんだ斜面を降り切ると、虚淮は目を瞠った。
太陽の光が水底まで射し、小石のひとつひとつまで視認できていたはずの河は、墨を流したように薄黒く濁っていた。

3.森 (洛竹、天虎、风息)

「よし。ついて来いよ、天虎」
登るのに手頃な大木を見つけ、洛竹は言った。
丸く弾む弟と目を合わせると、枝に手をかけ、ぐるんと回転して次の枝に飛び移る。天虎も真似をして枝によじ登った。
天虎はその体躯に似合わずとても機敏に動く。跳躍力があり、そのコントロールが的確なのだ。後ろを気にしながら上へ上へと登る洛竹に、滑落もせずついてくる。枝の少ないところに来れば、洛竹は枝を伸ばし、天虎に足場をつくってやった。昔风息がやってくれたように。
頂上の枝へ追いついた天虎に、洛竹はいいぞ、と笑いかけた。首を伸ばすと、青い空に広がる四方が見渡せる。
「今日は西に行ってみよう」
天虎は頷くと、ふたり同時に枝を蹴る。
西の斜面に辿り着くと、眼下にはたわわに実った桃の林が広がっていた。
「うまそう」
味を想像した口の中に涎が広がる。隣では天虎が、「もも!」と目を輝かせていた。 
「昼飯にするか」
「!」
「土産にも持って帰ろう」
「もも!」

太陽が傾き始めた頃、腹いっぱいになったふたりはそろそろ帰ろうと山頂に移動した。
「さて、どっちに行ったらいいかなー、と」
見回した洛竹の頬に、風に乗ってやってきた何かがぺた、と張り付いた。
「うん?」
指の先程の、葉よりも薄い何か。摘まみ上げると黒かった。見上げると所々、同じような黒いものが舞っている。
天虎の額にも同じものが張り付いた。慌てて取ろうと両手で額を擦る天虎の背を、枝で支えてやりながら辺りを見回す。と、天にそびえる数本の長い筒状のものが目に入った。
「これは」
筒からは黒い煙が立ち上っている。
火事か!?と思ったが違う。火事ならば炎が上がる。煙もあんなに黒くはないはずだ。
「人間か……
人間が、またなにか得体のしれないものを持ち込んだのだ。腕に抱えた桃がひとつ、転がり落ちた。

「洛竹、どうした」
振り向くと、やってきたのは风息だった。
「风息!見て、あれ!」
「あれ……?」
洛竹の指先を追い、黒い煙を認めた风息が眉をひそめた。長い筒から出て来た煙は、立ち上って段々薄まり、雲に紛れて見えなくなる。
「なんだろう、あれは」
洛竹が再び仰いだ横顔は、見たこともない険しさだった。
「洛竹は天虎を連れて帰れ。虚淮はどこに?」
「虚淮も出かけるって言っていたけれど、どこだかは……
「そうか。何か変わったことはなかったか?」
「変わったこと?虚淮の起きるのが遅かったくらいかなぁ。いつも夜明け前に起きてるのにね。今日は俺のほうが早かった。でも様子は普通だったよ」
『変わったこと』が何を指すのかわからず、思いついたままに話す。洛竹の言葉を聞いた风息の顔がさっと青ざめるのがわかった。
「俺は数日留守にする。虚淮と天虎を頼むぞ」
言うが早いか、风息は風の速さで行ってしまった。
「わかっ……た」
洛竹は棒立ちのままそれを見送った。
天虎はともかく、虚淮を頼むと言われたのは初めてだった。険しい风息の顔がちらつく。胸がざわざわする。
洛竹は天虎と目を見合わせると、枝を使って地面に降りて、北へ向かって地を蹴った。


4. 命の源 (虚淮、风息)

(ここもか)
水源のある峰まで登った虚淮は、その姿に肩を落とした。こんこんと湧き出で、豊かな水を川へ送り出していた水源は、ごく少量の水を静かに湛えるのみだった。周囲の植物も、茂ってはいるものの元気がなく、漂う精霊も数えるほどだ。
ここに来るまでにいくつもの河を目にした。どこも水量が減り、下流に行けば行くほど気味の悪い濁り方をしていた。ここへ来て合点がいった。大元が枯れかけているからだ。多少の汚水なら量の強みで浄化していた機能が、損なわれているのだ。
(ここがだめなら、もう)
気が抜けた虚淮は、よろよろと腰を下ろした。
朝から歩き詰めで、もう立っているのも辛かった。ともかく少しでも気を整えようと深呼吸を試み、あきらめる。息が上がってそれどころではない。
あの子たちはどこにいるだろうか。へばっている姿を見られたくはなかった。心配をさせてしまう。彼らの目に映る自分は、いつでも泰然としていたかった。万一彼らに上から覗かれてもいいように、せめて座った状態で。……そう思っていたのに、意思とは裏腹に虚淮はずるずるとそこらの石に頭を預け、横向きに転がってしまった。
まあ、いい。と、虚淮は目を閉じた。少し休めばまた動けるようになるだろう。多少でも気が集まれば。

(龍遊の水は、もうだめか)
ここ百年あまり、転々と移動してきた。それでも龍遊の中での移動に留められたのは、まだ自然の保たれた場所が存在していたからだ。
ここを離れたくない、と駄々をこねた幼い日の风息を思い出す。初めて居を移そうと言った時、风息は「いやだ!」と身をよじって抵抗した。
虚淮は风息の目の高さに屈むと、両腕を持って説得した。
「山の裏手に行くだけだ。お前の好きそうな木も沢山ある。きっと気にいる」
「やだ!行きたくない!」
言いながら、风息は目にじわりと涙を滲ませた。仲良くなった動物や妖精との別れが嫌なのだろう。しかし、ここに残ったところで共倒れになるだけだ。そして、倒れる時は恐らく自分が先だ。それはどうにも避けたかった。この幼い子を一人で残していくことは。
「季節が移るように、変わっていくのは仕方ないことだ。周りが変わるなら、こちらも在り方を変えるしかない」
泣きじゃくる风息の手を引いたあの日。変わることは仕方ない、自然の摂理だと説得したけれど、今回はどうしたらいいだろう。龍遊ではない別の場所で、と言ったら悲しませてしまうだろうか。もう泣かせたくはないのだけれど――
微かな水音を聞きながら、虚淮は眠りに落ちていった。


5. 家路 (虚淮、洛竹、天虎)

……ぁい、虚淮」
揺り起こされて目を開くと、眼前に洛竹の顔があった。後ろにいるのは天虎か。どちらも泣きそうな顔で覗き込んでいる。
「虚淮!気が付いた!?よかった~。大丈夫か?どこか痛い?」
「気にするな。昼寝をしていただけだ」
しまった、バレた。
と思ったが、顔には出さずにそれだけ口にする。身体を起こすとさっきよりは楽になっている気がした。いつものように座り直す。背筋を伸ばせば普段通りだ。
「こんなところで!?」
洛竹が頓狂な声を上げた。こんなところ……と改めて辺りを見回す。住処から遠く離れた石と岩だらけの河原。浅瀬のようになった水。活気のない植物。
何も言わなくとも、先程自分が感じた落胆を共有してしまった気がして虚淮は黙った。
天虎がおろおろと洛竹と虚淮の顔を交互に見ている。大丈夫だよ、とその柔らかな背中に触れてやる。
帰ろう、と洛竹が横顔でぽつりと言った。

「なあ虚淮、どうしたら元気が出る?」
背中に虚淮を背負い、歩きながら洛竹が言った。
最初こそ自分で歩けるだのいいから構うなだの言っていた虚淮だったが、半ばむりやり担ぎ上げるとそこからは大人しく負ぶわれてくれていた。
担いでみて、肝が冷えた。
虚淮小さくなった?と聞くと、お前が大きくなったんだろ、と虚淮の返事はそっけない。そっけないのは気にはしないが、ちょうど耳にかかる、息の粗さが心配だった。
喋らせたら辛いのかもという思いが掠めたが、しかし無言でいたら、そのまま煙のように消えてしまいそうな気がした。
「あの水じゃダメなんだろ」
「あそこがあれでは、もう河の水はどれもだめだろう」
虚淮の返事は淡々としていた。いつも通りに。
「そっか」
……洛竹」
「何?」
振り向いた洛竹の顔に西陽が直撃する。眩しくて虚淮の顔が見えない。仕方なく耳を澄ますと、虚淮が小声で言った。
「少し、寝てもいいか」
「いいよ、もちろん」
「すまない」
とぼとぼと家路につく三者の背中を、夕陽が朱く染めていた。


6. 夜 (虚淮、洛竹、天虎)

虚淮の部屋は、背の低い大木のうろにあった。
天虎が灯りをつけ、洛竹が虚淮を背から降ろす。
「すまない、助かった」
寝床に横にならせてもらうと、すぐさま瞼が落ちてくる。いい加減今日は寝過ぎだと思うが、どうにも抗えなかった。もう眠ろうと目を閉じ、視線を感じて瞼を再びこじ開ける。視線は洛竹と天虎だ。四つの目が、真剣な眼差しでこちらをじっと見ている。息を詰めた様子で、動かない。
「もう心配ないから、ふたりとも自分の寝床で寝なさい」
半身を起こしてそう言うと、洛竹がぐっと顔を近づけた。
「駄目!虚淮のことは、风息に頼まれてるんだからね!」
びしっと音がしそうな勢いに驚いていると、天虎が「まくら」と足を差し出した。
「膝…………?」

外はすっかり夜になっていた。そこここで呼び合う虫の声が微かに聞こえる。
虚淮が天虎の膝に頭を乗せてうとうとしていると、洛竹が突然「そうだ!」と立ち上がった。座ったまま寝かかっていた天虎がびくりと起きた。
「ちょっと出かけてくる!すぐ戻るから!待ってて」
そう言って出て行ってから小一時間。戻ってきた洛竹は息を弾ませ、両手に桶を抱えていた。
「木の精霊たちに水を分けてもらってきた!昨日の雨水の残りだから、たくさんはないんだけど……飲んだら少しは足しにならないかな」
椀を片手に桶の上に屈んでいそいそと水を掬う洛竹には言いにくかったが、今の状況では雨水も河川も大して変わらない。雨水のほうが多少まし、という程度だろうか。
そう思ったものの、結局のところ虚淮はその水を飲むことにした。洛竹は気持ちの優しい子だ。彼の心づかいを無下にしたくはなかった。
「ありがとう、少し良くなった」
実のところなんの変化もなかったが、半分ほど飲んでそう言ってやると、心配顔で見守っていた洛竹の表情がふわとほどけた。
「もう寝る」
そう言って目を閉じると、洛竹は「うん、よく休んで」といつもの声で頷いた。


7. 夜明け (风息)

東の空が白々と明け、木々の隙間を縫って細く陽が差し込んでいる。
地に近いところでは朝露に濡れた苔がやわらかくそれを受け止め、天に向かって伸びた枝々は太く力強く、のびのびと好きに曲がって空を掴んでいた。青い空気の中に植物の緑が溶け、太陽に照らされてゆるやかに光を放つ。
风息は足を止め、見慣れたそれらに目を細めた。まるで楽園のような景色だ。
霊気に満ち、精霊が舞い、妖精が誕生するかつての龍遊のような。
(この地がもう無理だなんて)
风息は爪が食い込むのも構わず拳を握った。信じたくないが、現実だった。
今までも、龍遊の中で転々と移動してきた。そのたびに別れがあった。
幼いころはただ悲しかった。回数を重ねるごとにそれは怒りに変わっていった。
なぜ俺たちが追われねばならない。後から来たのは人間のほうなのに。
腹が立ったが、腹いせに何かしたことはない。ただ、妖精の住処が奪われそうな時は別だった。仲間を逃がすため、仲間を護るために。奴らの造った不自然な形の石があれば根で叩き割り、奇妙な機械があれば枝で持ち上げて投げ飛ばした。一夜にして蔦に覆われ沈黙した機械を見て、人間は驚いていた。
『山の神が怒ったのだ』
そう囁く人間もいた。そうだその通りだ。わかったらここから出ていけ。
しかしそれでも奴らは止まらなかった。
環境を奪われてしまえば逃げるしかなかった。そうして、人間の手が届かないところ、人間から離れたところと彷徨い、とうとう今の住処が残された最後の場所だった。
洛竹が見た黒い煙。それを噴き出す長い筒。
川を埋め、木を倒し、土地を燃やして作る建造物だ。それは精霊を踏みつぶし妖精の住処を蹂躙し命を奪う。洛竹や天虎には意図的に隠していた。こんな醜いものは自分が知っているだけで十分だ。
そう思っていたのに、それがまたこんなに近くに。
今までなら、獣の姿で急行し、妖精を避難させ、人間を脅かすために暴れていただろう。だが今回、风息はそちらへ向かうことをやめた。
――恐らく、虚淮が弱っている。
水が悪くなっていることは薄々感じていたが、虚淮がなんのそぶりも見せないので気づくのが遅れてしまった。洛竹たちと別れ、飛ぶように駆けながら目にしたいくつかの河はどれも浅く、木の上から見ただけでも濁りが酷かった。
虚淮は生き物よりも水に近い。環境からの影響を直に受ける。水場からの霊気を取り入れられなければ、消耗して弱ってしまう。
水が汚れれば、森が死んでいくのも時間の問題だ。
腹の底から湧き上がる怒りを奥歯で噛み砕き、目を閉じてひとつ息をつく。
止まってる場合じゃない。早く行かなければ。
风息は踵を返すと、兄弟のもとへ急いだ。


8. 灯火 (风息、洛竹)

仲間たちの寝床は森の奥にあった。
うっそうと茂った樹々に遮られ、まだ陽は僅かしか届いていない。薄暗く朝靄の立ち込めるなか、虚淮の休む樹のうろから淡い橙の灯が漏れている。寝ているのなら起こさぬようにそっと入口に近づく。中をのぞくと、部屋の奥で横になっている天虎と虚淮、その傍らに膝を抱えて顔を伏せている洛竹が見えた。
……洛竹」
小声でそう呼びかけると、はっと顔を上げた洛竹が駆け寄った。途中で何かに躓き、転びかけた洛竹を支えてやる。からんからん、と乾いた音が控えめに響いたが、洛竹はそれには頓着せずに、抑えた声でまくしたてた。
「风息、遅いよ!どこ行ってたんだよ!」
「一日で帰ってきたろう?」
腕を取って洛竹を宥める。落ち着かせようと覗き込むと、洛竹の目には怒りよりも焦りが滲んでいた。嫌な予感がする。
「虚淮は?」
「寝てる。さっき水を飲んで、それからずっと」
洛竹は振り向き、さっき倒した椀を見た。まだ中身が入っていたらしい。ひっくり返った拍子に水が溢れ、床が濡れてしまっていた。
「水?」と风息は眉をしかめる。
「虚淮が、川の水はもう駄目だって言うから。木の精に頼んで雨水を集めたんだ」
「雨水だって駄目だ馬鹿!」
つい勢いで怒声をかぶせると、洛竹はきょとんとした。
「え、でも虚淮ちょっと良くなったって……
「あの川の水が雲になって、その雲に昨日見た黒い煙が溶けていたらどうなる?雲から降る雨はどうなる?」
抑えた声で言い募ると、洛竹の下瞼にはみるみる涙が膨らんだ。
「そう……そうだよねぇ。虚淮、良くなったって言うけど、全然そうは見えなかったし。ここまで背負って来る時も、すごく……か、軽いし」
堰を切ったようにしゃくりあげながら話す洛竹の言葉を、风息は黙って聞いた。
「全然起きていられないし、寝てても呼吸は辛そうだし、俺もう、どうしようって、心配で……
洛竹は両手で自分の両肘を抱えて、その指に力を込めた。
ああ、この子は自分の言葉を守って、一所懸命に虚淮と天虎を護ってくれていたんだ。风息は、ぱたぱたと涙を落とす洛竹の肩を手のひらで包んでやった。洛竹が涙で濡らした頬のまま、切羽詰まった顔で縋る。
「虚淮、大丈夫だよな?いなくなったりしないよな?」
「ああ、大丈夫だ。お前はよくやってくれた。ありがとうな。……怒鳴って悪かった」
そう言うと、素直な弟は鼻をすすり、へへ、と泣きながら笑った。
风息は、洛竹、と語調を改めた。
「一刻も早くここを出る。虚淮と天虎を起こして、すぐに出発だ」


9. 故郷 (虚淮、风息、洛竹、天虎)

天虎起こすのは洛竹に任せ、风息は眠っている虚淮の傍らに屈みこんだ。
揺り起こそうとして一瞬止まる。苦痛の表情こそ浮かべていないが、洛竹の言った通り、薄く開いた唇から洩れる呼吸音はか細く、风息の不安も掻き立てた。肩に触れ、「虚淮」と小声で呼びかける。ゆさゆさと控えめに揺すると、虚淮の目が静かに開いた。
……风息か」
上を向いたまま目だけを動かし、視線を捉えて虚淮が呟く。青く澄んだつめたい双眸はいつも通りの虚淮だった。よく知っている、冷静で落ち着いた。
会話ができたことに一先ず安堵の息を吐きながら、大丈夫か?と問うと、ああ、と平らかな声が返ってくる。いつものやりとりだ。
「目覚めたばかりで悪いが、今から移動する。起きられるか?」
と言うと、しかし虚淮はふい、と横を向いて「嫌だ」と目を閉じてしまった。
なんで、と問うと、目を閉じたまま「眠い」と雑に投げてよこす。俺が背負っていく、寝てていいから、と説得しようとして、风息は口をつぐんだ。
背を向けた虚淮の肩が大きく上下に揺れている。
风息は、大丈夫そうと思った自分を恥じた。あの応答はいつも通りじゃない。平坦に感じられたのは息を押し殺しているからだ。身体の向きを変えただけで肩で息をするくらいなのだから、起き上がるのは相当にしんどいのだろう。
だが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
霊力を喪って弱り果てた妖精は、徐々に動くことができなくなり、気を補給する力すら衰えて、回復できずに消滅する。そうして消滅していった妖精を风息は幾度も見てきた。
「だめだ。今行かないと、本当に動けなくなるぞ」
わかってるだろう、と、弟たちに聞かれぬように耳元でささやく。虚淮は目を閉じたまま眉をひそめた。
霊力があれば。霊力を回復させる環境があれば。そう何度歯噛みしただろう。弱い個体はすぐに果て、強い個体も激変する環境について行けずに、どんどん姿を消していった。床についた自身の膝を掴む手に力がこもる。
――虚淮は消させない。絶対に。
反対側に回り込み背中に手を当てると、顔を覗いて説得する。
「今度は、俺が背負っていくから」
と、虚淮が片眼で风息を睨み上げた。それから目を閉じて息を吐き、長い沈黙の後、わかった、とぽつりと言った。
洛竹と天虎に手伝ってもらい、ゆっくりと虚淮を背中に乗せる。なるべく揺らさないように心掛けたが、それでも背負った後の呼吸は先程よりも促迫だ。そして氷の身体は、記憶の中のどの虚淮よりも軽かった。
どこへ行くのかと聞くので、龍遊を出る、とだけ答えた。会話する時間も惜しかった。

白い靄の中、枯葉と土の匂いを踏みしめて、住み慣れた森を後にする。山を登り反対側に降りる時、洛竹と天虎はしばし立ち止まって振り返った。
森から生まれ、森に育まれ、森を育む妖精にとって、故郷の土地を去ることは、根から引っこ抜かれ土から離されるのと同義だ。数歩先を歩いていた风息は、黙って待っていてやった。
天虎の肩に手を添え、洛竹が戻ってきた。こつんと無言で傾けた額を、片方の肩で受け止める。
……本当に、いいのか?」
虚淮がふいに囁いた。規則的な呼吸が聞こえていたので、寝ているのかと思っていた。
「何が」と問い返すが、虚淮は答えない。前を向いたまま問題ない、と言うと、苦しげな呼吸の合間に虚淮がふ、と笑った。
「なにがおかしい?」
……変わる、ものだな。あの頃は、移動するたびに、べそべそ、泣いていたのに」
「何百年前の話だ」
忘れていた幼い頃の話を持ち出され、なんだよそれと答えると、すました声音がつい先日の話だが?などと返してくる。
「口の減らない」
言いながらも、その反応に苦笑が漏れる。
「何か、言ったか」
「いや、……
安心したよ。
そう思ったことは、胸の中に納めておいた。


10. 霊道  (洛竹、天虎、风息、虚淮)

人里と山林を分かつこの山道には、人間がかつて造った祠がある。雨風に晒され苔に覆われ、山の斜面と同化しかかっている祠は、まだ人間と付き合いのあったころに洛竹も見たことがあった。祠は神隠しに遭いやすいとされる場所に置かれ、神を祀る場所兼人間たちが注意する目印となっているのだそうだ。风息は足を止めると、「霊道だ」と言った。通る時、少しだけ身体に圧がかかる。通り過ぎれば元に戻るから心配いらない。
天虎と洛竹の顔を見ながら风息が言い、手本を見せるように指先を祠の横の斜面に滑らせた。斜面は风息の指から手首までを、なんの抵抗もなくすうっと飲み込んだ。
风息が手を戻し、大丈夫だろ?という顔でこちらを見た。
天虎の小さな身震いを認めて、洛竹がその手を取ってやる。一緒に行こうな、と言うと、弟が微かにうなずいた。
「虚淮、少し辛いかもしれないが、辛抱しろよ。すぐ過ぎるから」
风息が首を捻り、虚淮に話かける。洛竹も虚淮のほうへ視線を巡らせ、その顔を見て息を呑んだ。
「风息、虚淮が……!」
风息の背でぐったりしていた虚淮の顔の表面には、細かなひびが幾つも入っていた。近くで見ると、角にも亀裂があるのがわかる。少し力を加えたら折れてしまいそうだった。様子はといえば、規則正しく苦しそうな呼吸を変わらず繰り返している。耳元で呼びかけるが、誰が呼んでも反応がない。
「まずいな……急ごう」
风息が先頭を切り、洛竹が天虎の手をとって後へ続いた。
えい、と勢いをつけて、斜面に頭から突っ込む。一瞬の圧迫感に目を瞑ると、次の瞬間、目の前には一面緑の空間が広がっていた。
樹と苔に覆われた場所。植物の放つ濃厚な匂いと湿度。
乾いた風の吹く山道とのあまりの違いに、むせかえりそうになる。頭上で聞きなれない鳥の鳴き声が旋回していた。
「洛竹、こっちだ」
下から呼ぶ声に、洛竹と天虎は急いで苔だらけの岩場を駆け下りた。


11.精霊  (洛竹、天虎、风息、虚淮)

そこは、人間の造った建造物と巨大な森が融合した場所だった。
石造りの通路や巨大な石像、それらに覆いかぶさるように植物が繁茂している。まるで打ち捨てられた遺跡だ。
速足で风息を追っていると、突然足下でぽこん、と音がした。反射的に目を向けると、足元に精霊がぽこぽこと顔を出していた。気づけばあちらにもこちらにも半透明の精霊が浮かんでいる。
「精霊が、こんなに……
洛竹が見回すと、木の陰では小さな動物が不思議そうにこちらを覗いていた。
不揃いな階段を降り石橋を抜けると、その下方には水場があった。かつて人間が使っていたのだろう。切り出した石で大きく囲われている。溜め池のようにも見えるが、どこからか水が湧いているのか水は澄んでいて、木洩れ陽が底の石をゆらめかせていた。

风息は、足を止めて深く息を吸った。いつ来ても変わらない、湿度の高いむせるような空気だ。ここへは一人で何度か来ていたが、妖精の気配を感じたことはない。土地に住む妖精が本当に存在しないのか、それとも隠れているだけなのかわからなかったが、ともかく自分たちはこの森にとって侵入者だ。
洛竹たちが追いつくと、风息は天に向かって声を張り上げた。
「我が名は龍遊の风息。突然の無礼を許してほしい。仲間が弱っている。力を貸してくれないか」
それだけ言うと、风息は斜面を滑り降りて水の中に飛び込んだ。
しぶきが上がると同時にごうと風が渦巻き、辺りの葉が一斉にざわめく。陽の光が乱れ、それを水面が反射する。
覗き込む洛竹と天虎が呼ぶ声を背に、风息は構わずざぶざぶと、胸の高さまで満ちた水を切り開いていった。中央まで来ると、背に乗せた虚淮を前に抱え直し、仰向けにそっと浮かせる。水平に浮かんだのを確認し、頭を両掌で支えた。
頼む、助かってくれ。そう念じながら、风息は自らも周囲の樹々から気を集めて虚淮に送った。
虚淮は目を閉じたまま動かない。
気を受け取ることもできないか。そう歯噛みした時、风息の視界に精霊がちらと映った。精霊は球体のまま虚淮の頬に触れ、小さく弾んで、それから小さな欠片になって、きらきらと空気に溶けていった。顔を上げて見回すと、さっきまで遠巻きにしていた無数の精霊が陽の光を受けて浮遊している。それはまるで、水辺に遊ぶ蛍のようだった。
精霊は虚淮の周りを飛び交いふわりと近づいては、光を虚淮の身体にそっと預けていく。この光景を上から見たら、虚淮自身が発光しているように見えるかもしれない。
飛び込んだ時に跳ねた水が、紫紺の前髪を伝った。雫は水滴になり、虚淮の額にぽたりと落ちる。
ーーと、虚淮の目がゆっくり開いた。
「虚淮!大丈夫か?」
勢い込んで尋ねると、虚淮はゆるく瞬き、それから小さくああ、と返した。いつの間にか顔や角は元通りに治っていて、呼吸も落ち着いている。
水に浮かんだまま再び目を閉じ、全身で霊力を享受している虚淮の表情は穏やかだ。
「ここの霊力は、心地良いな」
掠れた声で呟く虚淮に、风息は胸がいっぱいになった。間に合った。助かった。
よかった、と安堵を伝えようとすると、横から派手な飛沫がバシャバシャと割り込んできた。洛竹だ。
「虚淮〜!良かったよーー」
洛竹は涙と鼻水で顔中濡らしたまま、浮かんでいる虚淮を構わずがばと抱きしめる。
次の瞬間、ざぶん、という音ともに大波が立ち、一同は頭から水を被ってびしょぬれになった。飛び込んだのは天虎だ。
穏やかな風が水面を吹き過ぎる。さらさらと若葉が揺れる。
水に浸かったまま泣いたり笑ったりしている妖精たちを、森の精霊がささやき交わしながら優しく見守っていた。


12. 離島 ( 虚淮、风息、洛竹、天虎)

水から引き上げた一同は、大きく太い枝をうねらせ伸ばし空を覆う大木の下の、柔らかい草の上に腰を下ろした。湿度の高い空気に、活き活きとした木々の放つ濃い緑の匂いが溶けている。太陽に温められたそれらが風に乗って吹き過ぎるのは、龍遊生まれの彼らにとって初めて知る感覚だった。初めてだが、ゆりかごのように心地よい。
意識が戻ったとはいえ本調子ではない虚淮は仰向けに寝転がり、風に揺れる緑の天井に目を細めた。小柄な身体を護るように风息が傍らに座り、反対側には洛竹が胡坐をかいて後ろ手をつき、見慣れない植物を指さし数えていた。洛竹の横では天虎が、早速仲良くなったらしい小さなけものたちをその身体に乗せ、彼ら同士にしかわからない言葉でなにやら喋っているようだった。

虚淮は、遠い日を思い出していた。
龍遊内での転地は何度かしたから晴れた日もあったのだろうが、記憶をたどると雨のものばかり出てくる。しのしのと柔らかく降る雨の中、小さな风息を負ぶっていった背中の重み。手を引いて歩いた、手のひらの熱さ。出かける前は激しくだだをこねるけれど、一旦発ってしまうと今度はむすっと黙り込む。乾いた寝床に辿り着くと虚淮に背を向け、横向きに丸まってふてくされたまま眠りについた。しっかり水を除いてやっても、目の下だけはいつまでも濡れていた。あの小さなきかん坊が自分を背負って歩いている、その事実がなんだか不思議で、つい笑ってしまったのだった。
そこからの記憶はあまりない。目が開けていられなくなり、話し声や森のざわめきも遠のいて、ああもう終わりなのかもしれない、という思いがすっと落ちた。心の中は穏やかだった。
大丈夫、昔とは違うのだから。この子は私を背負ってゆけるほど大きくなった。
洛竹と天虎もいてくれる。私がいなくても、もう十分に――
この手からすべてを離そうとした瞬間、暗闇の中から风息の声が聞こえた。怒鳴るような口調で、しかし哀願の響きがあった。足を止め、振り返る。かなしいことがあったのだろうか?側にいてやらなくて大丈夫だろうか?

そうして虚淮は、気が付いたら水に浮かんでいた。
地面にめりこみそうなほど重かった身体は軽くなり、抑えつけられるような胸の苦しさもなくなった。植物の根が水を吸い上げるように、足の先から頭の先まで心地よい霊力で満たされていくのを感じた。

木漏れ日でまだらに照らされた虚淮の周りには、少し遅れてやってきた精霊がぽつりぽつりと飛び回っていた。物珍しげにやってくる精霊たちはしばらく浮遊したのち、霊気を虚淮に分け授けると、ふわふわと再び浮遊する。隣に腰を下ろした洛竹が、その小さな灯を自分の手のひらに招いては、ありがとう、ありがとう、とにこにこ礼を言っていた。
「やっぱりここには妖精はいないって」
精霊から情報を集めたらしい洛竹が言った。けものたちからも同様の結果だったらしい天虎も隣で頷いている。
「ところでここはどこなんだ?」
「島だ」と风息が答える。洛竹が目を輝かして手を打った。
「島ってことは海があるんだろ?俺見たことないから見てみたい!」
俺もなにもここにいる者に海を見たことのある者はいない。虚淮だって、本能として理解してはいるがその目で見たことがある訳ではない。风息は立ち上がりながら、観光じゃないぞと言うと、真剣な表情で順々に皆の目を覗き込んだ。
「龍遊はもうだめだ。龍遊を出てここに住もう。水も森もある。大丈夫、きっと気に入る」
見上げた虚淮の目に、风息の両拳が映った。『大丈夫、きっと気にいる』は、かつて虚淮が使った台詞だ。龍遊を出ることが一番悔しいのは风息だろう。それが最善だと、皆に言いながら自分に言い聞かせているのかもしれない。
「水が駄目になったら、森だって時間の問題だ」
「俺は構わないよ。みんなといられるのならどこだって」
しばし风息の目を見つめ返してから明るい調子で洛竹が言い、天虎が隣で頷く。
「虚淮、どうだ?」
まっすぐ視線をよこす风息に、虚淮はゆるゆると身体を起こした。
「いいんじゃないか。ここは人間もいないようだ。静かで霊気に満ちている。おそらく暮らしやすい土地だろう」
「じゃあ決まりだ!寝床を探そう!」
言うが早いか、洛竹は天虎を連れて『探検』に行ってしまった。
茶色と黄色の後ろ姿が鞠のように弾んで見えなくなるのを見送る。
「賑やかなやつらだな」
でも、あの明るさには救われる。同じことを考えたのか、目の合った风息が息をついてにっこり笑った。
「虚淮、」
「なんだ」
风息は隣に座ると、虚淮の片手を取った。厚くて節のしっかりした手だ。大きくなってからはこうして手を繋ぐこともなかった。大きさは自分を越えたが、体温の高さは昔のままだ。
虚淮のつめたい手を両手で包むと、风息は小さく言った。
……おかえり」
「ああ、ただいま」


13.驟雨  (风息、虚淮)

 夜になっても湿度は高いままだった。
洛竹の見つけた洞窟は、森の中の斜面の中ほどにある。入口は狭いが中は横にも縦にも広く、とりあえずの寝床にするにはちょうど良かった。奥ではすでに洛竹と天虎が、自由な格好で大きな寝息を立てている。隣では虚淮が、いつも通りの仰向けの姿勢で静かに眠っていた。风息はまとわりつく湿気になかなか慣れず、何度目かの寝返りをうった。ぎゅっと目を閉じると、聴き慣れない虫と蛙の大合唱がやけに耳につく。
ようやくうとうとしかけたところへ、突然滝が落ちるような轟音が響いた。风息は飛び起きてとっさに洛竹と天虎を見遣るが、全く気付いていないのかびくともしていない。隣を見ると、虚淮の寝ていた場所は空になっていた。
音は洞窟の外からだった。耳をぴんと立て警戒しながら入口まで這い出ると、外の光景に风息は唖然とした。轟音の正体は、強く烈しく地面を叩きつける大粒の雨だ。ごうごうと容赦なく、生ぬるい強風が周囲の樹々を幹ごと揺さぶる。地面だったところはすべてが川になって、下へ下へと押し流される。雨というのは、风息が知る限りもっと静かなものだ。龍遊にも大雨が降ることはあったが、一瞬でこんなに多量に降ることはない。しかも雨が冷たくない。こんなぬるい滝のような雨は初めてだ。虚淮なら判るだろうか?――そうだ、虚淮。はっと思い出して見回すと虚淮は思いのほか至近に、入口の横に張り出した大きな枝に座っていた。ぶら下がったずぶ濡れの足が目の前にある。
「虚淮!何してる、こんな雨の中で」
手のひらで目を庇いながら、斜め上の虚淮に怒鳴る。怒っているのではない。そうでもしないと雨音に負けてしまうのだ。ついでに雨粒も鉛玉のように痛い。こころもち上を向いて全身で雨を受け止めていた虚淮は、こちらを向いて言った。こんなに気持ちのいい雨は久しぶりだ、と。

「寝苦しいのか?」
洞窟に戻って余計な水を抜きながら虚淮は言った。风息は首を横に振り、虚淮こそ、と返す。確かにこの暑さには慣れない。寝苦しいといえば寝苦しいが、それよりこの気温に湿度。虚淮の氷の身体は大丈夫なのだろうか。
「この程度で溶けるほどやわじゃない」
胡坐をかいて外を見ている风息の隣に、虚淮がすとんと座った。虚淮の隣にいると、少し呼吸がしやすい気がする。ひやりと清涼な空気が虚淮を中心に拡散され、喉や肌が焦がれていたそれを喜ぶ。まるで龍遊のようだと。
いつしか雨の音は遠のき、风息は虚淮とふたりで真空にいるような錯覚に陥った。まるでまだ幼いころ、ふたりきりで雨に閉じ込められたいつかのようだ。
「龍遊に、居られなくてごめんな」
片膝に腕を乗せ、そこへ頭を乗せたまま呟くと、虚淮はよくわからないという顔をした。
虚淮は风息が生まれるずっと以前から龍遊に住んでいる。たかだか百何十年の自分でさえこんなに胸が痛むのだから、故郷の地を離れることは虚淮にとってはさぞ辛かろう。ここに来ることを拒んだのは、そういうことだと理解していた。……のだが、なんだか噛み合っていない気がする。
本当は来たくなかったんだろう?あの時渋っていたから。そう続けると虚淮は、いつもの良い姿勢のまま风息の目を真っ直ぐに見、気にするな、と言った。
「あのまま果ててもいいと思っただけだ」
む、と眉を顰める风息に構わず、虚淮は淡々と続ける。
「お前の言った通り、水が駄目になれば森も時間の問題だ。その環境のせいでいずれお前や洛竹や天虎も苦しむことになるなら、今のこの移動は最善だ」
风息は眉を寄せたまま頬を膨らませた。
「合理的だな、虚淮は」
それは虚淮らしいといえばとてもらしい意見だった。自分の限界も相手の力量も、自分の置かれた状況も未来の展望も、虚淮はいつも正確に把握して冷静に判断をする。今自分はどうするべきか。踏み込むのか。引くのか。挑むのか。逃げるのか。かつて龍遊最強の妖精と呼ばれた虚淮をここまで生き延びさせたのは、おそらくこの判断力だ。そしてこの判断力に生かされたのは自分だった。転地のたびに风息は嫌がった。諦めきれずに黙ってこっそり以前の住まいを見に行って、丸裸になった景色を前に愕然としたことも一度ではない。
(そうはいっても……
長年過ごした地への郷愁も、追いやられたことへの悲嘆も全くない様子で泰然とした虚淮に深いため息が出る。いや、虚淮にではない。自分にだ。自分の方がよほど愁嘆しているのだということに改めて気づかされる。
あああああと言いながら毛量の多い頭をがしがしとかきむしる。両手で頭を抱え両膝に顔を埋めると、後頭部にひんやりとした手が差し入れられた。
虚淮の手が、獅子のような頭を二度三度と往復する。子の頭を撫でるというより、大型動物をあやすような手つきだ。风息が黙っていると、しばらくして虚淮が风息、とぽつりと言った。
「すまん。感謝する」


14.龍神の子 (虚淮、风息)

风息の髪は量が多い。たてがみにも似た紫紺の毛髪はふわふわと柔らかく、空気を含んで広がっていて、なおかつあちこち跳ね返っている。今よりもっと細く柔らかかった頃は、よくこうして威勢の良いくせ毛を撫でてやった。好奇心旺盛に山を駆け回る风息の頭は、いつでも森と土と陽なたの匂いがしていた。
隣に座る风息は、頭を垂れてうなだれている。暑さと湿気と落胆で髪の毛までしょげているようだ。触れると汗でじっとり湿っている。掻き回すように撫でてやると、顔を伏せた両膝の下からくぐもった呻き声が聞こえた。
虚淮は撫でていない方の肘を膝につき、片手を顎に当てて思案した。
(果ててもいい、はまずかったか……
真実ではあったが、自分を背負い連れてきてくれた风息に言うべきではなかった、かもしれない。
「すまん。感謝する」
虚淮は自分の失言を詫びた。

「虚淮を、龍に戻してあげられなかったな」
眠くなったという风息に付き合って奥に戻ると、寝転がった风息が上を向いたまま呟いた。昔約束したのに、と。
「なんの話だ?」
「覚えてないか?」
思い当たらず首を傾げると、风息は自分の腕を枕に横を向いて言った。前に教えてくれただろう。虚淮は昔、龍遊の龍だったって。
言われてみればそんな話をしたかもしれない。风息の原型が豹ならば虚淮の原型は?と聞かれて昔話をしたのはいつだったか。
虚淮の原型は龍だった。
かつて彼の地を流れていた大河で生まれ、霊力に溢れた森に暮らしていた。山から谷へ流れる激流と、なだらかな平地をゆく緩流とを住処に、嵐に呼ばれては空に遊び、凪の川床では魚と戯れた。それはそれは大昔の話だ。
地殻変動と土地開発によって、住処の川は徐々に狭く浅くなっていった。川が小さくなるにつれ、龍の姿は維持できなくなり、やがて虚淮は今の格好に落ち着いた。
『龍になれるの!?すごい!かっこいい!見せて見せて!』とせがむ风息に首を振って訳を話し、だからもう龍には戻れないのだと告げると、幼い风息は目に涙をためながら言った。
『じゃあ俺が、大きくなって強くなったら、虚淮を龍に戻してあげる!』
风息が大きく強くなることと虚淮が龍に戻ることは全く繋がらなかったが、风息の気持ちが嬉しかったので、虚淮は黙って风息を膝に乗せて涙を拭ってやった。涙というのは熱いのだな、と思ったことを思い出す。
「そんなこともあったな」
「あったな、って!!」
思ったままを言ったらそう咎められた。
「別に、戻れなくても支障はない。このほうが小回りが利くし……この姿もなかなか気に入っている」
嘘ではない。虚淮は過去にこだわらない。虚淮にとって過去とは、単純に『そういうことがあった』というだけのものだ。過ぎ去った時間は戻らない。焦がれることはないし、胸が痛むこともない。自分の姿かたちについても同様だった。かつて龍だったことがある。それだけのことだ。それ以上でも以下でもない。
しかしこの思考は、もしかすると自分が水に由来するものだからなのかもしれない。川は地形の形に添って流れる。寒ければ凍り暑ければぬるむ。温められれば雲になり冷やされれば雨になる。周りによって形を変えるが本質は変わらない。氷の妖精である虚淮はもう何百年とそうして生きてきた。
世界は常に変わっていく。それに合わせて己を変える。在り方を変える。それでももし、変化を極めた世界が自分は存在できない世界ならば、その時はこの生を終わるまでのこと。
虚淮にとってはごく当たり前のことだったが、しかし风息にとっては違うようだった。
隣でごろごろしている风息を見つめていると目が合った。
「虚淮、手、かして」
片手をくれてやると、风息はその手を取って自分の額に当てた。んー、と目を閉じて冷たさを堪能している様は、ほんの子どもの頃と変わらない。虚淮は目線を洞窟の天井に戻して続きを考えた。
风息は故郷にこだわる。かつてを佳しとし、過去に焦がれる。仲間を欲しそれを守りたがる。虚淮に理解できないそれは、彼の性質に由来するのかもしれない。木は土地に根付く。土を離れては生きられない。獣には縄張りがあり、ともに生きる仲間が必要だ。
理屈はわかるが、現実は厳しかった。生きていくには目をつむることも必要だ。そうしなければ、この複雑極まる世界ではとても生きていかれない。
そして、风息が虚淮に生きてほしいと願ってくれたように、いやそれ以上に、虚淮も风息に生きていてほしかった。
风息、と顔を横に向けて呟く。
「私は気にしてない。だからお前も気にしなくていい」
ふ、とこちらを向いた深い紫の瞳は、吸い込まれそうな夜の色だ。満天の星を浮かべる暗くて優しい闇の色。まっすぐ見つめるその光は、自分の薄氷のようなガラス玉に比べて、なんと強い。
「森羅万象はすべて移り変わりゆく。住めなくなったら場所を変える。姿を変える。それは自然なことだ」
いつのまにか虚淮の手は风息の片手に収まっていた。相変わらず熱い手だ。
俺は嫌だ、と风息は言った。低く穏やかな声音は、かえって取りつく島がないように響いた。
「俺はまだ、諦めたくない。川も森も仲間も、これから生まれるはずの仲間たちも」
虚淮はその顔を見てはっとした。
风息はもう小さな子どもではなかった。
求められて繋いだ手はいつしか離れ、そして気づけば差し出されていた。成長の嬉しさと離れてゆく寂しさの混ざった不可解な感情が胸を焼く。
失くしたもの全部、俺が取り返してやる。俺と一緒に来てくれないか。紫紺の眼差しがそう問いかける。虚淮は黙ってそっと目を閉じた。

世界は常に変わっていく。
それに合わせて己を変える。在り方を変える。
そうやって生きてきた。
これまでも。これからも。

わかった、と虚淮は小さく言った。
「お前に救ってもらった命だ。まだしばらくは、お前とともに在るよ」


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