館に捕縛された後の映画後虚淮妄想。
冠萱、逸風、潘靖、哪吒、虚淮
ツイッターにてSS文庫メーカーで連作していたもののテキストまとめです。
※虚淮過去大大大捏造、400歳超過設定、前作前提箇所あり。
※殺伐とした虚淮がいます。ご注意ください。
※誤字のみチェック修正済(漏れてたらごめんなさい)
@satomi8429
1.執行人
業務終了時刻はとうにすぎ、仕事場にはもう誰もいない。まもなく落ちんとする太陽の残光が薄く射す室内には、ただ時計の秒針の音だけが規則正しく響いている。
開かれたノートパソコンは随分前からスリープモードに入っており、その黒い画面の前へ雑に広げられた幾つかの書類に何度目かの溜息が落ちた。中の一束を取り上げる。書類の一番上に書かれた「虚淮」の文字を認めると、冠萱は考え事をするときいつもやるように、右手の人差し指を鼻に当てると下を向いて目を閉じた。
自分に課されているのは「虚淮の量刑について」である。無論いち囚人の量刑が自分の一存で決まるわけではないが、読心ができ執行人としての経験も長く妖精館の館長補佐として業務を担っている者の判断は重要視される。公平であることを信条としている自分としても、ここはできるだけ公平で正しい判断をしたいと思っているところだった。
館の法は人間社会の法とだいぶ異なる。「妖精を殺さないこと」「人間に害を与えないこと」「人間に正体を明かさないこと」。もっとも、人間に害を与える=正体がばれる危険が上がる、という意味合いなので、大きく言えば「妖精を殺さない・人間にばれない」の二つということになる。ここがどうだったのかが量刑に反映されるし、どんな複雑な事件も基本はここに立ち返る。このざっくりとしたルールは、罪人のためだけでなく一般の妖精たちのためでもあった。
館は同胞である妖精に対して暴力で屈させるようなことは極力しない。痛めつけて思い知らせ、更生させたいわけではないからだ。個々の妖精を尊重する。これが妖精館の、表向きの看板だ。
妖精の寿命は長い。たとえ罪人であっても、館のやりかたが本人を尊重したものでなければ、いつか釈放された罪人が叛乱を起こしに来るだろう。館が憎まれてしまっては、結果として人間に害が及ぶ可能性が高い。人間に害が及ぶ、それは即ち妖精全体の危機だ。人間は自分たちとは異質な少数の種族を決して許容しない。そんなものは人間の歴史を俯瞰すれば一目瞭然だった。だから館は、人間からも妖精からも恨みを買わないよう慎重に動く。同時に、人間と妖精の諍いのみならず妖精同士の争いにも目を光らせる必要があった。今回のことは风息の人間への憎悪が発端と思われがちだが、実のところは妖精同士の摩擦だと冠萱は見ていた。あれは风息一味の、妖精館に対する、崖っぷちからの挑戦状だった。
手にした書類には、虚淮の罪状と過去の履歴が米粒のような字で書き連ねてある。四百年越えの履歴のある妖精は珍しくはなかったが、その内容は濃いと言っていいのか薄いと言っていいのか、ともかく判断に悩む内容だった。加えて冠萱を悩ませているのは、周囲からの苦情だ。
量刑が決定するまで、罪人は館預かりとし、調査と審査ののち氷雲城に送られる。館にいる間は厳密な監視体制で霊力を制限し、術を封じておくのが常だ。術を発動しようとすればすぐさま、足枷から伸びた鉄球に力を吸収されてしまう。牢の窓と扉には特殊な術が施され、生命維持に必要な一定の霊力のみを保持するように調整されている。
にも関わらず、虚淮は世話人だろうと調査員だろうとかまわずに、館の妖精と接触するたびに術を発動しようとする。術は制限されているにも関わらず、だ。制限によってその出力は抑えられているが、それでも虚淮の周囲には冷気が充満し、足元が凍り、鎖を霜が覆う。暗闇に光る眼光と、冷気が這い上がりカタカタと鳴る鎖の音は、力の弱い妖精ならば震え上がるに十分だった。
手荒な真似はしたくなかったが、虚淮の力を抑えるため、館側はやむなく拘束を強化した。しかし夜に術を追加しても、翌朝行くともう彼の周りは凍っていた。翌日も翌々日も牢は凍り、その度に拘束が増えていった。鏡のように凍った地面が無表情の囚人の顔を映す。鉄球は大きいものに変えられ、扉と窓には強化のための呪符が貼られ、手枷が追加された。
これは館に対する反抗だ、という者もいた。やはり危険人物だと。しかし反抗の割には逃げようとする素振りがない。ただ霊力を誇示するのみだ。これだけの霊力があれば、脱獄だって試せただろうに。
ーーそして、先刻の彼とのやり取り。
冠萱は両手で自分の頬をぱちんと叩いて肩を上下させ強いため息を吐いた。
過去の振る舞いと今回の罪状と現在の態度。
全部合わせて、本人も周囲も人間も納得する結論を出さねばならない。
いつのまにか太陽はすっかり沈み、窓の外ではまばらな星が雲間から遠慮がちにまたたいていた。
2.治癒者
「まだお仕事ですか?」
そろりと扉を開け小声で声をかけると、飛び上がる勢いで驚かれ、驚かれたことに驚いた逸風はあやうく手に持ったお茶をこぼしそうになった。
「な、なんだ逸風か……」
「やっぱり冠萱さん!」
驚きすぎて振り向きざま机に後ろ手をつく形になった冠萱と、両手に紙コップを持ったまま飛びのいた自分が同時に言う。すみません、と反射的に謝りそうになって、すんでのところで飲み込んだ。なんでも自分から謝るものではないよと、以前やんわり注意されたことを思い出したのだ。代わりに、どうしたんですか?と相応しそうな言葉を乗せる。どうしたんですか、こんな時間に。
「うーん、ちょっとこの前の事件のことでね」
頭を掻きながら冠萱が濁す。この前の事件とは、风息一派の反乱のことだろうか。龍遊市の人間を大量に巻き込み、総本部まで駆り出すという大騒動。逸風も、小黑をはじめ関わった妖精および人間たちの治療に奔走して忙しかったが、館長補佐であり記憶操作の能力を持つ冠萱とは、多忙さは比ではないだろう。
「お疲れ様です。よかったら」
手にしたお茶を差し出すと、用意がいいなと冠萱が笑った。
お邪魔だったらすぐに退散しますから。そう言うと冠萱は少し考え込み、それから「いや」と呟いた。隣の椅子を引き視線で座るように促すと、なんの前置きもせずに言う。
「虚淮のこと、どう思う?」
虚淮。事件の共犯者の、氷の妖精。名前は聞いているが、逸風はまだ一度も接触したことがなかった。が、あの日虚淮と対峙した妖精たちからの話は聞いていた。
「恐ろしい妖精だよ、奴は」と言ったのは、虚淮と最初に対峙した妖精だ。
出動時、実働部隊の執行人は全員相手の名前と属性を知らされた。アナウンスの際、氷属性の虚淮に当たったら、すぐに救援要請しろという指示があった。ひとりでは無理だから束でかかれということだ。実際束でかかっても無理だったんだがな。
そして虚淮を追った執行人たちは、みな口をそろえて「対峙した瞬間、背筋が凍った」と言う。氷の眼光に射抜かれ、身動きが取れなくなり、かろうじて後を追ったが、彼が振り向き水を掛けられたと気づいた直後、もうすでに氷に閉じ込められていた、と。そして驚いたことに、逸風が念のため診療した彼らの身体は、凍らされたにもかかわらず、ただの一人の例外もなく、なんの変化も異常もなかったのだ。
「僕は会ったことがないので多くは言えませんが」
恐らく求められていることーー専門職務視点からの事実を口にする。
「彼は、結果的には妖精を、傷つけていません。あのまま哪吒様が来なかったら、わかりませんでしたけど」
ぽつりぽつりと言うと、冠萱は目を見て無言で頷いた。常から聞き上手な冠萱に促されるように、逸風は疑問を口にする。
「虚淮は救援要請の対象だったんですよね。危険人物とされる何かが、以前にもあったんでしょうか?」
「うん。管理のためのデータベースがあってね。虚淮のはこれなんだけど」
冠萱がパソコンを引き寄せ、スリープモードを解除する。カチカチとパスワードを入れる音が静かな室内に響き、人工的な白い光が四角く二人の顔を照らした。
「いいんですか?僕が見ても」
機密情報ではないのかとドキドキしていると、冠萱が悪戯っぽく唇に指を当てた。
「書類はだめだけどこっちなら構わない。内緒だけどね」
これだ、といって示された画面には、妖精の名前がずらりと並ぶ中、赤で書かれた虚淮の文字があった。そこを指定しファイルを開くと、そこには細かい字で記された過去の記録が広がっていた。過去数百年分の虚淮の履歴だ。
「彼は、執行人幹部の間では『逃げの虚淮』と呼ばれていてね」
冠萱はパソコンを逸風に譲ると、不思議な通り名を口にし、背もたれにもたれてお茶を啜った。
「ずっと以前から、館は龍遊の妖精に交渉をしていたんだ。幾人もの妖精との間で交渉が成立したり決裂したりする中、虚淮は館の提案をかわし続けていたんだ。でもね、彼は強いけど、他者を害することはなかった。強引に住処を奪われそうになった時だけ、その氷の力が発動された。ーー強引な手を使う執行人も、かつては少なからずいたからね。で、その時は一帯を一分の隙もなく氷漬けにして、執行人も凍らされるんだけど、すぐに氷は解除されて、周辺環境にも執行人にも被害らしい被害は残らない。ただし、執行人が我に返った時にはもう虚淮はいなくなった後なんだ」
冠萱は淡々と語る。初めて聞く話だった。
「実力は確かだが、館に迎合しない代わりに人間への不必要な介入もしない。手出しは逃げの一手のみ。だから館も、中途半端とわかりつつも、その状態を容認していた。人間に手出しをせず静かに暮らしているならば、そのままにしておいてもよかろうと、害のなさゆえに放置していたんだ。ただ、あの実力の虚淮が敵に回ったら渡り合える妖精はどれだけいるかわからない。そういう意味で、今回は『救援要請対象』とした」
話を聞きながら画面を流し見る。確かに事件はいくつかあったが、どれも死傷者ゼロ、本人は逃走、となっている。冠萱の話と対峙した執行人の様子が繋がった。住処を追われて別の場所へ別の場所へと逃げのび、ひっそり暮らしていたのだろうか。話を聞いた限りでは、悪人のようには思えなかった。しかし、そんな人物が今回はなぜ。
疑問を隠さず眉をひそめると、冠萱が両手で紙コップを包んで続けた。
「過去を見るに、虚淮が本質的に攻撃的な妖精とは考えにくい。风息が現れるまで、彼は人間とは関わらずに静かに暮らしていたのだから。だが、风息の行動が目立ってきた時から、风息の背後には必ず虚淮がいた。これも調べがついているんだ」
风息の背後に、という言葉に思わず冠萱の顔を見る。
「……逸風はどう思う?この一件は、风息が虚淮を唆していたと思うか?もしくは、虚淮が风息を煽動していたと?」
「本人はなんと言ってるんですか?」
そこがわからないと何もわからない。尋ねると、冠萱が額に手を当てて天井を仰いだ。
「口にする言葉が不穏なんだよね」
「不穏?」
「具体的には言えないけど」
「それなら聞きませんけど」
「不穏な言葉を鵜呑みにするなら相当な危険人物だ。捕縛され術力を抑えられてなお術を使おうとするところも、どんなに拘束を強化されても出力をやめようとしないところも、敵意があると判断しようと思えばできる。しかしかといって脱獄しようとするわけではない。過去の様子を鑑みても、危険な個体とは考えにくい。ではなぜそんなことをするのか。本当の動機がよくわからないんだ。风息がどんな存在だったかが鍵になるのかもしれないが」
らしくもない物の挟まったような言い方だ。逸風に何かを教えようとあえて問いかけてるのではなく、本当に悩んでいるようだった。返事に困っていると、冠萱が語調を変えた。
「量刑の決め方はね、過去を罰することよりも、『この人物をどう処するか』に重きを置くんだ。より良い未来を目指す必要があるからね。虚淮に関して言えば、確かに危険な実力の持ち主だが、彼の動機が判然としないうちは安易に決められない。……難しいね」
「状況だけ見ると虚淮に不利なように感じますけど、」
手にした紙コップの中身がわずかに揺れる。明快な助言はできないが、ひとつだけ、今の自分に言えることがある。恐らく、今この人に必要なことだと。
「冠萱さんに違和感があるなら、それは大事にした方がいいと思います」
直面した本人に違和感がある時は、それを見ぬふりで突き進まない方がいい。これは治癒力を持つ者としての勘どころだ。
「……館長に相談、じゃないですか?」
「うん、そうだろうね。明日話してみるよ」
そう言って頷いた冠萱は、険しさの漂う表情からいつもの温厚な表情に戻っていた。
「愚痴を聞かせてすまなかったな。ご飯は?お詫びにおごるよ。なにが食べたい?」
「そうですね、ビタミンとタンパク質、あとカルシウムがしっかりとれるところがいいですね」
「……逸風、それは何チョイスなんだい?」
「冠萱さんに不足しがちな栄養素です」
パソコンを返しながら言うと、乾いた笑いが部屋に響いた。
3.管理者
直後の後始末はあらかた終え、地上では偽りの記憶を植えられた人間たちが復旧作業に勤しんでいる。ここから先は、その後の措置を上層部で詰め、段取りをして部下へ割り振り、各々の采配ののち、各所からの物音が途絶えたところで収束となる。……という流れを想定しているが、現状は、総本部および市長と会談し、取り敢えずの合意を得たばかりの段階だった。内部でくすぶる火種をひとつひとつ潰しつつ、人間たちには蓋をしたから信用してくれと請わねばならない。今回はことに、そこに骨を折る作業になるだろう。まずは火種の処理を急がねばならない。そこが終わらないと、『蓋をした』ということにはできないからだ。
潘靖は一人執務室に座し、一人分ずつに束ねられた調書を眺めた。今回の事件の犯人たちのものだ。離島に隠れ棲んでいた木属性の妖精と火属性の妖精、市内に住んでいた土属性と心霊系の妖精の調書は、有能な部下の手であらかた完成していた。
ぺらぺらと紙をめくりながら思案する。风息と切り離した状態であれば、彼らにそこまでの危険はないだろう。それなりの再教育は必要だが、その上で相応の刑期を終えれば、穏当な対応で問題なさそうだ。無論監視はつけなければならないが。問題は――。
こめかみを二本の指でとんとんと叩き、閉じた目を開けると同時に扉が鳴った。
ゆっくりと二回、重く低くノックをするのは部下の冠萱だけだ。返事をすると音もなく扉が開き、予想通りの黄色い上衣が覗く。
「館長、ご相談が」
「これのことか」
手にしたひと束を持ち上げると、冠萱はさすがですね、と微笑んだ。
信頼する右腕である冠萱が作った調書は、その作り手の性質を写したように、いずれも様式に則ってきっちりと仕上がっていた。その中で一部、虚淮のものだけが様子が違った。文字の多い箇所と少ない箇所がばらつき余白が多い。書き手の迷いをそのまま表現したような紙面を、潘靖は本人へ示した。
「虚淮はどうしている」
そのことでお話が、と冠萱が切り出した。落ち着いた声のトーンはいつも通りだが、表情が曇っている。眉間にしわの跡があった。冠萱は相対する椅子に腰かけると、両手を膝にのせて言った。
「今虚淮は、右足の鉄球、両手首の拘束と、牢内の術の強化で縛してあります。ですが未だに執行人への威嚇をやめません」
その話は聞いていた。術を制限しているにも関わらず牢を凍らせ、それを抑えるために日に日に拘束を強化されている。しかし、監視カメラの映像では、執行人が近づいた時以外は大人しく座っており、脱獄のそぶりなどもないという。冠萱の言う『威嚇』も、術の発動はあるもののその場に座ったままであり、暴れたり暴言を吐いたり相手に危害を加えるわけではないらしい。やはり威嚇なのだろうか。潘靖はゆっくりと頷いた。
「書類に書いた通り、実力は凄まじいですが、過去の行動から攻撃性の高い個体とは考えにくいです。今回の件も、虚淮は最終的に誰も傷つけていないという話を逸風から聞きました。執行人が近づいた時以外の態度は模範囚と言って良いでしょう」
執務室の窓を風が叩き、風の音と共に硝子がカタカタと揺れた。雲上の空は常に快晴だが、今日は風が強いようだ。机の上で両手を組む。冠萱が続けた。
「ただ、態度だけでなく事件についての供述も、なんというか……不穏なんです」
「不穏?」
はい、と冠萱が続けた。
冠萱によれば、虚淮の主張は「事件はすべて自分が仕組んだ」というものだった。意外だったのは、仲間であり主犯の风息を揶揄するような言葉だ。虚淮は「あいつが失敗したからこんなことになった」と言ったという。
「あなた方は離島で一緒に暮らしていた。人間でいうところの家族のような親密さだったのではないか」
冠萱が問うと、虚淮は氷柱の先を尖らせた鋭利な刃のような冷たい視線を冠萱に向け、それから口元だけでにやりと笑んだ。
「ああ。あいつらを育てたのは私だ。幼い妖精に、私を信頼し人間を憎むように仕向けることなど造作のないことだ。……无限が小黑にしたようにな」
それから虚淮は笑みをすっと消して視線を外し、风息が失敗しなければ龍遊は我々の手に取り返せていたはずだったのだ、と苦々しげに吐き捨てた。
「それは真実なのですか」
重々しく食い下がる冠萱を虚淮が睨みつける。
「無論だ」
「本当の事を言って頂ければ、あなたを早期に釈放することも出来るかもしれませんよ」
「私が嘘を言っているとでも?」
淡々とした虚淮に、冠萱も真顔でいいえと差し返す。いいえ、確認です。
虚淮が鼻で笑った。釈放か。この世はお前らの天下だな。
部屋の空気が重く感じ、胸の裏側がざわざわと波立つ。動揺を悟られてはいけない、と冠萱は唇を引き結んだ。虚淮は犬歯を見せてこう言った。
「それは願ったりだ。だが止しておいた方がいい。釈放されたら、お前らの大事な龍遊を氷漬けにしてしまうだろうからな」
読心は試したのか?と潘靖が問い、冠萱はゆるく首を振った。
「やってはみましたが、何も」
覗き見た虚淮の意識は茫漠とした氷河に吹き荒ぶ吹雪だった。無彩色に埋め尽くされたさびしい光景は、思わず腕をさすってしまうほどだ。そしてそこには、なんの思考も読み取れなかった。
ふむ、と潘靖は胸の前で腕を組んだ。
「確かに不穏だな」
来歴と被害状況を見る限りでは――そして风息が不在の今ならばーー酌量の余地はあるように思える。ただ、執行人に対する態度だけは、冠萱の言うようにだいぶ物騒だ。
「正直判断に困っています。最善を選びたい」
苦い顔で冠萱が言う。
「勿論だ」
潘靖は顎の下で両手を組み、目閉じて思案した。ここで言う最善とは、妖精全体にとっての最善だ。今はなによりも大局を見る必要があった。
风息亡きあと、虚淮の量刑には大勢の妖精が注目している。特に洛竹・天虎ら離島の仲間に納得してもらうことは重要だった。館が彼らの反感を買う決定をした場合、再反乱という形で、妖精全体がまた危険に晒されるリスクが高い。それでなくとも、彼らは館の方針を全く知らず、ネガティブな面のみを刷り込まれてきた可能性がある。再教育プログラムは実施するが、そもそもそこを地盤から変えようとすること自体が受け入れられないことも想定される。また、表向き館に協力しているものの、内心では土地を人間に明け渡し、隠れて生きねばならないことに不満に感じている妖精はそこそこの数いるだろう。彼らも息を潜めて様子を伺っているはずだ。できる限り穏当な手段である必要があった。一方、人間についての示しというものもある。市長と幹部数人には、大規模な事件の事後処理をしてもらっている手前もあり、妖精館側はきちんとすべきことをしている、再犯の可能性はない、と示さなければならなかった。
双方の納得が肝要だ。
「正しい判断が必要だな。審議不十分のまま刑を決めれば、仲間の洛竹や天虎、それに风息に心を寄せる他の妖精達の反発を招きかねない」
潘靖は息をついた。虚淮が不穏な言動をしているとしても、それだけで重刑と判ずることは避けるべきだ。ことに、この実直な部下が煮え切らない状態であるならば。
「冠萱、何を迷っている」
腑に落ちない原因は何かと潘靖は問うた。
「不穏な言動を、鵜呑みにしてはいけない気がして」
「あの言動はパフォーマンスということか?」
何のために。虚淮が殊更に自分を危険視させようとする真意は。
冠萱は考えあぐねた様子で目を伏せ視線を彷徨わせている。潘靖は一旦仕切るように語調を変え、机の上で掌を合わせた。
「質問を簡単にしよう。冠萱は、虚淮を見てどう思う?」
冠萱はしばらく下を向いてから顔を上げ、印象ですが、と前置きして言った。
「私には、子を逃がすために必死で敵を引きつける、手負いの獣のように見えます」
「わかった。私が話を聞こう」
潘靖は椅子を引き、立てかけていた杖を取った。
4.観察者
冠萱が逸風の元を訪れた時、逸風は扉に背を向けて座り、紙とペン代わりのタブレットに、先ほど経過フォローをした妖精の記録を入力しているところだった。
逸風の詰めている部屋は、館の居住区域と職務区域のちょうど真ん中にあった。広めの部屋には寝台がいくつかあり、それぞれカーテンで仕切られている。妖精は基本的に怪我も病気もしないが、職務中に攻撃を受けて弱ったり不調をきたすこともある。そういう者たちを回復まで面倒見るのがこの部屋だった。隣には小部屋があり、診療に使う道具と予備の寝具とカルテを保管するパソコンが置いてある。以前は書類が山と積まれていたが、最近は電子化が進んで快適になった。積み上げた紙の雪崩を気にしたり、古い記録をないないと探すことが減ったのでとても助かっている。
もっとも紙から電子への移行の時はそれはそれは大変で、それこそ繁忙期の冠萱さんのごとく連日の深夜業をこなして目の下にクマを作っていたけれど。そういえばその時も冠萱さんは普通の顔で夜中に立ち寄っては、夜食にしようか、とカップスープとおにぎりなんかを差し入れてくれていた。こころなしかうきうきしたような空気を感じたけれど、あの人にはあれが日常だったのだろうか。仲間を見つけて楽しくなっていたのだとしたら。もしくは夜中のヤケクソハイテンションだったのか。いやいや、きっと連日バタバタしている自分を気遣ってああして声をかけてくれていたんだ。きっとそうだ。……どちらかというと後者であってほしいというのは逸風の希望であったのだが、逸風は無理やりそう結論づけた。
軽いノックに続いてそっと扉が開く気配を感じ、逸風は椅子ごとくるりと振り返った。
「あ、冠萱さん。どうかしましたか?どこか具合でも」昼間に来るのは珍しい、と思いながら言うと、冠萱は人差し指を口の前に立てて唇で笑みを作り、静かにと示してから着いてくるように言った。
どこへ行くとも何をするとも言わず、無言で進む冠萱について妖精館の回廊を行く。すれ違う妖精に声をかけられれば軽く返し、挨拶されればにこやかに会釈をしていたが、それ以外は無言を貫く冠萱に、逸風はいぶかしんだ。もしかして何か怒っているのだろうか?さっきは笑顔だったけれど、もしかして自分が何かやらかしてそれを叱られるんだろうか。特に最近は何かした覚えはないのだけれど。ここ数日の自分の挙動を振り返りながら悶々と歩いていると、いつのまにか生活エリアも仕事エリアも抜けた、ひと気のない廊下に出ていた。
「あの、冠萱さん、一体どこへ」
堪りかねて恐る恐る声をかけるのと、入り組んだ廊下の突き当りに行き着いたのが同時だった。行き止まりだ。冠萱が懐から何かを出し、壁に当てると、ぴ、という音とともに壁だと思っていた場所が左右に開いたので、逸風は思わずええええ!?と飛びのいた。振り向いた冠萱と目が合い、冠萱がくすりと笑う。
よかった、怒ってはいなさそうだ。驚きと安心を同時に感じながら、逸風は促されるままに扉の中に飛び込んだ。
狭い箱の中に二人で乗る。扉が閉まると垂直に下降していく身体感覚があった。これはエレベーターなのか。それにしても落ちるスピードが速い。そして長い。驚いてキョロキョロする逸風に、冠萱がようやく口を開いた。
「龍遊妖精館には地下がある。中空に浮いているのだから地上も地下もないのだけど、便宜上地下と呼んでいる。隠し扉から下は外からは見えず、その存在を知っている妖精もごく一部の幹部のみだ」
そんな場所に自分が行く意味とは。
「そこには、なんらかの咎を受け詮議の済まぬ妖精を収監しておく牢がある」
牢。なんのことだかわかるだろう?と冠萱が目で言い、逸風は唾を飲みこんだ。箱が落ちるのをやめ、がくんという軽い衝撃ののち扉が開いた。
箱を出、その光景に眼を瞠る。目の前には格子のついた透明な扉があり、その向こうに薄暗い空間が細く長く続いていた。長閑な風景ばかりの妖精館の中にあって、ここは明らかに異質な雰囲気だ。夕立の直前の空のような暗さ。痛いほどの静寂。じんわりと空気が重いのは、湿度があるせいだろうか。なんとなく息苦しい気がして、タブレットを抱えたまま反対の手で服の首元を引っ張った。
見回していると、冠萱が向き直り、「突然連れ出して悪かったな」と言った。その声はいつも通り穏やかだったが、表情は僅かに硬い。そういう自分もだいぶ緊張しているので、それを映してしまっているかもしれない。驚かせてすまない、と冠萱が言った。
「館長が、虚淮と面会をする。逸風にも立ち会ってもらいたい」
虚淮と館長が。やはり昨日の話だった。館長が面会することになったのか。しかしなぜ自分が。了解の頷きを返しながらも頭には疑問符が浮かぶ。何をすればいいのだろうか。無言の問いを受け取ったのか、冠萱が続けた。
「逸風に頼みたいことは虚淮の視診だ。これは館長の指示でね」
視診。状態を確認しろということか。
「逸風は私の後ろに控えて観察して、内容は後で教えてほしい。私がいいと言うまで、決してその場で何か言ったり、したりしてはいけないよ」
「はい」
重大任務に緊張が走り、指先に無意識に力がこもる。冠萱は逸風の肩に手を置き「行こう」と微笑んだ。
中に入ると、前方左右には重々しい牢が連なっている。中に収監された妖精がいるのかどうか、見ただけでは薄暗くて全くわからない。音ひとつしない様子だったが、耳を澄ますと捕まった妖精の息遣いが聞こえる気がして、その異様な雰囲気に腕の内側がぞわりと泡立った。不気味な静けさのなかに、二人分の足音がつめたく反響する。半歩先を行く冠萱に遅れないよう速足で続いた。突き当りを折れると、その向こうに潘靖が立っていた。
「来たな」と潘靖がこちらを向いて顔をほころばせ、緊張が少し緩んだ。横を盗み見ると、冠萱の表情も少しほぐれたようだ。潘靖は、緊張する場面ほど緊張させない振舞いをする。貫禄を出すためにあえて取った見た目だと聞いたが、そんなものはなくても醸し出す雰囲気それ自体にどっしりとした安心感がある。潘靖は力強い目で二人をかわるがわる見つめ、まじめな顔をして言った。
「今から虚淮の面会をする。私が話すから、お前たちは何があっても手出しをしないように。いいな」
肯の返事をすると、潘靖はいくつか注意点を付け足した。牢の中は能力を抑えるような術を張っているから入口近くに立っているように。重力に似た重苦しさを感じるかもしれないが出れば治る。逸風が胸の中で反芻し、目を閉じて深呼吸をすると、潘靖は牢の鍵を開けた。
少し離れた場所にある牢は、あきらかに他の牢とは違っていた。扉が二重になっており、内側へは廊下の灯りも届かない。壁にひとつだけ設置された間接照明が内部を照らしているのみだ。石造りの寝台兼椅子と来訪者用の椅子が一脚。煉瓦二つ分ほどの窓とも言えないような窓が、高い位置で切り取った青をぼんやりと浮かび上がらせている。
地面からしんしんと冷えるような石の床に両足をつき、寝台に腰掛けてこちらを見据えているのは、虚淮だった。
冠萱が照明に手をかざす。牢の照度が上がり、虚淮の表情が浮かび上がった。
逸風は、厳重に隔離された囚人を観察した。静かな瀧のような浅葱の長髪を後ろになびかせ、額から二本の角が突き出ている。小さな顔は白磁のごとき青白さで、女性と言われれば信じてしまいそうに線の細い整った造作をしていた。小柄な体躯ながら、しかしどしりと座った様子は、なるほど貫禄があった。そして胸の前で組んだ腕には手枷が、右の足首から延びた鎖には巨大な鉄球が繋がっている。
「何の用だ」
虚淮がぼそりと言った。思いのほか低い声だった。
鋭い眼光はまず潘靖に、次に後ろに控えた二人の執行人に向けられた。視線を受け止め、背筋が震える。これが、虚淮。
次の瞬間、虚淮の鎖が小さくざわめいた。次いで冷気が立ち上りかけてすぐに消失する。牢の中の温度は一定だ。捕縛されてもなお術を使おうとする、というのはこれか。しかしこれでは、と逸風は眉を顰めた。
潘靖が面会人用の椅子にかけ、杖を置いて口火を切った。
「あなたに、お話を聞きに来ました」
5.面会人
斜め前方には虚淮が座っており、その正面に潘靖が腰掛けている。自分がその椅子で聴取した時のことが思い出され、冠萱は静かに唾を飲みこんだ。潘靖の真っ直ぐに伸びた背中と横顔が見える。その背中に守られているという気がした。何かあれば並び立って、いやむしろ前へ出て盾になることも厭わないが、この背はそれを由としない、凛然としたものがあった。冠萱の半歩後ろには逸風が立っている。逸風のことは、自分が任されていると無言のうちに承知していた。言われた通りに虚淮を観察している逸風の気配を肩越しに感じながら、冠萱は改めて虚淮を見つめた。
あんたが親玉か、と虚淮が言った。低く重みのある声が石壁に反響する。
「館長の潘靖です」
薄暗い牢の中で、発光しているかのような青い二本の角の下から、虚淮が静かに睨む。
「あなたは、今回の件は総て自分が仕組んだと言ったそうですね。本当なんですか」
「お前の部下は馬鹿なのか。何度同じことを言わせる」
淡々と真顔で虚淮が言い、潘靖も真顔で応戦する。
「質問に答えてください」
さらりと返す潘靖の様子は、感情を波立たせない態度の手本のようだった。怒りも苛立ちの気配もない、咎める空気すら含まない、しかし断固として、圧倒的主導権を示す。
「全部私がやった、これで満足か」
「動機はなんですか」
「故郷を奪ったやつらが憎かったからだ。お前ら館の連中もな。龍遊は私の故郷だ」
「仲間とはどういう関係なんです」
お決まりな尋問形式の応酬に、虚淮が苛立ちを滲ませた。しかし身体は微動だにしない。組んだ腕はいつしか解かれ、手は膝の上に載っていたが、その拳も握りしめるでも膝を掴むでもなく、膝上に置かれたまま一定だった。重々しい鎖が膝の間に垂れている。
「何度同じことを言わせる。あれらは私が育てた。人間への憎しみを吹き込み、館の理不尽を刷り込んだ。すべては故郷龍遊を奪還するためだ。风息が失敗しなければ叶っていたはずだったのだ」
苛立ちを露わにした口調で話す内容は、冠萱が聞いた時と相違なかった。
斜め前の横顔を盗み見る。潘靖は一度口を閉ざし、目を閉じてから話題を変えた。
「館はあなたの刑を検討しています。どんな刑になるかはあなたの供述にかかっている」
刑、と虚淮が不気味に笑った。肩がわずかに揺れる。
「無期懲役か?死刑か?これ以上話すことはない。さっさと決めろ」
「そういうわけにはいかない。刑というのは罪の重さを鑑みた妥当なものでなければいけません。あなたは誰も傷つけていない。供述内容によっては早期の釈放もあり得る」
虚淮はうんざりだというように頭を垂れると低くため息を吐いた。
「お前らは折角守った龍遊をどうしても危険に晒したいらしいな。こんな凶悪犯を釈放したらどうなるか、考えればわかるだろう。」
「本当の凶悪犯はそんな発言はしない」
「さっさと極刑にすればいい。こんな大事件を起こした者を生かしておいて何になる。聴取するだけ時間の無駄だ」
「私はあなた個人のことは何も知りません。ですが、あなたは紛れもなく妖精だ。妖精を助けるのは館の責務です」
虚淮が眉をひそめた。青い瞳がぎらと光る。全身に緊張が走り、身構えたが、虚淮はなにもしてこなかった。牢の温度は変わらず一定で、風はそよとも吹かない。
「……御託はいい、目的はなんだ。釈放をちらつかせて何がしたい」
地の底から唸るように虚淮が言う。
埒があかない。後ろで逸風もそわそわしている気配が伝わる。目的を開示するのか、それとも伏せるのかは悩みどころだ。やすやすと手の内をみせて裏をかかれてはいけない。しかしここまで成果なしできた以上、何かを変えなければ先へ進めない。 考えねばならないのは妖精全体の利益だった。潘靖が静かに言った。
「わかりました、腹を割って話しましょう。我々はあなたの刑を重くしたくない。勿論全くなしというわけにはいかないが、適正なラインを探したい。しかしそれにはそれ相応の根拠が必要です。対外的に、あなたは危険ではないということを示したい。しかし今のあなたの態度では危険視をせざるを得ない」
「誰が刑を軽くしろと頼んだ。極刑でいいと言っている」
潘靖は無視して畳みかけた。
「もう一度聞きます。あなたが言っていることは真実なのか」
「ああ、無論だ」
「本当のことが別にあるなら真実を言って欲しい。あなたの、子供たちのためにも」
虚淮を縛する鎖が微かに震え、同時に逸風の肩が僅かに動いた。潘靖が目を眇める。
これは何だ。このざらりとした違和感は。潘靖の意図は。冠萱の額にじっとりと汗が滲んだ。虚淮は肩で大きく息をついてから、ぼそぼそと言った。
「子どもではなく私兵だ。……何を躊躇う。妖精がひとり消える、それだけのことだ」
「风息は、」
潘靖はことさらはっきりと発音した。挑発だ。違和感がかちっと嵌り冠萱は確信した。
「妖精を死なせたくはなかったはずだ。我々もあなたにここで死んでほしくない」
「风息を語るな」
間髪入れずに重い声が地を這った。鎖がカタカタとざわつき、枷部分をうっすら霜が覆う。虚淮の目が青白く光り、その身体から冷気が漏れた。ざり、と逸風が足を踏み出す音が聞こえ、とっさに左半身ごと足を前に出して制止する。それは一瞬の出来事だった。再び虚淮に視線を向けると、冷気も光も嘘のように消えてなくなっていた。虚淮が口を開く。
「ここで死なれては後味が悪いということか。だったらその辺に放り出せ。こんな人間のうじゃうじゃいる場所ならどうせすぐに野垂れ死ぬ。お前らも手を汚さずに済む」
こんなに譲歩してやってるんだと言わんばかりの口調に、潘靖が黙った。虚淮が再び腕を組み、これ以上話すことはない、と会話に勝手に終止符を打った。
「わかりました、今日のところは退散しましょう」
虚淮の牢を出、さっきの暗い廊下を三人で歩く。先頭を行く潘靖は無言だ。冠萱は後ろに続き、その斜め後ろに逸風がいることを確かめた。首だけで振り返ると、逸風の顔が青ざめている。あの牢には妖精の力を制限する術がかけられていた。冠萱は問題なかったが、逸風にとっては制限の重さが酷く堪えたのかもしれない。大丈夫かと覗き込むと、逸風は震える唇で言った。
「刑がどうなるにせよ、」
前を歩く潘靖が足を止めて振り返る。
「早急に決めた方がいいです。あんなボロボロの身体で、まだ近づいてきた執行人に攻撃を示すなら……」
四つの目に注目された逸風が、真剣に言葉を紡ぐ。
「彼がこのままあのやりを方を続けようとするなら、もう、持ちません」
6.救援者
龍遊妖精館、執行人の職務エリアに正午の鐘が鳴り響く。昼食をとる執行人たちがいそいそと廊下を行き交う中、その廊下の一角にある館長の執務室に、泣く子も黙る哪吒太子の怒声が響き渡った。
「総本部を納得させるネタ取ってこいだ~~~!?!?」
来客用の二人掛けのソファの中央に腰を下ろして潘靖に食って掛かっているのは、総本部からやってきた哪吒だ。
「急ぎの用だって俺様を呼びつけておいて何かと思えば、俺はスポーツ新聞の記者じゃねえぞ!?」
横に座っていた冠萱は耳を塞いでやり過ごしたが、正面で相対する潘靖は顔色ひとつ変えず、結論から簡潔に言えと仰ったのは哪吒様でしょう、とぼそりと呟いた。それから今度ははっきりと、いえ哪吒様、あなたにしか頼めない仕事です、と告げた。
「せっかく来たからな、話くらいは聞いてやるよ」
片足を膝に載せ、むすっと腕を組んでソファにもたれ掛かった哪吒に、冠萱は内心おお、と感心した。さすが長い付き合いなだけある。この怒声からの応酬も、もしかすると予定調和なのかもしれない。
先ほど面会を終えた潘靖は、しばし悩み込んだのち『救援要請しましょうか』と言った。総本部への要請とは思っていたが、まさか哪吒だったとは。
「先程お話した、哪吒様が捕縛した虚淮のことです」
「あいつがどうした?」
「私も話してみたのですが、必要以上に自分を危険視させようとする言動があります。仲間を罵る発言もあるのですが、それは逆に庇おうとしているようにも見受けられる」
哪吒がじろりと潘靖に視線を遣った。
「ある程度こちらの事情も開示したのですが、極刑にしろの一点張りで取りつく島がない。しかし、风息へ思いを寄せる周囲の妖精への影響も考え、こちらとしては重い刑罰はできれば避けたいのです」
なるほどな、と哪吒が低く呟いた。
「今のままだと極刑に近い刑は免れないでしょう。軽い刑では人間側も総本部も納得しない。しかしそれは我々の本意ではない」
「それで俺様に説得しろってわけか」
「説得でなくても構いません。哪吒様ご自身が、虚淮は危険ではないと総本部に太鼓判を押せるものを、彼から引き出してほしいのです」
依頼内容の提示に冠萱は眼を瞠った。それが哪吒太子を呼んだ理由か。
「神仙であり、虚淮と直接対峙し捕縛したあなたでなければできない話もあるでしょう。やりかたはお任せします。ただし、今日中に決着をつけて頂きたい」
哪吒はふっと笑って立ち上がった。
「俺様を誰だと思ってる。冠萱、鍵貸せ」
哪吒は冠萱から鍵を奪い取ると、さっさと扉へ向かってしまった。慌てて立ち上がった冠萱が、案内は……と後ろから声をかけたが、いらねえ!という返事は、すでに閉まった扉の外から聞こえたのだった。
嵐のような方ですね、冠萱が言うと、潘靖が頷きながら座るように促した。
「虚淮のことだが、冠萱の見立てはおそらく当たりだろう。教えてくれて助かった」
「恐縮です。……逸風は大丈夫でしょうか」
あの後逸風は、観察したデータの懸念事項を示しながらこう説明した。妖精館の牢は一定の気の補給ができるよう設定されているが、虚淮が明らかにそれを上回る出力をしている。あの身体をどう維持しているのか理解できない。それ故、いつ限界がきてもおかしくないと。眉間に皺を寄せて話す逸風のことも、冠萱としては心配だった。
「哪吒様を信じて、ここで待とう」
潘靖が眼鏡を外してそう言った。
7.神仙
廊下に擬態したエレベーターに乗ると、哪吒は腕を組んで壁にもたれ息をついた。今回の依頼がなくとも、捕縛後の虚淮のことは気にかかっていたといえば、いた。
哪吒は生来、敵だろうが味方だろうが妖精だろうが人間だろうが、一度関わってしまった者を無視することができないたちである。人間臭いと言われる所以だろうが、性分なのでしかたがない。領界に一直線に向かっていった虚淮を捕縛した瞬間は、自分しか知らない。その叫びも、その表情も。
がくんとエレベーターが止まり、扉が開く。陰気な牢の廊下を抜けると、いるだけで気分が悪くなりそうに厳重な術を重ねられた牢の前に出た。虚淮の牢だ。遠慮なく扉を開け放つと、薄闇で氷の双眸がこちらを向いた。
「なんだよ、暗すぎだろ」
哪吒が照明を睨むと炎が音を立てて燃え盛った。向き直って、よう、と声をかける。
「何の用だ」
小柄な容姿に似合わぬ低音が牢に響く。虚淮の周囲の空気がざわりと震えた。射るような鋭い視線を、さらばとこちらも跳ね返す。
「ずいぶん威勢がいいらしいじゃねぇか」
牢に仕掛けられたこんな術くらいではびくともしないが、哪吒はあえてなにもしなかった。何もしなくても、空気の震えは数秒で消えた。
「館の連中におとなしく捕縛されてやる義理はないからな」
術もろくに使えないくせに、なるほど勢いだけはある。でかい口叩きやがって、と口の端を上げると、それには頓着しない様子で虚淮が言い募る。
「何しに来た」
「世間話」
「話すことなどない。帰れ」
「外の世界のこと、知りたくないのかよ」
牢の中には高窓が一つ、ほんの申し訳程度についていた。面会用の椅子がぽつんと置いてあったが哪吒はそれには座らず、窓と虚淮の顔がどちらも見える場所に直接腰を下ろした。午後の陽もあの窓の位置では床までは届かない。寝台に座った虚淮からは見下ろされる位置に片膝を立てて座り、こっから見える外はちいせぇな、とひとりごちた。
「知ってどうなる。どのみち極刑だ」
虚淮が半眼で冷たく言い放った。
「馬鹿め。あいつらが泣くんじゃないのか」
「あいつら?」
膝に肘を乗せ、手のひらに片頬を預けて氷のかんばせを見上げる。
「お前の子どもたちだよ」
「あれらは子どもではない。確かに育てたのは私だが、人間と館の連中を憎むように仕込んだ私兵だ」
私兵ね。潘靖の言葉を思い出す。必要以上に自分を危険視させて、仲間を庇おうとする言動。んで、することは?総本部に太鼓判、だったか。哪吒は微妙に話題を変える。
「风息がどうなったか聞いてるか」
「その名を口にするな。虫酸が走る」
そっぽを向いた横顔は思いのほか幼い。顎が震えているように見えるのは、さて気のせいか。
「知らねぇんだな」
「あれの気は消えた。さしずめ无限にやられたんだろう。奴の強さはバケモノ級だからな。……まったく、自分のものにした領界の中だったというのに、情けない」
「そうかよ」
すらすらと不満を口にする虚淮に哪吒は口を結んだ。あの時、領界に向かって一直線に飛んでいた虚淮を思い出す。相対した瞬間のはっとした表情。『逃げの虚淮』らしくもねぇ。哪吒は口には出さずに胸の中で問うた。焦ってたんだろ。普段のお前なら、もっと周りに注意を向けてただろうからな。
あの時哪吒は、一拍遅れて自分に気づいた虚淮が氷塊を連射し、方向転換をしようと空を蹴ったところを、混天綾でねじ伏せた。布が氷の身体に巻きつく刹那、夜空に伏した漆黒の半球に向かって、こいつが叫んだのは奴の名だった。星を震わせ闇夜を引き裂くような叫びは、あの必死な形相は、ひどく大切なものを守りたかった、どうしようもなく無力な、しかし諦めきれない、人間という生き物の絶叫とよく似ていた。
「そんなふうには見えなかったぜ」
呟くと、虚淮のほうもあの瞬間を思い出したのか、目を逸らして口をつぐんだ。
「……会わせてやろうか」
「はぁ?」
怪訝な顔の虚淮を真っ直ぐに見て言ってやる。
「风息は樹になった。お前も知ってる昔の龍遊によく似た大樹だ」
「……こんな場所で樹になったところで、どうせ人間に切り倒されて材木にされるのがオチだ」
「お前……気が合うな」
「なに?」
「いや、なんでもない」
こんな時でもなかったら、意外に話のわかるやつかもしれない。
「それが笑えることに、公園になるんだと。あの樹はそのまま保存してな」
公園、と虚淮が口の中で繰り返す。
「見たいだろ。俺様が牢から出してやろうか」
「いらん気遣いだ。こんな凶悪犯を外に出してみろ。出た瞬間に龍遊が氷漬けになるぞ」
気を取り直したように、さっきまでと同様の冷え冷えとした口調で虚淮が言った。
今の虚淮にそんな力は残っていないことくらい、哪吒にもわかっている。威勢のいい内容とは裏腹に、喋るたびに肩で息をしているその背中は、あまりに細く頼りない。霊力が枯渇しているのは明らかだ。だが哪吒は、そこを言及するのはやめた。代わりに口の端を持ち上げて、その時は、と軽く口に乗せる。
「その時は、今度こそ俺が殺してやるよ」
館の法において、妖精を殺すのはご法度だ。そんなことは百も承知、本気ではない。それは虚淮もわかっていることだろう。でも。
「それもいいかもな」
虚淮は目を伏せ、吐息のように呟いた。鋭かった両眼が揺れて、ほんのわずかに安堵が滲んだように思えた。落としどころはこのあたりか。
そろそろ行くわ、と哪吒が言った。足をほどいて立ち上がる。
「哪吒」
「ん」
扉の前で振り返る。哪吒が入ってきた時の険のある表情はなりを潜め、虚淮は静かな目つきで哪吒を見ていた。
「今日は冷えるな」
「てめぇで寒くしてんだろ」
そんなはずはなかった。牢の温度は一定であり、拘束と封術で虚淮の出す冷気は押さえつけられている。肌が感じる気温が、寒いはずはなかった。ーーまったく。人間臭いやつだな、お前も。
「じゃあな。おとなしくしとけよ」
今度は振り向かず、哪吒は背中でそれだけ言った。
8.囚人
哪吒の気配が去ると、虚淮は寝台に倒れ込んだ。日に日に身体が重くなる。うんざりするようなこの牢の封術にはいい加減慣れたが、少し喋っただけで息が上がるこの有様は、自分のことながらほとほと嫌になる。全身を抑えつけんとする術の重さに、眉根を寄せて瞼を閉じた。
今日は厄日だな、と虚淮は思った。喋らせに来る輩が多かったせいでだいぶ疲れた。さっさと極刑にすればいいものを、まどろっこしい連中だ。今日の自分を見たら、洛竹あたりは目を点にして驚くかもしれない。そんな饒舌な虚淮初めて見た、とかなんとか。
洛竹。今どうしているだろう。ここのように厳重な牢ではないだろうが、実行犯ではあるので恐らく独房だ。膝を抱えて床を見つめている洛竹の姿が思い浮かぶ。辛かろうとは思うが、刑に関して言えば洛竹はそんなに心配いらないだろう。洛竹には最低限のことしか報せていなかったのだから。素直な子だから執行人の心象も良いだろうし、短期間で出られるかもしれない。ただ、あんな別れ方をしてしまったことだけは心残りだった。自分のしたことを悪かったとは思っていないが、可哀想なことをしたとは、思う。
天虎。やはり独房にいるのだろうかと思うと心底つらい。天虎はあれらの中で誰よりも独りに慣れていないのだ。兄弟たちと引き離されて、心細い思いをしているに違いない。大きななりだが気持ちの優しい子だ。当たりの柔らかい執行人をあててくれているといいのだが。
あの日、风息の気が消えたことはすぐに解った。无限にやられて消滅したのだと思っていた。もっとも无限が妖精を殺すのは考えにくいから、結果的に风息のほうが敗れて力尽きたか、それとも自死か、どちらかだろうと。どちらにしても、风息がやり切って息絶えたことに変わりはない。こうなることは、本当は、初めからわかっていたという気がした。そもそもの初めから。初めというのがどの時点なのかはわからないけれど。
风息。お前は樹になってここに留まることを選んだんだな。
哪吒は大樹と言っていた。その樹は高く悠々と枝を伸ばし、龍遊の空を掴んでいるのだろうか。风息、そこからお前の望んだ景色は見えたのか。
太古の森にあった樹を脳裏に描きながら、虚淮は重い瞼をこじ開け、首だけ起こして窓を探した。視線を彷徨わせて見つかった高窓からは、四角く切り取られたくすんだ青が覗いているのみだ。硝子の目玉に例の樹が映るわけもない。それでも、これは同じ、龍遊の空だった。
皮肉なものだ。あんなに帰りたがっていた故郷の森に、帰るのではなく自らが森の一部になって還るだなんて。人間の手によって変わり果てた龍遊は、もう決してかつてのそれに戻ることはない。水が汚れ、木が死に、妖精がいなくなり、それでもどうしようもなく愛しく、とりわけ风息にとっては焦がれずにはいられなかった、われらの故郷。
後悔はない。どんなことも必然であり、その必然が不幸なことであればそれは『仕方のないこと』なのだ。振り返って悔いても過ぎた時間は取り返せない。それは必然であった。必然という言葉が乱暴なら、仕方ない、というほかない。仕方ない。お前は龍遊を取り戻すことを望んだし、私は共に在ることが最善と判断したのだから。お前を止めなかったのは私だ。悪かったとは思っていないが、咎を負うなら私が適役だ。
樹になったのか。それなら水のひとつもやってやりたかったな。
そう思って、自嘲の笑みがふっと漏れた。牢も身体も厳重に拘束され、術らしきものは何ひとつ使えない。魚一匹生み出すことさえこの通りだ。悪いな、と窓の向こうに向かって呟く。何百年も生きているのに、今の私にできることなんて所詮この程度ーー慣れぬ饒舌で奴らを縫い留めるくらいなものだ。せめてお前がこれ以上悪者にならないように。せめてあの子たちがこれから生きやすくなるように。
そのためだったら、私は永劫牢の中だって構わないのだ。
8.5 囚人
あれと出会ったのは夏だった。あれは、森の木の根元に丸くなって眠る、黒い獣の赤ん坊だった。よく見ると赤ん坊は妖精だった。規則正しく上下する腹が安らかで、時折すぴすぴと鼻を動かした。抱き上げるとそれは温かく、両手のひらに収まる小ささのくせに、ずしりと確かな重みがあった。特段何かしたわけではなかったが、目を覚ましたあれは小さな四つ足を動かして、覚束ない足取りで後をついてきた。度々木の根に躓くのを振り向いて待ってやると、嬉しそうな顔をして飛び跳ねながら追いついてきた。妖精はたとえ生まれたてであっても世話を必要としない。動き回ることも、生命を維持する方法も、本能的に知っている。哺乳類を原型に持つ妖精は、その性質に寄るのだろうか。そう思いながらしゃがんで気まぐれに撫でてやると、獣の妖精はゴロゴロと喉を鳴らした。あの夏は特別暑かったので、冷たい手が気持ちよかったのかもしれない。
獣の妖精は少し大きくなると飛んだり跳ねたり走ったりが盛んになった。呼ぶ必要が出てきたので便宜上名前をつけた。特に理由はなかったが、あれのことは「风息」と呼ぶことにした。冬になり外気温が低くなると、暑がりの风息もさすがに寒そうにしていた。一方こちらの身体の温度は下がるばかりで、恒温の生き物を抱き上げるのは躊躇われた。考えあぐねた結果、体表面の温度を少し上げておくことにした。なんてことはない、霊力を操作すればそのくらいはできる。
行動範囲が広がると、风息は目にするあれこれを食べてみたがった。妖精はものを食べなくても死なないが、さすがに食べてはならないものもある。私は毒味のために味覚を身につけた。危険を判別する程度の味覚でよかったが、风息は食べたものが旨ければ目を輝かせ、不味ければ吐き出した。見ているうちにこちらまで、旨いもの不味いものの違いがわかるようになった。獣の特性か、风息は鼻が利いた。生き物に有害な大気の場所には近づかないよう、味覚に加えて嗅覚も身に着けることにした。その結果、春の花の匂いや、夏の濃密な森の匂い、肉の焼ける匂いや酒の芳香までも知った。知ったからどうということはないが、ともかく私は、氷の身体ながら哺乳類に似せた機能をもつ妖精となった。
幼い頃の风息は、妖精のくせに一緒に眠りたがった。隣に寝そべり、横向きに丸まった背をとんとんとあやすようにたたいてやるとよく眠った。大きくなって一人で眠ると言うようになるまで、そこが风息の定位置になった。いつだったか、私の傍は寒くないのかと聞いたことがあった。风息は、虚淮の傍は暖かいよとこともなげに笑った。それはお前が温かいからなんじゃないかと思ったが言わなかった。
隣で眠る风息を眺めながら、虚淮は少し前のあれやこれやを思い出していた。一人で眠ると言い出してしばらく経ったが、今日は久しぶりに一緒に寝たいとやってきたのだ。人間だったら少年と言われる風貌になり、昼間は生意気な口もきくようになったが、寝顔はまだまだあどけない。もう昔のように頭を胸に押し付けてくることも背をたたいてと要求することもなかったが、規則正しく聞こえる寝息と柔らかそうな頬は昔のままだ。しんと静かな夜の中で、月明かりがぼんやり幼さの残る横顔を照らしていた。
寝顔を眺めているうちに、いつの間にかうとうとしていたらしい。遠慮がちに肩を叩く温かな手と、名を呼ぶ聴き慣れた低音が暗闇で意識を揺すった。さきほど寝かしつけた风息よりだいぶ大人びた声だったが、风息か、と口の中で問うと、その声はほっとしたような息をついた。そうか、风息。少年だと思っていたのは思い出の中の风息で、今ここにいる风息は現在の风息だった。大人になった风息の声が、起きられるか、と言った。どうしても目が開かなかったが、声は構わずに、起きられないなら背負っていくからと言う。答える暇もなく広い背中に乗せられ、やがて凹凸のある山道をゆく振動が全身に伝わる。歩みにあわせて上下に揺れるたびに、片頬に柔らかなくせ毛が触れる感覚があった。风息の髪は子どもの頃から、いつも日向と土の匂いがした。
葉擦れの音や鳥のさえずりが耳に懐かしい。肌を撫でるひんやりとした空気はどうやら朝のようだった。判然としない意識の中で、懐かしいな、と思った。いつまでもこのままこの背中でまどろんでいたかった。しかし虚淮は、気づきたくないことに気づいてしまった。このやり取りは、いつか龍遊を脱出した時のものだ。現在では、ない。
これは現実ではないと気づいてもなお、耳にはざくざくと土を踏む規則的な足音が聞こえ、身体は振動を感じる。このまま気づかぬふりで目を開けなければ、ずっと過去の記憶の中に居られるのだろうか。あの時ーー龍遊を出ると言われた時、自分が断固拒否していたら、そしたら未来は違っただろうか。自分が朽ちていただけで、彼らの未来は結局変わらなかっただろうか。
お前はどう思う?と問おうとして細く目を開けると、思った通り、そこは石造りの寝台の上だった。森の音も鳥のさえずりも霧散し、温かい背中の代わりに固い石の感触がつめたい。今がいつなのか、昼なのか夜なのか、夢なのか現なのかわからない。夢のほうが確かな手触りで、夢と現実の境目がドロドロに溶けている。なんだ、もう狂ったのか。
意識を現実に傾けるべく、体の向きを変える。手首の鎖がじゃらりと鳴り、身体中がみしみしと音を立て、食いしばった歯の隙間から呻きが漏れた。時間をかけて向きを変えると、壁に向かってうずくまり呼吸を整える。うっすら開けた目には黒々とした石の壁が霞みがかって映っていた。これが現実だ、と思うと落胆とともに安堵が降りた。自分がここで正気を保っている限り、あの子たちに累は及ばない。
一度目覚めてしまうと、牢の不気味な静けさが逆に神経を尖らせる。再び眠ることすら億劫で、虚淮は思考を流れるがままに任せた。
今まで虚淮は、変化に頓着したことがなかった。流れるまま、変わりゆくものを受け入れる。风息や洛竹、天虎との出会いも、転地の末に故郷を離れたことも、その奪還のために奔走した日々も、风息との別離も。現実が容赦ないことは常であったし、喪ったことも何度もあった。現実ならば呑み込むしかないことはわかっている。しかし今回ばかりは、この変化を呑み込むのはなかなか難儀だと思う。とはいえ、その難儀さも含めて変化なのだから、いつものように静かに通り過ぎるのを待つしかないのだろう。
油断すると押し寄せる疑問は、渦を巻いて寄せては返す。問答の波に流されるまま、思考は波間を彷徨った。虚淮には馴染みのない、喪うということに対する後悔の波だ。
いつならお前を止められた?私はお前を止めればよかったのか?そしたらこんなことにはならなかったのか?押し寄せる思考の波に身を任せる。
人間に関わるのはよせと、まだ天真爛漫だった幼い頃に言って聞かせるべきだったのか。人間に憤りを覚えた時に、あれが彼らの性なのだと諭してやるべきだったのか。いつか龍遊を取り戻すと目に暗い光を灯した時に、無茶はやめろと言うべきだったのか。計画を打ち明けられた時に、やるなら私を殺してから行けと立ち塞がるべきだったのか。我慢の限界だと言われた時に止めていれば。洛竹がやめろと言った時にその腕を掴まなければ。噴き出るたられば論に、しかしもう一人の自分が言う。ああする以外に何ができた。风息の思いを知っていて止めることなどできたのか。止めたとしても止めなかったとしても、結局それは自分のエゴでしかないのだ。そうして問答の結論は現在に帰結する。ただひとつわかっているのは、自分は风息を永久に喪ってしまったのだということだけだ。
背中がぞくりとした気がして、虚淮は身体を縮めた。牢の空調は管理されていて、気温が低いわけではない。そもそも気温が低くても寒いなんて感覚はないのだし、暑さが堪えることはあっても寒さが堪えたことはない。この寒さは、風が通る感じだ。身体の内側が空洞になって、そこへすうすうとさびしい風が吹いている。窓の外の遠くの街で、枝を広げているはずの樹のことを想った。
风息、と呼びかける。温かさが心地良いというのは、お前が教えてくれたんだったな。
「なぁ、风息。今日は寒いな」
9.立ち上がる者
こつこつと響く足音を、虚淮は浅い眠りの中で聞いた。薄い瞼の外がぼんやり白いので、もう朝なのかもしれない。固い石の寝台に横たわったまま、意識をまどろみから現実に呼び戻す。朝、牢の寝台、足音――。毎日、朝になるとこの足音を響かせてやってくるのは、執行人だ。
気づいた瞬間に跳ね起き、寝台に腰をかけ入口を睨む。執行人が足を踏み入れた瞬間、術を発動できるようにだ。それが虚淮の毎日の日課だった。が、今日はどういうわけか起き上がることができなかった。起き上がる以前にまず目が開かない。ぐぐ、と眉間に力を込めて目を開こうとするが、ごく薄くしか開かない。想定外だった。上半身を起こそうとするが、腕は力が入らず動いてくれない。自分の腕ではないようだった。足音が近づいてくる。どうにも埒があかないので、起き上がるのは諦めて、顔と片手だけを入口の方へ向ける。片膝をどうにか持ち上げて横に倒し、それに引っ張られて全身が入り口側に向くように転がる。それだけの動作が、歯を食いしばり息を詰めて、ぐっ、と力を込めないと成しえないという有様だった。ようやっと半分まで開いた瞼の下の、目に映る視界はまだ不鮮明だ。頭の中も霞がかったようになっていて、感覚としてはとにかく物凄く眠かった。
二重扉の開く音がし、数人分の足音が至近に聞こえる。虚淮は眉をひそめた。入り口を背景に立つ二人の影が見える。仕方ない。油断するとまた眠りの淵に落ちてしまいそうな意識をどうにか引き寄せ、横になったまま無理やり術を発動した。発動といっても、枷と牢にかけられた封術のせいで、全力を絞り出したとて実際には空気がざわ、と騒ぐ程度。自分の周囲の空気だけが揺れる。半分の視野で執行人を睨みつけるが、硝子の眼に映るその姿はぼやけてゆらゆら揺らいでいる。めまいのような感覚が不快だった。うわんうわんと耳鳴りがして、呼吸のたびに肩が上下した。たまらず一瞬目を瞑った直後、いきなり誰かに両手を押しとどめられた。驚いて目を開くと、執行人の顔面が目の前にあった。囮となって抱いた小黑に似た白い髪をしているようだが、その輪郭は判然としない。何か言っているが、水の中で聞いているように低くもわりと反響して聞き取れない。ただわかるのは、抑えられた両手から他者の霊気が流し込まれていることだけだ。氷の手を包む熱い手から、温かいものが伝わってくる。それは身体にじんわり広がり、それに伴って視界が明らかになってきた。目の前にある双眸の湛える光が真摯に揺れて、この目はどこかで見たことがある、とぼんやり思った。懐かしい光景。遠い昔、手だか足だかを損じた時に涙を溜めて覗き込んできた、あれは风息だったか洛竹だったか。
記憶の糸を手繰る間も、きれいな水がじわじわと沁み込むように、目も耳も呼吸も鎮静されていくのを感じた。霧が晴れると、少し離れて立っていた執行人が口を開いた。目線を向けると執行人は落ち着いた声で、あなたの刑が決まりました、と言った。
「もう『それ』は必要ありません。ご同行を。こちらに来られますか?」
執行人は、入り口に控えている別の執行人と一言二言やりとりを交わすと、手を抑えている執行人と場所を交代し、屈んで虚淮の枷を外し始めた。虚淮の頭に疑問が浮かぶ。どういう風の吹き回しだ。今まで拘束の追加はあっても減ることなどありえなかった。減らされるようなことはしていないが。目の前の靄はなくなったが、頭はまだ半分夢の中のようにふわふわしていて、思考が素早く動かない。ええと、さっきあいつは何と言ったか。確か、刑が決まった、と。
手枷足枷が取れ、虚淮は言われるがままにゆるゆると起き上がった。手足が軽くなっている。右手に視線を落としてゆっくりと握り込むと、執行人は屈んだまま目を合わせ、含めるように先手を打った。
「おかしなことを考えないでくださいね」
視線を突き返すと、執行人が声を潜める。
「あなたの安全を守りたい。哪吒様も来ています。どうか」
生真面目な固い声に、仕方なく右手を開いて膝に置く。執行人は立ち上がって、歩けますか、と気遣った。
「お前らの手は借りない」
冷ややかな眼差しで突き放す。膝に置いた手に体重をかけ立ち上がってみると、頭が随分ぐらついた。
執行人に付き添われながら牢の廊下を歩く。牢を出るのはどのくらいぶりだろう。手枷も足枷もない状態で、あの空間以外のところを歩くことができるとは。淡々とした思考とは裏腹に、霊力のほとんどが尽きた身体は数歩ごとによろけていた。膝の力が勝手に抜けるのだ。おまけに動くと息が切れる。うずくまってしまいたくなるたびに、隣にぴったり張り付いている執行人が腕を支えてそれを阻んだ。
前を歩く執行人は、刑が決まったと言っていた。極刑で決めてくれたということだろうか。昨日はなかなか渋っていたが。哪吒まで派遣して。
虚淮は濁とした頭のまま思考を泳がせた。
刑を言い渡される前に、今ここで反抗をしてみせたらどうだろうか。
どんな刑であれ、言い渡されてしまったら従うしかなくなる。ここで、先程の忠告を振り切って能力を発動させてみたら。枷も封術もされていない状態でなら、多少ましなことができるだろう。その場で霊力が尽きればそれもよし、哪吒が介入してきて引導を渡されるならそれもまたよし。どちらにしても、温情を受けたにも関わらず館に仇なし卑劣にも攻撃を仕掛けた極悪非道な妖精として烙印を押されるだろう。そうすれば、生きながらえるよりも正しく役目を終えられるかもしれない。
虚淮は、試しに体の横にぶら下げた右腕に気を集中させてみた。枷がない分、今までより容易に冷気が発生する。よし。このまま放出を最大値に。
出力を上げようとした刹那、隣の執行人がその手をすかさず掴んだ。吐き出そうとした冷気が、掴まれた手によって阻まれる。
「駄目と言ったでしょう」
気づけば、さっきまでさほど変わらない背丈だったはずの執行人がなぜか上から覗き込み、厳しい声と真面目な顔で叱るように言った。我にかえると、虚淮の身体は体勢が崩れ床に膝をついていた。自分の身体は、思った以上に思い通りにならなかった。
気の遠くなるような距離を歩いて辿り着いたのは、簡素な作りの広い部屋だった。虚淮の牢と真反対の位置、廊下の端の部屋には、潘靖が座して待っていた。牢と同じ高さの場所に窓がいつくか設置されている。見上げていると、正面の椅子に座るよう促された。迎えにきた他の執行人たちも各々の席に座ると、潘靖が口を開いた。
「あなたの量刑をお伝えします」
虚淮は、椅子に深く掛け両手を膝に乗せた姿勢で、眼鏡越しの視線を受け止めた。だらだらと続く罪状に興味はなかった。眠いから早くしてくれと思いながら聞き流していると、ようやく結論にたどり着いた潘靖は、よって、流刑に処す、と言った。
流刑。虚淮は口の中で繰り返した。
「場所は明かせません。移動も厳重に監督・警護させていただきます。流刑先では自由に暮らして構いませんが、その区画からは出られないよう結界を張り、監視がつきます」
それは平たく言えば、人間や龍遊にはもう関わってくれるなということだろう。上の奴らの考えそうなことだ、と虚淮は思った。また龍遊で暴れられたら堪らないだろうからな。凶悪犯が龍遊に立ち入らないと約束されるのであれば、奴らも安心して暮らせるのだろう。さっさと殺してしまえばいいものを。そこまで考え、ふ、と笑う。
「よろしいですか?」
拒否権などはじめから与えていないくせに。上等だ。
「勝手にしろ。どうせ死に場所だ」
风息のように、故郷で果てることにこだわりはない。置かれた場所で朽ちるまで。
虚淮は口をつぐむと斜め上を見上げた。龍遊の空は見納めか。
今日も龍遊上空は晴天らしい。
四角く切り取られた、朝らしい白っぽい青が目に染みた。
10.扉をひらく者
潘靖の行動は迅速だった。牢から戻った哪吒の結論を回収し、その足で哪吒とともに総本部に赴き、その日のうちに判決を持ち帰ってきた。後から聞いたが、市長ら人間数人をも呼び出し、その場で同意を取り付けたらしい。潘靖曰く、少々強引な手を使いましたがこういうことは場を同じくして同意したという事実が大事ですから、だそうだ。
そして翌朝、冠萱はその判決を本人に伝えるべく虚淮の牢へ向かっていた。行き逢った逸風に、虚淮の刑が決まったよとこっそり伝えると、逸風は即座に「僕も行っていいですか」と申し出てきた。そのきっぱりした様子に、冠萱は少し驚いた。逸風は冠萱と行動を共にすることがよくあったが、そうしていると幹部の動きや発言も耳に入ることが多い。逸風は立場をわきまえて、こちらからあえて水を向けない限り見ぬふり聞かぬふりで通してくれている。だから、あえて逸風に漏らしたのは、本当は冠萱自身が逸風に同行してほしかったからなのかもしれない。勿論、虚淮がどう出るのか未知数という懸念も、あるといえばあった。考えたくはないが、拘束を解いた途端自死に走ることもないとは言えない。何かあれば逸風がすぐに対処できるよう備えておくというのは、正しい判断だと思った。
潘靖の許可を得、封術を操作できる執行人と逸風とを連れ、隠しエレベーターを降りる。逸風にはあらかじめ、こちらの指示がない限りは自分の判断で動いていいと伝えてあった。先日虚淮と相対した際は、逸風に手を出すなと伝えていた。逸風は指示通り手を出さなかったが、肩越しに感じた様子と視診の結果を報告した口調からは、強い焦燥が感じられた。その後も虚淮の様子を気にかけているようだったので、今回は逸風の気の済むようにやってもらおうというのが、潘靖と冠萱の意向だった。
牢の廊下は相変わらずじっとりとしている。両脇に小さな牢の連なるを抜けて虚淮の牢に辿り着くと、冠萱は誰にも気づかれぬようにそっと深呼吸をした。
扉を開くと、いつものように虚淮が入口を睨んでいた。違うのは、虚淮が横になったままだということだ。どうも様子がおかしい。足を踏み入れると、虚淮の周りの空気がかすかに揺れた。そのささやかさとは対照的に、虚淮の呼吸は長い距離を走った後のように荒く大きくなっている。いつもの威嚇だとは思うが、何かが違う。
何が起こっている?
冠萱が思った瞬間、すでに逸風は虚淮のもとに飛び出していた。術を出そうとしているのは両の手。それを見極めた逸風が急いでその手を押し留めた。固く冷たい床に膝をつき、勢い込んで呼びかける。
「駄目ですよ。虚淮さん、それは駄目です。僕が言ってる意味、わかりますよね」
噛んで含めるような真摯な言葉に、虚淮が逸風を見つめ返した。何かに気付いたのか、瞬間ふっと虚淮の表情から棘が落ち、目の奥が少し緩んだようだった。
逸風の能力は回復だ。とはいえ、広大な霊域を持つ妖精の枯渇した霊力をたちどころに復活させることはできない。取り急ぎ、急場を凌ぐべく能力を使ったのだろう。
逸風の介入で、虚淮の早かった呼吸が落ち着きを取り戻していく。やはり逸風を伴って正解だった。冠萱は二人の様子を観察し、頃合いを見計らって虚淮に告げた。
「あなたの刑が決まりました。もう『それ』は必要ありません。ご同行を」
振り向いた逸風に視線で問うと、逸風は心配顔のまま、お願いしますと小さく言った。返事の代わりに頷いて見せると、入口に立つ執行人に牢の封術を解除するよう指示を出す。それから、逸風と入れ替わり、屈みこんで枷の錠を外した。虚淮が枷の外された右手を持ち上げる。
「おかしなことを考えないでくださいね」
間髪入れず牽制をした。刑が決まった今、ここで何かされたら厄介だ。それに、と冠萱は虚淮の手を取って降ろさせる。このままではもう持たないと逸風が評じた。さっきの様子を鑑みても、もう一切の猶予はなかった。
一行は廊下に出ると、反対側の端にある面談室へ向かった。冠萱は先頭に立ち、背中で背後の気配を探りながら歩いた。廊下を歩く虚淮は、枷や術を外してもなお、ふらふらしては逸風に支えられている。虚淮のことは逸風に任せ、冠萱は今後のことを考えた。
面談室では潘靖が待っているはずだった。そこで虚淮が何かするそぶりがあれば、封術のできる執行人がたちどころに部屋に術をかけることになっていた。
冠萱は目を伏せ、小さく息をついた。そんなことがあっては、今度こそ命に関わるだろう。何事もないことを祈るしかない。
潘靖の前に座した虚淮は落ち着いていた。形式的に罪状を話す潘靖の声を、斜め下を見つめながらじっと聞いている。その横顔には反抗も落胆も悲哀も後悔も見受けられない。静謐な氷像がそこにある、そんな印象だ。流刑という単語を聞いても、虚淮は微動だにしなかった。過度に自分を悪く見せようとするわけでもなく、感情をあらわにするわけでもない。この姿が本来の虚淮という妖精なのだという気がした。
話し終えた潘靖が同意を確認する。虚淮は、勝手にしろ、と素っ気なく告げて、それから窓を見上げた。空は白の混ざった青で、雲の一つも浮かんでいない。
潘靖が閉会を告げると、立ち上がった虚淮がおもむろに口を開いた。
「ひとつだけ教えろ」
「なんですか」
「洛竹と天虎は、どうなる」
虚淮が潘靖をまっすぐ見据えている。虚淮に劣らぬ冷静さで潘靖がそれを受け止めた。
「彼らもほどなく釈放予定です。条件付きにはなりますが」
「そうか」
目を伏せて虚淮が言った。
「我々妖精館は、风息の挙動を危険視しマークしていました。しかし风息は樹になった。もう事を起こすことはない」
潘靖は組んでいた手を解き、杖を手にして立ち上がった。虚淮は表情を変えずに、ただ静かに唇を引き結ぶ。
「妖精館は妖精を助けるための組織です。過去の言動がどんな者であったとしても、自然に還った妖精に鞭打つような真似はしない」
潘靖は虚淮の目の前に立ち、だから安心しなさい、とはっきりと告げた。
潘靖の低くて力強い声に、冠萱は瞠目した。
収監されてから今日までの虚淮の言動。子を逃がすために我が身を敵に晒して、注目すべきは、見るべき獲物はここなのだと暴れてみせた手負いの獣。喪った者、生き残った者、それらすべての盾になろうとしていたのか。
隣で鼻をすする音が聞こえ、見るとそれは逸風だった。
虚淮はさっきと変わらず、氷の彫像のごとく無言で凛と立っている。表情の乏しい横顔の瞳が濡れている気がしたのは、果たして気のせいだったのだろうか。
たまらず逸らした視線の先には、変わらない青が在った。
11.送り届ける者
虚淮の移送はその日の午後だった。総本部は急遽決定した虚淮の量刑についてあまり快く思っていないらしい。この件で出張に来ていた総本部の幹部は、移送の手段は何だだの警護はどうするだの果ては拘束の程度にまで口を出す始末だった。結局、館長の代わりに、哪吒が一喝して全員を黙らせた。
「俺様が警護についてやる。俺様が信用できない奴だけ文句を言え。……文句はねぇな」
そんなやりとりを経て、同行者は虚淮本人と哪吒、館長の指示で逸風と自分の四人と相成った。移送手段は飛行獣、中空の転移門を使用し、南方海上某所を目的地とする。目的地は虚淮には報せていない。総本部の意向で、虚淮にはどこに連れていかれるのかわからないようにするための目隠しと、簡易の手枷がつけられた。そこまでやる必要はないと言いたかったが、潘靖が無言で止め、意図を察して冠萱も思いとどまった。彼らの目に入る範囲では、厳重にしていたほうが良いのだ。恐らく、今後の虚淮のためにも。
館長と総本部の幹部に見送られて桟橋を離れると、冠萱はひと息ついて隣を見た。刑の宣告以降、虚淮は空気のようにおとなしい。不穏な行動をすることもなく、言われたことに素直に従っている。自分の危険性を主張することで仲間から目を逸らさせようと振舞っていたが、その役割は終えたのだと自分の中で納得したのかもしれない。
哪吒は出発時からずっと腕を組んで胡坐をかいていたが、館が見えなくなると立ち上がり、飛行獣の耳元へ何か囁いてから虚淮の横に戻ってきた。反対側の隣には冠萱が、後ろには逸風が座っている。
「総本部の連中がうるさくて悪かったな」
再び座りながら哪吒が言う。
「別に。今更気にしていない」
正面を向いたまま虚淮が答える。
目隠しをした顔面を、西へと傾きかけた陽が照らしていた。
「……え、西?」
驚きのあまり思考が思わず口から飛び出た。虚淮は進行方向を向いており、陽は正面から当たっている。突然の頓狂な声に逸風と哪吒が覗き込んだ。
「今我々は南に向かってるんですよね?方向、おかしくないですか?」
哪吒は、一緒になって驚く逸風と自分とを交互に見ると、得意げに笑って言った。
「寄り道だ、寄り道。大丈夫、総本部は俺しかいねぇし、お前らがチクらなきゃバレやしねぇよ」
さっき飛行獣に何か言っていたのはこれだったのか……。バレやしねえと哪吒は言うが、本当だろうか。胃が痛くなる事態の可能性を考え、冠萱は眉を下げて天を仰いだ。
飛行獣は人間には見えない。それをいいことに、一行を乗せた飛行獣の高度はずいぶん下がっていた。高層ビルにぎりぎり届かないくらいの距離をゆっくりと飛んでいる。
「哪吒様、寄り道とは」
言いかける冠萱を無視して、哪吒は虚淮の枷と目隠しを外した。
「約束だ。目に焼き付けとけよ」
そこは风息が領界を展開した場所だった。哪吒の示す方向にあるのは、建設中の高層ビルを抱くようにして茂った太古の大樹だ。コンクリートの地面を突き破って根を張り、空へ向かって高々と手を伸ばす。うっそうと繁る緑は風が吹くたびにさらさらと揺れ、午後の日差しを反射している。もう巣ができているのか、そこここに複数の鳥が固まって居る様子が見え隠れしている。樹になった彼は、龍遊の森にいた頃のように、その腕に小さな生き物を抱いて養っているのだろうか。金色の光を浴びて堂々と立つ彼の樹に、そんなことを思った。執行人として、あんなに大変なことをしでかされたのにという思いがない訳ではない。幼い妖精の命を危険に晒し、多数の人間を巻き込んで平衡を乱した事実は断罪されるべきものだ。
しかし善し悪しを判断する以前に、彼は同じ妖精だった。帰郷を切望した同胞だった。
「どうだ、言った通りだろう」
哪吒が言い、虚淮は返事も忘れてその樹に見入っていた。飛行獣の毛並みを握りしめ、落ちそうなほど身を乗り出し、目をこれでもかと見開いて、いつも一文字に結ばれている唇はゆるく開いていている。静かに見開かれた硝子の瞳には、その樹の緑だけが映っていた。牢で会話した虚淮と同じとは思えないくらい、そうしている虚淮は少し幼い顔をしていた。飛行獣は一度ぐっと樹に近寄り、樹の周りを旋回しながら徐々に高度を上げていく。やがて薄い雲に遮られ、地上が全く見えなくなっても、航路が南に変わっても、虚淮はずっと、無言でその方向を見つめていた。
12.流刑者
再び上空に上がった飛行獣は、海上中空にある転移門を抜けて南下し、小さな島に着陸した。虚淮は執行人たちに続き、豊かな毛並みを滑り降りた。浜を打つ潮の音が現実感を伴って押し寄せる。
「せいぜい長生きしろよ」
哪吒がぶっきら棒に言い、冠萱が元気で、と短く言う。逸風は少し躊躇ってから虚淮の手を取った。牢で虚淮の両手を止めた時と同じ、熱い手と真摯な眼差しだった。
「くれぐれも、自分を大事にしてくださいね」
虚淮は小さくああ、と応えながら、やっぱり似ていると思った。真面目で一所懸命で真っ直ぐに相手を見る。記憶の中の眼差しと重なって、口元が少し緩んだ。
飛行獣が空高く見えなくなるまで見送ると、虚淮はゆっくりと振り向いた。白い砂に緑の蔓が這い、ところどころに薄桃色の花が開いている。奥には暗い茂みが横に長く広がり、その先は森のようだった。逸風が取り急ぎ回復を施してくれたので、手足を動かすのに支障はない。とはいえ飛んでいくには霊力が足りなかった。虚淮はひと足ずつ砂に埋まりながら、久しぶりの外界の地面を踏みしめた。
茂みを越え、暗がりに目が慣れると、森の奇妙さが目を引いた。うねるような幹はともかく、同じ箇所から大量の枝が出ていたり、それが不思議に絡まっていたり、かと思えば真っ直ぐに生え揃った場所があったりする。自然発生した森でこんな風に樹が生えることは無い。人工の森ならもっとだ。
ぐるりと見回し、遠くに石像を見つけて虚淮は確信した。これは风息の生やした樹々、ここはあの島だ。人間に忘れ去られた島。忘れもしない、ここは风息と洛竹と天虎と、束の間の数十年を過ごした島だった。
虚淮はひとりあてどなく歩いた。移動に使っていた転送門は风息の手で植物に覆われ、苔むした扉が枝々の間から僅かに見えるのみだ。真っ直ぐに立ち並んだ樹は、壁になって退路を守り導いてくれたもの。その隙間から伸びた太い蔓は、苦しげにうねったまま息絶えているように見える。目を逸らして反対を見ると、石造りの広場と階段には、无限の己界によって呑まれた大小の丸い穴が大量に空いていた。深い森の側に足を踏み入れると、鋭利な金属で抉られた跡、切り倒されたり斬り裂かれた跡の残る樹々が大量に目に付いた。切り傷に触れると、ささくれ立った樹皮がトゲトゲと指を刺す。しかし顔を近づければ、切れ目から新たな樹皮が盛り上がり、傷を修復せんとする様が見て取れた。陽の光を浴びて暖かい幹に手のひらをあてる。これらはきっと、风息の闘った跡だ。
あの日の戦闘を思い出す。无限の己界と物質霊の自分の相性不利は言わずもがな、木属性の风息と洛竹も相性としては分が悪い。戦闘向きでない洛竹はかわすので精一杯、天虎は力も技術もまだまだ未熟で、攻撃を当てることすら叶わなかった。有事に備えた普段の訓練も、そこで培った連携も、无限の前では無力だった。実質风息がひとりで相手をしていたようなものだ。
戦力になれず悪かったな、と思う。腕を己界で奪われなければまだ助けになれたかもしれないが、身を晒すこと自体が自殺行為な相手だ。腕だけで済んで良かったと思うしかない。そんな状況でも、风息は常に先頭を切り弟たちを護り最後尾をつとめていた。結局、それがあの子のやり方だった。不器用で実直な、生き方そのもののような戦い方。
根を踏み分けて奥へ進むと、細い糸で縛られたような痕の残る樹が増えた。原因は針金か、それともそれ以上に細い金属か。そこら一帯の樹で、その痕がない幹は無かった。
酷いな。氷の双眼を眇めて見回すと、ふ、と細い幹に目が止まった。木漏れ日を浴びて輝くようなそれは、年老いて横たわる樹の幹から生えた若木だった。そっと触れるとみずみずしい若葉が揺れ、虚淮ははっとした。周囲の樹には何本もの痛々しい傷があったが、この木だけは傷がない。同じ高さの幹に同様の痕がないのは不自然だった。不思議な神々しさを感じ、その樹をじっと見つめる。それから虚淮は、ふっと笑みを漏らした。そうか、风息が守ってやったんだな。そうか。しなやかな幹を撫でてやると、樹は嬉しそうに体を震わせた。
いくつもの枝をくぐり抜けていくと、気を集めていた水場は以前と変わらずそこに在った。淵の石は緑に濡れて、水面にはひとつふたつと落ち葉が揺らめき、枝々の間から差し込んだ陽がその陰を水底に落としている。虚淮は思い立って、いつものように水の上に立つのは止め、水の中にざぶざぶと入って仰向けに浮いてみた。目を閉じると、あの日頭を支えてくれた风息の手がよみがえる。初めてこの島に連れて来られた日ーーあの時も、自分は风息に助けられたのだった。龍遊の環境が汚染され、霊力が補充できずに死にかけていたのを、风息がここへ連れてきてくれた。
浮かんでいる虚淮の周りに、精霊達がぽつり、ぽつりと寄ってきては霊力を分けてくれる。蛍のようにぼうっと光って、上へ下へと飛んでいる。
「ああ、ここの霊力は心地いいな」
あの時と同じ言葉を呟いてみる。薄く目を開き、ありがとう、と呟くと、精霊はほよんと膨らんで楽しそうに撥ねていった。
精霊の囁きと風に揺れる葉擦れの音が耳に優しい。天虎の盛大な水しぶきの音も、同時にキラキラ舞う水滴も、洛竹の泣き声も风息の笑い声もない。そこは、途方もなく優しくて、残酷なほどしんとした、ひとりきりの水辺だった。
やがて日は落ち、星が覗き、月が見下ろす頃、虚淮は寝床の樹のうろに横になった。以前使っていた寝床は奇跡的にそのまま残っていた。運よく无限の攻撃を免れたらしい。寝転がり、天井を眺めながら虚淮は思った。
お前には、助けられてばかりだな。
私はお前に、なにもしてやれなかった気がするよ。
離島での风息は、以前のような笑顔が減って、思いつめた顔をしていることが多かった。出かけている時間が長くなり、兄弟たちと過ごす時間も徐々に減っていった。けれどもやっぱり、一緒に生活している以上はどんな些細なことも、この空間の端々に想い出として引っかかっている。それらは映像となり、聴覚や嗅覚や皮膚感覚を伴って虚淮にまとわりついた。静かすぎるこの島というのがそもそも違和感満載なのだ。違和感を拭いたくて、ねぐらの樹に、緑の水辺に、焚火の跡に、転送門からの道々に、つい無意識に気配を探してしまう。
まずいな。虚淮は眉間に皺を寄せて閉眼した。正直、今後過ごす場所が龍遊でないと知った時はほっとした。あの地には想い出が詰まりすぎている。龍遊以外の場所であれば辛くないと思っていたが、読みが甘かったようだ。どこを見てもどこを歩いても、ささいな思い出が胸を刺す。この離島も相当に、しんどい。
虚淮は寝返りをうち、思考を切り替えようと試みた。長い長い生の中で、风息と過ごしたのはたかだか二百年。それまではずっと一人で暮らしていた。なんてことはない、あの頃に戻るだけだ。とはいえ、ここ二百年が騒がしすぎて眩しすぎて、以前のような静けさに慣れるのにはずいぶん骨が折れそうだ。
身体の中心に穴が開いていて、そこへ風が吹いている。ここは南国のはずなのに、すうすうと身体を吹き抜ける寒さが堪えた。温かさを教えたのが风息なら、この寒さもまた风息がもたらしたものなのだろう。まったくとんだ置き土産だ。
その夜、静かすぎる島の片隅で、虚淮は何度も寝がえりを打った。
13.執行人たち
龍遊での例の事件から数か月。事後処理はほとんど終わり、龍遊妖精館には比較的平和な時間が流れている。所用で龍遊に来ていた哪吒は、館長執務室で出されたお茶を飲んでいた。潘靖は机上に広げた書類を整理しながら穏やかに口を開く。
「哪吒様、用事はもう済まされたのですか」
「ああ、俺様の手にかかれば瞬殺だ、瞬殺」
「ではこれから総本部に戻られる、と」
「そうだなー。帰ったら帰ったで仕事が積み上がってんだろうからな。ちょっとここで時間潰して行くか」
総本部は総本部で、各支部の厄介ごとに対応したり救援を要請されたりその事後処理を管理したりと、なにかと忙しかった。こんなに有能な俺様がいるのに、なんでこんなに次から次へと仕事が舞い込むのかと言いたくなるが、まあ有能だから仕方ねえか。哪吒がにやりと笑うと、潘靖が机に積まれた書類の山から一束抜き出し、それではこれを、と差し出した。
「あ?」
ソファに寄りかかっていた哪吒は片眉を上げ、頭の後ろで組んだ手をほどいて受け取った。その紙束には『虚淮』の文字があった。
「虚淮の報告書です」
一応監視をつけていますので、と潘靖が言った。報告しないとまた総本部の一部の妖精がうるさいでしょうから。
哪吒はペラペラとめくって眺めてから、途中で文字を追うのをやめた。表向きは大人しくしているようだが、こんなもの見たってあいつの心がわかる訳はない。館に従順であるかなど。反抗心があるかなど。
「これを持っていけってか」と、乱暴に握って潘靖を見上げる。
「仰る通りです」
ふうん、俺様をパシリにするたぁいい度胸じゃねえか。哪吒は資料をテーブルに放ると、再び背をソファにあずけ、足を伸ばして首を反らした。
「俺様が読んだことにして、問題なかったって言やぁいいんだろ。問題ねえよ」
「いや、読んでないじゃないですか」
正論なツッコミは流すに限る。哪吒は潘靖の意を介さず、茶菓子を摘みながら思ったままを口に乗せた。
「虚淮なー。まさか流刑になるとはな」
甘ったるい餡と香ばしい皮を咀嚼しながら数ヶ月前を思い出す。虚淮と会った後、潘靖とともに総本部に赴き、虚淮の量刑について総本部と談判した。
「俺が責任持つから龍遊でって推したんだけどな」
妙なことをすれば自分が始末するからと。おかしなことはさせないからと、自らストッパーになることを提案したが、その案は総本部の幹部によって棄却された。潘靖のほうも思い出しているのか、ソファに移動して腰を下ろすと息をついた。
「今回は状況が状況でしたからね。人間側への忖度も必要でした。今後のことを考えても、握りつぶすのはあまり得策ではなかったでしょう。むしろ向こうの言う通りにしたことで、ある程度は任せてもらえることになりました。今のところ、細部の裁量は我々に任されていますから」
監視のことか、と問うと潘靖が首肯した。虚淮の監視は龍遊館で行うことになっている。潘靖はあの場で、そこまで引き出してから諾の意を表じた。交渉の落としどころを見極め、押さえどころをぬかりなく押さえるところは、さすが潘靖だ。
ただ、そうは言ってもと哪吒は思う。哪吒にとって多少関わっただけのいち妖精である虚淮に、別に同情してやる義理はない。だが、捕縛した瞬間の虚淮の様子と、牢での様子を考えると、今のあいつにあの措置は堪えるだろうなと思った。身を呈して守ろうとした子同然の者たちと永遠に引き離されたまま、長い生を全うせよと放り出されるというのは。……まあ、時間が解決してくれんだろうが。
「総本部や人間の目に映っている虚淮は、风息の共犯者かつ悪の黒幕、大変な凶悪犯ですからね。表向きは厳しいほうがいいんです」
ふん、と鼻を鳴らすと扉が鳴った。次いで冠萱が顔を出す。
「館長、転送門の準備が完了したようです」
「転送門?」
ああ哪吒様いらしてたんですね、とさらりと言う冠萱に疑問符を投げる。
「よし。では彼を呼び出してくれ。この時間なら昼には連れていけるだろう」
潘靖は冠萱にそう告げると、哪吒に向き直って言った。
「館内の転送ゲートに、例の島へのルートも追加したのです」
「監視がしやすいようにか?ご苦労なこった」
まじめか、と心のうちでツッコむ。龍遊館の館長としては、そこまでやっているという姿も必要なんだろうが。
冠萱が行ってしまうと、潘靖は茶杯を傾けひと口飲んでから膝の上で両手を組んだ。
「妖精は皆、ひとりで産まれてひとりで育つ。人間のように親だの子だのはありません。周りに仲間がいない環境ならば孤独なものです」
「まあそうだな」
「豊かな自然と精霊が溢れている場所ならばあるいはとも思いますが、そういう場所には妖精も複数いますからね。人間が溢れかえったこの世界で、我々も妖精館という組織に帰属することで救われている部分が大いにある。館でなくともそれに類するものは、どんな妖精にとっても必要なものです。存在を認めてくれる場所、支えたり支えられたりする他者、それらは生きるために誰にとっても必要なものだ。ーー虚淮にとっても」
「なるほどな。それで?転移門を使って館へ連れてくるのか?」
「いいえ。虚淮は流刑の身、規則に反することはできません」
潘靖の目が、眼鏡の奥でにやりと笑う。
「こちらから、送り込むのです」
再び扉が鳴り、冠萱が顔を覗かせた。
「館長、洛竹が到着しました」
「なるほどな。さすがだよ潘靖館長」
流刑先の無人島に、家族であり共犯者であった者を送り込むとは。まったく。
「そういう話を俺の前ですんじゃねぇよ。総本部にバレたら大目玉だぞ」
呆れながら言うと、潘靖はそれはそうかもしれませんが、とこともなげに言った。
「大丈夫、あなたがチクらなければバレやしません」
哪吒はじろりと冠萱をにらんだ。……お前、チクったな。冠萱は目を逸らし、潘靖に視線を送っている。潘靖はどこ吹く風だ。
「なに、言い訳なら用意しています。とりあえず今回は、監視役の妖精にお使いを頼んだと、いうことにしておきましょうか」
潘靖が立ち上がりながら言った。
14.来訪者
しっとり湿った深い緑色の、やわらかい苔の絨毯の上を、小さな生き物が駆けまわっている。巣穴があるらしい太い幹は、堂々たる焦げ茶の体躯をぐるりとうねらせ、空へ向かって枝を伸ばしていた。切り出された石の間から、巨大な岩の隙間から、樹々は逞しく天を目指して伸びている。頭上には濃淡の緑が幾重にも重なって、その隙間から落ちる陽は精霊達を淡く透かして、空中の粒子をキラキラ反射させながら地面に白いもようを描いていた。今日は天気がいいらしい。虚淮は水の上に浮かんで、うっかり開いてしまった目を閉じそう思った。
ここへ来てから目を閉じていることが多くなった。目を閉じていても、まとわりつく湿度や温度や風や光は否応なく記憶を呼び覚ます。それでも多少はましだった。目を開けると眩しすぎて、不意をついて怒涛のように押し寄せる過去の記憶に眩暈がするのだ。
初めの頃は、陽のあるうちに不用意にうろついて、風で葉が揺れるたびに、生き物が後ろを通るたびに、いつかの残像が掠めた。そんなはずはないのにと思いながら振り返り、確認してはやはりと小さな落胆を味わうのが、地味に堪えた。
なるほどこの流刑はおあつらえ向きだ、と虚淮は自嘲した。お前たちがやろうとしたことを思い知れと。人間も妖精も誰も足を踏み入れない、ひとりきりの『妖精の楽園』。
そんなわけで初めの頃虚淮は、一日の大部分を寝床で目を閉じて過ごした。しかし、昼間に眠ると夜に目が冴えてしまい、それはそれで辛い。ここ数か月はただ生きるというそれだけのことに試行錯誤の連続だった。最近ようやっと目の眇め方を身につけたところだ。
朝は、日の出前に目が覚める。まだ薄暗い森を、あの樹の場所まで歩いていく。寝床からはずいぶん離れたところにあるので、辿り着く頃にはすでに森が白い光に包まれている。膝ほどの高さだった若木はもう腰のあたりまで伸びていて、その細くしなやかな樹の根に水を遣る。森の樹々が育つためには地中の水や時折降る雨で十分だった。大量にやったりしたら根腐れを起こしてしまう。だから虚淮はほんの気持ちだけ、指先から滴る程度に水を遣った。精霊魚が起きたばかりの若葉をつつき、萌え出たばかりの柔らかい緑が楽しげに揺れる。樹が元気そうなのを見て満足すると、虚淮は取霊をする水場までゆっくり歩いた。目を覚ました鳥たちが口々にさえずり、その中の一羽が肩に止まって何か話しかけてくる。橙の腹に灰色の羽、頭と胸とくちばしが黒くて、くりくりした目玉を好奇心いっぱいに動かして、そしてよく喋る。見るたびに、この小鳥は洛竹にそっくりだなと思う。以前巣から落ちていたのを拾ってやったら懐かれたのだ。あの時は自力で飛べない雛鳥だったのに、もう余裕の表情で飛び回っている。指を差し出すとそちらへぴょんと飛び移り、羽繕いをはじめた。虚淮は鳥が飛び立つまでじっとして待っていてやる。虚淮があまりに微動だにしないので、鳥の方はもしかしたら、虚淮を樹の一種だと思っているのかもしれない。
鳥たちが飛び去ってしまうと、今度は道々落ちた木の実を拾って歩いた。つやつやの団栗にでこぼことした胡桃。栗鼠の巣穴の下までくると、その木の根元に置いてやる。虚淮は食事を要さない。元々が物質の身、気を集められれば生命は維持できる。だからただなんとなく気まぐれでやってみただけだったのだが、喜ばれたので続けている。しゃがんだ虚淮を見つけ、周りにいた動物たちが寄ってきた。初めの頃は天虎の姿がないことを不思議がり遠巻きに小首を傾げていた彼らだったが、天虎はここにはいないんだと話してやると、最近は虚淮にまとわりついてくるようになった。虚淮のほうも、鼻面を寄せられれば撫でてやり、飛びついてくれば抱き上げてやる。
水場まで辿り着くと、水の上に立って気を集めた。今日一日を過ごせるだけの量を補給すると、虚淮はなんの未練もなくそれをやめた。取霊が済んでしまうと、一日のすることが終わる。森から逃げるように海へ行き、残りの時間は浜で過ごした。
皆で島に住んでいた頃は、浜に来たことはほとんどなかった。龍遊の森が故郷だったので、森の中の方が肌に合ったのだ。こんなに波の音を間近に感じるのは、長年ここに住んでいたが初めてのことだった。浜に座ってあるいは寝そべって、早く夜が来ればいいとばかり願って過ごした。西の空が朱に染まり、太陽が海に落ちて夜の帳が降りるころ、虚淮は森へ帰った。寝床のうろに潜り込むと、横向きに丸くなって眠った。これが虚淮の身につけたやり過ごし方だった。
もう何日こうしているだろうか。数えたりはしていなかった。目が覚めると目が覚めたなと思い、早く夜になればいいと思いながら一日を過ごし、夜になるとああ夜になったと思う。連綿と続く時間をただ淡々と過ごす。明日が来なければいいと願いはしないが、来なくても別にいいとは思う。
そしてまた一日が始まった。朝が来て、今日もまた目が覚めたなと思い、外に出る。東の空には薄い白が刷かれていて、しかしまだ頭上では星がいくつか、残り火のようにちらちら瞬いていた。朝露に濡れる草を踏み分け森の奥へ行き、いつものように樹に水を遣り、目覚めたばかりの鳥やけものと視線を交わす。
そうして水辺で申し訳程度の気を集め終わった虚淮は、砂に足を埋めながら歩き、浜の岩場に腰を下ろした。島の反対側はもう太陽に乾かされ温まっているのだろうが、この西の浜はまだ夜の名残がひんやりしている。
波の音が規則正しく寄せては返す。波打ち際から沖の方へ視線を向けると、水平線に近づくにしたがって海は白っぽくなっていった。空と海の境は、淡くぼやけてよくわからない。時折、海鳥の影が視界を横切っていった。
ひがな一日、ここでぼんやりする。面白くはないが、そもそも生きることに面白さは求めていなかった。元来虚淮はそういうたちだ。この浜辺には思い出が全然ない。だからここにいれば、ありもしないものが視界を掠めて目で追うことはない。幻聴に振り向いては鳥の囀りに肩を落とすこともない。岩に背を預けそんなことを考えていたその時、聞き覚えのある音が耳に飛び込んで、虚淮は目を見開いた。
風でも植物のざわめきでもない。鳥の囀りでも獣の鳴き声でもない。
その音は、虚淮、と言った。それは声だった。
柔らかい、それでいて張りのある、甘さと若さの残るその声は。
耳を疑う頭にもう一度響いたそれは、己が名を呼ぶ声だった。
立ち上がり視線を彷徨わせる。浜辺の向こうから走ってくるのは。時折砂に足を取られては、転がるように駆けているのは。
「洛、竹……?」
居るはずがない。現実のような幻が見えているのか。ついに頭がおかしくなったのか。
目を擦ってみるが、幻は消えない。洛竹だ。
屋上で別れた時と同じ姿形をしている。
本物の、洛竹だ。まさか。
釈放されたのか。
無事だったのか。
どうしてここに。
喉元まで込み上げた問いかけを、間近に迫った懐かしい声がかき消した。
「虚淮!」
〈了〉
【あとがき、という名の言い訳】
まずは、ここまでお付き合いくださりありがとうございました。
ここで終わるんかーい!と思われるだろうなと思い、その辺の事情をお伝えしたくてこれを書いています。
本当は、この後もう少し続けてから終わりにする予定でした(なお、もっと初期版には洛竹が出てこないパターンもありました。これはまた別のお話)。ところがいざ書く段になって、今まで目を逸らしていた、自分の洛竹の掘り下げの甘さに気付いてしまいました。ここで虚淮と再会した洛竹はどうするのかな?笑うんだろうか?泣くんだろうか?怒るんだろうか?
洛竹は、いろんな方がすでに考えたり描かれたりしていますが、とても複雑だと思っています。素直で天真爛漫でムードメーカーでかわいい弟分であり兄貴分。だけど、作戦の全貌を知らされていなかったんだろうなと思う雰囲気や、风息を止めようとして虚淮に止められる屋上のシーン、逃げて捕まって最初に釈放されたらしい(これは公式寄りの非公式だと思いますが)などなどを考え合わせると、彼が様々な立場の人物の間で揺れ、何を感じ、何を考え、何を思って行動したのか、ちゃんと掘り下げないとここは書けないなと判断しました。この中途半端な終わり方の先は、洛竹というキャラクターを自分なりに掘り下げてみてから、洛竹編として書きたいなと思っています。
言い訳はこのくらいにして、せっかくあとがき作ったので覚え書きがてらいくつか。
今回の話は、当初はこんなに長くするつもりはありませんでした。哪吒様と虚淮の「龍遊を氷漬けにするぞ」「その時は俺がお前を殺してやるよ」というシーンだけが浮かんでいて、それを書きたいがために始めたんですが……どうしてこうなった……。やはり書くにあたって、「虚淮はなんで秒で救援要請されたんだろ?過去何かあった?」「牢に入った虚淮は何を思ってどうするんだろう?」「こんなセリフを吐くとしたらそれはなんでだろう?」「风息が樹になったことはいつどうやって知るんだろう?」あたりの疑問が浮上してきて、それをひとつずつ潰していったらああなってしまいました。
それと、書くにあたって、今までほとんど考えたことがなかった館の皆さんのことを初めて考えました。とはいえ全然掘り下げてなくてイメージだけで書いててすみません……。でもこれを書こうと思ったおかげで、冠萱さんクラスタさんとお知り合いになれて楽しかったです。多大な影響を受けております。
キャラクターのこと。
冠萱さん。中の人からリプを頂き挙動不審になったのも良い想い出です。冷静で有能なんだけど情の深い人というイメージがあります。虚淮のこと一所懸命考えてくれ、見抜いてくれてありがとうございました。
逸風君。「駄目ですよ!!」って叱ってくれる君の優しさと熱意に私と虚淮が救われました、ありがとう。冠萱さんの健康管理も頑張ってください。
潘靖さん。飄々としてしたたかで、部下に慕われる館長というイメージがありました。あとちょっとお茶目。部下の勘を信頼してくれるのとか格好いい管理職ですよね。映画の転送シーンの「大爽さん、はじめよう」が好きすぎて惚れます。(総本部の皆さんのことは、ミリしら過ぎて悪役にしてしまいました、ごめんなさい)
哪吒様。イメージ合ってるのか本当に不安なんだけど、この人が出てくると凄い速さで書き上がったんですよね。さすが神仙。館メンツとの掛け合いが楽しかったです。虚淮にもなんだかんだで優しい人間み溢れる哪吒様。個人的に、寒いなと言う虚淮のことを哪吒様が「人間くさい奴」と評するのがとても好きです。
虚淮。虚淮のことを書こうとすると、「こんな情緒グズグズなのは虚淮じゃない!」という私と「情緒グズグズになる時だってあるよママなんだもの!」という私が解釈違いの殴り合いをし始めるので、そのへんの匙加減にとても悩みました。ドライとウエットの狭間。
最後に、背中を押したり、いいねやご感想くださった方々。いつも励まされていました。完走できたのは皆さんのおかげです。伴走ありがとうございました。感謝!!!!