歳を取らなくなった凌牙と、ベクターの回想録
@fu_re_re_ra
真っ暗な、闇。
一寸先も見えない闇に巻かれて、神代凌牙はそこに立っていた。
ゆるゆると目を開けて、暗がりに視線を向ければ
そこは底無しの闇を抱き込んで、ぽっかりと口を開けていた。
(…夢か)
凌牙は闇に立ち、胸の中で呟く。
手のひらを見れば、そこにあるのは身体に馴染んだ着慣れた服だった。もうずいぶん前にボロボロになって着れなくなったはずの服だ。腰に手をやっても、デッキに触れない。命に等しいデッキを手放すことなどあり得ない。
つい先程まで身を寄せ合うように仮眠を取っていた双子の片割れも側にいない。
空腹も、疲労も、現実味を感じさせるものは何も無かった。ただ、薄ぼんやりとした浮遊感が身体を包み込んでいる。
夢だ。つかの間の仮眠の見せる幻。
足元の感覚がリアルだ。砂地を踏んでいるのに、足元に河が流れている気がする。さらさらと見えない水が風のように足首を撫でていく。それは酷く心地良くて、まるで海に呼ばれているような安寧と不安感を与えた。
現実にはあり得ない奇妙な感覚に、そのままくずおれて身を委ねて溺れてしまいたかった。酷く疲れていた。現実に帰りたくないと思った。過労が見せた陽炎、己の願望かもしれないと思った。
けれども、帰らねばならない。つかの間の休息が明ければ。
けれども。もう少し。
さらさら。さらさら。
足元を、さらさら。流れていく。
見えない水が、流れてく。
足をくすぐる感覚に目をやれば、
見えない水の中を、花が泳いでいく。
真っ赤な華。あふれる花。染め上げる、紅。
腰元を、さらさら。流れていく、赤。
指先に、触れては離れて、流れていく赤。
あか、あか、あか
赤い色の、洪水が、あふれて
凌牙を包んで、遠のいていく
凌牙は、ああ。と。理解した。
此処は。
花の名は、彼岸
凌牙を包んで、流れていく、花の嵐。
凌牙は、心地よく立ち尽くしたまま、指を広げた。
広げた指の間を、さらさら。見えない水が、流れていく。
ここは、川だ。赤の河。彼岸花の流れ往く世界。
不思議な光景だった。見えないのに心地よく触れられる水。
頬をかすめる赤の花弁の柔らかさが、凌牙を誘う。
ここを、知っている。体が水にしっくりと馴染んでいく。
水の流れは、凌牙に、満たされるほど幸せな、回帰を思わせた。
胎内に帰っていくような、喜び。心地よさ。ああ、確かに此処は凌牙の故郷であった。
いくたびも、掴み損ねた、ここは死の国。凌牙に、帰ってこいと、呼んでいる。
宙を泳いで流れて去っていく赤の花、とめどなく、とめどなく、嗚呼。
流れていくあの向こうには、何があるのだろう。
流れは凌牙の肩まで覆って、凌牙は、くらりと流れに心を委ねて誘われた。
誘惑される。
こちら、こちら。鬼さんこちら。手の鳴る方へ
「まだ早えよ」
耳の痛いほどの静寂の中で、ざり、と
砂を踏む音がして
振り返りかけた、そのとき。
「振り向くな、凌牙」
暗闇を射抜いて、声が耳を震わせた。
凌牙は振り返りかけた肩を震わせて、見開いた眼で立ち止まったまま
思いもよらなかったその声に
その名前を、胸の奥深くで、震わせた。
動けない凌牙の背中に
トン、と、重みが掛かる。
振り返らない肩越しに背中を合わせて
その男は、そこに立っていた。
「久しぶりだな、凌牙…」
(ああ…)
なるほど
ますます夢だ
もう随分昔に。
見なくなった、金の裾。
耳朶を叩く懐かしい声が、
凌牙の背中に触れていて。
「変わんねえなぁ、凌牙」
クツリと喉で笑って
男が語尾を柔らかく笑ませるのを
背中越しの振動で、感じていた。
(……Ⅳ)
数十年ぶりに口にした名前は
大気を震わせただけで音を為さなかった。
喉が。震えてしまったから。
◆
「随分ぶりだなぁ、凌牙」
ちっとも顔見せやがらねえから、つい様子を見に来ちまった。
オレはファンサービスには余念が無えからな、とゆったり紡がれる声に、なぁにがファンサービスだ、そう鼻で笑い飛ばすことも出来たのに。
肩が震えて声にならなかった。だから、真っ暗な中でⅣの声だけがする。
声を聴けば、嘘みたいに鮮やかに脳裏に蘇る姿。見えない背中に、金の縁取りの白の長裾がはためいて、ドローするカードが光を弾いた気がした。
ああ、そうだ。こんな声をしていた。久しく思い出せなくなっていた。
決闘中にこの声で、挑発して口角を上げていた。
奴の眼、どんな色をしていただろう。妹とよく似た紅い目をしていた気がする。
あれほど追い掛けて睨んで見つめた目を、その傷を。
もう、思い出せなくなっている。
真っ暗な世界で、背中越しの笑みの振動だけが全てだった。
「相変わらず、面倒な道ばっかり選ぶなぁお前は」
くつり、くつりと
暗闇の中で、ポロポロ落とすような笑む声だけが、落ちては、生まれて。
「ほとほと、困った奴だよ、てめえは。だがまあ、お前らしいっちゃお前らしいよ」
肩ごしの背中が、笑みで優しく震える。
知ったような口をきく、懐かしい、声。
「見てたぜ」
胸が、震えた。
決闘中に、幾度も聞いた
在り方を許容して、笑って受け止める声だった。
凌牙のことを、認める声音だった。
「なんたって、一番のファンって奴だからなぁ」
もう、最後にその顔を見たのは、一体何年前だっただろう。
「ここで諦めちまうのは、早えだろ?」
「オレは何一つ後悔なんかしてないぜ。まぁ、一つ気掛かりがあるとすりゃあ、底抜けに馬鹿な頑固者をひとり、置いていっちまった事ぐらいだが、それだって、心配はしてねえさ。ヤワじゃねえよ、オレが生涯ただ一人選んだ奴だからな────」
笑んだ気配だけが、優しく降る。
舌がもつれる。
胸がつまって、言いたいことがあふれて、喉につかえた。
「Ⅳ……」
「時間だ」
はっとした。
待て まだ
「ファンサービスの時間は終わりだ」
ぶわりと吹き抜けた
彼岸花の、洪水
紅に覆う花吹雪の中で
振り返った金色の髪が、笑んだ。
ああ、そうだ
アイツは、こんな色の眼をしていたんだった。
「一足先に、待ってるぜ凌牙。
まあ、ゆっくり来いよ。焦るこたねえさ…」
遠慮がちに揺すられる感覚で、目覚めた。
まぶたを押し上げれば、目の前に涙ぐんだ妹の辛そうな瞳があった。
じわりと、瞬く間に瞳を水であふれさせた。
ほとんど失神するような形で、妹の膝の上で意識を失っていたことに気付いた。
「ちょっと休憩してただけで、どこまで行ってるのよ、ばかぁ」
ああ、懐かしいと感じたあの水はこれだ。
優しく、温かく、塩辛いこの水。呼ぶ故郷。潮鳴りが呼んでる。
凌牙の頬に、雫がポタン。落ちて、光に弾けた。
「泣くなよ、璃緒」
「凌牙……ごめんなさい」
夢の世界から引き戻したことを辛そうに詫びる妹に、慰めに頭をくしゃりと撫でてやった。
璃緒が背中を預けていた瓦礫。そこから起きて顔を上げれば、荒廃した大地がどこまでも広がっていた。
凌牙はため息をついた。
「……Ⅳに会った」
あいつ、化けて出やがった。
そう口にすれば、璃緒はギョッとした。
「凌牙、あの人は、」
「分かってる。まだボケちゃいねえよ」
ため息とともに、自分の両手を見つめる。
あれから成長しない、手足を。
「アイツらと最後にデュエルしてから、そろそろ、200年になるな」
凌牙たちが歳を取らないことが発覚したのは、皆でアストラル世界から帰って間もなくだった。
「シャーク……!」
「ンな顔すんな、遊馬」
凌牙は覚悟を決めた。
バリアラピスが尽きる日まで、気が遠くなるような月日を生きていくことになるだろう。
七皇は歳を取らないが不死ではない。ヒトより寿命は長いだろうが、いつかヒトと同じように胸のバリアラピスが尽きる時が来る。
だから滅びを受け容れることを決めた。この世界で、ヒトに交わり生きていくことを。
「なあ、シャーク、一緒に考えよう。きっと何か方法がある、だから…!」
「……遊馬」
一緒に歳を取る方法を考えようと、遊馬たちはそう言ったけれど、凌牙たちは首を横に振った。
ヒトと流れは違うが、姿は同じでも老いて滅んでいくのは同じ。
「なら足掻くより、限られた時間をヒトとして、この街で生きてえ」
遊馬に、凌牙はそう返した。
いずれ老いない自分達は、この街にいられなくなるだろう。
だから、限りある時間をヒトとして生きさせて欲しいと、『今まで通り』を願った凌牙達に、仲間は、唇を引き結んで首を縦に振って。
だから、七皇がこの街でいつまでも生きていけるように、あらゆる力を尽くしてくれた。
思い返せば、あっという間だったようにも思う、まばゆく輝く青春だった。
気が遠くなるほど長い日々を過ごしたが、あの日々だけは、いつまでも凌牙たちの胸の中で鮮やかなままだ。
意外だが、仲間内で最初にめでたい話が出たのはクリストファー・アークライトだった。
Vの一人娘は、研究一辺倒でスパルタな父親を差し置いて、意外なことにⅣによく懐いた。
Ⅳも生まれた姪っ子を赤ん坊の頃からずいぶん可愛がっていた。もしも結婚して実の娘でも出来ていたら、案外子煩悩な男だったのかもしれない。
凌牙から見ても人目を惹く整った綺麗な顔立ちをしたアークライト家のご令嬢は、Ⅳの悪影響というべきか回避できない血だったというべきなのか、したたかでなかなかに性格の悪い娘に育った。
テンションの上下が激しくてやたらデュエルで人を煽るあたり完全にⅣの悪影響だろう。V譲りのストレートな長い髪を結い上げたお転婆娘は、とにかくチビの頃からⅣにべったりで、Ⅳと凌牙がデュエルするとやたらあっかんべをされたものだった。
「イッ‼︎」
Ⅳにデュエルで勝った日。アレはチビ助が五歳の頃だったか。しょせんチビ助だと油断していたら、Ⅳを虐めているとでも思われたのか、背後から向こう脛を蹴り飛ばされて悶絶したこともあった。
それをヤツらが、ムカつくことに二人して指さして腹を抱えて爆笑するのを、そんなひどく懐かしい日々を。
いま思い返せば、心から愛していた。
そんなガキンチョも大人になり、美しく着飾った結婚式に呼ばれた日も遠く懐かしく、老いた彼女の手を握って見送ってから、ずいぶん経つ。
子沢山だった彼女のひ孫まで見送って、今はもう、血の繋がりを知っているのも自分たちだけだ。
「アイツ、どことなくⅤに似てきたな」
クリスの玄孫のさらにひ孫にあたる、黒咲家の長男とアークライト家の血の繋がりを、今となっては黒咲自身も知りはしないだろう。
クリスが開発したランクアップマジックは、バリアンの協力のもと、副作用の限りなく少ない形に改良された。
その代わり、適合者を選ぶようになってしまったが。バリアンから人の手に渡って改良を重ねたカードは、もう今の自分たちには使えないだろう。
黒咲隼の持つカードは、かつてのⅤが遺したギフトだ。
だから黒咲隼がそれを使って生き残り、レジスタンスに現れたとき。レジスタンスを率いた七皇の多くがほっとしたものだった。
あれから250年。
平和だった街を侵略者が襲った。
それぞれの人生を生きていた七人の皇は再び集い、レジスタンスで戦い続けてる。
「皮肉なもんだな。かつて滅ぼそうとしたこの街で、今は崩壊したこの街を必死で護ってる」
傷の治りが遅くなってきている。
アリトやギラグも、以前のように動けなくなってきたと言っていた。胸のバリアラピスが、尽きようとしている。
「けどな、ここで終わりにする訳にはいかねえんだ」
奴らと生きたこの街を
今度こそ、滅びの街になどしない。
「この街が平和なら、このまま寿命を受け入れて、静かに滅んでいったさ。けどな、そうは問屋が卸さねえ」
「かっとビング……あの言葉を聞かなくなってからずいぶん経つのに、まったく、未だに耳にこびりついてやがる。うるさくてかなわねえ。おちおち寝てられねえじゃねえか」
諦めさせてくれねえんだ
瞼にチラつく金色の希望が
飛び跳ねては駆け抜けていく
アイツの残像が
「この街を滅させやしない。七皇の誇りに賭けて」
人間だった頃の自分たちを知る者はもう居ない。
それでもまた『神代凌牙』を名乗ってるのは
「イラっと来るぜ、どこのどいつだが知らねえが、ココは、俺たちの縄張りだ!」
バリアンの総力を挙げてこの街を護る。
建物の多くは滅んでしまったが、核シェルターの中で住民は無事だ。
人が無事なら、やり直せる。
希望は繋がってる。
この街を、決して諦めてたまるか。
────かっとビングだ、シャーク
今も耳に聴こえている
遊馬達が生涯護り抜いた街だ。
カイトが最初に倒れた日が、俺たちが最初に『別れ』を意識した日だったと思う。
ハートの塔の自室でカイトが倒れたという一報で、その日、俺たちの間に、激震が走った。
「だいたい、大袈裟なんだ」
白いベッドに強制的に放り込まれて、これ見よがしに苦々しくため息を吐いたカイトは、雪崩のように積み上がった、押し掛けた仲間たちを一瞥したかと思うと眉間を揉んで、別の意味で頭が痛いと言いたげだった。
遊馬や小鳥たち学校のメンツだけでは飽き足らず、ミザエルを始めとした七皇も、Ⅴを中心としたトロンのところのヤツらも皆なだれのように病室に押し掛けた。海外で仕事中だったⅣまで血相を変えて帰国したのだから、あの日俺たちに走った衝撃を、理解してもらえると思う。
なんだかんだと俺たちは、天城カイトという男を不死身のように頼もしく思っていたのかもしれなかった。
「よくもまぁ、ここまでムダに話を大きく……はぁ、さっさと帰れ」
一見ピンピンしていたカイトは、けれど実際、床から出るのに随分かかった。
それからだ。カイトが遠い目をするようになったのは。
いま思えば、予兆と言うにはあまりにも明白だった。
カイトの件でざわついていたあのとき
その騒動の隙にベクターが消えたのも。
何かあったのかもしれないと、遊馬たちが総出で泣きながら探していたのを一切合切まるっと無視して、ベクターは数ヶ月後にぷらっと帰ってきた。
ハートの塔に上がり込んで、いったいどこで見つけてきたのか、Mr.ハートランドを連れて、だ。
「きっさまぁぁカイトォ!くそっ、離せ!」
芋虫のように簀巻きにされたMr.ハートランドを放り出して、ベクターが胡座で無言でハートの塔に上がり込んだという意味の分からない状況に。
皆が困惑する中、カイトだけが「ふむ」と訳知り顔で頷いた。
「どのぐらい保つ?」
「俺たちにゃ及ばねえが、そこそこ長く。トロンや、そこのおもしろロボットよりはずっと」
つまりは、あの時点でもっとも現実が見えていたのは、カイトとベクターの二人だったということだった。
ふむ、と顎に手を当てて、カイトは思案げに何かを決めたらしかった。
「よくやった。おい、貴様」
縛り上げられたMr.ハートランドに
カイトは。
「ちょうどいい、後釜を探していたところだ」
カシャン、とデュエルディスクを展開して、不敵に笑った。
「デュエルしろ。俺が勝ったら貴様には、そうだな。父の──Dr.フェイカーの跡を継いで、この街の統治者にでもなってもらおうか」
「冗談だろ!?カイト、おまえ本気か!?」
「はっ、このオレが伊達や酔狂で動くとでも? 相変わらずとんだロマンチストだな」
ふんぞりかえって鼻で笑いやがったカイトの生意気なツラを、今も鮮やかに憶えている。
「なんでまた、Mr.ハートランドなんかをわざわざ……第一、お前、ヤツにハルトのことで散々、」
「七皇を排斥しない統治者を後釜に据えたい」
凛とした声がはっきりと凌牙を射抜いた。
凌牙は息を呑んだ。
「その点ヤツはベクターに恩がある。四悪人を統治していたのは七皇だ。保身のためにもある程度は御しやすく動くだろう」
「そん、な、ことわざわざしねえでも、今まで通りお前が、」
「あいにくだが、オレは先が見えている」
ゲホッ、と咳き込んだカイトの手のひらが
真っ赤に染まったのを目の当たりにして
俺は、絶句した。
「カイト…お前ッ…!」
「騒ぐな。今に始まったことじゃない」
親指でピッと口角を拭ったカイトが
平然と凌牙を見返して、不敵に笑った。
「問題ない。オレが負けるとでも?」
第一、どれほどヤツが好き勝手した所で
本当にこの街に害になることをしでかそうとすれば
「貴様らがそれを許さんだろう」
カイトはあれからも全勝を貫いた。
そして結局、最後まで勝ち逃げしていったのだ。
その晩年まで、恨み骨髄とばかりに何度もカイトにブチ切れながら挑んだMr.ハートランドは。
若くして病死したカイトに、気の抜けたように座り込んで。
結局、その遺言通りに、Dr.フェイカーの後を継いだ。
「私はね、結局、妬ましかっただけなのだよ」
苦笑するMr.ハートランドとそんな話をした。ベクターの言う通り、そしてカイトの目論見通り。
ヤツはその身のバリアライトが自然に尽きるまで、ずいぶん長くこの街の影の統治者であり続けた。
「気に食わなかった。あの頃は私に翻弄される手駒の一つでしかなかったのに、そのくせいつまでも高潔ぶって、汚れなかった。最後は勝ち逃げだ。そんな奴が気に食わなくて、なのに、死んでしまったら、ね、何だか拍子抜けしてしまったんだ」
私はね、カイトらしい気がするよ。
「真のギャラクシーアイズ使いとして、カイトの志は私が引き継ぐ」
カイトが逝ってから、長く塞ぎ込んでいたミザエルは、ハルトの手を強く握って、そう言った。
「託された魂に恥じぬよう、この街は、カイトが遺した全ての者は。この手で護ると誓おう」
ハルトは、皺だらけの頬をひどく幼く緩めて、ミザエルの手を握り返して何度も頷いて
そして、子供や孫に囲まれて穏やかに逝った。名前に似合った春の日だった。
ハルトが旅立った日。
俺たちの前に、不敵に笑った男が、すうっと現れて、ハルトに寄り添うように消えたのを、俺たちは見た。
彼らが遺した異世界研究は、今はドルベとミザエルが引き継いでいる。
あれからこの街は、250年以上の時を重ねていた。
遊馬と小鳥の娘が産まれた日のことは
今でも昨日のことのように憶えている。
「天っっっっっ使だ!!!!」
頭がお花畑なアリトが病院の廊下でクルクル回って踊っていたので、ぷらっとアポなしでやってきたベクターにも、病室の場所は丸わかりだった。
「天使と天使の赤ん坊!天使!天使に違いねえと思ってたが想像の100万倍天使!ふにゃふにゃ!ちっさい!マシュマロみてえ!天使!マイスイートエンジェル!」
「やかましい、退け」
げしっとアリトの腰を蹴り飛ばして病室に入ったベクターは、ベッドに臥せったまあ客観的に見て大層な美人さんに育った小鳥と、ガタイはデカくなったのに赤ん坊を抱えてガキみたいにおろおろした遊馬と目があった。
「ベクター!」
遊馬がこっちを見た途端、ぱあっとガキのように嬉しそうに笑ったので、俺はからかってやろうと思っていた第一声をうっかり忘れた。
13歳だったガキんちょの笑顔がフラッシュバックして、抱えられた赤ん坊と相まって、白く明るい部屋は、一瞬にして宗教画のように美しく神聖な空間になった。
静かに微笑んだ小鳥と
嬉しげに笑った遊馬の手で
固まったベクターの腕の中に
そのなんだかふにゃふにゃした小さい生き物は
優しくそっと抱き置かれた。
子ども体温なんて言葉ではおさまらない
太陽みたいな熱い熱い体温が
やわらかなミルクの匂いをさせて
ベクターの腕のなかで息をしていた。
「なあ、ベクター、お前に名付け親になってほしいんだ」
とろけるような幸せそうな声で
小鳥と笑い合った遊馬がそんなことを言うので
俺はその日考えていたあらゆることが吹き飛んで
たぶん、長え長え人生のなかでいちばん、ばかみてえに動揺した。
「なっ、頼むよ」
「お願い、ベクター」
呪われた皇子に名付けを頼む馬鹿がどこにいる。いやここにいた、そうだここにいるのは父親も母親も底抜けのお人好しの馬鹿だった。
俺はあの日、阿呆のように無意味に口をパクパクさせて、動揺でなんだかよく分からないことを口走った挙句
「あさってまでなんだけど」
「ばっっっっかじゃねえの!?」
閉館ギリギリの図書館に矢のように飛び込んで、山のように積んだ名付けの本を前に頭を悩ませるハメになったのだ。
醜態だ。忘れたい。心の底から無かったことにしたい。だが、どう足掻いても忘れられない、ひどく明るい春の日だった。
遊馬は、ベクターにたくさんの思い出を残していった。
この街を、ひとつひとつ愛するように、思い出を刻んでいった。遊馬と小鳥の一人娘も、ベクターに良く懐いた。
遊馬に良く似たお転婆娘は、ベクターをすっかりかくれんぼの相手に気に入って、どこにベクターがいても見つけて帰って来るようになった。
華やかな年頃を迎えても、老いないベクターを怖がらなかった。
「お前子守り向いてるぜ」なんて言われて、暇を持て余していたら何をトチ狂ったのか気付いたらエプロン姿で小さな保育園の手伝いをさせられていた。訳が分からなかった。オマケに気付いたら正規雇用されてた。なんでだ。
鼻水垂らしたガキどもは、ベクターをもみくちゃの玩具にして回った。遠慮なんて無かった。ガキンチョの子供体温は温かかった。良い加減まとまった金も欲しかった所で不本意ながらいささか本気を出したら凝り性の性格が裏目に出てうっかりのめり込んだ。おしめと食べこぼしと格闘している間に手慣れて板に付いてしまった自分に気付いて白目になった。気付けば、遊馬の祖母の古い知り合いだという人の良いそこの園長の婆さんが死ぬまで、二十年そこにいた。随分世話になった。葬式の作法なんざ知らないベクターも、その時は黒のスーツにネクタイで、粛々とその骨を骨壷に入れた。遺影の笑顔がベクターに隔てなく笑いかけていた。本当の孫のように笑いかける笑い皺の温かな人だった。
気がつけば、遊馬に、遊馬の娘に連れ回されて、たくさんの縁と思い出が出来た。
少年にしか見えないベクターがふらりと顔を見せれば黙ってカクテルを置くバーができた。暖簾をくぐれば大根を一つオマケしてくれる屋台ができた。小銭を投げ渡せば詮索せずひとつオマケの駄菓子と一緒に馴染みの煙草のカートンを出して来る婆さんができた。
あの頃のガキンチョ共は小憎たらしい小学生になって、けれど街でふと見かければベクちゃんセンセーと駆け寄ってきた。誰がベクちゃんだ。学年が上がっても、そろそろ小学を卒業して物の道理が分かって老いないベクターが人でないことに気付き始めたであろう頃にも、やはり見かければ寄って来てデュエルを挑んで来て何も変わらなかった。人は、妙に順応力が高くて、馬鹿な生き物だった。
ベクターは、この街を離れられなくなった。この街の愛が、ベクターを捕まえて離さなかった。
どこにいってもあの赤い影とかっとビングの台詞は耳に付いて回って、何もかも、遊馬がベクターに残していった縁だった。
いっそ呪縛とか呪いとか言った方が適切な気がする、真綿で手のひらを包むような、いつでも振り解けるのにそれを躊躇わせる、暖かく柔らかい鎖だった。
「ベクターッ!!」
「…ぁ…?ンだよ、よりに、よって…てめえかよ、ナッシュ…」
げほん、と
血溜まりを吐き出して
腹に突き刺さった瓦礫を
力無く抑えて、廃屋の崩れ掛けた壁に凭れて
虚ろに声の方に視線を向けたベクターの、背後に、泣き子。
紫色の瞳の焦点が、たわんで、合わない。
心が生まれて、ヒトの世界を愛してしまったヒトならざるベクターの、姿はあの頃から変わらない。
遊馬が人生を全うした後、ぶらっとハートランドから姿を消して、
なのに、戻って来てしまったベクター。
ヒトの世界でヒトの真似事を始めてしまったベクター。
どこもかしこも遊馬の影が残るこの街を、そのまま。
自分の心の動機に気付かないまま、あるいは、気付かないふりをしたまま。遊馬の居ないハートランドで生きる道を選んだベクター。
侵略されて滅び行くハートランドを、見届けたベクター。
「なぁにが『お前で良かった』だ。『お前と出会えて良かった』だ」
「ベクター喋るなッ!くそっ、血がっ」
滔々と流れあふれる赤い液体が地面を汚していく。
濁った紫の目で、焦点の合わないまま、ベクターは、はっと喉を震わせて。ぐしゃりと顔を歪めてボロリと泣き笑った。
「俺は、てめえに出会ったせいで…!」
震える声は
もう亡い相手をどうしようもなく求め哭いた。
「な、あ、俺たちは、なんで、ニンゲン、なんざ、愛しちまったん、だ、ろうな」
「……ベクター?オイッ…っ!!」
紫の目を閉じたベクターの体が、緩く発光して、光の粒になっていく。
それを逝くなと掴み取りながら、凌牙は叫んだ。
応えないベクターは、妙に穏やかに、眠るように
「ニンゲン、なんざ、滅ん、で、いくのを、嗤っていられりゃ、良かったんだ、なのに、なんで、」
「心、置いて、いきやがったから、だか、ら、…」
ふわりと、笑んで眠るように
粒子に溶けていくベクターは、弾けて、
カツン、と
遊馬の託した皇の鍵だけが、
地に落ちて
後は、もう、何も遺らず
ひとつ残った小さな光の粒子が
皇の鍵にキラリと反射して、すっと、名残惜しげに消えていった。
◇ ◇ ◇


