@shikanoko_aki
「あら、師。そのズボンの裾」
母に指摘され足元を見れば、司馬師の足首は白い肌がすっかりと見えてしまっていた。以前はぴったりだった丈のデニムパンツは、いつの間にか不恰好なものに変わってしまっていた。
「新しいのを買わなくちゃね。本当に、男の子の成長って早いわねー」
「まだ、履けるのに勿体ないです。母上」
司馬師の記憶が正しければ、このパンツを買ったのは昨年のことだった。成長期真っ最中の司馬師の身長は、一年で驚くほど伸びてしまったようだ。
「だけど、それじゃあみっともないわ」「でしたら、俺に下さい。兄上」
まだ新しく、捨てるには忍びない。けれど、履き続けるにはサイズの合わない衣服をどうしたものか。司馬師が思い悩んでいたところへ、提案を持ちかけたのは弟の司馬昭だった。
「あら、いいの?昭。あなたにだって、新しいのを買ってあげるのに」
「いいのです。新品でなくとも、兄上の選ぶものはセンスもいいですし」
「……悪いな。子上。お前にはお下がりばかり着させて」
三つ下の弟は、何かと自分のお古ばかりを与えられる。司馬昭が使えなくなれば、それはまた更に下の弟達へ。まだ使えるものを捨てるのは勿体ないが、お下がりばかりの下兄弟達には、きっと不満もあることだろう。
司馬師は長男だったから、お下がりを与えられる側の気持ちは、想像することしか出来なかった。自分のために設えられた新品のもの方が、誰だって嬉しいはず。誰かに使い古された物を掴まされるのは、一体どんな気分なのだろうか。
―――
「……ふう」
「ひと段落、つきましたか?」
ノートパソコンから視線を外し、かけていた眼鏡をテーブルの端に置く。壁掛け時計を見れば、かれこれもう二時間くらい経過してしまっていた。
「珈琲、冷めてしまいましたね。淹れ直して参ります」
「悪い。淹れてくれていたのか。気付かなかった」
すっかり湯気の立たなくなった、手付かずのコーヒーカップを鄧艾が下げる。集中していた司馬師は、それがすぐ側に置かれたことにさえ気付けていなかった。
「集中されていましたので。そういうところ、お父上によく似ていらっしゃる」
穏やかだった司馬師の表情が、僅かに硬くなる。鈍感な鄧艾は、そのことにまるで気が付く様子もない。
「まだ、しばらく掛かりそうですか。今回の案件」
「…ああ。持ち帰りの仕事はあまりしたくはないが、あと一ヶ月はこの調子だろうな」
わざわざ淹れ直してくれてた、熱いコーヒーを彼から受け取って、司馬師は軽く溜息を吐いた。
業務時間内には到底終わりそうにない仕事を、こうして持ち帰ってこなしているのであるが、プライベートの時間を潰されるのは司馬師にとっても面白くはなかった。
「―――あつッ…!」
「すみません!熱すぎましたか!?」
僅かにカップの淵へ唇を触れさせ、中の液体を啜ろうとする。が、淹れたてのコーヒーは司馬師には少々熱すぎた。思わず声が出てしまった司馬師の身を案じるように、鄧艾の指先がそっと唇に触れた。
「火傷、大丈夫ですか?」
「少し冷やせば、問題ない」
「司馬師さんは猫舌でしたね。……お父上と、同じで」
優しく触れる指先は、少し冷たくて心地良い。だけど、快さよりも苛立ちの方が勝って、司馬師はムッとする。怒りに任せて、その腕をグイと掴めば、鄧艾は驚いたように、きょとんと目を大きく見開く。
「……その、父上と比べるのを止めよ。鄧艾。わたしは父上ではない」
「それは…存じ上げていますが……?」
こちらの不機嫌オーラを全力で跳ね返してくるような鈍さで、鄧艾は小首を傾げる。こちらの気持ちに気付いてくれないことへ、司馬師は更なる苛立ちを募らせた。
「……もう、いい」
「……?」
鄧艾は何かにつけて、父を引き合いに出す。元々、父の部下であった男であるし、父をいたく敬服していることも知っていた。
無論、司馬師自身も父のことを尊敬していた。けれど、それにしたって、幾度も自分と父を自覚されるような発言をされると、司馬師も面白くない。
「この案件が片付いたら、有給を取れ。旅行にでも行こう」
「旅行と言うと、どちらへ?」
いわば、鄧艾は父のお下がりのようなものだった。ならば、以前の持ち主を引き合いに出されるのも致し方のないことではあるが。嫌なものは、嫌なのである。
「沖縄にでも行くか」
「宜しいですね。沖縄。海も綺麗ですし。訪れるのは、久しぶりです」
「行ったことがあるのか?」
長男として、お下がりを知らずに育った司馬師は、今更になって、人の手垢のついたものを掴まされることへの不愉快さを味わうハメになった。逐一、前の持ち主の匂いを漂わせられるのは、実に不快だ。まるで、未だこれが真に自分の物ではないと、知らしめられているようで。
「はい。以前、お父上と。と言っても、出張ですので、観光は出来ませんでしたが」
「………」
「ちょうど、真夏の頃でした。お父上はすっかり、暑さに参られていらっしゃいましたね。海などにはご興味あらせられませんでしたので、お父上はホテルからほとんどお出にならず……」
「……鄧艾」
グッと締め上げるほどの勢いで、司馬師は鄧艾の襟元を強く掴んで引き寄せる。そうすれば、ようやく、彼の喜色を孕んだ思い出話が途絶えた。
「お前は本当に、父上のことだけはよく喋るな」
「そう、でしょうか…?」
自覚がないところが、余計に憎たらしい。普段は必要なこと以外、滅多に自分から喋りもしないくせをして。司馬師の聞きたくない話題だけは、無駄に饒舌なのだった。
「今度、わたしの前で父上の話をしてみろ。問答無用で、その口を塞ぐぞ」
「……はあ」
苛立ちを露わに睨みつければ、さすがの鈍感男も、司馬師の機嫌がすこぶる悪いことくらい察したようだった。その理由はやはり、理解できていない様子だったが。
「司馬師さん…?」
強引に鄧艾を自分の隣へ座らせた司馬師は、当然のようにその上に腰を下ろす。困惑する彼を無視して、その胸を背もたれにして。
「沖縄は止めだ。鄧艾。今までに、行ったことのない場所を答えよ」
「行ったことのない場所ですか?……青森、とかでしょうか?」
「ならば、青森へ行くぞ」
突拍子もなく司馬師が断言すれば、背中に戸惑う鄧艾の声が響いた。困っている彼を見ると、幾分か苛立ちが散逸する。
「しかし、今の時期は寒いと思いますよ。司馬師さんも、寒いのは苦手でしょう?」
「ならば、春にするか」
「春でしたら、弘前は桜が綺麗でしょうね。桜はお父上も好……」
「とーがい」
「……失言でした」
言った側から、鄧艾は禁止された単語を口走る。振り返りざま、キッと座椅子を睨みつけてやれば、彼は素直に自分の非を認めた。それでも怒りの収まらぬ司馬師は、その鼻先をギュッと摘んで叱りつける。
「いたいれす。しばしさまっ……」
降参を示すみたいに、鄧艾は両手を上げた。まだ腹立たしさは消えていなかったものの、その仕草が可愛いかったことに免じて、司馬師は彼の鼻を解放してやる。
「鄧艾よ。今から、わたしとが初めてのことを五つ挙げよ」
「突然、何を仰います……」
「申すまで、意地でもここは退かん」
有袋動物のように頬を膨らませ、司馬師は鄧艾の膝の上を梃子でも動かぬ意思を示す。もっと困れ、と心の内ではほくそ笑みながら。
「……ええと、では―――」
鄧艾に意地悪をしながら、司馬師は思うた。やはり、お下がりなど嫌だ。自分のために設えられた、真新しい物がいい。それを自分だけの匂いのする、自分だけの物にしたい。そして、誰にも譲りたくない。
まっさらな彼を、自分だけの色に染め変えてしまいたいなんて、わがままなのだろうか。お下がりの彼の声で紡がれる自分との思い出話に耳を傾けながら、司馬師は胸の奥で燻る父への嫉妬心をそっと慰めた。