@tuta_zettiru
ぬるい車内は奇妙な沈黙に満ちていた。友人同士だろう女性たちも、スーツに身を包む男性たちも、恋人同士だろう若い二人も、それぞれが隣り合って座り、あるいは立っているのに、一言も口を利かなかった。時折流れるアナウンスの機械音だけが車内にきんきんと響く。
静岡精神病院経由静岡駅行きバスは、その体内に人を詰め込み、黙々と道を急いでいた。ブレーキとアクセルに揺すられながら、人々はむっつりと唇を引き結び、お互いに口を開かぬよう努めている。窓より見える景色は春めいて、明るい色のスカートやカーディガンの翻る花のような有様なのに、このバスの中だけは通夜の如き静けさだった。「停車します」のランプ点灯に通路に立つ男性の脚が少し開く。空気の抜ける音と共に車体が僅かばかり下がり、買い物帰りだろう女性がスッと辺りを見回して、全てを理解した表情で運転手の後ろへ立った。発車します。ご注意ください。再び動き出したバスの、次の行先を確認し、誰ともなく溜息が漏れた。先程乗り込んだ女性がちらと視線を送る。からっぽの座席が二つと、その傍らに立つ男性が二人、声を潜めて笑っていた。
特別、沈黙を引き裂く声ではなかった。溜息と共に漏らすような、喉の奥で震わせるような、そんな笑い声だった。むろん女性を笑うものではなく、どちらかが耳打ちした内容に、もう片方が唇を緩め、お互いに微笑みあう。それだけの声だった。女性はさっと視線を逸らすと窓の外を睨んだ。見られたことにも気付いていないのだろう、口角をゆるく上げたまま、男性はからっぽの座席の上を何か、撫でるような仕草をした。
ニット帽を被った男性と、金髪の男性だった。どちらも体格がよく、何かスポーツをしている気配がした。ちょうど、精神病院前で乗り込んで来た二人は、まだ空いているバスの車内で“誰か”を促すようにして、からっぽの座席の前に二人並んで立ったのだった。そうして、黙り込んだバスの中、窓の外を指さしてはからっぽの座席に微笑み、お互いに微笑み合い、時折、「しー」と、幼い子どもに言い聞かせる仕草をして、幾つかのバス停を越え、ここまで来た。ニット帽の男性が肘で小突き、何事か囁くと、金髪の男性がそれに眉を吊り上げ、困ったようにする。始終、そのような調子で、もう間もなく、終点の静岡駅に到着しようとしていた。
駅前はどういう訳か、バス停が密集している。幾度も止まり、進み、また信号に捕まりながら、バスは亀のような歩みで駅前のバス停へと向かっていた。もうすぐ着く………。乗客の声を代弁したかのように、ニット帽の男性が小さく呟いた。点滅する青信号に急かされるようにして、歩行者が横断歩道を渡りきる。バスが揺れ、再び動き出す。
「あ」
エンジン音に掻き消される程の、小さな、小さな声だった。どちらのものかは分からない。みるみると大きく見開かれた瞳が窓硝子に映りこむ。誰も座っていない椅子もまた、窓硝子に映っていた。ブザーが鳴る。赤いランプが一斉に点灯する。次、止まります。素っ気ないアナウンスに導かれ、ブレーキに車体が揺れた。引っ張り合うようにして二人の男性がバスから転げ出る。空気の抜ける音と共にドアが閉まると、ふっと空気が軽くなった。あと2つほどバス停を越えれば終点に着く場所であった。ひっそりとした囁き合いが車内に落ちたが、“何者か”が座っていた座席に腰をおろそうとする乗客は一人としていなかった。
二時間ほど経過しただろうか。黒髪の男性が慌てたように駅構内を駆け抜けて行った。荷物を引き摺る人の間を縫うように走り、新幹線の改札前で立ち止まる。
「福ちゃん!」
柱に縋り、項垂れていた男性が顔を上げる。バスの車内にいた、あの、金髪の男性だった。
「荒北」
「金城は?」
「ホテルで休ませている」
平日でよかった、と男は呟く。急なチェックインに対応してくれた、これが土日なら簡単にはいかない。荒北と呼ばれた男性は二、三歩の距離を置いて、何とも言えない表情で口を動かした。
「どうすんの」
「今日はこのまま泊まって、明日移動する」
「新幹線は」
「こうなるかもしれないと思って、まだ買っていない」
「そっかァ」
そっかァ、ともう一度舌で転がし、荒北はホテルにいるという男に思いを馳せた。薬を飲んで眠っているのだろうか。あの男は、金城は、もう随分と長いこと、病気をしているのだった。金髪の男は俯きがちに、沈黙する荒北の爪先を眺めている。
「さっき、」
「ん?」
「バスで………、金城が」
福富、と小さく喘ぐように言った。車窓に映る現実に目を見開いた後だった。福ちゃん―――…… 福富は金城の腕を引っ張り、バスの車内から転げ出ながら、なんだ、とその金髪を揺らした。
「すまない、辛い思いをさせている、……………と」
金城真護の心がどうなっているのか、福富には分からない。分からないまま愛していたらいつの間にか壊れてしまっていた。欧州でレースのことばかり考えていた福富は、社会に出た金城が一体何を言われてきたのか、想像することしかできない。公にしていたわけではなかった。結婚はまだか、だとか、子どもは、だとか、そういうことを言われたのではないか、言われ続けていたのではないか、とそれだけを考える。ある日、飛行場へと迎えに来た金城の車の、後部座席にチャイルドシートが置いてあった。一体どうしたのだろうと後ろを振り向く福富に、金城は楽しそうに笑った。からっぽのシートをミラーで確認し、大きくなっただろう、と言う。お前は久しぶりだからなぁ、泣くかと思ったが泣かなかった。ちゃんと親がわかるんだな。………もうすぐ1歳になる。お前、プレゼントは忘れていないだろうな。座席にすぅ、と体温が吸い込まれていく心地がした。結婚はだとか、子どもはだとか言われ続けていたのだろうと思う。望めないことを諦めるのはある意味、救いであるというのに、金城は何もかも諦めずに向こう側に行ってしまった。
「福ちゃん」
何を言えばいいか、思いつかずに荒北はただ名前を呼んだ。開け放しのドアから吹き込んだ風が二人の足を冷やした。ぶるりと震えた福富の薄手のシャツを見て、荒北は床に吐き出すように、釦、留めた方が良いよ、と呟いた。
「赤いの見えてる。虫刺されみたい」
福富は黙って釦を留めた。散らばった赤い跡が毒のようだと思う。
「東京行って、どうすんの」
「金城と、二人で暮らしていく」
「暮らしてどうなんの」
どうなるのかなんて、福富にも分からない。プロを辞め、恩師に誘われ、明早大のコーチになった。通える病院を探し、頭を下げて回って、そして漸く、二人で暮らせる目途が立った。まだ、それだけだ。たった、それだけだ。これからのことはこれから考える。兎に角、東京まで行く。それが目標だった。遠くを見つめる福富に、荒北はもう、それ以上は聞かなかった。気分を変えるように努めて明るい声を選ぶ。
「オレもホテル行って良い? 金城の顔見てェし」
福富は小さく頷き、荒北の前を歩き出した。部屋に入れる前に換気をしなければならない。じくじくと性の跡が部屋中を覆っている。少しだけ、腹の具合が悪かった。出かけるのは面倒だ。ルームサービスを頼んで、朝まで飲んでいたい。金城は嫌がるだろうか。薬に誘われて、寝顔はなんだか幼く見えた。
金城の夢の中に二人の子どもがいる。一人は福富が知らぬ間にできた子どもで、もう一人は金城に言われるがまま―――― この子の2歳の誕生日に、弟か妹をプレゼントしたい、と、そう言われるがままに、福富が孕んで産んだ。もうじき三人になるかもしれない。膨らまない腹を抑え息を吐き出す。毒の回りきる前に、と思う。どうするもこうするも、もはや福富にできることは共に在ることだけだった。