@ayame0601s
目の前の光景に、ただ固唾を飲み、立ち尽くすことしかできなかった。
枯れた一本の大木に、朽ち果て、廃れた鳥居と、腐蝕の進んだ狛狐の石像。
首なしの狛狐の石像に片足をかけて座るその人は、膝に頬杖をつき、唇の端をあげて私を見下ろしている。
──なんで、彼が。
疑問は音に成さず、生唾と一緒にこくりと呑み込んだ。
困惑と緊張が、足元からせり上がってくる。それを追うように恐怖心がこみ上げ、肺を締め付けた。
面布が、震える息で微かに揺れる。
なんで彼が──鶴丸さんが、私の名前を。
「今日は、髭切と一緒じゃないのかい?」
鶴丸さんは、私を見下ろしながら問いかける。けれど言葉が耳の表面を撫でるだけで、頭に入ってこなかった。
それよりも。鶴丸さんを目の前にして、あの時の、「霊力を喰べられた」時のことがフラッシュバックし、臓腑が縮み上がる。
どうすればいいのか分からなかった。本当は、今すぐにでも逃げ出したい。それなのに、恐怖からなのか体が動かず、心臓は早鐘を打って呼吸が震える。
なぜ、鶴丸さんが。彼はなぜ、私をここへ呼んだのだろうか。また『喰べる』ためだろうか。そもそも、私の名前を一体どこから──疑問ばかりが浮かんでは消えていく中、ハッと我に返り、ふと思う。
目の前の、彼は。
彼は、『誰』なのだろう。
「……あなたは、誰、ですか。どうして、私の名前を」
何とか絞り出した声は、自分でも分かるほど震えていた。たった一言二言を発するだけで、息が上がってしまう。
恐怖で、何も考えられなくなりそうになる。それでも、必死に頭を働かせた。この状況をどうにかするためにも、聞いておかなければいけない。そんな危機感のようなものが私を急き立てる。
鶴丸さんは目を丸くしたものの、直後には口角をつり上げ、ニッと笑った。
「きみとは、森で会ったじゃないか。忘れちまったかい?」
まるで、つれないなぁとでも言いたげな軽い口調で、鶴丸さんは言う。
森──。
森で会ったといったら、あの時しか思い浮かばない。一度戻橋へ戻ろうとした、あの時。私の手を無理やり引こうとした、他本丸の鶴丸国永を思い出す。
あの時、見た目だけでは『どの』鶴丸国永か見分けがつかなかった。
今、私の目の前にいるのは。森で出会った他本丸の鶴丸国永だと、彼は言う。
ただ、どうして。
「どうして、私の名前を」
再度同じことを口にする。言いながら、もしかして、と脳裏には一人の人物が浮かんでいた。
私の名前を知っているのは、髭切さんだけだ。彼だけだと、思っていた。
もしかして、髭切さんが──。
心臓が忙しなく鳴り響いている。鶴丸さんは、笑みを浮かべたままだ。
彼の整った顔立ちで微笑まれれば、その美しさに、一瞬、息を呑むものの。その微笑は作り物のように無機質にも見え、どこか冷たく感じる。
彼の唇が、静かに開いた。
「さあなぁ? 心当たりはないのかい」
試すような口振りに、心臓が嫌な音を立てて軋む。コクリと唾を飲み込むも、カラカラに渇いた喉につかえて、少しも潤わない。
何も言えなかった。果たして髭切さんが言うだろうか……そう思うものの、そのすぐ後を、それでももしかして、という疑心がついて回る。
ただ黙る私を、尚も頬杖つきながら見下ろす鶴丸さんは、ふっとため息つくように微笑した。
「此処じゃあ、何処で誰が聞いてるか、分かったもんじゃないというのに。名を口にするべきじゃなかったな。きみも……髭切も」
その言い様に、息を呑む。心臓が、耳の奥で脈を打つ感覚すらした。
鶴丸さんをじっと見上げることしかできなかった。言葉が喉に詰まって出てこない。
鶴丸さんはそんな私を観察するように、口角はゆるく上げたまま、こちらを見下ろしていた。
「……盗み聞き、してたんですか?」
怖じ気づいては駄目だと、何とか言葉を発すれば、鶴丸さんは小さく笑う。
「盗み聞き、ねえ。それはきみの解釈に任せよう」
「貴方は……何を、望んでいるんですか。私をここへ呼んだのは、何のためですか?」
気丈としていたいのに、肺が震えて情けない声しか出なかった。それでも現状を把握して、この場を切り抜ける方法を模索しなければ。その気持ちで、何とか言葉を紡ぐ。
幸い、鶴丸さんは、今すぐ私をどうこうするつもりはないように思えた。
「そんなに怯えないでくれ。きみと、少し話がしたいだけさ」
鶴丸さんは苦笑する。それは、意図的に作ったようにも見えて。
怯えるなと言われても無理があった。けれどそんなことはもちろん言えず、代わりの言葉を口にする。
「私と、話を、ですか?」
「ああ。人の子とまともに話すのは、久しぶりなんでな」
「話なんて。何を……」
「そうさなぁ。例えば、きみが此処に来た理由とか」
理由? と思ったものの、口にせず胸の内だけで聞き返した。
彼の問いかけの意味が分からない。ここ、とは、どこを指しているのか。この『街』なのか、或いは──この『世界』なのか。
何となく、むやみやたらと会話を進めない方がいい気がしていた。
答えに迷っていれば、鶴丸さんは察したように続きを口にする。
「きみを初めて見た時から、不思議だったんだ。きみは他とは違うだろう? どうやってこの『世界』に来て、何故、この『街』へ来ようと思ったんだい」
まるで私の疑問を解消するかのような、明確な問いかけ方だった。全てを見透かしたその問い方に、鳥肌が立つ。
このひとは──いや、おそらく鶴丸さんだけじゃない。髭切さんも膝丸さんも、三日月さんも。このひと達は、私の一歩先どころか、数百歩も先を歩いているように思える。
そんなひと達を出し抜くなんて、到底出来るはずがない。それならば、いっそのこと聞けることは聞いた方がいいのだろうか……そんな気がしてくる。
「他というのは、『他の人間』ということですか?」
聞き返せば、鶴丸さんは微笑んだまま、興味深そうに片眉を上げた。その後すぐに、笑みを深める。
「ああ、そうだ。きみは他の人間とは違う。此処へ連れてこられたわけじゃないだろう?」
──連れてこられた。
その言葉に、眉根が自然と寄る。面布をしているから、鶴丸さんには見えないだろうけれど。
「……それって、他の人たちは貴方たちに拉致された、ということですか?」
心臓が常に鳴り響いているなか、この聞き方はまずかっただろうか、と少し後悔する。けれど鶴丸さんは、さして気にしていないようだった。
うーん、と、宙を眺めながら考えている。
「拉致、ねぇ。それは少し語弊があるな。誘っただけさ」
「誘う?」
「ああ。別に、無理やり引っ張って連れてきたわけじゃあない」
鶴丸さんは笑みを崩さない。
「で、きみはどうやって此処へ?」
「……私は、ただ橋を渡っただけです」
「へぇ。俺はてっきり、髭切に誘われたのかと思ったぜ」
会話が途切れる。言われたことを、頭の中で反芻した。
髭切さんに、誘われた?
確かに、橋に居たのは髭切さんだった。けれどそれは、彼に『誘われた』ということに繋がるのだろうか。あの時のことを思い出しても、そんな風には見えなかったけれど……。
鶴丸さんと話していると、言葉に惑わされるような。頭の中で情報が錯誤し、もう何が何だか分からなくなりそうだった。
「それで、きみがこの街へ来た理由は? 三日月と一緒のところを見たが、あれはきみの意志でついて来たんだろう?」
どうやら三日月さんと一緒だったところも、見られていたらしい。
「確かに三日月さんについて来ましたが……逆に何故、それを知りたいんですか?」
恐怖と緊張がくすぶるなか、気丈でいようとすればするほど、その反面で言葉が少し強まってしまう。
けれどこれはある意味、チャンスかもしれない、とも思った。
この世界のことを。彼らのことを知るための、チャンスかもしれない。
私が何か質問する度、鶴丸さんはどこか楽しそうに、口角を上げて笑った。
「なに、単なる興味さ。なにせ今まで退屈すぎてなぁ。きみたち人間に、捨てられてから」
捨てられる。
その言葉に、どくんと心臓が強く脈打つ。
捨てられる。それは確か、三日月さんも言っていた。
人々に捨てられた、と。
それは私とは無関係なはずなのに、罪悪感に似たものがこみ上げ、胸を締め付けた。
「ははっ。興味出てきたな?」
私を見下ろして、鶴丸さんは笑う。
「まあ、物のついでだ。聞きたいことがあれば教えようか」
その言葉は今の私にとって、魅力的に聞こえた。だからこそ、より一層、警戒心を抱いてしまう。
鶴丸さんは笑みを絶やさない。そんな彼の心中を推し量ることなんて、私にはできなかった。
「それは……」
「ん?」
「それは、なぜですか? なんで……教えてくれるなんて」
「言っただろう。今まで退屈だったんだ。きみとの話題になるなら好都合だ」
きみも知りたそうに見えるが。続けられたその言葉に図星を突かれ、ぐうの音も出ない。
「それに、知っておいて欲しい気もするしな」
鶴丸さんが目元を細める。その瞬間、スッと温度が下がった気がした。面布越しに、冷たい風に頬を撫でられた感覚すら、する気がする。
鶴丸さんは笑みを絶やさない。けれどその瞳は、まるで私を咎めるような色を孕んでいて。
恐怖と緊張が、どっと溢れ出す。膝が震えそうで、座り込んでしまいたかった。けれどそれを耐えるように、気丈さを失わないようにと、お腹に力を込める。
「……ただお話しするだけでいいのなら。聞いておきたいです。この世界のことと、貴方たちのことを」
私へ情報を提供する意図が、他にないとも限らなかった。知りたいから教えてやった、だから見返りを求めよう、なんて言われると非常に困る。
そういった意味を込めて、予め釘をさしておいた、つもりだった。けれどそんなもの、彼に通用するかなんて分からないけれど。
鶴丸さんは一瞬、目を丸くしたものの、すぐに頬を緩ませた。
「ああ、承知した。俺の退屈しのぎのために、きみの質問に答えよう。そういう条件でいいな?」
私の言いたかったことを、言葉を変えて復唱し、確認を取ってくる。
彼の言い方でも、大丈夫なはず──。
頭の中で何度か再確認した後、鶴丸さんの言葉に頷いた。
この世界のことを。彼らのことを、知ることができる。
それは地中の奥深くに埋めた、パンドラの箱を掘り起こすような怖さがあった。本当に、その場所に触れていいものなのか、今でも分からない。本能の部分で拒否しているような、けれど好奇心に急き立てられるような、相反する感情が胸に渦巻き、心地が悪い。
それでも、これでやっと、彼らをきちんと祀り直せる──と、そこまで考えてふと冷静になった。
私は、彼らを祀り直す必要があるのだろうか。
他の人たちのように。ここから、帰れないかもしれないのに。
「きみがまず知りたいのは、この世界のことかい?」
鶴丸さんの声が飛んできて、ハッとする。
とりあえず情報は取り入れておこうと、首を縦に振った。
「そうだな。どこから話そうか」
言いながら、鶴丸さんは顎に指を添えると、うーんと唸る。
「一つ確認なんだが」
「……はい」
「きみたちは、歴史も勉強するだろう?」
「え? まあ……はい。ある程度のことは」
「俺たちを見て、何かピンとこなかったのかい」
問われ、考え込んでしまった。何かピンと来なかったのか、と言われても。今、目の前にいる彼を見ても、歴史と関連付けられそうにない。
「それは……貴方たち、刀の付喪神を見て、ということですよね?」
「……ああ」
「ごめんなさい。習った歴史には、何も……」
言いながら、髭切さんとした会話が脳裏を過る。
そういえば。この会話、髭切さんとしたものと似ている気がした。
森の中、戻橋へ向かう途中の会話だ。
あの時も確か、歴史は習わないのかと、問われた覚えがある。
「なるほどね。きみたちには無かったことになってるわけか」
──残しもしないのか、君たちは。
鶴丸さんの言葉と、髭切さんの言葉が脳内で重なる。
「まあ、俺たちは陰で歴史を守っていたわけだから、当然と言えば当然か」
「歴史を、守る?」
「ああ。その昔、歴史をめぐった戦争があったのさ。その戦力として、人々によってこの世に降ろされたのが、俺たち刀の付喪神だ」
そう言われても、内容があまりに不可思議すぎて、すんなり信じがたかった。刀の付喪神、というだけでも、非現実的な言葉なのに。
けれどなぜか、心の奥がざわつくような、居心地の悪さがこみ上げてくる。
何と相槌を打てばいいのか分からず、結局黙りこんでしまった。けれど鶴丸さんにとって、私の反応は関係ないらしい。
彼は淡々と、続きを口にする。
「もしかしたら、きみの遠い先祖を俺たちが助けたこともあるかもしれないな」
「……」
「ま、そんなことはいいんだ。それが俺たちの役割だった。長い戦争だったが、それも終わりを告げてな。そうして役目を終えた俺たちの大半は、還るべき場所へ還ったわけだ」
鶴丸さんは、ふっと視線を宙へ向ける。それはまるで、遠い日のことを思い出しているようにも見えた。
彼の語りに、言葉を挟む余裕がない。語られるその物語を、頭の中で処理するのに精一杯だった。
全部を理解できるわけではない。けれど話の流れで、何となく分かってしまったものもある。
彼らの大半は、還るべき場所へ還れたのだ。どこへ、なのかは分からないけれど。
ここではない、どこかへ。
「此処は、そんな還るべき場所へ帰れなかった刀の捨て場さ」
鶴丸さんは淡々と言う。
予想していたとはいえ、実際に聞くとギュッと胃が締め付けられた。こみ上げる吐き気に似たそれは、ただ客観的に聞いた感情とは、別のものを含んでいる気もして。
遠くを見つめる鶴丸さんとは、目が合わない。けれど彼の言葉は、咎められているような気持ちにさせられる。
「本当は、ココも『外』と繋がってたんだぜ。今は閉鎖されちまったが」
鶴丸さんは親指で後ろを指し、視線をそちらへ向けた。
彼の座っている、腐蝕の進んだ狛狐の奥。彼が指差した先は、廃れた鳥居の更に奥にある、枯れた大木だった。
彼の目線の先にある、後ろの大木を見て。そのまま、鶴丸さんへ視線を戻して。
ゆっくり吸い込んだ呼吸は、か細く震えた。
「……貴方たちは、なぜ……還れなくなってしまったんですか?」
緊張が肺を萎縮させる。核心に触れる質問だとは、嫌なほど分かっていた。
聞くのが、怖い。けれど聞かないと、おそらく、この会話の意味がない。
息が上がる。奥歯の震えは、緊張からなのか、恐怖、からなのか。
鶴丸さんはやっとこちらへ視線を向けると、唇を薄く開けて微笑み、私を静かに見下ろす。
その、美しすぎるほど整った微笑は、背筋を冷たく凍らせた。
「それは、『神』ではなくなったからだ」
まるで、分かっているだろう? とでも言いたげな口調で、彼は言う。
「堕ちたのさ。格が下がり、あるべき場所へ戻れなくなったんだ。……色んなモノが、混ざっちまってな」
──まざりもの。
どっと嫌な汗が吹き出す。体温が急激に下がったように感じ、呼吸が上がっていく。
面布が、自分の息で揺れてしまう。何とか抑えようとすれば、肩で呼吸をする形になってしまう。
混ざりもの。
夢の内容がフラッシュバックし、面布の下でギュッと目を瞑った。
「此処にいる刀の事情は様々だ。その分、混ざったモノも様々だが、きみの所の髭切を見て、三日月を見て。何となく察したぜ」
鶴丸さんの声が、どこか遠くに聞こえる。
「何が混ざってるのか教えてやってもいいが、きみが望んでいるのは、本当はそんなことじゃないだろう?」
その言葉に、そっと目を開けた。冷や汗は流れ出るままだ。
鶴丸さんを見やれば、先ほどより柔らかく微笑んでいるものだから、思わずどきりとした。
「きみ、本当は帰りたいんじゃないか。もといた所に」
鶴丸さんは小首を傾げて言う。そんな彼の声色まで優しく聞こえ、無意識にこくりと唾を飲み込んだ。
「それは、そうです。帰りたい、ですけど」
声は掠れたものしか出ない。
この流れは、いくらなんでも警戒する以外になかった。
甘い誘惑をちらつかせられる予感が、胸に兆す。
「きみは髭切と何かしら契約しているんだろう? 大方それが、帰るための条件になっている。違うかい」
「……」
「だがそれは、本当に帰れるものなのか? 彼じゃあ、きみをあの橋から帰すことは出来ないと思うが」
え? と疑問が口から溢れ落ちそうになる。
鶴丸さんの言葉に、ひっかかりを覚えた。
「それは……」
「ん?」
「それは、どうして、ですか?」
「簡単に言うと、彼と俺の質の違い、だな」
言葉の意味が分からず、眉をひそめる。そんな私の表情は面布で見えていないであろうに、鶴丸さんは満足げに笑った。
「だが俺なら、きみを帰してやれる」
それは随分と甘い響きを含んでいた。
魅力的な甘い誘惑は、明らかに危険なものだと、十分分かっている。そんな誘惑に乗ってしまえば、きっともう、生きて帰れる保証はない。そう、分かっていても。
話だけでも聞いておきたい。そういう心理すら危ういというのに、好奇心が顔を覗かせ、気持ちが揺れ始めてしまう。
→
「さて。ここから先の話は、別条件だ」
そう言うと、鶴丸さんは狛狐から飛び降りた。ひらりと羽織をはためかせて降り立つ際に、鎖の擦れる音が鳴る。
初めて近づいた、たったその一歩分の距離に、体が自然と強張った。
「その前に、面布を外してくれないかい? これは俺にとって大切な話だから、きみの目を見て話したい」
一歩。近づきながら話す彼に、呼吸が震えた。
鶴丸さんは綺麗に笑う。そんな彼に恐怖心を抱き、本能は逃げ出したいと危機感を抱いているのに。
その整った顔は何人をも魅了するほど美しく、現に私も、その蠱惑的な雰囲気に魅入ってしまったかのように、体が動かない。
今までの会話は、全て前座に過ぎなかったのだと。
分かっていたはずなのに、今までとは明らかに変わった距離感に、息を詰めた。
面布は、外せない。
三日月さんの言っていた、『連れていかれる』というその予感が危機感を伴って、胸の奥からせり上がってくる。
「 」
鶴丸さんの唇が、静かに動く。
呼ばれた自分の名に、びくりと肩が跳ねた。
彼はその薄く形の整った唇で、私の名を囁くように紡いだ。
「その面布を、外してくれないか」
まるで、鶴丸さんにすぐ耳元で囁かれているような。優しい声色は、からだの隅々までを拘束する。
彼とはまだ距離があるのに、直に響くようなその声に、心臓が速度を増していった。
──また、だ。
体が意図せず動く。意に反して、頭の後ろへ回った私の手は、面布の結び目をほどいた。
遮るものが無くなり、急激に視界がクリアになる。
「それは三日月のものか。どれ、そいつを寄越してくれ」
言われるままに、両手でかざすように差し出せば、鶴丸さんが刀に指をかけた。かと思えば、次の瞬間には面布は真っ二つになり、端がはらりと垂れ落ちる光景が視界に映る。
「これで話しやすくなったな」
独り言のように言った鶴丸さんは、既に刀を鞘へ戻していた。
面布が、切れてしまった。
そう思った途端、背筋に悪寒が走り、息苦しさに襲われた。ドッと心臓が強く脈打ち、動悸から冷や汗が出始める。
吸い込む空気が、ひどく重い。
建物と建物に挟まれた、狭い路地裏には淀んだ空気が滞留しているのだろう。
足元にある小さな灯籠から、両脇に佇む建物の窓から、僅かに滲む赤い明かりは、先ほどまでも確かにあったはずなのに。面布無しの世界では、やけに禍々しく、辺りを照らし上げていた。
立っているのすら辛く、腰が抜けたように、その場に座り込む。
三日月さんがくれた面布は、多少なりともフィルターの役割もしてくれていたのだと、この時やっと気付いた。
「おや。大丈夫かい? きみにはまだ、此処の空気は合わないか」
鶴丸さんもしゃがみ込む。
刀を肩に立てかけるように抱えてしゃがみ、眉を八の字に下げて、心配げにこちらを覗き込んだ。けれど私の身を案じるその気遣いも、全て上辺にしか見えない。
動悸に耐えるように胸元を押さえても、気休めにすらならなかった。
「さてと。それじゃあ、手短に話そうか」
言葉が耳に届くのと同時に、伸びてきた指先に顎を掬われる。
ヒヤリと冷たい、手袋の感触。強制的に顔を上げられ、かち合った視線に息を呑んだ。
鶴丸さんの瞳が、外灯の明かりを反射してか、紅く染まっている。
「きみ。俺と契約を交わさないか」
手短に、と言った彼は、簡潔に言った。
目線を逸らせないまま、彼の言葉を脳内で復唱する。
また、契約──。
名前を知られると、契約の手続きを促されるのだろうか。
「契、約?」
「ああ。俺ならきみを帰してやれる。その代わり、俺の主になってくれないかい」
なるほどどうやら、ここの刀たちは主人を欲する傾向らしい。息苦しさに耐えながら考える。
主人を欲するその真の目的は、いまだに分からないけれど。
「きみの、一年分でいい。きみが一年、歳を取ったら、あの橋から帰してやろう」
鶴丸さんは囁くように言葉を紡ぐ。
一年とは随分と長い。私は、今すぐ帰りたいというのに。けれど逆に、一年で必ず帰れる保証があるというのなら、悪くない話なのだろうか……。
重く禍々しい空気は、酸素を十分取り込めないようで、息苦しさが増していく。身体の不調が顕著になれば、恐怖心が少しずつ薄れ、逆に思考も働かなくなっていった。
でも、駄目だ。今、思考を放棄したら。きっともう、思考すら出来ない状態にさせられてしまう。
他の人たちのように。
「……その一年、なんですが」
気を保とうと、口を開く。
「私の……私の霊力を、喰う、つもりですか」
上がる息で、何とか言葉を紡ぐ。
顎に添えられた彼の指を、振り払うことが出来ない。それが出来るだけの余裕がなかった。その代わりに、ただ睨むように見上げていれば、鶴丸さんはキョトンと目を丸くした。
しかしそれも束の間、彼は相好を崩す。
「ははっ。随分と気が強いな」
「……貴方が、言ったんですよ」
「俺が?」
「髭切さんに、言ってたじゃないですか。いつから、喰ってないんだと」
「ああ。言ったっけな?」
鶴丸さんは眉をひそめると、記憶を辿るように視線をずらした。
「分かった。先に釘を刺されちゃお手上げだ。きみの霊力は、喰わないと約束しよう」
視線を私へ戻すと、彼は再び笑みをたたえる。
けれどそれでは、尚更、彼のメリットが分からない。
「貴方の、利点は?」
「利点?」
「私と、契約したとして。私の一年を、貴方はどうしたいんですか」
言いながら、そろそろ限界な気がしていた。悪寒が止まらない。動悸も、ひどくなっていた。
「言っただろう。俺は此処に捨てられてから、退屈で仕方ないんだ。ただ、側に居たいだけさ。昔のように」
最後はどことなく、本当に少しだけ、寂しそうにも聞こえて。鶴丸さんの瞳も、微かに揺れた気がした。
それも、意図的に作ったものなのだろうか。私と契約するために。彼らは、人の心を惑わす。三日月さんがそう言っていたことを、思い出していた。
「さあ、どうする? 俺と契約を結んでくれるか、それとも──」
鶴丸さんは、皆まで言わなかった。
途中で言葉を止めたその時、鶴丸さんは微かに顔をしかめた。その表情を不思議に思った次の瞬間には、勢いよく後ろへと飛び退き、私と距離を取った彼の姿が視界に映る。
狛狐の所まで後退した鶴丸さんは、石像に背を預けていた。いつの間に抜刀したのか、彼の手には、刀身の剥き出しになった刀が握られている。
「盗み聞きなんざ、趣味が悪いなぁ」
口角を上げながら言い放たれた言葉は、やけに響いて聞こえた。
一体誰に言っているのかと、思ったものの。鶴丸さんが顔を上げたため、つられるように私も視線を上げ──目を見開いた。
「よく言うよ」
すぐ頭上から、聞き慣れた声が落ちてくる。
「あまり、その子を惑わせないでくれないかい」
建物と建物に挟まれた、狭いこの路地裏を見下ろすように。
二階建ての町家の屋根から、こちらへ視線を落としていたのは、髭切さんだった。
彼は刀に手をかけ、鶴丸さんを見下ろしている。
「っはは。それを言ったら、きみも同じだろう?」
鶴丸さんは声を立てて笑う。それと同時に、髭切さんが屋根から飛び降りてきたため、思わずびくりとした。けれど心配する必要もないほど軽やかな着地に、ホッと胸を撫で下ろす。
──髭切さん。
髭切さんだ。うちの、本丸の。
彼を見て、微かに安心する自分がいるのも確かだった。けれど、鶴丸さんから聞いた話が。心に小さなわだかまりを作ったのも、確かだった。
髭切さんに、声をかけられない。激しい悪寒と動悸で、声を出すことすら辛いのもある。
でも、もし声を出せたとしても。何と言っていいのか、分からないのもあった。
髭切さんはこちらを振り向く。いつもの笑みはなく、無表情に近いものだった。
私を見た彼は、眉根を微かに寄せる。
その怪訝そうな表情に、居たたまれない気持ちがこみ上げ、思わず顔を背けてしまった。
コツ、コツ、と靴の音が耳に届く。
「大丈夫かい?」
問われ、恐る恐る見上げれば、髭切さんはすぐ目の前にしゃがんだ。
近づいたその距離に、どきりとする。
間近で見ると、眉をひそめたその表情は、心配げなものにも見えて。
怒っているわけじゃなかったんだ──そう思っていれば、髭切さんは肩に羽織っていたジャケットを脱ぎ、ふわりと私の頭から被せてくれた。
「それ、被ってて。もう少し待ってね」
柔らかい声色。見上げれば、髭切さんは先ほどと違い、唇に薄く笑みを乗せていた。
頭から被されたジャケットは、まるで外部から守ってくれているようにも感じた。それを裏付けるように、髭切さんに羽織をかけてもらった途端、不思議と呼吸が軽くなっていた。動悸はまだ治まりきっていないけれど、あれだけ重かった空気が、ほんの少し軽くなったような。
「あ……ありがとう、ございます」
お礼を言えば、髭切さんは唇に弧を描いたまま、目尻を僅かに細める。
そのまま立ち上がった彼は、鶴丸さんを見やった。
「ねぇ。君さ、どういうつもりだい」
こちらに背を向けた髭切さんの声が、耳に届く。それが鶴丸さんへ向けられたものとは、分かっていた。
けれど若干、低音になったその声色は、こちらまで畏縮してしまうものだった。
「どういうつもりも、何も。きみに指図される筋合いはないな」
鶴丸さんの声も、先ほどより幾分低い。
一気にこの場の温度が下がったように感じ、髭切さんの羽織をギュッと握って、ただ二人の動向を見守る。
「君さ」と髭切さんは口を開いた。
「この子と契りを結ぶつもりだっただろう」
「だったら、何だい」
「それは無理だよ」
髭切さんはきっぱりと言い放つ。ここから見える鶴丸さんの顔は、微笑をたたえたままだ。
「……何故そう言いきれる?」
「僕が先に、契りを結んでいるからね」
そう言った髭切さんは、静かに続きを口にした。
「僕と彼女との間だけで契りを交わすよう、言霊で縛ってあるから」
だから無理だよ、と。
髭切さんの声は落ち着き払っていて、そして恐ろしいほど冷たく感じた。
髭切さんと約束を交わした時の会話を、必死に思い起こす。
確かに、そう言われた気も……しなくも、ない。記憶は曖昧だった。約束の内容は、彼らの主になることだと。彼らを祀り直すことだと、そちらの内容ばかりが記憶に残っていて、はっきりと思い出せない。
「……っは。それはそれは、随分と執着心が強いことだな」
吐き捨てるような鶴丸さんの声が聞こえ、彼を見やる。鶴丸さんは嘲笑気味に笑っている。
「髭切という刀は、ここまで執着するような刀だったか?」
「……」
「俺は、きみが疎ましい」
それは、あまりにはっきりした言葉だった。
ここから髭切さんの表情は見えないけれど、彼は何も言わない。
「まあ、いいさ。だがなぁ、きみ、契約している相手に何も教えなすぎじゃないかい?」
鶴丸さんは意味深に言うと、私へ視線を向けた。
その言葉は、胸に染み付いたわだかまりを──僅かにできてしまった不信感を、大きくさせる。
何も言うことの出来ない私をジッと見つめていた鶴丸さんは、その笑みを深めた。
「何か用事ができたら、いつでも呼んでくれ」
それは私へ向けた言葉だった。鶴丸さんは言うだけ言うと、狛狐から鳥居へ飛び乗り、そのまま屋根へと飛び移っていった。
軽やかな身のこなしに、思わず呆然としていれば、屋根からこちらを見下ろした彼は、口を開く。
「ああそうだ。これは、前の条件の続きだが」
鶴丸さんは私へ話しかける。
前の条件? と、声にはせず疑問に思っていれば、「『俺の退屈しのぎのために、きみの質問に答えよう』と言っただろう?」と、察したような答えが返ってくる。
それは、最初に話していた内容だった。そういう条件で、この世界のことを教えてくれる、というもの。
「もう一つ、教えておこうか」
突然の申し出に、緊張が走った。
なぜ、このタイミングでいきなり──私の不安をよそに、鶴丸さんは唇に弧を描き、言葉を紡ぎ出す。
「此処にいる人間だが、俺たちが考えなしに連れてきてると思うかい?」
言葉の意味を、すぐに理解出来なかった。けれど頭で理解しきるより先に、嫌な予感が心臓を締め付ける。
私を見下ろす鶴丸さんは、続きの言葉を静かに落とした。
「ちゃんと選んでいるのさ。此処に、来るべき人間をな」