@fehu9766
【注意書き】
※原作設定のお話ですが、原作と異なるif設定があります。ご注意ください。
※グロテスクではないですが怪我をする描写があります。
※ガラルには存在しないポケモンが出てきます。
キミとダンスを!
まるで絞首台でぶら下がる刑死者の気分だ。久々に襟を通したネクタイは酷く窮屈で首が締まる。おまけに夜は冷えるからと巻いてきた真っ赤なストールのせいで息がつまる。これじゃまるきり首輪だ。勝手に何処かに逃げ出さないように縛りつける楔みたいだ。
思わず締め付けられた首から空気を絞り出すようなため息が出た。人当たりのいいキバナにしては珍しく、彼は隠す気のない憂鬱の中にいた。せっかくノリのきいたシャツも、自身が広告塔になって宣伝したブランドの、アーマーガアの濡れ羽のようなしっとりした光沢を帯びた三つ揃えのスーツも、緩く後頭部でひとまとめにした黒檀色も彼の髪も、肝心のキバナの目尻と眉間に深い溝が刻まれているせいで、どう見たって残業帰りのサラリーマンだ。雑誌からそのまま飛び出してきて、今にもランウェイを歩き出しそうな素晴らしい装いを台無しにしている。とはいえ今は人目につかないタクシーの中だから許してほしい。運転手だって誰だってこっちをみちゃいない。
何故キバナがこんなにどんより雲を背負い込んでるのかといえば、これからナイトパーティーに向かうからである。大昔ターフタウンを支配してたとかいう荘園領主の元別荘を丸ごと貸し切って盛大な宴を開くそうだ。じつに三年ぶりにスポンサーへの労いを兼ねた懇親会へ顔を出すのだが、懇親会とはなばかりでスポンサーの社長令嬢や御曹司がお相手を見繕う狩場だと知っていて、誰が行きたいと思うだろうか。
子供のように行きたくないと駄々をこねたいところだが、悲しいかな、キバナは身も心も立派な大人である。責任をもち、社会を担う歯車のうちの一つであると自覚している生真面目な男には、そんなことができるはずがなかった。
タクシーから降りたキバナの足取りは一歩一歩が泥に足をとられて沈むように酷く重かった。それでもちょうど足元の青々とした芝生のように、背筋を伸ばしてしゃきしゃき歩く。例えここがどんな場であったとして、あからさまにうんざりしているだなんて失礼極まりない。下心はあるかもしれないが、結局のところスポンサーだってご令嬢や御子息だってガラルのポケモンリーグのファンには違いないのだ。
覚悟を決めてキバナは面をあげた。空を飛ぶポケモンでしか来られそうにない深い森に囲まれて、きっちりと刈り揃えた芝生から、少し黄色味のかかった白い煉瓦造りの古めかしい屋敷がにょっきりと生えていた。市街地から離れたこの場所は星がよく見えて、宝石を散りばめたような満天の星空と満月を背景にそびえ立つそのお屋敷は、さながら童話の挿絵にありそうな小さなお城のようだ。その玄関のそばには、一匹の雄のレントラーが座り込んでいた。ガラルではとても珍しいポケモンだ、勇敢で何もかも見通す目を持つ彼を番犬がわりにおいているのだろう。首輪がなくて自由でありながら役目に従う彼は、じっと黄色の瞳をこちらに向けている。少しでも不審な動きをすれば毛を逆立ててばちばちと雷を放つだろう。
屋敷の窓からわずかにのぞくシャンデリアも、艶々に磨かれたアンティークな調度品一式も、雪のように白いテーブルクロスも、全てが全て美しく煌びやかすぎてキバナの目には眩しい。ぴかぴかに磨かれた金銀財宝が光を弾くのに似た、ぎらつく明かりが突き刺さる。これなら先ほどまでいた病院のどぎつい緑色のカーテンの方が、よっぽど目に優しいというものだ。
マナーハウスというには些か立派な、格式高い屋敷をそっくり利用したこのホテルが、今日のキバナの戦場だ。気を引き締めて玄関を潜り抜けると、すでに仰々しい受付と大階段が待ち受けていた。ゲームのラストダンジョンのように、静まりかえった大理石の床を抜け、クロークにコートと例の真っ赤なストールを預ければ、いざ出陣。
階段をのぼって薄暗い廊下を抜け、パーティーホールへの入り口である大袈裟なほど重厚な扉を開くと、わっと人の熱気が吹き込んできた。
高い天井とシャンデリア、ざわめく話し声、小さなステージの上で仰々しく楽器を振る楽団。咲き乱れるドレスやスーツの花。磨き上げられた床は、水面のように薄ら景色を写し極彩色に染まり、規則正しく並ぶ白い柱と半円のアーチの壁には、
薄暗い廊下からのこの音と明かりのコントラストは、スタジアムの通路をくぐり抜けた先、光と歓声の氾濫に出迎えられる時と似ていた。静寂の興奮から、うねりをもつ大きな歓声にかわるあの勝負の始まりを思い出す。でもそれなら試合を、ダンデと戦いの宴を開く方がずっと楽しい。
ああ、バトルがしたい。彼の顔がみたい。声が聞きたい。せっかくの覚悟が熱気で既にぐずぐずに溶けそうだ。
✧˖°⌖⋆
上手く包帯がまけないのだとダンデは言った。勝負が終わった後、心配をしてキバナがダンデの控え室に顔を出したら、彼はヌメルゴンのようにべしょべしょに濡れた半裸姿でベンチに座り込み、今度は包帯とバトルを繰り広げていた。
『あー、なるほど。まだ腕が上がらないのね。傷は痛むか?』
『いいや、もう全然痛くないぜ!』
シャワーを浴びたばかりなのに、脂汗で濡れた笑顔を見て、下手な嘘だなあとキバナは思った。
この男は望まれたり与えられた役割、例えば快活で明朗なチャンピオンだとか、そういうものを自然体で演じることは上手い役者だが、生来真面目な男なのだ。嘘をつくこと自体は得意じゃない。
抜糸が終わったばかりのダンデの背中には、ドリュウズが穴を掘って地面を走り回ったみたいに、生々しく膨れあがった傷がいくつも根を伸ばしている。碑文に刻まれた文字みたいに、名誉の証なのだとダンデは笑っていた。
そう、名誉の負傷だ。子供がワイルドエリアに断りなく遊びに出かけて、うっかりポケモンの巣に迷い込んでしまい、巣の主人を怒らせてダイマックスさせてしまった。突如現れて暴れるダイマックスポケモンにガラルの人々は大混乱の阿鼻叫喚。助けてチャンピオンの大合唱。
そこで偶然キャンプのついでに子供よろしく迷子になっていたダンデが駆けつけて、漫画のスーパーマンのように赤いマントを翻し、見事ダイマックスしたポケモンの怒りをおさめてみせた。ただしその際子供を庇い、鋭い爪の一撃を背中にもらってしまったようで、それはそれは正視に耐えない酷い傷をこさえたのだった。
『オマエなあ、痛いもんは痛いって言えよ。どう見たって痛くないって傷じゃねえだろ。今日の試合だって無理にすることだってなかったはずだ』
『痛っ』
ぎゅうと包帯を引っ張ったせいで、ダンデは情けない引き攣った声をあげた。ほらみろ、やっぱり痛いんじゃねえの。内心舌をだしながら、キバナはちょっと拗ねていた。
たしかにあの日、キバナはちょっと丁度仕事でシュートシティのほうに出向いてはいたが、ナックルシティの管轄内で起きたことだ。電話一本くれたらとんぼがえりを決めて参戦したというのに。そんな酷い傷を負わせたりしなかったのに。酷い怪我をしてるなんて知っていたら、今日試合はしなかったのに。無理をさせなかったのに。
はじまる直前にリーグスタッフから怪我をしているのだと耳打ちされたこっちの気持ちも考えて欲しい。
『オレの落ち度で受けた傷だぜ?それで中止や先延ばしになんてしたくないぜ。なにせ観客の皆にとって、代わりの日は存在しないからな。今日しかチケットを取れないから代替のできない人もいる。わざわざ遠くの地方からホテルをとって今日のためにやってきてくれる人もいる!』
『そりゃそうだけどよ』
『だから安易に取りやめにはしないぜ。それにこの前助けた子供たちもバトルが好きなようでな、オレの試合をよく見てるって言ってくれたんだぜ。だったら尚更やめになんてできない。オレが今日休んだりなんてしたら、彼らは先日の一件で怪我をしたからだって気がついて、気を病んでしまうからね』
本当にこの男は憎たらしいほどにチャンピオンに向いている。人から期待や願いを寄せられて、無碍にできない優しさと全てを叶える無比の強さを兼ね備えている。
『オマエはリーグスタッフが怪我をしたとして、同じ理屈で仕事を休むなと言うのか?』
『言わないぜ!』
『だろ?じゃあオマエも一緒だよ』
『たしかにな、それはそうかもしれないぜ。でも彼らと違ってオレはチャンピオンだからな』
チャンピオン。ガラルの英雄。ガラルをまもるもの。ガラルを牽引するもの。
キバナもまたジムリーダーであるので、ダンデの肩にかかる責任の重さや振る舞いについては重々理解している。彼に関していえばキバナの比じゃないだろう。
とは言え、無理をしてほしくないというのが本音だ。キバナにとってダンデは大切なライバルであり、同時に気のおけない友人であるし、何より———
『それに』
きらきら無邪気を輝かせる瞳が、キバナを見上げた。背の高いダンデが見上げる相手といえばさらに一回り位大きいキバナくらいなので、キバナは上目遣いのこの少しあどけない印象すら与える顔の角度と笑顔が大層お気に入りだった。
『オレがキミと勝負をしたかったんだぜ。最高のライバルとの試合を心待ちにしてたのに、こんな些細な怪我一つで中止になんてなってたまるか。本当にキミとの勝負は飽きがない、ずっとしていたいくらいだぜ』
ともすれば熱烈な告白に聞こえかねないそのセリフに、うっかりキバナは耳まで真っ赤に染めた。
ダンデは真面目だ。そして責任感が強い。だから嘘は下手だ。
だが同時に役者であり、無邪気で、本当にずるい男だ。
胸がむず痒い。言葉がでてこない。こんなふうに言われたら、ダメだなんて言えないじゃないか。こんな好きな表情で、心から嬉しい気持ちを向けられて。仕方がないなと許してしまいたくなる。
キバナはいつだって、ダンデに振り回されてばっかりだ。
✧˖°⌖⋆
ビビヨン、あるいはマホイップ。女性たちはこれでもかと自分を磨き上げ、鱗粉のように輝く薄く繊細なドレスに身を包み、色んな細工で飾り立てている。ピアノの詩人に創られた、ホールで奏でられる英雄の名を冠したクラシックも合間って、御伽噺の世界に迷い込んだ気分だ。
キバナは彼女たちを尻目に、背を壁に預けて受け取ったグラスを手持ち無沙汰に揺らしていた。
挨拶も一通り終わってしまえばキバナの役目などお目付程度である。昔のようにスポンサーのご機嫌とりをすることも、御令嬢の猛烈なアタックを遇らうことも今は然程必要ない。どちらかというとその仕事は今日同じ戦場にきているチャンピオンの方だろうか。
キバナは背丈も見目も性格でも目立つ男なので本来であれば放って置かれる男ではないのだが、珍しいことに今日は誰も彼に話しかけようとはしなかった。厳密に言えば、皆一度はキバナに気付いて興味や秋波を向けるのだが、すぐにみてはいけないものを見たと顔を曇らせては、さっと視線を逸らしてしまう。背中にゲンガーでも貼り付いているんだろうかと振り返ろうとしたが、背中には壁しかない。
と、するとキバナ自身に原因があることになる。鏡がないからどんな状態になっているかわからないが、きっとひどい顔をしているに違いない。キバナは空いた手でそっと顔を覆った。
仕方ないですよという誰かの囁きが聞こえた。ご多忙ですもの。あれ以来ですからね。三年経ってもまだだめか。もうそろそろ気持ちを切り替えられたらいいのに。いつまで腑抜けてるつもりなんだろうな。まあまあそれも難しいですよ。キバナに配慮をしているつもりで筒抜けの潜めた言葉が、耳鳴りのように鼓膜をそろりと舐める。紅茶の底に溶けずに残った砂糖のように、不快な甘さを伴って脳裏にこだまする。身震いがする。
ざらついた無神経な言葉たちがこすれて、キバナの心が軋む。生暖かい気遣いが無遠慮に触れてくるので、冷えきった魚の心が火傷する。グラスを握る手に力がこもり、みしりと不穏な悲鳴をあげた。
———三年経っても変われないなんて、キバナが一番分かっている。
これでは皆が遠巻きに窺うわけだ。招かれたパーティーでこんな表情を見せ続けるのもよろしくないし、何よりこれ以上醜態を晒したくはない。ここは一度夜風に当たろうと、キバナはもたれていた壁から背を引き剥がした。砂嵐を吹かせた試合の後、髪や服に潜むざらつく砂をシャワーで流すように、こびりついた言葉と酒と香水の匂いを夜風で洗い流したい。
キバナは溶かした琥珀に似た液体を一気に喉に流し込むと、空になったグラスをスタッフに預け、会場に広がる人の海に飛び込んだ。真夏の海のように人の熱気で暖められた生温い空気が、鼻が馬鹿になりそうなほど数多の香水が混ざり合って原型をとどめていない臭いが、じっとりとキバナに絡みついた。
ちらりとホールの中央に目をやると、人の波間から人だかりが見えた。波が打ち寄せるようにぐるりと誰かを取り囲んで、絶え間なく上がる
あれはダンスの誘いを女性たちに求められているチャンピオンの哀れな姿だ。全く本当に人気者である。いくら美しく着飾った女性たちとはいえども、びっしりとチャンピオンに群がる姿は、死体に集る蝶にも見えてますます同情してしまう。
とはいえ、あれはキバナにも助ける術はない。ゾンビ映画でゾンビに噛まれた仲間を助ける術がないのと一緒だ。獲物を狙う彼女たちに食いつかれたら満足するまで離して貰えないだろう。それにチャンピオンにはもう少しばかり女性への免疫と対応を身につけて貰わねば。
ただ彼女たちが無体を働くようであれば必ず割って仲裁しよう、とは考えていた。崖から突き落とす獅子ほどキバナは酷い男ではない。なんでも甘やかしていたらためにはならないが、本当に困っているようなら助け舟を出しに行こう。そう考えながらキバナはバルコニーに向かった。
ところがすぐにキバナの足は止まってしまった。バルコニーには既に先客がいたからだ。オオスバメの尾の先を染める色に似た燕尾服に身を包み、夜に咲く藤の花のような長い髪を靡かせて、丁度背中に背負い込んだ満月とそっくりな金の目を持つ男が、夜の帳の向こうから、月光のように透き通って真っ直ぐにキバナを見据えていた。
キバナはちらりともう一度人集りの様子を伺う。まだチャンピオンは騒がしい人の輪の中心にいるようだ。
キバナはゆっくりとその男に近づいた。何人か女性がキバナの姿に気がついて、声をかけて側に寄ろうとしたのだが、どこぞの映画のラストシーンの、愛しい男の葬式を終えたその帰り、小説家の男から熱い眼差しを受けても毅然と並木道を通り抜けた女優のように、キバナは向けられた好意を一切気にも留めなかった。気遣う余裕もなかった。ただ、彼が気になって仕方がなかった。
パーティーの喧騒と熱気が遠のいて、目蓋も突き刺す明るい世界から引き寄せられるように、暗がりのバルコニーへと足を伸ばした。
一気に肌を刺す寒さと静けさに包まれる。男のむこう、白い楕円状の柵の先は一面の星の海と芝生の海の狭間に森と山脈が緩く波を描き、昔の貴族がマナーハウスをここに建てたのも納得の、雄大な夜景が広がっていた。
開け放たれた戸を超えただけなのに、一気に別の世界に踏み込んだ気分だった。たった二人だけの別世界。ギラつくシャンデリアから星と月明かりの天井に姿を変えて、静寂と樹々を揺らす音をポロネーズの代わりに、男はじっと佇んでいる。
「……一体、オマエは誰だ?」
彼は大きな目をますます丸くして、少し驚いた顔をした。それから周囲をキョロキョロと見渡して、その言葉が自分に向けられていると確認してからにこりと笑った。
不躾なほどキバナのことを見ておきながら、彼はどうしてキバナが気づかないと思ったのだろうか。先ほどだって目があったのに、なにを惚けているのだか。
だがキバナには、その晴れやかで快活なようでいて、闇夜のようにしっとりと落ち着いた、どちらともつかない昼と夜の境界線のような大人びた男の笑みに、とても見覚えがあった。
彼が笑ったその拍子、肩から髪の房がひとつ滑り落ちて、流れ星のように光が走った。
「誰だと思う?」
キバナの疑いを孕む強い視線に怯む様子もなく、彼は歌うように答えた。
今度はキバナが目を見開いた。驚いたことに、容姿だけでなく声もよく似ている。さきほどワインで潤したはずの喉がカラカラに乾く。目尻が熱もって引きつる。キバナは緩慢に口を開いた。
「質問を質問で返すなよ。オレにはオマエがダンデにしかみえねえ。だがダンデがここにいるはずがない。ならオマエは絶対にダンデじゃない、それだけは確かだ。もう一度聞く、オマエは誰だ?」
ダンデによく似た風貌の男は、スタジアムで相対した時によく見かける、挑発的な笑みを浮かべた。ゆっくり口角があがっていく様子も、少し目を細めて眉の角度がつりあがる仕草も、あまりにもダンデにそっくりだった。
「キミが望む者になるぜ、キバナ。ダンデがいいか、チャンピオンがいいか、ただの幻がいいか。亡霊がいいか、それともどこかの誰かに化けたメタモンがいいか?」
まるで禅問答のような問いかけだ。
———自分の望むものになるだって?たちの悪い冗談だ。そもそもここに彼の姿をした男がいるということが悪趣味極まりない。キバナかダンデのファンなのだろうか。それとも疲弊し摩耗しきった精神が都合のいい幻覚を見せているのだろうか。
「はぐらかすなよ。ダンデそっくりに化けて、一体なにが目的なんだ」
「目的もなにも、オレは本当にキミが望んだものになるつもりだぜ」
「望んだものね。よくわからねえが、オレは誰かをみがわりにするつもりなんてないさ」
代わりなどいない。誰かで代わりがつとまる男だったら追いかけなどしない。例え背格好が似ていたとしても、笑う仕草や威風堂々たる姿勢がそっくりだとしても、泣きたくなるほど声が記憶に瓜二つだとしても、彼ではない誰かを、彼に見立てようとは思わない。
キバナがもう一本踏み込もうとした時だった。男の静かな問いかけが、キバナの足を縫いとめた。
「オレに声をかけたのにか?」
キバナは身を強張らせた。洞察力の鋭い彼らしく、些細な要素を見落とさずに、ホテルの前でじっと見上げてきたレントラーのように黄色い眼で見抜くところまで、本当によく似ていて行儀悪く舌打ちしたくなる。
確かにこの男がダンデそっくりの容姿を持っていなければ、キバナはこのバルコニーの風で喧騒を洗い流した後に、残りの時間の殆どを壁に背中をはりつけて過ごしていたはずだ。彼にダンデを重ねていなければ、こうして言葉を交わすはずもなかったはずだ。だから彼は暗にダンデの代わりを自分に見たのだろうと言っている。ぐっと握り締めた拳のその根元、金の貴石をあしらったカフリンクスが袖から顔を覗かせて、小さくきらりと輝いた。
キバナの様子を見て、何故か男の方が少し顔を歪ませたように見えた。というよりも、古ぼけたテレビにノイズが走るように、一瞬男の顔に形容し難い複雑な色が過った気がした。
「キミもそんな顔をするんだな、知らなかったぜ」
「……オレさまは今日、アンタとは初めて会ったと思うんだが、その言い方をするってことは、いままで会ったことがあるのか」
「勿論だぜ!嫌になるくらい顔を合わせてきたはずだぜ」
「嫌になる事があるかよ」
少し前にだって面をあわせてきたばかりだっていうのに。その投げやりなキバナの返答を大切にしまい込むように、ダンデそっくりの男は眩しそうに目を細めて胸に手を当てた。
「ダンデって双子だったっけなあ。弟のことは知ってるんだけどな」
「いや、兄弟はホップしかいないぜ」
ホップの名前も知っているのかと思ったが、そもそもダンデの弟がジムチャレンジをするとあの時から話題になっていたし、彼がチャレンジャーになる前ならともかく、今なら知らぬはずもないかとすぐ思い直した。
「じゃあ影武者か」
「オレは誰かをみがわりにしようとは思わないぜ」
「だよなあ」
だとするとダンデ本人くらいしか心当たりがないが、それだけはあり得ない。
「ダンデの姿を借りてるだけで別人ってことなのか?すまないがオレさまにはさっぱりわからないよ」
「フフ、そうか。それでもいいさ。……ところでキバナ、暇なんだろう?忙しいだなんていうなよ、ずっと壁の賑やかしになってたところを見ていたからな。色々聞きたいこともあるんだ、少し話し相手になってくれ」
どうしようかと逡巡し、もう一度キバナはホールの方を振り返る。相変わらずうずしおのように人波に閉じ込められているチャンピオンは、どうにか溺れず笑顔で応対している。あの様子なら大丈夫そうだし、何よりもあの目に毒なほど眩しくて周囲の目線と言葉が突き刺さるホールにて、萎れた壁の花となって残りを過ごすくらいなら、得体の知れない男と漫談している方がまだマシかもしれない。
それに、あれほど聞きたいと思ったダンデの声がきけるなら、この男の正体なんて些末なことだろうと思ってしまった。彼の真意はわからないが、少なくとも害意はないようだ。
キバナは意を決して、男の隣、バルコニーの柵の前に並び立った。
「……いいよ、確かに暇してたのは事実だ。中だと気が滅入るし」
「ありがとうな、で、早速なんだが、前チャンピオンって今どうしているか知っているか?」
「……いや、それ関係者以外に話せると思うか?」
「他ならぬオレの願いなのに?」
「ダメ。オレも何も、そもそもオマエは誰なんだよ」
「キバナが望むものだぜ……多分」
「またそれかよ。しかも多分ってなんだよ」
「確証がないんだ。正直に言ってしまえば、オレにもわからないんだぜ。でもキミとここで出会えたのは、そういうことかなと思ったんだ」
「はぁ」
この、効率重視のあまりに時折自分の頭の中にある他人の知らない大前提を省くような喋り方も、キバナには慣れ親しんだものだ。
「オレのことはいいんだ、いろんなことを聞かせてほしい」
ダンデに似た馴れ馴れしい男は、どうもこのところのガラルに詳しくないようだった。ホップは元気にしているのか。ポケモンたちも元気か、ローズは元気にしているのか。ジムチャレンジは開催できているのか。マクロコスモスの経営は問題ないか、キバナは疲れた顔をしているが大丈夫か。他にもいくつか尋ねられたが、彼はまるで暫くガラルから離れて一切合切の情報を殆ど遮断していたかのような口ぶりだった。
長くガラルにいなかった男がどうやってガラルの辺境のこのホテルにやってきたのだろうか。少なくともここにくる過程で、いくらかガラルの様子なんて見られる筈なのに。
一頻りの質問攻撃を終えると、男は満足げに胸を張って快活に笑った。
「皆元気そうでよかった!安心したぜ!」
「…そうか」
「どうした、キバナはあまり嬉しそうじゃないな」
「ちょっと疲れてるだけだな。オレさまこのところめちゃくちゃ忙しくってさあ。仕事と仕事に挟まれてそのまま圧殺されそうだよ。人として最低限の文化を下回った生活しかできていない気がするわ」
「それは本当にすまなかった!」
「フフ、オマエ本当にダンデみたいなこと言うんだなあ、いるはずがないのになあ。…オレさまやっぱり疲れてんのかな」
ダンデじゃないとは否定してみたもののやっぱりこの男、ダンデにしか見えないのだ。
「…そうかもしれない。だからキミも忘れていいんだぜ」
「それだけは絶対に嫌だ」
「そうか」
消え入りそうな声でダンデのような男は呟いた。それから暫く、二人して黙り込んで月の光を浴びながら、薄くベールのようにたなびく群雲を眺めていた。ざあざあと木々が奏でる音楽と、薄らとホールから響く弦楽器たちにどこからともなく虫ポケモンのコーラスが重なって、自然と人の合奏が耳に心地よい。身体に鬱屈するように溜まり込んでいた熱が、気持ちが、冷たい夜風で洗われていく。隣り合ったダンデに似た男の髪が、ふわりふわりと風に揺れていた。
穏やかな時間の流れにどれほど浸っていただろうか。突然、静寂をダンデのような男が破った。
「なあキバナ、まだ時間はあるか?」
「あるよ。次はなんのお願いだ?」
「キミとダンスをしたいんだぜ」
「なんだって?」
思わずまじまじと隣の男の顔を見た。月明かりを受けた彼の瞳が、闇夜でも淡く蛍火のように光っている。欄干にうつ伏せるように、少しだけ目を細めて柔らかく弧を描いた口は、ぎょっとするほど壮絶な色気を孕んでいた。
「今日はせっかくのダンスパーティーだろ?でもキミは誰とも踊るつもりがなさそうだったな。それじゃもったいないぜ。せっかくだし、ラストはオレにくれないか。一緒に踊ろうぜキバナ」
ダンデに似た男はそういうなり、恭しく膝をついてキバナの手をゆるりと取った。長く夜風に浴びていたせいか、ダンデらしき男の手はひどく冷たい。その温度に反した情熱的で洗練された動きで、誘いをかける。
キバナが好きだった、あの上からダンデを眺めた時に見せてくれる上目遣いで、手の甲に唇を寄せて悪戯っぽく微笑んでいる。さらりと緩やかに流れ落ちた髪が、白い月光をまとって薄く輝きながら、キバナの腕を優しく撫でた。
このパーティー会場で誰よりも紳士で、貴公子で、王子様で、美しくて、蠱惑的な仕草だった。
目を離せない。その雲の影から覗く月のような瞳に魅入られたみたいに、動けない。言葉も忘れて、キバナは茫然と彼を見つめていた。見つめ合っていた。
キミとラストダンスを。最後の一曲を。そうしてダンスをともにして、家に送ってもらうまで。愛しているという意味。
全く、この男はそのつもりがなくたって、いつだってキバナを翻弄する。ああ、ともすれば、熱烈な告白のセリフだ!
「いいよ」
なにか気の良い返事をと思って言葉を探したのに、結局口から飛び出したのはあまりに素っ気ない返事だった。そんなひどい下手な返事でも、男はひどく嬉しそうに笑った。先ほどまでの振る舞いが嘘のように、彼は立ち上がるなり無邪気な少年のように両手でキバナの手をとると、ぐいぐいとバルコニーの真ん中まで引っ張っていった。
「月が綺麗だ。…だから中じゃなくてここで踊りたい。ここでも音楽は聴こえるだろう?」
「オレも中には戻りたくないな、シャンデリアより月の方が目に優しい」
「…やっぱり、気づかないか」
ホールの方に顔を向けて、ぼそりと男が呟いた。髪で表情が隠れて窺えない。
「…何がだ?」
「ああ、どちらもこっちの話だ。ところでこれは……ワルツか?でもあまり聞いたことがないな」
開け放たれた扉から、やんわりと楽団の演奏が響いていた。軽快なその音楽はワルツというには少しフォーク調すぎる。ターフタウンらしい田舎の風景を思い起こす音楽。不思議そうに首を傾げるダンデに似た彼に、今度はキバナが笑った。握り締められた手を優しく解いて、男の手の腹を横からそっと包み込んだ。相変わらずよくできた彫刻のように冷たい。
「いや、下にいるお利口そうな彼の曲だよ」
多分、楽聖が作曲したやつな。
キバナが庭先を目配せする。しばしダンデに似た男はきょとんとしていたが、頭の回転がはやい彼は、すぐに意味を察して声を上げて笑った。
庭の利口な彼、とどのつまり
「ポケモンが好きなオレたちにぴったりな曲だな!」
✧˖°⌖⋆
紙の匂いが立ち込める本棚の森の中、壁にかけられていた巣箱から、機械仕掛けのポッポが飛び出した。
『その鳩時計、先日倉庫を掃除していた時にホコリ被ってたのを見つけて。オレが引っ張りだして直したんだぞ!あ、いや、直したんです。時間になるとポッポが飛び出してくるクラシックなヤツですよ、すごく気に入ってるんです。オレ、すぐに研究に夢中になって時間を忘れちゃいますから』
ホップは睨めっこしていたディスプレイとの勝負を一度お預けにして、椅子ごとキバナの方に向いた。まだ少年といっても差し支えない年頃の彼は、大人の言葉遣いを身に付けた。時折少年らしさがぴょんと飛び出してくるが、それでも初めの頃と比べて幾分か慣れたものだ。
カーテンがそよぐ音と、かちこち振り子がリズムを刻む音、電子機器の唸り声だけの静かな研究所に、彼の相変わらず落ち着きのない声と、ギィと椅子が軋む音が響き渡った。
ソニアにフィールドワークへの同行を頼まれて朝から研究所に訪ねてきたというのに、肝心の彼女が寝坊らしい。
『で、どうして変わったか、でしたっけ?だっていつまでもオレがうじうじしてたら、アニキが絶対怒るじゃないですか。こらホップ、考え悩むことはいいが、ネガティブになるのは違うぜ!って』
あの日以来バトルの道から遠ざかったホップは、随分白衣が似合うようになった。最初は白衣を着ているというより着られているという有り様で、そのどこかちぐはぐな姿はパッチルドンかなにかのようだった。正しい姿のはずなのに、どこか似合っていないし間違っている気がする。そんなホップの妙ちくりんで新たな出で立ちに、ソニアは涙を浮かべて笑い転げていたのだ。
『そりゃ散々落ち込んで迷い続けましたよ。…バイウールーにも随分迷惑をかけちゃったな。でもアニキに泥を塗る真似はしたくなかったんです』
ノリがきいてピンと生地がはってまっさらだった白衣は、使い込まれた本革製品のように、今は柔らかくホップの肩に馴染んでいる。研究過程で汚れて燻んだ白衣と、兄とよく似た笑顔が眩しい。
『なるほどな、ずっと燻っていたオマエが最近元気になって、研究者が板についてきたのはそういう事情か』
ちらりとキバナはデスクを見遣った。ムゲンダイナや願い星、そのエネルギーに纏わる論文、その資料や本に埋もれそうになりながら立てられた兄弟の写真は、日焼けして色が霞みつつある。
『そうだ、今度アニキに会いにいく予定なんですけど、キバナさんってアニキがどんな花が好きだったかご存知です?』
オレ、兄弟だけど殆ど離れて過ごしていたから、好きなものをあまり知らないんです。照れ臭そうに彼は言った。
ホップにとっては最早過去のことになりつつある。キバナにとっては今尚続くことだというのに。
『すまないがオレさまもわからないぞ。そもそもあの頭のてっぺんからつま先までポケモンのことでできているあいつが、花を嗜む男に見えるか?食事ですら効率重視で情緒皆無の早食いをする男だぞ』
『たしかに…アニキ、そういうのあまり興味なさそうだぞ……』
『だからなんでもいいんじゃねえ?オマエが好きな花だったらガーベラでもコリゼマでもコスモスでもアイツなら喜ぶだろうよ。ただ、オレはオレンジ色の花がおすすめだな。生花はやめとけ』
『オレンジですか?』
『そう。リザードンと同じ色だ』
キバナは鳩時計をもう一度見た。振り子が揺れている、八時十六分。
そういえば家にある時計、壊れて動かないままだったな。動く時計を見ていると、ちくたくとあの針で胸を突かれている気分になる。いつまで直さずにいるつもりだ、と。
✧˖°⌖⋆
全く、息がぴったりなのか相性が悪いのかわからない。同時に膝を突き出して、見事キバナと彼が衝突事故を起こす。
「おいまたぶつかってるぞ」
「すまない!でも仕方ないじゃないか、こっちは初めてなんだぜ」
口振りは不満を訴えるようではあったが、手足がぶつかって踏みつけて互いによろめくたびに、彼は打てば響く鈴のようにくすくすと笑った。
「初めてなのに誘ったのかよ」
「キミがそっちを譲ってくれなかったからじゃないか!」
「オレさまだって知らねえんだからそこは仕方ないだろ!」
「じゃあお互い様だぜ」
小競り合いのような応酬。不満まじりの言葉に反して、表情も口も軽い。
軽快に飛び跳ねて、彼は高く掲げたキバナの腕を潜る。そのままくるりと一回転。ドレスのかわりに燕尾と髪が翻る。その度月光が彼の髪を、質の良い服の生地を閃いて、バルコニーと星空をステージに横切る流れ星のようだった。ただし優雅な様子に反して、彼の足つきはどこか拙くたどたどしい。
なんでもそつなくこなせる彼がこれほど下手な踊りを披露するのは珍しい。とはいえ、それも致し方ないことであったりする。そもそも二人とも男であり、当然ながら社交ダンスは嗜みとして身につけていたとしても、男性パートしか教えられていない。
だから彼も男役をやるつもりで誘ったのだ。だが、キバナだってそちら側を知らない。そこまで彼にリードされ続けるのは、男の矜恃とライバルに張り合いたい気持ちが許してくれそうにない。だからキバナは、オレさま女性のパートは知らないからちょっと、と手を握り締めて拒んだ。オレだって知らないぜ、誘ったのはオレなんだからこっちをやったっていいだろう、誘ったんだからそこは譲れよ。くだらない言い争いが続く。
拉致があかないと彼がリードをしようとして、キバナはそうはさせまいと彼の脇に腕を通して抱き込むように踊り出す。暫くは風見鶏のようにくるくるぐるぐる位置が入れ替わって主導権を取り合っていたのだが、結局彼が女性パートの担当になった。キバナの「オマエって、オレの望むものになるって言わなかったっけ?」というたった一言がこうかばつぐん、いちげきひっさつ。受け入れざるを得なかったのだ。だから今、彼は誰にもみせられないような下手くそなダンスを、夜空とキバナに披露している。
とはいえ、不服そうな顔をしていたのもその時だけだった。彼もキバナと同じく負けず嫌いで、なにより逆境を跳ね返すことが好きで仕方ない性分なのだ。そしてとても覚えがいい。最初のうちはキバナが彼に合わせて優しく抱くようにリードしても、まるで強引に攫われたかのように不慣れな足取りを見せていたものの、次第に自分のペースを取り戻していく。
ゆっくりステップ。彼が遅れをとってどたばた追いかける。視線が互いに絡み合う。覚束ないスピン。夜の海に揺れる小舟のように、ゆらりゆらりと弧を描く。また彼が逆走して、つま先を踏んづけられる。すまないと謝罪。風が吹き抜けて、遠くの木立がざわざわ笑う。
本当に拙くて幼稚なダンスだ。二人は目を細めて、悪戯が成功した子供のように声もなく笑い合う。どんなに不格好なダンスだったとしても、今はキバナと満月と星以外、誰も見てはいない。世界でたった一つの、二人だけのダンス。月明かりをスポットライトの代わりにして、いつまでもまわり続ける。
ゆっくりとアンダーターン。キバナのジャケットが風を受けて浮き上がる。男の口角が挑発的につりあがる。再びステップ。彼の首を彩るジャボが花開く。今度は彼が先導する。男らしいスパイラル。妖精のように軽やかに、けれども洗練された貴公子のような優美と雄性を含んだ足取りで、くるりと彼が一回転。紫の髪が軌跡を描く。もはや足を踏まれることはない。
彼の腕がキバナの背に荒々しく巻きついた。一気に顔が近づいて、覗き込んでいるのはこちらなのに覗き込まれているような錯覚。このまま強い風がふけば、唇まで重なってしまいそうなほど距離が縮まる。
彼の目は燃えていた。情熱、闘志、興奮。色んなものが渦巻いて、金色の中で火花が散っている。女性パートにすっかり慣れて、女性らしからぬ雄々しさで今度はキバナをリードしようと力強く引っ張る。
負けてたまるかとキバナは抱える腕に力を込めた。彼の長い髪が戯れるように手を擽る。
互いに喰いつき喰らいあう、どう猛なギラついた目をしている。ホールのシャンデリアも月光も霞むほど強く鋭い輝きを宿している。その姿は二人とも、スタジアムの上、ボールを片手に向き合った時によく似ていた。ポケモンバトルをしている時に、とてもよく似ていた。
挑みかかって、かわして。組みついては離れて。主導権は渡さない。隙を見せたら食い尽くされる。不慣れな彼を丁寧にリードしてやろうなんて気はとうに失せていた。互いに力強く引っ張りあって、ダンスというには無作法で無骨でより一層白熱していく。
回る。腕をとりあう。身体をとりあう。互いに譲らない。二人にはバルコニーは狭すぎて、時折欄干に足をぶつけながら、駆け巡る。ヒートアップしていく。のめり込んでいく。
クライマックスに差し掛かり、全ての終わりが見えてくる。最後に向けて演奏がますます重厚さを増していく。
不意にダンデがキバナの腕を振り解いた。再びキバナがその手を捕まえるよりも先に、ぐるりと首に巻き付いた。そのまま頭をぐっとおさえつけられて、キバナの身が傾ぐ。
ばさりと髪が紫の羽のように広がる。スローモーションのように眼前に月光とよくにた色が迫って、そして。
月の下にくっきりと浮かび上がる二人のシルエットが、ぴたりと重なりあって一つに溶ける。
冷たい夜の味がした。
抱きしめあった二人のわずかな隙間を、冷たい夜風が潜り抜ける。彼の長い髪を撫でる。ダンスの時間はとうに終わっていることに彼が気がついて、ゆっくりと身体を離そうとした。けれどもキバナは背中に回した腕を外さなかった。撫で下ろすように彼の腰に手を当てて、そのままもう一度引き寄せた。今度は抗うそぶりも競い合うそぶりも見せず、素直に胸に転がり込んだ。それにしても彼には体温というものが感じられない。服を着せた冷たい彫像でも抱いてるみたいだ。
彼はどこか夢現でぼんやりとしていて、無理に触れれば弾けて消えるシャボン玉のような空気を醸し出していた。快活だった彼には全く似つかわしくない言葉だが、今だって散々キバナを振り回した体軀をもち、立派に髭だって生えているのに、冷え切った身体も合間っていっそ儚ささえ感じる。
「…もうこんな時間か」
彼のわずかに唾液を帯びた唇が、にわかに動いて光を弾いた。少し俯き加減の顔に帳のように髪が落ちて、どんな表情をしているかわからない。キバナの高い視界からでは、彼が見上げてくれなければ彼が今どんな気持ちでいるかすら知る術がない。
「そろそろいかなくちゃな」
顔を上げた彼はもう、いつもの元気を漲らせた男に戻っていた。儚げな空気も剥き出しの闘争心のような本能もどこかにしまい込んで、一人の大人の姿になっていた。
「もう帰るのか?それならおくるよ」
「いや、大丈夫だぜ。オレ一人で…」
「無粋だなあ。"ラストダンスは私に"って言ったのはオマエの方だぞ。最後に踊る相手は特別、家に送り届ける権利を得られる!」
だから男はこぞってラストダンスの相手になりたがる。だというのに、そんな風に熱烈に口説いてキバナの手をとった彼は、瞬きを何度か繰り返して「なるほど、そういう意味もあったのか」と呟いた。
こいつときたらやっぱり意味もわからずに言ってたんだな、そういう思わせぶりなところ、昔からどうかと思う。
「しかし、それを言うならオレの方がキミを送り届けるんじゃないのか?」
「オマエに案内させてたら夜が明けても家に着く気がしねえな。だからオレがオマエをおくる、それでもいいだろ?」
迷子癖のある奴が、キバナのことを送り届けるなんてできるはずがない。随分な言われようではあったが、彼は気を悪くした様子もなく白い歯を見せて笑顔を浮かべた。
「それは確かにそうだぜ!でもオレが誰だか知らないのに、オレの家はわかるんだな」
「オマエの帰る場所は家じゃないからな」
キバナはそう言うなり、ベルトにつけていたボールを一つ軽く投げた。ぽんと軽い音がして中から飛び出してきたのは、せいれいポケモンのフライゴン。夜遅くにごめんな、ちょっとの間頼むなとフライゴンの頭を撫でて、それからキバナはてのひらで彼を指し示した。
「先に乗ってくれ」
「…どこへ連れていくつもりだ?」
彼は乗らずにフライゴンとキバナを交互に見遣って、静かに訊ねた。ホールの方は再び演奏がはじまったようで、夜に似合ったしっとりとしたピアノと落ち着いたドラムの音色が聞こえてくる。
「月へ!…っていうのは冗談で、ターフタウン郊外の丘にある療養病院さ。のどかで、景色が良くて、人目に付きづらい。あそこにいると時の流れなんて存在しないんじゃないかと思うほど、穏やかに過ごせる場所だ。ちょっと虫ポケモンが多いのが欠点だな。…少しここで待っててくれよ、クロークから荷物を受け取ってくる」
そう声をかけてから、ホールに再び舞い戻る。夜の静けさと光の氾濫する会場の落差で鼓膜が破けて目が眩みそうだったが、なんとか人の合間を縫って駆け抜けた。チャンピオンを取り囲む渦は小さくなっていたので少し安心した。
廊下を抜けて階段を降りて、受付から急いでコートとストールを受け取る。それから今日先に会場に入ってもらっていたナックルシティのスタッフに声をかけて、少し席を外す旨を伝えた。何かあればスマホに連絡をしてくれと言って、急いで彼の元に戻った。
彼は庭先にいたレントラーのように、先に帰ったりせずにお行儀よくバルコニーでまっていた。その冷え切った肩に、キバナは自分の着てきたコートをかけて、次に真っ赤なストールを、迷子防止の首輪の代わりに彼の首にまいた。これなら多少寒さもましだろう。彼に寒さの感覚があるかは謎だが、冷えたまま放って置けるほどキバナは冷たい男にはなれなかった。その様子をフライゴンは不思議そうに首を傾げて見つめている。
「さっき、前のチャンピオンはどうなったか、ってさっき尋ねたよな。前チャンピオン———
コートの上に髪を出してやって、ストールを結んで形を整える。少し乱れたダンデの髪を手櫛でなおして、キバナはウンと一度大きく頷いた。ダンデの身につけた燕尾服の首元を飾るジャボがあるせいで少し不格好だが、まあ誰にも見られないだろうし許してもらおう。
「遷延性意識障害ってやつだな。……さっき、質問されて思った事がある。オマエ、三年前より先のガラルをよく知らないだろ。ダンデが眠ったころと一緒だ。笑う癖も、喋り方も、オレを挑発する仕草も、あまりにダンデと同じすぎる。メタモンってこたぁないだろ、あいつは見た目は似せられてもここまでそっくりに振る舞えない。幻覚かとも思ったけどよ、それにしては実体もあるみたいだしな」
キバナは静かにこちらを見据えるダンデの頬をてのひらでなぞり、親指で唇の凹凸を確かめた。まだ少し名残で濡れている。あんな大胆なことをしかけてきたというのに、ダンデは少し気恥ずかしそうにゆるりと目を逸らしたが、恥じらいを見せたのは流れ星が燃え尽きるのと同じくらいの、ほんのわずかな間で、すぐに真剣な面持ちに戻る。
「なあ、ダンデなんだろ?でも……生きているダンデじゃない。一体オマエはなんなんだ?オレの都合のいい夢なのか、…それとも幽霊なのか」
彼はどうみてもダンデだった。十数年間キバナが追いかけ続けたライバルだった。燕尾服に身を包んでいるものの、三年前、眠りにつく前のダンデそのものだ。今の彼は、長引く入院生活ですっかり筋肉を失い、生活の負担を減らすために髪はばっさり切ってしまい、トレードマークの髭もない。薬品の臭いが染み付いた部屋で、静かに眠り続けている。だからダンデではあるが、病院で眠っているダンデではない。
おまけに人の身でもない。いくら抱きしめてもキバナの熱は彼にうつらず、当てずっぽうの酷いダンスで蹴られたり踏みつけられた足は全く痛みがなかった。それどころか羽が撫でていったかという程度の、軽い衝撃しか受けなかった。中が空洞の陶磁器の人形のようだ、力は、エネルギーはあっても、体重というものが存在しない。
ダンデであってダンデでない。人の姿はしているが人ではない。彼の正体はなんだろうか。そう自身に問いかけているつもりで、本当はなんとなくわかっている。
「オレ自身は幽霊だと思っているぜ」
するりと頬から滑り落ちるように離れたキバナの手を、ダンデが両手で受け止めた。キバナの思考を読み取ったかのように、穏やかに告げたダンデの答えは、一番あって欲しくないものであり、けれどもキバナが想像していた返事そのものだった。なんとなく、そんな気はしていた。今日、ダンデをバルコニーで見かけた瞬間のように胸が詰まって、まなじりに熱が滲む。
黙り込んでしまったキバナの手を、ダンデが手綱のようにゆっくりと引いて、フライゴンのそばに立つ。
「でも正直に言えば、オレの正体なんてどうでもいいんだ。そもそもオレ自身がよくわかっていないしな、ただ、恐らく幽霊なんだろうってだけで。…とっくにオレは死んでいて今現世を彷徨っている最中なのかもしれないし、眠っているオレが見ている夢かもしれない。もしそうなら、ムンナやスリープにあったら喰われちまうかもな!…本当のところよりも、なによりも大事なことは、今日ここでキバナと会えたことだと思っているぜ」
ダンデはにっこりと笑うと、今度こそ躊躇いなくフライゴンの背に飛び乗った。そしてすぐに後ろを振り返り、フライゴンの背を優しく叩く。送ってくれということらしい。それがもっと残酷な意味でなのか、気安い意味なのかはわからないが、キバナの答えなど決まっている。
キバナはフライゴンの背にまたがると、ダンデを後ろから胸の中におさめた。八つ目のジムバッジがぴたりとはまるように、ダンデの背中はすっぽりと収まった。
ダンデはもう背中と頭しか見えないが、楽しげに足と身体を揺らしてリズムをとっていた。先ほどからホールから聞こえて来る夜露に濡れるような演奏が、誰もが知っているジャズの名曲だったのだ。ダンデは少し調子はずれに歌詞を口ずさんだ。イン・アザー・ワーズ、プリーズ・ビー・トゥルー。
「さあいこうぜ、キバナ」
振り返ってダンデがキバナを見上げた。好きな上目遣いに、好きな笑顔を浮かべて。お誂え向きの演奏を背に、フライゴンは大きな羽を羽ばたかせ、一気に二人と一匹の影がバルコニーから飛び出した。
童話のお城から、今度は映画のような夜の世界へ。自転車ではなくフライゴンにのって、どこか遠い星の住人ではなくライバルを抱えて、ぐんぐんと高度をあげていく。あんなに大きかったマナーハウスは不思議な小瓶でも飲み干したように、みるみるうちに縮んでいく。見渡す限り星ばかりの、ミニチュアの宇宙へ。星の海へ。
「凄いな、星と月しか見えないぜ!」
ダンデは声を張り上げて喜んだ。彼が子供のように目を輝かせ、身を乗り出してあちこち景色をみようとするものだから、キバナは彼が落っこちないようにぎゅうぎゅうに抱き留めなければならなかった。
普段はその若さの中に老人を飼っていそうなほどの老獪さを見せつけたり、蠱惑的で恐ろしい色気を孕む大人になることもあれば、雄の本能を隠そうとしない闘士になることもあるのに、時々どこかに大人を迷子にさせてしまうらしい。多分、ダンスの時に逸れたのだろう。人の身じゃなくなったって、やっぱりダンデのままだ。
ダンデを後ろから抱きすくめると、くしゃりと花束が潰れるような音を立てて、胸の中で長い髪がこすれた。鼻先が彼の頭に埋まる。彼からはほんのわずかに、消毒液のじくじくと滲みる匂いがした。
☽
ダンデが目覚めることのない眠りについて、もう三年になる。忘れるはずもない、ファイナルトーナメントの決勝日のことだ。ガラルの未来を憂いたローズが、深い眠りに微睡んでいた伝説を目覚めさせてしまい、ガラルは混迷に陥った。
もちろんどんな相手だってダンデが放っておくわけがない。責任感が強くて、誰よりも強くて、チャンピオンでありガラルを担うダンデは、当然ながらナックルシティ———キバナの居城の天辺でその伝説、ムゲンダイナに独りで立ち向かった。
しかしいくらガラルの間で英雄といわれる男だったとしても、ムゲンダイナの放った一撃は、人の身にあまりに強大すぎた。当たり前だ、人間一人でどうにかなるなら封印だってされていなかったし、厄災としてタペストリーに描かれて残っているはずがない。
捕獲に失敗してボールを破壊して、ムゲンダイナが飛び出して。咄嗟に相棒のリザードンに弟とチャレンジャーを守らせて、ダンデはムゲンダイナの攻撃をまともに受けた。
チャンピオンになってから一度もつくことのなかった膝をつき、地面に力なく倒れ伏せる。キバナがようやく駆けつけたときにはもう全てが終わっていて、全てが遅過ぎた。泣き叫ぶダンデの弟と、震える手でボールを握り締めたチャレンジャー。そしてピクリとも動かずに硬く瞼を伏せているダンデ。
幸い命は助かった。けれども不幸にも意識が戻らない。彼らしいと言えば彼らしいが、意識がムゲンダイナの一撃で吹き飛んで迷子になってしまったようだった。
衝撃だった。無敗のチャンピオンだから大丈夫。アイツが負けるはずがない。だから彼の背中を追わなくても、自分が他のダイマックスしたポケモンたちを抑えるために奔走していても、何の問題もない。アイツより強い男を知らない。ずっとそう信じていた。ダンデはどんな逆境も困難も打ち払う力を持っていたし、それを跳ね除けて叩き潰すことが何よりも楽しみである節さえあった。重責を物ともせず王者らしく悠然とマントを翻し、誰の夢も願いも期待を受け止めて応える無類の力を備えていた。だから、いくらムゲンダイナ相手だって、負けるはずがないと、思っていた。
———アイツだって同じ人間なのに?ダイマックスをして暴れるポケモンから逃げ惑う非力な市民とダンデ。そこに生き物としての違いはないのに?
昔、ワイルドエリアの巣穴に迷い込んだ子供を庇って背中に傷を負っていたじゃないか。正義という呪詛の茨に巻きつかれた痕のように、傷が残っていたじゃないか。それでも彼はスタジアムでは傷を隠して、控室では痛みを隠して。下手な嘘で塗り固めた笑顔を浮かべて。
『でも彼らと違ってオレはチャンピオンだからな』
知ってたはずじゃないか。アイツが誰かの期待に応えようとする人だって。だから怪我をおして試合をしていたというのに。
知ってたはずじゃないか。誰かに心配をかけたがらない人だって。ローズのことだって、ああなるまで誰にも知らせていなかった。たったひとりで平和的に解決しようと説得しようとしていたのに。
———なんでオレは独りでいかせてしまったんだ?
キバナがダンデに向けた信頼がそのまま、真っ直ぐな恐怖の刃となって心臓を深く鋭く貫いた。心臓が止まりそうになる。ありもしない胸を貫く刃を引き抜きたくて、胸をかきむしりたくなる。
いつからだろうか。ダンデを不死身の勇者のように思っていたのは。いくら彼が強かったとしても、彼はただの人間なのに。どんな無茶をしても死ぬことはないだろうと思っていた。物語の主人公のように、追い詰められてもぎりぎりのところ、紙一重でどうにかなるだろうと。そんな誰にも都合のいい物語なんて存在しないのに。
いつからだろうか、この日々が永遠に続くと錯覚していたのは。ダンデという唯一無二のチャンピオンは、キバナがこの手でうち倒すまで王座に居続けると思っていた。
太陽が沈んでも朝になればまたのぼる。突然太陽が消えることなどない、明日も明後日も一年先も、太陽はずっとあり続ける。ダンデはいつまでも存在し続ける太陽だと思っていた。明日も明後日も一年後も、そこにいると信じていた。
いつからだろうか、自分が特別だと思っていたのは。ダンデに認められただけじゃない。ダンデのことだけじゃない。自分だってどこかの物語の主人公だと錯覚していた。トーナメントでキバナが負けるたびに、ダンデに手が届かなかったたびに、今年がダメなら来年倒せばいいと、悔しさで臓腑がねじ切れそうになったとしても、すぐに気持ちを切り替えた。ダンデは誰にも負けないし、自分にはそのための時間が沢山ある。チャンスはいくらでも、これからもある。だから焦ることはない。
自分が選ばれし勇者になったつもりで、自分がこの手で最後の敵を倒すまで、物語は進みも終わりもしないと自惚れていた。勇者でもないのに。ダンデと同じただの人間で、ジムリーダーという肩書を持つだけなのに。
そしてキバナが全ての過ちを悟ったときには、もう何もかもが遅過ぎた。大きすぎる代償。ダンデの喪失。届かないところに行ってしまった。キバナの中にはもう、永遠に太陽は昇らない。
ダンデと再び顔を合わせられたのは、ダンデが目覚めなくなってしまってから四ヶ月がすぎた頃だった。
久々にキバナが見たダンデは昼間から熟睡をしていた。休みだって寝汚いことは嫌って規則正しい生活を送っていた彼が、こんな時間になってもベッドの住人で髭も伸ばし放題だ。緑色の遮光カーテンが開け放たれて、陽光の中でレースが風に踊っていても、生温い風が部屋に勝手に上がり込み、好き勝手にシーツや髪や頬をベタベタと触れても、彼は気にかけることなく静かに眠っている。
ポケモンを連れてもいいと許可をもらえたので、あの日以来キバナが預かっているダンデのポケモンたちも一緒だった。彼らは一目散に目覚めぬ眠りの中にいる主人をぐるりととりかこみ、リザードンを筆頭に沈痛な面持ちで皆じっとダンデを見つめていた。ダンデの手持ちの六匹と、
医者の見立てによれば遷延性意識障害だろうとのことだ。いわゆる植物人間というやつだ。ただ、どうしてダンデの意識が戻らないのかは医者もよくわからないらしい。確かにダンデは酷い怪我を負った。治療の最中、何度も心臓が鼓動を止めたので、心肺蘇生を行なってなんとか死の淵で迷子になった彼を連れ戻したほどだった。とはいえその傷はどちらかというと臓器が主体で、頭の方は然程傷を負っていなかった。心臓が止まっていた時間もほんのわずかで、無酸素による脳へのダメージはないと太鼓判をおされたぐらいだ。
けれどもどういうわけか、ダンデは目覚めない。もう身体はある程度治ったというのに、意識が戻ってこない。多分、ムゲンダイナというのは人知を超えた存在ですから、我々の与り知らぬ影響があるのやもしれません、と医者は困った風に白髪をかきながらダンデを見つめていた。つまり、こうなった原因はてんで不明でいつ目覚めるかも分からないとのことだ。
自発呼吸はしているが、食事は取れないので装置に繋がれている。あまり長引くなら
これが現実だ。キバナの競い合ったライバルは、誰よりも愛しい人は、声をかけても返事をしないし、笑うことも目を開くこともない。ただ、ヌケニンに似た器がそこにあるだけだ。ダンデの姿形をしているだけで、魂がそこにはない。
キバナにはその現実が受け入れられなかった。眠れば太陽が昇るように、ひょっこり顔を出して「よお、キバナ」と手を振り、スタジアムの通路を抜けてコートに飛び出せば、一面緑と歓声の海の中、赤いマントと長い髪をはためかせて堂々と立っているのではないか。これは悪い夢か何かで、目が覚めたらファイナルトーナメントの日の続きがはじまるんじゃないか。
けれどもキバナはいつも、ベッドから抜け出して願う気持ちで電源をつけたテレビの、いつものニュースと日付に打ちのめされる。
———ダンデ選手の容態は依然として変わらず、ガラルポケモンリーグ委員会はファイナルトーナメントを不戦勝したという形で新しいチャンピオンを任命することにしました。また委員長はローズ容疑者が逮捕されたことに伴い———
それに関してはガラルの民衆も似たようなものだった。最初のうちはダンデと戦わずにチャンピオンになった少年に対して、まだダンデ以外を受け入れられずに世間は風当たりが強かった。異物の侵入に攻撃を図る免疫細胞のように、強制的に訪れた新たな時代を拒絶していた。
無理もない話だ。長年無敗でガラルを盛り立て、チャンピオンとして最後はガラルの危機に立ち向かって昏睡状態に陥ったダンデという存在があまりに大きすぎて、ガラルに巨大な人の形の大穴をあけてしまった。それを埋められる存在など、代わりになれる人などいるはずもない。誰しも彼の後任となれば、その偉大さを前にして小さなリリパットの国民になってしまう。
それでもチャンピオンを引き継いだ少年の直向きな尽力と、ジムリーダー総出で奔走し小さなチャンピオンとガラルリーグを守ろうと努力した結果、少しずつ世間の風向きは変わっていった。ガラルの硬い意思に雨垂れが穿つように、徐々に浸透し受け入れられていった。———幼いけれどなかなか強いじゃないか。まだダンデには今は及ばないかもしれないけれど、未来が楽しみな少年だ。ひょっとしたら十歳のダンデよりも強いんじゃないか。
そこから一年以上経ってもダンデは眠りの中。ダンデはガラルに帰らない。ダンデに関して家族の負担も考えて報道を制限したこともあり、新しいチャンピオンの台頭でガラルは新しい風に吹かれて、世間は次第に前チャンピオンのことを忘れていった。
以前は街を歩いていれば誰かしらダンデの名前を口にする人がいたのに、今はシュートシティを歩いていても聞こえない。町中に紫色の髪を靡かせた宣伝フラッグがぶら下がっていたのに、新しいチャンピオンのぎこちなくて初々しい笑顔に塗り替えられた。リザードンポーズを取る人が日に日に減っていった。街頭ディスプレイの中にも、書店にも、スタジアム前で販売されているリーグカードの中にも、ダンデの面影は消えていく。ガラル中に息づくダンデの細胞ともいえる残滓が、末端から少しずつ壊死していく。
———キバナには、なによりもそれが耐え難い。前を向かなければと思う。いつまでも固執してはいけないと思う。新しいチャンピオンが世間に受け入れられて、心底安心している。けれどもこうしてダンデの存在が忘れられることは望んじゃいない。
だって、彼はまだ生きている。その手に触れれば温かい。胸は緩く上下して静かに呼吸をしている。髭も髪も新芽のようにすぐに伸びる。胸に手を当てれば力強く鼓動を訴える。
けれども生きた人間ではなく過去の事実に、記録や文字列というデータになっていく。報道も減って目につく機会が激減した今、彼に対する民衆の興味や熱情が薄れていく。まだここで生きているのに、ガラルからダンデが、生きたまま死んでいく。
更に一年経って、ずっとどこか塞ぎ込んだ様子だったホップが吹っ切れた。あのジムチャレンジ終了後はバトルから足を洗い、ソニアに従事して研究者の道を歩むことにしてからも、彼はあの日の陰を引きずっていて、どんよりと重たく立ち込める暗い顔のままだった。敬愛する兄が目の前で負傷して意識不明になったトラウマから、以前の明るく騒がしい気配はすっかりなりを潜めていた。けれどもその彼が、昔のような純粋で真っ直ぐな晴れやかさを取り戻した。
『だっていつまでもオレがうじうじしてたら、アニキが絶対怒るじゃないですか。こらホップ、考え悩むことはいいが、ネガティブになるのは違うぜ!って』
失恋をした女性が髪をばっさりと切り落としたみたいにすっかり軽くなった表情で、また一人、ダンデのいない日常に馴染んでいく。
ダンデも人目のつかないターフタウンの療養病院に身を移し、彼の世話をする人の負担を少しでも減らそうと髭を落として髪も肩より短くなった。髭のないダンデなんて数年ぶりだ、ダンデの人生の長さを考えたら髭が生えていない期間の方が長いのだからこう思うのは間違っているとは思うのだが、また一つダンデの一部を失ったような気がする。また一つ、ダンデのいない日常が受け入れられていく気がする。
———受け入れるということは、忘れることに似ている。心に思い出という麻酔を刺して鈍らせて、痛みを忘れてしまいこむ。そうすればもう、あとは胸の奥で朽ちていくのを待つだけ。色褪せた写真のように、ぼんやりと懐かしむだけ。
———忘れないでいることは、時を止めることに似ている。誰もが皆過去の思い出に変えていく中で、今も「現在」のことだとすがりつく。その瞬間から心の時計に麻酔を刺して、心の痛みには敏感だけれど、時の流れには鈍感になる。緩慢で希薄な時間の中、無限に繰り返す過去に生きている。
どんなに苦しくたって、傷ついたって彼のことを忘れたくなかった。過去にしたくなかった。キバナは例え前を向けない男だと罵られようと、弱い男だと嘲笑われようとも、自分だけは今のダンデを認めまいと誓った。もし自分が今のダンデを受け入れてしまったら、思い出にしてしまったら、本当に彼がガラルから消えてしまう気がしたから。
———違う。そう思っていないと立っていられないだけだ。だって、キバナは己の人生の目標を、全てをダンデに捧げてきたのに。闘争心も本能も、友情も情熱も、そして愛する気持ちも全部。それが無くなってしまったなら、一体何をしるべに生きていけばいい。
文字通りダンデは太陽だった。キバナの行く道を照らす、沈まぬ太陽だった。それが消えた今、キバナは暗がりに道を見失ってしまった。迷子は彼の癖だというのに、キバナの方が迷子になって途方に暮れている。消えてしまいそうなのはダンデじゃなくて、空っぽになってしまった自分の方だ。人の形の大きな穴があいているのは、ガラルじゃなくて自分の方だ。
それでもキバナは歯を食いしばって生きている。ポケモンたちが好きだから。八番目のジムリーダーに誇りを持っているから。ガラルの人が好きだから。投げ出すことは絶対にしない、したくない。
だからパーティー会場でダンデを見かけたときに、まっさきに自分が切実に望みすぎて見た幻覚なのかと疑った。あるいは想い人の死を受け付けられない王子の前に現れて、過ぎさりし愛を歌った瓜二つの女性のように、ダンデの姿をそっくり真似た誰かが、キバナに全てを受け入れるように諭しに来たのかと身構えた。
本当に彼が現れて一緒にダンスを踊ってくれる、キバナにとって泣きたくなるほど都合のいい奇跡が起きるなど、そんな甘いことは思っていない。
———だって、奇跡を信じてなどいない。
彼が眠りについて面会が許されるようにしばらく経ったころ、一人病室に訪れたキバナはひとつ試したことがある。
白い病室、窓から差し込むひだまり。ココガラとマメパトがじゃれつきながら囀る声が響き、ゆらりとカーテンが葉のかわりに揺れる中。背中にいばらの呪いのような傷の痕を巻きつけ眠る彼と手を重ね、薄く開いたその唇にキスをした。
祈るように、清廉に。温度を、気持ちを伝えるように。
———御伽噺の奇跡のように、口づけで目を覚まさないかと願ってしまった。
けれどもやっぱりダンデは目を覚まさなかった。童話のようにいばらの呪いが解けたり、口から林檎をはくこともない。キバナは選ばれし勇者じゃなかったように、選ばれし王子様にもなれやしなかった。
だから奇跡なんて、信じていない。縋る時期などとうにすぎてしまった。
☽
葉をたっぷりと茂らせた木々、畑、風車、月光と星で白く輝く川、寝静まった民家、蛇のようにうねる
お手軽な宇宙遊泳は月に差し掛かかっていた。耳をすませば星が瞬く音でも聞こえそうな静けさの中、大きな満月をスクリーンに影絵がぽかりと浮かび上がる。地上から見たら今の月にはコーヒーを垂らしたような染みが見えるんだろうなと思う。シミひとつない、夜空のフライパンで作りあげた絵本のカステラケーキみたいな月は、今ばかりは三人だけで独り占めだ。差し詰め煌く星々はこぼしたパウダーシュガーといったところか。キバナたちは今、最高の贅沢で甘い時間を満喫している。
ダンデが先程の続きを歌っている。相変わらずどこかズレていて、しかも勝手に歌詞を変えていた。ロマンチックな愛を告げる歌が、魔女に魔法をかけられたみたいに、たちまち戦う戦士の歌へ大変身。前々から思っていたがつくづく情緒のない男だと思う。あるのかもしれないが、少なくとも一般の感覚からかけ離れている。流石のキバナも吹き出して、なんだそりゃと抗議をした。
「"心をバトルで満たして"って、ずいぶん物騒じゃねえか!」
「でもそっちの方がオレたちらしいだろ!"いつまでもバトルをさせてくれ"ってな」
流れ星がひとつ、ダンデの頭の向こうを横切った。ほんの少しの間フライゴンと並走していたけれど、砂糖がコーヒーに馴染むみたいに、すぐに溶けて消えていった。
「もう三年も経ってたんだな」
「まだ三年だよ、オレからすればな。眠っていると時間はあっという間に過ぎるからわからないでもないがな」
「オレは数日くらいの気持ちだったぜ」
「だろうなァ」
「三年経っていたらそりゃ皆変わるわけだぜ!チャンピオンは大人びた顔つきになっていたなあ、オレが知っているころよりもずっと立派になってて驚いたぜ」
ダンデの顔は見えない。貸したコートとストールと、月を覆う薄い雲のような髪に隔たれている。
けれどもキバナの視界には映らなくても、ダンデがどんな顔をしているか想像がついた。人はよくよく性質を理解しているならば、例えば雲の向こうに月が隠れようとも、雲の裏側でどんな形を浮かべているのか手に取るように分かるものなのだ。
「キバナは……酷い顔をしていたな」
「……ああ」
「疲れ切った顔をしていた。悲しそうな顔もしていた。全部オレのせいだな、本当にすまない」
「そう思うなら」
キバナはダンデの腹に回す腕の力を込める。キバナよりひとまわり以上小さくて、けれどもたくましいその身体に縋るように額を押し付ける。星の海から紫の川へ。さらさらと髪のせせらぎがする。癖っ毛で跳ねっ返りなところは持ち主の性格によく似ている。けれどもマントの上で緩くたわむ柔らかさも、ダンデによく似ている。
「はやく帰ってこいよ」
ダンデは少し俯いて、キバナの巻きついた腕を確かめていた。てのひらで優しく輪郭を辿るように撫でて、それからダンデより二回りも大きいてのひらの上に重ね合わせた。
「…うん」
小さい返事と頷き一つ。まったく頼りない答えだ。キバナは声もなく笑うと、埋めていた顔を上げた。
「オマエのそういう、演じることは上手いくせに嘘が下手なところ、オレさま結構好きだよ」
「それは褒めてるのか、貶しているのか、一体どっちなんだ?」
「どっちも。素直に帰るぜって言っておけばいいのに。可愛げがねえけど可愛いらしいと思うよ」
「そりゃどうも……なのか?まあ、気休めの嘘をいっても仕方がないだろう。自分でもこうしていられる時間はそれほど長くないって確信があるからな」
「やっぱり幽霊なのか?」
うーん、とダンデが首を傾げた。多分彼は顎に手を当てている。考え事をする時のいつもの癖だ。
「恐らくな。確証はないがそれが一番しっくりくる。だってキミ以外の誰も、オレが分からなかったようだからな!」
「わからないだって?」
確かに氷を抱いているような冷たさだけれども、こうして触れることができて、声もきけるのに。それとも皆、もうダンデのことを忘れてしまったというのか。ぎょっとしてキバナは聞き返してしまったが、そんなはずは流石にない。
うん、とダンデは一つ大きく頷いてから口を開いた。
「ああ!気がついたらあの会場で突っ立っていたから、ここは一体何処なんだって訊ねようとしたんだぜ。でも声をかけても誰も反応しないし、誰の目にも映っていない。触れることもできない。すっかり困っていたら誰かがチャンピオンと呼んだ。やっと気づいて貰えたと思って振り返った。…オレじゃなくて、ホップと一緒にジムチャレンジをしていた彼のことだったよ。背が伸びてとても立派になっていたな」
キバナだけはオレをみつけてくれたんだ。キミだけが気づいてくれたんだ。静かな声でそう付け加える。キバナが抱きしめる腕に力を込める。ダンデはちょっと苦しいぜ、とキバナの腕を軽く叩いた。
「それで悟ったんだ。オレはきっとあの瞬間死んだんだなって。オレは何か未練があってこの世にとどまっている幽霊なんだって」
「死んでねえよ、生きてる」
「うん、そうみたいだな」
フライゴンが大きな羽で何度かばたばたと羽ばたいた。切れ切れの雲が雪化粧をした山脈のように迫ってきて、キバナはなにも言わずに開けた方角を指さした。
ポケモンとは言葉を交わせないけれど、時として言葉より雄弁に会話することがある。フライゴンはキバナの音のない言葉をうけとめて、身体をすこし斜めに倒し、大きな雲の山を遊覧飛行でもするかのように、ゆっくりと大きく迂回した。
実体のない立派な白い山脈の先には、どこまでも吸い込まれそうな闇ときらりきらりと輝く星々。このままずっとこの深い夜を追いかけ続けたら、夜が明けずにずっとこのままでいられるだろうか。
フライゴンの羽が夜を切る、風切りの音と時折耳をかすめる風の音。これほど静まり返っていても、いくら抱きしめたとしても、ダンデの鼓動は聞こえないけれど、自分の高鳴る胸の音はよく聞こえた。ダンデの体温は感じないけれど、てのひらで切れ込んだ筋肉の畝を感じられた。
悲しいくらい幸せだな、と思った。
だからこそ。覚悟を決めなければいけない。伝えなきゃいけないことがある。
「…オマエが目覚めなくなって、一度でいいから、一瞬でいいから言葉を交わせないかと願ったことがある」
三年も眠っているのだ。それがいかに絶望的かだなんて、キバナが一番理解している。だから一度だけでいい。声が聞きたい。起きて微笑む彼に会いたい。バトルで闘志と血を滾らせる彼に会いたい。あいたい。抱きしめたい。何してんだ馬鹿野郎と叱り飛ばしたい。無理をさせてしまってすまなかったと、伝えたい。
「それが今夜叶ったのかと思ったけどな……どんなに馬鹿げた考えだったか思い知ったよ!」
「…え?」
「たった一度で満足なんかできるわけがねえ。そうだ、こちとらその前から十年以上追いかけてるんだぞ、たったこれっぽっちで満足するかってんだ」
満足なんてするどころか、余計に腹を空かせて喉が乾いていること自覚するばかりだ。ますます恋しくなるばかり。手を伸ばしても手に入らないものを掲げられて、いったいどうして満足すると思ったのだろうか。
「なあ、オレの望むものになりたかったのも、ダンスも、キスも、全部オマエが生きてこの先やりたかったことだろ?もちろんオレがやりたいことでもあったよ、でもオマエが幽霊でやりたかったことじゃないだろ。…これでいいのかよダンデ。オレさまはちっともよくねえ!」
無理やり肩を引いて振り向かせた。満月が二つ、寂しげに揺れている。白い湖面に浮かんでいる。
受け入れてたまるか。忘れてたまるか。このまま独り行かせてたまるか。あの日は行かせてしまったから、今度は、今度こそは、今度だけは。
「こんな一夜だけで満足できるか?できねえだろ。思い出なんかにすんな」
丸い目が見開かれて、泣き出しそうにくしゃりと歪んで。
「ああ!」
それからダンデは花が綻ぶように、優しく笑った。
「ハハハ、まったくもってその通りだ。正直に言ってしまえば、さっきのダンスだって全然満足なんてできなかったんだぜ。お互いに下手で、がむしゃらで、ダンスというより競い合ってるみたいで。そのせいでキミとのポケモン勝負を思い出したんだ。———無性にポケモン勝負がしたくなってしまってダメだったな」
「だろ?だから迷子になってねえで早く帰ってこいっての!三年だぞ、三年」
「…そうだな」
「どんだけ待たせるつもりだよ、皆待ちくたびれてんぞ」
「すまない」
「…起きたら、まずはリハビリだな。焦らなくてもちゃんとオマエの居場所はあるから、歩けもしないうちにバトルしようとするなよ」
「善処する」
「そこははっきりハイって言えよ!」
「あはは、悪いがポケモン勝負を我慢できる気がしなくてな!」
風を受けてダンデの髪が舞い上がる。月光を弾いて閃光が走る。満月を背に空を泳ぐ彼の髪は、薄い紫色のベールのように透き通って見えた。
ダンデは寂しそうな顔も、苦しそうな顔も浮かべていない。穏やかな笑みを湛えた中、その金の瞳に映り込むキバナは、一等星のように青い目を燃やしていた。
「ポケモンバトルだけじゃなくて、キスの続きもするからな」
「……まずったな、どうせ最後のつもりで勢い余ってやってしまったぜ」
「最後になんてさせねえぞ、起きたら告白からやり直しだ。はぁ、オレさまからするつもりだったのに」
「キミがいつまでものんびりしてるからだろう?」
「ああ、嫌ってほどに痛感したよ、本当にな」
身をもって叩き込まれた。時間は無限じゃないということを。どこで終わりが来るかわからないということを。自分は世界の主人公じゃないということを。
ダンデは落ちないように向きを変え、万感を込めてそう答えたキバナを、なによりも眩しそうなものを見たかのように目を細めて、何も言わずにじいっと眺めていた。
星や月の幻想的な夜景に目もくれず、二人は互いばかり飽きずに見つめていたが、しばらくしてダンデが弾かれるように俯いた。彼が目一杯広げた両手が、紫色の色ガラスのように透き通っている。
「ダンデ、それは」
「残念だな、そろそろ時間みたいだ」
「待ってくれダンデ、まだ———」
まだ、言いたいことがたくさんある。したいことがたくさんある。やっと会えたのに。会うことができたのに。
いなくなってしまったら、次は一体いつ会えるというのか。———二度と会えないかもしれない。いや、そう思ってはいけない、最悪の想像をしてはいけない。いつかまた会えるとしても、一年後か。十年後か。今お別れをしたらあとどれほど待てばいいのか。
身を引き裂かれそうだ。気が狂いそうになる。この時間を終わらせたくなんてない。
けれどもダンデは、晴れやかな笑顔で終わりを告げた。
「おくってくれてありがとう、キバナ。とても幸せだったぜ」
いかせない、いかせたくない。咄嗟にキバナはダンデの腕を掴んで、無理やり胸の中に抱き込んだ。宝物を奪われまいと必死に隠して守ろうとする子供のように、腕の中にしまい込む。逃さまいと強く強く縛りつける。拍子にふわりと浮いた長い髪が、キバナの腕をさらりと撫でる。
いやだ。つれていかないでくれ。
ダンデは震えるキバナの背を撫でて、何事かを伝えようと口を開いた。
「 」
声も透き通って、聞こえない、届かない。
突然、一陣の風が吹いた。振り落とさんとばかりの強い夜風に、キバナは咄嗟に腕で顔を覆ってフライゴンにしがみつく。その瞬間、胸にあった感触が解けるように消え失せて、花のむせ返るような甘い香りが広がる。胸に、穴が空いたような、喪失感。
きらきら、月の光をうけてガラスの破片みたいに輝く、紫の花弁。雨のように、雪のように。キバナの胸いっぱいに降り積もり、咲き乱れる、都忘れ。
ダンデの姿は消えていた。腕の中にもこの夜のどこにも見当たらない。
彼の髪と同じ色の花を残して、跡形もなく姿を消していた。夜に拐われてしまった。代わりに残された花たちが、キバナの腕の中で、びゅうびゅうと吹き抜ける風に花弁を揺らしている。やがて誘う風に花々は飛び乗って、夜空にくるくると踊りながらキバナの元を去っていった。
キバナはたった一輪だけ残った花を握りしめて、じっと過ぎ去った花の嵐を見つめていた。なだらかな緑の丘、白い病棟の上。五線譜にひかれた音符のように、一つの優しい歌のように、花弁が連なり夜風に舞う姿を、いつまでも。
✧˖°⌖⋆
『奇跡を信じるかだって?』
さっさとカレーを胃袋に収めた彼は、折り畳みの椅子に腰掛けて、食休みと称して新しいポケモンの論文に目を通していた。キャンプの焚き木が舐めるように彼の輪郭を照らし、ちかちかと金の瞳の中で踊っている。
いつも思うのだが、この男の時間は密度が違うなと思う。これでもかとガラルとガラルにすまう人とポケモンへの愛が詰まっている。普通の人が十分を過ごす間に、普通の人の三十分ぶんを凝縮した時間の使い方をする。多分ひとはそれをせっかちと言う。
『信じてないぜ』
『だと思った』
オマエってそんなロマンチックなタマじゃねえもんなと、キバナはため息混じりに笑った。
せっかく開けた森、池の辺り。空も水面もスパンコールをぶちまけたように星が瞬き、まるで突然宇宙空間にでも放り込まれたような、空間識失調でもおこしそうなほどの壮大な光景。しかしダンデからすればその美しい夜景よりも、小さな紙に詰め込まれたインクの方がよほど価値があるらしい。よくも悪くも一直線だ。
けれどもキバナには、ダンデのその効率重視すぎて少し不器用な生き方が、とてつもなく愛おしいものとして映るのだから、救いがないというべきか。結局のところキバナもダンデと大差はないのかもしれない。
なんだかいろんな意味で気を削がれて丸くなって、想いを伝えるのはまた今度でいいか、とキバナは思ってしまった。キバナの前でも変わらない日常を続けるダンデを見つめるほうが、よっぽど有意義で幸せだ。それに急がなくたって彼とのまだまだ時間はあるんだから、これからいつだって想いを伝えるタイミングなんてあるだろう。キバナは獲物の後ろで息を潜めて千載一遇のチャンスを狙う、辛抱強い獅子の気持ちでいた。
『奇跡は信じるものじゃなくて、起こすものだからな。願って待つばかりじゃ何も起きやしないぜ』
ダンデは読んでいた書類に付箋を貼ると、キバナを向いた。星塗れのキャンプ場にぼんやりと浮かび上がる二つの月。星空よりも夢中になった滲むインクではなく、キバナの方を選んだ。
『奇跡にすがりたくなっても諦めずにもがけば、些細なことから奇跡が生まれたりするもんだぜ!』
分厚いガラスの壁みたいなもんだぜ、と彼は続けた。引っ掻いたり、体当たりしたり。とにかくできることを続けていれば、最初は見えないほどの小さな傷だったとしても、そこから亀裂が広がって、いつか瓦解するかもしれない。それが多分、奇跡というものなのだと。
『オマエらしいな』
奇跡を信じないと言った男が、一番奇跡に近くて似ている気がする。
✧˖°⌖⋆
朝目覚めて身を起こし、キバナは重たい瞼を擦り上げた。なにやら切ないほど幸せで、どこか懐かしい夢を見ていた気がする。はて、とキバナは首を傾げた。一体いつベッドに潜り込んだのだろうか。久々のパーティーで気疲れして、少量の酒でもすっかり酔っ払ってしまったのか、あまり昨晩のことを覚えていない。
なにか醜態を晒してないかと一気に血の気がひいて眠気が吹き飛んだキバナは、すぐにまだ微睡んでいたロトムを叩き起こしてメッセージを確認した。特にスタッフからは連絡は入っていない。今日のスケジュールが一点変更になったというメッセージが一つだけ。よかった、何も粗相をしてないようだ、ひとまず安心だ。
すっかり目も覚めたことだし、いい加減起きるかとベッドから足を下ろしたところで、キバナは床になにか落ちていることに気がついた。カーテンから真っ直ぐに白い朝日がのびているその先に、見覚えがあるようなないような、紫色の花が一輪。キバナはポケモンがかじったら困るからという理由で、家に観葉植物はおいていない。いったいどこから持ってきたのだろうか。昨日のパーティーで誰かから受け取ったのだろうか。
首を傾げながら花を拾い上げる。
———紫色の髪が視界の端で靡く。フライゴンの背中、満月、星空。
そういえばそんな夢を見た気がする。ダンデと会って、踊って、キスをして、夜を巡った幸せで残酷な夢。夢が幸せであればあるほど、冷たい現実に打ちのめされる。
キバナはため息をついた。今日もダンデのいない一日が始まる。
受付に駆け込んで、面会証をぶら下げる暇もなくひっつかんでエレベーターに飛び乗った。目的の階にたどり着いたら、早足でリノリウムの廊下を抜ける。
「悪いダンデ、遅くなった。面会時間ギリギリになっちまったな。今日はいつもより短いが許してくれよな」
時間は午後八時直前だ。面会時間は八時まで。本来であれば今すぐに病室を退出しなければならないが、キバナとダンデをよく知る職員が、まだ七時の気分なんですよ、なんて下手くそな気遣いをしてくれたので、お陰でキバナはこの病室に入ることができた。あの職員には後でまた御礼を伝えねばなるまい。
ふわふわの枕に埋もれて、ダンデはすやすや眠っている。物が少ないダンデの部屋と違って、いろんな機材や本棚、ポスター。誰かがもちこんだ見舞品や思いでいっぱいのこの部屋で、ダンデは眠りこけている。
ダンデは快活で時折ガサツな印象を受ける男だが、眠る時はびっくりするほど静かに眠る。初めて一緒にキャンプをした時なんて、死んでいるのかとびっくりして叩き起こしてしまったくらい、穏やかに彼は眠る。それを知っているのは家族か自分くらいだったのだが、今はすっかり病院中に知れ渡ってしまって少し残念だ。
キバナはスツールを引いてダンデの横に腰掛ける。顔を覗き込む。相変わらずまつげが長い。よくよく見ると顎にうっすら短い髭が生えている。朝は手入れをしてもらったようだが、多分夜になって髭が伸びてきたのだろう。眠って入るけれど、時は止まってなどいない。ダンデが生きている証。キバナはなんだか嬉しくなって、新芽のような髭をそっと親指でくすぐった。
その時ふと、彼はキャビネットの上に見慣れぬ花があることに気がついた。小さなカゴに入った花束のようなもの。すぐにその正体に思い当たる。
「お、オマエの弟も見舞いに来たんだな。フフ、オレさまがオレンジ色にしろって言ったから殆どオレンジ色だよ、一箇所だけ水色の花が混ざってるけどな。オマエの好きなリザードンってことみたいだぜ。せっかくオマエの弟が頑張って選んだんだ、さっさと目蓋を開いて見てやれよ」
せっかく弟が選んでくれても、眠っているんじゃ見れやしない。リザードンと一緒だなと喜ぶ彼がはやく見たいものだ。
そしてもう一度ダンデの顔に戻そうとして、視界の端に赤い物が飛び込んできた。キバナは驚いた。これに関しては見覚えがあるものだが、見覚えがあるからこそここにあることがおかしい。病室の壁にかかったハンガーに、あるはずのないものがぶらさがっていた。
赤いストールとキバナのコート。
昨日キバナがパーティー会場に着て行った衣服たち。
「そのコートとストール…なんでここに……」
たしかにパーティー前に病院に寄ったが、その時コートとストールは持って会場にもっていったはずだ。うんざりしながらホテルのクロークに預けたし、でも、それから?
———ダンデが寒いだろうと、彼の首に巻いて、肩にコートをかけて。
キバナの家の床に落ちていた都忘れ。花弁の嵐。月明かりの下、ダンデの笑顔。
最後のピースがかちりとはまった音がした。朧げだった記憶がはっきりと蘇る。穴あきのパズルだった景色がはっきりと輪郭を取り戻す。
「……そうか、昨日会いに来てくれたんだな」
あれは夢じゃなかったんだ。あのパーティー会場にダンデはきていて、キバナの前に現れた。現れてくれた。
「そういや貸したままだったっけ、忘れてたわ。律儀だなあオマエ」
立ち上がってコートの袖を取ると、病院の消毒液の臭いが染み付いている中に、わずかに花の甘い香りがした。
「オレがあんまり辛気くさい顔をしてたから会いにきてくれたのか?会うつもりならまず起きろっての」
相変わらず言葉を返さないダンデの頬を指の背でなぞる。昨日あった時と違って、ほんのりと温かい。
「…最近、皆オマエを忘れていくようだから、オレだけが変われずにいる気がしてた。オレだけが前を進めないでいる気がしてた。でもオマエにあったら全部吹っ飛んじまったよ、どうでもいい悩みだったなって」
気持ちを置き去りになんてできなかった。ダンデに会ったら、これっぽっちじゃ足りないと飢えを自覚した。自分が進めないでいるのがなんだというのか。自分が変われないのがなんだというのか。思い出になんてできない。だったらそれでいいじゃないか。
自分が信じなくてどうするのか。ダンデはきっといつか目を覚ます。なんと言われようと、いずれ来たるその日にむかって真っ直ぐ生きていけばいい。ただそれだけのことだった。
「ダンデ、オマエはオレの望むものになるって言ってたよな。そういえばその答えを結局伝えていなかった」
望むものになると言われたけれど、結局何であって欲しいか返事をする前に、ダンデは夜風に消えてしまった。
多分、ダンデはキバナの沈んだ顔を見て、何とかしたいと願って口にしたのだろう。魔法のランプの中で囚われて、誰かの願いを叶える魔神になったつもりで。やっぱりダンデという男は、誰かを気にかけてばっかりだ。誰かに願われてばっかりだ。
あの夜に見たダンデより、ずっと細い腕をとる。ダンスに誘う紳士のように、優しくその手を包み込む。そしてキバナは答えを口にする。
「真実であってくれ」
幽霊なんかじゃない、あの夜バルコニーで出会ったダンデは。
戯曲の悲しきワルツじゃない、月明かりで踊ったレントラーは。
夢なんかじゃない、フライゴンと彼の三人で共に星の海を泳いだ記憶は。
一夜の奇跡になんてさせない。この先ダンデが目を覚ました時に、こんな不思議な夜もあったと伝えてやる。不思議だけど本当にあったことなんだって、笑って教えてやる。
彼が上機嫌に口ずさんでいた、愛を乞ううた。プリーズ・ビー・トゥルー。———本当であって。
「ラストダンスにだって、幽霊にだってさせない。誰がなんと言おうと、どう思おうとオレはダンデが起きるまで、絶対にまち続けるからな。起きたら色々覚悟しとけよ、やりたいことも言いたいことも沢山あるんだからな!」
はちゃめちゃなダンスを踊るように、ダンデにはいつもいつも振り回されてきた。だからこれからだってずっと振り回されてやる。遠心力に振り落とされずについていけるのは、足を蹴られたってぶつかったって踊っていられるのは、いつだってキバナくらいなものだ。
握ったダンデの手の甲を、指でそっと撫でる。今は力なくうなだれて、決して握り返してはくれないとしても。
息切れすることも、足が縺れて痛むこともあるだろう。それでもこの手は絶対に離さない。
目が覚めたような気がした。外はすっかり夜だけれど、キバナは晴れやか気分だった。重苦しくどんよりとまとわりついてた陰気な気配が、開けはなった窓から差し込んだ日差しに尻尾を巻いて逃げ出したような。長い髪をばっさりと切り落として軽くなったような。春風が吹き込んできたみたいに爽快で暖かい
大丈夫、もう迷ったりしない。塞ぎ込んだりしない。彼に情けない姿を見せるのはおしまいだ。
「そういえば、ずっと言えなかったけどやっと言える。髪、短いのもよく似合ってるよ」
手をそっと腹の上に戻して、ダンデの短くなった襟足に手を伸ばす。ちくちくと指先をつつく感触がくすぐったい、ダンデに与えられる僅かな痛みが愛おしい。ずっと受け入れられなかったダンデの姿。過去になっていく様子をあらわしたみたいで、身を切られる思いがしたその姿。
今はもう、胸は痛まない。いつか目覚めたその時に、その姿も素敵だと口に出して伝える瞬間が、待ち遠しい。
「じゃあ、また……次はいつだろうな。わかんねえけど、時間ができたら必ず来るから」
そろそろ帰らないと病院の人たちに迷惑をかける。いくら大目に見てもらえたとして、流石に私情で迷惑をかけるのは望ましくない。そう思ってキバナがスツールから立ち上がった時だった。
何故かソニアたちの研究所にあった鳩時計から、ポッポが飛び出す間抜けな音が聞こえた気がした。それからぴしりとガラスにひびが入るような音。
何の音だとキバナはあたりを見回した。まさか部屋と屋外の寒暖差で窓にひびが入ったのだろうか。キバナが訝しんで席を立ち、緑色のカーテンを払って窓を覗き込んだ。
相変わらずターフタウンは景色がいい。緩い波のような田園と、幾つも層が連なる森、大波のような山脈。残念ながら星も月も、今日は雲の向こうで眠っている。青みがかった薄闇に包まれているのどかな田園風景を鏡にして、キバナの不思議そうな顔が幽霊のように薄ぼんやりと窓ガラスに映り込んでいた。青白い生命の惑星に似たターコイズが、月面から眺めたみたいに闇夜の中で並んでいる。
その奥に、鮮やかな金色。あるはずのない、見えるはずのない、二つの月。
キバナは振り返った。
———視界が滲んでよく見えない。けれども、確かに月はそこにあった。
弾かれるように踏み出して。たった数歩の距離を下手なダンスのようによろめきながら、彼のベッドに駆け寄って。
蹴飛ばされたスツールが転がって。何事かをさけんで、ワルツのように伸ばされた手を握りしめて、腕を背に回して、そして。
あの真っ赤なストールが。ちぎれた無限の記号のように頭だけ輪を描いている赤い布が。
時を刻む振り子のように、ゆらゆらと揺れていた。
(めでたし、めでたし!)
元ネタ童話『ダンスパーティーの幽霊』より。
(死んだ恋人とダンスパーティーで出会うお話)
ひらおさん、素敵な童話企画ありがとうございました。