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ファナティックの幸福論

全体公開 3 22 11220文字
2021-04-30 22:10:35

企画のやつ

Posted by @fehu9766

※嫌な感じのモブが結構出てきます
※キバダンだけどこの人たちくっついてないです。

ファナティックの幸福論

 ジムリーダーになってからここ一番で驚いた話だが、どうにもキバナを不幸だと嘆く輩がいるらしい。
 その話を控え室でダンデの口から聞いた時、キバナは「どこの地方にお住まいの"キバナ"さんの話かね」と至極真面目に聞き返した。同じ言語を使っている筈なのに、言ってる意味がまるでわからなかったのだ。
「ガラル地方在住のキバナさんだぜ」
 ダンデは帽子のツバをひきさげて、ラジオのお便りコーナーよろしく真面目ぶって答えた。だけどキバナは見逃さなかった。よく言えば正直者、悪くいえば安い隠し事が下手な奴の口元は、笑いを噛み殺そうと震えていた。
 どうにも間違いなくナックルシティのジムリーダー、キバナのことらしい。キバナは首を傾げた。ざっくりと自分の人生を思い返しても、不幸らしい不幸は見当たらない。
 強いていうならば先日ダンデとポケモンバトルをしたときに、序盤に出したギガイアスによって巻き起こされた砂嵐が、もうもうと視界を塞ぎって、キバナの思惑通りヤツのガマゲロゲの狙いがそれた結果、放たれたマッドショットがまさかのキバナに直撃したことくらいか。
 あわやのところで脱出したロトムは無事だったがスマホは買い替えになったし、ベトベトの泥でコーティングされたキバナ の身体に砂嵐が吹き付けて、茶の間に衝撃の姿をお届けしてしまった。SNSでは暫く「人間チョコバナナ」と惨たらしいワードがトレンドに居座り続け、ネズには「アンタの好きなSNS映えってヤツですよ」とからかわれしまい、結局試合も勝てず本当に散々だった。
 今思い出しても頭をかきむしりたくなるほど羞恥に苛まれるので思い出したくないが、はっきりとキバナが断言できる不幸といえばそのくらいだ。
「不幸だって?一体全体なにをどうしたらオレさまが不幸に見えるんだ?誰が言い出したんだそんなの。あの試合でのオレさま、そこまで無様だったのか?」
「あの時はすまなかったなキバナ!でもあの試合のことじゃないぜ、ホラ」
 ダンデはテーブルから雑巾をつまむように、一冊の雑誌を突き出した。ビビットピンクのタイトルがけばけばしく踊っている。キバナは顰めて背けようとして、うっかり「悲運のイケメンジムリーダー!」の一文を目に入れてしまい、酷い頭痛に見舞われた。
「うわ、オマエまでそんなもの読むのか。やめとけよ、下品がうつるぞ」
「誰かが置いていったようなんだが、キバナの名前が書いてあって気になってつい読んでしまってな!」
 目と心に優しくない刺激物を物ともせず、ダンデはパラパラとページを捲った。お目当の見開きにしてキバナの眼前に突きつける。
「"ダンデと同じ時代に生まれた悲運なジムリーダー"、だそうだぜ」
「なんだそりゃ、本当に馬鹿げた話だな」
 指先から下品が移りそうでたまらないが、渋々キバナは雑誌を受け取った。ダンデと同じ時代に生まれた悲運なジムリーダー。こんな文字列をナックルジムの連中が見たら、彼らは真面目だから怒り狂って抗議しそうだ。
「"容姿にも恵まれ、その才能はガラルでなければ容易くチャンピオンになれるほどと謳われながら、天賦の才をもつチャンピオン・ダンデと同じ時世に生まれてしまったばかりに、彼は永遠の二番手でしかない。違う時代に生まれていれば、歴史に名を残すチャンピオンになれたであろうに、これを不幸と言わずして、何を不幸というのだろう。"……イケメン以外は酷いデタラメだな、オレさま最強を知らしめる!とはいったが、チャンピオンになりたいとは一言も言ってねえのにな。おまけにオレが勝てないと決めつけている!」
 もうそれ以上は読む気がしなくて、すぐにダンデに突き返した。
 それにしても不思議なことに、ガラルのチャンピオンになることが最高の名誉で生まれ持った目的かのように書かれている。キバナにとってチャンピオンなど副次的なものだ。そこまで価値はない。
「やっぱりあの試合のせいじゃないのか、これ。オレがあまりにもみっともなくって嫌味で書かれた気がするな」
……そうなのか?いやキバナが言うならそうかもしれないな!すまない、次の試合までにガマゲロゲと共にキバナに当てない特訓をするぜ!」
「あーいいっていいって、よくある事故だしあんなのお互い様だ。そもそもそれはどういう特訓だよ」
 キバナは思わず吹き出して、ダンデも今度ははっきりと笑みを浮かべた。それきり「キバナが不幸」という話題はあがらず、その日の試合が終わる頃には、キバナの頭からすっかりなかったものとなっていた。



 ところがキバナが不幸だという話は、全くもって信じられないことに、それ以降も度々耳に挟むようになった。カラーバス効果というやつなのかもしれないが、とにかく目につき耳につき鼻については、キバナに深いため息をつかせた。
 とるに足らない与太話だが、こうも溢れかえっていてはうんざりもする。あの雑誌を真に受けたのか、それとも話題になっていたから雑誌が取り上げたのか定かではないが、キバナの行く先々の至るところでその話は聞こえてきた。
 インターネットでも、したり顔にご高説をたれる専門家の映るディスプレイでも、田舎の道端でも、ファンサービスの最中でも、たった今ダンデと食事をとろうと扉を潜ったカフェでさえも。
「あーあ、キバナさんまた負けてるよ」
「本当だぁ、ダンデさん相手だし仕方ないよ」
 丁度通路を隔てた反対側の席、二人組の若い女性たちの声だった。いつものことなのでキバナは別段気にかけずにメニューを眺めていた。ダンデはメニューを真剣に見つめているようだったが、その割には目がぴくりとも動かなかった。
「キバナさん、あんだけかっこよくて、頭が良くて。滅茶苦茶強いのに、ダンデさんがいるからチャンピオンになれないままなの、かわいそうだよね」
「本当ねー!あーあ、キバナさんがチャンピオンになってるところみたいなー。顔も良し、性格も良し。たまには見てみたいな、ダンデさん以外のチャンピオン」
 幸い彼女たちは屋内なのに目深に帽子を被ったダンデと、眼鏡をかけてトレードマークのヘアバンドをつけていなかったキバナに気づくことなく、すぐに席を立ちさっていった。
 頃合いを見計らって、キバナは出来る限り気の抜けそうな表情を選んで、ダンデに声をかけた。
「オレさま、そんな哀れな男に見えるのか?」
「全く思わないぜ!キバナはいつも楽しそうだ」
 ダンデはメニューをおろし、帽子も外し、それから歯を見せて笑った。このテレビの前やスタジアムではみせない少年の面影が残る笑顔を、キバナはいたく気に入っていた。見るたび胸に甘い疼きのようなものが走って、そこから何か穴があくのか、漏れ出るように暖かい気持ちが広がるからだ。
「だろうな。ところでオレはそんなにダンデに勝てそうにない、不甲斐ない男に見えるか?」
「そんなつまらない男を、オレはライバルと呼んだりしないな。でもオレだって負ける気はないぜ!」
「だよなあ、どうしてこうなるんだろうなぁ。誰だよオレさまかわいそうブームを作り出したやつは」
「皆キバナが好きなんだ」
「冗談だろ」
「ハハ、本当だぜ!あの子たちだってファンだ。オマエも分かっているだろう」
 ダンデの言いたいことはわかっていたが、キバナは納得していなかった。

 ダンデはガラルの誇るチャンピオンである。皆の夢を叶え、ガラルに希望を与え、ガラルを盛り上げ、民衆に愛されし英雄だ。
 しかし興行としてはそうともいかない。人間ずっと同じ景色が続けば飽きるものだ。十歳から無敗で今に至るダンデの見せるポケモンリーグを、起伏と変化のない退屈な世界だと感じる人たちもいるのだ。
 彼らの願いは打倒ダンデ。できたら自分が夢を預けるジムリーダーやチャレンジャーの手によってこの時代にとどめを。しかし未だ彼にかなうものは現れず、自分勝手に託した夢を慰撫するために、幸福であるために、ダンデがいなければと夢想をする。
 興行としてファンの夢を背負うことは正しいが、時としてその夢は鋭く尖り背負うものたちをズタズタに傷つけることを、ポケモンリーグにエゴイスティックな夢を見る残酷な観衆たちは、全く知る由もない。

「ああ書かれるのも言われるのも、実はわからなくもないぜ」
「オレは全くわからねえな」
「キバナはチャレンジャーの立場だからな。オレはガラルの人々に夢を与えるチャンピオンだ。だが同時に、夢を奪う立場でもある。そっちばかりが見えるようじゃ、オレの振る舞いがたりてないんだろうぜ」
 そういって、ダンデは苦笑した。同じテレビには見せない表情ではあるが、先ほどの笑みと違って、キバナはこの顔があまり好きではなかった。自然とキバナの顔がこわばって、険しくなっていくのを感じる。
 日々ポケモンバトルは進化している。ローズがリーグ委員長に就任するまで、ダイマックスだって一般的じゃなかった。戦略も、トレーニングも、目まぐるしく変化している。そしてその変化を冷静に見極め、勝利を掴み取っているのが目の前でコーヒーカップに口をつけている男だ。
 水面を呑気に横切るカモネギは、水面下で絶え間なく足を動かしている。花嫁の美しく華やかなドレスは、パニエを裏から蹴って膨らましている。
 ダンデだって人前に見せようとしないだけで、チャンピオンで居続けるために人一倍努力している。帰宅してお行儀悪く食事をかきこみながら録画した試合を眺め、目を通し耳を通し、脳で濾過したありとあらゆる情報をノートにみっちりとつめこんでいる。
 グラウンドの上でぴんとはった背筋も、その時ばかりは見窄らしい老人のように曲げ、グローブのない丸裸の右手の側面を真っ黒に染める。そこにある姿はガラルに咲き誇る華やかなスーパースターではなく、質素で勤勉で、等身大の侘しい青年だ。
 弛まぬ努力でダンデが王座に居ることを、停滞や退屈と思う感覚が、キバナには全く理解ができなかった。
「それは努力を知らないヤツの戯言だ」
 キバナは苛立ちを隠さず吐き捨てた。人のいい温厚な青年らしからぬトゲトゲしい様子にダンデは目を丸くした。こんなキバナの様子は、ワイルドエリアが全て霧に包まれることより珍しかった。
 剥き出しの神経を不躾に撫でられているような不快感。口の中も砂嵐の後みたいにざらついた気がして、それを言葉で押し流そうと、キバナはいつにも増して饒舌になった。
「こんなに強くて素晴らしいチャンピオンがいて、何が退屈なのかオレには理解できねえな。仮にもオレのファンだと言うならば、このキバナさまがそのダンデを打ち倒す、その最高の瞬間を見届けられることを願ってくれ。その時を楽しみにしてくれ。実際オレはオマエを打ち倒す瞬間を考えると、気持ちが昂って仕方がない。今すぐにでもスタジアムに駆け込みたくなる!オレを最強と知らしめるに相応しい、オレさまの最高のライバルを軽んじるなって言ってやりてえな」
 演説もかくやと一息に言い切って、少しだけキバナは恥ずかしくなった。本人を前にして一体何を語っているのだろう。
 けれどもそれ以上にダンデが撃沈していた。顔をなぜか真っ赤に染め、少し困った風に眉をたらしてぽかんと口を開け、それからキバナの視界にいることに思い当たり、あわててメニューを立てて隠れた。
「なんでオマエが恥ずかしがってるんだよ」
「いや……そうだな、なんといえばいいのか、………
 ダンデらしからぬ歯切れの悪さに、チャンピオン らしからぬ振る舞いに、キバナの胸の内がきゅうっと摘まれる。放っておけない気持ちになる。
 ダンデは立派な成人男性で、困難は自分で打ち払い、自分の足でどこまでも、それこそキバナもガラル中の人も置いていってしまうほど遠くまで走っていける人間だ。にも拘らず、時折こうやって不意にパルシェンの殻の内側に触れてしまったような、どこか柔らかなところに踏み込んでしまって、危なげに映ることがある。
 あのチャンピオンにそんなこと、無用な心配だ。これはキバナがダンデに見た夢だ。
 そう思うと無性に屹然と立ち向かうダンデの姿が恋しくなった。魂まで食い尽くさんとばかりに、目を蘭々と輝かせたダンデの姿をみれば、そんなものはキバナも杞憂だと踏み倒してくれるような気がした。それに暫くダンデとバトルをしていない。
 スマホロトムをチラリとうかがう。急げばその時間は十分にありそうだ。キバナは一つ頷くと口を開けた。瞬間、被せるようにがばりとダンデが面を上げた。衝立になっていたメニューがばたりと倒れ伏せ、赤らんだ頬が再びあらわになった。けれども彼の目は強い輝きを取り戻していて、そのまま飛びかからん勢いで前のめりになる。
「キバナ!すまないが急いで食事をとってくれないか。急遽予定を一つねじ込みたい!」
「いいぜ、丁度オレも同じ﹅﹅提案をしようと思っていたんだ」
 キバナがにっこりと微笑むと、ダンデもまた笑みを返した。ダンデの溌剌とした笑顔がやはり好きだ。困った顔や先ほどのような柔らかで、うなじがざわめくような表情は、キバナを落ち着かなくさせるので。



 まあ、こんなこともあるよな、とキバナは出来る限り背を曲げて歩き始めた。キバナの身長はガラルの中でもとびきり高い。背筋を伸ばして歩こうものなら、すぐに背丈で存在がばれてしまう。
 ところでキバナはたしかにガラルの中でも一際人気のあるジムリーダーであり、それを自負している。SNSに写真をあげれば数万、数十万の反応があるし、ジム側でセーブし取捨選択をしなければならないほどインタビューやグラビア関係の仕事が舞い込んでくる。不幸論争だって困ったことにまだ続いている。
 しかしダンデがチャンピオンでいることを退屈だと言う人間がいるように、キバナとて万人に好かれるなど土台むりな話である。たった今駅前で鉢合わせた青年たちのように。
「あいつまたダンデに負けてやんの」
「SNSが本職なんじゃねーの、舐めてんだろうなポケモンバトル」
 混雑した道端で彼らが下品にがなりたてる。道ゆく人々は眉を顰めて、男たちの周囲がモーセのように割れた。憚りなくお喋りを続けるご主人たちを、アップリューが困った様子でオロオロと見上げていた。
 珍しいことではないので別段キバナは気にしていなかった。ヤツらはポケモンバトルが好きなのではなく、日々の鬱憤をぶつけるため、サンドバッグにする口実がほしいだけだ。今目の前で、もしダンデと勝負してキバナが勝利をもぎ取れば、しがない口先がそっくりそのままダンデに向かうだけなのだ。
「まじで辞めちまえばいいのにな」
「ファッションでやってんじゃねえよ」
 そんなことより待ち人の方が問題だった。なにせ立っているだけでも迷子になる男なのだ。そうなる前に先に迎えにいくはずだったのに、少し予定が押してしまって彼が先に到着してしまったようだった。迷子になられる前にさっさと合流せねばなるまい。
 そう思ってキバナが喧しい男たちの横を通り過ぎようとしたところで、人混みから一人の男がどたばたと飛び出した。背が低く、うだつの上がらない風体で、落ち着きなく視線をあちこちに飛ばしている。しかしショルダーバッグにつけた、ナックルジムのバッジを握る拳は指先が白く染まり、血管が浮き出ていた。
「あの、その、そういうのやめた方がいいですよ」
 驚いたことに突如転がり出た男は今にも泣き出しそうな顔でおずおずと、しかしはっきりと男たちを諫めた。
 いきなり注意をされて喧しい彼らがギョッとしたのも束の間。相手が背の低い若い男だと知るや否や、剣呑な顔つきになる。ただならぬ気配にキバナも足を止めた。
「え、いきなりアンタなに?口出ししてきて」
「え、えっと、その。往来でこういうのは………
「別に道塞いでるわけじゃないし、迷惑かけてないと思うんですけど。なに、……あぁ」
 二人組の男たちが、握り締めた缶バッジの存在に気がついた。小刻みに震える男の指の隙間から、見慣れたドラゴンのマークを見つけて、やっと合点がいったようだった。
「それ!なるほどキバナファンか!にわかが多くてマナー悪いってよく聞くけどマジなんだな!」
「事実言われて怒っちまったのかな。ダンデもアイツがライバルだなんて買い被りすぎだと思うんだよな、実際いつまで経っても負け続けで勝つ気もやる気もないだろあいつ、なあ?」
「違います!キバナさんはそんな人じゃありません!」
 破裂音のような怒声を上げ、気弱そうな顔がカッと目を見開いて、尻尾を踏まれて毛を逆立てたニャースのように飛びかかろうとした。
 これは流石にまずい。待ち人に心の中で謝罪して、キバナもまた人混みから飛び出した。こういう時とびきり大きな身体は便利だ。気弱な彼の手が男たちに触れる前に、キバナの長い足がすぐに距離をつめ、彼の長い腕が男のよれた襟首を掴んだ。ニャースのように爪を立てようとした掌が空をかいた。
「こらこら、市街地でのポケモンバトルと私闘は禁止だぜ!」
 有名人の登場に周囲が一気に騒ついた。男二人はキバナの顔を認めると、アッと情けない声をあげ、それからバツが悪そうに俯いた。
 キバナは出来る限り怯えさせないようにいつもの笑みを浮かべると、襟首を掴んだ手を離して屈み込んだ。飛びかかる男から身を挺して守ろうとした、小さな勇者がいた。
「そこのアップリュー、オマエ羽の艶がいいな!よく手入れが行き届いてるし、しっかり愛されている証拠だ!いきなり飛びかかられて怖かっただろ?もう大丈夫だ、エライぞ。なあ兄ちゃんたち、ポケモンを悲しませるようなトレーナーになっちゃダメだぜ。それから応援しているジムリーダーが傷つくこともしてはダメだ」
 したから顔を覗き込むように見上げると、俯いた男たちはすっかり意気消沈していた。聞き取れるか怪しいほど小さな声ですみませんでしたと口走ると、アップリューを抱え上げ、逃げるように駅の中に消えていった。
 一息ついてからキバナは飛び出した男に向き直った。いきなり背後から首根っこを掴まれて腰が抜けたのか、石畳の上にべったりと尻餅をつき、茫然とキバナを見上げていた。
「キミ、ありがとうな。オレのために怒ってくれたんだろ?でも喧嘩をしてはいけないな!」
 キバナが手を差し出しても、彼は地面に座り込んだままであった。何か信じられないものを見たような、不思議そうな表情を浮かべていた。
「どうした?」
「いえ、その……キバナさん悔しくないんですか。あんな風に言われて」
「悔しい?全くだな!なんと言われようとオレさまはオレさまだからな!」
「そ、そうですか」
 やっとのことで彼は呟くと、キバナの手を取ってよろよろと立ち上がった。何か言いたげに眉を情けなく垂らしてキバナを見つめて、ぐっと奥歯を噛み締めたようだった。
 それから彼は少し前屈みになって尻についた埃を払うと、ショルダーバッグの缶バッジを再び握り締め、ポツポツと聞かれてもいないのに語り始めた。
俺は、正直悔しいです、キバナさんがダンデさんより弱いとか、口と見た目だけ派手な奴とか言われるの、すごく悔しいです。そんなことないのに。すごく優しくて、ストイックであ、あの、そうだ、昔キバナさんの講演に参加したことがあってそれで……
 騒動はおさまったというのに、割れた人の海は戻らない。遠巻きにしてひそひそと、時々キバナの名前が上がる。無粋なシャッター音も聞こえ始めた。
 申し訳ないとは思ったが、キバナは肩に手を置きカメラのレンズから男が隠れるよう少し引き寄せ、彼の切々とした思いの丈を強引に遮った。
「代わりに悔しがってくれてありがとうな」
「でも」
「そんだけ思ってくれりゃ十分だって!」
 これ以上衆目を集めるわけにいかない。彼は一般人なのだ。キバナはどうにかあの人の群れの向こうに戻すべく、スマートではないが有無を言わさず別れを告げようとした。
 彼がゆっくりと、スローモーションのように口を開いた。周囲のざわめきの波に飲み込まれそうなほど小さな声であったのにも関わらず、その呪詛は打ち付ける嵐の中の雷鳴のごとく、はっきりとキバナの耳に届いた。
「ダンデさんがいなければな。そうしたらこんなこと言われないのに……どうして一緒の時代に出てきちゃったんだろうな。いなければキバナさんが一番だったのに」
 キバナは大きな脚で一歩、大股に詰め寄った。見上げる男の顔に濃い影がかかる。尖った犬歯を見せつけるように口角を上げ、身を屈めて、周囲には聞こえないよう彼にささやいた。
「キミはオレにどんな夢を見ていたんだ?」
「え?」
「悲願のチャンピオンか?悲劇的で報われないヒーローか?オレさまにどんな夢を見たって構わねえし、なんだっていい。だが」
 猛獣の威嚇のような低い声に、男は目を見開いて僅かにじりじりと後ずさった。彼の驚愕に染まった顔がよく見えた。きっと今、自分はファンに到底見せるべきではない、とてつもない悪い顔をしているという自覚はあったが、キバナは威嚇めいた表情も言葉も止めることができなかった。
「オレを勝手に不幸にして、オレの夢を奪わないでくれ」
 鋭い刃物のような冷たい視線で心臓を貫かれ、男はひゅうっと息を詰めた。食い殺される直前の被食者のように、ただぶるぶると哀れにも身を震わせるばかりであった。恐らく彼は、キバナの迫力にとらわれてしまい、キバナを詰る野次よりもなによりも、不快にさせたということには最後まで気づかなかった。

 長い間のような一瞬が過ぎて、キバナはへらりと表情を崩した。獰猛な本性は笑顔の下にしまいこんで、気さくな若者として手を振った。
「応援ありがとうな!それじゃあ」
 ファンだった男に背を向けると、キバナの行先を指し示すように人の道が開かれた。その先には菫色の髪の待ち人が腕を組み、静かにキバナを見つめていた。


 もとよりダンデは髭と髪の色で変装が役に立たないことが多いが、今回ばかりはキバナのせいでバレバレだ。チャンピオンだ、キバナだとまばらにあがる歓声から逃れるように、キバナはダンデを連れたって駅を後にした。エキシビジョン前に二人で昼食を取る予定が台無しだ。
「すまない、遅くなって。よく辿り着けたな」
「時間になってもこないからおかしいと思ってな。連絡をしようとして、駅前が騒がしいことに気がついた。なんの騒ぎだと駆けつけたらキバナだったぜ!」
「オレさまが来るまで動くなって伝えたはずだったんだがなあ」
 キバナが大袈裟に首を竦めると、でもたどり着いただろ?とダンデは子供のように胸を張った。
「あれはキバナのファンだったのか?珍しいな、あそこまで話し込むのは」
「いいや?ありゃファンじゃないぜ。ファンなら言わないさ、ダンデと同じ時代じゃなきゃ!なんて」
「またそんな事を言われたのか」
「びっくりするだろ?いつまで続くんだろうなあ、この不幸論」
 ダンデは真剣な面持ちで顎を抑えて考え込んだ。この馬鹿馬鹿しいキバナに対する幸福論に関して、解決方法を探しているのだろう。キバナからするとその解放は至極明快で簡単だ。
「全員オマエと一度戦ってみりゃいいのにな」
 そうしたら、キバナが不幸であるだとか、ダンデのいない世界をのぞむ連中もわかるだろう。
 あの大きなスタジアムの中、割れんばかりのうねる熱のような歓声。緊張が張り詰める孤独な戦場。太陽と観客の身勝手な夢を背に負い、菫色のたてがみを靡かせ、澄んでいるのに底の見えない沼のような金色に見据えられ。獅子が獲物に飛びかかる寸前に上げる唸り声のような、あるいはどろどろに絡む蜂蜜のような声色で、楽しくて仕方がないとのたまって、不敵に笑う。
 背筋に走る快楽染みた悪寒、一手先も読めない深い霧のような謀略の数々、圧倒的な強さ、それをねじ伏せあの男の喉笛に食らいつく陶酔、そしてその顔を歪ませ膝をつかせる夢と支配欲。
 まるで痛烈なジャイブだ。息切れすれば置いていかれる。一挙一動、一呼吸ごとに目まぐるしく万華鏡のように状況が変わる。間欠泉のようにアドレナリンがふきだして、マグマのように血が煮えたぎって、頭が沸騰して割れそうな感覚なんてそうそう味わえない。
 一度体験したら悪い薬のように忘れられない。離れられない。鮮烈に焼きつく。消えない傷跡のように残り続ける。

 ———ああこんな楽しいことが存在するなんて、これをポケモン達と、ダンデと、一生続けていられるだなんて!

 あれと対峙したら、どうしてこの男と同じ時代に生まれた不幸だなんて言葉が生まれるだろうか。最高のライバルのいる時代に、最高のバトルを垣間見ることができる境遇に、生を受けた事を感謝したほうがいいくらいだ!
 このキバナが不幸というならば、この世界の誰が一体幸せだというのか。それでも尚キバナを不幸だと嘆くなら、退屈だと思うのなら、一度戦ってみたらいいのだ。あの鮮烈な男と。
「ま、無理だろうけどな」
 キバナが少し意地の悪い笑みを作って言い放つと、ダンデは顔を顰めて窘めた。
「珍しく冷たい事を言うんだな。オマエが好きで少し余裕がないだけだろ?ファンには優しくした方がいいぜ」
 小声で耳打つダンデの肩を引き寄せ、耳に口を寄せる。ダンデの長い髪が回した腕と肩の間に挟まって、滑らかな感触を伝える。彼の髪は存外柔らかい。
 キバナが言葉を吹き込むより先に、ダンデはキバナの脇腹を強く押した。反撃に腕が解けてたたらを踏んだ。このところダンデはキバナのこういった接触を少し嫌がって、滅多に見られない怒りや困惑を滲ませるので、ついつい表情みたさにキバナはちょっかいをかけてしまう。
 実際ダンデは血の気を昇らせ、怒ったような———怒りに近い何かであって本当の怒りではない———別の何かの表情を浮かべて、周囲の目線を気にして小声ではあったがからかうな!と一喝した。耳の先まで血の気がのっている。
 こういった表情を見るたびに、やはりキバナは胸がざわめいた。きゅうっと狭窄するような、それでいて痛烈に喉の渇きを覚えるような、落ち着かない気持ちにさせる。
 けれども最近キバナはそれもいいかと思い始めていた。少なくともキバナはとても幸福である。そしていずれはこの男を打ち倒す予定だ。なんとなくそうすれば治るような気もした。
「フフ、冷たいな!オレさまにも優しくしてくれよ、ダンデ」
 ここにきて初めて、キバナはこの気持ちが誰にも﹅﹅﹅伝わらないことがひどく惜しいように思えた。なにせキバナは、最高のライバルでもあり、友人でもあるダンデの熱烈なファン﹅﹅﹅﹅﹅﹅でもあったので。


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