@adonis_ramosa33
汐田医院様の企画「金福村・四月のワークショップ『金福演習』(http://privatter.net/p/717098)」に参加させていただきました。素敵な企画を立てていただき、心より感謝申し上げます!! とても楽しませていただきました!!!
運行区間を示す方向幕に掲げられたSの文字。掠れ、消えかかっているそれを確認してから、ニット帽を目深に被った男はバスに乗り込んだ。赤橙の光が窓から差し込む車内は、どことなく常日頃親しんでいるバスとは異なる佇まいをしているように見える。それは、男が今抱いている感情が思わせてしまっているまやかしに過ぎないのか、それとも、茜色に染め上げられた空間にいるのが落ち着かないだけなのか、男には判断が付かなかった。夕闇の気配が蔓延している車内では、ざわざわと揺らぐ人の影が、隙間という隙間を埋めるように蠢いている。その中に夕陽に照らされる赤色が入り混じった金色を見つけて、男はほっと息を吐いた。よかった、まだバスの中にいた。胸の辺りにあるシャツのボタンを強く握り締めながら、男は金色に向かって口を開く。
「福富」
名前を呼ばれた金色の髪の男――福富は、ぼう、と遠くへ向けていた目を一度大きく瞬かせて驚きを隠せないように目を見開きながら、ニット帽の男の方へ振り向いた。
「……金城?」
随分、久しぶりに彼の声を聞いたような気がする。そんなことはない筈なのに。彼の声だけは、他の全ての何もかもを押しのけてはっきりと耳に届く。ニット帽をずらして、視野を広げる。彼が自分の視界から絶対に外れないように、男――金城は、瞬きをすることすら惜しんだ。遮るものが一つとしてない視界の中で、現状を理解できないと揺らぐ目、どうしてと疑問の言葉を口にする唇、それらがはっきりと輪郭を持って見えている。帽子を押さえた指の隙間から睨み付ける蛇の刺繍を見て、唾を飲み込む動きすらもよく見えて思わず笑みがこぼれた。金城が一歩前に足を踏み出せば、その分の距離を離れようとでもするかのように、福富は後ずさった。気まずそうに、目を逸らしながら。
「……どうして、お前がここにいるんだ」
責めるような口調をする福富に、金城は肩を落としてため息をついた。ここにきてそんなことを言うなんて、と呆れたのだ。必死になって追いかけてきた自分に対して、そんな言い方はあんまりじゃないか、と。
「喧嘩別れのままでもよかったと?」
「それは、その……」
暗緑色の目を細めて抗議すると、福富は言い淀んだ。何か言おうとしているようだったが、結局それは言葉になることはなく、眉間に皺を寄せて苦しげな表情のまま押し黙った。
突然の闖入者が現れたことにも、体格のいい男二人が妙なやりとりをしていることに対しても、他の乗客はまるで無関心を決め込んでいる。座っている乗客は、皆一様にうとうとと微睡み、窓に寄りかかって寝息を立てているOLや、眠そうに目を擦る年配の男性がいた。立っている乗客の中には、きょろきょろと忙しなく視線を動かすスーツ姿の男、窓の外をぼんやりと見つめている花柄のワンピース姿の少女、年齢も性別も異なる人でバスの中はひしめいていた。幾人もの壁をすり抜けて、金城は福富の目の前にまでやってくる。金城が近付いてくる間に福富はどうにか距離を取ろうとしたのだろうが、後ろに立つたくさんの乗客に阻まれて逃げ場を失ったようだった。意地でも視線を合わせないようにする福富の隣に立ち、真正面から見据える。金城があまりにも真面目な表情を浮かべているものだから、福富は居心地悪そうに身動ぎをする。
「俺が悪かった」
先んじて謝罪の言葉を口にし、頭を下げようとすると、やめろ、とため息交じりの声で制止される。下げかけた頭を上げれば、やはり福富は気まずげな表情を浮かべていた。おずおずと口を開き、お前は悪くない、と唇を震わせる。よほど悔やんでいるのか、声にはまったく覇気が見えない。伏し目がちの視線のまま、福富は言う。
「悪かったのは、俺だ」
喧嘩の理由はほんの些細なことで、絶対にそんなことでは喧嘩になんて発展しないだろうと思えるほど、本当に下らないきっかけだった。そこから、いつもは二人とも適当に流していたちょっとしたすれ違いを、福富が不満そうに指摘して、たまたま虫の居所が悪かった金城が怒鳴って、あとはただの感情のぶつけ合いになってしまった。勢いに任せて、出ていく、と零して荷物をまとめ始めた福富に、好きにしろ、と言い放って、もう相手をする気にもならなかった。ばたん、と派手な音を立てて閉まった扉の音だけが、二人で暮らしていた部屋に響いた。金城はその音を、よく覚えている。後になって思えば、互いに少し疲れていたのだろうと思う。疲れていたのは二人の関係になのか、それぞれが立たされていた立場や環境になのか。そのどちらもが理由になり得るだろうし、また別の理由があるような気もする。ただ、大変なことをしてしまったと後悔して、どうしても諦められなかった金城は福富を追いかけた。追いかけて追いかけて、ようやくこのバスに辿り着いて福富を見つけたのだ。彼を連れ戻すまで、金城は諦めるつもりは一切ない。もう一度、シャツのボタンを握り締めた。
ふと、到着を知らせるアナウンスが流れ、車体がぐらりと揺れてバスが止まる。ドアが音もなく開いて金城の横に立っていた顔色の悪いスーツ姿の男が、覚束ない足取りでバスを降りようとしていた。男の首元に巻かれた黒いマフラーがはためく様を横目で見ながら、福富に声をかける。ここで降りないか。福富は静かに首を横に振る。ドアが閉まり、バスが再び動き始めたことを確認して、福富は顔を俯けて呟くように言った。
「……俺は、戻らないぞ」
金城の覚悟とは裏腹に、福富は依然として駄々をこねるつもりのようだ。帰るつもりはない、と零す福富の表情は、顔を伏せてしまっているため確認することはできなかった。しかし、言葉の端が少し震えているのがわかる。福富だって本当は二人の家に帰りたいのだ。けれど、素直になれない。仕方のない奴だと金城は福富に聞こえない程の小さなため息をついた。
「俺は、一緒にいたい」
できるだけの優しさを込めて声をかければ、福富はおそるおそるといった様子で顔を上げた。その表情を見て、金城は福富のことを可哀想だと思った。唇を噛み締めて、今にも泣き出してしまいそうな幼子の表情。
「……だめだ」
「俺がいいと言っているじゃないか」
金城が言葉を重ねるたび、福富の視線は揺らいでいく。迷っているのだ。
「しかし……」
「……お前は、俺と一緒にいたくないのか?」
憂いに満ちた、寂しげな声を福富の耳元で囁けば、福富はむずがるように首を横に振る。だめだ、だめだ、と、まるでそれしか言葉を知らないかのように同じ言葉ばかり呟いて、弱々しい抵抗を繰り返す。その言葉が意味するものは拒絶ではあったけれど、声の中には金城によりかかってしまいたいと主張するような甘やかさと、そして、ほんの僅かな諦めを覗かせている。本当に泣いてしまいそうだったけれど、金城は手ごたえを感じていた。もう、あと一押し。金城はそう確信して、福富の傍にある空席を指差した。
「席、空いているな。座らないのか?」
「……」
福富の目の前にある席は、金城がバスに乗ってきた時からずっと空いていた。バスの中に人は溢れているのに、誰も座る気配を見せない。
「座るぞ。ゆっくり乗っていこう」
「だめだ!!!」
金城がおもむろに席に座ろうとすると、福富は突然血相を変えて大きな声を出した。その目の中にあるのは、恐怖と、怯えだ。金城の行動を止めようとして伸ばした右腕は空を切り、行き場を失くしている。触れられなかった手を握り締めながら、福富は真剣な眼差しで金城を見た。
「……だめだ」
もう一度、福富は念を押すように繰り返した。頼むから。お願いだから。懇願するように縋る福富の態度に金城は口端を上げた。
「なら、お前も座らないな」
「……」
福富は肯定も否定も、口に出したりはしなかったけれど、席には座らない。その代わりに二人の後からワンピース姿の少女が飛び込んできた。先程までぼんやりと窓を見ていた、半袖のワンピースを着た少女は金城と福富に意を介さず、重さを感じさせない動作でふわりと席に座って、そしてすぐに目を閉じる。すぅすぅと安らかな寝息を立てる少女の着ている端々が焼け落ちたワンピースを見て、福富は言う。目に涙を浮かべながら。
「……どうして、ここまで来てしまったんだ」
「お前を諦められなかった」
「……そういう、お前の言葉を喜んでしまう自分が憎い」
「俺は好きだ」
車内は、静かだった。
ほどなくして、ざぶざぶ、という水音が耳に入り込んでくる。水たまりの上を走るような音。水たまりよりも、もっと大きな水の中を走る音。ああ、もうそんな所まで来ていたのか。そろそろだな、と笑いかけた金城に、福富は諦めたように頷いた。
静岡駅の改札口前に見慣れた後ろ姿を見つけた荒北はすぐに声をかけた。
「金城」
「荒北」
「なんだ。機嫌よさそうじゃナァイ?」
最近にしては珍しく嬉しそうな表情を金城が浮かべているものだから、荒北は内心ほっと胸を撫で下ろしていた。口端を曲げて金城の背中を景気よく一発叩くと、痛ッ、と声が上がる。元気そうで何よりだ。叩いてから、あれ、と金城に違和感を覚えて目を丸くした。
「なんかお前、服濡れてねェか?」
「ちょっと雨に降られてしまってな」
微笑む金城の服は、上から下までずぶ濡れだ。まるで、土砂降りの中を歩いてきたような恰好をしている。たしか、朝見た天気予報では、今日は全国的に快晴ですと割とタイプなお天気キャスターがそう言っていたような気がするのだが。まあ、天気予報が外れることもあるだろうし、にわか雨にでも降られたのだろう。へェ、と適当な相槌をうち、荒北はおや、と首を傾げる。
「シャツのボタン、取れてンぞ」
荒北が指差した先には、あるべき場所にあるボタンが無かった。上から二番目の、ちょうど胸の辺り。無理やり引き千切ったかのように途中で切れた糸が、シャツにぺたりと張りついている。裁縫の得意のことだ。自分のシャツのボタンが取れていたらすぐに見つけて直すだろうし、そもそも、ボタンが取れてしまう前に修繕しているのが金城真護という男だった。
「ああ、……必要だったからな」
「はァ?」
「ボタンがないと、帰ってこれないんだ」
優しく笑う金城の真意が、荒北にはこれっぽっちもわからない。金城の微笑みに妙な不気味さすら覚えながら、荒北は何となく、それ以上追及するのが恐ろしいような気がした。今、一歩でも踏み込んでしまえば、そこは何もない場所で、ただ落ちていくだけのような。そんな、嫌な予感がする。
「……よくわかんねェけど、外れたままだとみっともないだろ。お前そういうの得意じゃねェか。ぱっぱっぱーって付けちまえ」
「ああ、そうだな」
「……」
まるで、普段と変わりないように見えるが、なぜだろうか。口を噤んで、荒北は金城を見る。やはりどこか、何かが絶対におかしい。けれど、それをはっきり言葉で表現するのは難しい。
「……お前、大丈夫か。なんか、うまく言えねェけど……いつもと違ェっつーか……。ほら、この間あんなことあったばかりだしよォ」
「大丈夫だ。心配するな」
「……そうかヨ」
去っていく荒北の背中を見つめて、勘付かれてしまっただろうか、と金城は思った。勘の鋭い荒北のことだ。具体的に金城が何をしたのかはわからなくても、それに近いものを感じ取るのではないだろうか。いっそのこと、次会った時に全部話してしまっても構わないかもしれない。しかし、話してしまったら確実に殴られそうな気がする。まあ、殴られること自体は大したことではないが、その後のことが問題だ。絶対に、荒北は金城がしたことを認めないだろう。金城は大きく息を吸い、吐く。今日は本当に大変な一日だった。
なあ、そうだろう?
お前は人を引っ張っておいて、どうして本当にそうしてほしい時にはしてくれないんだ。勝手に先にいってしまうなんて、なんて厄介で、……酷い男だ。だから、今度は俺が引っ張ったんだぞ。いつでも俺のことを掴める位置にいてもらえるように。そうしたら、次は俺のことを引っ張って、一緒に連れて行ってくれるだろう? 待っているんだ、ずっと。
ずっと。
蛇足
――ねぇ、「川を走るバス」の話、知ってる?
――え~? 何それ~!
――最近この辺でよく聞く噂。
――それって怖いやつ?
――怖いなんてもんじゃないよ。……めっっっちゃくちゃホラー。
――やだ~! おもしろそ~!
――ねぇねぇ、どんな話?
――あのね、ちょうど夕方ぐらいの時間にね、Sって書かれたバスが止まるんだって。そこには、たくさんの人が乗ってるんだけど、ちょっと様子がおかしいの。なんか運転手の顔よく見えないし、乗ってる人たちもなんか暗い雰囲気出してて。てか、そもそもS系統なんて名前のバス、この辺には無いじゃん? で、どこ行くんだろうってちょっと気になって、好奇心に誘われるままそのバスに乗ってみちゃったわけ。バス停とかいろいろ止まるんだけどさ、どんなに耳を澄ませて集中して聞いていても、アナウンスの声がくぐもってて全っ然聞き取れないんだって。どこに向かってるかちっともわかんない。やっぱ変なバスだな~って思いながらバスの中見回すと、おかしいことに気付くわけ。バスの中めちゃくちゃ混んでるんだけど、ぱらぱら席が空いてるのね。空いてるんなら座ればいいのに~って思って、せっかくだから座ってみたわけ。そしたら、なんか眠くなってきちゃうの。瞼がどんどん重くなって、妙に心地よくなってきて、で、気付いたらすっかり寝入っちゃって。ようやく目が覚めて窓から外見ると、なんか川が見えるんだって。川。しかも、バスは川の上を直接走ってんだって。普通沈むはずじゃん? でも、なぜだか川の上をそのままぐんぐん進んでくの。な~んか胸騒ぎがして、そろそろ降りたいなって思うんだけど、体がだるくて動けない。困り果てて、もう仕方がないから終点まで乗ってこうって覚悟決めるわけ。んで、しばらくしたらバスが止まって、中にいた人たちがみんな揃ってぞろぞろ降り始めるの。あれだけ眠かったのが嘘みたいにスッキリ晴れたし、みんな降りてるし、あ~たぶんここ終点だなって、一緒に降りてみたわけ。降りたら乗客たちはまっすぐ進んでて、ついていこうかな~って思うんだけど、なぁんか気になって、後ろを振り返ってみんの。そしたら、どこまで続いているのかわからない川と、その向こうから「いっちゃだめだよ」って声が聞こえてくるんだって。だんだん怖くなって戻ろう引き返そうとして足動かそうとするんだけど、一歩も踏み出せない。んで、……おそるおそる足元を見ると、そこには爪の先から徐々に白骨化していく自分の体が……!
――きゃぁ!
――ガチホラーじゃん! やっば!
――でねでね、Sのバスに乗ってるのはぁ、……死んだ人なんだって。あの世に行くためにバスに乗ってるの。立ってる人たちはこの世に未練がある人たち。すぐバスから降りれるようにってね。座ってる人たちはもう終点まで降りる気はないんだって。もうこの世に未練がないから、安らかにあの世に行こうとしてるわけ。ちなみにね、S系統の「S」って「三途の川」の「S」らしいよ。三って字が歪んで繋がってそう見えるのか、実際にSなのかはよくわからないけど。ほら、三途の川の渡し舟って話あるじゃん? 今は舟じゃなくてバスで行くんだって。
――近代化してんじゃん。
――時代に合わせてあの世もがんばってんのよ。
――そういうもん?
――そういうもんそういうもん。もうね、そのバスに乗っちゃったら最後。二度とこっちに戻ってこれなくなっちゃうんだって。
――もぉやだ~! こわ~い!
――普通に乗ったつもりが……ってこともありえるんじゃないの~? 怖っ!
――あっでもそのバスに乗ったらおかしいからわかるんだって。たとえば、車椅子だった人が足動かせてたり、目が悪い人がはっきりもの見えてたりすんの。
――それってどっか体悪くなきゃわかんなくない?
――あ。ほんとだ。
――役に立たないなぁ~もう。
――待って待って! たしか、バスの中にいる人たちの服装とか季節感バラバラだから、その辺見れば、やばいって気づくって話もあったはず! それにそれに! 乗客の人たちをよ~く見ると死んだ原因になった怪我とか跡がそのまんま残ってたり、血がついてたりするんだって話もあった、ような気がする……? うん! たぶん!
――ほんとかなぁ~。
――なんだっけなぁ……真っ赤な夕陽の中を走っているから血が見えにくくなってるとか、そんな話だったような……。
――……ねぇ、私、その話の続き知ってる。
――え?
――へぇ~、続きあるんだこれ。
――それも怖いやつ~?
――……続きっていうか、ちょっと違う話、かな……。大体は同じなんだけど。恋人を事故で亡くした男の人がね、同じように夕暮れ時に走ってくるSのバスに乗るの。そしたら、バスの中に死んだはずの恋人に会った。
――その恋人って立ってたの? 座ってたの?
――あっそれ気になる~。
――そこまではわからないかな……。
――な~んだ。未練あったのかなぁその人。
――……でも、恋人と喧嘩別れした後に交通事故にあったって話だから、恋人の方にも未練あったと思うよ。それで、恋人を見つけた男は舞い上がって、恋人を連れ帰ろうとするの。一緒に帰ろうって。でも、恋人は、それはできない。あなたは早く降りて。だって、私、もう死んでるんだものって泣き出してしまうの。その言葉が示す通り、男の人が伸ばした手は、恋人の透けた体を通り抜けちゃう。じゃあ、どうしたらお前を連れて帰れるんだって、男の人は、必死になって叫ぶんだけど、恋人は首を横に振るだけ。せっかく会えたのにって、泣き崩れた男の人のね、シャツの上から二番目のボタンが取れかかってね、ちょうど糸が切れてころころ恋人の方へ転がっていく。恋人はボタンを拾って、渡そうと手を伸ばすと、不思議なことに、男の人にさわることができたの。男の人は、もう、今しかないって思って、恋人の手を引いてバスから降りた。降りた先は川の中で、二人は沈みそうになりながらも、がんばって泳いだ。どれだけ泳いだのかわからないけど、男の人は決して恋人の手を離さなかった。ようやく岸に着いて、男の人は力尽きて気を失ってしまう。そして、意識を取り戻したのは自分がSのバスに乗ったバス停だった。あれは夢だったのかって落ち込むけど、服はずぶ濡れで、シャツのボタンは取れてるの。もしかして……って振り返ったら、死んだ恋人が、ありがとう、って笑って隣に立ってたんだって。
――……。
――……。
――え、それって、幽霊? 生き返ったってこと?
――この話はここで終わりだから、よくわからない……。でも、この世のものを持った死人は、こっちに引っ張られるんだって。だから、死人をどうしても諦められなくて、取り戻したいのなら、夕方に走っているSのバスに乗って、自分が着ている服の二番目のボタンを千切ってあげたらいいらしいよ。
――へぇ~。何で二番目のボタン?
――……いちばん心臓に近いところにある生者のものだから。魂がある場所に近いから、死者に自分の魂を半分分けてあげるって意味もあるの。
――なんか卒業式の第二ボタンみたい~! ちょっとロマンチックかも。
――え~、でもそんなの、絶対よくないでしょ。死人だよ死人。連れてきちゃったら絶対ヤバイことになるって。タタリとか起きるんじゃないの??
――魂半分あげちゃうってことは、半分死んじゃうってことだよねぇ……なんか気持ち悪い。
――たしかに~。ま、でも所詮ただの噂だし。
隣のテーブルで盛り上がる女子高生らの会話に、いつの間にか聞き入っていたことに気付いて、荒北はカップの中を覗き込んだ。湯気を立てていたはずの珈琲が、すっかり冷めきっている。底の見えない黒い液体がなんだか妙に不気味な気がして、荒北は何か他のものでも注文しようかとメニューを広げる。しかし、自分が思っていたよりは食欲はなく、ただメニューを眺めるだけに終わりそうだった。横にいた女子高生の三人は話すだけ話して満足したのか、席を立ちレジに向かっている。かと思いきや、ドリンクを頼んですぐに戻ってきて今度は今流行しているファッションの話を始めていた。あれだけ話したのにまだ話すことがあるのかと呆れる。しかし、先程話していた噂話の内容がやけに引っかかる。
「……まさかな」
帰りがけになんとはなしに振り返った荒北は、底知れぬ微笑みを浮かべたニット帽の男を見た。すっかり日が落ちて、暗くなった駅前を照らす街灯が、ニット帽の男を薄く照らし出した先。それを見た時、すぐに荒北は目を逸らした。ただの勘違いだと思いたかった。それなのに、どうしても、その映像が脳裏から離れてくれない。
「……いやいや」
地面に映る人影。
「……」
それは確かに、“ふたつ”、並んでいた。