@kyuri_akita
がさ、と裏庭から聞こえた音に、カガチはうっすらと意識を浮上させた。
木の張られた縁側で横になり、うとうとしていた。緑の間から差し込む日は柔らかく、葉を透かして降り注ぐ静かな光が、カガチは好きだった。その光を遮るような誰かの気配がして、ゆっくりと目を開く。
「・・・カガチ殿」
若干の困惑を滲ませて、犬の顔がカガチを呼びかける。長い鼻は犬というよりも狼か狐のようで、狐も食べたら意外とうまいんだったなとぼんやりとした頭で思った。寝て起きると腹が減るなあとぼんやりとする。
明るい色の茶色狼は二足で立ち、着物に似た長いローブをまとっている。彼は三角の耳をぴくりと揺らし、手の見えない長い裾で、カガチのそばに手をついて顔を覗き込む。
「腹が減っているのなら、カイヨワが果物をもってきた。それをいただいてくれ」
苦笑交じりの言葉に、カガチは手を振って応じた。
上半身を持ち上げ、胡坐をかいて、尋ねてきた客人を見上げた。
「なるほど、カイヨワが来たから、お前も来たのだな、セリニ」
セリニは金色の目を細めて小さく笑った。
「久しぶりに、暇乞いをしにきた」
「主でもないのに、何を乞う?それにお前は、さかのぼれば同胞であれど、この地に生まれて2世めだ、〈吾ら〉の文化も言葉も、もうわからなかろう」
それを言われると、とセリニは苦笑した。
狼の姿でありながら、二足で歩くセリニは、一般には人狼と言われる種類だ。
人狼は比較的多い種族ではあるが、その中でも彼の祖先は、たどれば古くは砂漠の国に住まう一族で、カガチの一族と同じ流れを辿っている。
かつてカガチの祖先とセリニの祖先のいた砂漠の国は、栄華を極めたが滅亡した。
そしてその国に住まう民族の一部は、糸杉の多き国、すなわちカガチの故国の前身となった国に流れた。
遠い地で、とっくに文化を忘れた遥か遠き国の同朋と会うのは、いつも不思議な気分だった。カガチの国にも人狼は多くいた。彼らは王族信仰を持ち、王族に仕えることを至上とする。狼というよりは犬だと、そう笑われようとも、王に仕えることこそが誇りとした。
中でも黄金の目を持つものは、軍神の血を継ぐとして、王族のそばに召し上げられる。王族もまた、不思議と人狼たちの中に生まれる金の目を好んだ。
カガチの国にいた狼たちは己の爪を見せるのを嫌い、無礼なことだとする。王族の前では特に見せないように努め、長い袖をまとっていた。理由は詳しくはもうわからないが、セリニもまた、他人にむやみに爪を見せるのは良くないとする文化を受け継いでいた。長い袖で彼らは手を隠す。
カガチの祖先の歴史など、もう忘れ去られたような古い話だ。
女神が生じるよりも前とされる話は、詳しくは残っていない。栄華を極めたという話も、カガチがわずかに知るばかりである。
カガチが図書館の国でこの男に出会ったのは偶然だった。
意図して出会ったわけではなく、どちらかといえばカガチは彼と一緒に住んでいるカイヨワという人間のほうに用があった。
「暇乞いという使い方はまちがっているのか」
困ったように首をかしげる男は、ずいぶん感情豊かだと思う。
感情豊かに動く黄金色の眼は、カガチの国で語られる軍神のようだ。王族が好む黄金色の眼。秋に広がる稲穂の色だ。国でもなかなかこれほど美しい金の眼はいなかっただろう。王たちが見れば、さぞや喜んだに違いないと、そんなことを考えてしまった。
それによって迫りくる寂寞を、カガチは淡く微笑んで散らす。
地を割く矢のごとく駆け抜けた黄金の眼の軍神は、狼の姿であると言われている。その目で地平を見渡すと死をもたらす。
セリニはそんな恐ろしさとは無縁だ。
〈げに美しき、金色の眼。走ろうものかー〉
何度も口にして覚えた、叙事詩で語られる炎の王。
かのひとが見たのは、こんな目だったのかと、彼に会うたびに思いをはせる。
「ロザリー!ぼさっとしてるからまた悪化してるだろ!?クソ、げほ、ごほ・・・うっ」
室内から聞こえてきた大きな声に、カイヨワはまだ元気そうだな、とカガチは室内に向けた眼を戻した。
セリニは声のほうを心配そうに見やり、そしてカガチに気づくと慌てたように視線を戻す。
(・・・まったく、善い男で・・・)
カガチが幾度も歌い、そうして覚えた叙事詩の中身がセリニに会うたび引きずり出されるのは、歌の中にある古き国の王族たちが、善き一族と歌われることが多いからだ。
遥か彼方、失われた国から引き継がれるような善性が、カガチにはない。
教えはされたのだが、それはカガチの中にはきちんとした形で残らなかった。
だが教え込まれたものだからこそ、懐かしいような気分になる。
善くあれ、と教えられた。
穏やかに、怒らず、怯えず、安寧を享受せよ。
我欲を待たざることこそ、安寧の一歩だと。
カガチには、それができなかった。
命に感謝するどころか、命が冒涜され、呪いと化すその輝きに見入ってしまったのだ。
「・・・カイヨワを、もう開放してほしい。代わりに、私が毒を飲もう」
セリニはカガチがこの国によるたび、カイヨワが飲んだ『蟲』を、毒を消してくれと願いに来る。
代わりに自分が飲むから、と。
カガチはカイヨワを呪っている。といっても、強いものではない。徐々に弱っていくもので、時折苦しむ程度だ。
しかし呪われているからこそ、カイヨワは苦しみ続ける。
カガチは頬杖をついて、目を細めた。
「お前を呪う利益は、俺にはないと、何度言えばいい」
「いや、今度こそは、応じてももらえると思っている。ロザリー殿についてだ。彼女は、」
セリニは眉根を下げながら、ロザリーの本当の名を口にした。
ロザリンド・エル・アレット・グランジャルデ。
「そのひとだろう」
カガチは、昨日彼女についての本が、机におかれていたのを思い出した。
その名は多くの国と多くの人々を惑わせ、恐怖させ、陶酔へと落とし、混乱に陥れた、とある女の名だ。
歌を歌えば、その声に思考が奪われ、微笑みを向けられれば誰もがその女に傅き、踊れば誰もがその姿に嫉妬する。美しい姿に誰もが夢見て、そして多くの者が、彼女を己のものにしたいと愛と支配欲をうずかせた。彼女は唄に歌われ、多くの戯曲と化し、国をまたいでに知れ渡った。
年頃になれば、彼女の国では王も王子も彼女の美貌に惑い、国政すら傾き始める。
そんな彼女を、国の宰相など重鎮たちは毒婦と罵るも、いざ彼女を前にすると、その姿に何も言えずに陶然とした。彼女は毒のように他人を愛に狂わせ、自身の哀れな従僕へ落とす。
陰ながら、その美しさを皮肉るどころかいっそ賛辞として、『毒花』とささやかれるも、彼女の魅了はとどまるところを知らなかった。
その毒花は誰の手に落ちるのか。
誰もが彼女の選ぶ先を憂い、嘆き、そして心を燃やした。ドレスも宝飾も、彼女に貢がれ、多くの芸術品が、彼女のもとへと送られた。
だが、ある日。
彼女は、美しく伸ばしていた髪を残して、忽然と姿を消してしまった。
彼女の行方は誰もつかめず、彼女は見つかることがない。誰もが彼女をほうほう手を尽くして探した。それでも彼女の行方は、依然としてつかめていない。
結局最後はそのようにして締めくくられた本を思い出す。
「カイヨワが彼女を定期的に見るのは、彼女の『血族魔術』のせいなんだろう?」
カガチは旅人で、人助けはしない。
だが、それでも逃げたいと請われて助けてしまったのは、その姿にやられたのもあった。
当時の毒婦のような、天然の他人を狂わせるその性質にカガチが惹かれてしまったのだ。
触れれば相手を焼いて、ただれさせるような、毒花。どちらかというと毒キノコのようで、彼女の国に滞在していた際は花に喩えるとは、毒のセンスがないなと思ったものだった。
そして、ロザリーの美しい毒の正体こそが、『血族魔術』というものであり、カイヨワの専門分野であり、呪われる羽目になった原因だ。
「・・・その内容まではわかっていないのか?それでは根本が解決しないぞ」
カガチはうっすらと笑って、応じられないと拒絶した。
ぐるり、と鼻にしわを寄せて牙を見せる姿は獣そのものだった。
あとすこしなんだけどな、とカガチはぼんやりと視線をそらした。
ロザリーの、周りを意図せず『愛させる』力は、はっきり言って異常だ。
人にだって好き嫌いはある。
それが千差万別、のべつまくなしに他人の関心を自分に向けさせ、自分に酔わせ、思考を奪う。他人に恋をさせ、愛させ、惜しげもない忠誠と心を向けさせる。
そんなものが、ただの性質なわけがない。
ロザリーに何らかの祝福か呪いがかかっているとみるのが正常だ。
それも強烈なものが。
実際、カガチは呪い除けをし、それでもロザリーを前にすると意識がくらみそうになっていた。そのため、他の術を遮断するための強い術をつかった。
それでようやく、彼女は美しいけれど、普通の人間のようだと思えた。
つまり、相当な祝福か、呪いを受けているとみるべきだった。
研究者があふれかえる図書の国でようやく、ロザリーはその力の正体を掴んだ。
カガチは最初、その力の正体を知るものを殺そうかと思った。だが、ロザリーに何かあったとき、今は発揮されない力がまた使えるようになってしまったら困ると、生かしておくことに決めた。
カイヨワも、他言しないという誓いをしてくれた。
だが見知らぬ他人など信頼ならない。
手っ取り早く他言させないために、カイヨワを呪った。
(この男に呪いをかけたら、それこそカイヨワに殺される)
セリニがカイヨワの代わりにと考えるように、カイヨワもセリニの代わりに呪われることを選んだのだ。
カガチはもちろん、カイヨワにセリニが呪われるか、己か選べと脅した。
カガチの毒は、相手が気づく前に摂取させることができる。
だからセリニを呪うなどたやすいとささやかれたカイヨワは、自分が呪われることを選んだ。
「・・・内容がわからなくとも名前さえ分かれば、この国で彼女の力を研究したいという者は跡を絶たないだろうな」
吹聴するぞ、という脅しに、カガチはにっこりと笑った。
「してみるがいい。名を知っているというのに、彼女については聞いていないのか?あれが本気を発揮すれば、そこらの王なぞ目ではない。すべからくひれ伏し、愛し、狂うだろうな。カイヨワも例外でなく」
彼女の眼は他人を魅了する魔眼。髪は手入れをすれば、光の反射と香りで他人を誘惑する魔術。白い肌はそれだけで他人の目をくらませ、笑顔は他人を愛させ、喜ばせ、狂わせる魔法陣の配置。
つまるところ、彼女自身が魔法になっている、『血族魔術』という魔法の一つだ。
血で継がれ、彼女のみが使うことのできる、固有の魔法にほかならない。
そんな国一つ崩壊させかけた力を抑えている方法を考えているのはカイヨワだ。
もちろん彼が人体と魔法について、とりわけ人間の血で継がれる『血族魔術』の研究者であるからこそ喜んでしているわけだが、その抑えている現状がなくなったらこの国もどうなるかわかったものではない。
(まあ、ビブリオテカはビブリオテカで、賢者と言われる勇者がいるから崩壊こそしないだろうが・・・)
「まーた言ってんのかよ、お前・・・」
呆れたような声にカガチが顔をあげると、横にひとり、軍人のようにがっしりとした体つきの男が立っていた。
金色の髪は赤みが入り、伸ばせば美しいストロベリーブロンドになる。だが面倒だと言って伸ばしたことはなく、いつも短く刈っていた。筋肉の多い体と、鋭い目つきも相まって、研究者というよりは軍人のような印象を受ける男だ。
「カイヨワ、すまん。だが・・・」
「うるせえ、いいからロザリー手伝ってこい。昼飯出してくれるんだとさ」
「だけど、」
うるせっつってんだろ、とぎろりとセリニをひとにらみすると、セリニは耳をしょんぼりと垂れて、とぼとぼと歩き去った。
その姿を苦笑しながらカガチは見送る。
「・・・セリニは本能的にいやで仕方ないんだろうな」
カイヨワはどかりと隣に腰かけると、カガチに服を脱げと命じた。
「いきなりなんだ?」
「いきなりじゃねえ。わかってんだろ。傷を見せろ」
なぜわかったんだという言葉は聞くだけ無駄だ。
動きがおかしいか何かで、感じ取っているに違いない。
「・・・大したことではない」
「それは医者である俺が判断することだ。てめえは黙って俺に体を見せろ」
カガチは仕方ないとため息をついて、上半身を見せた。
脇腹に傷を受けたが、幸いなことに人に助けてもらった。指も折れ、久しぶりに暴力に巻き込まれて傷を負う羽目になってしまった。
「ポーション使ったのか。内臓は元通りだな。げほ・・・だが出た血は戻ってこない。しばらく食って寝て養生しろ。腹の傷だけか」
ざっくりと体を見たカイヨワにそう診断され、カガチは苦笑した。
「指も折れたが、それはここでつないだ」
「しばらくは少しのことでも折れやすい。気をつけろ。回復魔法も万能ではないからな」
そうする、とうなずいて服を着こむと、カイヨワはちらりとカガチに視線を向けた。
「・・・悪かったな。セリニがうるさかったろう」
なぜ呪った本人に謝るのかとカガチは苦笑した。
カイヨワにしてみれば、呪われていることはある意味、道理が通っているのだろう。
カイヨワは研究したい。そしてロザリーは己の本名を秘密にしたい。カガチはロザリーの本名と力を隠したい。カガチがカイヨワを信用できないから、他言無用を誓わせたうえで、呪う。呪いは、他言した場合にカイヨワ自身を苦しめるものだ。
そして時折、忘れぬように苦しみをその身に生じさせる。
死に至るとカイヨワには伝えているが、カガチは殺すほどの強い『蟲』をカイヨワに入れてはいない。
「いや、セリニは人狼種だから、仕方ないだろう。まあ、あと2、3年だと思っている。ロザリーがポルターダを卒業すれば、ある程度、あの力の制御も会得できるだろう。そうしたらお前たちも子供ができる」
「あと2、3年か・・・かなり楽しく研究しているからこのまま研究したくもあるが・・・・・・・いや、待て、今なんつった?なんか変な言葉が聞こえたんだが?」
「セリニは人狼種だから、仕方ない?」
そのあとだ、とカイヨワは眼をすがめた。
そうすると、まるで悪人のようだな、とカガチは思った。この男が百重城にいても、あまり違和感はない。
「ガキっつったか?デキる?」
ああ、とカガチはうなずいた。
カイヨワが困惑を顔に浮かべる理由が分からず、カガチはお互いの間で違和感を覚えた。
「おいおい。俺は男だしあいつも男だ。ガキなんぞできるわけねえだろ。何を言ってんだ」
「・・・お前こそ何を言っている?セリニは人狼種だぞ?」
何かかみ合わないな、とお互いに首をかしげた。
カガチは違和感を取り払うべく、さらに言葉を重ねた。
「セリニが人狼種だから、俺の呪いを嫌がるんだろう?」
「なんで人狼種なのと、嫌がるのがイコールなんだ?接続詞でだからって続く意味が分からなん」
うわ、とカガチは思わず顔を引きつらせた。
嫌な可能性に気づき、眉根を寄せる。
この小さい男は人狼種の特性を知らないのだろうか、という可能性だ。まさかとは思うが、さすがにそれはない、と思いたかった。自分の恋人の話だし、自分の体にかかることだぞ、とカガチは頭を抱えた。
「・・・念のため聞くが、人狼種と性交渉すると、異種族だろうがなんだろうが、子供ができるのは知ってるよな?」
「・・・・・・・は?」
長い沈黙の後、出てきた疑問符に、カガチは口元を覆った。続く言葉がない。なぜ知らないんだという気持ちでいっぱいだ。
セリニの計画的なものなら、ここでつつくのは野暮のような気もして、カガチはぽかんとした顔をするカイヨワを眺めた。
「・・・・・・・何言ってんだ?」
現実を拒否しているのか、理解が追い付かないのか、そう問うてきたカイヨワに、カガチは呆れた溜息をついた。
「人狼種は人間の男だろうがなんだろうが、子供を仕込める繁殖能力があるだろう。だから一時期、どこの国だったか忘れたが、兵士として大量雇用されていたはずだ。強いし、増やしやすいのではと」
ただ、その計画は、人狼種が群れというものを形成したがる割に、愛したものしか性交渉しないという特性のため、うまくいかなかった。
狼は一夫一妻制で、人狼種もその本能を引き継いでいる。
そのため、基本的には相手ができれば、相手だけとしかしない。若いころはそうでもないという話は聞くが、基本的には一人の相手に一途な生き物で、だれかれ構わずということがなく、大量に増やすことができなかったと聞いた。
「いや、・・・・・・まあ、大量雇用の話は、聞いた、けど、よ・・・・・・」
唖然とするカイヨワに、カガチはいよいよ顔をしかめた。
「俺の呪いが、人狼種の繁殖能力を妨げるほどお前を弱らせているから、セリニは嫌で仕方ないんだろう。こんなこと、わざわざ言わせるな、これはお前たちの話だろう」
すまん、と謝るカイヨワはとりあえずといった風で、カガチはセリニを呼びに行ったほうがいいかと顔を背後へ向けた。
「・・・あれは、セリニの戯言かと・・・」
ぼそりとそんな言葉が聞こえ、カガチは呆れた溜息をついた。
「お前、医者だろう。セリニと出会って何年だ」
「・・・医者、だが、・・・・俺は助産婦じゃない。そもそも、俺は研究と人間を生かすのが並列しているから医者なだけで、セリニに出会うなんて予期してなかった・・・し」
「言い訳は見苦しいぞ」
うぐ、と言葉を詰まらせるカイヨワに、カガチはこれだから研究者は、とあきれた。
自分の専門分野と知的好奇心を満たすことにしか重きを置いていない。
いっそセリニが哀れだな、と同情した。
「今すぐ解いてやろうか、呪いを」
カイヨワが言いふらすような人間でないのはカガチもわかってきたし、呪いはあまり意味がない。あと2、3年は保険の意味もあるだけで、今解いても問題はないだろう。
「こ、困る!ガキができるとか聞いてねえ!」
声がでかいぞ、とカガチはいさめた。
それで呪いを解くのをいやがるのはセリニが可哀そうだ。
まあ、カイヨワは大混乱を起こしているようだから仕方ないのかと思うカガチのとなりで、カイヨワが何かに気づいたのか顔を上げた。
「まて、仮に、だが・・・俺がガキ孕んだらどうなる?ガキが育つ器官なんてねえだろ?」
それは仮にとつける意味があったのか、と問いたくなるほど意味がなかった。
そういう発想に至るということはつまり、カイヨワに子供を身ごもる可能性が高いということだ。
そしてそこをきちんと確認したがるあたり医者だな、とカガチは言葉を飲み込んだ。
「人間の男の場合は、・・・たしか腹の中に小さな部屋みたいなのができるらしい。だが、そもそも子供ができる体じゃないだろう。生む時が悲惨だと聞いたな。下から出ていく体じゃないから、腹を捌くと」
「・・・まじか・・・っう、げほ、ごほ・・・」
青い顔をした男に、しまったな、とカガチはセリニを呼んだ。
「おい、なんで」
呼ぶんだ、と顔をしかめた男に、カガチは何度目かわからない溜息をついた。
「そんな顔をさせたのは、自業自得8割と俺のせい2割だろう。お前の自業自得は、セリニに世話をさせるべきだ」
おかしいだろ、とぶつくさつぶやくカイヨワを放っておくと、セリニが慌てた様子で戻ってきた。
「なんだ!?昼食はあと少しでできる・・・カイヨワ!?顔色が悪いぞ」
「うるせえ」
がば、とカイヨワは立ち上がると、ロザリーを手伝ってくると、離れていった。問答無用で会話を避けたカイヨワに、セリニは困ったようにカイヨワを見送った。
「でも、おい、カガチ殿、一体何を」
カガチが何かしたと思ったのか、探るように見つめてくるセリニに、カガチは肩をすくめた。
「人狼種の特性をきちんと理解させただけだ。つまり、お前と子供ができるとな」
へ、とセリニは目を丸くした。
「・・・ええと」
理解させた、という点が、セリニにも意外だったようだ。
カガチはため息をこぼして頬杖をついた。
「・・・わかってなかったのか」
セリニの言葉にカガチは首肯した。
「セリニ、お前も悪いと思う。カイヨワは知らなかった、というか、信じていなかったぞ」
「その、なんというか・・・」
すまない、と照れたように顔をかいた男に、全くだと息を吐く。
「あんまりにもだったから、呪いを解こうかと言ったら困ると言われた。そのあたりはきちんと話し合え」
そうする・・・と目を伏せるセリニが、首をかしげた。
「カガチ殿は、呪いを解く気があるのか?」
「まあ・・・・ロザリーが独り立ちできるだけの知識があれば、カイヨワを呪う必要もないだろう。お前はなぜ呪っているか知らないままでも、そのうち呪いは解く」
カイヨワはロザリーと仲良くできているようだし、カイヨワも悪い男ではない。セリニもいい人間だし、ロザリーの助けになるだろう。
しゅる、と膝の上に角の生えた白蛇がやってくる。腕を伝って首に巻き付く姿に顔を緩ませた。
「・・・これは、疑問だったのだが」
セリニの声に顔を上げると、彼は眉根を寄せていた。
「カガチ殿は、ロザリー殿をどう思っている?」
「どう、とは?」
「いや、恋人ではないのは知っているが、カガチ殿にそういう気持ちはないのかと・・・」
ロザリーはわかりやすいからな、とカガチは苦笑した。
「愛しては、いる」
「だが、付き合いたいとか、いわゆる、独占欲のようなものはないのか?」
それを金色の目をした狼に問われることに、カガチはなぜか胸の痛みを覚えた。
〈げに美しき、〉金色の双眸。黄金の大地を駆け抜けた、いと赤き神。四つ足が王に仕えるために立ち上がる。敵だ、立たねばならぬ。二足の痛みの強きこと、なれどそれは民を守らんとする軍神の守護よ。風が鳴り、嵐よ来さん。かの軍神の前に、地に伏さぬものぞなかりけり。
そうカガチに歌を教えたのは、白い毛皮の人狼だった。
『求めてはならない。求めることは身を亡ぼす』
そういう戒律だった。カガチは愛しても、その愛を返ってくることは求めない。
というよりも、周りがそれを求めるものがおらず、それ以外の愛し方などわからない。
自分一人だけになってくれと願うことはなかった。自分と同じように思ってほしいと願うこともない。
愛されていてくれればいい。
たとえ不幸でも構わない。
愛されることを許してくれるなら、それでいい。
それを共有した、故郷にいた狼と同じ姿を持つセリニが、同じような善性をもちながら、カガチにそれでいいのかと問うてくる。
「・・・それは、教えを破ることになる」
カガチは目を伏せて、白い蛇をなでた。
「・・・カイヨワが、『書館の勇者』と赤い眼の軍師を心から追い出せないのと同じだ」
ビブリオテカにいる勇者は、とても勇者とは思えない小さな体をしている。
見た目だけはまだ年端もいかぬ子供だ。
がりがりに痩せた体に不釣り合いな、輝いた瞳をしていた。まるで餓えた猛獣のように、空色の双眸だけをぎらぎらと光らせている姿が印象的だった。
カガチも遠目に見たことがある。
かつて、ビブリオテカ国の中枢まで他国に侵攻されたことがあった。そしてそれは、他国の兵が侵攻し、図書館に至ってから、ふいに姿を現した。
宙に浮かぶ小さな体が、何も言わずに敵を薙ぎ払った。魔力があふれるだけで空気が歪み、あまたの竜と魔物を召喚し、すべての敵をせん滅させた。
まるで兵器のような、圧倒的な力だった。
カイヨワが、そんな小さな勇者に救いを求める気持ちが、カガチにもわかるほどに。
圧倒的だった。
「俺は、教えを追い出せない。カビの生えたような、古くて長い詠唱も。・・・俺たちは、相手からの愛は請わない。乞うてはならぬ。それは知れば眼窩を抉らねば耐えきれず、求めれば身を滅ぼす、と」
そういうものだ。
そういう風に教えられた。
忘れてしまったことも多くある。
死した霊に、祈りを捧げられない。信仰など、とうにどこぞに置き忘れてしまった。戒律通りに生きているわけではない。それでも、そういうものだと刻まれた教えが、カガチの中から出ていかない。
「・・・軍師というより、あれは戦争屋だったろう」
セリニの苦々しい言葉に、カガチは答えなかった。
赤い双眸の女だ。戦場に現れる軍師で、あらゆる局面を操り、そして仕える主を変え、金を積めば戦争を起こす赤い眼の女。
カガチも戦争時は呪いと毒で稼いでいた。だから時折見たことがある。
「・・・俺のこれは、そういうものだというだけだ。・・・・カイヨワと同じとまではいかないか。いい加減、そんな対岸の女なぞ、忘れてしまえばいいというのに」
カガチはそう思う。
だが、カイヨワはそれができない。
カガチができないのと同じように。
カイヨワは戦場を巡る医師団の一人だった。その手であまたの人間を救い、そして戦争の残忍さを直視し続けた男だ。
そして赤い双眸と対局した男でもある。
戦争から人を救う男と、戦争をはじめて人を殺す女。
カイヨワが救い切れなかった、災禍の中心だ。
「・・・同じようなものだな。すまない、私は余計なことを聞いたようだ」
セリニはふと顔をそらした。
手放しの理解だけでも、カガチからするとありがたいものだった。
カイヨワを例に出したとはいえ、生き方の違いを責められないだけ僥倖だ。
ひとは、生き方の違うものを許容しにくい生き物だと、カガチはよく知っている。宗教が同じでも、正義を争い、お互いを食らいつくす。姿が違えば恐ろしく思い、他種を排斥する。肌や髪の色が違うだけでも殺されるのだ。
カガチは殺された側も、殺す側も大量に見てきた。
姿の違う生き物が共生するには、この国のように、強大な力のもとにすべてが平等に貶められなければならないのだろう。
強大な勇者以外は、すべからく足元にも及ばぬ弱小であると。
この国の勇者は存在だけでそうして平等と自由を作り出す。
ある意味では女王に狂っていた日の輝く国もそうなのだ。強大な女王と言う存在のもとに、国民は自由であり、そして平等だ。
そして、強大さが表に出ていなくとも、所詮勇者は勇者。表に出ていないものは、ついこの間、百重城で出会った金色の髪をした少年のように、奥深くに恐ろしいものを飼っている。
「セリニー!やっぱり、カイヨワよりセリニだわ!」
「うぐ・・・」
戦力外通知を受けたカイヨワの呻く声を聴き、セリニは苦笑した。手伝ってくると部屋の奥へ戻っていくセリニを見送り、カガチはぐう、と伸びをする。
さわさわと風が通り抜け、カガチの髪が揺れる。緑の匂いは薄いものの、ここもいい場所だなと頬を緩めた。