石畳の道路、脇に聳える赤煉瓦の建物達。規則正しく整列する街路樹と等間隔で並ぶ街灯。和装、洋装の男女が往来に溢れ、自動車はお偉いさんを乗せて車輪を回す。職場やパーラーへと向かう人を詰めた路面電車(トラム)は、都内を巡り、ゆっくりと進んでいく。どこか新しくも懐かしい匂いのする、この時代は幻暦・天章。
都内でどこよりもが空の色が美しく生える町、ここ夕紫町が文字通り夕日によって橙色に、闇とともに紫色に染められていく。長い影を引き連れながら、長く緩やかな坂を人々の流れに合わせて、篭に風呂敷包みと漕ぎ手に少女を乗せた自転車がゆっくりと降りていった。藤色の矢絣柄の袖と、襟元までの髪に付けた長いリボンが気持良さそうに風になびく。
葛原夕月にとってありふれた、女学校までの登下校の交通手段だ。
「ユズーっ!」
あだ名を誰かに呼ばれ、女学生は坂を降りきった所で速度を緩めた。短くブレーキを利かせて、ゆっくりと道端に止める。振り向くと、髪を下の方で二つのお団子に分けた少女が息を切らせて走ってきていた。
「どうしたの。今日はピアノのお稽古じゃなかったっけ?」
「ちょっと用事をね、頼みたくって」
溌剌とした笑顔を返した安藤捺子は、風呂敷から幾つかの茶封筒を取り出した。
何、と訊ねる前に宛先で予想がついた。受け取った封筒の宛先は全て名の知れた劇団や芸能事務所の名前。彼女の夢は女優だった。前回は書類選考に掠りもしなかったが、今回も懲りずに送っているのだ。
「有名所ばっかり」
「当たり前よ、私にはコレがあるんだもの」
心から感心して呟く夕月の目の前に、財布の先に下がる根付けを見せつけた。焦茶色の組紐の先で揺れる小さな硝子製の靴。最近、女学生の間で流行している代物だった。
不幸な境遇にもめげず、最後には王子に見初められ、幸せを掴む灰被り姫の靴を題材にした根付け。いつ誰が買ったとも、売り出したとも分からない。しかし少なからず願掛けが叶うと有名になり、忽ち女性の間で有名になった。
数日前。彼女たちも、新橋の雑貨店に買いに出掛けていた。何度も書類選考に落ちている捺子は藁にも縋る思いで、購入に踏み切った。同行を頼まれた夕月自身は流行りものを欲しいと思わないが、出掛けるくらいならと、了承した。
しかし二人が着く頃には「売り切れ御免」の紙が売場に一枚、張り出されているだけだった。
「あーあ、折角買いに来たのに! もう、皆流行に乗り過ぎじゃないの!?」
買いに誘った捺子が言えた話ではない。それほど有名で人気なのだ。どこも次の入荷は未定。入荷を知ったら、すぐに完売。きっと行きに見かけた紙袋を持った笑顔の乙女や女性達はしっかり手に入ったのだろう。諦めきれない捺子は、毎日でも通い詰めそうな熱の入れようだ。
慰められても分かりやすく肩を落としていたが、突然立ち止まり夕月の袂を何度も軽く引っ張った。
「ねえ、あれって! そうよ、あれよ!」
返事も待たず、早足で路地に向かっていく彼女に夕月も慌ててついて行く。大通りから一歩入れば、そこには気味が悪いほど人がいない。人の気配、存在がないと言った方がいいかもしれない。薄暗い細い路地の片隅で、その根付けは売られていた。
「こんにちは」
人当たりの良い優男がふわりと二人に微笑んだ。こんな場所でなければ人目を惹く、まるで映画や舞台のスタアのような笑顔だった。いや、それ以上に女性を掴むことの出来る何かを持っているような気がした。
思わず見惚れた夕月達だったが、捺子はすぐその下で売られているものに食いついた。しゃがんだ捺子の手の中で、お目当ての根付けが煌めいていた。
「やっぱり! 見てよ、こんなところでも売ってるのね」
見つけたのが相当嬉しかったのか、満面の笑顔で財布を取り出し、早速値段を青年に訊いている。そしてどの組紐の色にするか悩みに悩み、結局流行の火付け役となった女優と同じ、焦げ茶色のものを購入していた。
夕月も青年から「如何ですか」と進められたが、そもそも今日は買い物に出るつもりはなく、持ち合わせも欲もない。やんわりと断って、紙袋をしっかと掴んだ捺子を連れてその場を後にした。
手に入れた根付けは効果覿面で、彼女は教師やクラスメイトから褒められることが多くなっていた。そして今日、効果を存分に発揮してもらおうと目的を実行に移した。
「なんだか調子いいし、絶対合格してみせるわ」
「でも、あれを持ってると人攫いに会うって話じゃない」
「心配し過ぎよ、ユズ。今更誰でも持ってるわ」
「それはそうなんだけど、さ」
世間にいい噂が広がれば、反対に悪い噂も芽を出し始める。光が強ければ強いほど影も濃くなっていくように、噂は表裏一体で広がっていく。
夕月が心配しているのは、最近頻発している女性を狙った誘拐事件だ。年も背格好も全く違う、被害者の唯一の共通点は流行りの根付けを持っていること。
それに乗じて、根付けの売れ行きを妬んだ誰かが「願いを叶える代わりに呪われる」とまた違った噂を広めていた。だが周りを見渡せば、身に着けている女は五万といる。明らかな証拠はなく偶然の一致にしか過ぎない。
気をつけるに越したことはないけど、考え過ぎよ。眉をひそめる夕月の肩を捺子が優しく軽く叩いた。
「で、封筒なんだけど東通り公園のポストに入れてきてくれる?」
「別にいいけど、そっちの道にもなかった?」
「あそこのポストが一番当たるって有名なの! お願い! いつもそこで入れてるんだから!」
どこまでも噂好きな親友の頼みを、夕月は苦笑しつつも断らなかった。
かたん。公園内にたたずむポストが美味しそうに書類を飲み込む。手を二回叩き、親友の挑戦が叶うように祈ってみた。彼女ほど夢に執着などもないが、かと言って無いわけでもない。
“少女、路頭に迷う。夕焼けに染まる寂しい空気を吸い込み、人生という長い中を振り返る。”
手を合わせて脳内を巡ったのは、まだまだ稚拙な文章だ。雑誌や本で読む、有名作家の流暢で洗練されたものにはほど遠い。
夕月の夢は女流作家だ。本の中で繰り広げられる幻想、恋愛、恐怖、冒険。いつからかその中に憧れ、生み出す作家に憧れていた。だがそう簡単に話が書ける訳もなく、今はまだ楽しく本を読む側でしかない。
彼女の夢は叶ってほしい。お守りの効力には敵ないかもしれないが、祈ってみる価値はある。
自転車に戻ろうとした彼女の目に止まったのはポストの足下で光る、硝子の靴の根付けだった。誰かの落とし物だろうか。中途半端にちぎれている紐の色は偶然にも親友と同じ、焦げ茶色だ。
引き寄せられるように拾い上げ、灯り始めたガス灯に翳す。硝子を介した光は歪み、綺麗だがいびつに反射した。
今は夕刻、黄昏時。「誰そ彼」と呼んでしまうほど相手との距離感、自分の居場所があやふやになる時間。此処とは違う世界へと誘う。
交番へ届けようと一歩踏み出した彼女の横で、さっきまで見ていた灯りがひとつ、光を消した。驚く間もなくそれは連鎖し、公園の街灯が全て消えていく。公園には純粋な夕日の赤さと、長く伸びていく濃い影だけが残っていた。
景色が少し変わっただけ、なのにいきなり別世界に放り込まれた違和感を夕月は肌で感じた。見慣れた場所にとって余所者であり厄介者にされている。空気が違う。足が動かない、動けない。
「お嬢さん」
後ろからの呼び声に、夕月は安堵した。声をかけられるだけで安心するほど不安に苛まれていた。ゆっくりと振り向いて、彼女は安心した体を硬直させた。
「お嬢さん、その手にあるものを渡していただけないかな?」
振り向いた先にいたのは猫だった。ただの猫ではない。彼は2本足で石畳に立っているのだ。上等な漆黒のスーツに身を包み、同じ生地のハットを被り、片手には円柱状の透明な飾りのついたステッキを持っていた。
身長は夕月よりも高く、灰色の毛並みに赤と緑が混じる不思議な色合いの瞳をしている。
明らかに考えられない姿に夕月は警戒する。もしかしたら、これが噂の人さらいなのかもしれない。そう思うと足が自然に震え、手を自然に握り込んでいた。「さあ」と手を差し出す相手に合わせて、夕月の体も後ろに下がった。
体が動くと気付いた瞬間、彼女は考えるより先に走り出していた。
これは夢なんだ。いつから見ていたのかわからない、もしかしたら本当の私はまだ午前中の授業中で寝ていて、先生にこっぴどく怒られるのを待っているのかもしれない。
怒ってでもいい。何でもいい。早く起こしてほしい。誘拐犯が猫人間なんて、ナンセンス過ぎてちっともおもくろくないじゃない。
「誰がナンセンスだと?」
「うわっ!?」
「逃げ出してもいい、だが逃げられるとは限らない」
逃れたはずの相手が、数歩先の街灯からが音もなく現れた。立ち止まって視線を噴水に移せば噴水の縁に座り、後ろを向けば元の場所から手を振られ、上を見上げれば電柱の先で烏と戯れていた。
なんと言うことだ。自分の夢に遊ばれている。夕月が夢だと思い込みたいのを見透かしたように、猫は言葉を続けた。
「夢だと思ってもらってもいい。ただし、渡さない限りは続くことになる」
「こ、これ、貴方のなんですか?」
「はっきり言えば違う。でも、必要なものだ」
相手の不思議の瞳は、奇妙な色の他に真摯な光を宿していた。夕月は無意識に大きく唾を飲み込んだ。彼の言うことは信じられないが、自分がこれを手放すべきだとは理解できる。
伸ばされた白手袋の上に、夕月は根付けを差し出した。その時、二人の頭上で大きな鐘の音が鳴り響く。こんな音は聞いたことがない。近くに教会は無かったはずだ。終わりと警告を告げるような、低く、頭に響く重い鐘の音。
渡したはずの根付けは猫の掌から弾かれ、煉瓦の上に転がった。それを目で追った彼は、遅かった、と呟いた。
「これは、もう君のものになってしまったようだね」
「え?」
「お嬢さんは、根付けと人浚いが関係していると信じてくれるかい?」
「な、何の話ですか……?」
「これの魔力は本物だ。魔力を使うことは契約、見返りのない話じゃない」
帽子を被り直した猫は指を何度かすり合わせた。弾かれたときに少々衝撃があったようだ。そして根付けを拾い上げ、ジャケットのポケットに滑り込ませた。
彼のいうことを信じるならば、魔力と言うものを使う見返りが自分に降り懸かる。無論、同じものを手にしている親友にも。
背筋を冷たいものが走っていった。夕暮れの肌寒さのせいではない。内からせり上がってくる、吐き気にも似た恐怖。捨てれば解決する問題ではないのだろう。一度交わした契約は成立するまで破ることなど出来やしない。
言葉が出てこなかった。浅い呼吸を繰り返す夕月へ、紳士は胸元から小さな紙を差し出した。差し出されるまま、それを受け取る。黒地に白字で何か書かれている。彼の名刺のようだった。
「出会えた縁だ、力になろう。だが、店でないと契約を切ることは出来ない。信じられないのなら破ってでも、燃やしてでも、捨ててくれたまえ」
一歩後ろに下がると帽子を被り直し、あいた右手を高々と挙げる。
「ご来店、心よりお待ちしておりますよ」
演技じみた調子で、彼は頭と手を同時に下げた。
声をかけようとする夕月の顔面に強く、突風が吹き付ける。思わず目を瞑り、開けるまで数秒。次に彼女の瞳が映し出した景色では、消えていた街灯が煌々と薄闇を照らし出し、遠くから自転車のチャイムや人々の話し声が聞こえていた。地に足が着いた感覚に軽く息をついた。
夕月は戻ってこれたのだ。しかし、手には猫の紳士から渡された黒い名刺をしっかりと握っている。
改めて見た名刺には“猫睛堂”という店名が克明に刻まれていた。