@Future__yours
風が冷たい。
雪こそ降らないけれど、身を切るような鋭い冷たさが、街ゆく人々の頬を撫でていく。
皆がコートに首をうずめて、いかり肩になって歩いていた。
「ここに来たのは初めてだけれど、お嬢さんの淹れるコーヒーは……なんだろう、僕には詳しいことはよく分からないけれど、とても美味しいね」
一人の老爺は穏やかに笑った。冬の午後の日差しが差し込むセピア色の店内で、達磨ストーブの上のやかんはぼそぼそ音を立てている。
「それはそれは、光栄なことです」
若い女も、つられるように笑んだ。やさしく、それでもどこかミステリアスな、やわらかい笑み。
女は手元のコーヒーセットを磨く。丁寧に隅々まで、一片の塵も残すまいというようなその仕草は、几帳面な彼女のたちを分かりやすく表していた。
「外はお寒かったでしょう。気が済むまで暖まっていってくださいね」
「ありがとう」
一日中焚きっぱなしの達磨ストーブが作り出す、電気では決して出せないあたたかさが小さな店中を満たしている。芯から暖まるような、温度を感じる店内だ。今日幾人目かの客であるこの老人は、ゆったりと、一時間ほどここに居座っていた。
「お嬢さん一人でやっているのかい」
「ええ」
「お嬢さんみたいに若い人がこんな珈琲店を、ふむ」
まだ若いのに偉いなあ、と老人がほくほくと言うと、女は小さく笑った。
「ふふ、お客さんからしたら私なんて赤ちゃんみたいなものかもしれませんけど、そんなに私も子供ではありませんよ」
ゆっくりと、優雅な仕草でその長い髪を耳にかける。
「はは、それは失敬なことを言ったな」
「いえ」
彼女は磨いたコーヒーカップを棚に入れる。食器同士の小気味よい音が、静かな店内に響いた。
街の中では目まぐるしく過ぎていく時間も、人も、物も、ここではすべて緩やかになる。現に老人はずっとここにいたし、前にいた客はぼーっとしたり、うたたねをしたり、本を読んだりと3時間ほども居座っていた。時計を見て慌てて会計をして出ていく風景は、この店では日常茶飯のことであった。
特段、女が何を言うわけでも、何らかのアクションを起こすわけでもないが、この店は何やら、妙な居心地の良さがあるらしい。
「そろそろ時間だ、僕としたことが思った以上にゆっくりしてしまったみたいだよ」
老人が腕時計を目にして立ち上がり、女は微笑みをもって返事をした。
またどうぞ、と閉まるドアに声をかけると、入れ違いにするりと黒い塊が入り込んできた。その塊は我が物顔で店の真ん中を闊歩し、机に飛び乗る。
「あら、ふくちゃん」
ふくちゃん、と女に呼ばれた黒い塊──まんまるとした猫は、彼女を一瞥して机の上に座り込む。短い尻尾が返事をするようにぱたりと動いた。
「困りますよ、机に乗っちゃあ」
お客さんの使う机なんですから、と女はその猫を抱き上げる。ふてぶてしくその腕の中に収まる猫は、華奢な彼女が抱えるとどんな猫よりも大きく見える。
猫を抱えたまま適当な椅子に座って、女はふうと一息をついた。だんだんと、窓の外は赤く染まっていく。
時計の音と、達磨ストーブの音、それから、時たま聞こえる車のエンジン音。
静かだ、ここは。
レトロチックな店内からは、人の温度がする。人の記憶が染み付いている。拭いきれない情が──良いものも、悪いものもすべて──、あたたかい木目から離れないのだ。
女は磨りガラスの向こうにやった目をすがめた。
──そろそろ時間だろう。
「ふくちゃん、おいで」
そう言うと女は店先に出て、珈琲店の看板をひっくり返した。街は、さっきよりも深い赤に沈んでいる。
「この夕日なら明日も晴れそうですねぇ。よいことです」
腰に手を当てて、ふんっと満足気に息をついた。
今日も誰かがやってくるようだ。なんとなく、直感でそんな気がした。たった一度きりの出会い、二度とここに来ることがないことを願う出会い。彼女はそんな出会いを、今まで幾度となく経験してきた。
寂しくはない。彼ら彼女らがより素敵な未来を歩むための手助けをしているのだから。
自分のことを覚えていなくても、その笑顔のほんの一片に自分の力があるのなら、何も不満なことなどはなかった。何しろ、他でもないこれが、彼女の仕事だ。
心からの本心である。
ぴゅ、と細い音を立てて冷たい風が吹く。女は反射で首をすくめた。
綺麗な黒髪が靡いて、そして軽やかな足音に振り返る。
「あの」
そこには、かっちりしたスーツを着て、こちらを惚けたように見ている女が一人。
「あら……」
少し不意の来客(普段は店内で客を迎えるものであった)に、思わず小さな声が出た。
すると若い女──すらっとした身長だが、まだ顔には幼さがある──は、慌てたようにこちらに向かって頭を下げた。ばっと音が出そうなぐらいに勢いよく。
「ちょっと、見てただけなんですけど、……素敵なお店、ですね!」
顔を上げてそう言った明るい陽光のような笑みは、見る者をあたたかくさせるような朗らかさを持っている。この寒い夕方に元気だなあ、と目を細める。
「どうもありがとうございます」
自然とこちらも笑みがこぼれた。
ということは、なるほど。
この爽やかな若人が、今日一人目の"客"だ。
客に年齢は関係ない。老若男女、これまで様々な人々がここを訪れた。だとしても、こうして若いのにここを見つけてしまうのは、何度経験してもなんとなく、いい歳をした大人としては寂しいものだった。
──しかし、彼女に何があったのかをここで推測するのは邪推だろう。
「なんのお店なんですか?ここいつも通ってるけど、見たことなくて……新しくできたり、しました?」
可愛らしく首を傾げる彼女にやんわりと笑んで、店の扉を開けた。
「入りますか?」
彼女はぱあっと顔を明るくすると、ぜひ!お邪魔します!と明朗な挨拶と共にドアをくぐった。ドアベルが軽やかな音を立てる。
いつの間にか、足元にいた猫は消えていた。せいぜいまたパトロールにでも行ったのだろう。
「どうぞ」
わあ、と小さな歓声が聞こえる。
「ほんとに、綺麗……」
嬉しそうにこちらを振り向いた顔に、笑みで返した。
彼女の笑顔は、あたたかい太陽に似ている。見る者も笑顔になってしまいそうなその笑みは、この温い空間にとても似合っていた。
「おかけになってくださいな。今何かお出ししますから、……ああ、コーヒーで構いませんか?」
流しに立ってそう言うと、彼女は座りながら勢いよく手を振った。
「あっ、いえ!あ〜……えっと、私実は、コーヒーが苦手で……お恥ずかしながら……」
子供みたいですよね、と恥じらうように顔を赤らめて笑う。コーヒーがどうこうよりも、私からしたらその仕草の方が子供らしくて可愛い、──とは言わなかったけれど。
「ふふ。それは失礼しました。それでは何がご希望ですか?お代はいりませんから」
「え?タダってこと……ですか?」
「ええ」
いよいよなんの店か──はたまた、彼女はここが店であることも疑い始めたかもしれない──分からないといった風に、彼女は眉を上げる。
「店ではありますけれど、お金は要らないんです。そもそも、飲食を提供することや物品を提供することが主旨の店ではないですから」
「はあ」
「ところで、コーヒーではなかったら、何がよろしいですか?ああすみません、強要するつもりはないので、喉が乾いていたら、っていうのと、お話のついでに程度のものです。要らなかったら仰ってください」
あ、と彼女は弾かれたように声を出した。
「えっと、じゃあ、オレンジジュース、ってありますか……?」
「かしこまりました」
戸棚からグラスを取り出して、氷を数個入れる。からりころりと、涼やかな音が耳に心地よい。爽やかな橙色の液体がグラスに注がれていく様子を、彼女はじっと見つめていた。
からん、とストローを差したと同時に、不意に彼女が言葉を発した。
「あの」
「はい」
「ここは、何のお店なんですか?こんなに素敵なお店なのに、今まで通ってた道に突然あらわれて、こんな……お金もとらないって言うし。あ、違いますよ、疑ってるわけじゃなくて……」
彼女は指を組んで、くいっとこちらに向かって顔を上げた。
「少なくとも、私にはなんのお店なのか見当がつきませんでした」
「ふふ」
あまりにまっすぐで綺麗な瞳に、つい笑みが零れる。
彼女は怪訝そうに眉をひそめた。
「ああいえ、すみません。……そうですね、大事なところをお答えするのをうっかり失念していました。私としたことが……」
猫の顔の形をしたコースター、その上にオレンジジュースを優しく置いた。そしてこちらもまっすぐ彼女を見つめて、
「ここは"未来屋"です。未来を、売っています」
「そして、私はこの店の主です」
「未来を売る……?」
「ええ」
どうぞ、と手でオレンジジュースを指すと、彼女は軽く会釈をして、両手で丁寧にグラスを包んだ。
「未来です。まあ、この名前はやや婉曲的ですが……実際は、過去を変えることで、今、ひいては未来を変えます。だから、"未来屋"です」
「うん……?」
「うふ、お分かり頂けなくても当然ですよ。非現実的な話ですから……それでもきっと、あなたはお話してくれるはずです。私には分かります」
私は何度も、あなたみたいな人に出会ってきた。
「ここは、"大きな後悔を抱える人"しか見つけられません。そういう店なのです。普通の人にはわからない。見えないから……ああ、少しだけ種明かしをしましょうか、」
「入口に、裏返した木の看板がありますね。あれの表は、まったく別の珈琲店の看板です。つまり、普段は珈琲店を営んでいます。裏返すと未来屋になるんですよ」
「そして、このお店はどこにでも現れます。……今回は、偶然、あなたのところに現れただけ。あなたが見つけただけです」
「──少しお喋りが過ぎましたね。つまり、この店を見つけて、そしてここに入ったあなたは、大きな後悔を抱えている方です。私は、そういった方々に未来を売っています。お金の代わりに、そのお話を引き換えに」
「──あなたのお名前はなんですか」
「え、あ、ひな、……月待陽、です」
「では、月待さん。……あなたのお話を聞かせてくれませんか。あなたはやり直したいことがあるから、ここを見つけた。大丈夫、誰にも言いません。あなたのお話も、私が言ったことも、すべてこの空間にしか存在できませんから」
「……」
「……店主、さん」
「はい」
「面白い話じゃないですよ」
「面白い話を聞くためにお尋ねしているわけではありません」
「……、」
彼女はすぅ、と深い息をついた。手の中に収まっているオレンジジュースは、ほとんど手をつけた様子がない。俯いた彼女がどんな顔をしているかは、こちらには分からなかった。
「……私は、店主さんのお話を信じてます。たしかに、ファンタジー小説みたいだけど……なんでだろう、なんとなく、よくわからないけど、信憑性のある話だと、思いました」
「それは光栄です」
「信じてもいいんですよね、私はやり直せるんですか?やり直してもいいんでしょうか、私が ほんとうに?」
落ち着きながらも、彼女の語気は強くなっていく。
「私は、やり直しても いいんですか」
一拍、沈黙が流れた。
「やり直してもいいから、あなたはここを見つけたんですよ」
彼女は虚をつかれたように顔を上げた。
「そういう場所ですから」
「……」
きゅ、とグラスを包む手に力が入ったようだった。
「……分かりました」
薄暗くなって静かな空間に、彼女の声はよく通る。
「店主さん、ちょっとだけ聞いてもらえますか。私の、話を」