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楽園への扉

全体公開 2 37006文字
2021-07-05 14:37:44

ソーシャルゲーム「Sky 星を紡ぐ子どもたち」のシーズンイベント「楽園の季節」の登場人物およびストーリーを軸にした二次創作となります。過去イチ妄想がはかどっていますので、何でも許せる方のみ御覧ください。

◼️引っ込み思案な読書家の話

 目を閉じて、耳を澄ます。

 聞こえるのは口笛のような風の音。軽やかに空を舞い、私をかすめては一所ひとところには留まらずにはるか遠く、空の彼方に消えていく。
 滝のように流れ落ちる水の音。島のくぼみに溜まった雨水が海へ還ろうとしては、届かずに霧散して島風に溶けていく。
 鼻で空気を吸い込むと汐の香りがして、こそばゆくなってたまらずくしゃみが出てしまう。
 目を閉じたまま顔をゆっくり上げると、太陽の強い日差しを全身で浴びていることが分かる。じりじりと音がしそうな光は体が焼けてしまいそうなくらい熱いが、それでも不思議と心地良い。

 ゆっくりと目を開く。
 最初に視界に飛び込んでくるのは一面の青。どこまでも続く空と世界の果てまで満たされているような海が境界線を曖昧にとろかして、夢の中でしか見たことが無いような幻想的な空間が広がっている。視線を少しだけ下にずらすと、一つの大きな島が海の真ん中にぽつんと座り込んでいるのが見えた。島の端から端まで歩くのに十分も必要ないくらいの小さな島だが、こうやって上から眺めるとそれなりの大きさに見える。いくつかの高い山と滝が島を実際よりも大きく見せているのだろう。その島を取り囲むように、小さな白い点が弧を描き優雅に飛び回っているのが観測できた。「それ」はこの島の名物のひとつであり、目玉のひとつだ。王国の領地の中でこの島だけが、彼らを見ることの出来る特別な場所なのだという。島の案内人は彼らのことを「マンタ」と呼んでいる。大昔この地の海に生息していた伝説の魚が名前の由来なんだとか。確かに、一対の翼と長い尾を使って空を飛ぶ様は水中を泳ぐ魚のように見えなくもない。自由に空を泳ぐ彼らはしかし、私が居るこの浮島まではやってこないようだった。
 ああ、ここには私以外何もいないのだ。それははしゃぎたくなるような解放感であったが、同時に少し寂しくもあった。ここには私を気にしてくれる人は居ない。具合が悪くなるから日差しに入りなさいとか、水分補給をこまめにしないといけませんよ、とかあれこれ世話をしてくれる人は傍にいない。それが煩わしかったのは事実だが、それが突然亡くなってしまうとそれはそれで物足りないような、何かが満たされていないような、そんな気分になった。
「アンタって、自分が我儘わがままなことを意識してないわよね。それが腹立つ」
 ここに来る船の中で姉がぽつりとつぶやいていたことを思い出す。昔から私と姉は折り合いが悪かった。好きなものも嫌いなものも全く違うし、意見が一致したこともあまりない。
 確かに私は他の人よりかずっと皆に迷惑をかけてしまっている。それは私にも自覚がある。でも具合が悪くなったり、調子がよくなかったり、自分の体調はコントロールができないことが多い。私が具合悪そうにしているときは、本当に具合がよくないんだから。それを我儘だなんて……やっぱり、価値観が違いすぎるのかもしれない。年だって結構離れているし。
 不意に、強い風が吹いた。私のまわりを遊ぶように羽ばたいていた蝶たちが風に煽られてバランスを崩す。つられた私もよろけて足元の草原に尻もちをついた。
「いたた……
 お尻をさすりながら、改めてひとりぼっちである事実が肌にみ込んでいく。慌てて駆けつけてくれる兄弟もじいやもここにはいない。このまま、誰も私を見つけに来てくれなかったらどうしよう。
 ダメダメ、悲観的なことを考えちゃ。今はバカンス中なんだから楽しいことをしなきゃ。
 姿勢を軽く整え、持っていた本の表紙をめくる。バカンスにもわざわざ本を持っていくなんて、と弟が怪訝そうな顔でぼやいていたのを思い出す。そんなこと言われたって私は弟のように躍動的に駆け回ることは出来ないし、父や姉のようにこの島だからやりたいことなんて簡単には思いつけない。それに本はどこで読んでもいいものだ。普段は自室や父の書斎でページをめくることが多いので屋外で、しかもこんな絶景の大自然の中で夏の日差しを浴びて読むというだけで私には大変刺激的だ。しかも今日持ってきたのはさる著名作家の冒険小説。弟のように駆け回ることが出来ないとはいっても、全くそれがしたくないかというと実はそうではない。もっと強い体を持っていたら、私だってあちこち冒険したりスリリングな経験を味わってみたい気持ちも無くはないのだ。どんなに実現が難しいことでも、本の中ではそれが叶えられる。
「ここにいらっしゃったのですね」
 数ページほど読み進めた頃、背後から急に誰かに話しかけられた。はっとして振り返ると、浮島の端、私が座っている場所と丁度真逆の位置に案内人が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「あ……
 咄嗟に何かしゃべろうとしたが、すぐに言葉が出てこない。あわあわとまごつく私を見て、彼は安堵のため息を吐いた。その仕草は私の心を落ち着かせるのに良いはたらきをしてくれたようだった。
「ご家族の方が心配していましたので、お迎えに参りました」
「ど、どうしてここが?」
「少し前に間欠泉の傍にいらっしゃったのをお見掛けしましたので、ここにご興味があったのかと」
 少しコツが要りますが、これを使えば空高く舞い上がることが出来ますよ。あの浮島にだって行くことができます。
 この島を訪れた初日に案内人がしていた説明だ。彼の指さす先には雲と海の間にぽつんと漂う土の塊────この浮島がはっきりと見えていた。弟は一瞬興味を持ったような顔をしていたがすぐにマンタたちに心を奪われ、他の家族も興味なさそうにしていたこの島。そこに他の家族から隠れるようにして来たはずなのに、彼には何もかもお見通しだったということか。それに気づいてしまうと何だか急に恥ずかしくなって、顔が赤くなるのを感じる。
「すぐに戻ってこられると思っていたのですが、なかなかお戻りにならないので私も気になっていたのです。もしかして具合がお悪く?」
「ああ! いえ、違うんです! ……その、降りられなくなってしまって」
 これは事実だ。本当は間欠泉を使って空の散歩を楽しんだらすぐに帰ろうと思っていた。ところが間欠泉に身を投じ空高く舞い上がったときに何の気なく眼下を見下ろしてしまったのが悪かった。想像以上に海面が遠く感じてしまい、恐怖で降りることが出来なくなってしまったのだ。必死で滑空と上昇を繰り返し、死に物狂いでここにたどり着いた時には高所から飛び降りる勇気が残っていなかった。無事に降りられるくらいの体力もない。考えなしに向こう見ずで突っ込んでいく弟のことを心の中で馬鹿だとなじっていた自分もまた、馬鹿だったのだ。
「なるほど、そういうことでしたか」
 案内人はそれ以上何も聞かなかった。私を笑うことも馬鹿にすることもなく、ゆっくりと此方に歩いてきて、それから私の隣に腰を下ろした。
 そのまま暫く静かな時間が続いた。どれくらいそうしていたのかはわからないが、お互いに会話をすることも、相応のコミュニケーションらしきことをするわけでもなくただ浮島での時間を過ごした。私は私ですぐに降りましょう、とか私につかまってください、といった優しい言葉が彼から出てくるものだとばかり思っていたので本を閉じてしまい、再び開くタイミングを完全に逃してしまった。我儘ってもしかしてこういうところ……なんだろうか。
「いいところですね、ここは」
「でしょう?」
 この島のことを褒めると、彼は自分が褒められているときよりもずっと幸せそうな顔をする、というのがうちの家族全員の共通見解だった。
「かつてはこの世の楽園、なんて名前で親しまれていたのですよ。今は、この場所の存在を知っている人の方がずっと少なくなってしまいましたが」
「そうなのですか? こんなにいいところなのに」
 言われてみれば、確かにこの島のことについて知っている知人友人はほとんど居なかった。博識で評判だった親戚のお兄様もこの島のことを聞くと首を傾げてそんなところあったかな、と仰ったくらいだ。私も父が持ってきた本の内容程度しかこの島のことを知らなかった。ここまで知名度が低いなんて、きっと大したことないんだわ。私を含めた父以外の面子の意見は珍しく一致団結していた。それが間違いだったと気づいたのはこの島に来た初日、夕暮れ頃に案内人が本島に静かに佇んでいた古びた鐘を鳴らした時だった。
 ごおん、ごん、ごおぉん……
 力強く鳴らした鐘に呼応するように、マンタの大軍が茜色の大空に伸びあがった様は巨大ないわし雲のようで、皆ぽかんとしてその光景を眺めていた。恥ずかしながら、私たちはこの時からこの島についての考えを改めざるを得なかった。こんなに凄いものがみられるのに、どうしてこの島は誰にも知られることなくこの海にひっそりと浮かんでいるだけなのだろう。案内人が指さした方向にはマンタの群れが泳いでいた。
「この島はあの生き物を保護するために封鎖されたんです」
 曰く、それは私が生まれるよりもずっと前のこと。
 この島には今よりもずっと多く、マンタが生息していたのだという。
「これでも、数が減っている方なんですか?!」
「はい、昔は今の比ではないほど、たくさん生息していたらしいです。王国全土で見かけることもあったという資料の記述もあります」
 この島だけではなく、王国のあらゆる場所で目撃情報があったのなら確かに数は減っているのかもしれない……事実、私の住んでいる辺りではマンタのことなんて話題にも上がったことがない。私が普段家の中に居るから知らないだけかもしれないけど、マンタという生き物を見るのもこれが初めてだった。
「私も文献の内容でしか知りませんが、昔はこの島を含めた群島に多くの人が住んでいたそうです。彼らはここに棲むマンタや海月クラゲたちとは共生関係にあったみたいですね。鐘はまだここに人がすんでいた頃の名残のようです」
 長い間ゆるやかに流れていた島の時間は、海面の上昇とともに群島のいくつかが海の底へと呑み込まれていったことにより打ち破られることになる。住処を奪われた原住民たちは仕方なく、王国の大部分を占める大陸へと移住していった。自らの意思で残った者たちも時間の経過とともに少しずつ数が減り、本島は一時的に無人島へと姿を変えた。
「それに目をつけたのが先々代の王の時代に盛栄をほしいままにしていた貴族や商人の方々でした。彼らはここをリゾート地にして売り出そうとしたらしいんです」
 計画はつつがなく進行し、観光客の受け入れ態勢も整いつつあった。しかし、時を同じくして王国全土の資源不足……特に施設の稼働に必要なエネルギー源の枯渇が深刻な問題として話題に上がるようになってきた。都を含めた大陸の中心部では日照時間が短くなるにつれ<光>の奪い合いが頻繁に起こるようになり、その矛先はいつしかマンタたちに向けられるようになったのだという。
「マンタには<光>を溜め込む性質があります。海月よりも扱いやすく、手懐けることが出来れば輸送も難しくない。それを利用しようとする人々が増えたんでしょう。王国全土からマンタは消え、一時期は滅んでしまうかもしれないくらい数が減りました」
「滅ぶ……
 頬を掠めた風が少しだけ痛く感じた。
「それを案じた先代の王が、この島をマンタの特定保護区域として国が護ることを約束してくださいました。私はその役割を前任者から受け継いで今に至ります」
 案内人は謙虚に、しかしどこか誇らしげに自らが羽織るマンタの形をしたケープを撫でた。彼は本当にこの島が、マンタたちのことが好きなんだ。彼には多分、本国がどうなろうが都がどうなろうが関係ないのかもしれない。この島に住んでいるのなら、この島で生きているのなら、今国で何が起こっているのかも、これから何が起ころうとしているのかも、無関係とまではいかないかもしれないけれど直接的な被害は受ける立場にはならないかもしれない。
「どうかしましたか?」
 彼が心配そうに私の顔をのぞき込む。私は自分で言うのもなんだが結構人見知りをするタイプで、仲のいい友達や家族以外の人には上手く話しかけることが出来ないことがコンプレックスだった。だけど、不思議なことに彼には私の何もかもを話してしまえるような、言葉では言い表せない穏やかで心が安らぐような雰囲気があった。だからかもしれない。私は気がつけば今まで誰にも話せなかったことを彼に向かって吐露していた。
「この国は……もう長くないかもしれません」
 父が通信装置で誰かと会話をしているところを偶然聞いてしまった。断片的に耳に届く内容で、都の現在の状況について話をしているのだと察することが出来た。
『呪いが』
『戦争が』
『災いが』
 思わず耳を塞ぎたくなるような、そんな言葉ばかりが聞こえてきた。
 もしかしたら父は、この島に、そういう目的で来たのかもしれない。
 私にはわからない、私の知らない大人たちの事情がそうさせたのかもしれない。

 もう、家には帰れないのかもしれない。

 荷造りをするとき、姉や兄が指揮を執っていつも以上に慎重に物をまとめていた。余計なものを持っていこうとする弟を叱りつけたり、私の荷物についてもアレコレ口を出していた。本当に大切なものだけ入れなさいとか、どうしても入らないものがあったらアタシの鞄に居れてもいいわよ、とか妙に細かい忠告をするのが確信を裏付けた。
「私……怖いんです。これから私たちはどうなってしまうんだろう。この島のマンタみたいに少しずつ減っていって、消えてしまうんじゃないかって。そんなことばかり考えてしまう」
……
 彼の雰囲気が少しだけ暗くなった。私の不安が感染うつってしまったのかもしれない。案内人は少しだけ考えこむ素振りを見せた後、おもむろに海の方にゆっくりと向き直った。
「気にしなくていい……なんて、無責任な発言は出来ません」
 それは繊細な言葉選びだった。厳かで、冷たくて、されど実直。私が家族や知り合いからかけられたどんな言葉よりも、身体の深く、心の底にゆっくりと落ちてきて静かに染み込んでいくような、優しさが含まれていた。
「ここには普段私一人くらいしかいないもので、国の情勢や病についての話はあまり聞こえてこない。だから私もどうすればいいか、気の利いたことは言えそうもありません」
 でも、と彼は大きく伸びをして立ち上がると、両手を広げて潮風を味わいながらこう続けた。
「貴女がそうやって心配してくれているだけでこの国はきっと幸せなんだなって、そう思いますよ」
 スケールが大きいんだか小さいんだか分からなくて、私はぽかんとして案内人を見つめる。彼は視線に気づくと、あくまで私の一個人としての意見ですがね、と恥ずかしそうに頭をかいた。
 変な人だ、と私は思った。でも、嫌いではない。
「そろそろ戻らなきゃ。じいやに怒られてしまうわ」
「そうした方がいいですよ。日が落ちると冷えますからね」
 大きく息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。
 そうしてもう一度見た景色は、先程までとは違って見えた。

「さぁ、手を」
……はい」


◼️海月の語り部の話
「姉さん、妹の姿が見えないんだけど。どこに行ったか知らない?」
「さぁ。その辺にいるんじゃないかしら? どうせそんなに遠くにはいけないでしょ」
 姉は砂を掻く仕草を少しも止めることなく、黙々と自分の作業を続けている。この島に来てからずっとこんな感じで、心ここに非ずという風に一日中砂浜とにらめっこしては、貝殻を拾い上げて嬉しそうにしている。
 耳を澄ますと遠くの方で弟がうわぁとかぎゃあとか、心底楽しそうな叫びをあげているのが聞こえる。どうせ昨日と同じように間欠泉でジャンプして遊んでいるのだろう。父は父で、昨日と同じように朝から蟹ばかりいるあの洞窟に籠っている。じいやは何しているか知らないが、昔から身体だけは丈夫な人だからきっと問題はないはずだ。
 そうするとやはり気になってしまうのは妹のこと。幼い時から身体が弱く、その上おっちょこちょいなところがあるため、少し雨に降られただけで翌日風邪をひいたり、少し目を離したすきに転んでけがをしたり、彼女のそういうエピソードについては語り出したらキリがない。僕の仕事は決まって転んだ妹の手を取って助け起こすような役割ばかりだった。
……探しに行こうかな」
 腰を上げると、洞穴の奥にいた海月が数匹こちらのほうへふわふわとやってきた。どうやら僕について行きたいようだ。
< なかま >
 海月の発する鳴き声には実は規則性がある。彼らは特定の音を使って仲間とコミュニケーションをとっているらしい。歴々の光動物学者たちによって比較的最近解明されたという驚くべき生態……それを、僕は学術書を読む前から知っていた。都の家の近くにこそ生息していなかったが、母や妹の療養のために何度も訪れた雨林の別荘の周辺にはわざわざ探そうとしなくても沢山の海月を見つけることができた。家族が忙しくて手が離せないときや兄弟と喧嘩をしたとき、一人になりたいときなんかに僕は家の外へ出ていって、海月たちとよく戯れていたものだ。彼らの鳴き声に意味があることに気づいたのもこの経験があってこそ。といっても、基本的に彼らが使う鳴き声は一種類だけ。
< なかま >
 自分達に危害を加えないもの、己が持つエネルギーを分け与えたいものに対して働きかけるときに使う鳴き声だ。他にも何種類かあるのだが、それらは滅多に使われることはなく、基本的に彼らが使うのは< なかま >のみ。彼らは基本群れて行動しており、時々はぐれた仲間に対してこれで呼びかけ、元の群れに戻そうとする行動をとる。これもまた本で読んだ知識ではなく、長年の海月の観察によって発見したものだ。もしかしたら既に学会では常識なのかもしれないけど、僕には専門的な知識も持たないしそれを学ぶ環境にも属さないから、本当のところはどうか分からない。
「ねぇ、ちょっと」
 洞穴の出入口に一歩脚を踏み出したところで、姉が急に顔を上げて僕に声をかけた。
「散歩するならバケツか何か持ってきてくれない? 思ったよりここ収穫ありそうでさぁ」
……はいはい」
 先程話した妹の話なんかとっくに忘れてしまったのか、普段より数倍傍若無人に見える姉に嫌気がさして、急ぎ足で砂浜を歩く。海月たちは僕が洞穴の外に出るとわかったのか、すぐに触手を引っ込めてすごすごと洞穴の奥へ帰っていった。強い日差しはあまり好きではないらしい。
 軽く辺りを見回したが、妹の姿は見当たらなかった。ここいらに居ないということは、島の反対側にでも行ったのだろうか。それとも、父の蟹捕りにでも着いていったのかな。臆病なのに好奇心だけは人一倍あるから、何をしでかすか分からない。うちの家族はみな好き勝手に行動する。まあ、僕もあまり人のことは言えないのだが。
 じいやからバケツを貰ってきて姉に渡すと、彼女はありがと、と一言呟いてから唐突に妹の所在についての話を始めた。忘れたわけではなかったのか、と内心驚いている。
「で、何処に居るか分かった?」
「いや、まだ見つけてない」
「はぁ? それって迷子になったってこと?」
「わからない。じいやのところにはいなかったから、あいつのところか、父さんのところかも」
……それがわからないうちは迷子って言うのよ。どっちにも居なかったらアタシを呼びに来て。一緒に探すから」
 姉は姉なりに心配しているのか。それが分かっただけでも少しほっとする。
 誰かと話すのは苦手だ。例えそれが気心知れた家族や友人であったとしても。これは僕と妹の共通項でもある。妹は人見知りが激しくて、とても社交的とは言い難い性格なのだ。でも僕はそれとはちょっと違う。どこが、とかどの辺が、と問われても簡潔にわかりやすくは伝えられないのだが、それでも確かにはっきりと違うのだ。
 例えるならば、それは「駆け引き」だ。常に相手の出方をうかがって、自分にも相手にも損の無い振る舞いをする必要がある。何年か前に父の代理で出席した、古くから付き合いのある家が主催のパーティーを思い出す。ご自慢の広い庭に丸いテーブルを並べて、外でお茶をするような感じの催しだった。几帳面に整えられた空間に真っ赤な薔薇がぎらぎらと咲いていたのをよく覚えている。僕は特に誰かにアプローチをすることも無く、ただ会場の片隅でお茶を飲んでいた。そこへパーティーの参加者が数人、結託したように連れ立って僕に挨拶しにやって来る。僕と同じくらいの年頃の人なら、僕に近づいてきた理由は「仲間探し」だ。女性なら「玉の輿」。少し年上なら「ご機嫌取り」。父と同じくらいかそれより上の人の場合は、僕を透かして父のことをそれとなく覗きたいと思っている人たちであることが多い。僕にはそれがすべてわかるから、彼らに対してどう振舞うのが正解なのかある程度分かっている。「仲間探し」なら、共通の話題を見つけて彼らの興味のある対象を把握し、あとは相手の自慢話に感心しきっている素振りを見せること。「ご機嫌取り」には相手が安心するような言葉を笑顔でいうのが効果的。「玉の輿」には興味が無い振りをしながらさりげなく容姿や見に着けている装飾品を褒めておけば後腐れが少ない。「探り」には極力自分が父に対して興味がないというアピールするのが手っ取り早い。あの人は何考えてるんだか息子の僕でもわからないんですよ、というように喋っておくと彼らは波が引いていくようにすうっと僕から離れていく。
 パーティーに限った話ではない。誰かと話をするとき、相手が何を考えていてどんな言葉を欲しているかをいつも考えてしまう。僕が労力を割いて選んだ返答に満足してしまう相手も、その状況を自ら作り出してしまう自分も嫌いだった。相手の感情が分かってしまうことに罪悪感を覚え、自分の持っている感情が相手に透けて見えてしまうのではないかといつも怯えている。
 何もかもが煩わしかった。
 その点海月はいい。彼らには感情というようなものがない。嬉しい。悲しい。苦しい。怒り。そういったものとは無縁の生活をしている。自分たちにそういうものがないから、相手からどんな感情を受けても動じずにいられる。疲れたりもしない。感情豊かな弟や、好きなものにしか関心のない姉や、頼りない妹、楽観的すぎる父、気難しい使用人なんかの話を聞いても、何も感じないのはきっと楽だろう。
 本当はそういうものに僕はなりたかった。感情や情緒とは無縁の生活。ただゆらゆらと、彼らの周りに漂ってありのままに思いを受け止める。
 母もそうだったのだろうか。
 弟を産んでしばらくして病気で亡くなった母。生前の母の記憶はとても穏やかだったことしか覚えてない。いつもにこにこしていて、父の機嫌の悪いときや使用人の小言や姉の癇癪なんかにも動じず、ゆらゆらとふわふわとただ物事を受け流していた海月のような人。感情がなかったわけでは無いだろうが、彼女が精神的に辛そうにしているところは見たことがない。その立ち振舞いに僕たち家族はいつも救われていたように思う。
 詰まるところ、海月のようなものになりたいっていう僕の願望は「母のようになりたい」という風に集約されてしまうのだろうか、と気づいたところでなんだか急に恥ずかしくなった。姉にこれを知られたらきっと笑われてしまうだろう。男の癖に、アンタ長男坊なんだからしっかりしなさいよ、とかね。
 弟の遊んでいる丘に行こうとしたとき、この島の管理人が仰向けで原っぱに寝転んでいるのを見つけた。息が上がっているらしく、全身びっしょりと汗をかいている。急病かと思い慌てて駆け寄ると、どうやら直前まで弟と一緒にマンタたちと戯れていたらしく、力尽きて休憩している最中だという。なんて紛らわしい。
「いやぁ、弟さんは本当に元気でいらっしゃいますね。あの方を見ていると私までエネルギーをいただいたような心地がいたします」
「弟に付き合ってもらってすみません、あの子の面倒を見るのは疲れるでしょう」
「いえいえ、私も童心に返ったような心地で楽しませていただきましたよ。ちょっとばかり自分の体力を過信していましたが……
 心の底から楽しそうな声で喋る彼を見て、先程まで燻っていた心が少しだけ和らいだ気がした。彼のとなりに腰を下ろして、眼下に広がる空と海を眺める。
「ねぇ、管理人さん」
 ぴく、と彼の肩が揺れる。管理人は急に上体を起こし、私の方を見ながらそわそわとかもじもじ、といった擬音が似合いそうな仕草を何度か繰り返した。
「その、何かお気に触るようなことを言ってしまいましたか」
「あっ、いえ、そういうわけでは……私のことは出来れば『案内人』と呼んでいただけないでしょうか」
 ふ、と気が抜けた。大したことではなかったらしい。
「何が違うんですか? あなたはこの島の管理もしているから、管理人で間違いないでしょう?」
「それはまあ、そうなのですが……
 ぽりぽりと頭をかく管理────案内人はなんとも言えない複雑そうな顔をした。
「管理っていう言葉、あんまり好きじゃないんですよね。私は自分の意思で勝手にやってきて勝手に住み着いているだけ。この島も、生き物も、誰のものでもないはずなんです」
「昔は違う場所に住んでいたんですか?」
「はい。貴殿あなた方と同じように都に住んでいたこともありますよ」
 なんだかとても意外だった。初めて彼の姿を見た時とても都会の人間には見えない、きっと産まれたときからこの島で生活していたんだろうと兄弟間で話していたことを思い出す。
「どうしてここに……この島に来ようと思ったんですか」
 案内人は少し考え込むような素振りをしたかと思うと、不意にいたずらっ子のような表情を浮かべ、近くには誰もいないのに小声で囁いた。
「大きな声では言えませんが……
 案内人の仕草につられて僕は彼の口元に耳を近づけた。そうして放たれた言葉は、

「ヒトが嫌いだったからです」

 ……
 …………
 ……………………

「えぇえ?!」
 マンタが好きとか、海が好きとか、この島に思い入れがあるから、というようなありきたりな理由だと思っていたのもあり、自分でも驚くくらいすっとんきょうな声が出た。
「そんなに驚くことでしたか?」
「いや、流石にそれは予想してなかったから……
「まぁいろいろ他にも理由はあるのですが、一番の理由はこれですね。ほら、この島って私以外に住民が誰も居ないでしょう? 煩わしい対人コミュニケーションとは無縁の生活を送れるからすごく魅力的で……
「そんなに嫌いならどうしてうちの家族を受け入れたりしたのさ?」
「私が受け入れたんじゃなくて、貴殿方が勝手に許可証を申請して無理矢理入ってきたんじゃないですか。ここは元々観光地でしたが、今はマンタの保護区として封鎖されている場所ですよ? そこにわざわざ観光に来るだなんて、どんな変わった御仁たちなのだろうと考えていましたよ」
……で、実際どうだった?」
 案内人はまたごろりと原っぱに寝転がって空を見上げた。僕もそれを真似る。どこまでも透き通るような青い空の底では沢山の白い影が気持ち良さそうにゆらゆらと泳いでいる。
「思った通りでした。いや、思っていた以上に変わっていて……想像よりずっと素敵な方たちでしたよ。ヒトが嫌いな私ですら惹かれてしまうほどに。勿論、貴方も」
……そうかな」
「海月の言葉が分かる方なんてそう居ませんよ。それに、」

 貴方ほど他人に優しすぎる方にも、お逢いしたことはありませんよ。
 そう言おうとして、口をつぐんだ。この言葉はきっと言わない方がいい。彼には重荷になってしまうだろう。だから、私は代わりに別の言葉を贈ることにした。

……そんなに肩に力が入っている御方もそう居ません」
 言われて気がついた。妙に肩が重い。首もガチガチに凝っている。こんな穏やかな場所に来ているというのに、いろんなことを考えていたせいで無駄に緊張してしまっていたのかもしれない。大きく伸びをしてぐるぐると肩を回すと、身体の奥底でもやもやしていたものが、すっとどこかに居なくなっていた。耳元を心地よい風が通り抜けていく。
「< なかま >」
「わぁ、すごい! 鳴き声を真似ることも出来るんですね。今のは何という意味ですか?」
「『僕たちは何だか似ていますね』って言ったんです」
「へぇ、なるほど……貴方が仰るなら、そうかもしれませんね」
 くすくす、と幼い子供のように笑い合う。僕たちは似た者同士。ならば僕だって彼のように、誰の顔色も伺わずに自由に羽を伸ばして生きられる日がやってくるかもしれない。それがいつかは分からないし、本当にそう在れるかどうかも怪しいけれど。似たような者がどこかで同じように苦しんで、それでもなお生きていると思えば、これからやってくるかもしれない苦難の日々も少しは安らぎを得るだろう。

「あぁ、そうだ。かん……案内人さん、うちの妹を見かけなかった? さっきまでその辺で本を読んでいたような気がするんだけど、姿が見えなくて」
「あの、蝶々のお召し物をされていたお嬢さんですか? そういえば見ていませんね……ちょっと探してきます」
「すみません、お手数をお掛けしてしまって」
「いえ、お気になさらず。なんとなく検討はついていますので……


◼️感謝する貝殻収集家の話
「はあぁ~……
 大きく息を吐いたら、ついでに声に出てしまった。隣にいる島の案内人がこちらをちらりと見やる。
「そんな風にため息をつくなら、ここまで集めなければよかったでしょう」
「返す言葉もございません……
 アタシの手元にはバケツ一杯半分の貝殻の山がある。この島に来た初日から今日までに集めた山盛りの宝物。アタシたちは今その宝の山を崩して土産として持ち帰る物を選定している真っ最中だ。これでもかなり減った方。当初は拾った貝殻は全部持ち帰るつもりだったのだが、複数のバケツを占有しっぱなしで他のことに使えないのと帰るときに荷物になるからという理由で父と使用人にこっぴどく叱られたので泣く泣く貝殻の選定作業を始めた、というわけだ。案内人はアタシの収拾行為に加担したという理由で同罪として手伝ってもらっている。申し訳無さすぎる。弟たちには呆れられるし、妹にも私より子供っぽいですねと苦笑され、今日の夕飯は父が採ってきた蟹を茹でた奴が一匹だけ。さすがにはしゃぎすぎたな、と目下大反省中である。
 気がつけば日はとっぷりと暮れ、家族はみんな明日の出発に向けて早々に寝てしまったようだった。揺らめくランプの灯りに貝殻を透かしながら、一つ一つ丁寧に慎重に残すものを見定めていく。規則正しい形のもの、ぐにゃぐにゃに曲がっているもの、欠けているもの、集めている途中にバラバラになってしまったもの……大きすぎては持ち帰れないし、小さすぎては無くしてしまうかもしれない。ほどよい大きさで、かつ出来るだけ本来の姿をそのまま保っているものを選び採り、そうでないものはある程度溜まったら砂浜に返していく。
「なかなか減りませんね」
「アンタはもう寝て良いわよ。後はアタシがやっておくから」
「しかし……
「いーのいーの、何かお父様に言われたらアタシが言ったんだって言えば良いから」
 全てを持ち帰れないのなら、本当に良いものだけを残さないといけない。妥協はしたくなかった。案内人は何かを言いたそうにしていたが、服についた砂を軽く払うと寝所にしているという洞穴の方へ静かに戻っていった。それを横目で見送り、再び貝殻の選定作業に戻る。
 初めて貝殻に興味を持ったのは亡き母の遺品を整理しているときだった。母の部屋は母が亡くなった後も長い間手付かずのままにされていた。誰もなにも言わなかったが、皆心の中では「掃除してしまったら母の生きた証まで無かったことにされてしまいそうな気がするから」と思っていたに違いない。アタシがそうだったのだから。だがそれも下の弟が自分の部屋が欲しいと言い出すまでだった。弟のために家族総出で母の部屋を片付けていた最中、上の弟が部屋の奥で埃をかぶっていた箱を見つけたのがきっかけだった。
 中に入っていたのはアタシたちの知らない母の記憶だった。着ているところを見たことがない古い型の洋服、色褪せた花柄のハンカチーフ、見知らぬ誰かからの手紙が何通かと、父が贈ったらしきアクセサリーの数々、そして粗い織り目の繊維質の布で造られた袋。袋の中には手のひらに収まらないくらいたくさんの貝殻が丁寧に仕舞ってあった。一枚貝や二枚貝、巻き貝や角のついた貝もある。そのどれもが海とは縁遠い宝物たちの中で一際異彩を放っているように見えた。もうとっくの昔に死んでいるはずなのに、ゴツゴツした表面に触った瞬間もう一度息を吹きかえすんじゃないかと錯覚するくらいの命の鮮やかさと艶かしさ、そして飾らない奥ゆかしさを兼ね備えている……その美しさにアタシはすっかり虜になったのだ。もし海に行く機会があったら、絶対に貝殻を拾いたい。アタシも、こんな凄いものを手に入れたい! と本気で思うようになり、父に海につれていって欲しいと何度もせがんだのも今となっては良い思い出だ。
 ぴた、と頬に温かいものが張り付く感覚で現実に呼び戻される。振り替えると、案内人が二人分のお茶を持って微笑んでいた。
「ありがとう……でも、どうして」
「乗り掛かった船ですからね」
 彼はそういいながら私の隣に腰を下ろした。受け取った器からは湯気が立ち上ぼり、花を近づけると仄かにこの島に咲く花の匂いがした。この島に来てから毎日のように飲んでいるお茶だが、今日のは特別美味しく感じる。
「ずっと聞こうと思っていたのですが……こんなに貝殻を集めて、どうするんですか?」
「どうもしないわよ。ただ集めて、集まったのを見てにやにやしたいの」
 はぁ、と彼は理解に苦しむのか、困ったような顔でぽりぽりと頭をかいた。
「アタシたちって普段海が見えないような陸地の真ん中に住んでいるのよね。だから海自体が珍しくってさ」
「それなら、こうして貝殻を拾ったりすることも」
「ええ、今までの人生でほとんどやってこなかったわ。だから今私はとっても貴重な体験の真っ最中なの」
 そうして周りが見えなくなるくらいのめり込んだ結果がこれである。
「アンタこそ、どうして私を手伝ってくれたの?」
 案内人がバケツの山をまた少しだけ削る。
「お嬢さまが、楽しそうに集めていらっしゃいましたから」
「え、アタシのせいだって言うつもり?」
「半分くらいはそうです。もう半分は……私も楽しかったから」
 彼は恥ずかしそうに続けた。普段気にも止めなかった貝殻に興味を持つヒトがいたこと。とても楽しそうに作業をしていたこと。見つけた貝殻を持っていくと大仰な仕草で喜んでくれたこと。自分自身も少しずつ興味を持ち始めたこと。
「世の中にはまだまだ自分の知らない、楽しいものがあるんだなあと再確認できました。これもお嬢さまのお陰です」
 なんて、明け透けな言葉。下心も腹心も無い飾らないお礼の言葉。こんなふうに話をしてくれたヒトはとても久しぶりで……いや、やめておこう。明日には去る島の住人に特別な感情なんて抱かない方がいい。
「もう誰かから聞いたかもしれないけど、アタシたち、この旅行が終わったら疎開するの」
 使用人も眠るくらい夜も更けた頃、雨が降りだして窓ガラスが微かに曇っていたのが部屋の灯りを反射して仄かに光っていた。まるで昨日のことのように思い出せる。父の書斎に呼び出されたときは何に付き合わされるのかと思ったが、穏和でいつもにこにこ笑っている印象の父がいつになく真剣な眼差しでこちらを見るので、ついに『その時』が着てしまったのだと、アタシには理解ってしまったのだった。
「都からはなれた遠い遠い山の中に別荘があってね。アタシたちのお祖父様が昔買ったものらしいんだけど、そこに行くんですって。そこに行ったら、もうこんな贅沢は出来ないわ。戦争が終わるまで慎ましく、密やかに生活をするの」
 そんなこと、私に話していいんですか? と言いたげな顔で案内人は此方を見つめる。事情を知った国民の何人かには怒られるかもしれないが、そんなの大したことではない。役人や戦士たちは自分たちのことで精一杯だし、私たちがいなくなったところで誰も困らないだろう。父の知り合いたちも少しずつだが遠方の地に疎開する計画を立てているらしく、何人かはもう実行に移しているという話だ。みんなで逃げれば怖くない、とはよく言ったもの。それに彼にこの話をしたって広める相手なんかきっとしばらくは来ないだろう。
「その時にね。ここの貝を持っていきたいの。貝殻を見れば、ここの素晴らしい景色や、思い出を考えられるでしょう?」
 どんな物にも、見る人触る人次第で物語が生まれる。きっと本の虫である妹も私の考えには賛成であるはずだ。あくまでも、私の主観的な予測でしかないけれど。
 病弱な妹は生前の母によく似ていた。大人しくて控えめで、いつも受動的な姿勢で誰かが手を差し伸べてくれるのずっと待っている。母も妹も嫌いではなかったけれど、どうも私と彼女たちは相性が最悪のようで、それは母が亡くなってからも変わることはなかった。寧ろ、時間が経てば経つほど苦手になっていく。だからこの密やかな計画は、私にしては大変珍しい希望的観測というふわふわした明け透けなものが原動力だったりするのだ。
 彼はアタシの話を黙って聞いていた。その横顔が何を考えているのか、アタシにはわからない。
「そういえば、あなたはどうするの?」
「私、ですか?」
「もし戦争が始まったら。きっとここも無関係ではなくなるわ。戦場になるかもしれないし。行く宛の無くなった人たちがここに避難してくるかもしれない。そうしたら、あなたはどうするの?」
 案内人は考える素振りを見せず、即答した。
「どうもしませんよ」
「えっ」
「だから、どうもしませんよ。ちょっと対策みたいなことはするかもしれませんけど、いつも通り、私のすることはなにも変わりません。島の見回りをして、砂浜の掃除をして……なにもかもいつも通りにするだけです」
 その言葉は少し意外だった。
「どうして」
「貴女たちはこれからこの島のことを思い描きながら暮らしていくのでしょう。そんな、貴女たちの思い出の島が変わってしまったら嫌じゃないですか?」
 手が止まる。
「あ、違いますよ。貴女がそう仰ったから決めたわけでなく……元よりそのつもりだった、ただそれだけです」
 案内人は罰が悪そうに呟いた。
「だから、また来てくださいね。いつかあなたたちが来るときのために、私はこの島で待っています」
 何と言って言葉を返せばいいか分からなかった。ありがとう、ではとても無責任な感じがする。そんなことしなくていいのに、では彼の真っ直ぐな気持ちを無下にしてしまう。アタシって、こんな優柔不断だったっけ? そのまま、長い沈黙が続いた。
……あ、そうだ」
 彼はアタシの集めた貝殻のひとつをつまみ上げながら言った。
「私にも貝のことを教えていただけないでしょうか。マンタのことには詳しいのですが、貝は専門外でして。あなたから教わった知識があれば、私もこの先しばらくは退屈しないでしょう」
 うやうやしく掌に貝殻をのせて眺めるその眼差しは、昼間にマンタを見上げているあの目と同じだった。
 あぁまったく、この人には勝てる気がしないや。
「いいわよ! じゃあまずは巻き貝からね。これとこれは一見同じもののように見えるけれど実は全く違う種類で……


◼️奮い立つ怖いもの知らずの話
「おーい」
 日課の島の見回りをしていると、どこからか何かの叫び声のようなものが聞こえてきた。
「おーーーい、」
 叫び声というよりは呼び声かもしれない、と思った。だが、辺りを見回しても声の主らしき姿は見えない。
「違う違う、そっちじゃないよー! こっちこっちー!」
 いやこれは、
「真上か?!」
 頭上を仰いだ瞬間、上空から真っ逆さまに落ちてくる影が太陽越しにはっきりと見えた。
「危ない!」
 慌てて両腕を広げると、勢いよくそれは腕の中に落ちてきた。勢いに堪えきれずよろけて尻餅をつき、そのまま背中から地面に倒れ込む。とっさのことだったが、頭を打つことは避けられたようだ。
……
 衝撃に備えてぎゅっと閉じた目をゆっくり開けると、私が数秒前に受け止めたもの……島のゲストのうちの一人と目があった。彼はしばらく呆けたような顔をしていたが、突然堰を切ったかのように大声で笑いだした。
「あはははは! あー面白かった! あははははは!」
 あまりに大きい声だったのでたまらず耳を塞ぐ。最近の子供ってみんなこんな感じなのだろうか? 流石に笑って流せることではなかったので、ご家族に何といわれるか分からないがとりあえず叱ることにした。
「もう、気を付けてくださいって言いましたよね?!」
「あっはは、今のはオレでも流石にヤバいかなって思っちゃった。助けてくれてありがとね!」
 借り物のジャンプスーツに身を包んだ少年は満面の笑みを浮かべた。彼は、今この島に観光旅行に来ている家族の一員で、もっとも年若いひとりである。もともと一家がこの島に来た時から、彼らが抱えている全体的な雰囲気を見るに、なにか並々ならぬ思いを抱えてこの島を訪れているのは何となく感じることが出来ていた。だが、彼からはそういう、後ろ向きな空気を感じることが一切無かった。彼から溢れるのは真夏の太陽のような、キラキラと輝くオーラばかり。家族が抱えこんでいる事情がわかっていないのか、理解した上で堂々と明るく振る舞っているのかはわからないが、その一挙一動は家族のなかで一際異彩を放っているように見えた。
「貴方に何かあったら私が責任を取らなくてはいけないんですよ……もう少しリスク意識を持っていただきたいです。そうしていただかないと飛行を禁止しないと行けませんし、貸し出しているジャンプスーツも没収いたしますよ」
「げ、それだけは勘弁……わかったよ、もうちょっと気を付ける」
 それから私はしばらくマンタと空を飛ぶ少年を見守っていた。また同じようなことをされてはたまったものじゃない。この島のマンタは国指定の保護対象動物だ。だが、マンタたちを檻のなかに丁寧に閉じ込めておくことはできないし、それはマンタのためにもならない。彼らはとても友好的な種族で、私が近づくだけで嬉しそうに鳴いたり触って欲しそうに近づいてくることもある。その慣れやすさが過去の大乱獲に繋がる原因でもあったのだが……元々そうなのだから、それをわざわざ奪ってしまおうだなんてとんでもない。彼らにはありのままに生きていて欲しい。普段であれば私が彼らの相手をするのだが、私には少年の他にも面倒を見たり世話を焼いたりしないといけない方々がいらっしゃる。だから、彼がマンタたちと仲良くなることは私にとってはそれなりに好都合であった。
「ふへ~、ちょっと休憩するかぁ」
 しばらくすると少年は疲れたのか、地上に降りてくるなり大の字になって草原に寝転んだ。汗をかいているようだが、満ち足りたような清々しい表情をしている。
「どう? オレ、上手くなったかな」
「そうですね、まだまだ危なっかしいところはありますが、この島に来たばかりの頃に比べたら幾らか落ち着いて見ることが出来ますよ」
「そっかー、えへへ」
 彼はくすぐったそうに身をくねらせ、体全身で嬉しさを表現していた。
「でもさっきみたいな危険なダイビングはやめてください。海の上でも地面があるところでもダメですからね、私との約束ですよ。それと、水分補給はしていますか? 脱水症状は熱中症を引き起こす原因になりますから……
「オジサン、うちのじいやみたいなことばっかり言うんだな」
「お……オジサン?!」
「だってオジサンだろ、オレからすれば、アンタは父ちゃんと同じくらいに見えるけど」
 あまりの衝撃でよろりと揺らめいた。オジサン……って。さすがにそれは無いだろう?! そりゃあ確かに君のお兄さんやお姉さんよりは年上だけどね、君のお父さんよりは若いんだよ?! と言おうかとも思ったのだが、逆に負け惜しみに聞こえてしまいそうなのでグッと堪えることにする。偉いぞ私。
「ま、まぁ、好きに呼んでくださって結構です……
「あ、そうだ、ずっと前から気になってたんだけどさ」
 私の内なる葛藤など知りもしないだろう少年は勢いよく上体を跳ね起こし、私の纏うケープをまじまじと見つめた。
「これかっこいいよなぁ! マンタの形してるやつ! なぁ、これどこで買ったの?」
「これは買ったんじゃなくて、頂いたのですよ」
 白く艶やかに煌めく一頭のマンタを模した一枚。日に当てると光を反射してうっすらと煌めく彼らの肌までそっくりに真似られた至高のケープ。私がこの島の管理をすることになった時、その地位を示すものとして勲章代わりに賜った逸品だ。あまりにも勿体無さすぎて普段は丁寧にしまっており、お客様がいらっしゃるときにだけこうして身に纏うことにしている。と言うようなことをかいつまんでお話しすると、少年は目をいっそう輝かせてスゲー! オレも着てみたい! と仰った。着けるだけなら……と何処にも行かない約束をして、彼の肩に自分のケープをかけてやることにした。
「おお……
 緊張の面持ちの中に堪えきれない嬉しさが滲み出ている。少年はくるくる回ったりほんの少し宙を浮いたりしてケープの感覚を楽しんでいたようだったが、意外にもすぐに私にケープを返してくれた。
「へへ……これ着たらマンタと一体になった気持ちになれるかなって思ったけど、凄すぎてキンチョーしちゃって、着けてるのが恥ずかしくなってきちゃった。オジサンって凄い人なんだな」
「そうですよ、実は た だ の オジサンではないのです」
「オレもそれ、いつか貰えないかなぁ」
 強調した言葉もどこ吹く風といった風に彼はうっとりと呟いた。これが一点ものだと知ったらどんな顔をするだろう。
「そういえば……峡谷で何年かに一度行われる競技大会があるのはご存知ですか?」
「知ってる! アレすっごいよなー! オレも見に行ったことあるらしいんだけど、小さすぎて覚えてないんだ。またいつか行きたいなぁ」
「今はもう廃止されてしまいましたが、かつてはマンタに乗って飛行技術を競う競技があったそうですよ」
「マジで?! 何それ! チョーカッコいいじゃん!!!」
 これは本当の話だ。私がまだ王国で仕事をしていた頃に聞いた話で、廃止された理由はこの島が息を潜めるようになってしまったのと同じだという。
「もし、マンタたちが今よりも増えたらきっと競技が復活するかもしれません。そしたら……
「そしたら、オレも参加できるかな?! もしいい成績が残せたら、このケープを貰えたりして……うわー、やる気出てきたー!!!」
 少年の雄叫びに引き寄せられるように、マンタが何体か此方にやってくる。彼はどうやら島のマンタたちにとても好かれているようだった。この島に来て初めて挑戦したというマンタとの飛行も間欠泉を使ったロングジャンプも数日の間に完全にマスターしてしまった。正直、私よりも上手い。それもこれもマンタたちの支援があってこそ。純粋な心がマンタを惹き付けるのか、それとも真夏の太陽のような熱い魂が心地よいのか。マンタたちとじゃれ合う少年を見ていると少しだけジェラシーを感じてしまう。
「なぁオジサン、オレ、頑張ってもう少しマンタたちと仲良くなるよ! そんで、いつか峡谷の大会に出る! オレの夢は今決まったぞー!」
 おぉー、と拍手をする一方でこんな大事な人生の決断を私が援助してしまってよかったのだろうか……と急に後ろめたい気持ちが湧き上がってくる。彼は次男とはいえ、名のある名家の当主のご子息だ。きっとその夢を叶えるための道は簡単ではないだろう。
だが、それが何だというのか。風の噂では、本国では情勢が何もかも悪い方向に傾いているという。それを聞いたとき私は例えようのない悲しみを感じたものだ。しかし、それは地位や血統などの肩書きはこの先意味を持たなくなるということを示唆するも同義。そうすれば、きっと彼にもチャンスが回ってくるに違いない。今は純粋に幼き挑戦者の誕生を祝福しよう。彼に必要なのは重く苦しい現実ではなく、輝かしい未来なのだから。
「ねぇ、そういえばオジサンには夢とかないの?」
「夢ですか? そうですね……


◼️ハイキングする気難し屋の話
「はぁ、はぁ」
 ひと息つくために突いた手を通して冷たい岩肌の感触が伝わってくる。この時間帯は島の中心部に腰を据える山々が陰になって、登山道には光が届かない。だが冷たいのは山の側面だけで、空気は常夏のリゾート地そのものだ。今日は特に天気がいいから蒸し暑く、汗が滝のように流れ出ているのがわかる。まだ太陽が頂点に達していないのにも関わらず既にタオルはしっとりと濡れている。
「はぁ、はぁ」
 息が上がっている。全身に酸素を回そうと心臓がどくどくと脈打っている。最近まともに運動をしていなかったのが裏目に出たのか、それとも年のせいなのか。いつもよりも疲れるのが早くなったような気もする。情けない、これでも旦那様たちにお仕えする使用人の長だと言うつもりであるのか。まぁ、この家の使用人はもう私しか残っていないので誰かと比べようがないのだが。
「流石ですね、山登りがわかっていらっしゃる歩き方です」
 先頭を行くのはこの島の管理をしている人物だ。彼には事前の打ち合わせから今日に至るまで、何から何まで世話になりっぱなしになっている。朝は朝食の準備を手伝ってもらい、昼は旦那様を含めたご家族の方々に手厚いフォローを行い、夕方から夜にかけてはこの島に生息する凶暴な蟹たちの見回りを行い、人一倍早くさっさと寝てしまう。温厚で博識で世話焼き、それに何事にも動じないマイペースな性分であるというのが彼に対する私の印象だ。上の坊っちゃんからは案内人と呼んで欲しいと言われたと聞いているため、私も彼のことは案内人と呼ぶことにしている。
「本当にここしか道が無いのですか?!」
「ええ、景観を保持するために、出来るだけありのままの姿を残すことにしていますので」
 事の発端は上のお嬢様の朝食でのお言葉からだった。
『ねえ、じいやはこの島の生活をちゃんと楽しめてるかしら? 今日一日くらい休んだらどう? 家族の事は私とか父さんがしておくからさ』
 私としては普段通り雑事をこなしているだけのつもりだったのだが、お嬢様は私がバカンス中にも関わらず仕事をしていることに違和感を感じたようだった。私としては仕事の傍ら休憩時間に海を眺めながらお茶を嗜んだり、旦那様の捕ってこられた蟹の殻を観察したりしてそれなりに楽しんではいたのだが、お嬢様たちにとってそれは『楽しむ』の範疇に入らないようであった。
『それは出来ませんよ、折角のご家族の休暇ですのに私めがそのようなことを』
『いいじゃないか、じいやは僕たちにとって家族みたいなものなんだから、気にすること無いよ』
『そうだぜ! たまにはホネを伸ばしてゆっくりすれば良いじゃん』
……それを言うなら羽を伸ばす、では?』
 坊っちゃんたちも加わって私が些か劣勢になり始めた頃合いに旦那様がぽつりとこう仰った。
『そういえばキミは昔、趣味で山に登っていたそうじゃないか。この島にも山があるんだし、折角だから登ってくればいいんじゃない?』
 そうだ、それがいいね、と私の使えるご家族の皆様は一様にうなずかれ、純粋な善意で案内人に私を島の頂上へ連れていくようお願いしたらしい。あれよあれよという間に命綱や登山靴が支給され、気がついたときには私たちは男二人で山を登る羽目になっていた。ご厚意そのものはたいへん嬉しいのだが、なんと申し上げればよいか、複雑な心境である。
 しかもこの山、つるりとした見た目通り大変登りにくい。彼の言う通りできるだけ観光地として景観を損なわないようにしたのであろう登山道はほとんど舗装されておらず、険しい山壁に僅かばかりの心許ない足場が堪えず続いているばかりであった。命綱がなかったら進むことさえ恐ろしく感じてしまうほど。下のお嬢様の運動に良さそうであればお連れすることも考えたのだが、とてもそのような気にはなれなかった。
「はぁ、はぁ」
 それでも私は歩みを止めることはなかった。若いころから一度も治ったことがない頑固な性格だというのもあった。だがそれよりも、若い頃に暇を頂いて登りに行った山々のことを思い出さずにはいられなかったからだ。旦那様が仰った通り、昔はよく休暇をいただいて山に登っていた。どの山もよかった。それぞれ異なる魅力があり、等しく美しかった。なだらかな斜面に高山植物が生い茂るような緑豊かな山、どこを進んでも岩ばかりで足をひねってしまいそうになった険しい山、天を突くほどの高い山に登ったこともある。強い風が吹いていても、冷たい雨が降っていても、荒れ狂う吹雪の中を歩くことになったとしても、登頂した瞬間の晴れ渡るような喜びに比べれば堪えうることができた。ああ、それに比べればこの山は大したこと無いな。歳を取ってしまったこともあり、思うように進むことができないけれど、今まで歩んできた道のりを思い出すと不思議と口から弱音が出ることは無かった。
「もう少し行けば頂上ですが、少し休みますか?」
「いえ……! 大丈夫です、このまま、行きましょう!」
 案内人は私の言葉を聞いて、少しだけ微笑んだように見えた。少し汗をかいているように見えたが、それ以外は息を荒くすることもなく、すいすいと山を登っていく。若いということもあるだろうが人並み以上の体力があるように思えた。本人は久しぶりだと言っていたが、それはあくまでも私に合わせた言動であって、ひょっとしたら普段から何度もこの山に登っているのかもしれない。
 太陽が島の真上に通りかかる頃、私たちはようやく山の頂上へ到達した。小さなトンネルを抜けた先にはお屋敷にある旦那様の寝室と同じくらいか、それよりも小さい面積の草の生えた地面がぽつんとあるだけであった。小さくはあるがこの島で最も高いところらしく、視界を遮るものがほとんど存在しない。ぐるりと辺りを見回しても遮蔽物は遠くにぽつぽつと点在している浮島か、さらにその遠くに見える夏の様相をした大きな積乱雲くらいしか見当たらなかった。私は息を整えるために大きく深呼吸をした。
「あ、じいや!」
「うわっ!」
 目の前に急に下の坊っちゃんが現れたので、私はたまらずよろめいた。案内人が私を慌てて抱き止める様子が可笑しかったのか、ぼっちゃんはとても愉快そうな声でお笑いになられた。
「あっはは、ごめんごめーん! そんなに驚くとは思ってなくてさ!」
 坊っちゃんは群れのなかでも一際大きいマンタに騎乗していらっしゃった。確か『それ』は、島を囲むように飛び回る群れのリーダーのような存在だったはずだ。初日に案内人が嬉しそうに喋っていたのを覚えている。振り替えると、当の本人は目を丸くして坊っちゃんたちを見ていた。
「乗せて貰ったんですか、彼に……?」
「うん! さっき仲良くなったんだ! なんか連れていきたい場所があるみたいでさ。これからそこに行ってくる!」
「粗相の無いようにしてくださいね! それと、危ないことはしない!」
「分かってるって! じゃあなーっ!」
 坊っちゃんが手を振ったのがまるで合図であったかのように、マンタが大きく一声、辺りに響かせるように鳴いたかと思うと、一人と一匹は空高く舞い上がっていった。
「そうか、彼が……ううん、凄いなぁ……
 案内人はなにか特別な思いがあるのか、坊っちゃんたちの飛んでいった方角を見つめながら独り言を呟いていた。
 坊っちゃんを見送ったあと、背中に鞄とともに背負っていたビーチチェアを開いて、二人でそこに腰を下ろした。水筒から冷たいお茶を取り出し二人で分け合う。そのまましばらく、私たちは山の上から眼下に広がる雄大な大自然を眺めていた。
「まったく……坊っちゃんたちには毎度手を焼かされます」
「ははは……そうですね」
 彼は昨日まで坊っちゃんに付き合ってマンタたちと飛行訓練をした話を聴かせてくれた。元々素質があったらしくコツを少し教えるだけであっという間に上達したこと、彼のジャンプに見惚れたのかマンタが次々集まってくるようになったこと、途中から上の坊っちゃんも見に来るようになったこと。
「今まで見てきた中で最も輝いて、楽しそうにしているとお兄様が仰っておりました。普段はあれほど活発ではないのですか?」
「私からすれば、坊っちゃんが元気すぎるのはいつものことで御座います。都の御屋敷に居るときもしょっちゅう悪戯ばかりしていて、使用人たちを困らせる天才で御座いました。ここ最近は落ち着いてこられたように思っておりましたが、どうやら私の勘違いだったようです」
「あはは、それはこの島のせいかもしれませんね。都の方々からすればここはとても開放的に見えるでしょうから」
 案内人さんは何だか話しやすいの。下のお嬢様ははにかみながらそう仰っていた。普段は内気で初対面の御仁とはほとんどお話にならないあのお嬢様がそう仰ったときは思わず耳を疑ったが、確かにこうして同じ時間を共にしていると、彼には思っていることを何でも喋ってしまいそうな危うい気持ちになる。旦那様が彼に我々の事情をどれくらい話しているのかはわからない。使用人である私にはそれを追求する資格がない。そのためこういう場合には細心の注意を払わねばならない。ゆえに、私は坊っちゃんたちについての話をしようといつも以上に集中していた。
「坊っちゃんは私について何か言っていましたか」
「ええ、大層気難しい方でいらっしゃると。融通が利かなくて考えが古くて、怒られてばかりだと仰られていました」
……私にそんなことを言ってよかったのですかな?」
「私の口からわざわざ聞かなくてもどうせおわかりになっているのでしょう」
「まぁ、そうではあるのですが」
「それと、少しだけ心配もしておられましたよ。怒ってばっかりで、ずっとイライラしているように見えるから気が休まる時間がないんじゃないかって」
「はぁ、大きなお世話というやつでございますな。私だって好きで怒っているわけじゃないんですよ」
「そうでしょうね」
「はい、まったく……今なんと?」
 あんまりにも自然にするりとその言葉が彼の口から出てきたので、思わず聞き返してしまった。
「この前、あの方が危ないマンタの乗り方をしていたので注意したんです。そうしたら、『じいやみたいなことを言うんだな』って言われたんですよ。貴方は皆さんのことをとても大切に思っていらっしゃるんですね」
……そう、見えますか」
「はい」
 上の坊っちゃんが私の事を家族のようなものだと言ってくださった時、なんだかとても満ち足りたような、くすぐったいような感覚がした。普段から厳しい言葉をかけてしまいがちだという自覚はあった。だから、嫌われていても当然だと、そう思っていたのだが。
「当然です。もうずっと長い間お仕えして参りましたから。血こそ繋がってはおりませんが、家族のようなものでございます。家族であるなら、もう少しお給金をあげて欲しいものですが」
「あはは、それは旦那様にお伝えくださいね」
 彼は下の坊っちゃんのことだけでなく、他の方々の普段の様子も知りたいようだった。私の話でよければ、いくらでも話してやりたいところだが、肩の力が抜けたのだろうか……疲労も相成って急に眠気が遅い来てしまう。
「お休みになられて大丈夫ですよ。私が見ていますから」
 うとうとと微睡む心地よい感覚に呑まれ、いよいよ寝てしまいそうになったとき、小さな声が耳に届いた。
「家族か……


◼️くつろぐ日光浴者の話
 かぁん、かぁん。
 金槌を叩く音が空洞に響き渡る。
 かぁん、かぁん。
 反響した音を聞いて蟹たちがぎいぃ、と歪な鳴き声を上げる。どうやら蟹を捕りすぎて彼らに警戒されてしまったようだ。少し前までは姿を見ただけで目の色を変えて一直線に突っ込んできたのに、今や私が洞窟に足を踏み入れただけで散り散りになって物陰に隠れるようになってしまった。生態系を壊してしまっていないかなぁ、不味いかなぁコレ。案内人は最近蟹が増えてきたから減らしてくれるなら多少のは目外しは大目に見ようとはいっていたけれど。ここの蟹が魅力的すぎるのが悪いのだ。そう、こういう都合の悪い話は全部蟹に請け負わせるから大丈夫だろう、きっと。
 ざり、ざり。
 金槌とは違う音がしたので顔を上げると、島の案内人が穏やかな顔をして立っていた。
「今日もここで蟹漁ですか」
「うん、特にやることもないからねえ。この洞窟は日が入ってこないから涼しくて快適だし」
 かぁん、かぁん。
「そういえば、昨日はありがとうね。うちの使用人を山まで連れていってくれたでしょう。彼もきっと楽しかったはずだよ」
「そうでしょうか……
 案内人は申し訳なさそうに頭をかいた。仕方ないといえば仕方ないのだが、昨日久しぶりに山に登ったうちの使用人は、今朝筋肉痛と微熱でダウンした。翌日に筋肉痛が来るなんてまだまだ若いね、なんて思ったが主人の旅行について来た挙げ句病弱な娘よりも先に倒れるなんて、奴のプライドは既にズタズタだろうから言わないでおくことにした。長い付き合いだから分かるとも。
 娘といえば、下の娘はこの島に来てから随分明るく、そして元気になってきたように思える。とてもいい傾向だ。ほかの子どもたちも元気一杯で、思った通りに事が運びすぎているような気がして、少しだけ不安になるが、それは贅沢な悩みというものだろう。彼らの元気の理由にはきっと目の前の男が一枚も二枚も噛んでいるに違いない。今や彼はうちの家族の誰とも気兼ねなく話ができるくらいには仲が良くなっていた。人付き合いが得意な方ではないと言っていたが、それはきっと彼が優しい性格だったこともあるのだろう。
「いやはや、それにしてもここの蟹は美味しいね。身が締まっていて、噛んだ瞬間甘味が口一杯に広がる。やはり、環境が良いのだろうね」
「はぁ、私はほかの場所の蟹を食べたことが無いので違いがあるのかもよくわかりませんが」
「そうなのかい? 勿体無いな。それなら今度送ってやるよ。都の養殖蟹は食える味ではあるけどそれだけだし、私の別荘がある雨林で捕れる蟹も味はそこそこだけどちゃんとした処理をしないと青臭かったり泥臭かったりで台無しになってしまうのさ」
「そんなに違いがあるのですか」
 案内人はあまり興味が無さそうに、私が地面に散らかしている剥いた後の蟹の殻を踏まないように避けながら私の隣にやって来た。
「ということは、今まで食べた中で一番、この島の蟹が美味しかったと」
「うーん、どうだろう。確かに美味しいとは思うんだけど、一番ではないような」
「おや、これよりも美味しい蟹に出会ったことがあるのですか?」
「そうだね。甲乙つけがたいところではあるけど、やっぱりアレが一番美味しかったかなぁ」
 蟹、砂地、薄暗い洞窟、それに揺らめく蝋燭の明かり。なんだか急に懐かしい気持ちが込み上げてきた。
「私は若い頃、軍で働いたことがあってね」
 え、と案内人の口から声が漏れる。
「といっても前線で戦っていたわけでなく、親戚のコネで空いている役職に入れて貰ったお飾りのような存在だったけどねぇ。勿論在籍しているときは尊敬も信頼も得られなかったよ、はっはっは」
「笑い話なんですかそれ……
「はっはっは。笑い話にしないとやっていられないからねぇ」
 全くである。
 職場に赴けば軍隊上がりの同僚や自分よりも高い階級の家柄である上司に嘲笑われ、戦場に赴けば名目上の部下たちに蔑んだ目で見られた。虐めとは呼べないような酷い扱いも受けた。同じ頃に配属された同僚は数日後に辞めていたが、馬鹿にされたままでは終われないと死に物狂いで仕事を、仕事の合間に勉強をした。その姿勢が功を奏したのか、在任最終日には虐めもいびりもすっかり止んでいて、いまでも時々連絡を取り合う知人もできた。今となっては遠い昔の話だ。
「そこで戦士たちに蟹の食べ方を教わったんだ。あのとき食べた蟹は身がスカスカで、あまり良いものではなかったけどね」
 そういえばちょうど今くらいの季節だった。かつて戦場だったという薄暗い地帯でキャンプをすることになり、固形糧食をテントの中で齧っていた私を部下が呼びに来た。外に出ると何やら焚き火に棒を刺して何かを焼いている。泥臭いような、土臭いような、あまり良いとはいえない臭いに鼻を摘まみたくなる気持ちもあったが、差し出された黒い塊を受け取ったときは何だか訳もなく嬉しかった。殻を槌で割って、湯気のたつ蟹の身をナイフで抉り出し、恐る恐る口に運ぶ。相変わらず悪臭がするのだが、
「でも何故か旨かったんだ。不思議だよね」
「ここの蟹よりもですか?」
「そうなんだよねぇ。未だにこれを超える蟹には出逢ったことが無いんだ。質は明らかにこの島のやつの方が高いはずなんだけど」
「思い出の味、というやつなのでしょうかね」
「そうかもねえ」
 どんなに質が悪くて不味いものでも慣れ親しんだ味の方が俺ァ好きだな。
 誰よりも一番蟹を食べていた男がそう言っていたのを思い出す。それならどんな高級食材でも不味いと言い張れるのかと問うと、そんなの食べたこともないからわからんと答えたので、私は任期が過ぎたら食べさせてやるから家に来いと言ってやったのだ。彼はそれを誰より楽しみにしていて、

 任期が終わる三日前にはぐれ竜に食われて死んだ。

「ひとつ、お伺いしても宜しいでしょうか」
 ふと顔を上げると、いつになく神妙な面持ちで案内人がこちらを見ていることに気がついた。
「私に答えられることであれば」
……今の王都が機能していないというのは、本当なのですか」
 がぁあん。
 金槌を打ち損じ、蟹の足が潰れた。地面に当たった金槌の音が洞窟いっぱいに反響する。生きている蟹たちがそれに驚いて何匹かひっくり返って足をバタバタさせているのが視界の端に見えた。
「誰から?」
……下のお嬢様からです」
「む、あの子は口が軽いんだか堅いんだかわからないね。死んだ私の妻にそっくりだ」
 私は金槌を置いて、彼を洞窟の奥の方へ呼び寄せた。万が一幼い子供たちの耳にはいってしまわないようにせめてもの配慮として辺りを軽く見回す。幸いにもここにいるのは私たちだけのようだ。今まで口に出すことすら恐ろしく憚られたこと。されども彼には「それ」を知る権利があるはずだ。私はそれを伝えなければならない。そんな気がした。
「国王が崩御なされたんだ」
 暗くてよく見えなかったが、確かに案内人が息を飲む気配がした。
「元々御病気を抱えていらしたんだ。それについに負けてしまった。おそらく今までで一番惨い戦いが始まるだろうねえ。蝕む闇も私が見てきた中でも過去一番の繁りを見せている。暗黒竜たちにとってこれほどの好機は無いだろう」
「だ……大精霊様、は、」
「死人に我らの何を救えると思う?」
 一度だけ大精霊様にお逢いしたことがある。妻の葬儀の時に我が家にお呼びして、妻の魂を天にお還ししていただいたのだ。初めて見る彼の方は言葉では言い表せない、厳かで静謐な空気を身に纏っていた。葬儀が滞り無く終わった後、心ばかりの謝礼をお渡ししている時にいきなり上の娘が飛び出してきて、大精霊様に泣きついたのだ。
『返して! お母様を返してよ!』
 滅多に泣くことの無かった気丈な娘から出たとは到底思えない弱々しく未練の募った言葉につい狼狽えてしまい、大精霊様から彼女を引き剥がすことがなかなか出来ないでいた。彼の方はしゃくり上げる娘の頭を優しく撫でて一言、
『すまない』
 そう言い残して帰っていった。娘は呆然と立ち尽くし、私は震える手で彼女を抱き寄せる事しか出来なかった。彼らの役目はただひとつ。出来ることはたったひとつだけしかない。そんなものに私たちは救いを乞い、ただただ奇跡を待つなんて、愚かしいにも程がある。

『今年のバカンス中に家の改修工事をして貰おうと思ってるんだ。だから、島での滞在が終わったらそのまま家に帰らずにお祖父様の別荘に行きなさい。長い間使われてなくて埃っぽいと思うから使用人をつれていって掃除して貰うといい』
『お父様はどうするの? 一緒に行かないの?』
『そうすると家に誰も居なくなってしまうだろう? 私は帰るよ。業者のとやり取りをするヒトが必要だからね』

「これから……どうなされるおつもりで」
 案内人はいつになく低い声で私に問い掛ける。力無く俯いたその立ち姿は先日書斎で交わした娘とのやり取りを彷彿とさせた。怒り。悲しみ。無力感。様々な感情を綯交ぜにして無理矢理固めて立たせたような、少し触れただけでぐずぐずに崩れてしまいそうな脆い影。だがあのときの彼女は意外にも……いや、あの子らしいといえばあの子らしいのか、書斎机を強く両手で叩いて前のめりになりながら力強く言い放ったのだ。

『そんなの許さないわ。アタシが許さない。お父様もアタシたちの家族なんだから、絶対一緒に来て。こっそり帰ったら承知しないからね。何があってもみんなで、』

「逃げるよ」
 己が何日か前に捨てたらしい蟹の殻を弄びながら、私はついに誰にも言わなかった言葉を吐き出した。
「命あっての物種、という言葉がある。死んだらなにもかもおしまいだからね。何がなんでも、逃げてやるよ。逃げて、逃げて、逃げ延びる。でもね、これは決して敗走なんかじゃない。今を生き耐え抜くための前向きな逃げなのさ。妻もきっとそれを望んでいるだろう……まぁ、あくまで私がそう思っているだけなんだけど」
 そう、生きているだけで良いのだ。特別なことはなにもしなくて良い。帰る家があって、食べられるものがあって、大切な家族がいる。今はそれ以上のものを追い求めようとは思わない。それだけで今の私は充分過ぎるほど満ち足りている。
「でもせめて、思い出だけは作らないと。みんなにはこれから沢山我慢を強いることになってしまうからね。今だけは思い切り楽しんで欲しいんだ。勿論、私自身にもね」
 では、と案内人が顔を上げた。
「私は皆様の良い思い出のために、頑張らなくてはいけませんね」
 彼の顔を見て、この島に来てよかったと心の底から思った。無理を行って滞在許可を取ってよかった。彼に逢えて良かった。やはり私は、いや私たちはまだ天に見放されてはいないようだ。来るべき再生の時まで、私たちは何としても生き永らえねばならぬ。その決意がまたひとつ強くなったのだった。
「はーい、暗い話題はもう止め止め。せっかくのバカンスなんだし、楽しいことを考えよう。次は蒸し焼きに挑戦しようかな」
……まだ食べるんですか」


■???

 目を閉じて、耳を澄ます。

 聞こえるのは唸るような風の音。島のあちこちに空いた穴に吹き込み出ていく音は恐ろしい怪物の鳴き声のよう。
 微かに聞こえる滝の音。すっかり水量は減ってしまったが、まだ絶える気配はない。頼もしい限りだ。
 足元を浸す水は生温くぬるりとしていて、時折風に吹かれて小さなさざ波が立つ。
 鼻で空気を吸い込むと生臭いような、煙臭いような、なんとも表しがたいものが残り、思わず咳き込んでしまう。

 目を開く。
 最初に目に飛び込んでくるのは夥しい瓦礫の山。どこから流されてきたのかもわからない流木や建材として使われていたのだろう角材、細かい砂利から岩と呼んでも良いくらいの大きさの石、誰かが来ていたような衣服、高価そうな装飾品に、仮面の欠片。そういったものが島のあちこちに流れ着き少しずつ積み重なって、今や何処もかしこも塵と大地を蝕む闇の花に覆われていた。

 あれから、どれだけの月日が経っただろう。

 あの家族の来訪を最後に、この島を訪れる人は居なくなってしまった。
 正確にはそのあとも何人か着てはいたのだが、彼らはこの島に漂着した時には既に生き絶えていた。
 気が遠くなるほど昔のこと、私たちは空に居たという。父の父から語り継がれてきた伝説によると、私たちの祖先は天上に瞬く星々であり、あるとき地上に降りてきたのだそうだ。ところが、長い年月と地上に馴染みきった肉体が邪魔をして、いつしか祖先たちは空に帰れなくなってしまった。少なくとも生きている間は、空に昇ることが出来ない。大精霊だけが、私たちが死んだ後に遺された魂を空へ還すことが出来るのだという。私は実際にそれを見たことはないのだが、私がまだ都に住んでいたころ『それ』は一般的な常識であり教養であった。当然、大精霊がどのようにして天へ彼らを戻していたのかはわからない。ある人は蝶に魂を乗せ連れていくのだという。ある人は神具である鎚と鉄砧を使って特別な入れ物を作り、そこに魂を込めて空へ放つのだという。またある人は、大いなる槍に魂を宿らせて投げ上げるのだという。すべて人に聞いた話だ。
 都流の弔い方も知らず。
 空に戻るための儀式も行うことができず。
 冷たい骸になってしまった故人たちを拾い上げては同じように打ち上げられた船に乗せ、本島を囲むように散逸する離島に埋めてやるばかり。ひとつ、ふたつ……十を越えた頃から数えるのを辞めた。幸いなことに、あの家族らしき人はまだ誰一人流れ着いていない。それはきっと、彼らが存命である証。息災であることの証明だと、私は思っている。願っている、というほうが正しいかもしれない。

『そういえば、あなたはどうするの?』
『何がなんでも、逃げてやるよ』

 彼らが島を出る日、旦那様から自分達と一緒に来ないかという話を頂いた。この島を出て、自分達と一緒に僻地に逃げないか。一人増えたところで大した違いはないだろうし。
 下のお子様たちは目をキラキラさせて私を見ていた。そうなったら良い、と私も彼らの滞在中に一度だけ思ってしまったことがある。彼らの無垢な寝顔をこの先も眺められるのなら、どんなに素晴らしいことか。

 だけど。

「申し訳ありません、折角の好意を無駄にしてしまうことをお許しください」

 その言葉を聞いた旦那様は、何も言わずに静かに頷かれた。
 そう言うんじゃないかと思ったわ、と上のご令嬢が少しだけぶっきらぼうに呟いた。悲しいのを隠しているのだと、短い付き合いなりに察知することが出来た。
 彼らはたくさんのものを私とこの島に残してくださった。
 旦那様は日差しを防ぐためのサングラスや麦わら帽を。
 上のご子息は海月の知識を。
 上のご令嬢は集めた貝殻の中でも特に選りすぐりの美しいものを。
 下のご子息はマンタの形によく似ている石を。
 下のご令嬢は特に好きだといっていた小説の一節の写しを。
 使用人の方は登山の時に持っていったビーチチェアを。
 お返しとして釣り合うかはわからなかったが、私も彼らにお土産を差し上げた。
 旦那様と使用人の方には蟹の殻で作った酒器を。一人きりでやることも無かった時に見よう見まねで作ったもので決して形の良いものではなかったが、いつかこれでお酒を嗜んでいただければ幸いだ。
 お嬢様たちには拾った貝殻で作った髪留めを。正直こういうもののセンスには自信が無いのだが、彼女たちにはこの島での思い出を見に着けていてほしかった。
 上のご子息には以前この島に来た人が忘れていった楽譜を差し上げた。彼は人前では滅多にやることはないが、歌うことが好きだと言っていたのを思い出して倉庫から引っ張り出してきた。
 下のご子息にはもう使う人は居なくなるだろう、と貸していたジャンプスーツをそのまま差し上げた。彼の喜び方が最も激しかった。あまりにもはしゃぐものだがら、上のお嬢様に叱られていたのが何とも微笑ましくて、ご家族の方と一緒に笑ってしまった。

『血こそ繋がってはおりませんが、家族のようなものでございます』

 別れはとても辛かった。感極まって泣いてしまったお嬢さまたちにつられてうっかり貰い泣きをしてしまいそうになるくらいには堪えるものがあった。都の生活に嫌気がさして逃げるようにやってきたこの島で長く暮らしていても、心を通わせてきた方々との別離には胸を引き裂かれそうな心地がした。
 それでも私は役割を、与えられた使命を放棄しようとは思わなかった。その使命を与えたものが既にこの世には存在していなかったとしても関係なかった。誰にも負けない強い思い入れがこの島に確かにあったのだ。それは矜持でもあり、揺るがぬ決意でもあった。

『いいところですね、ここは』

 重い身体を引き摺り、海岸線を歩く。
 あの美しい青空も、輝く星空も、いつの間にか厚い雲に覆われて見えなくなっていた。
 日課の見回りは今でも欠かさずにやっている。もうほとんど意味を成さない無駄な行動ではあるのだが、これを辞めてしまったらきっと私は気がおかしくなってしまうに違いない。今ですらやっとの思いで正気を保っている。常日頃なんとはなしにやっていた習慣が、今では唯一の命綱のようなものだった。
 間欠泉は漂着したゴミや呪われた花によって汚染され、半数以上が吹き上げを行わなくなっていた。
 水母やマンタたちはいつの間にか姿を消した。
 蝶や小鳥たちも、この島にはやって来ない。
 洞窟に蔓延る蟹たちだけはあの頃と変わること無く、何事もないかのように生きている。
 最近気がついたのだが、彼らには呪いの花の影響がない。光のない、汚染された場所でも生きていける生命力があった。

『あなたはこの島の管理もしているから、』

「違う!」

 無意識に放った言葉が洞窟に反響して、驚いた蟹たちが手足を殻の内側に引っ込める。気がつけば私は洞窟の中に立っていた。

 管理なんてしていない。
 管理なんて、最初から出来なかったんだ。

 洞窟の天井まで延び上がった花を見上げた。誰かが持ち込んだらしい胞子は、いまや島のあらゆるところにおぞましいかたちの花を咲かせた。まだ私には目に見えるような疾患はでていないが、それも時間の問題だろう。遅からずこの島と私は、呪いに蝕まれ静かに息を引き取る。
「いや、それは違うな」
 自嘲気味に、こんどははっきりと意識的に声に出す。
 息を引き取るのは私だけだ。
 長年この島を見つめ、研究と観察をしてきた私には分かる。自然というものは私たちが想像している以上にずっと辛抱強く、生命力に満ち溢れているのだ。どんなに醜く朽ち果てた場所でも長い時間をかければ草木は甦る。その永い年月に私がついていけないだけ
……悔しいなぁ」
 無力。
 あまりにも、無力。
 もし私に大精霊くらいの力があったのならば。この島に眠る何十人の魂を、衰弱して波間に消えていったマンタたちの白い羽をいっぺんに空に還してやれることが出来るというのに。
 身体から力が抜け、膝から枯れた草原の中に倒れ込む。
 再び立ち上がるためには少し時間がかかりそうだ。
 寝返りを打って、仰向けに横たわる。
 空には分厚い雲。地にはむき出しの岩肌。海は静まり返り、生き物たちの息吹が少しずつ遠ざかっていく。
 まるで、この島そのものがゆっくりと、狭い箱のなかに閉じ込められようとしているような閉塞感を感じる。壁なんて何処にも無いのに、どうしてこんなに息苦しいのだろう。

『オジサンには夢とかないの?』

「夢、か……

 焦点の合わぬ視界の端に、ひらりと何かが舞ったような気がする。きっと気のせいだろう。もし本物だったとしても、群れからはぐれた個体が生きていけるほどこの島の環境は良くない。ここに迷い込んできてしまったが最期、力尽きるまで灰色の空と仄暗く濁った膿を眺めながら時間を浪費するだけだ。私と同じように。
 ふと、子供の頃に幼いマンタを拾った時のことを思い出した。あれは今と同じような空模様の、冬の半ば頃だったか。木枯らしが吹く寒い日の朝、何気なく開けた窓の外から小さな白い躰が部屋の中にふらふらと迷い込んできた。エネルギーが足りなかったのか、それは光をかざすと嬉しそうに取り込んで、幼い私の周りをくるくると回ってくれた。人付き合いが苦手な私にとって、マンタは私にできた初めての友だちだった。彼のお陰で、私はマンタという生き物に強く惹かれるようになった。
 暫く家族でそのマンタの様子を見守った。外に出て行かないように家中の窓を閉め、食事代わりに光を与え、彼が元気を取り戻すまで面倒を見るつもりで優しく丁寧に世話をしてやった。私は図書館に行ったり学校の先生に聞いたりしてマンタに詳しくなろうとした。調べていくうちに、うちにいるマンタはとても貴重な存在で、もしかしたら都周辺に生息していたマンタたちの最期の生き残りかもしれない、ということに気付いた私はそれを家族に知らせようと急いで家まで走って帰った。
 息を切らしてようやくたどり着いた家の玄関のドアを開けた瞬間、ドアの隙間からするりとあのマンタが抜け出てきた。慌てて手を伸ばしたが、彼は私の手をひらりひらりと見事にかわして見せ、最後には手が届かなくなるくらい高く高く飛び上がったかと思うと、そのまま風に乗ってどこかへ飛び去ってしまった。それが、初めてできた友達との今生の別れになった。
 私は泣いた。一日中泣いた。マンタを逃がしてしまう原因を作った兄は泣きながら謝ってくれたが、私の涙はそれから数日ほど止まる気配を見せなかった。涙が引っ込んだかと思えば、また何かの瞬間にマンタのことを思い出して泣く、その繰り返しだった。私の涙を止めてくれたのは同居していた祖母だった。
『あの子はもともと私たちとは住む世界が違ったの。きっと、あの子は元の場所に帰る扉を見つけたのよ。だからもう泣かないで、坊や。きっとあの子は自分の元いた世界で家族に会えて、元気に暮らしているわ』
 祖母の言うことを鵜呑みにした私はそれからしばらく、マンタが元の世界に戻るためにくぐったであろう扉を探した。どこにあって、どんな形をしていて、どうやって開けることが出来るのか。興味の対象は何時しか自分の専攻する学問になり、やがて仕事になった。好きでやっていたことは何時しか仲間たちから注目を浴びるようになり、ついに現国王にまでその功績が認められるようになった。彼から賜ったこの白い────今はもう見る影もないのだが────ケープを見に纏い、かつて楽園と呼ばれた島で生活をするようになり、大勢のマンタに囲まれて過ごす日々はこの上なく幸せだった。けれど、心のどこかではこの島もまた『あの場所』ではないことが分かっていた。彼はここには居ない。ここはかりそめの楽園だ。本当の楽園はここではない、もっとどこか遠くにあって、彼はそこで大人になって子供が出来て、幸せに暮らしている……確たる証拠も材料もないのだが、漠然とそう思っていた。時間はかかるかもしれないが、いつかは私も『そこ』へたどり着くのだと、無邪気に考えていたこともあった。だが、現実はそう甘くはなかったようだ。 私はここへ来て、どこにも行けないままここで死ぬ。それは抗いようのない運命であった。
 だけど。
 目を閉じて耳を澄ますと、風に乗ってあの人たちの声が聞こえてくるようだった。

「夕飯は蟹の丸焼きだよ」
「また蟹?! もうオレ飽きたんだけど」
「坊っちゃん! 旦那様に向かってその口の聞き方はなんですか!」
「良いじゃない。しばらくこんな美味しいもの食べられないかもしれないし、今のうちに味わっておきましょ」
「ミソにも栄養があるからちゃんと食べるんだよ」
「ええっ、これも食べないといけないの? すごい色してるけど……

 私が『楽園』だと思っていたものは、本当に存在するのか。
 その答えを知ることは遂に叶わないのだろうか。
 探し求めていた楽園への扉は、一体どこにあったのだろうか。

「オジサーン! オジサンもこっち来なよ! 一緒に食べようぜ!」
「じいや、あの人の分のお皿を出して」
「承知いたしました。勿論、参加していただくのであればマナーはきちんと守っていただきますよ」
「ふふ、私が教えてあげますね」
「なに飲む? お酒は平気なんだっけ」
「はい、お皿を出してくださ~い。盛り付けますよ~」

 それは例えば、この島のように。
 潮風に吹かれて本を読むことが出来たり、
 海月やマンタや蟹と触れあったり、
 珍しい貝殻を拾ったり、
 島のてっぺんから海を見下ろしたり。
 そんなことが当たり前に行われるような、
 
 誰かとその喜びを分かち合いあえるような、穏やかな場所であるに違いない。
 彼もきっとそこにいて、私が来るのをずっと待っている。

 私も、いつかそこへ─────────────


























< ここからまた始まるんだねぇ >

< 一体どんな島になるんだろうな! あー、オレもそっちに混ざりたい! >




< 本当に楽しみだわ! それを見届けられないのはとても残念ではあるけれど >

< 名残惜しくはありますが、仕方ありません。今はもう彼らの時代ですから >




< そろそろ行こう。母さんをこれ以上待たせたら怒られちゃうよ >

< そうね、では私たちはこれで。後は頼みましたよ >





■楽園の案内人の話
< どうしたの、おじさん >
 目の前の幼子は首をかしげて此方を見ている。
 その目には生命のエネルギーが満ち満ちて、いまにもこぼれて落ちてしまいそうだ。
「何でもないよ、本当に何でもないんだ」
……ふうん? >
 枯葉色のケープが風に揺れる。
< おーい、準備できたよー >
< だって! おじさんもいこう! >
 幼子に手を引かれるままに走り出す。
 その手の力強さに、魂が震えるのを感じる。
 遂にそのときは訪れたのだ。
 長い間死んだように眠っていたこの島に、一本の鍵が差し込まれようとしている。
 たどり着いたのは、古くからこの島に存在する鐘突台。気の遠くなるような時間を経て失われた鐘が今は全て揃っている。鐘突台の側には幼子たちが大勢、胸を膨らませながらそのときを今か今かと待っていた。
< それじゃ、いくよ! >
 掛け声とともに、彼らが勢いよく地面を蹴った。

目を閉じて、耳を澄ます。
風の音。
波の音。
滝の音。
マンタの羽ばたき。
水母の鳴き声。
それらをすべてかき消すような────

ごおん、ごん、ごおぉん……

力強い鐘の音を合図に、楽園の扉は今再び開かれた。<了>


























■あとがき
あれ、まだ空欄があるぞ? さてはまだ何かあるんじゃないか?
とここまで見てくださった方、ありがとうございます。ご足労痛み入ります。
改めまして、紙魚頭です。『楽園への扉』いかがだったでしょうか。
説明書きにもあります通り、本編はすべて筆者の妄想100%濃縮還元でお送りいたしました。皆さまのご想像の中にいる精霊たちとは似て非なるもの、あるいはまったく違う別ものだったかもしれませんが、そこは大目に見ていただけると幸いです。
ここからは蛇足が始まりますので、もうおなかいっぱいという方は遠慮なくブラウザバックしていただくことを推奨いたします。

……バックしました? ではあまり長くならない程度に。

・精霊の家族設定について
 まずはこれ。読者の中にはこの設定が入ったというだけでアレルギーを起こして去っていった方も少なくはないでしょう。
 そもそも何故デイリー精霊以外の6人を家族として扱おうと思ったのか? 色々理由はあるのですが、一番の理由は「みんな個性が強すぎて赤の他人とかだったら絶対共同生活とか出来なくね? 家族くらいの繋がりがないとまとまらないんじゃないか」と思ったからです。完全に個人的な物差しで見ているので「そんなことはない」派の人も居ると思います。でも私がこの6人のうちの一人として共同生活することになったら絶対イヤ。
 家族構成についてはそれほど悩まずすんなり決まりました。見た目で結構年齢の差が想像しやすいのがよかったですね。ハイキングおじさんについては祖父にするか使用人にするか少し悩みましたが、日光浴者の隠しきれない貫禄のある風貌や、読書家と収集家がお嬢様みたいなしとやかさを持っていたこともあり、「ちょっといい家の人たち」として話を進めようとしたときに、「いい家の人なら使用人がひとりも居ないのはおかしいな」と思って結局使用人ということで落ち着きました。

・王国や都、その他諸々の設定について
 300%妄想です。史実やゲーム設定とはほとんど関係ありません。
 筆者がゲームを通して感じたことやそこから思いついたことですべて構築されています。
 ちなみに筆者は「魔法の季節」生まれの11枚羽ほしのこです。推し精霊は涙ぐむ光坑夫と本編にも登場する海月の語り部です。

・「扉」について
 お気づきの方も居られるかと思いますが、この作品は古典SFとして有名なロバート・A・ハインライン著「夏への扉」の影響を受けています。心配なさらなくても影響元のネタバレは一切含まれておりませんし、影響を受けたっぽい部分もちょっとだけです。もしまだ読んだことが無い方がいましたら是非読んでみてくださいね。

・最後に
 本作品を執筆するきっかけをくださった(勝手にこちらが貰った)ゆっきぃ様、
 私をこの世界に招待してくれた師匠のお二人、
 いつも仲良くしてくれるフレンドの皆さん、
 そして何より「Sky 星を紡ぐ子どもたち」というゲームとここまで読んでくださった読者の皆様に多大なる感謝を!
 


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