@4ninkawaii
「次はどんな子が来るのかなぁ」
その声の主は、部屋の中でも一際目立つ眼帯の男――燭台切光忠であった。
鍛刀にかかる時間は三時間。
ひんやりと冷たい鍛刀室内で、三振はきたるその時を待っていた。
「今度こそ伽羅坊が来るといいな。なぁ光坊?」
そう言ったのは、退屈そうに床でしゃがみ込んでいる鶴丸国永だった。手持ち無沙汰なのか、落ちていた玉鋼の欠片を拾っては、掌の上でくるくると器用に転がしている。
燭台切光忠が大倶利伽羅という刀の顕現を待ちわびていることは、他でもない鶴丸が一番よく知っていた。
無論、それはかつて伊達の家で大倶利伽羅と過ごした鶴丸も同じだ。
誰だって、かつて共に過ごした刀との再会を願うのは当たり前である。
しかし当の大倶利伽羅本人はどう思うだろうか。ぼんやりとした記憶の中のあいつは、素直に再会を喜ぶ奴というよりは、もっと――
「暇ならお前も片付けを手伝ったらどうだ」
顔を見上げたそこには、眉間に皺を寄せている男――へし切長谷部の姿があった。長谷部は鶴丸を睨んだまま、抱えた資材箱の縁をこれ見よがしにトントンと叩く。
「もうほとんど終わっているじゃないか。そもそも、きみは近侍じゃないだろう。本来ならここは近侍の光坊以外立ち入り禁止だぜ」
「その言葉をそっくりそのままお前に返すが」
軽口を叩き合う二人を見て、燭台切は大袈裟に肩をすくめて見せた。
「鍛刀出来るのが近侍ってだけで、ここは立ち入り禁止ではないよ。長谷部くんはいつも僕の仕事を手伝ってくれて助かるし、鶴さんみたいな人がいると新しく来た子の緊張も解れるから、僕は二人にいてほしいと思ってるけどね」
燭台切光忠はこの本丸の近侍である。
本丸発足初日に初の太刀として顕現して以来、一人でずっと近侍を務めてきた。
この本丸には一日に何度も鍛刀できるほどの資材はなく、一般的に手に入りにくいとされている珍しい刀剣は一振りもいない。
演練で出会う他の本丸の刀を見て悔しがり、日誌を見ては肩を落とす審神者の機嫌を宥めるのも、初日から第一部隊で活躍してきた燭台切の役目であった。
それからしばらくして顕現したへし切長谷部にとって、それはなんとも面白くない話であった。
第一声が「気が合いそう」などとへらへら笑顔で話しかけてきた男が、たかが初日に顕現したという理由だけで近侍を務めているのが気に食わない。
燭台切光忠という刀の強さを認めていないわけではないのだが、どうにも腑に落ちない。
こうやって頼まれてもいないのに燭台切の補佐をしているのも、あわよくば審神者が近侍交代を命じないか……という下心によるものだ。
もっとも長谷部のそんな思惑は、とっくに燭台切には気付かれていたのだが。
「おい、鍛刀が終わったみたいだぜ」
鶴丸の一言で、資材を片付けていた燭台切と長谷部は足早に駆け寄る。
「この刀は……」
「伽羅ちゃんだ!」
燭台切が一際大きな声を上げる。
「伽羅ちゃんが鍛刀されたよ!あぁ大変だ。早速主に顕現してもらわなきゃ!」
そう言い終わるより先に刀を抱えると、燭台切は走って部屋を出て行った。
「騒がしい奴だな……」
「まぁ、あれだけ待っていたんだから無理もないさ」
鍛刀された刀剣は、そのままでは人の体も心も持たない鉄の塊だ。審神者の特別な力によって刀剣男士としての肉体が付与され、顕現する。
一方で既に本丸に存在する刀が鍛刀された場合、連結あるいは刀解するのが暗黙の決まりとなっていた。
体も心も持たぬ身とはいえ、仲間を鉄に戻す行為は気分の良いものではない。
新しい刀が鍛刀されたのは久しぶりの出来事であり、それが待ちわびた大倶利伽羅であるならば、燭台切がいつになく浮かれる理由も納得だった。
「別に語ることはない。慣れ合う気はないからな」
人の体を得た刀剣男士――大倶利伽羅は、開口一番にそう言った。
こいつは自己紹介も出来ないのか。そう言いたげな様子で、長谷部は隣の鶴丸をちらりと見る。相変わらずだなぁと苦笑する鶴丸の様子を見ると、大倶利伽羅という刀は元来そういう奴なのだろう。
「伽羅ちゃん久しぶりだね!僕は燭台切光忠。覚えてるかな?」
彼の直前の言葉が聞こえているのかいないのか、燭台切はずいと身を乗り出した。
大倶利伽羅はちっ、と小さく舌打ちをして目線を逸らす。
「……覚えている。が、俺は戦うために顕現したんだ。あんたと慣れ合うつもりもないし、ここで人間同士の仲良しごっこをするつもりもないからな」
「伽羅ちゃんは昔からそんな性格だった気がするなぁ。でもせっかく人の身を得たんだから、今しか出来ないことも沢山あるんだよ。まずは食事だけどね、人っていうのは三食食べないとバランスが……」
無視して歩き出す大倶利伽羅を、燭台切は小走りで追いかける。小言は右耳から左耳へと通過している様子だが、彼の笑顔からはそんなことは微塵も気にしていない様子が伺えた。
「ずいぶんと無愛想な刀だな」
「それ、きみが言うか」
鶴丸に笑いながら指摘されてから、長谷部は自らの失言に気付く。
別に好きで無愛想でいるわけでもないのだが、鶴丸や燭台切のような気さくなコミュニケーション、というものが自分にはどうにも苦手だった。
主に対しての忠誠心については、どの刀よりも勝っていると自負している。
しかし、共に暮らす「仲間」として他の刀剣男士とどう距離を詰めていいものか分からず、結局一人でいる方が楽だと気付くのに時間はかからなかった。
「あいつは第一印象はああだがな、結構熱い奴なんだぜ。ポーカーフェイスに見えて意外と感情が顔に出る。単純なんだ。そういう意味じゃきみも気が合うんじゃあないか」
一言余計だと言いかけたが、ここで再び軽口の叩き合いをしても仕方がないと判断し、長谷部は鍛刀部屋を後にする。
燭台切はしばらく大倶利伽羅につきっきりだろうから、審神者に今後の鍛刀の計画を相談する必要があった。小さな積み重ねが近侍への道なのだ。
「これから色んな驚きが沢山ある。俺はそんな気がするなぁ」
一人部屋に残った鶴丸は楽しそうに笑った。
まだ肌寒い、三月の出来事だった。
「伽羅ちゃん、もっと間合いを取らないと」
「分かっている!」
道場の中、竹刀がぶつかり合う音が激しく響く。
いよいよ大倶利伽羅の初陣を控え、近侍である燭台切は彼の手合わせに付き合っていた。
かつて人に振るわれた身を今度は自分が振るう立場となる。最初は慣れずに戸惑いもしたが、それは大倶利伽羅にとっても例外ではないようだ。
「……何時間ぶっ通しでやっているんだ、あいつらは」
「錬度の高い光坊はまだしも、あれについていく伽羅坊も大したもんだ。こりゃ初陣も安心だろう」
同じく手合わせを組んだ鶴丸と長谷部はと言うと、練習メニューも早々に切り上げて二人の姿をぼんやりと眺めていた。
最初こそ真面目に手合わせをしていたものの、隣の気迫に圧倒されてしまい、どちらから言い出したわけでもなくその場に座って見学を始めたのだ。
長谷部は『大倶利伽羅は熱くて顔に感情が出る』という鶴丸の言葉を思い出し、なるほどと思った。
燭台切に注意をされると露骨にムッとした表情をするし、一本を取れば我慢をしても口元が緩む。
手合わせに限った話ではなく、夕飯に好物が出たとか、庭の桜が咲いたとか、日常の細かなことでも、注意して見ると大倶利伽羅の表情は変化するのだ。
頑なに慣れ合おうとしない理由は分からないが、案外素直な奴なんだろうと長谷部は笑った。
「こんなところかな」
燭台切はジャージの袖で額の汗を拭う。
まだ打ち込み足りないと言いたげな表情の大倶利伽羅も、窓から差し込む夕陽に気付いたのか、諦めたように竹刀を置いた。
「お疲れ!お前らの手合わせ凄かったぜ。ずっと見入っちまった」
「ありがとう……というか、鶴さんたち手合わせしてないの?長谷部くんまで、珍しいね」
鶴丸がサボったからだと言い訳したい気にもなったが、自分も二人の手合わせに見入って手を止めたのは事実だ。あえて質問には答えずに、長谷部は話題を変える。
「これで明日の初陣は大丈夫だな」
「うん、伽羅ちゃんは飲み込みが早いしすぐに強くなるよ。……あ、そうだ。これ」
燭台切は思い出したようにジャージのポケットから何かを取り出し、大倶利伽羅に手渡す。
長時間の手合わせの疲労からか、手を払いのけることも何かと聞くこともせずに、大倶利伽羅はシャツの裾で手汗を拭ってそれを受け取った。
「御守り……?」
「僕達の命ってね、肉体と刀とリンクしているらしいんだ。刀が折れてしまったり、肉体に致命的な傷を負うと死んでしまう。これは、それを一度だけ修復してくれるものなんだって」
どういう仕組みなのかは分からないけど。そう言って燭台切はへにゃりと笑った。
御守りは本丸に一つしかない。近侍である燭台切がそれを持っていることは、大倶利伽羅も知っていた。
「俺に渡す必要はない。俺とあんた、本丸にとって折れたら困るのはあんたの方だ」
御守りを突き返す手を、燭台切は制止する。
「そういう問題じゃなくて」
先ほどの穏やかな笑顔が嘘のように、燭台切の瞳は真っ直ぐに大倶利伽羅を見つめた。
「……実際の戦場では敵がどんな行動を起こすか分からない。一番錬度が低いのはきみなんだから、明日だけでもこれはきみが持つべきだと思う」
他にも言いたい言葉は沢山あったのだろうが、それらを全て飲み込んで大倶利伽羅を諭す。直接的な同情を嫌う大倶利伽羅という刀にとって、一番納得してもらえる言葉を選んだつもりだった。
燭台切の読み通り、言い返す術がないと判断した大倶利伽羅は、観念したようにお守りを受け取った。
肉体を得たばかりの刀は、しばしば初陣で無茶をする。特に熱くなりがちな大倶利伽羅は、戦闘に慣れるまでの保険があった方がいいだろう。そう考えたのは、先程の手合わせを見ていた鶴丸と長谷部も同じだった。
「なぁ、星を見に行かないか」
窓から差し込む夕陽を眩しそうに眺めながら、鶴丸が切り出した。
「星?」
「今日は星がよく見える日なんだそうだ。えぇと、なんとかっていう流星群だったかな…とにかく、普段より夜空がすごいことになるんだ。見に行かない理由はないだろう」
説得力のない説明であるが、確かに今朝、短刀の誰かもそんなことを言っていた気がする。
今日は雲がない。これだけ天気が良ければ、さぞかし星も綺麗だろう。そんなことを想像すると少しだけ楽しくなってきて、燭台切は二つ返事で了承した。
対照的に、大倶利伽羅は眉をひそめて鶴丸を睨む。
「俺は星なんて興味ないぞ」
「そんなこと言うなよ。明日は初めてこのメンバーで出陣するっていうのに、俺達、四人で何もしたことないだろ。これじゃ戦闘中に連携が取れないぜ」
戦闘に役立てるためという、これまた大倶利伽羅が納得しそうなもっともらしい理由をいくつも並べてみる。自慢ではないが、鶴丸もまた、大倶利伽羅の説得にはちょっと自信があるつもりだった。
大倶利伽羅は少し考えてから、諦めたように小さく溜息をついた。これは肯定の意味。
「夜は寒いから風邪を引かないように。早めに寝て明日に備えろよ」
じゃあな、と踵を返す長谷部を燭台切は慌てて止める。
「ちょっとちょっと、四人でって言ったじゃない!まさか行かないつもりなの?」
「そんなことをしなくても、俺は戦闘でヘマはしないさ」
燭台切はわざと大袈裟に溜息をついてみせる。
「主がね、今日の星空を楽しみにしていたんだよ。仕事で見れないみたいだけど。僕のカメラで撮った写真を持って行けば喜んでくれるんじゃないかな」
「……行く」
もちろん嘘だ。
しかし、審神者が星を眺めるのが好きだというのは本当だった。
いつだったか、一定の錬度に達した褒美に買ってもらった中古の小さなカメラ。はたして星空を写せるのかは不明だが、話だけでも天体観測気分くらいは味わえるだろう。
近頃、審神者はとある刀剣を鍛刀出来ずにピリピリしている。
些細なことでも良い気分転換になればいいと思った。
墨を流したキャンバスに宝石を散りばめたような星空が、四人の頭上いっぱいに広がる。
「おぉ、満天の星空ってこういうことを言うんだな」
鶴丸は夜空に手をかざし、星を掴む仕草をしている。
さすがはなんとかと言う流星群の日。ここまで壮大な星空を見たのは、本丸初日に顕現した燭台切でさえ初めてのことだった。
いざ出発はしたものの、星空を観るのに適している穴場など誰も知らなかった。結局、近所の土手に腰かけて眺めることになったのだが、それでも十分だった。
「星に願いを唱えると叶えてくれるらしいぜ。これだけ沢山の星があれば、どれか一つくらいは叶えてくれそうだ」
「そんな子供じみた迷信を信じているのか」
「きみのも一緒に願っておいてやろう。長谷部が近侍になれますよーにってな」
「貴様、なんでそれを!」
「驚くくらい隠し事が下手だよなぁ」
ぎゃあぎゃあと言い争いを始める鶴丸と長谷部をよそ目に、大倶利伽羅はぼんやりと星空を眺めていた。
自分にとっての願い事とは何なのだろう。
強くなるのも、慣れ合いを避けるのも、自分の意思と努力で叶えるべきことを星に頼るのは少し違う気がする。
明日の夕食はハンバーグがいい、という願いだろうか。しかしそのような願いは何光年も先の星に願わずとも、すぐ隣の男に頼めば解決する話だ。
「誰も傷付かない本丸になればいいのになぁ」
ふいに左隣から聞こえてきた声はとてもか細く、震えていた。
悲しそうな、どこか諦めたような燭台切のその表情を、大倶利伽羅は知らない。消え入りそうなその願いは、誰かに聞かせるためというよりは、本人も気付かぬ内に口から漏れたものにも聞こえた。
「……どうかしたか?」
わざと聞こえないふりをして問い掛けてみる。
「あれ、僕何か言ったかな?なんでもないよ」
そう言って燭台切はいつものように眉を八の字にして、柔らかく微笑んだ。
それ以上、大倶利伽羅が深入りをすることはなかった。
「主、喜んでくれるといいね」
「写真も綺麗に写ったしな。流石に肉眼で見るよりは劣るが……本丸の情勢が楽になれば、主もゆっくり夜空を見上げることが出来るだろう」
燭台切と長谷部は、印刷した写真を眺めながら審神者の部屋へ向かう。
古いデジタルカメラで夜景を写せるのか心配だったが、星空は思ったよりも鮮明に撮影することが出来た。
結果的に長谷部を誘う口実になり、審神者にも土産話が出来たことは、燭台切にとってはまさに一石二鳥とも言えた。
燭台切は、真剣に写真を選別している隣の刀に目線を向ける。
近侍でいることに拘っているわけではない。
長谷部に交代しようと思えば容易いのだが、妄信的に主命を果たそうとする彼一人に近侍を任せるのは気が引けた。
彼が今の審神者のもとで近侍を務めようものなら、絶対にパンクしてしまう。長谷部には悪いが、自称・副近侍という現在の立場が彼にとって一番良いのではないかと思う。
余談だが、長谷部は料理がとても下手だった。
主に手料理を振舞うために夜な夜な練習しては、毎回失敗していることも燭台切は知っていた。要するに、色々と不器用な刀なのだ。
「主、失礼します」
深呼吸を一つして、長谷部が襖に手をかける。いつも通り気軽に「ちょっと失礼するね」なんて言いながら入室したらとても怒るんだろうな、と燭台切は思った。
審神者は髪を掻き毟りながら分厚い本を読みふけっていた。顔は見えないものの、その後姿からは苛立っている様子が伺える。
出直した方がいいんじゃないか。長谷部はそう言いたげな目で燭台切をちらりと見た。
燭台切は何も言わずに笑って首を傾げて見せ、審神者に話し掛ける。
「主、今夜は星が綺麗だって聞いたから写真を撮ってきたよ。顕現したばかりの伽羅ちゃんと、鶴さんと長谷部くんと見たんだ。主も星が好きだったよね」
そう言って撮った写真を審神者の机にそっと置いた。審神者は一瞥してからすぐに視線を本へ戻し、二人には目もくれずにぼそりと呟く。
「命じた刀も鍛刀できないくせに、呑気なもんだな」
燭台切の顔が一瞬だけ強張ったものの、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「頑張ってはいるけど、やっぱり資材が足りないんだよね。それでも、このあいだ久しぶりに新しい刀…伽羅ちゃんが来たんだ。戦力が増えれば、資材を集める効率も良くなる。今度は違う配合を試してみるよ」
「ふん……」
審神者は特に返事をすることもなく、隣で石のように固まっている長谷部をじろりと見た。
「星には興味がない。へし切長谷部、お前はこんなくだらない遊びに付き合うくらいなら、少しでも資材を集めて作戦を練った方がマシだと考える刀だと思っていたが」
長谷部の肩が小さく跳ねる。
「少しがっかりしたよ」
「主!」
燭台切が声を張り上げる。長谷部の目が泳ぎ、握り締めていた拳が震えた。
「申し訳……ありませんでした。明日からは心を入れ替えて、主のために全力を尽くします」
「長谷部くん、待って」
「失礼します」
燭台切が止めるのも聞かずに、長谷部は審神者の部屋を飛び出す。膝の上に乗せていた写真が畳の上に散らばった。
厠へ向かう途中だった大倶利伽羅は、ばたばたと廊下を走る長谷部の姿に気付いて足を止める。
「長谷部?」
思わず声を掛けてしまった。
普段自分から他人に声を掛けることのない大倶利伽羅ではあるが、心配して呼び止めてしまう程には長谷部の表情は青ざめていたのだ。
「顔色が悪いぞ。光忠が一緒じゃなかったのか」
長谷部は何かを言いかけて二、三度口を開いた後、言葉に詰まったように俯いた。
「……星になんて願うもんじゃないな」
弱った声が漏れる。
「何も叶えてくれやしないじゃないか」
「星?」
ふと大倶利伽羅は、燭台切が唱えた願いを思い出す。
『誰も傷付かない本丸になればいいのになぁ』
そして目の前の泣き出しそうなこの刀は、ひどく傷付いているように見えた。やはり星が願いを叶えてくれるなんて、都合のいいことは有り得ないのだろうな、と思った。
「早く寝ないと明日に響くと言ったのはあんただろう。何があったのかは知らないが、今日はゆっくり寝た方がいいんじゃないか」
こんな場面でどんな言葉を掛けるべきなのか、人の心を得たばかりの自分にはまだ分からない。燭台切や鶴丸なら上手な言葉で慰められるのだろうが、不器用に紡いだ言葉が心配の意を含めているのかどうか、大倶利伽羅自身もよく分からなかった。
「はは、そうだな。ありがとう」
長谷部は力なく笑って大倶利伽羅の頭をぽんと叩くと、自室の方向へと歩き出した。
「楽しかったなんて、思ってはいけなかったんだ」
その言葉が大倶利伽羅の耳に入ることはなかった。
「なんであんなこと言ったんだい」
部屋に残された燭台切は審神者に詰め寄る。
背中から突き刺すような、怒りを帯びた声色。流石にまずいと思ったのか、審神者は本を閉じてからゆっくりと振り向いた。面倒だと言いたげなため息が一つ漏れる。
「……本当のことだろう」
「きみのために写真を持ってきた彼に対して、あの場で言う台詞じゃないだろ。長谷部くんは僕よりも近侍の仕事をこなしているくらいだ。仲間と星を見て、それを報告することすら許されないのか」
燭台切の拳が、膝の上で固く握られる。
「昔のきみはもっと刀と向き合っていただろう。まだ十振りも仲間がいなかった頃、星を見に行こうと提案したのはきみだ。それが今では、朝の挨拶すら交わさずに自室に閉じこもるばかりじゃないか。伽羅ちゃんが来てから、彼と顔を見て会話をする機会が一度でもあったかい」
言い返す言葉もないのか、審神者は黙っている。
燭台切は畳み掛けるように続けた。
「何よりも酷いのは重傷進軍を強要するようになったことだ。いくら資材を持ち帰っても、手入れで消えるなら本末転倒じゃないか。そればかりか、最近では手入れ部屋にも入れずに放置されている子もいる。僕達の手で応急処置をするのにも限界があるよ」
自分では冷静に話しているつもりでも、怒りで声が震えてトーンが荒々しくなる。
今まで溜まっていた鬱憤が堰を切ったように溢れ出すのを、燭台切自身にも止めることが出来なかった。
「このままでは遅かれ早かれ誰かが折れてしまう。それでなくても、本丸内の雰囲気は最悪だ。珍しい刀を手に入れることも大切だけど、いま本丸にいる僕達のことも気にかけてよ。強くなくたって、僕達は僕達のペースで戦っていけばいいじゃないか」
「うるさい!」
突然の叫び声に、燭台切の肩がびくりと跳ねる。
その血走った瞳にはもう、燭台切の顔は映っていなかった。
「それなら、お前が他の奴らの倍出陣して資材を集めて来い。お前は強いし御守りも持っているから、折れることもないだろう。命じた刀を鍛刀することが出来たら手入れ部屋も拡張してやる」
燭台切はふと、お守りを大倶利伽羅に渡したことを思い出す。
しかし返してもらう気は更々ない。初陣だけという約束で渡したが、その後に返されても適当な理由をつけて突っぱねる予定だったのだ。
今の審神者にその話をしようものなら、大倶利伽羅からお守りを取り上げ、まだ見ぬお目当ての刀に迷わず与えるのだろう。
初めて行った万屋でお守りを購入し、渡してくれた日のことなど、彼はもう忘れてしまっているのだ。
「……分かったよ、これからは僕がずっと出陣する。その代わり、重傷の子達の出陣は絶対にやめてくれ」
審神者はそれ以上何も言わなかった。
燭台切はそれを肯定と捉えて、静かに部屋を後にした。
「光坊、こんな夜遅くまで主と話していたのか?眉間に皺が寄って伊達男が台無しだぜ」
厠にでも行く途中だったのか、寝巻き姿の鶴丸が声を掛けてくる。
指摘されて初めて、自分の表情が強張ったままのことに気が付く。燭台切は無理やり笑顔を取り戻した。
その様子を見た鶴丸は、呆れたように笑いながら燭台切の肩を叩いた。
「悩んでいることがあるんだな。伽羅坊が長谷部の様子もおかしかったと言っていたから、二人してあの主に何か言われたのか?大方、星を見る暇があるなら出陣しろとでも言われたんだろう」
図星を突かれた光忠は目を丸くした。
鶴丸国永はこういうところで鋭く、よく気付く刀であった。燭台切の反応でそれが正解だと分かると、鶴丸の表情が僅かに曇った。
「最近すごくイライラしてるよなぁ、主。本丸の空気も最悪だぜ。そもそも、星を見に行くのを提案したのは俺なんだから、文句は俺に言えばいいのにな。お前も長谷部も、俺のせいにしちまえばよかったのに」
そう言ってあっけらかんと笑った。二人ともそんなことを言うはずがないと分かった上で茶化しているのは、燭台切もよく分かっていた。
それが鶴丸なりの励まし方だということも。
「僕は大丈夫だよ。長谷部くんのことが心配だから、鶴さんも気に掛けてあげて欲しい。近侍の僕が皆を守れないからこんなことになってしまったんだ」
燭台切は悔しそうに唇を噛む。
「俺にとっちゃお前も十分心配だけどな。一人で抱え込むなよ、仲間だろ?」
燭台切より少し後に顕現した鶴丸は、二振り目の太刀ということもあり、顕現初日から本丸の主戦力として活躍している。燭台切をすぐに追い越して、今では本丸一の錬度の高さだ。
普段はふざけて飄々としているが達観しており、時々ちくりと核心を突くようなことを言う。
審神者にとってはそういうところが苦手だったのか、鶴丸の錬度が上限に達しても近侍を交代させることはしなかった。まぁ頼まれても断るけどな、と昔言われたことがある。
「ありがとう。でも、これは僕一人の問題なんだ。鶴さんを巻き込みたくない」
そう言って燭台切は歩き出す。いつも優しくニコニコと笑ってはいるものの、その芯は誰よりも強く、一度決めたことは頑なに譲らない。
そんな性格を知っているからこそ、鶴丸はそれ以上何も言えずに、暗闇に吸い込まれていく彼の後姿をただ見つめていた。
翌日も雲ひとつない快晴だった。
こんなに空が綺麗なら今夜もきっと星が見えるだろう。誰もが内心そう思っていたが、口に出して提案をする者はいなかった。
そればかりか昨晩の思い出を語ることも、今日の作戦を練り直すこともせず、四人はただひたすらに黙って歩く。
乾いた靴音だけがやけに大きく響いていた。
「いけそう?」
燭台切は大倶利伽羅に話し掛けた。
「問題ない。それよりあんたは昨日ちゃんと寝たのか」
クマが酷いぞ、と大倶利伽羅は、自身の左目をとんとんと指差す。
まさか彼に心配されるとは夢にも思わなかった燭台切は、慌てて目元を擦った。
「星空に興奮してなかなか寝付けなかったんだ。これじゃかっこつかないよね」
それが嘘だということくらいは大倶利伽羅も気付いていた。だが、人よりも格好を気にするこの刀は、きっと詮索されるのを嫌うだろう。
そうかと返事をしてから、再び前を向く。
鶴丸はいつも通りに見えたが、長谷部の様子も相変わらずおかしかった。
初めて会話をした時は馬鹿みたいに真面目で偏屈な奴だと思ったが、星を見た夜の楽しそうな表情には驚いたものだ。主の前でにこにことゴマを擦っている時よりも、鶴丸とくだらない言い合いをしている時の方が素の表情に思えた。
しかし今の長谷部は誰とも目を合わさず、黙って目的地へと進んで行く。
全員が同じ方を向いて歩いているはずなのに、まったくそんな風には思えなかった。
「敵が来たぜ!」
鶴丸の声で大倶利伽羅はハッと我に返る。
目の前には禍々しい邪気を纏った敵が三体、こちらに向かってくる。
初めて見る敵の姿に一瞬怯んだものの、隣の燭台切が誰よりも先に走り出したのを見て、負けじと刀を抜いた。
その日の出陣は大勝利に終わった。
大倶利伽羅が実戦でのコツを掴んだ頃には、当初目標としていた倍近くの資材を集めることが出来た。
しかし最後まで四人の間で必要以上の会話が交わされることはなく、本丸までの帰り道はやけに長く感じられた。
夜は雨が降り、星は見えなかった。
「雨、やまないな」
鶴丸は窓の外を見ながら呟いた。
季節は梅雨を迎えていた。雨の日は畑当番も洗濯も出来ないため、内番の数が減り、暇を持て余す刀剣男士が多い。
しかし今の本丸の空気が重いのは、決して梅雨の湿気のせいだけではなかった。
「鶴さん、包帯そっちに余ってないかな」
燭台切は空になった包帯の芯を握りながら尋ねる。黙って首を振る鶴丸を見て、ため息をつきながら肩を落とした。
事態は更に悪化していた。
手入れ部屋に入れない刀剣男士の手当ては仲間内で行っていたが、今ではそれも追い付かない。薬や包帯といった備品を買う資金すら、毎月少しずつカットされているのだ。
「手ぬぐいを千切れば代用できるんじゃないかな」
鶴丸はそう言って、側にあった手ぬぐいを包帯の大きさに破いていく。こんなことをしても根本的な解決にならないことくらいは、言わずとも分かっていた。
静かな部屋に、布を引き裂く音だけが響く。
「明日は今日の倍、資材を集めなきゃ。明日こそは鍛刀を成功させなくちゃいけない」
「お前は明日は休め」
二人の手が同時にぴたりと止まった。
「お前、相当疲労が溜まってるぞ。毎日ぶっ通しで出陣しているんだろう。ちょっとは休まないと、いつか……」
「いいんだ!」
燭台切が言葉を遮る。その声は悲痛に満ちていた。
「本丸がこんなことになっているのは近侍の僕のせいだ。僕が頑張らないと、皆もっと苦しんでしまう」
「お前はいちばん頑張ってるさ」
「頑張ったって、結果を出せないと何も意味がないのに。主がおかしくなってしまったのだって、僕が上手く鍛刀できないせいなんだ。一日でも早く目当ての刀剣を揃えられたら、きっと主は昔の優しかった頃に戻ってくれる。僕がもっと頑張れば……」
鶴丸はそうは思わなかった。
人間は欲深い生き物だ。手に入れたものはすぐに目新しさを失う。そしてまた新しいものが欲しくなる。
いつの時代も変わらずに、そうやって歴史は作られてきた。
だがそれを伝えることで、泣きそうな顔で唇を噛む目の前の男を救えるとは思わなかった。
「近侍、代わってくれないか。一度あの主にはガツンと言ってやりたいと思っていたんだ。俺は錬度も上限だし、お前から言えば断る理由はないはずだ」
燭台切は首を横に振った。
「絶対そんなことしない」
「なぜ!」
「包帯、ありがとう。助かったよ」
鶴丸の言葉を無視し、千切られた布の束を持って立ち上がる。
「僕はただ、鶴さんと、伽羅ちゃんと、長谷部くんと、……主と、また星が見たいだけなんだ。それなのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろうね」
それだけ言い残し、燭台切は部屋を後にした。
鶴丸はやるせない怒りを拳に込めて畳に打ち付ける。
その音は外の雨に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。
その日は灰色の雲が空全体を覆い、今にも雨が降り出しそうな天気だった。
今日の出陣は、燭台切と大倶利伽羅と鶴丸と長谷部。いつかの大倶利伽羅の初陣と同じ編成だ。
あの日は目標の倍近くの資材を持ち帰ることができたため、同じメンバーで同じ場所へ出陣するように命じられたのだ。
手に入る資材の量はその日の運であるし、ましてや部隊編成が関係あるなんて迷信もいいところだ。口には出さなかったが、それだけ審神者が藁をも掴む思いでいるのだろうと四人は思った。
「……っ!」
十体目の敵打刀を斬った時、燭台切はふいに目が眩むのを感じた。
同時に体のバランスが崩れる。重力を無視するかのように体がふわりと浮く感覚によろめき、思わずその場に膝をついた。
疲労。
その二文字が脳裏を過ぎった。
「……撤退するぞ」
顔を上げると、そこには長谷部が険しい顔つきで手を差し伸べていた。
程度の差はあれど全員が疲労している状況の中、命じられた資材の量の半分も手に入ってはいない。
いつもなら率先して資材集めに奮闘する長谷部が撤退を提案するのは、本気で自分を心配してくれているから。それは痛いほどよく分かっている。
そしてこの後、部隊長である彼が審神者に酷く責められるであろうことも、容易に想像できた。
「まだいけるよ。ここまで来たんだ、もう少し進めば沢山資材が手に入るポイントがある」
「こんな状態で進んだって持ち帰れるわけないだろう。お前の状態は危険だ。とにかく帰って……」
「帰ってどうするんだ!」
長谷部の体がびくりと固まる。
「帰ったって、命じられた量には到底足りないんだ。どのみち誰かが行くはめになる。部隊長のきみは、特にひどく罵られるだろう。僕はもう誰も傷付いてほしくないんだよ」
声を聞きつけ、少し遠くで敵を斬っていた大倶利伽羅と鶴丸が駆け足で戻ってきた。
燭台切ほどではないが、彼らの身体にも疲労は十分に溜まっている。もはや一振りで倒せるはずの敵にさえ苦戦していた。
「みんなはそこで待っていてほしい」
「はは、待つと思うか?」
頬にこびりついた返り血を拭いながら、鶴丸は真っ直ぐ燭台切を見つめた。冗談交じりの声に反して、その顔に一切笑顔はない。
殴ってでも連れて帰る、と言わんばかりの気迫で、鶴丸は一歩前に出る。
「傷付いてほしくない傷付いてほしくないって、お前が一番傷付いてちゃ元も子もねぇだろ。なぁ、頑張らなくたっていいんじゃないか。もっと周りを頼ってさ、疲れたら休んで…人ってそういうもんなんだろ。アイツだって同じなんだよ。ちょっとは頑張ることをやめないと、じゃないと……」
「あんたが壊れる」
出陣時からほどんど口を開かなかった大倶利伽羅が、鶴丸の言葉を遮った。
「……人間の体はずいぶんと不便だ。睡眠や食事を取らないと倒れるし、皮膚は脆い上に血はすぐ出るし、あぁ、放っておけば爪が勝手に伸びるのも面倒だな。しかしそれ以上に、心というものがなんとも厄介なもんだと思った。あんたや長谷部を見ていたら、特にな」
長谷部は何も言わずに目を逸らす。
「誰も傷付かない願い事っていうのは、あんたも入っていなきゃ意味ないんじゃないか」
燭台切は一歩後ずさりをする。
今にも雨が降り出しそうな土の匂いが、鼻の奥をツンと掠めた。
なぜ皆、頑張るなと言うのだろう。
頑張らなければ意味がないのに。
結果を出せないと意味がないのに。
あと少しだけ頑張れば、主も昔のように穏やかになって、本丸の雰囲気もきっと良くなる。
あと少しだけ――
「僕は大丈夫だから、先に進むよ」
「燭台切!」
撤退は、登録した部隊の全員が揃わないと出来ないシステムとなっている。
長谷部は無理矢理にでも進もうとする燭台切の腕を掴んだ。
「……資材を持ち帰れないことよりも、誰かが折れた方が、主は悲しむと思うぞ」
燭台切の懸念を知ってか知らずか、今のままで撤退すればどうなるのか、長谷部も多少なりとも理解しているようだ。
しかし、資材は少ないけれど誰も折れずに良かったですね、なんて優しい言葉をかけて貰えると思っているであろう目の前の刀は、やっぱりまだ甘いのだろうと燭台切は思った。
「星を見た日はごめんね。主が写真で喜ぶなんてばかな提案をして」
「なぜ今そのことを」
「きみはまた、主にがっかりしたなんて言われたら耐えられるの」
「っ……!」
腕を掴んでいた長谷部の手が一瞬だけ緩むと、その隙を見て振り払った。
こういう時、どんな言葉をかけたら彼が揺らぐのかはよく分かっている。多分、その辺りは自分とよく似ている気がした。
「おい光忠、お前いい加減に……!」
「待て!」
鶴丸の言葉で全員の動きが止まる。
次の瞬間、近くの草陰から敵が飛び出してきた。回り込まれていたのだ。
「くそっ……まだ残っていたとは!」
普段であれば先陣を切る長谷部の足がわずかに遅れた。
燭台切の視界に敵が振り下ろした刀身が映る。
死角である右側を狙われたのだと気付いた時には遅く、その一瞬の出来事はまるで映画のスローモーションのようにも思えた。
「光忠!!」
大倶利伽羅の声が辺りに響き渡る。
視界に舞い散る赤。
これは……自分の血か。
体からとめどなく噴き出す血は止まらずに、燭台切はその場に倒れこんだ。
熱い。炎で焼かれるような熱さが全身を駆け巡った。
「おいしっかりしろ、帰還するぞ!」
不思議と痛みは感じなかった。
自分の命の火が安物の蝋燭のようにみるみる消えていくのを感じながら、あれだけ言っておきながらかっこつかないなぁと、ぼんやり他人事のように思った。
「血が止まらない、はやく止血を……!」
必死の応急処置を行う仲間の声も、どこか遠くの会話に聞こえる。
ここで折れるのか、僕は。
まだやり残したことはあったのになぁ。
鶴さんには最後まで心配をかけてしまった。
僕が消えた後、長谷部くんは大丈夫かな。
伽羅ちゃんと、もっと話がしたかった。
「ごめんね」
喉から搾り出されたか細い声に、三人の手がぴたりと止まった。
カキンと冷たい音がした途端、側に落ちていた皹だらけの刃が折れる。
そして燭台切の体はまるで始めからなにもなかったかのように、冷たい空気の中に吸い込まれて見えなくなった。
「……嘘だろ」
大倶利伽羅は辺りを見回して叫んだ。先ほどまでそこにいた彼の姿は、もうどこにもなかった。
「おい光忠!燭台切光忠!戻ってこい!」
ぽつりと水滴が頬を打つ。雨の匂いは一層濃くなり、残された血の匂いと混ざり合って鼻の奥をついた。
鶴丸は大倶利伽羅の肩を優しく撫で、小さく呟いた。
「……帰ろう、伽羅坊」
長谷部は残された燭台切の刀身を拾い上げる。
「雨が降ってきた」
燭台切光忠が折れた。
口に出すことで、それが先ほど現実に起きた出来事であると痛感させられた。
審神者の部屋の中、長谷部は淡々と戦果を報告する。大倶利伽羅は下を向いたまま燭台切の刀身を握り締め、隣の鶴丸も俯き無言を貫いていた。
「あいつには、お守りを渡したはずだが」
燭台切が折れたと聞いた時は一瞬驚いた表情を見せたものの、審神者は不思議そうに自身の顎を掻いた。
「俺が貰ってしまったんだ。断ればよかった」
小さく震える肩を、鶴丸は黙って撫でる。
「それならそうとあの時に言えばいいものを……貴重な戦力だったのに、何を考えているんだ」
「きみ、光坊に何か言ったのか」
審神者はいや、と否定しかけたが、嘘など許さないであろう彼の鋭い眼光に観念したのか、ばつが悪そうに目を逸らした。
「重傷の奴らの代わりに出陣するよう言ったまでだ。お守りがないなら、最初からそんな作戦は……」
言い終わらない内に、大倶利伽羅が審神者に殴りかかる。
間一髪、両隣の長谷部と鶴丸が大倶利伽羅の体を抑え制止した。その剣幕は二人がかりでも圧倒されそうなほどだった。
「離せ!こいつは俺が斬る!」
「おい大倶利伽羅、よせ!」
「主を切ればお前が消えてしまう可能性だってあるんだぞ!光坊だってそれを望んじゃいない!」
大倶利伽羅の体は魂が抜けたように項垂れ、その場に膝をついた。立ったままの二人は黙って顔を見合わせ、目配せをする。
「伽羅坊、部屋に戻ろう」
鶴丸は燭台切の刀身を袖にくるむと、大倶利伽羅の肩を抱え上げて部屋を出た。
審神者に言ってやりたいことは山ほどあったが、まずは憔悴しきっている目の前の刀をどうにかすることが先決だ。
彼らが部屋を出たのを確認してから、長谷部も立ち上がる。
普段ならば今後の出陣について確認をするのだが、今はとてもそんな気分にはなれなかった。
「長谷部」
蛇のように体にまとわりつく審神者の低い声に、体がビクリと固まる。
これが鶴丸ならば無視をして出て行くところだろうが、へし切長谷部という刀の性なのか、魔法にでも縛られたかのように再びその場に座してしまう。
何を言われるかは、なんとなく分かっていた。
「今日からお前が近侍だからな」
燭台切が折れたことはすぐに本丸中に広まった。
泣く者、呆然とする者、取り乱す者。その様子から、燭台切光忠という刀がどれほど本丸にとって大切な存在だったのかが、痛いほどよく感じられた。
仲間に伝えて回っている最中、何度か鶴丸自身の心配をされた。相当酷い顔をしているのだろうということは、鏡を見ずともよく分かる。
鶴丸は自室で横になっていた。
本音は大倶利伽羅の側にいてやりたかったのだが、一人にして欲しいという彼の意思を尊重することにした。
慣れ合うつもりはないと睨んでくる彼にちょっかいを掛けるのも常であったが、今は到底出来るはずもない。
そんなことをしても、呆れながら止めに入る燭台切はもういなかった。
「頼むから変な気は起こさないでくれよ。お前まで失いたくない」
そう念を押してから自室へと戻った。勿論本音ではあるのだが、こう言えば、この優しい刀は自害も審神者殺しもしないであろうと見越しての発言だった。
我ながら、ずるいと思った。
「鶴丸」
障子がゆっくりと開く。
鶴丸は何も言わずに長谷部を招き入れた。小さく開いたままの障子の隙間から、止む気配のない雨音が響いている。
会話を交わさないままどれだけ時間が経っただろうか。長谷部はようやく重い口を開いた。
「俺が近侍になった」
「そうか、良かったな。……って顔じゃあねえよな、それは」
いつもの軽口も力なく、鶴丸は苦笑する。
こうなることは粗方予想がついていた。
錬度が最も高い自分よりも、主命を第一に考える“へし切長谷部”を近侍に置いたほうが彼にとっても都合がいいことは火を見るより明らかだ。
そしてそれを、燭台切が何より懸念していたことも。
「明日は比較的疲労の少ない部隊で出陣しろとのことだ。とはいえ、明後日にはまた俺達も出陣することになると思うが。それから遠征の部隊は……」
知らない国のニュースを読むアナウンサーのように淡々と明日の予定を述べ始めた長谷部を、鶴丸は慌てて止めた。
「おいおい、まさかそんなことを言いに来たのか?てっきり酒でも持って来て、一緒に光坊の思い出を語り合ってくれるんだと思ったが」
「報告書を書くように言われたんだ」
頑なに目を合わせようとしない横顔を、鶴丸は怪訝な表情で覗き込む。
「……報告書?」
「資材の量、鍛刀や出陣などのペースから、刀剣男士を酷使しているのではないかと政府から目をつけられていたらしい。そして今回燭台切が折れて……政府の監査が入るので、近侍による報告書を提出しろとの達しが来た」
近頃、劣悪な環境の本丸が各地で問題になっているとは噂で聞いていた。
刀剣男士に謀反でも起こされようものなら、政府としても非常にまずいのだろう。少しでも疑いのある本丸には調査が入るとは聞いていたが、まさかその対象が自分のいる本丸となるとは。顕現したての頃からは想像もつかなかった。
「近侍が書くなんて建前で、主が書いた台本を自分の言葉に直すだけだ。手入れ部屋での手入れは必要なだけ行われていたと。資材のやりくりについては見直すと。燭台切が……」
一瞬だけ言葉が詰まる。
「燭台切が折れたのは、単なる自身の不注意であると」
「なんだよそれ!」
鶴丸は声を荒げて立ち上がる。
「それでなかったことにするって言うのか!?ふざけるのも大概にしろ!報告書は俺が書いてやる!」
「政府の監査は近侍しか同行できない。それに、報告書は主が事前に目を通すだろう」
「ならきみが書いてくれ。あいつがしてきたこと、包み隠さず全部書いてくれよ」
「……」
肯定とも否定とも取れない表情で黙り込む姿が、鶴丸をさらに苛立たせた。こんなことを聞かせるためにわざわざ来たというのか。
「光坊が折れて悔しくないのか!?そうか!きみは、所詮は自分が近侍になれたらそれでいいんだな!」
「……」
「きみのこと最近ちょっとは見直したつもりでいたが…俺の勘違いだったみたいで残念だぜ!」
「悔しいに決まってるだろ!!」
長谷部の急な大声に、鶴丸はたじろいだ。
「主の言うことは絶対だ。一番になりたい。捨てられたくない!そのためならなんだってしてきた!体が、歴史が、刻み込まれて、俺が、へし切長谷部が出来ているはずなんだ。それなのに」
握り締められた拳が膝の上で小さく震える。
「やっと近侍になれたってちっとも嬉しくなかった!今お前に真実を書けと言われて心が揺らいだ。大倶利伽羅が飛び掛ったときも止めたくなんてなかった。またお前達と一緒に星が見たいと思った。感情がぐちゃぐちゃなんだ」
紫の瞳が涙で揺らぐのが見えた。
「俺はきっと、近侍どころか“へし切長谷部”失格だ」
鶴丸は何も言えなかった。
長谷部も大倶利伽羅も、そして燭台切も、彼らの心はひどく人間に近いらしい。
何かに執着し、ぐちゃぐちゃの心情に溺れる姿は愚かであると同時に、鶴丸国永という刀にとって、それはとても眩しく思えた。
「……悪かったよ。だけど、虚偽の報告をしたって俺たちの本丸は何も変わらねぇんだ。近侍のお前が何とかしてくれないと」
「……」
返す言葉もなく押し黙ってしまう長谷部。
これ以上この話題を続けても仕方がないと判断し、鶴丸は話題を変えた。
「なぁ、優良配合って知ってるか?」
「……優良配合?」
「刀剣男士ごとに、鍛刀資材の配合量が決まっていると聞いたことがある。俺はそいつを調べて、折れた光坊の刀身を媒介にしてアイツを呼び戻そうと思うんだ」
鍛刀資材の配合量――優良配合と呼ばれるそれについては、長谷部も耳にしたことがあった。資料室で埃をかぶった分厚い書物を見かけたことがある。
もっとも審神者が欲する刀の優良配合はまだ解明されていないため、近侍の燭台切がその配合を使用しているところは見たことがなかった。
「そんなことが可能なのか?」
「それはやってみねぇと分からないけど……刀身に光坊の記憶が残っているなら、やってみる価値はあるだろ?」
鶴丸は勢いよく立ち上がった。
「よし、善は急げだ。鍛刀の際は近侍のお前にも同席してもらうからな。あと伽羅坊も誘わないとな……皆で祈れば、奇跡か何かでアイツも戻ってくるだろ!」
そう言って部屋を飛び出した彼は、真っすぐに資料室へ向かったようだ。行動が早い。
最後は急に迷信じみたなぁと思うものの、今は鶴丸の言葉を信じるしかない。
根拠のないことでも本当に奇跡が起こりそうな気がしてくる。鶴丸国永はそう思わせてくれる刀だった。
「……俺は近侍の報告書、書かないと」
一人残された長谷部も立ち上がり、部屋を後にする。
「あいつなら、こういう時どうするんだろうな」
その問い掛けに答える者はいなかった。
「必要な資材、分かったぜ」
長谷部が呼び出されたのは、それから二日後のことだった。
木炭が六六〇、玉鋼と冷却材と研石がそれぞれ七七〇。
他にも鍛刀時の細かな注意点が書かれたメモを、鶴丸はひらひらと顔の横で扇ぐ。
ろくに寝ずに様々な文献を調べていたのだろう。得意気な表情を見せる鶴丸だったが、その顔には疲労が見て取れた。
「問題は資材をどう調達するかだ。遠征で持ち帰った資材はすぐに日課の鍛刀に回されてしまうし、今余っているぶんもない」
「それなら心配いらないぜ」
鶴丸は部屋の襖を開け、重なった布団の下に隠すように置かれた木箱を取り出した。
蓋を開けるとそこには、メモに書かれた通りの資材が入っている。
長谷部は驚いて目を丸くした。
「これは……?」
「足しにしようと思って俺の刀装を溶かしていたら粟田口の奴らに見付かってな。事情を話したら皆に呼び掛けてくれて、刀装を少しずつ分けてくれたんだよ」
資材が枯渇して刀装の支給もままならない中で、皆が燭台切のために、自らの体を守る刀装を差し出したのだ。
「あと、それを聞いた今日の遠征部隊の奴らも資材を余分に集めてくれたんだ。疲労も溜まってるのにな」
話を聞きながら、長谷部は箱の中の資材にそっと手を触れる。
燭台切光忠という刀がずっと近侍を務めてきた理由が、ようやく分かった気がした。
「きみはこれから監査なんだろう?」
「あぁ。主の目が通る書類は、主の命じたままに書き記している」
その言葉に、鶴丸の眉がぴくりと動いた。
「きみ……」
「大丈夫だ」
「……俺なりに、答えを出した」
監査は離れの客室で行われた。
普段は滅多に使用されないその室内は、梅雨の湿気と埃が混ざり合った匂いが充満し、張り詰めた緊張感をより一層濃いものにしている。
政府から派遣された監査官は七名。審神者と長谷部の前にずらっと並ぶ光景は威圧的で、自然と背筋が伸びてしまう。
監査官達の口から、淡々と報告書の内容が読み上げられる。
直近の出陣回数および場所。
使用された資材の内訳。
手入れ部屋の使用回数。
その他、経費内訳。
書面上の数字からでは、本丸の内情まで把握できないだろうと長谷部は思った。
せいぜい口頭での厳重注意止まりだ。手入れを自分達だけで必死に行っていたのが仇となったらしい。
しかし、監査官の指はある項目で止まった。
「……近侍の燭台切光忠が、先日戦闘で折れていますね」
長谷部は横目で審神者を見た。
「はい。それは同じ部隊で出陣していた近侍……現在の近侍のへし切長谷部が、よく存じています。詳細は彼の口から」
審神者は顔色ひとつ変えることはなかった。
目の前の視線が一斉に長谷部に集まる。
重苦しい空気に押し潰されそうになりながらも、長谷部は乾いた口を開いた。
「……燭台切光忠は、仲間思いで頼もしい刀です」
「同時に責任感も強く、――を鍛刀できないことをとても気に病んでいました」
「連続した出陣は危険だと、主は止めましたが、資材を手に入れるために無理をして出陣しました」
「主は燭台切にお守りを持たせていましたが、燭台切は別の刀へ、勝手にそれを渡してしまいました」
「よって、燭台切が折れたことは、彼自身の不注意であると言えます」
長谷部はもう一度審神者を見る。
審神者は悲しげな表情を浮かべながら頷き、時には目頭を抑える真似をした。
監査官側からは見えないその口元が、少しだけ緩んだようにも見えた。
「なるほど、分かりました。では監査はこれにて……」
「……と、虚偽の報告をするように命じられました」
長谷部の声に、部屋にいた全員の動きが固まる。隣の審神者は、聞き間違いだと疑わずに首を傾げた。
「何を言ってるんだ、長谷部?」
「燭台切は主に命じられて出陣しました。他の刀を守りたくば、彼らの倍働くようにと。手入部屋の拡張も天秤にかけられていました」
「へし切長谷部!!」
審神者の叫び声で全身が凍りつく。
主の命という呪縛は、へし切長谷部という身にどろりと絡み付き、離れることはないのだろう。
それでも。
「手入れは物資を搔き集めて自分達で行っていました。包帯の代わりの手ぬぐいすら、もうほとんどありません。燭台切はその状態を誰よりも憂い、出陣し続けた」
「あいつの……燭台切光忠の努力を、不注意という言葉で片付けないでくれ!」
しばらくして、書記役の監査官がメモを取る音が止んだ。
審神者は怒りに震えながら長谷部を睨み付けている。
言ってしまった。
体が小刻みに震える。もう取り返しがつかない。
「念のため引き続き調査をさせて頂きます。……が、今の話が本当ならば、重い処分を覚悟してください」
監査官達は淡々と手続きを進めていく。
「処分だと?」
「処分はこの本丸からの解雇ですね。あぁ、再び赴任を希望する場合は、相応の研修が必要になりますので。同じ本丸に戻れる可能性は低いですが」
監査官の中でも若く見える二名が立ち上がり、審神者を拘束する。審神者はそれを振り切り、長谷部に怒鳴りかかった。
「長谷部、お前は俺を裏切ったのか!」
怖い。
が、向き合わないといけない。
長谷部は立ち上がり、まっすぐに審神者を見つめた。
「……主の過ちを正すのも近侍の役目です。俺は貴方を信頼しているからこそ…変わってください。いつの日かもう一度、俺たちと向き合ってください」
燭台切光忠なら、きっとこう言うと思ったのだ。
部屋を出てみると、裏の壁から白い影が見えた。
「……盗み聞きとは感心しないな」
鶴丸はにやにやと笑いながらひょいと顔を出す。
「いやぁ、最高にかっこよかったぜ長谷部!どうなることかと思ったが…最後の最後で盤面をひっくり返すとは、とんだ驚きだ!」
鶴丸は興奮した様子で長谷部の肩をばんばんと叩いた。図らずしもこの男が一番好みそうな告発の仕方をしてしまったらしい。
「まぁ……アイツもしばらくここを離れたら頭も冷えるさ。どうせそのうち俺たちが恋しくなってくるだろ」
そうだろうか。そうだと嬉しい。
どういう顔をしていいのか分からずに、長谷部は力なく笑った。
「さて、伽羅坊を呼びに行こうぜ」
鶴丸は再び長谷部の肩を叩いた。
「……光忠を呼び戻す?」
二人の提案を聞いた大倶利伽羅は、半信半疑といった表情を浮かべて顔を上げた。
近くでは折れた燭台切の刀身が、絹の上で静かに寝かされている。人の身とは異なるそれをどう弔うべきなのか、屋根に当たる雨音を聞きながらぼんやりと考えているところだった。
「折れた刀身を使って燭台切の優良配合を試してみるんだ」
長谷部は計画の概要をざっと説明した。
刀剣男士の体を顕現することができるのは審神者のみである。しかし今は審神者がいない。
そこで鶴丸は審神者の部屋に忍び込み、顕現に使用するための特別な紙とやらを持ち出してきたらしい。
ばれた時を考えると恐ろしいが、仕方がない。
「しかし……あの燭台切光忠が戻ってくる保証はないんだろう。失敗する可能性だってある」
「そこはあれだよ…俺達の祈り次第ってやつだ!」
いきなり迷信じみたなと、いつかの長谷部と同じ表情を浮かべる大倶利伽羅。
しかし今は、その不確かな奇跡に賭けるより他なかった。
三人は資材箱を抱えて鍛刀部屋へ向かう。
気が付くと僕は、何もない空間にいた。
最後に斬られた背中の傷は、いつの間にか塞がっている。
ずっと身体を蝕んでいた疲労もない。
ぼんやりとした頭の中で、途切れ途切れの記憶を結び直し、ようやく自分が戦闘中に折れたことを思い出した。
「また迷惑かけちゃったなぁ」
思い出すのは必死に自分を呼ぶ声。
あの鶴さんが取り乱しているところ、初めて見た。
長谷部くん、僕のために泣いてくれるんだなぁ、意外かも。
伽羅ちゃんは最期まで僕の名前を呼び続けてくれたな。
自分は仲間からこんなに信頼されていたのだ。
もしかすると、頼ることも、弱音を吐くことも、かっこ悪いことではないのかもしれない。
それに気付いた時にはもう、皮肉にも彼らと声を交わすことは出来なかった。
燭台切は辺りを見渡した。
今ここにいるのは、分霊としての残留思念か何かなのだろうか。
折れたあとに皆が持ち帰ってくれたおかげで、刀身に宿った記憶がわずかに残っているのかもしれない。
しかしこの記憶も直に消えて、僕の意識は無に還るのだろう。
「もう一度、皆と星が見たかったなぁ」
ぽつりと呟く声は誰にも届かない。
ここは夜の闇より真っ暗だ。
誰も来ない、星ひとつない、闇の中。
『……光坊!』
聞こえるはずのない声が聞こえた気がした。
辺りは依然として真っ暗で、ついに幻聴まで始まってしまったのだろうか。
誰も来てくれるはずがないのに。
僕は一度、彼らの手を振り払ってしまったのだから。
『燭台切!』
僕を救おうとしてくれた声が、まだ響いている。
間に合うのならば、その手を掴んでもいいのだろうか。
『光忠』
こんなに無様で、格好もつかなくて、弱い僕を。
皆は待っていてくれるのだろうか。
『……当たり前だ』
それは聞き慣れた皆の声だった。
星空のように眩い光が差し込み、目の前の闇が晴れていく。
「ここは……」
見慣れた景色。
あれだけ根を詰めて毎日通っていた鍛刀部屋だ、見間違えるはずがない。
いつもと違うのは、見慣れた視点と百八十度異なっている点だろうか。
「光坊!良かったなぁ!」
鶴丸が勢いよく抱きついてくる。
燭台切は思わずよろめいた。刀剣男士の中では比較的軽い方であるものの、急にのしかかられると流石に重い。
「おいおい鶴丸、病み上がりだぞ。また燭台切が折れたら次はないからな」
いつものように鶴丸を諌める長谷部だが、その顔からは笑顔が溢れているように思えた。
「……よく戻ってきたな、燭台切」
その言葉で、ようやく燭台切は自分の体が呼び戻されたことに気付く。
折れた刀身を使ったのだろうか。長いこと近侍を務めていたが、そんな方法があるなんて聞いたこともなかった。
だけど自分は現に今……ここにいる。
「おかえり、光忠」
大倶利伽羅はそう言うと、少しだけ微笑んだ。
その目は優しく、潤んでいるようにも思えた。
「皆、僕のために……本当にごめんね」
「おいおい、そこは謝るところじゃねぇだろ!?」
鶴丸の手が背中をぱしりと叩く。
「うん…ありがとう、鶴さん。伽羅ちゃん。長谷部くん」
燭台切が照れくさそうにそう言うと、目の前の三人も顔を見合わせて笑った。
「……ただいま」
なんだ、僕には最初からこんなに頼もしい仲間が側にいたのだ。
不可能を可能にし、奇跡だって起こしてしまうくらいの、最高の仲間が。
それからしばらくは慌ただしい日々が続いた。
燭台切は政府関係者に呼び出され、審神者についての聞き取り調査がみっちりと行われた。
最初こそ言葉を濁していたものの、本丸の内情を告発したのが長谷部であったと聞くと、決心したように全てを語った。
燭台切の報告が決め手となり、審神者は正式に解雇となった。
今後彼がどのような道を進むかは分からないが、心を入れ替えたのちは、再び刀剣男士と接して欲しい。燭台切は心からそう思った。
新たな審神者が到着するまで刀剣男士達は待機を命じられ、本丸内には久しぶりに平和が戻っていた。
「……はぁっ!」
道場内には竹刀の乾いた音が響いている。
「わわっ!」
大倶利伽羅の攻撃を避けきれずに、燭台切はよろめいてその場に膝をつく。
「驚いたなぁ。伽羅ちゃんはやっぱり飲み込みが早いね」
ふん、と言って汗を拭う大倶利伽羅だったが、その横顔はどこか満足げであった。
刀達は出陣がないぶん訓練をしたり、この機会に畑を整備したりと、各々が自由に過ごしていた。
大倶利伽羅と燭台切も、相変わらず毎日手合わせを続けている。以前と異なる点は、大倶利伽羅が燭台切と互角に戦えるようになってきたところだろうか。
「お前ら、お疲れ!休憩したらどうだ?」
冷えた麦茶を抱えた鶴丸と長谷部が道場に入ってきた。
「ありがとう、もう麦茶作ってくれたんだね。最近減りが早いからなぁ」
いつの間にか梅雨は明けており、今日も窓から強い日差しが差し込んでいる。
麦茶は毎朝巨大なやかん三つで作るものの、すぐに底を尽いてしまう。夏場は当番制で作るのがルールとなっていた。
「長谷部が作る麦茶すごくまずいんだよ。麦茶だぜ?失敗のしようがないだろ」
「うるさいな」
今日の麦茶は鶴丸が作ったらしい。同じく当番であったらしい長谷部は、ばつが悪そうに目線を逸らした。
「あんたの握り飯も変な味がした」
「お前っ……!夜に腹が減ったというから作ってやったのに、恩知らずな奴め!」
夜中に長谷部が作った握り飯を食べている大倶利伽羅を想像し、燭台切は思わず吹き出してしまった。
「まぁまぁ、作り続けていれば上手になるよ。そうすればきっと……」
言いかけて燭台切ははっとする。
長谷部が料理の練習をしていたのは、他でもない審神者に食べてもらうためであった。
無神経なことを言ったかもしれない。
「……いいさ、新たな目標ができた。いつかお前達が泣いて喜ぶ料理を作ってやるからな」
気にしなくていい、といった様子で長谷部はにやりと笑った。その顔からは昔のようなピリピリとした様子は感じられず、どこか憑物が落ちたようにも見えた。
「ところでさ、今の近侍は誰ってことになってるんだ?」
麦茶の葉を購入したいんだが。鶴丸はそう言って、燭台切と長谷部を交互に見た。
「燭台切が折れたため代理で俺になったが、戻ってきたから……結局誰なんだ?」
「まぁ、新たな審神者が来れば新たな近侍も決まるだろうな」
新たな近侍。
大俱利伽羅から何気なく発せられた言葉に、その場の全員が口を噤んだ。
「今度は燭台切以外にしないとな。お前は一人で溜め込みすぎるから」
「それ、きみが言うの?……僕は本丸皆で交代制にするべきだと思うな。そうすれば、一人ひとりの負担は減る」
「いっそ四人でやるってのはどうだ?」
鶴丸の一言で、三人の目が丸くなる。
「……なんだよ四人って。俺はごめんだぞ、これ以上あんた達と慣れ合うつもりはないからな」
「そんなこと言うなって!俺たち戦闘も鍛刀も相当連携取れてただろ?」
「韻を踏むな」
ため息を吐いてそっぽを向く大倶利伽羅。そんな彼に鶴丸がしつこく纏わりついている。
「前代未聞だな、お前らとなんてうるさくて敵わん」
「あはは。でもそんなことになったら、きっと面白いと思わない?」
新たな審神者が来て、新たな近侍が決まる。
これから先も様々なことが待ち受けているだろう。
それでも、まだ見ぬ未来を少しだけ期待できるのは、信頼できる仲間が側にいてくれるせいだろうか。
やいやいと言い合いを続けている三人に向かって、燭台切は笑顔で言った。
「……ねぇ、今夜は星を見に行こうよ」
完