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「猫にもなれば、城にもなる」

全体公開 18947文字
2021-08-09 23:26:37

作者名:とじょ さん
スペース:レオルク / う2


カップリング:レオルク(←チェカ?)
※作者からの注記
・後天的獣化(ルークの猫化)
・ファレナ、チェカの捏造

 入学から三ヶ月しか経っていないのに、やけに久しぶりに思う。気温調整はされているとはいえやはり寒い冬の空気から離れ、故郷の温暖な空気を肌に感じて、チェカは大きく伸びをした。肺いっぱいに故郷の空気を吸い込んで、出迎えに出てきてくれた王宮の使用人たちに太陽のような笑みを浮かべる。

「みんな、ただいま〜!」

おかえりなさい、と笑顔で返してくれる使用人たちに、チェカは嬉しそうに笑った。学校も勿論楽しい。色んな国で生まれ育った色んな人がいて、王子ではなく学友のチェカとして接してくれる。知らないことは教え合い、互いの長所を高め合う素敵な出会いが沢山ある。でもやはり家というのは落ち着くものだ。たくさんのお土産が詰まった荷物を預けて、チェカは久しぶりの王宮の門を潜った。

「チェカ王子、学校生活はどうですか?」
「とっても楽しいよ! あ、賢者の島のお土産もね、お菓子とか色々買ってきたの。お父様とお母様はすぐ会えるかな? レオナおじたんにも会いたいけど、お仕事忙しいかなぁ」
「今日は謁見もありませんから、すぐ会えると思いますよ。お二人共チェカ様とお会い出来るのを楽しみにしておられました」

使用人たちと話しながら歩いていたチェカは、ふと廊下の窓枠に猫がいるのが目に止まった。金色の美しい毛並みをした猫の首には茶色の編み紐がリボンのように結ばれている。エメラルド色の瞳がとても美しい猫だった。わぁ、とチェカは顔を輝かせて猫に早足で近付く。

「猫ちゃんだ! 王宮で飼い始めたの?」
「あ、いいえ、そちらの猫は……
「うなん、なーぅ」

チェカが近付いても猫は逃げることなく窓から降り、その足元に体を寄せた。足に体を擦り寄せるのに擽ったそうに笑って、チェカはしゃがみこむ。近寄ると殊更その瞳の美しさが目を惹いた。宝石の目を持つ幻想種の一種ですよ、と言われても納得してしまうほどだ。これほど大きく美しいエメラルドは王室の宝物庫にもないかもしれない。チェカは差し出した手に頭を擦り寄せる猫に笑みをこぼして話しかける。

「こんにちは、猫ちゃん。僕、チェカ。初めまして!」
「らう、なんにゃぅふ」
「うふふっ、お喋りが上手な猫ちゃんだね。でも動物言語で猫ちゃんの言葉はまだ習ってないんだよ、残念……習ってたら猫ちゃんの言葉が分かったのかな?」
「うるるぁん」

猫はチェカの前に座るとゆるりと尻尾を揺らしてチェカを真っ直ぐに見上げる。猫なのに猫背でなく、とてもいい姿勢だ。綺麗な猫だなぁ、とその美しい毛並みを撫でたチェカは、不意に使用人たちが少し距離をとって眺めているのに気付いた。使用人たちを見て、首を傾げる。

「どうしたの? 猫ちゃん、大人しくってお利口さんだから、来ても大丈夫だよ? ねー、猫ちゃん」
「なん!」

チェカの言葉に同意するように猫は一声鳴く。言葉が通じているような様子に、チェカは嬉しそうにふふふと笑った。お父様なら猫の言葉も分かるかなぁ、と猫を撫でながら考えるチェカに、恐る恐るといった様子で使用人の一人が声をかける。

「えぇと、チェカ様。その猫なんですが……
「うん、この猫ちゃんがなぁに? 誰の飼ってる猫ちゃんなの? お名前は?」
「俺の猫だ」

不意に廊下に響いた低い声に、使用人たちがびくりと体を跳ねさせて一気に壁際に寄って道を開けた。その声にぴんと耳を立てた猫がチェカの脇を足音ひとつなく駆け抜け、使用人たちの間を抜けて声の主に向かって跳ぶ。それを難なく片手で受け止め、慣れた仕草で肩へ登らせた男に、チェカはぱぁっと顔を輝かせた。

「レオナおじたん! 王宮に居たの? おじたんの猫ちゃんなんだぁ!」
「声がうるせぇ、もう少し静かに話せ、チェカ。大声出さなくても聞こえてる」

廊下の奥から歩いて来たのはチェカの叔父であり現王弟のレオナだ。普段は外交を担当し、ツイステッドワンダーランド中を忙しく飛び回っている彼が王宮にいるのは非常に珍しく、会えないかもしれないと思っていたチェカには予想外の喜びだった。満面の笑みで駆けてくる彼を軽く手で押し留めたレオナの肩に乗った猫は、ゆるりと長い尻尾を揺らしてチェカを見下ろしている。
今はチェカも十六歳。言われた注意はちゃんと聞ける歳になった。自分の口を両手で押さえて、ごめんなさい、と言ってからいつも通りの、会話として不十分しない程度の音量で改めて話し始める。

「レオナおじたん忙しいから、ホリデーでも会えないかもって思ってたから、会えてとっても嬉しい! お土産のお菓子もあるよ、でもおじたんも賢者の島は通ってたもんね、あんまり目新しいものはないかなぁ」
「何度も言うが、菓子は要らねぇ。俺の分もラギーにくれてやれ。特にドーナツなんかはあいつの好物だからな」
「うん、分かった! それで、そう、猫ちゃん! この猫ちゃん、レオナおじたんの猫ちゃんなんだね! 王宮で飼ってるの? 普段のお仕事の時とかはどうしてるの? 名前は?」

注意された声量には気をつけているものの、昔からマシンガンのように矢継ぎ早に話す癖は治っていない。呆れたように見下ろすレオナの表情など気にしたこともないようにチェカはころころと表情を変えながら問いかけ、改めて猫を見た。肩の上でバランスをとりつつ形の良い頭をレオナの頬に擦り寄せるあたり、とても彼に慣れて懐いているのだろう。レオナもそれに鬱陶しそうに少し眉間にしわがよせたものの、咎めるようなことはしていない。あー、と明後日の方向に目をやったレオナは、少し考えるような素振りを見せてから再びチェカに視線を戻した。片手で雑に猫の頭を撫でる。

「名前はシャスール。初めて王宮に連れてきただけだ、普段は連れ回してる……ってより、こいつが勝手についてくる」
「うるるぁ、なーん」
「うるせぇ、事実だろうが」
「うな、ふるる……にゃうらう」
「それをついてくるって言うんだよ、馬鹿」

チェカはまだ動物言語の猫語を習ってはいないが、魔法士養成学校を卒業したレオナはその猫の話す言葉が分かるらしかった。やっぱりおじたんは凄いなぁ、と尊敬の眼差しで見上げるチェカの視線を無視したレオナは使用人たちを振り返る。おい、という呼び掛けにびくりとその肩が揺れた。

「こんな所で油売らせてないで、さっさと兄貴のとこ連れてけ」
「はっ、し、失礼致しました、レオナ様」
「チェカ様、参りましょう。陛下がお待ちです」

ようやく時が動き出したようにわらわらとチェカに近寄ってくる使用人たちにふんと鼻を鳴らして、レオナは踵を返した。使用人を一人も伴わずどこかへ向かうレオナの背中に、チェカは大きな声で呼びかける。

「おじたん、時間が空いたらまたお話してね! シャスールも、また撫でさせてね!」

レオナは振り向かなかったが、動く肩の上で器用に後ろを振り返った猫はみゃおん、と鳴いた。あぁやっぱり、早く猫語を習いたいなぁ、とその背を見送るチェカに、使用人の一人が肩に手を置く。

「レオナ様は数日前に王宮に戻ってこられてから、お忙しいようなのです。さ、参りましょう」
「うん……お仕事、忙しいんだねぇ。僕も早く大人になって、お父様やレオナおじたんのお手伝いが出来るようになりたいな!」

明るい太陽のような笑顔で言うチェカに、使用人たちはつられたように笑って、先程までのように和気藹々と談笑しながら王のもとへと廊下を歩き出す。三ヶ月ぶりの両親にまず何の話をしようかなぁ、とチェカは尻尾を揺らして楽しそうにうふふと笑った。それから、他の誰も引き連れないでどこかへ歩いていったレオナは彼の猫とどんな話をするのかなぁ、とその背を思い浮かべて、少しだけ寂しくなった。


家族一同が会しての食事を終え、湯浴みも済ませたレオナが自室に戻ってくると、食事をしている頃は空を覆っていたはずの雲は多くが流れ、薄い雲の隙間から月の光が透けていた。部屋に入るなりそれを見上げたレオナは寝台の上で寝転んで尻尾を揺らす猫にシーツを被せると踵を返し、扉を開けて廊下に顔を出す。警備兵は入ってすぐに出てきたレオナに何事かと居住まいをただすが、それには何も言わずに軽く手を追い払うように振る。

「寝る。お前らはもう戻れ、警備はいい」
「しかし……
「俺を誰だと思ってる、気配があると落ち着かねぇ。王弟命令だ、下がれ。誰か一人は置いとかねぇと兄貴が怒るとかなら、ラギーでもその辺に置いときゃいい」

呆れたように嘆息したレオナに、警備兵は顔を見合わせると了承の意を口にして敬礼し、去っていった。足音がちゃんと遠くに行って戻ってくることがないのを確認してから、レオナは部屋に戻る。扉を閉めて鍵をかけ、部屋の中に目をやった。月の光は眩しく窓から差し込み、獣人の目にはそれで明かりがなくとも十分だった。
そしてその中に、シーツを纏って寝台に座る人間が一人。そのきめ細かい肌は月の光を浴びて滑らかに光って見えた。鍵を閉めた音で振り返った彼の顔の中で、美しいエメラルドが細められる。

「ボンソワール、良い月夜だね、レオナくん」
「あぁ、全くご機嫌な月夜だな、ルーク」

苛立たしげに舌打ちをして寝台に腰掛けたレオナに、ルークはくすくすと笑って体を寄せる。シーツがずり落ちて肩が露になるのを横目に、レオナは片手を伸ばしてその髪をひと房指で掬う。月の光そのものを固めたような美しいカナリアイエローの髪は月の光を浴びた今宝石で出来ているかのような幻想的な輝きを放ち、まるで夢を見ているような心地にさせる。レオナが彼の顔を見るのも二日ぶりだった。一昨日も昨日も曇天で、月はいっこうに顔を見せやしなかったから。

「レオナくん、熱心に調べてくれるのは嬉しいけれど、キミが体を壊しては元も子もない。今日は早く寝た方がいいよ」

その柔らかな髪を指で遊ぶレオナに好きなようにさせながら、ルークは彼の目を覗き込んで言う。ほんの僅かにだけ色の異なる瞳。レオナは指先で揉んでいた髪を解放するとその色白な頬に手を添えて噛み付くように唇を合わせた。かち、と歯が当たるが気にもとめず、そのまま寝台に押し倒す。ちゅ、と唇から端へ、頬へ、首へとキスを落としていくレオナの頭を撫でて、ルークはシーツに金糸を散らばせながら問いかける。

「ふふ、性急だね。寂しかったのかな?」
「うるせぇ、テメェの鬱陶しい賞賛がねぇから調べ物が捗ったよ」
「マーベラス! さすがは獅子の君、普段の振る舞いに覆い隠された聡明な知性と不屈の魂、実にトレビアンだ!」
「あぁうるせぇ、頭に響く……

ルークの、その髪色よりも眩しい高らかな賞賛の言葉にレオナはうんざりしたように言うものの、ルークの首筋に顔を埋めて覆い被さるように抱き締めて目を閉じる。ぐる、とその喉が鳴るのにルークは微笑んで、メルシー、と囁いた。


NRCを卒業したレオナは学園で築いた人脈を生かして王宮における外交を担当する部署に名を連ね、外交活動と称して居心地のいいとはとても言えない王宮から離れてツイステッドワンダーランドの様々な国を訪れて回った。その傍らに控え彼を補佐したのが学生時代から恋人だったルークだ。彼らの翌年に学園を卒業したラギーのように王宮に仕える公務員ではなくレオナが私的に雇っている秘書という名目で。
眉目秀麗で様々な言語を解し、品も良く優秀な魔法士で、尚且つ恐ろしいユニーク魔法や粗暴と思われることもある性格から王宮の者たちに一線を引かれている近寄り難い王弟殿下に容赦も遠慮もなく近寄ってずけずけと物を言う彼が、外交部の者たちに一目置かれるようになるのはそう遅くは無かった。
時として架け橋になり、時として緩衝材になり、レオナとその部下とを繋げて空気を和やかにする彼は、すぐになくてはならない存在になった。変わり者ではあるが、同時にとても面倒見のよく理知的な人物なのだ。正式に王宮仕官となればどうかと言われることもあったが、ルークはそれを固辞し、レオナもまたそれについて口に出すことは無い。なんだかんだ言いながらも共に過ごすことの多い二人を仲のいいご学友だったのだな、と思う者はいたが、まさか彼らが恋人関係だと思うような者はいなかった。


そんな風に密やかに愛を育んでいた二人が急遽王宮に戻ってきたのは、先月レオナが行ったプロポーズにルークが頷いたから……ではない。その翌日、人間至上主義だかなんだかを掲げる他国の団体が投げた瓶から彼を庇ったルークが中身を頭から被り、猫になってしまったからである。
月の光を浴びている間は人間に戻るが、それ以外は猫になってしまう魔法薬。
禁忌とされる変身薬、それも経口摂取ではなく経皮摂取のものなんて国際法によって少なくとも十年単位の禁固刑が言い渡される重罪だ。更にそれを他国の王族に投げたことは夕焼けの草原なら不敬罪であるし、獣人などの亜人種差別自体も国によっては重罪に課せられる。美しい猫に変わってしまった恋人を真っ青な顔をした部下に預け、ようやく到着した地元警察が真っ先にレオナの方を止める程度に大暴れした後、彼は数名の口が固く信頼出来る学友達に協力を仰ぎ解毒薬のレシピを調べながら王宮に帰ってきたわけである。
自分以外でも出来る外交部の仕事を部下に割り振り、そのまま仕事の予定をほとんど崩さずに遂行させたのは外交部を任されているという自負と、恋人がそうしてくれと主張したからだ。秘密主義者のルークは相変わらずプライベートを明かしたがらず、もし隠せるなら王宮の人間にすら明かさないで欲しいと宣った。ついでに自分で人間に戻っている間にでも解毒剤を調合するので後回しにしていいとも言ったのだが、王宮の人間よりずっと恋人が大切なレオナはその部分だけは却下し、王宮の人間も外交部でない限りルークをあまり知らないのを良いことに、彼を猫として連れ帰ったわけである。
堂々としていれば意外と大抵の事はバレない、と彼はNRCで嫌になるほど学んでいた。王族としては駄目だが、あの学園の生徒としては模範的といえよう。命に別状はないこと、月光浴で人間に戻れること、そして猫の間もルークという意識がしっかりとあることがすぐに分かったことは、不幸中の幸いだった。


そうして王宮の膨大な書庫から資料を探しながら外交部の書類仕事もこなすという忙しい日々を、レオナはここ数日過ごしている。特にホリデーが重なった為にRSAに通うチェカも帰ってきており、明日からは今日まで以上に忙しく、そして鬱陶しくなることは明白だった。深く息を吐いて目を閉じるレオナに、ルークは優しく労うように頭と背中を撫でてやる。ぐるる、と無意識にその喉が鳴るのをレオナが聞かせて憚らないのは彼の最大級の甘えだ。それを知っているルークは柔らかな髪にキスを落として、優しい声で言う。

「猫として過ごすのもそう悪くはないよ、だからどうかキミの体調と仕事を優先しておくれ。レオナくんが無理をするのは私の本意ではないんだ」
「誰がテメェの為だって言ったよ……

疲れているのか、目を閉じたままもぞりと動いて返すレオナにルークは愛おしそうに目を細めた。性欲より睡眠欲が勝ったらしい。ここ数日は普段より格段に忙しい時間を過ごしている。普段諸外国を巡っている間は移動時間に仮眠をとることも多いが、王宮で過ごす間はその移動時間がないため睡眠時間も少ない。そうさせてしまっているのを少し心苦しく思いながら、ルークは柔らかな耳元を彼の好むやり方で撫でる。

「なら、誰の為?」
「俺の為だ、俺の……

ルークの上から寝返りを打つようにして寝台に寝転んだレオナは掻き抱くようにしてルークを引き寄せた。その頭に鼻先を擦り寄せて、曖昧な発音で呟く。ルークの耳が触れている胸元からはとくとくとゆったりとしたリズムが伝わってきた。長い尻尾がルークの足を擽り、素足が絡められるように擦り寄る。

「お前の声が、聞こえねぇ……と、……物足りねぇ……

最後はほとんど寝息に紛れてしまっていた。それでもルークの耳はちゃんとその言葉を聞き届け、自分を抱き締めて眠りについた恋人をそっと見上げる。普段は顰め面ばかり見るが、眠る時はどこかあどけない。薄く開き呼吸する唇にそっとキスをして、その胸元に顔を寄せる。

「ボンニュイ、モナムール」

薄い唇が微かな音で子守唄を紡ぐ。もう眠ってしまっているので、聴こえているかどうかは分からない。けれど少しでも彼の心の寂寥が……たとえ夢の中だけであったとしても……拭い去れたならいいなと祈りながら、月が流れてきた雲に覆われてしまうまでその旋律はいくつもの言語と祈りを行き来しながら続いていた。


夕焼けの草原の王宮はいくつかの建物でなり、王とその妻子の居住空間、内政の中枢、使用人の居住空間、客人のための宿泊施設などがあるが、その内の一つはレオナが国内にいる際に滞在する邸だ。王宮の中でも少し外れにあるそこは自然が多く、立ち入ることが許されている使用人の数も少ない。そんな邸に最も気兼ねなく出入りする使用人の一人であるラギーは、早速洗濯の終わったシーツたちを中庭に面した物干しスペースに持ってきてぐっと腰を伸ばした。魔法でさっさと乾かしてしまい込むのも良いが、こんな事に魔力を使うのも面倒で、張られたロープに真っ白なシーツを引っ掛け、皺が寄らないように音を立てながら布地を伸ばす。
この場所は涼しい風が入り、洗濯物がよく乾く。真っ白なシーツが風に揺れるさまを見るのはなんだか心が清々しくなって楽しい。一人なのをいいことに鼻歌なんて歌いながら洗濯物を干していくラギーの肩に、不意にそれなりの重量がかかった。おわ、とバランスを崩しかけるも持ち前の運動神経で素早く前傾姿勢になることで転倒を回避したラギーの視界にゆるりと金色の長い尻尾が揺れて、聡明なハイエナはすぐにその正体を理解する。

「ルークさんっスか。おはようございます、相変わらず神出鬼没っスねぇ」
「なう、にゃーふ……うるるぁん?」
「元気っスよ、それが取り柄なんで。レオナさんはまだ寝てんスか?」
「なーご、ふるる……にゃお」
「シシシッ、んな事言えんのルークさんくらいでしょ。俺らが茶化したら砂にされます」
「ねう、むにゃう」
「いやいや、あんただからっスよ」

ラギーは肩にルークを乗せたまま洗濯物を干すのを再開する。レオナが猫のルークを連れ帰ってきた日はそれはそれは驚いたものだが、動物言語が得意なおかげで会話は通じるし、足音もなくついてくるのもいつものことだし、あれ、これ相手が人の形してるか猫の形してるかの違いでしかないな? と気付いた彼はすぐに順応した。たまに洗濯ばさみを咥えさせて手伝わせているあたり、彼の要領の良さが伺えた。ざりざりと髪をグルーミングされるのに擽ったそうに耳を震わせていたラギーは、ロープにタオルを引っ掛けてルークの差し出した洗濯ばさみを受け取りながら言う。

「どうなる事かと思ったけど、あんた結構余裕そうっスね」
「ぅなん」
「まー、あんた以上に生きるの楽しそうな人も居ねぇわな。正直一番堪えてんのレオナさんでしょ」
「にゃふ……なぁぬ」
「いや、ルークさん、それもまぁ分かりますけど……
「ラギーさん? 誰とお話してるの?」
「うぇあ!?」

唐突に部屋の入口から聞こえた声にラギーは素っ頓狂な声を上げて勢いよく振り返った。急な動きにバランスが崩れるも軽やかに地面に降りたルークもそちらを見て、壁の陰から覗き込んでいるチェカを視界に捉える。チェカはルークを見るとぱっと顔を輝かせた。部屋に入ってくるとしゃがみ、やって来たルークの頭を優しく撫でる。

「シャスールだ! ラギーさんとお喋りしてたの? いいなぁ、僕もお話混ぜて〜」
「なぁん、にゃうー」
「チェカくん、いつの間に……レオナさんに会いに来たんスか? こんな朝っぱらから。せっかくのホリデーなのに早起きさんっスね」

ラギーは驚いたように胸に手を当て、気分を切り替えるように深呼吸をしてからそう問いかけた。ぱたぱたと風に揺れるシーツの波間で、チェカはラギーに笑みを向けて大きく頷く。

「うん! 昨日はあんまりおしゃべり出来なかったから。レオナおじたん、まだ寝てるの?」
「なん、うにゃん」
「まだ寝てるそうっス。ここんとこお疲れっスから」
「わぁ、ラギーさんもシャスールとおしゃべり出来るんだね! やっぱり凄いなぁ……猫語覚えたらお話させてね、シャスール」
「なん」

チェカの言葉に一声鳴いたルークは、振り返るとラギーに向かってにゃむにゃむと早口で鳴いた。その説明で現在の状況を把握したラギーはあぁ……と納得したような顔をして、洗濯物を干すのを再開する。チェカはルークの艶やかな金色の胴体を撫で、手を撫で返してくる尻尾に擽ったそうにくすくすと笑った。

「ねぇラギーさん、シャスールって名前ってことは、この子は狩りが上手なのかな?」
「あぁ、そうっスよ。自分より大きなのも、早いのも、執念深く追っかけ回す狩人さんです」
「じゃあじゃあ、ルークさんって呼んでたのはなぁに?」

うお、とラギーは目を剥いた。獣人の感覚は鋭いとはいえ、名前を呼んでいたのを聞かれていたとは。顔をチェカの方に向けていなかったのを不幸中の幸いだと内心どう誤魔化そうか動揺しながら、えーっと、と煮え切らない言葉を漏らす。レオナがルークの名を言わずシャスールと紹介したということは、その正体を明かすつもりはないということだ。干したシーツを意味もなく払いながら頭を目まぐるしく回転させたラギーは、不意に学生時代のレオナの部屋に見たチェスを思い出した。

「チェスっス」
「チェス?」
「はい、チェスにルークって駒があるんスよ。レオナさんのお気に入りの駒で、それから来たあだ名っスね。チェカくんも王子って呼ばれたりチェカくんって呼ばれたりするじゃないっスか、あれとおんなじです」

へぇ、と感心したように言うチェカに、ラギーは心の中だけでガッツポーズをする。なんとかごまかせた、はずだ。これでレオナにどやされることはない。床に座ったルークを撫でながら、チェカは膝に頬をつけてことりと首を傾げる。

「ルーク?」
「ぬー……
「シャスール」
「なん」
「えへへっ、シャスールの方がいい?」
「なん、なーう」

しぱしぱとゆっくり瞬きしながら元気よく鳴いたルークに、さすがはポムフィオーレの名役者、と頭の中だけで拍手を送っておく。ほとんどの生徒に家族構成すら隠し通した秘密主義者は隠し事に関しては何枚も上手らしい。今は猫の身だから尚更か。軽やかな身のこなしでチェカの肩に登ったルークは尻尾でぱたぱたとその頬を叩き、チェカはそれに擽ったそうに楽しげに笑う。正直ラギーからすれば居心地が悪すぎる光の光景だったが、置いていくのもそれはそれで何かしら悪い方向にいきそうで、意味もなく干し終わった洗濯物を叩いてみたり、伸ばしてみたり、洗濯ばさみの位置を変えたりして誤魔化した。ゆっくりと立ち上がったチェカはルークの頭を擽るように撫でる。

「でもそっかぁ、レオナおじたん寝てるのか。朝ご飯要らないのかなぁ」
「なう、にゃお、にゃーう」
「えっ、まじで言ってんスか」

ルークの言葉に思わずラギーは口を挟む。ん? と首を傾げたチェカの表情に口を手で押さえ、ここで変に誤魔化すのもかえって怪しいな、と思い至り、視線を逸らしながら正直に言う。

「起こしに行こうって言ってます……

ラギーの言葉にルークはチェカの肩から飛び降りると足音ひとつなく着地し、尻尾を立てて歩き出した。チェカは成程、という顔をしてルークの後を追い、部屋を出る前にふりかえって明るい笑顔で手を振る。

「教えてくれてありがとう、ラギーさん! シャスールとおじたん起こしてくるね!」
「あっ、はーい……どうなっても知らねぇっスからね、俺……

足音が遠ざかっていく。ラギーは自分に怒りの矛先が向かわないことを天を仰いで祈ってから、空になった籠を持って自分の業務に戻ることにした。触らぬ神に祟りなし。俺はちゃんと誤魔化しました。とりあえず騒動にならない程度のごたごたで済んでくれればいいなぁ、と普段は頼ることなどない神に願ってみて、濡れ衣を着せられる前にその邸を去った。濡れた服は干すだけで充分である。


猫は慣れた足取りで開放的な邸の廊下を歩き、チェカは楽しげにその後を追った。レオナの邸には使用人も警備兵もほとんど居らず、すれ違うものも居ない。それが人の多い場所でしか生活したことのないチェカには新鮮だった。

「にゃうー」
「ん、なぁに? シャスール」
「なぁん」
「なぁーん。ふふ、レオナおじたん起きたら、猫語教えてもらおうかなぁ」

立てた尻尾を揺らして口ずさむように時折言葉を発する猫に、チェカはガラスの入っていない窓から邸の外を眺めながら楽しそうに話した。なん、と鳴くのは肯定なのかな? と思いながら見慣れない景色を楽しんでいたチェカは、不意に遠くにちかりと反射する何かを目にする。なんだろう、と思うが早いか、勢いよく顔面に飛びかかってきた金色にバランスが崩れ、その体が傾ぐ。十六歳でも獅子の獣人でありそれなりに成長し恵まれた体格なのにも関わらず、それよりずっと小さな猫に転ばされたのが本人ですら理解出来なかった。なんで、と思うとほとんど同時に、廊下の壁が鈍い音を立てる。廊下に倒れたチェカが顔だけそちらに向けると、壁に小さな穴が空いていた。起き上がるにも体の上に乗った猫が真っ直ぐに外を睨んで唸っており、その気迫と突然押し倒され転ばされたという現状の混乱とがチェカの行動を阻害する。

「シャスール?」

小さな三角の耳が後ろに反り、いつでも飛び出せるように前足に力が篭もる。今まで立てられていた尻尾が不機嫌に揺れ、猫はチェカを見た。ゆっくりとその体の上から退くと、頭を低くして二三歩歩き、チェカを振り返る。なぅ、と鳴いてその姿勢のまま待つ猫に、真似をすればいいのかな、とチェカは仰向けからうつ伏せになると匍匐前進のような形で体を低くした。頭上を風を切るような音が横切り、壁にまた小さな穴があく。狙われている? とチェカは直ぐに気づいた。マジカルペンはある。でも魔法もまだ習いたてで、防御にも自信が無い。服の上からマジカルペンを握るチェカに、猫が音もなく寄ってくるとその頬をざらりとした舌で舐めた。慰めるような仕草にチェカは少しだけ肩に入った力を弛めて、ゆっくりと猫の後を追って這う。
今は窓の下の壁に隠れられているが、少し先には壁に切れ目がある。そこをどう突破するか。壁に完全に身を隠せるようにすれば、少しかがむようにして進めばいけるだろうか。それとも切れ目に防御壁を張った方がいいだろうか。うーん、と考えを巡らせるチェカは不意に顔にさした影に上を見た。大型の鳥から生えた、人間の首。中途半端な二足歩行のような骨格。召喚術の授業で見た、ハーピーだ。
かしん、と音を立てて窓枠からその鋭い鉤爪が離れて笑った顔がチェカに近付けられるのと、聞いたこともないような唸り声を上げた猫がその首筋に鋭い牙を食い込ませるのとはほとんど同時だった。悲鳴を上げたハーピーの体が首筋に噛み付いた猫を離そうと暴れ回り、それにいっそう強く噛み付いて皮膚を引きちぎり壁に叩きつけられる前に飛び退いた猫の動きでチェカの顔にも噴き出した血がかかる。猫が軽やかにチェカの前に着地したのを見て我に返ったチェカはマジカルペンを取り出し、なんとか立ち上がろうと藻掻くハービーにそれを向けた。

「フレイム、」
「ウォーターショットッ!」

魔力を練り放とうとしたチェカの言葉を鋭い声が遮る。ハーピーの体に氷の塊が打ち付けられ、流れた血液ごとその体が凍りつく。チェカが声のした方を向くと、廊下の奥、開いた部屋の扉に手をかけたレオナがマジカルペンを向けて肩で息をしていた。服ははだけたままで髪も乱れている、たった今起きたばかりのように。おじたんだ、と一瞬安堵したチェカはすぐに襲撃者の存在を思い出して叫んだ。

「おじたん、お外から狙われてる!」
「ちっ……テメェの護衛は何してやがる、揃いも揃ってホリデーで警戒心がお留守か?」

ふ、と息を吐いて前髪をかきあげたレオナは舌打ちしつつマジカルペンを杖に変えるとこつんと床をたたいた。途端に外に面した窓の全てに透明の壁が貼られ、キン、と何かが弾かれた音がする。防御壁だ、と恐る恐る体を起こしてそれに触れたチェカは、学校の授業で触れたそれよりもずっと分厚い魔力で出来た壁に、わぁ、と声を漏らした。やっぱりおじたんはすごい。突然のことに混乱していた頭も彼のおかげですっかり冷静になれた。

「火の魔法はよせ、延焼したら厄介だ。どっちも怪我はねぇな」
「うんっ、無いよ! あのね、シャスールが助けてくれたの! 狙撃されたのも、ハーピーも!」

廊下に出てきながら尋ねたレオナに、チェカは勢いよく振り返って興奮冷めやらぬ様子で駆け寄った。どうやって猫が助けてくれたのかを熱弁するチェカの顔についたハーピーの血を自分の服の袖で適当に拭ってやったレオナは適当な相槌を打ち、顔があらかた綺麗になった彼の語りが一段落すると顔をその背後へ向ける。

「おい、来い」
「なぁん」

外を見つめていた猫が一声鳴いて駆け寄り、レオナの腕を踏み台に肩に飛び乗る。レオナはチェカの肩に手を置くと窓の方へと足を向けた。

「チェカ、秘密を守れると誓うか?」
「う、うん! 僕、ちゃんと秘密に出来るよ!」

大きく頷いたチェカに満足そうに笑ったレオナは「今からすることは他の奴らには秘密だ」と悪戯っぽく肩を竦めて言うと窓の外を見る。肩に乗った猫もレオナと同じ方に顔を向けた。薄く開いた唇が、囁くように言葉を紡ぐ。

「どうせテメェには見えてんだろ。貸せ」
「なぁん、うるるぁう」

了承の言葉に笑みを深めてその唇が次に綴ったのは古代呪文の詠唱だ。感覚共有、その対象は瞳。猫の大きく宝石のような美しい瞳と、レオナの深い夏を孕んだ瞳が魔力によって淡く光を点し、その色を入れ替える。杖をマジカルペンの形状に戻したレオナは、見えない弓に矢を番え引き絞るようにして構えた。猫の尻尾がその手のマジカルペンを撫で、練られた魔力に光が混ざる。

「ボイドショット」

銃弾をも弾く防御壁の一点を容易く撃ち抜いて、光と闇の混ざりあった無属性魔法が矢のように鋭く、素早く飛んでいく。それは王宮の敷地を囲う塀の、さらに向こうに飛んで行った。みゃお、と鳴いた猫の声に手を下ろしたレオナはふっと息をつくとチェカを振り返る。瞬きをするとその瞳の色が元に戻った。

「警備兵呼べ、襲撃犯を回収する。シャスールの魔力のアンカーがついてるから、こいつについていけば居場所が分かる」
「すごい……シャスール、魔法が使える猫なの?」

人間……この場合、純粋な人間族ではなく人魚や獣人も含めてそう表すが……以外で魔法が使えるものと言うと妖精や魔法生物、魔物の類だ。普通の猫のようなのに本当は違うのかと目を輝かせるチェカに一瞬視線を逸らして考えを巡らせたレオナは、肩に乗った猫の頭を撫でる。

「そうだ。バレるとめんどくせぇから他の誰にも言うな。兄貴と義姉貴にもだ。警備兵には俺がこいつにかけた魔法の効果で居場所が分かるとでも言っとけ」
「みゃおぅ、にゃーう」
「あぁ待て、せめてその血落としてからにしろ」

レオナは思い出したように水魔法で猫の顔や体に着いた血を洗い流す。猫は水が嫌いだと言うが、特に逃げず気持ちよさそうに目を細めて洗われた猫は床に降り立つとふるると体を振るって水滴を飛ばした。軽やかな足取りでチェカの足に体を擦り寄せて誘うようにして廊下を歩いていく猫に、チェカは大きく頷いて踵を返しその後を追う。レオナはその一人と一匹の背中が見えなくなるまでその場でそれを眺め、それから廊下の痕跡を見下ろした。
壁に穿たれた銃痕。氷漬けのハーピーの死体。床を汚すハーピーの血液は壁にまで飛び散っている。これは襲撃の証拠としてそのままにしておいた方がいいだろう。壁に凭れ、深く息を吐く。寝起きに急に動いたせいで頭痛がした。耳慣れない猫の言語での「襲撃」のコールに反応するのに、普段よりも数秒かかった。普段のルークの声ならこんなことは無い。

……さっさと解毒しねぇとな」

改めてやりづらさを実感したレオナは頭痛を何処かへ追いやるようにかぶりを振るとぼさぼさのままの髪をかき乱しながら部屋に戻った。毎朝髪を梳かし結うのが日課の男がいないこともやりづらい。本人は猫の生活を楽しんでいることは良い事だが、付き合わされて調子が狂うこちらとしては居心地が悪い他ない。昨晩纏めるのが途中だった資料たちの積み上がった机につき、その資料に目を落とすと面倒な奴らが帰ってくる前にある程度は纏めてしまおうとペンのキャップを外した。


終わりかけた朝食の席で「用事が済んだから今日出立する」とレオナが言ったのはチェカがホリデーで帰ってきてから四日目の朝だった。ほえ、と驚いて食後のデザートの葡萄を落としかけたのはチェカだけで、ファレナはあぁ、と事も無げに納得したような顔をする。

「調べ物は終わったのか?」
「あぁ。いい加減出ねぇと支障が出るからな」
「おじたん、次はいつ帰ってくる? シャスールも連れていっちゃうんだよね?」

一回くらいいっしょに寝たかったなぁ、と口を尖らせるチェカに、口を拭いて椅子から立ったレオナは肩を竦めて笑った。尻尾を揺らし、部屋の扉へ足を向ける。

「置いて行くわけがあるか。次がいつかは知らねぇ、気が向いたらな」

ひらりと片手を振って、レオナは使用人が開けた扉から出ていった。ちぇ、と拗ねたように葡萄をつつくチェカに、珈琲を飲んでファレナは朗らかに笑う。

「シャスール……レオナの猫か。チェカはすっかりあの子が気に入ったみたいだな」
「うん、きらきらして綺麗で、優しいし、可愛いし……動物言語、早く猫語やりたいなぁ。シャスールとおしゃべりしたい」
「学校に戻ったら先生に言ってみなさい、熱心な生徒だときっと喜んで教えてくれるわよ」
「レオナのことだ、次に帰ってきた時も連れ帰ってくるだろう。その時までに話せるようになるといいな」

両親の言葉にチェカは嬉しそうに笑って、うん、と大きく頷いた。葡萄を口に入れ、その爽やかな甘さに頬を赤くして顔を綻ばせる。まだありますよ、と持ってきた使用人に向日葵のような笑みを向けて「ほんと!?」と声を裏返し喜ぶチェカに、部屋の中にいる全員が楽しそうに笑っていた。


レオナが支度を済ませて王宮の門へ向かったのは昼近くになった頃だった。王宮の中で着用しているゆったりとした服ではなく外交部の制服に身を包んだレオナが足早に門に向かうのに、チェカは併走しながらその袖をくいくいと引っ張る。

「レオナおじたん、まずはどこの国に行くの?」
「輝石の国だ」
「へー! 僕の友達も輝石の国の人なんだよ、おじたんの友達にも輝石の国の人はいる?」
「そりゃ居るだろ、でけぇ国だ」
「そっかぁ。ねぇおじたん、シャスール最後に撫でてもいい?」
「もう他の荷物と先に行かせたからいねぇぞ」

レオナの素っ気ない言葉に、チェカは「えーっ!」と素っ頓狂な声を上げた。耳に響くその大声に顔を顰めたのは真横のレオナだけではなく、彼らの少し後ろにいた使用人もだった。獣人は聴覚が優れている、そんな彼らの前で大声を出せば当然そうなる。使用人たちはうっかり反射的に顔を顰めてしまったことに気付くと慌てて表情を戻すが、レオナやチェカがそれを咎めることは無かった。

「うるせぇ、お前いい加減に自分の声量自覚しろ」
「なんで先行かせちゃったの? 最後にシャスールにばいばいって言いたかったのに!」
「こっちの都合だ。ああもう歩きにくい、引っ張んなボタンが取れる!」

ぐいぐいと袖口を引っ張って引き下がるチェカを半ば引きずるようにして進むレオナという組み合わせはこの二人が王宮で顔を合わせ、レオナがチェカを置いて先に帰る時の最早定番の光景なので使用人たちも慣れたような眼差しでそれを眺めていた。いつもはレオナにもっといてほしいとチェカが食い下がるが、今回は少しだけ口にする内容が違う。こいついつの間にそんなに一匹の猫に執着してんだ、とレオナは心の中で思った。確かにここ数日チェカとルークとが一緒にいる姿はよく見かけたし、ルークが相手をしている間は仕事や調べ物をするレオナにチェカが声をかけてその作業を邪魔することもなかったので楽ではあったが、最後の最後でこうなるとは。引きずりながら五メートルほど進んだあたりで、レオナたちの進む方から二人やって来る者がいた。

「獅子の君、車の用意が整って……オーララ、お戯れだったね」
「ほんとだ。チェカくん、いつか袖引きちぎりそうっスね……
「おいラギー、チェカ引き剥がせ! 重い!」

レオナの言葉にはいはいと早足でやってきたラギーは「失礼しまぁす」と慣れた手つきでマジカルペンを振り、『愚者の行進』で万歳をさせる形でチェカを引き剥がした。王族相手に力ずくを働くのは学生時代から手馴れたものだ。その隙にチェカから離れて足早に車の方へ向かうレオナを目で追ったチェカは、苛立たしげに尻尾を揺らす彼に声をかける初めて見た人物に目をとめる。輝く金色の髪を切りそろえた美しい見目の男はレオナに柔らかな笑みを向けていた。

「別れの挨拶はすんだのかい? 用意は整っているから、すぐ出立出来るよ」
「もう済んだ。ラギー、暫くチェカそのままにしとけ」
「はーい。お気をつけて〜」

ラギーはそのままの姿勢でひらひらと手の先だけを振る。レオナは振り返ることなく遠くに止めてある車へ向かい、その背を見てから男がチェカへと視線を向けた。美しいエメラルドの宝石のような瞳が柔らかく細められる。
同じだ、と思った。

「申し訳ない、プティ・レオン。獅子の君は仕事が溜まっていてね。こちらで失礼します」
「あ……君は、」
「おい、行くぞルーク、来い」

チェカの言葉を遮るように飛んできた声に、男は振り返って了承を口にした。それから再びチェカの方を見て、恭しく一礼すると踵を返して車に乗り込んで待っているレオナの元へ向かう。軽やかな足取りで車へ向かい、運転手に何か言うと乗り込んで扉を閉める。扉が閉まる直前、腕と足を組んで座っているレオナが彼に何か言うように口を開くのが見えた。車はすぐに発進し、王宮を出て行く。

「似てるなぁって思いました?」

いつの間にかチェカの隣に来ていたラギーに問われ、そこでようやくチェカは既に魔法が解除されていて両手を下ろしていたことを自覚した。ラギーを見上げると、彼はにこにこと笑っていた。何と何が似ているのか、口にされずとも何を表しているのか分かって、チェカはひとつ頷く。

「同じだなぁって思った」
「そうっスよねぇ。あの人が、ほんとのルークさんっス。同じ色だし似てっから、あの猫を俺らルークさんって呼んでたんス」

そうなんだ、と呟いて、チェカは王宮の門の方を見た。既に車はもう見えない。眩しい草原の太陽を受けてキラキラと光る宝石のような髪と瞳が、まだ頭から離れなかった。

「ルークってチェス駒の一つなんスけど、お城の形してるんス、こないだ言いましたっけ。チェカくんチェスやります? 前後左右、ぶつかるまでどこにでも行ける駒で、ゲームの最後の方になるにつれてどんどん自由になって強くなる駒っス」
「ちょっとだけしたことあるよ。そっかぁ、あれお城の形だったんだね」

はい、とラギーは頷いた。彼も同じようにもう既に誰もいない門の方を見て、柔らかくその目を細める。

「あの人はレオナさんのお城なんスよ。他のだぁれも奪えない、侵せない、レオナさんの宝物。王様でも、チェカくんでも、王妃様でも、あの人だけはどうにも出来ない」
……そっか、おじたん、そんなすごく大事な人が居るんだね」

いいなぁ、とチェカは呟いた。それが誰に向けてなのか、何に向けてなのか、チェカ自身も分からなかった。チェカは空を見上げて、あーあ、と残念そうに声を漏らした。眩しい光に目を細めて、

「いいなぁ」

と、また一つだけ言った。



「チェカくんは私がシャスールだと気付いただろうか?」

流れる車窓を無視して仕事の書類に目を通していたレオナは、ふと響いた声に顔を上げた。向かいの席に座り、レオナがサインを終えたり確認を終えた書類を整理し、部下から送られてくる情報や連絡を手元のタブレットに纏め入力しているルークは手を止めずに目だけをレオナに向けていて、その瞳と目が合う。きゅ、とその瞳が細められた。

「先程、彼は私を見て少し驚いたような表情をしていたものだから。ラギーくんが上手く誤魔化してくれたかな?」
「さぁな。答えみたいで答えじゃねぇ適当なこと言ってんじゃねぇか」

レオナは書類に視線を戻しながら言う。正解である。学生時代から側近として傍に置いているだけのことはあった。ルークはそれにくすくすと笑って、レオナが脇に放った書類を回収した。丁寧にファイリングして鞄に入れる。レオナが調べ物をしていて後回しにしていた仕事は相当な量になっていた。ルークはそれらを纏めながら、ぽつ、と呟く。

「すまないね、レオナくん。キミを守る為とはいえ、相当な手間をかけさせてしまった」
「全くだ。テメェのその自己犠牲の精神はいい加減どうにかしろ、ヴィルにも散々言われてんだろ」

レオナの呆れたような声に、ウィ、とルークは力なく頷いた。魔法薬を被って猫になったから解毒薬探すの手伝え、と連絡を受けた魔法薬学のスペシャリストであり世界一多忙なスーパーモデルは、まず移動時間を利用して怒涛の長文でルークを説教した。総字数は一万字を超えるほどだ。他人からの評価よりずっと自己評価の低いルークはすぐに自分の身の危険をかえりみない方法をとることを考え、それが他の選択肢よりいいと判断するや否や行動に移してしまうので、学生時代から度々やらかしている。以前に比べれば頻度こそ減ったものの、今でも咄嗟に体がそう動いてしまうので余程根が深いのだろう。今回の解毒薬の調合で最も手助けをしてくれたのもヴィルだ。これから輝石の国へ向かいレオナが外交官と政治的な対話を行う間、ルークはヴィルに呼び出されている。ルークは困ったように眉尻を下げ、タブレットを操作した。

「すまない、猫としての日々を謳歌してしまって……
「それに関しては俺もあいつも別に気にしちゃいねぇよ、テメェの美徳だ。もっと自分を大切にしたら、それでいい」

レオナはばさりと書類を置いてドリンクホルダーからカフェオレの入ったタンブラーを取って喉を潤す。冷えたそれは好みの味だった。口を離したそれをルークに差し出し、一言。

「ルーク、お前は俺の物だ。俺の許しなく傷をつけるな」
……ダコール、獅子の君。魂に刻むよ」

ルークは少し照れたように視線を外してタンブラーを受け取り、自分もそれに口をつける。レオナは満足そうに鼻を鳴らすと頬杖をついて書類に視線を落とし、サインをする。ルークはタンブラーをドリンクホルダーに戻し、レオナがサインを終えて差し出した書類を受け取ってそれも仕舞う。輝石の国は晴れているかな、とタブレットを操作しながら言うルークにさぁな、と返事をしながら、やはりこちらの方が落ち着くとレオナは尻尾をゆるやかに揺らした。
肩に乗る猫の体重も、獣人の自分と同じように機嫌や感情があらわになる尻尾も、公衆の面前であってもボディタッチが出来ることも、それなりにいい事ではあった。けれど獅子の君という呼び名も、レオナくん、と名を呼ぶ時のその柔らかなテノールの響きも、詩集を飾るような美しい言葉も、猫にはない。こちらの方が、ずっといい。

「そういえば、婚約の話をしそびれたね。どうしようか、レオナくん」
「もう事後報告でいいだろ」
「それは流石にマズいと思うけれど……王族の慣例だとかがあるだろう?」

そう言うものの、ルークはくすくすと楽しげに笑っていた。同性婚が法的に認められていないことや、反対されるだろうことが普通は先に浮かぶだろうに、それではなく王族としての作法を気にしていることにレオナは笑みを深めてひらりと片手を振る。

「嫌われ者の第二王子が今更慣例無視して結婚したところで、痛くも痒くもねぇよ。どうせ王室史に一行加わるかどうかってとこだ」
「夕焼けの草原の外交に携わり平和の礎を築いた聡明な王弟殿下が未来の歴史の教科書に載ったり、その偉業に興味を抱いた歴史学者が調べたりした時に、或いは結婚の自由化のひとつのきっかけとして、その一行が大きな意味を持つかもしれないよ」

押し黙ったレオナに、ルークは笑みを深めた。慈愛を込めた眼差しで向かいの席に座る愛しい人を見つめる。ルークの自己評価の低さはそうだが、レオナだってそれなりだ。すぐに嫌われ者というレッテルで一歩引いてしまう。ルークはレオナの城だ。だからこそ、城主たる王には心穏やかに、顔を上げて座っていて欲しかった。

「慣例に則って新しいことを成した方が、同じ一行でも大きな爪痕になる。型に嵌りながら新しいそれは、『第二王子の奔放な行いの一つ』では収まらないだろう?」
「はっ……相変わらず、顔に似合わねぇ物騒なこと言うじゃねぇか。形式だけは慣例通りにして周囲に文句言わせねぇってか」

とんだ猫被りだな、と心底可笑しそうに、悪戯を相談する子供のように楽しげに笑うレオナに、ルークはにっこりと笑う。

「伊達に猫の身を経験していないからね」

みゃーお、と鳴いたルークに、レオナは肩を揺らして笑いながら、なぁん、と相槌を打った。


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