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堕落と黙想のレゾナンス 2

全体公開 1 17827文字
2021-08-09 23:31:57

長谷酸のやつのつもり。オリキャラがいっぱい出てくる。注意。 後々本にする予定なので誤字脱字あれば教えて頂けるとありがたいです。

 急ぎ足で横切るスーツ姿の女性、そわそわと落ち着かない様子で周りを見ている制服姿の学生、大きな家電の箱を担ぎながら歩く男性……このスクランブル交差点では、平日の昼間にもあらゆる人間が行き交っている。その中に一人、一際無気力な立ち姿でぼんやりと景色を眺めている男がいた。彼はぼさぼさの髪もそのままに、大きめのだぼついた服を身にまとっていて、傍から見れば無職の男が昼間から散歩でもしていると思われるだろう。しかし、この人混みの中では、誰も彼に注目する者はいない。
(めんどくせー……
 彼は視線を特定の場所に固定することなく、街中をうろうろと彷徨わせている。一見すればただ交差点を観察しているように見えるが、実はある人物を中心に、おおむね八の字を描くような形で動かしていた。人混みから頭ひとつ抜け出た長身――フォールンを追っている。
 ぼんやりした男は、名をアマルガムと言った。もちろん本名ではなくコードネームとされているが、人間としての過去を持たない彼にとってはどちらでもいいことだ。統和機構に所属する合成人間であり、上からの命令によってフォールンを監視していた。彼はやる気なさそうにあくびをすると、歩道沿いにある店の段差部分に腰掛ける。監視対象のフォールンが携帯端末で何やら話していて動かないので、アマルガムもまた手元の端末をいじって誰かを待っているふりをする。
(尾行任務が一番めんどくせーよ……外出なきゃだし、ずっと気張ってなきゃいけないし、自由に行動できないし……でも従わないと処分されるしなあ)
携帯端末に思いついた愚痴を適当に打ち込んでいく。適当な間隔でフォールンの方に視線だけを寄越しては、また手元に向き直るのを繰り返していた。
 アマルガムは何よりも面倒事を嫌っている。戦闘用合成人間ほどの戦闘能力を持たない彼にとっては、上からの司令に唯々諾々と従うことが生きる術だった。もしシステムから離反でもしようものなら、殺されるか一生ビクビクして過ごすかのどちらかだ。かと言って、命令遂行能力がないと判断されても処分される。自分にできる範囲で任務をこなしつつ、上からの理不尽も飲み込みつつ、無難に暮らしていくのだろうと悟っていた。それこそが自分自身にとって最良の選択だろうと、アマルガムは考えている。
 アマルガムにとって、監視任務は珍しいことではない。むしろ今までの仕事の割合では多い方だ。彼の覇気のなさ、胡乱な視線、“取るに足らなさ“による警戒のされにくさは、唯一の長所と自負している。そんな自意識のせいか、はたまた連日の監視体制による疲れのせいか、あるいは――今回の対象であるフォールンが今までの対象よりも上手であったか。一瞬だけ視線を外した直後には、アマルガムの視界からフォールンは消えていた。彼は内心でひどく動揺していたが、慌てて辺りを見回すようなことはしない。視線だけで探せる範囲にいないことを確認すると、電話をかけるフリをして立ち上がった。
(フォールンの能力からして、ここから一瞬で立ち去ったり、姿を消したりすることはできないはず……近くに身を潜めているのか?)
電話に向かってそれらしくも意味のない独り言を話しながら、これからのことを考える。少し探しても見つからなかった場合は、一度体制を整えてから――と路地裏に入ろうとした。

「おい、もう帰るのか」

かけられた声に足を止めて振り返る。彼のすぐ後ろには、先ほど見失った対象であるフォールンが立っている。焦燥を完全に隠して向き合うアマルガムの表情は、戸惑った非力な一般人そのものだった。
「え? あの……なんか用ですか」
咄嗟に無関係を装った言葉を返す。
「いやいや、そういうのはいい。お前が私の監視役なのはわかってる」
フォールンはアマルガムよりも頭ひとつ高い位置から、冷ややかな視線を浴びせてくる。アマルガムは口の中で小さく舌打ちすると、「ですよね」とだけ返して気の抜けた笑みを貼り付けた。愛想笑いというには洗練された印象がなく、どちらかといえばにやにやしている。
「俺に尾行をやめさせても無駄だと思いますよ。新しい構成員が派遣されるだけなんで」
「どちらにせよお前は監視対象に見つかったんだ、任務を外されるのも時間の問題だろう」
「まあ、それは……仕方ないんじゃないですかね」
にやにやした笑みも剥がれて、アマルガムは心底面倒くさいといった顔で大きくため息をつく。上からの追求やそれを躱さないといけないことは確定しているが、機構に所属している以上は仕方がない。
「お前っていつもそういう風に諦めてるのか?」
「俺は探索型ですよ。あんたみたいに力があるわけじゃないんだから、波風立てないように従わないと」
「じゃあ力があればいいのか? たとえば……戦闘型の協力を得られるとか」
「何を――
アマルガムにはその言葉が何を意味するか理解できている。しかし、自らの境遇を引き合いに自分の欲求を封じ込めていた彼の頭は、受け入れることを拒んでいた。
 フォールンは怜悧な目つきを弧の形にしてうっそりと微笑む。端正な顔立ちをしているのに、笑顔を向けられたアマルガムはひたすら寒気を感じていた。そのまま長身を屈めて顔を近づけてくるが、アマルガムはぴくりとも動けず震えている。その様はまさしく「蛇に睨まれた蛙」といったところだろう。フォールンはアマルガムの耳に触れると、外側をするりと撫でる。
「お前にとってその境遇は、自らの心を黙らせるための言い訳に過ぎない。どうしてブレーキをかける必要がある? 本当はわかっているだろう、このままではお前の意思は死んでいくだけだ」
アマルガムの頭にひどい耳鳴りが響く。竦んだままの足とは裏腹に、不気味なほど思考がクリアになっていった。まるで靄が晴れていくように、アマルガムの感情が顕になる。
「私が解放してやろう。もう我慢しなくていい」
氷のように冷たくありながら、蜜のごとき甘い声色が耳鳴りと共鳴し、アマルガムの脳を揺さぶる。フォールンはますます顔を近づけて彼の言葉を待つ。
「俺……俺は……
「さあ、お前はどうしたい?」
耳元でフォールンが低く囁く。アマルガムの目からは、さっきまでの覇気の無さは感じられない。

「全部壊して、楽になりたい」

フォールンの口元が満足そうににたりと歪む。「すばらしい!」という嬉しそうな声は、街の騒音にかき消されて誰にも聞こえない。

***

(どうすればいいんだろう……

 深陽学園から少し離れた大きな道路のすぐ側に、廃れた小さな公園がぽつんと建っている。唯一の入り口には錆びたチェーンがかけられており、「公園内立入禁止」と書かれている。その看板の前の狭い歩道に、途方に暮れた男子高校生――南本裕貴が立っていた。彼は右手首に雑貨屋で買ったシリコン製の安いブレスレットを着けている。とある偶然により拾ったカードに書かれたジンクスによって、裕貴は御山早苗の事件を追ってみる決意をした。したはいいのだが、一介の高校生である裕貴には、事件調査のノウハウなどあるわけがない。どこから手を付けていいかわからず、呆然と公園の方を眺めていた。
 裕貴が眺めているこの公園は、裕貴と早苗が遊んでいた思い出の公園であり、早苗が殺された忌々しい記憶の場所でもある。事件があったため当時の公園は一時的に封鎖されていたが、捜査に伴って遊具の整備不良なども多数見つかり、元々人気のない公園だったこともあって、事件後も公園まるごと立入禁止となってしまった。実質廃公園ではあるものの、わざわざ取り壊すメリットが薄いために、そのままの状態で放置されている。
 立入禁止の札がかけられてはいるが、公園内には簡単に入れてしまう上に、人通りが少なく見咎める者もいないため、あまり意味を為さない。調査のあてを持たない裕貴にとっては、この場所が唯一の手がかりだった。意を決して膝ほどの高さにある鎖をまたぎ、公園に一歩踏み入る。
「駄目よ! 立入禁止でしょ?」
咎める声が聞こえて、裕貴は地面につけたばかりの足をびくっと引っ込めた。慌てて声のした方へ顔を向けると、そこには仕事帰りと思しき女性が呆れた顔で裕貴を見ている。裕貴はその女性に見覚えがあるのだが、どこで会ったのか思い出せない。
「あなたうちの生徒よね。あんまり遅くまで出歩くのも良くないわ」
女性は裕貴に歩み寄りながら注意を続ける。裕貴の制服を一瞥した際の”うちの生徒”という言葉で、裕貴はその女性のことを思い出した。最近長期入院した教師の代わりに赴任してきた、非常勤講師の須崎茜である。学校ですれ違った際に見覚えがなかったことと、彼女が早苗の事件の再調査を訴え出たことで、強く印象に残っている。
……すいません。あの、先生はなんでここに?」
裕貴は公園に踏み入れた足を完全に引き戻すと、茜に向き合う。ある程度まで近づいてきた茜は「なんでって……」と口ごもり、少しばかり視線を泳がせた。
「ただの仕事帰りだけど……
「もしかして、御山早苗のことじゃないですか?」
単刀直入に切り込んだ裕貴の言葉に、茜は驚きとばつの悪さが入り混じった顔をした。図星という表情だ。
「俺、事件のこと調べてるんです。よかったら話聞かせてもらえませんか」
茜はしばらく逡巡していたが、裕貴の真剣な頼みに、場所を変えて話すことで了承した。



 事件のあった公園から五分も歩かない近所に、その大きな公園はあった。綺麗に整えられた芝生と、整備されたアスファルトの道や子供心をくすぐる遊具、小さな噴水と水場もあり、周りには街灯とベンチが設置されている。ここら一帯の住人は、子連れからお年寄りまでも憩いの場とする広い公園だ。今はかなり日も落ちて街灯が灯る時間帯のためか、ベンチに腰掛けたりジョギングしたりする人々がぱらぱらと見える程度である。そのベンチのひとつに、裕貴は腰掛けている。
「おまたせ。炭酸でいい?」
裕貴の元に、茜が缶飲料を差し出してきた。不自然なほど甘い味付けにシュワシュワとした刺激がやみつきになる、大手メーカーの炭酸飲料だ。頷いて謝辞を述べると、裕貴は冷えた缶を受け取る。茜はもう片方の手に持ったコーヒーの缶を開けながら、裕貴の隣に腰掛ける。二人でほぼ同時に缶の中身を煽ると、はあっと息を吐き出した。これから話さなければならない話題のせいで、お互い無意識に緊張している。
「どこから話そうかな……まず、あなたがなんで事件を調査してるか、聞かせてもらえる?」
裕貴は早苗とつながりがあったこと、しばらく遠ざけていたけれど、あるきっかけで事件のことを知ろうと思えたことを簡潔に話した。拾ったカードのことは、不思議と話す気にはなれなかった。
 茜は同情的な視線を投げかけるが、それは裕貴が今まで何度か浴びたものと違い、哀れみでなく共感によるものだと感じた。
「そうだったんだ。あの公園、思い出の場所なのね」
「先生は、早苗ちゃんと仲が良かったんですか?」
「ううん、ただのクラスメイト。他の人たちと同じように、御山さんのことちょっとだけ苦手だったくらいよ。あなたには悪いけど」
裕貴は「大丈夫です」と相槌を打つと、苦笑する茜へ更に質問を投げかける。
「それがなんで、学校に再調査を?」
「それそれ! 赴任してすぐにそんなこと言うもんだから、もう職員から白い目で見られちゃって。自分でやったことなんだけどね……面倒臭いやつ、みたいに思われてるのよ」
茜は若干興奮した様子でまくしたてると、大げさに肩を落とした。やっと愚痴を言う相手が見つかった、とでも言うように生き生きしているものだから、裕貴は少し笑ってしまった。顔を上げた茜も力なく笑う。
「事件の起きるちょっと前くらいかな。私の父が――結構有名な実業家なんだけど――飲酒運転で人身事故起こしたの。雑誌やテレビでもちょっとした騒ぎになっちゃって」
「そういえば、そんなこともあったような……
「幸い被害者の方は完治したんだけど、当時インタビューされたお父さんのコメントも対応も最悪で。お父さんの名前のイメージは地の底まで落ちてたわ。もちろん、私たち家族も」
茜はため息までも一緒に飲み込むように、コーヒーに口をつける。茜は疲れた顔こそしていたものの、どこか吹っ切れているのか、悲壮な様子は滲んでいない。
「それで、学年やクラス内でも後ろ指差されるようになったの。みんなひそひそ言い放題」
「なるほど、そこを早苗ちゃんが助けた……とか?」
「うーん……陰口に関しては、むしろなんというか、火に油を注いだような感じだったかしら」
思いがけない返答に、裕貴は驚きを隠せない。しかし茜には早苗を恨んでいるような様子はない。
「彼女、父の騒動があってからずっと不機嫌そうだった。ある日の休み時間に我慢の限界が来たのか、ひそひそあることないこと話すクラスメイトたちに一喝したの」

『どいつもこいつも目を逸らしてばっかり! あんたたち、自分の気持ちもわかんないの!?』

 茜から告げられた早苗の姿は、裕貴の知る彼女とよく似ていた。裕貴にはすべてを窺い知ることはできないが、目を逸らすことに憤り、自分への欺瞞を許さない性分だったように思う。茜は続ける。
「ここからは訳がわからないんだけど、御山さんの声を聞いて黙るんじゃなくて、みんな思い思いに主張し始めた。父を糾弾すべきだ、娘の私は関係ないから陰口はやめろ、家族もろとも謝罪しなさい、とにかく静かにさせたい、色々――当時はすごく驚いたんだけど、今思えば御山さんが一番驚いていたような記憶があるのよね」
茜は不思議そうに当時を振り返る。裕貴は、語られる光景の異様さに圧倒されていた。
「クラス中、私のことなんかお構いなしに言い争いを始めちゃって。後で入ってきた先生と一緒に、完全に蚊帳の外だったわね」
人によっては耐え難い状況に思えるが、茜はあくまで懐かしむような態度を崩さない。裕貴が困惑の色を深めると、茜はそれを察したのか、話の流れを修正する。
「なんで御山さんの事件を知りたがってるか、だったかしら。そう、あの御山さんの声を聞いたときにね、私も自分の気持ちを声に出してたの」

『お父さんなんて嫌い。許せない』

「え……?」
「私、あんなお父さんでも、自分の身内なんだから味方になってあげないと、って思ってた。でもあのとき口にした言葉がすっと心に入って――ああ、それで良かったんだ、って」
茜は自分の胸の辺りに手をあてて、目を瞑っている。穏やかな顔は、今でも灯る光を支えにしているようで、茜にとってどれほどの出来事だったのか、部外者である裕貴にもわかる気がした。
「あれから、記者にしつこく粘着されたり、陰口も続いたりしたんだけど、負けなかった。お父さんに全部謝らせて、責任取らせて、こうやって教師にもなれたわ」
誇らしげな様子で、茜は前を見ている。
「だから、あの時みたいに自分が”やらなきゃ”って思ってることを放っておきたくなかったの。なんとなく、御山さんに顔向けできない気がして」
「俺も……先生が自分に嘘付いてたら、早苗ちゃん怒ると思います」
「ね」と言って、裕貴と茜は笑い合った。茜の話を通した早苗の姿を知って、裕貴は重荷から解放されたような気持ちだった。自分の知らないところでも早苗は生きていて、他の誰かの記憶に残っている。それがたまらなく、安心できる事実だった。
「現場は公園だったから、学校にあまり関係ないかもしれなくて、それはちょっと申し訳ないと思ってるんだけど……でも、当時の不自然な収束の仕方は解せないわ。たとえ私には知ることができなくても、誰かに彼女の真相を掴んでほしい」
茜は真っ直ぐに裕貴を見ている。裕貴もまた、茜の目を見つめ返していた。
「俺も、早苗ちゃんが何を考えてたのか知りたいです」
「危ないことには首突っ込まないでね。あなた、子供なんだから……今更かしら」
茜はばつが悪そうにコーヒー缶のフチをしきりに弄っている。十年も昔ではあるものの、事件に関わることを生徒に唆してしまった負い目を感じているのだろう。しかし茜には、裕貴が事件を追うことを止められないだろうという確信もあった。
「俺が死んでも先生のせいじゃないですよ」
「私の責任に決まってるでしょ。共犯よ、共犯」
 茜は以前より幾分かすっきりとした様子で、ベンチから立ち上がって伸びをした。裕貴の分の空き缶も手に持って、「遅くなったわね。送っていくわ」と提案し、裕貴もそれを承諾した。
 二人は最寄り駅までの道を歩く。この辺りで一番大きなスクランブル交差点は、日が落ちてもショッピングビルと行き交う車のライトで明るく、未だに大勢の人が思い思いに歩いている。交差点の赤信号に差し掛かったところで、隣で立ち止まった茜が思い出したように口を開いた。
「そうそう、御山さんといえば……ここらで最近、藤沢さんをよく見かけるわ」
聞き覚えのない名前に、裕貴は首を傾げる。茜もまた意外そうに首を傾げた。
「聞いたことないかな? 当時転校してきて、御山さんと仲の良かった、藤沢類さんって言うんだけど」
そこまで聞くと、裕貴は目を丸くした。聞き覚えがあるという反応に、茜はやっぱり、と頷く。
「いつもフードで顔が隠れ気味だから、もしかしたら人違いかもしれないんだけど……彼女って長身で目立ってたから」
「多分」と続けた茜は、青に変わった信号を見て歩き出した。裕貴も二歩ほど遅れて後を追うが、その顔は険しく強張っている。
 ”類”という名前を、早苗がよく口にしていたことは覚えている。話す様子から、よほど仲が良いのだろうと感じたことも。
――その名前を持つ人物が、早苗を殺したことも。
 裕貴は手首に巻いたシリコン製のブレスレットに手を添える。生ぬるくなんの温度も感じさせないそれが、今の裕貴にとって唯一の支えだった。

***

 退勤ラッシュのピークを外して、少し空いた地下鉄の車内で、裕貴は座席に腰掛けていた。車内には空いてる席がちらほらと見えるものの、ほとんどの席には人が座っており、みな思い思いの暇を潰している。座席の端に座る裕貴の隣でもサラリーマン風の男性が携帯端末をいじっているが、裕貴はぼんやりと向かいの窓の辺りを見ていた。並んだ窓の外は真っ暗で、時折流れていく看板が見えるのみだ。
 茜に見送られていたときに告げられた名前――藤沢類のことを、裕貴は知っていた。顔を見たことはないが、茜に聞いた特徴で十分探せそうな人物であるらしい。彼女が御山早苗を殺したという事実を、裕貴は誰にも話していない。その後の警察の動きでわからなかったということは、犯人の証拠が上がらなかったということだ。裕貴が告発したところで進展があるとは思えない。それに、裕貴にとって犯人を告げるのは、自分自身の負い目を認めることに繋がるため、当時の裕貴には選ぶことのできない選択肢だった。
(そもそも、俺は犯人を逮捕したいわけじゃない……
そのことを、裕貴自身が誰よりもわかっていた。藤沢類に捕まえたいわけでも、殺したいわけでもない。それどころか、憎らしさすらなかった。裕貴から藤沢類への感情をあえて表すとすれば、一種の同情に近いものだ。だからこそ、裕貴はこの調査を続けるべきかどうか悩んでいる。このまま続ければ、裕貴はいずれ藤沢類との接触を免れないだろう。そのとき自分がどうすればいいか、どうしたいかを決めあぐねている。
(もしかして、また……同じように……
殺人犯に接触する危険性とともに、裕貴は過去を繰り返すかもしれない恐怖を覚えていた。事件の調査を続けたところで、自分では自分自身をも変えられないかもしれない……迷いと恐れから、縋るように手首のブレスレットに触れる。

「君にとって……問題は別にある……

その声は裕貴の目の前から聞こえていた。低くボソボソと掠れているにも関わらず、裕貴には自分に向けられた声であることが、なぜかはっきりとわかる。向かいの窓へ向けていた視線を少し下ろせば、その声の主と目があった。
 視線のすぐ近くにいたというのに、声の主――むかいの座席に座っているこの人物を、裕貴はまったく意識に入れていなかった。片目が隠れるほどの長い前髪と、若者にも老人にも見える特徴のない顔立ち、痩せぎすな身体から判別しづらいが、声の雰囲気から男性だと推測できる。どこまでも印象が薄く、陽炎のような存在感が地下鉄の車内に溶け込んでいた。男はまっすぐに裕貴を見ているが、その視線の先に何があるのか、裕貴には計り知れないと感じられた。
「重要なのは事件を知ることではない……
「ど、どういう……
男は裕貴の考えを見透かしたように言葉を繋げた。裕貴はどきりとすると同時に、男と裕貴を取り巻く環境に違和感を覚える。静かな車内、むかいの座席という距離がある状態で会話しているにも関わらず、乗客の誰も――隣に座っている者でさえも、一切この会話に反応していない。まるで男が空間の支配者で、許可を出さなければ聞くことができないとでもいうような、奇妙な体験だった。にわかに狼狽する裕貴に、男は続ける。
「君は、恐れているのだろう……自身が今、どのようにあるのかを……。しかし、変容を知るにはまず……過去の自身を知らなければならない……
男は相変わらずボソボソと聞き取りづらい声で話し続ける。地下鉄の走行音に邪魔されているのに、男の発する言葉は裕貴には聞き取ることができた。手を添えたブレスレットに体温が移って、少しだけ温かい。
「過去の自分、なんて……過去の俺なんて、弱虫でずっと目を逸らしてきた卑怯者だよ」
男の声に対する返事は、ひどく弱々しく、裕貴の足元にぽとりと落ちてしまった。男はそんな裕貴の姿に、小さくゆっくりと首を振った。
「いいや……君のその言葉こそ、事件の大きさによって曇っている。……向き合うことだ。自身の選択と、それを成した意思……
静かな車内で、裕貴には物音ひとつ聞こえなかった。それは実際にそうだったのかもしれないし、裕貴の意識に入ってこなかっただけかもしれない。
……御山早苗の遺した思いと」
「早苗ちゃん、の」
裕貴は目を見開き、男の口から告げられた名前を呟いた。誰に聞かせるつもりでもないその名前は、裕貴の中に積もっていく。
「事件はすでに終わっている……しかし、彼女の遺した意思は、たしかに影響し、今このときに繋がった……。君は違う形を纏った彼女の意思と、相対するだろう――選択をするのは、今の君だ」
「俺が、選ぶ……?」
「そうだ。君はその選択から逃れることはできない……そうでなければ、君自身の運命は閉ざされる……
まるで死を暗示するかのような言葉に、しかし裕貴は、選択しなければならない未来をこそ恐れていた。誰も指し示してはくれない、暗闇の宇宙を漂うような先のない恐怖で、足元がおぼつかない。思わず呼吸を止めて目の前の男を見据えた。
「だが……君は受け取っているはずだ……。彼女――御山早苗から、そうすることができるだけの力を」
男は今まで無表情だった口元をわずかに歪めて、笑っていた。車内アナウンスが鳴って、裕貴の斜め後ろのドアが開く音がする。
「思い出すだけでいい」
静かな声を耳にした直後、ドアから大勢の人が入り込んできた。ちょうど人流の多い駅に着いたためだろう。裕貴の目の前を様々な人が通り過ぎ、むかいの席を隠す。立っている乗客の隙間から見えるその座席には、すでに見知らぬ女性が座っていて、周囲に先ほどの男らしき人影も見当たらなかった。
 周囲の音がすべて意識にのぼらなくなるような感覚と、男の話していた言葉を思い返し、今更ながらに不可思議さがこみ上げてくる。もしかして自分は想像以上に危険なことに足を踏み入れてしまったのではないか、という予感も強くなっている。しかし、裕貴の中ではもう、事件の調査をやめるという選択肢は消えていた。いつの間にか握りしめていたブレスレットは、手のひらに集まった熱以上に熱く感じられた。

***

 スクランブル交差点を取り囲むように立ち並ぶビルの中の一つ、建物を支える柱以外には何もない吹き抜けた九階のフロアに、合成人間アマルガムは座っている。傍には必要最低限のジャンクフードや保存食が置かれていて、生活感というにはあまりにも質素な散らかり方をしていた。
 このビルはごく普通のオフィスビルであり、今日も他のフロアでは多くの人があくせくと働いている。本来、このフロアを貸し切ってとある企業のテナントが入る予定であったが、突然の倒産によりオフィス設置の話がなくなったのだ。ビルのオーナーはこのビルの経営に構っている暇がないのか、はたまたあまり興味がないのかはわからないが、積極的にテナントを募集することもなく、長い間放置されていた。そこに目をつけたアマルガムが、任務の拠点として使っている。フロアの非常ドアは締め切っている上、エレベーターにはあらかじめ細工をしているため、特別な操作をしなければこの階に辿り着ける者はいない。
 アマルガムは貧相なハンバーガーを雑に口に放り込みながら、開けた窓の外を見ている。目下の交差点には今日も多くの人々が無軌道に歩いていた。相変わらず隈のできている目元を忙しなく動かして、休みなく観察している様子だ。フロアは静かで薄暗い。今の時間帯は、一面のガラス張りから日光が入り込むためさほど支障はないが、日が暮れるとあっという間に視界を奪われる。上階のオフィスから聞こえるかすかな音が、かえってフロアの静けさを強調していた。声を出すのも躊躇われる空間に、無造作な咀嚼音だけが響いている。そこへ――

「任務ご苦労、報告を聞かせてもらおう」

突然現れる男の声と靴音。それもアマルガムのすぐ真後ろからだ。物音ひとつしないこのフロアで、アマルガムに気づかれずに接近することは不可能に近い。後ろに立っているであろう人物は、普通の人間ではないことを瞬間的に察知しながら、素早く後ろを振り返る。
「な、なんだあ……?」
誰もいない。少なくとも、アマルガムの見開いた目には何も映っていない。いや、正確には人間の姿が見当たらないと言った方がいいだろう。今のアマルガムの視界には、蜃気楼のような、それでいて機械的な、空気の揺らめきとでも言うべきかすかな靄が広がっていた。
「ああ、姿を現していなかったな」
なんでもないように言い放った声は、やはり目の前の靄から発せられている。徐々にその靄は人の形を成していった。背景に溶け込む色が、まるで解像度の上がっていく画像のように、人間の姿へと変貌していく。
 それは発せられた声に似合った印象の、大柄な男だった。縮れた長髪をオールバックにまとめ、グレーのスーツを着込んだ堂々とした出で立ちである。顔にはサングラスがかかっているが、かすかに覗く瞳の色彩は、両眼で色が違っていた。
金銀妖瞳ヘテロクロミア……あんた、まさか」
「ほう、勘付くのが速いな」
神出鬼没の能力、金銀妖瞳ヘテロクロミア……この特徴に合致する人物をアマルガムは知っている。いや、アマルガムだけではなく、統和機構の中で噂されている。
 統和機構のトップである”中枢”の正体は、システムの中でも一部の者しか知られていないと言われている。個人であるとも、チームであるとも、はたまた高性能の人工知能だと予想している者もおり、とにかく謎めいているらしい。しかし、その中枢直属の使者として動く男については、正体を秘匿するつもりはないようだ。カレイドスコープ――それがこの男、統和機構のナンバーツーこと副王の名前である。
 末端の構成員がお目にかかれるような人物ではない。当然、カレイドスコープの突然の訪問に、アマルガムは心底驚いていた。立ち上がり、一歩後ずさって相対する。
「ど、どうしてこんなとこに」
「君が理由を知る必要はない、私は私の指名でここに来ている。フォールンの監視任務について報告を聞こう」
にべもない口調でそう返すと、カレイドスコープは報告を促すようにアマルガムに視線を寄越した。

*

 カレイドスコープは、目の前の小柄な男を見下ろしながら、しどろもどろの報告を聞いている。いや、詰まり気味ではあるものの、報告そのものは簡潔でわかりやすい。要するに「不審な動きはなく、問題なし」とのことだ。しどろもどろな男――アマルガムは、単にカレイドスコープに萎縮しているだけのようだ。自分の立場と容貌を考えれば当然のことだとカレイドスコープは自覚している上、意識して威圧的に振る舞っている面もあった。
 アマルガムが大まかな内容を語り終えたため、カレイドスコープが細かな雑感を伝えるよう促した。少し空中を見ながら悩んだあと、なんでもない報告をぽつぽつと語りだした。取るに足らない――それが、アマルガムに会ってから、カレイドスコープがずっと抱いている印象だ。
 彼は比較的小柄で体格も細身であり、丸まった背筋が危険性の無さを強調してくる。生気のない顔も仕草もその一因だったが、最大の要因は“声“だった。機構に記録されているデータによれば、アマルガムという男の能力は声にあるという。彼の体組織が発する微弱な生体波動は、声帯に作用する。特殊な波長で調整され発された声は、それを向けられた他者の印象を自在に変化させる。といっても大げさなものではなく、本当になんのことはない、「良い人そうだな」とか「少し怖い人だな」のような、ぼんやりした部分だけではあるらしいが。警戒されにくいその性質から、もっぱら探索型として、潜入任務や尾行任務を行っている。
 アマルガムのデータを知っているカレイドスコープは、当然彼の声による印象操作を警戒しているが、そもそも操作をされているのかどうかも判別できない。意識を切り替え、自分の印象を排した事実のみを記憶するよう努める。こちらに害意がないと理解できてきたのか、幾分リラックスした様子で報告を終えたアマルガムは、小さく一息をついてカレイドスコープの出方を待った。カレイドスコープは静かに頷く。
「なるほど、現状は把握した。では……
「あ、」
引き続き調査を、と締めようとしたところで、カレイドスコープの声を遮ってアマルガムが声を上げた。遮ってしまったことに焦っているアマルガムへ、視線で問題ないと促す。
「いや、すいません……あのー、そういえば調査対象――フォールンが、地下鉄の車両で少し怪しい動きをしたことがありまして。電車の網棚とか、つり革の辺りをぺたぺた触ってて。あとで調べても特に怪しいものは出てこなかったんですけど、まあちょっと怪しいので、報告だけでも」
この情報が何を意味するかはわからないが、カレイドスコープが理解できるかは重要でない。この報告を届ける先の人物が判断することだ。カレイドスコープはしっかりと記憶して、ふと目線をフロアの角の辺りに向ける。なんらかの大型機械――テーブル型でつまみがたくさんついており、音響のミキサーによく似たそれに、ごついヘッドホンとノートパソコンが繋がれている。
「あれは?」
「ああ、なんかこのフロアに最初からあったんですよ。使えそうなので勝手に使ってます。対象に盗聴器を仕掛けてあるので、それ聞いたりして……ほとんど意味ない雑音ですけどね」
へらりと笑って、警戒されにくい声音で返答した。カレイドスコープは「そうか」とだけ言って、その事実だけを記憶する。カレイドスコープの役割はアマルガムの現状を知ることであり、事実を追求することではないためだ。
 一呼吸置いて、カレイドスコープは簡単な労いと、引き続き努めるよう言葉をかけた。アマルガムは「はあ」と力のない返事をする。
「それから、これを持っていろ」
カレイドスコープはスーツの内ポケットから何かを取り出す。思わず両手を出して受けとったアマルガムの手のひらには、小さなイヤリングが転がっていた。イヤリングの金具の本体に赤い石が埋め込まれた、ごく簡素な代物だ。アマルガムは怪訝そうな視線を寄越す。
「それを渡せ、という指令だ。『赤いものを耳につけていると、思い込みを手放すことができる』と仰っていた」
アマルガムは更に怪訝な顔でイヤリングを見つめた。妥当な反応だろう。「おまじない、ですか……?」という呟きも聞こえてくる。カレイドスコープは特に取り合わず、自分の任務は終えたからと言わんばかりにその場を立ち去る。アマルガムの視線を背中に感じるが、エレベータに乗ってフロアを去った。
 エレベータの中で、自分の任務に思いを馳せる。この少し奇妙な指令を受けたのは、ほんの数時間前、とあるカフェでのことだった。

***

 長谷部京輔は、とあるホテルの一階に併設されているカフェでコーヒーを飲んでいる。すぐ隣には天井まであろうかという大きな窓から、よく晴れた日差しが燦々と降り注いでいて、非常に開放的な雰囲気を醸し出していた。コーヒーのついでに注文したガトーショコラも甘すぎない味付けが好みで、人を待つ際にも苦にならない良いカフェだな、とぼんやり思う。
 長谷部は相手から指定されたこのカフェで、人を待っている。正確には明確に指定されてなどいないのだが、縁もゆかりもないこのカフェへ、些細な偶然が重なり入店して休むことになったため、そういうことなのだろうと考えた。今から長谷部と接触するであろう人物は、たびたびこういう回りくどい待ち合わせの仕方をしていて、当の長谷部はすっかり察知できるようになっていた。
 カフェの内部は手狭でシンプルでありながらも、使用されている道具ひとつひとつに高級感がある。それもそのはず、上階のホテルは比較的値段の張るホテルだ。大浴場やアパレルなどのテナントも入っていて、時期になれば家族連れやカップルなんかが背伸びをして予約する。今は時期外れのおかげで安くなっている様子だが。わざわざこのホテルの一階を指定しているということは、今はここに滞在しているのだろうか、と長谷部は自分を待たせている男を思う。
 長谷部とその男は、すでにこの時代の人間ではない。五百年あまりの時を経て無理やり肉体を動かしているに過ぎず、当然ながら戸籍なんてものはなく、住居もない。眠らなくても問題はないから必要ないのだが、それでも拠点がないと不便なときはある。そんなときは近いところに宿泊したり廃屋に勝手に間借りしたり、臨機応変にやっている。これから訪れる男もおそらくそんな風に日々過ごしているはずだが、詳しいところは知らない。知らなくても意外と問題なくやっていけた。
 長谷部が一杯目のコーヒーを飲み終えた頃、少し離れた入り口の方からふらりと人影が入ってきた。手狭なカフェで来店に気づかないはずはないのだが、ホールにいる店員二人は気に留めていない様子だ。常連だから、という雰囲気ではなく、単に気づいていない。長谷部はその人物が意図的にそう仕向けているのかとも思ったが、元々極端に影の薄い男ではあるので、彼の望んだ状況であるかはわからない。ただ本人は気にせずそのまま長谷部のテーブルへ歩み寄ってきているから、どうでもいいことではあった。長谷部に何か声をかけることもなく、ごく自然な態度で目の前に座る。
「遅かったな、ハリウッド」
長谷部は目の前の男にそう声をかける。ハリウッドと呼ばれた男は掠れ気味の声で「……お前が想定より早かっただけだ」と返した。特に待ち合わせ時間なども指定されていない状況を鑑みれば奇妙な会話ではあったが、この二人の間では問題なく成立しているらしい。
 ハリウッド――またの名をオキシジェンというこの男は、長い前髪からわずかに覗く瞳を窓の外へと向けた。特徴らしい特徴を感じられない希薄な雰囲気から、年齢はおろか国籍、性別すらぱっと見では曖昧だ。物静かで多くを語らない態度も、神秘的とも言えるし、投げやりなようにも思える。人混みに紛れてはかき消えるようなこの男が、世界の至るところに影響を及ぼす巨大なシステム――統和機構の”中枢”であることを、ほとんどの構成員は知らない。
…………
オキシジェンは窓の外を眺めていて、口を開かない。彼の無言に慣れきった長谷部は、あちらから声を掛けてくるまで待つことにしている。オキシジェンの目には当然窓の外の植木と、その向こうにのぞく道路や通行人が映っているはずだが、それがどのように捉えられているかは、長谷部にも計り知ることができない。目の前にいながら別世界にいるような感覚の違いを、このオキシジェンという男からはよく感じる。
……あの少年は……
「少年? 南本裕貴か?」
亀かなにかのように微塵も動かない姿を長谷部が見飽きた頃、やっとオキシジェンは口を開いた。話しかけているとも言えないような声量だが、長谷部はその声を正確に拾う。今追いかけている事件の中で少年といえば、御山早苗の友人であった南本裕貴しかいない。オキシジェンは少しだけ頷く。
「彼自身の思い込みによって、迷っている……自分が在るべき姿を……。御山早苗から示されたはずの、自信の正しさを――
「御山早苗から? それは一体……
「いや、正確にはわからない――たとえ知ることができたとして……それを理解することは、彼自身にしか……できない」
相変わらず煙に巻くような物言いだが、誤魔化しているとか、騙しているような類のものではなく、むしろその逆――オキシジェンの中で真に迫るには、迂遠な言い回しをしなければいけないような、ある種必死な雰囲気がある、と長谷部は思っている。いつの間にか目の前に向き直っているオキシジェンは、息を吐くように言葉を続ける。
「あの事件を知るには……――南本裕貴の存在が不可欠だ」
「なるほど、お前が言うならそうなんだろう。再度南本に接触してもいいが、俺はちょっと嫌われてるかもな――
「少し、おまえに似ている気がするな……あの少年は」
「どこがだよ」
からかうのはやめろ、とでも言いたげに若干不満そうな声色で長谷部は返した。からかった本人は笑ってこそいないものの、どことなく面白がっている空気が漂う。ただ似ていると思ったことは事実なのだろう。嘘をついている風には見えない。
「問題ない……カレイドスコープ」
「こちらに」
オキシジェンが名前を口にすると、彼の傍らに、いつの間にか大柄な男が控えていた。姿を消していたカレイドスコープが能力を解いただけに過ぎないのだが、毎度のことながら突然現れる様は眼を見張るものがある。
「いたのか。相変わらず神出鬼没だな」
「お前に言われたくはない」
長谷部がカレイドスコープに軽口を叩くと、サングラスの奥から左右で色の違う瞳に睨み返される。長谷部の馴れ馴れしい態度が気に食わないのか、この男はいつもこのような調子だ。はは、と軽く流して長谷部は背もたれに体重を預ける。オキシジェンは呼び出したカレイドスコープに二つか三つほど指令を出し、手のひらサイズのものを預ける。「かしこまりました」とカレイドスコープが一礼すると、彼の姿は再び周囲の風景と同化してしまう。完全に気配がなくなっているため、任務を遂行しに行ったのか、それともまだ留まっているのかわからない。
「フォールンの監視役っていうと……アマルガムだったか? なんでまたそいつに」
オキシジェンがカレイドスコープに出した指令の中に、その人物が挙げられていた。
「やはりお前もフォールンが怪しいと?」
「そうだな……彼女もまた、過去の事件に囚われている一人だろう……。そして、今の・・事件を引き起こそうとしている」
「おい、ということは……フォールンは近々なにかやらかすつもりなのか」
長谷部が驚いて前のめりになると、オキシジェンはゆっくり頷く。しかしその顔には重々しい緊張感などが感じられない。どこか駄々をこねる子供を相手にしているような、やれやれとでも言いそうな雰囲気がある。
「彼女が何かを仕掛けていることは間違いない。だが……それは、世界になんら影響を及ぼさない……彼女の中で、すでに終わったことだ……
わずかに息を吐き出して、ため息のような仕草をする。オキシジェンの話だけ聞いていれば大したことは起こらないと思ってしまいそうだが、それが彼独自の尺度によるものであることを長谷部は承知しているため、しっかり警戒しておこうと心に決める。
「フォールンか……御山早苗の一番近くにいたんだよな」
長谷部はフォールンのデータを思い返す。御山早苗に次期中枢の候補として目をつけたことで、護衛兼監視役として送り込まれた合成人間だ。そして、御山早苗を危険因子として十年前に殺した張本人でもある。
「あの事件はフォールンの主張に正当性があったから、御山早苗の殺害に関しても咎められなかったはずだ。まさか当時の彼女が嘘をついていて、機構を裏切っていたからバレないように……とか?」
フォールンが何かを仕掛けている理由を、長谷部なりに推測するが、オキシジェンはどこ吹く風といった調子でまた窓の外を眺めている。動機について興味はないということか、その必要がないのか……おそらく、これが先ほど言っていた「すでに終わったこと」なのだろう。長谷部はそう解釈して、別の話題に切り替える。
「お前がこの事件にこだわるのは、やっぱり彼女が原因か」
長谷部がそう話しかけると、オキシジェンは外へ向けていた視線を少しだけ下げ、瞼を伏せ気味にする。感情のわかりにくい彼が珍しく示す、憂いの表情だった。その反応を受けた長谷部もまた、複雑な表情に顔を強張らせる。
「彼女――御山早苗が何を考えて、どうして死んでいったのか知りたいんだろう。だが知ってどうする。お前の負い目が消えるわけじゃない」
 オキシジェンという男には、無数の後悔が刻まれている、と長谷部は思っている。普通の人間よりも長い間活動し続ける長谷部とオキシジェンにとっては、関わった人間と死に別れることなどいくらでもあった。御山早苗のように、後継者として目をかけた者が死んでいったことも一度や二度ではない。長谷部にとってそれらは適度に整理し、折り合いをつけるべきことだ。深く抱え過ぎれば潰れることはわかりきっている。しかし目の前の男――運命を視て、時にそれを操るこの男は、どうにも他人事という観点が薄い。いや、むしろ世界のすべてを他人事として客観視できるからこそ、自分が関与しているかどうかで境界を引くことが難しいのだろう。あらゆる事象の選択に関われるからこそ、その”負い目”を引き受けてしまっているような……そんな印象を長谷部は持っていた。
 御山早苗の死は、報告にある限りでは誰の責任というわけでもない。偶然や必然が重なってできた、いっそ事故とでも言えるようなものだ。しかし運命を知る者が、偶然や神の仕業を信じることができるだろうか? オキシジェン自身は、自分にできることは何もないと言う。それでも自分が選ばなかった選択肢を負ってしまうのは、なんと歪な姿だろう。長谷部は哀れみにも似た感情をしばしば抱いている。
「そうだな……僕のこの行いもまた、何も変えられないだろう……それでも……
オキシジェンはそれだけ言うと、口元を自嘲気味に歪める。祈るようにも感じられる言葉が、長谷部には痛々しく思えた。前髪に隠れて今は見えない目は、きっと空っぽなのだろうと思った。とっくに運命を外れた自分たちにこの先の報いなどないのかもしれない。それでも、長谷部には目の前のこの男が穏やかに過ごせるときを願わずにはいられなかった。


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