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【hpmy百物語企画『夜韻奇譚』第二十七話】ノイズ

全体公開 5 11 16135文字
2021-08-16 17:50:15

hpmy百物語企画『夜韻奇譚』(#hpmi_horror100)に寄稿したお話です。流血と幻覚の表現あり。マイクの副作用で幻覚を見るようになってしまった三郎が、幻覚に耐えようとして、思わぬ展開を招く。三郎視点で一郎と二郎が出ます。

Posted by @snoopdeer


「おーい三郎ぉ~っ俺のサッカーボール知らねー?」
 間抜けな兄の声に、僕はいつもため息をつく。振り返るのも面倒なのでキーボードを叩くリズムはそのままに答えた。
「昨日干したままなら、まだ屋上だろ」
「おっそれだっ!」
 パチンと指を鳴らして嬉しそうに駆けていった。まったく、高校生にもなって自分のものも管理できないんだから、あの一兄の弟とはとても思えない。
「あったぜ! サンキュー!」
 すぐ戻ってきた。無事に見つかったようだ。
 それで満足すればいいのに、二郎はなぜか立ち止まった。
「お前なに調べてンの?」
「関係ないだろ。用が済んだなら部屋帰れよ」
「幻覚……マイクの副作用……?」
「見るなって!」
 部屋の外からこのフォントサイズが見えるって、あいつどんな視力をしてるんだ!? とりあえず慌ててスクリーンロックをかけた。振り向くと、二郎はガラにもなく真剣な顔で僕を見ていた。
「なんか悩んでンなら、聞いてやろうか?」
 どうせ答えられないくせに、すぐ兄貴面するのが腹立たしい。
 ……とはいえ、僕が調べた限り、この事象の報告事例は母数が少ない上、主観的で再現性がなく、データの信頼性が低い。少なくとも嘘を言わない相手からの情報収集は必要だ。
「お前はさぁ、バトルの後……マイクを使ってないときに幻覚を見たことはある?」
「いや、俺は別にねぇかな。頭いてぇとかはあるけど……あっ、次の日テストあるとマジボロボロなんだよな~!」
「それはいつも通りだろ」
「ンだと!? ……って、お前は見ンのかよ? 幻覚とか」
「そういう記事を見つけて調べてただけだよ。ヒプノシスマイクには未解明の部分が多いから、用心にこしたことはないだろ。僕はお前と違って長期的な目線で物事を捉えているからな!」
「ったく、いちいちかわいくねーな」
「お前に見せる愛嬌なんてこの世で最もムダなエネルギーだよ」
「だとこのクソガキ!」
「事実だろ低能!」
「るっせーぞお前ら! 早く風呂入って寝ろ!!!」
 言い争いになって、例によって一兄に怒鳴られてしまった。いつも通りだ。
 二郎が出ていって、部屋に一人になる。
 視界の端からずるずると、黒い塊が這い寄ってくる。巨大な生き物の気配。なにもいるはずがない。部屋には僕一人だ。なのに熱くて獣臭い息がハッハッと吐き出されて僕の耳の後ろをくすぐる。
(これは幻覚だ。物理的な危害は与えられやしない。怖がる必要はない)
 ヒプノシスマイクを使いだしてしばらく経ってから見えるようになった。最初は飛蚊症のような薄いちらつき。だんだんと濃く、大きくなって、日に日に実体のようになってきた。いないとわかっていても体が強張ってしまう。いまにも噛みついてくるんじゃないかと。
 対策を見つけようと調べたものの、前述の通りあまり参考にならなかった。ヒプノシスマイクのバトルは脳に直接作用するため、ビートやリリックが視覚化されて文字通りぶつかり合う。常時幻覚を見ているようなものだ。ヒプノシスアビリティに幻惑作用をもつ者もいる。バトル後に幻を見たという報告はあるが、バトルの余韻と混同している懸念がある。僕が体感している現象と同じか判断できなかった。僕のはもっと平静時に起こる。
 二郎も見ていないようだし……僕だけなんだろうか? 
 一兄に相談するのは憚られた。もしこれが僕の弱さゆえの作用だとしたら、情けなくてとても言えない。余計な心配をかけたくないし、二郎に見下されるのも癪だ。なにより戦力にならないと言われる方が、幻覚よりよっぽど怖い。
 僕は幻覚を見ないようにして浴室に向かった。
 気にならない訳じゃない。
 特に一人の……月並みだけどお風呂に浸かっているとき。静かだからより意識してしまう。余計なことを考えないようにライムを連ねたりするけど、幻覚は脳の別のところで発生しているらしく、無関係に現れる。
 いまも目の端で、黒い尻尾が揺れている。荒い息づかいもある。
(幻覚だ。実体のない幻だ) 
 無視してライムを続けていると……
 ペロッ。
 首筋をざらついた舌が舐めた。
「っ!!!」
 僕は声も出せずに風呂場を飛び出していた。
(ムリムリムリ! 実体あるじゃないか!)
 話が違う。幻覚なのに触れるなんて聞いてない。
 心拍を落ち着けて、風呂場を覗く。
 当然なにもいない。
 ……いや、なにかいる。
 浴槽の淵に異様に鋭い爪がかかっている。黒い毛むくじゃらの足が上に伸びている。足だけのはずがない。真っ赤な舌が垂れ下がってぼたぼたとよだれを垂らしていた。牙が見え、そして頭部が見えた。黒い獣。開かれた四つの目は焦点があわず、大きな口をだらしなくあけて、蒸気よりも熱い息を吐いている。浴室を埋めるほど大きな体はところどころ腐って赤黒い肉を見せていた。
 獣はひんむいた目で僕をとらえ、僅かに前傾姿勢を取った。
 そして、飛びかかってきた!
「三郎っ!」
 耳元で一兄の声がして、気がついたら獣はいなくなっていた。
「い、いち、にぃ……
「おいどうした、のぼせたか?」
 情けない姿は見せたくないと思う……のに。
 僕は一兄の胸にしがみついていた。指先が震えて力が入らない。
 怖かった。
 一瞬、本当に喰われるかと思った。
 一兄はぎゅっと抱き締めてくれた。大丈夫、大丈夫だ、と声をかけてくれる。
 少しずつ心拍が落ち着いてきた。
 そういえば、素っ裸でびしょ濡れのままだった。
「あ……ごめんなさい、僕濡れて……
「いいから」
 なんて優しくて頼もしい胸だろう。一兄はいつだって揺るがない。
 僕には一兄がいる。そう思うだけで恐怖は嘘のようにしぼんでいった。
 生まれたときから一兄の弟である僕は完全に勝ち組。どんな恐ろしい化け物だって、この不動で絶対の光の前には塵芥だ。ざまあみろ!

 なんとか寝間着に着替えて出てきた僕は、ソファで待っていた一兄の隣に招かれた。
 さすがに事情を説明せざるをえない。
……お前も、見えるようになっちまったか」
「え……じゃあ一兄も?」
 僕がおそるおそる幻覚のことを話したら、一兄は悲しそうに眉を寄せて、僕の肩を抱き寄せた。
「マイクを使ったバトルの後遺症らしいな。症状は色々あって、音が聞こえなくなるとか、体が動かなくなるとか……目覚めなくなるやつもたまにいる。脳に直接ダメージがいく戦いだからな……なぁ、三郎」
「僕は戦えますっ!」
 なにを言われるかは予想できる。
「一兄は戦い続けているじゃないですか! 僕だってやれます!」
「けどお前はまだ成長期だろ。無理してなんかあったら……
 話の流れがよくない。このままではチームから外されてしまう。そんなのは絶対に嫌だ。
 僕は一呼吸置いてから言った。
「もうすこしだけ時間をください。僕を信じてください。こんな幻ごときに負けたりしませんから」
「三郎……
 さっき震え上がったばかりで説得力なんかない。でもここで折れるわけにはいかないんだ。
「一兄はどうやって幻覚に耐えているんですか?」
 具体的な話題になれば、一兄は親切にアドバイスをくれる。
「俺は……無視してる。俺が見るのはいつも人間だから、怖いっつーかうぜぇって感じだな。ゾンビみてぇなボロボロのナリだからすぐ現実の人間じゃねぇってわかるんだよ。ラップとかラノベに集中してるときはあんま気にならねぇし、家事したり寝るときはヘッドホンで音楽流してスルーしてる」
「実際に触られたって感覚もあったりしますか?」
……たまにな。意識しちまうとどんどん実体化する。思い込みすぎるとホントにケガしたりってこともあるみてぇだけど、所詮は錯覚だ。気にしなきゃどうってことねぇ。……いまのとこ、俺の場合はな」
 すこし強めに言い切って、最後は口調を和らげた。
「やっぱり……そうなんですね。わかりました」
 ネットを調べても詳しい話が出てこなかったのは、意識するほど悪化するためだろう。記録に残してしまったら嫌でも記憶にこびりつく。それにラッパーは大なり小なりプライドが高いから、ワックだと思われたくなくて言ってない可能性もある。
「二郎は見えてねぇのか?」
「あいつは、鈍いから……
……そうか」
「ぼ、僕にも無視できるはずです。一兄の弟なんだから。一兄だってそう思うでしょ?」
……そう、だな。でもムリはするな。すぐチームをやめるとか言わねぇから、無視できねぇようなら一緒に対策を考えようぜ」
「はい!」
 心強い。嬉しい。でもきっと一兄の手助けがなくたって、僕一人の力でこの幻影に打ち克ってみせる。

 ***

「三郎……か?」
「え? 一兄、なんですか?」
「いや……
「あ、もしかして幻覚のことですか?」
 はにかんだ一兄に、僕は胸を張って笑いかけた。
「すっかり気にならなくなりました! まだ見えることはありますが、僕も一兄みたいに無視しています!」
「そ、そうか……もし……
「大丈夫です。だから心配しないでください!」
 一兄がいつものように笑ってくれた。なによりの称賛だ。
 不気味な黒い獣は性懲りもなく僕の背後に纏わりついている。が、人間の脳は慣れるものだ。僕はあいつを当たり前の存在として定義することで、意識の外に追いやることができるようになった。もう恐怖は感じない。克服したんだ!
「おい三郎っ!」
 急に横からどつかれてびっくりした。二郎だ。いつの間にすぐ隣にいたんだ。
「痛いなぁ、なんだよ」
「なんだじゃねぇよ、兄ちゃんが聞いてンだから答えろって!」
「えっ、……ごめんなさい、一兄。なんでしたか?」
 愉悦に浸っていて一兄の言葉を聞き逃すなんて、僕としたことが。でもそれくらい嬉しかったんだ。
 一兄は微笑んで、いいんだ、と身振りで答えると、背を向けて料理の続きを再開した。
……お、おい二郎。一兄なんて言ってた?」
「さぁな~」
 なんだよ、教えてくれたっていいじゃないか。
 気になったけど、僕の大好きなペスカトーレのいい香りがしてきて、うっかりそっちに興味が移ってしまった。だって一兄の作るペスカトーレは僕の大好物だ。食べる前からもう舌の裏に味が再現できてしまう。お店のよりは具がたっぷり入っているし、パスタの茹で具合も味加減もいつも完璧だ。
「いただきます!」
 フォークで上手にからめとって口に運ぶ瞬間の幸福感。
……あれ?)
 味がしない。
 味どころか、食感までぼけている。
 もう一口食べてみても同じだ。こんなにいい香り、フォークで取るパスタの感触もいつも通りなのに。
 もしや、と思ってサラダを口に運んだ。普通にレタスやきゅうりの味がする。コンソメスープも問題ない。麦茶も。なのにペスカトーレだけふわふわしてる。
 一兄も二郎も普通に食べている。ということは、おかしいのは僕か?
 その場で聞くこともできず、僕はぼやけた味のパスタを胃に運ぶ作業を淡々と進めた。せっかくの好物なのに、すごく残念だ。
「三郎、あんま食ってねーじゃん。調子わりぃの?」
「え……そ、そんなことないよ」
 二郎が不思議そうに聞いてきた。いつもの僕なら二杯は軽いから、二人が心配そうに僕を見ていた。二郎はともかく、作ってくれた一兄に不味かったなどと思わせるわけにはいかない。
「味わってただけだ。……一兄、おかわりいただきますね!」
 むりやりかきこんで、二杯目を取ってきた。やはり無味。でも美味しいと嘘をついてなんとか飲み込んだ。

  ***

 次に消えたのは、カレーの味だった。
(嘘だろ……
 ペスカトーレと並んで大好きな一兄のカレー。三人で暮らし始めて最初に作ってくれた料理。あの頃からずいぶん腕が上がって、今では店に出してもいいくらい本当に美味しい。肉もいっぱい入ってるし。
 そのカレーの味が、わからなくなった。またぼやけている。
 ペスカトーレのときは他の食べ物がなんともなかったから、体調のせいとか、あまり深く考えなかった。が、二度目となると話は別だ。このときはじめて、自分の異常を意識した。好物ばかり二回もなんて、絶対おかしい。
「なぁ、二郎……
 その日は一兄は依頼で留守だったから、僕は思いきって二郎に話すことにした。
「このカレー、味してるよな?」
「はぁ? ったり前だろ。お前はしてねぇの?」
……うん。実は、……この前のペスカトーレのときも」
「マジかよ!? うめぇうめぇって食ってたじゃん」
「それは、一兄の手前だから……
 二郎の目が泳いだ。
「ミカクなんとか……ってやつ?」
「いや……他の味はわかるんだ。このポテトサラダも、オニオンスープも、コーラだって。特定の食べ物だけ味がわからないんだ。味どころか、食感までなんかぼやけてて、……
「好きなモンだけ、……ってことか?」
 二郎がおろおろと目線を動かしている。お前がそんなに動揺してどうするんだよ。
「二例だけだからN数としては少ないけど……今のところはそう言えるな」
「さ、……三郎」
 二郎の声が震える。
「二つ……じゃねぇ、かも……
「は? なに言ってんだ、ペスカトーレとカレーの二つ……
「兄ちゃんのこと、見えてるか?」
 心臓が縮んだ。
「なんかおかしいと思ったんだ。お前ずっと兄ちゃんのこと無視してっから」
 そんなはずない。だって一兄は依頼で……
 一兄の席には誰もいない。
 いつから?
 しばらく姿を見ていない気がする。
「い、いるの……一兄、そこにいるんですか……?」
 なにも見えない。二郎が僕を騙しているのか?
 でもいつの間にか、一兄の席にカレーの器が置いてあった。食べ終わった後の器とスプーン。飲み終わったコーラのグラス。さっきまでなかった。いや、でも誰かが動かしたところを見ていない。ずっとあったような気もする。
 ふわり、と柔らかい気配がした。
「いち、にい……?」
 なにかがいるような気がする。その程度の感覚。触ろうとしても触れられない。
「兄ちゃん、後ろからぎゅってしてっけど……マジで見えねぇの?」
「わかんない……見えないし、感じない……
 悪い冗談か、夢であってくれ。
「お前、ドッキリとかしようっていうんじゃないだろうな!?」
「そんな意味わかんねぇ嘘つくかよ!」
「じゃあ本当に、……本当に一兄が認識できなくなったっていうのか……そんなの信じられない、ありえない!」
「なら兄ちゃんが今日なに着てっか言ってみろよ!」
 答えられるわけがない。なにも見えないのだ。
「嫌だ、こんなの……嘘だ……
 認めたくない。なにかの間違いであってほしい。 
 この世で最も大切な一兄の存在が消えるなんて。
「あ、明日……病院行こうぜって」
 二郎がぎこちなく僕の肩に腕を回した。不自然な動きだと感じるのは、きっと一兄の分の隙間があるからだ。二郎の声色も真に迫っている。こんな演技ができるヤツじゃない。
……ごめんなさい、一兄、ごめんなさい……
 大丈夫だ、気にすんな。そう笑いかける姿が目に浮かぶ。リアルと言っていいくらい忠実に想像できる。なのに僕には、その体温すら感じることができなかった。

  ***

 あまり期待していなかったが、やはり病院なんかに行ってもよくわからなかった。人間の認識は必ずしも物理現象のままではないこと。意外と視界に入ったもののうち見えているのは一部だったりする。そんなのはわかりきったことだ。ヒプノシスマイクを使う者が様々な認識、判断、記憶、行動の面で異常をきたすことがあること。それも知っている。僕が知りたいのは対策だ。だが、名医と名高い神宮寺寂雷でも即効性のある手段は持ち合わせなかった。
「きっかけになったのはおそらく、その獣の幻影でしょう。恐ろしい危険から身を護るために、三郎くんは強い自己暗示のフィルタをかけた。本来は非常に優先度の高い情報のはずですが、それをないものと思い込む過程で、大切なもの、影響の大きな存在のことを認識しづらくなってしまったのかもしれません」
 それじゃあまるで、僕が望んで一兄を消してしまったみたいじゃないか。
 情けなくて、悔しくて、僕の方が消えたかった。いまも隣に一兄がいるはずなのに。
「なにか、対策は?」
「焦らないことです」
 寂雷は切れ長の眼を強く僕に向けた。
「下手にストレスをかけると、脳はさらに自己防衛のために症状を悪化させる可能性があります。だからムリをしないように、いつも通り過ごしてください。……大丈夫、視覚や聴覚に異常はありませんから、いずれまた認識できるようになります。焦らずに、落ち着いて行動してください。一郎くんはどんなことがあっても君を見下すようなことはしない。必ず治ると信じてくれています。それは君にもわかりますね?」
「はい……
 見えなくたって、それは確信できる。
 だからこそつらい。なにもできないのがもどかしい。
「帰ろうぜ、三郎」
 二郎が立ち上がった。いまはこんなやつでも、いてくれるのがありがたい。

  ***

 焦らないように、と言われたからムリはしないつもりだけど、自分なりにできることはいろいろやった。アルバムを見返して一兄の記憶を辿ったり、ネットで情報を探したり。でも効果はなかった。一度、二郎に手伝ってもらって一兄のいるあたりを触らせてもらったが、全然感じられないのでつらくてすぐやめた。
 一兄の作った料理は食べられる。いつの間にかそこにある、としかわからないが、美味しいのは感じられる。僕は過剰にその味を好きだと思わないようにしながら食べる。
 しばらくバトルもなかったから、意外なほど生活には支障がなかった。学校のテストもいつも通りほぼ満点だし、新しい曲のリリックも少しずつ進んでいる。カメラ画像から一兄の姿をARで浮かび上がらせるアプリでも作ろうかと思ったが、それに頼るようになるとさらに肉眼で認識できなくなる気がしてやめた。
 一兄の情報は二郎から聞くしかない。でも何度聞いても、「いつも通りだ」というばかりだった。もっと細かい表情とかを教えてほしいのに、表現力がチープなんだよな、この低能は。まあいつも通りなのが一番だけど。きっと悲しませてしまっているから、早く目線だけでも合わせたい。
 一兄はできるだけ外回りの依頼を減らして、家にいてくれているらしい。僕が認識を回復するのを信じてくれている。申し訳ない。だが焦っても仕方ない。僕は一兄のいない生活を続けていた。
 
  ***

 一兄のことが見えなくなってから二週間が経った。
 その日は二郎が依頼に出ていて、僕と一兄が家にいる……はずだ。
 僕は慎重に周囲の様子を見ている。なのに気がつくと洗濯機が回っていたり、部屋がきれいになっていたりする。そんなバカな、と思うのに、その途中過程は見えない。意図的に見ないようにしているみたいに。いや、実際に僕の脳が、一兄をシャットアウトしている。
 僕は邪魔にならないように部屋に籠って、少しでも対策のヒントがないか、同じような事例がないか調べていた。
 気がつくと昼を過ぎていて、食卓に降りると、ラップをかけたオムライスが一つ置いてあった。ぬるくなってしまっている。三十分は経っているだろう。調理に使った食器はすっかり片付けられていた。
 僕は電子レンジでオムライスを温め直して食べた。美味しい。いつもの一兄の味付けだ。大きめのチキンがごろごろ入ったライスと、たっぷりのふわふわ卵。
「美味しいよ、一兄」
 独り言をいって、ひどく空しくなった。
 一兄は僕を待っていただろうか。いまもここで見ているだろうか。それともなかなか降りてこない僕を待ちくたびれて、部屋でラノベでも読んでいるだろうか。
 胸が苦しくて、鼻がつまって、味が薄れる。
「一兄……
 呼んでも反応はない。あっても僕にはわからない。
 一兄は僕の何倍も、僕に話しかけているかもしれない。二郎がいないとなんのコミュニケーションもとれない。
 僕は使い終わった食器を自分で洗って、郵便受けを確認しに行った。せめてなにか手伝いたかったし、すこし外の空気を吸いたかった。
 自宅用のポストにはチラシがいろいろ入っていた。宅配ピザのチラシを見つけて、そういえばしばらく食べていないなと思った。一兄はピザ好きだけど、あれはみんなで食べないと美味しくないから……
(治ったら絶対、一兄とピザ食べよう。ついでに二郎も……
 先のことを考えたらすこし気持ちが明るくなった。
 その途端、耳をつんざくような鳴き声がした。
「ワンワンワンワン!!!」
「うわぁっ!」
 真横ででかい黒い犬が吠えていた。僕に飛びかかろうとするのを、飼い主が必死に押さえつけている。かろうじて噛まれなかったが、犬はリードをこれでもかと引っ張って上半身を浮かせていた。前足が僕のパーカーの紐をかすった。
 突然のことで肝を冷やした。大きな犬は苦手だ。
 飼い主は謝りながら犬をひきずって連れていった。
「びっくりした……まったく、あんなの猛獣じゃないか」
 一口に犬といっても色々種類はあるが、大型犬は猛獣に分類していいと思っている。動きが速くて、力が強くて、牙も鋭い肉食獣。ライオンや熊と同類だ。本気を出したら大人でも抑えるのが困難。しつけができると言うけど、とてもできているとは思えない飼い犬もたくさんいる。さっきの犬だって狂ったみたいに吠えて、動物園の猛獣の方がよっぽど大人しい。
 それにしても、あんなに巨大な獣に接近されるまで気がつかなかったなんて。
 まだ心臓がバクバクいってる。本当に嫌だ。なんで僕が犬なんかに冷や汗かかされなきゃいけないんだ。
 ちょっと苛つきながら家に戻った。一兄に見られてないといいけど。
 犬に触れた手を洗いながら、ふと思いついた。
 黒くて大きくて……さっきの犬、まるであの幻の獣みたいだった。
(あ……もしかして)
 僕の脳はあの獣の姿をフィルタリングしているのかもしれない。そのせいで近づかれてもわからなかった可能性はある。
 ということは、一兄のことも視覚情報を元に排除しているのか。だとしたら、一兄の見た目が変わったりすれば見える……なんてこともあるだろうか。
 光明を掴んだ気がした。
 二郎が帰ってきたら相談してみよう。
 僕は上機嫌になって、ちょうど洗い終わった洗濯物を干しに行くことにした。

 かごに山盛りの洗濯物を持って屋上へ。
 涼しい風が通り抜けた。午前中雨が降っていたからまだ曇っているけど、部分的に日が差している。この後は降水確率0%だし、風もあるからよく乾くはずだ。
 僕は風で飛ばされないよう注意しながら洗濯物を干していく。限られたスペースでバランスよく配置するのはパズルみたいですこし面白い。ああ、ボードゲームもしたいなあ、また一兄と一緒に。
 なんて思いながら空を見上げると、
「あ、虹だ」
 曇り空にうっすらと虹が出ていた。
 太陽光が水分で分散しただけの現象だけど、一兄は虹が好きだから、写真に撮っておこうと思ってスマホを出した。スマホカメラだとちょっと感度が足りなくてきれいに撮りづらいんだよな。後で天気予報サイトの写真でも漁るか。
 遠くの空にフォーカスを合わせて拡大したとき、虹がチラッと揺れたような気がした。
「ん……?」
 陽炎のように、虹が微かに揺れて見える。その向こうの雲は動いていない。光源である太陽がほとんど動いていない以上、虹だけが動くのは奇妙だ。
 スマホをおろして肉眼で見ても、同じだ。
 まるで虹の前に透明なフィルムでもあるみたいに……
「ま、まさか……一兄……?」
 揺れが大きめに動いたような気がした。
 そうだ、その位置。一兄はよく屋上の手すりに寄りかかってラップをしていた。
 眼を凝らしても、微かな光のゆらぎにしか感じない。声も聞こえない。でもきっとそうだと確信した。いるんだ、一兄が、そこに。
「まだ見えないけど……そこにいるのはわかります、一兄。僕絶対、この状態を解決してみせますから」
 虹のおかげだ。一兄の言葉を信じて良かった。
 僕の脳が、プリズムを通した複雑な色情報を無視しきれないのだ。やはり僕の記憶にある一兄の姿をフィルタにかけているに違いない。だとすれば試したいことがいくつかある。
 一兄はきっと笑って頷いてくれているはずだ。
 洗濯物を片付けたら、すぐ準備を……
「山田一郎っっ!!!」
 突然、背後から野蛮な声がした。
 振り返ると、ハロウィーンみたいな仮装をした男たちが数名、屋上に上がってきていた。
「なんだお前ら!」
「弟に構うな、あいつを殺るぞ!」
 男の数名がマイクを取り出した。その声色には本気の殺意を感じた。皮肉にも一兄がそこにいることの証明になった。
 だが、まずい、いま僕はマイクを持っていない。 
 一兄はどうだろう……と思ったときには、男たちが大きく吹っ飛ばされて屋上に転がった。一瞬だった。
 きっと一兄がマイクでやっつけたんだ。戦ってるときの一兄のリリックは本当にかっこいいんだよな。聞きたかった。
 不届き者たちは呻きながら悶えている。
「やーい、雑魚がいきがってもムダだったな」
 一兄に歯向かうなんて百万年早いんだよ。
 十人ほどの男たちは、それぞれカボチャだのフランケンシュタインだの、雑貨屋で売ってそうなマスクをかぶっていた。まだ夏の真っ盛りだっていうのに気が早いんだよな。そういえばハロウィーンはアイルランドのお盆だったっけ。こいつらが知ってるとは思えないけど。
 落ちたマイクを回収しようとしたとき。
 一人が立ち上がって、そろそろと一兄に向かっていた。ダメージが少なかったようだ。
「一兄、まだ命知らずが残ってるみたいですね」
 たった一人でなにができるものか。相手はあの一兄だ。いまにも男が宙を舞うのが目に浮かぶ。
 だが男は確実に距離を詰めているように見える。
「一兄……?」
 男は進んでいる。一兄を狙っているのは間違いない。なのに一兄が攻撃している様子がない。
 なにか異常事態だろうか。僕は慌てて落ちたマイクを拾って起動した。だが一瞬速く、男が懐からなにかを取り出した。……ナイフだった。
 男はそれを迷いなく突き出した。
 手すりのずっと外側まで力いっぱい押しつけて、そのあと両手でドンと強く押した。
 男が下の方を見ながら高笑いを上げる。
 僕のリリックが当たったのはその後だった。ゾンビみたいなマスクをつけた男はその場で気を失った。
「一兄っ!!!」
 慌てて男の……さっきまで一兄のいたあたりに駆け寄る。
 まさか、そんなことあるはずがない。
 全身が凍りついた。
 身を乗り出しても、窓ガラスに貼った萬屋の文字や、灰色のアスファルト。いつも通りの景色だ。
 いや……僕に見えていないだけだ。
 震える手で救急車を呼んだ。どうやりとりしたかあまり覚えていない。容態は、としつこく聞くので、わからないけどすぐに来て、と繰り返したら、疑っている様子だったのが腹立たしかった。山田一郎という名を出したらようやく信じてくれたようだった。
 僕は続けて二郎にも電話をかけた。
『んだよ、まだ依頼中……
「二郎っ、すぐ帰ってきて! 一兄が、一兄が……屋上から、落ちた……かも、しれない」
『っ……救急車はっ!?』
「呼んだ」
『兄ちゃんは……いや、お前はそこ動くなよっ!』
「うん……
 動くな、と言われたけど、僕は電話を切ってすぐに下に降りた。
 高いところから落下する場合、45mを越えるとほぼ即死だと聞いたことがある。萬屋のビルは駐車スペースも入れて四階建てだから、屋上は五階相当。高さでいえば20m弱。運が良ければ怪我で済むかもしれない。だが、軽傷ではないだろう。
 下に降りても、やはりなにも見当たらない。運悪く人通りもない。さっきのバカ犬でもいいからいてほしかった。
 這いつくばってアスファルトを手探りになぞる。これでも僕にはわからないかもしれない。気づかずに踏みつけてしまうかもしれない。でもなにもせずにはいられなかった。もしかしたら、いや、考えたくもないが、一兄が死の危機に瀕しているかもしれないのだ。一秒を争う事態かもしれない。
 涙が視界を遮る。拭う気も起きなかった。どうせこの目は使えない。
 いや、もしかしたらさっきの虹みたいに、涙が良いノイズになって、一兄の姿を浮かび上がらせたりしないだろうか?
 そう思って見渡してみたが、視界がぼやけすぎて効果はなかった。あんな繊細なゆらぎをとらえられない。
 なんでこんな日に限って誰も通りかからないんだ。
 いっそあのならず者たちを叩き起こして探させるか……と思ったとき、サイレンが聞こえた。
 思わず胸を撫で下ろした。
 白い救急車が停まり、救急隊員たちが真っ直ぐこっちに駆け寄ってくる。
「連絡してくれた三郎くんだね。負傷者は?」
「え……?」
 僕の戸惑いに、隊員たちもぽかんとした。
「見えないんですか?」
「見えない……って?」
「一兄がこのあたりのどこかに落ちたはずなんです! 見えないんですか!?」
「いや……君以外には、誰も……
 三名の隊員が全員首を傾げている。
 そんなバカな。方向はこっちで合っている。多少の風があったってそんなに遠くまで落ちるはずがない。そして勝手に移動したとも考えにくい。
「もしかしたら、まだ上に……?」
 落ちそうになって落ちなかった、ということもあるかもしれない。僕としたことが、その可能性に気づかないなんて。
 救急隊員の一人を連れて急いで屋上に駆け上がった。
「仮装した連中は無視してください、山田一郎はいないですか?」
 僕の問いかけに不審そうに眉を寄せながら、隊員は屋上を見渡したが、首を振った。念のため男たちの仮面を一人一人剥がして確認したが、やはりいない、らしい。
 上にも下にもいない。いや、そんなはずない。
 さっき男たちは山田一郎と呼んで、マイクの攻撃で返り討ちにあった。誰かを刺して突き落として嘲笑した。一兄はそこにいたんだ。
 上から見下ろすと、手持ちぶさたの隊員二名が途方に暮れていた。
 まさか、救急隊員たちにも一兄が見えない……なんてことがあるだろうか?
「三郎くん、ブクロ代表だから応援してるけど……僕らも忙しいから、こういう遊びには付きあってられないんだよ」
 隊員の諭すような言葉に耳を疑った。
「はぁ!? 僕が虚言を吐いたって言うのか!?」
「一郎くんが忙しいのはわかるけどね、あんまり迷惑かけちゃいけないよ」
「何言ってるんだ、一兄は確かにここのどこかにいて、負傷してるんだ! 致命傷かもしれない! マジメに探せよ!」  
 隊員はやれやれと首を振ると背を向けてしまった。
 信じられない。こんなのおかしい。一兄が死にかけてるかもしれないのに、誰も助けられないなんて、そんなの……
 立ち去る隊員を引き留める言葉が見つからない。
 どうして、どうしたらいい……
 泣いたって仕方ない。一刻を争うんだ。
 ふと、下から二郎の声が聞こえた。
……っせぇな、いいからもうちょい探せって。あぁ!? 三郎がンなしょーもねぇイタズラするわけねーだろ! あいついま目がちゃんと見えてねーんだよ!」
「二郎っ!」
「あ、おい三郎っ、兄ちゃんどのあたりだ!?」
 二郎は僕を疑っていない。バカで低能だけど、今日だけはあいつの真っ直ぐさに救われた。
「ここから落ちたから、たぶんいま二郎のいる近くだと思う!」
「マジか……いねぇな……ちょっとそっちいくわ」
「う、うん……
 二郎にも、見えない……
 僕の認識がおかしいんじゃなくて、一兄自身が透明になってしまっていた……なんてことも、ありえるのか。だとしたら……見つけるのは極めて難しい。そしてそれは、生命のリスクに直結する。
 落下から何分たった? 心肺蘇生は五分以内が生死の分かれ目のはず。そろそろタイムリミットかもしれない。
「三郎っ! うわっ、なんだこいつら」
 息を切らせて二郎が上がってきた。その反応を見ても、ここにもやはり一兄はいないらしい。
「こいつらが襲ってきて、一兄を……その奥で倒れてるやつがナイフで刺して突き落としたんだ……
「クズ野郎どもがっ……オイ兄ちゃんをどこへやった!?」
 二郎が怒鳴っても、まだ目を覚ます気配がない。よほどライムがクリーンヒットしたらしい。クズで雑魚な上に役にも立たないなんてほんとに最低だ。  
 いや……役に立たないのは僕も一緒だ。
 一兄のピンチに、なんにもできない。
「なぁ三郎、兄ちゃんがここにいたのは間違いねぇんだよな?」
「お前まで僕を疑うのかよ……って、……二郎、それ」
 二郎のいつものスカジャンに、見慣れない模様がついている。右肩から胸にかけて、赤黒い楕円が縦に連なっている。
「血……じゃないか?」
「えっ……マジか、ほんとだ! どっから……
 二郎は一瞬考えて、パッと手すりから下を見下ろした。
「いた! 兄ちゃんいたっ!!」
「えっ、どこに!?」
 僕も倣ったが、やはり見えない。
「エアコンのでかい方の上!」
「室外機……?」
 ビルの側面に室外機がいくつか取り付けてある。
 そのうちの一つに、赤い模様が見えた。
 白地に赤の染め模様のパーカーなんて、一兄は持っていない。そうだ、あれはパーカー。その下に、真っ赤な液体を滴らせる肌が見えた。ナイフが深々と突き刺さって、それを握りしめる男らしい手。腕捲りをした筋肉質な腕。肩口もパーカーが裂けて血が滲んでいた。そしてその先に、苦しそうな一兄の顔が見えた。
「一兄っ、一兄っ……!!!」
 二郎が言った通り、一兄はアスファルトまで落ちていなくて、その手前の室外機の上に倒れていた。 
 いつの間にか二郎が救急隊員たちに一兄の位置を指示して、下にいた隊員たちが梯子を用意していた。
「一兄、ごめんなさい、僕……!」
 何度もこのアングルで見下ろしていたのに、気づいてあげられなかった。落ちたと思い込んで、隊員たちを誘導することもできなかった。
 一兄はうっすらと目を開けて、僕を見上げた。ひどい顔色のまま、僕と目が合うと嬉しそうに笑った。
 あぶない、から、はなれろ。
 声が出ないのか、口の動きだけで僕にそう言った。
 直後、ごほごほっと血を吐いた。
 そして、がくんと腕が垂れた。意識を失ってしまったようだ。
 室外機の僅かな平面部は、一兄の長身を支えるにはあまりに狭い。大きな体がゆっくりと傾く。重心が動いている……このままでは落ちる!
 気がついたときには、僕は屋上から飛び降りていた。
 一兄のいる室外機にかろうじて片足が乗った。なんでできたのかわからない。考えてなんかいない。
 すかさず一兄の腕を掴む。……が、体は重力に引かれてずるりと垂れ下がった。重い。僕まで落ちそうになる。
「三郎、なんかに掴まれ!」
 二郎の声がして、慌ててパイプを掴んだ。エアコンの配管だ。それで僕の体は固定できたが、一兄の全体重を支える右腕はちぎれそうだった。腕が痛い。めちゃくちゃ痛い。いや、ちぎれたって離すもんか。僕のせいで一兄はこんな目に逢ったんだ。いざとなったら、僕がクッションになったって一兄を助けてみせる。せっかく一兄を認識して、こうして支えることができているんだ。
「三郎くん、もうすこしだけ辛抱して!」
 下から声が聞こえる。
 もうすこしって、何秒だよ……
 腕が痛すぎて痺れてきた。だがこの痛みから逃げちゃいけない。これを感じないように脳を騙したら、きっと力を緩めてしまう。痛くていい。一兄から意識を離さないように、全神経を集中した。一兄の腕に食い込むほど力を込めた。
「もう大丈夫だよ!」
 気がつくと救急隊員がすぐ近くにいた。梯子で昇ってきたのだ。僕から一兄の体を慎重に受け取って、担ぎ上げてくれた。
 一兄を抱えた隊員が下に降りるのを、室外機の上で見守った。隊員は危なげなく地上に降り、すぐ担架に一兄を寝かせて救急車に運び込んだ。
 良かった。本当に。まだ重症には違いないけど、後は専門家に任せるだけだ。
 その後、僕も隊員に支えられて下に降りた。あんまりよく覚えていない。気づいたら病院で、一兄の病室にいた。
 
 腹部に大きな刺傷と、背中や肩、腕など何カ所かの打撲。命に別状はなかった。刺し傷は一兄が自分でナイフを引いてすこし広げたらしかった。誰かに気づいてもらうために、出血を増やそうとしたんだろうって。その話を聞いて僕は自分の腹を引き裂きたくなった。
 麻酔がさめて目を開けた一兄は、顔色が灰色で、別人みたいだった。
「三郎……
 久しぶりに聞く一兄の声は掠れていた。それでも優しかった。
「一兄……っ」
「ありがとな……俺、あいつが見えてなくて……
 あいつ? 一瞬わからなかった。すこし考えて、一兄を刺した男だと思い至る。
 あのときはそれどころじゃなかった。そういえばあの男はゾンビみたいな仮装をしていた。確か一兄の幻もそんなイメージだったはずだ。僕があの犬に気づけなかったように、一兄も男に気がつかなかったのだ。
「一兄は、ハロウィーンは外出禁止ですね」
「ハハ、そうだな……今年は引きこもるか」
 一兄の笑顔が嬉しい。向かい合って会話できるのがこんなに幸せだ。
 いまは一兄の姿がはっきりと見える。もう二度と見失ったりするものか。
「えっ三郎、お前が屋上から室外機に飛び降りて、落ちそうになった俺を片手で支えたのか? いつからそんなヒーローみたいなことできるようになったんだよ!」
 小突かれて照れていたら、頭を撫でられて、ぎゅっと抱き締めてくれた。一兄に誉められるのはすごく誇らしい。頑張って良かった。
「えへへ……なんか、一兄の姿が見えたら夢中で……なにも考えてなかったです」
「助けられて言うのもなんだけどよ……そんな危ねぇマネもうすんなよ。次はうまくいくとは限らねぇから」
「一兄のピンチなら、わかりません。一兄だってやるでしょ?」
「あのな、俺とお前じゃ体の鍛え方が……っ、いてて」
「あ、安静にして。いまは一兄の方が弱ってるんですから」
 傷の痛みはありそうだが、話してるうちに一兄の顔色はどんどん良くなってきた。声の調子も戻る。一兄もきっと僕と話せることを喜んでくれている。
「ねぇ一兄、帰ったらピザ食べましょう」
「おっ、ピザいいな! 久しぶりじゃねぇか? うわ、考えたらめちゃくちゃ食いたくなってきた。今日帰ったらダメか?」
「あはは、ダメですよ。傷がふさがるまでは入院だって言われたでしょ」
「マジかよぉ……ピザ食うぐらい大丈夫だって」
「帰ったら家事しちゃいそうだからダメ。早く治して美味しいピザいっぱい食べましょう」
「わかった……
 ふてくされる表情がかわいくて笑ってしまった。一兄にはまだ僕の知らない顔だっていっぱいある。フィルタにかけるなんてもったいない。
「おい三郎、また二郎とケンカしてんのか?」
 急に一兄が怒るので驚いた。いまそんな話の流れだったか?
「二郎もそんなカッカすんなって。せっかく三人でいられンだから、もっと仲良くしろよ」
 僕は一瞬声が出なかった。
「い、一兄……そこに、二郎がいるんですか?」




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