寿沙都と一真と墓参りの話
@fengli25
【霜月の話】
記憶にあるのは、指先凍える木枯らしの冷たさでございます。
あれは四つか五つの頃でしょうか。ようやく物心ついた頃のわたしが、初めて、祖母に連れられ向かった場所がありました。
先祖代々お寺様に管理していただいている墓地でございます。御琴羽家の墓は、ちょうど敷地内の灌木に近い区画にございまして、春になると沈丁花の香りが漂うのだそうです。ですが、わたしの記憶に花は無く、ただ霜月の風鳴りが耳に残っています。
はい。おっしゃるとおりでございます。この時期に亡くなったのは……わたしの、母でございました。
わたしが生まれてすぐに亡くなったといいますから、どのような人だったのかは分かりません。一度だけ撮ったという、晴れ着姿で夫婦並んだ写真だけが、わたしの知る母その人でした。
正直に申し上げますと、母とはいえ、一度も会ったことがないのです。慕う心も、恋しく思う心も、外から教えられて初めて気に留める程度のちっぽけなものでした。父も日頃から忙しい人であまり顔を合わせることがなく、家にはいつも女中と祖母がいました。
ですので、幼いわたしにとって、母とは祖母を指すものでした。
はい。あのときのことは、よく覚えています。きっかけは、墓地に入りたがらなかったわたしの癇癪でございました。物も分からぬ幼子とはいえ、どこかで死の気配を感じ取っていたのでしょうか。絶対に行きたくないと、お寺様の門前に着くなり、わっと泣き出したのです。
たとえ子供相手といえど道理を曲げてならない。祖母はそういった人でしたから、母の命日に手も合わせないとは親不孝ではありませぬか、とわたしの腕を強く引っぱったのでございます。はい。とても痛かった。肩が外れるかと思いました。
そして物も分からぬわたしは、言ってしまったのです。
お母様になんか会いたくないと。
そんな人、知らないと。
………霜月の頃が近づくたびに、思い出します。
あのとき祖母が一瞬だけ見せた表情は、心の底から傷ついた者にのみ表れる、悲しみそのものでした。そして祖母は、泣きわめくわたしを担ぎ上げ、そのまま引き上げたのでございます。のちに、貴方のような親不孝者は知りませんと、蔵へ放りこまれました。
当時は訳もわからずに怯え泣いていたのですが、今思えば、何て酷いことを言ってしまったのでしょうか。
わたしは、わたしは。間違いなく親不孝者でございます。けれども、母をよく知ろうともしなかったわたしが、どう謝ればいいのか分からないのです。
わたしは今年で十一になります。だというのに。一度も、お墓参りに行っていないのです。あれからお許しをいただいていないのです。
………お兄様。わたしは、どうすれば良いのでしょうか。
【水無月の話】
記憶にあるのは山道に鳴く蝉の声だ。
オレが八つを数えるまでは、事あるごとに、本家のある四国へ家族揃って帰っていた。大まかに分ければ、年越しの準備と、盆の墓参りといったところか。汽車と船を乗りつぐ大旅行、当時は今よりよほど時間がかかったものだ。
そうそう、オレの母はたいそう虫を嫌う人でな。軒先に垂れる蜘蛛はもちろん、時折廊下を横切るアリンコすら見るのも嫌がった。そういった輩が現れるたびに、決まってオレを呼んだのだ。どうにか退治するか追い払ってくれとな。
そんな母だ。草木生い茂る盆の頃に、本家の裏山へ墓参りに赴くなど、拷問に等しい行事だったろう。かといって、分家の身で断る訳にもいかぬ。板挟みとはこのことだ。毎年この時期が近づくたびに、あの人の憂鬱は酷くなっていった。
しかしな。オレは墓参りこそ待ち遠しかった。男児とは山道に楽しみを見出すものだ。拾った枝で草むらを叩いて歩くとき、さも冒険隊の隊長になったような心持ちだった。虫に怯える母の声を聞きつけたとき、ならばオレが退治してやりましょうと、狼藉者を叩き潰す瞬間など楽しいを通り越して痛快だった。
何より父がいた。普段は忙しくされていたあの方が、本家に帰るときだけは、側にいた。何ぶん幼い頃の話だからな。あぁ、嬉しかったとも。心の底から嬉しかった。
だが、父も母も、先に旅立ってしまわれた。二人とも水無月の頃に、病で、亡くなった。今は本家の墓に眠っている。あの山道を抜けた先で、このオレが、お骨を納めたのだ。
一度だけ。父の命日に合わせて、四国へ出向いたことがある。まだ蝉も鳴くには早い時期だ。ところどころぬかるんだ道を、転ばぬようにしかと踏みしめ、上へと登っていく。納骨の際には本家の者がいた。父のときも、母のときも、よく知らぬ人々の視線を浴びながら、息子としての責務を全うした。
だが、あのときのオレは、一人で墓前に立ったのだ。誰に言われるでもなく、そうしなければならなかった。
あの日は雨が降っていた。ざあざあと降る雨煙りが、普段なら下に見えるはずの村々を覆ってしまっていたから、よほど視界が悪かった。土間に置かれていた傘を拝借し、ようやく辿り着いたら来た道もよく分からなくなっていた程だから、きっと大雨だったのだろう。
………水無月の頃が近づくたびに、思い出す。あそこは酷く静かだった。雨音さえ遠ざかるほど、何もない場所だったよ。この下にはオレの父と母が眠っているのだろうかと考えても、誰も、語りかけてはこなかった。それはそうだとも。実際のところ誰も何処にもいないのだから。下に眠るのは、お骨だけだ。
あれから、盆以外に墓参りをしなくなった。墓石の手入れならオレでなくとも問題はないからな。なら、必要以上に行く筈もない。あそこには誰もいない、楽しくも何ともない所だ。ただ……少しだけ、内にある苦しさが楽になるというだけの、そんな場所だよ。
寿沙都。そなたは、とっくに十を過ぎて、道理も分かる年頃になった。物事を考える力もついている。ならば、オレから教えてやれるのは一つだけだ。
自分がどうすれば良いのかよりも、先に、何をしたいのか。そこから、伝えることだ。
【今日】
御琴羽家の門前に立つ洒落たブーツの青年は、焦茶袴の上から分厚いコートを羽織っていた。首元の襟巻きにかかる白い息が、とうとう来てしまった、厳冬の訪れを思い起こさせる。見上げれば曇天、吹くは木枯らし。鼻頭を薄っすら赤くさせた青年は待ち人だった。
芯まで凍える霜月の、真昼にさしかかる寒空の下で、誰かを待っていた。
「お待たせしました」
随分と低いところから聞こえる声は、この家の御息女が発したものだ。支度を終え、引き戸を閉めるや否や、青年の元へと駆け寄っていく。
何枚も着膨れして常よりふっくらとした少女の齢は十か、そこらか。年に似合わず、上げた前髪から覗くなだらかな額が印象的な子だ。
青年の横へと少女が並ぶ。女中にやってもらったのだろう、椿模様の襟巻きの後ろが蝶々結びになっていた。
「今日は一段と寒うございますね」
「あぁ、まるで師走のようだ。早々に雪まで降ってくるかもしれんな」
「それは困ります。雪かきのショベルだって、去年から壊れているのに」
「………スコップじゃないのか?」
いいえショベルです、と言い張る少女の名は寿沙都といった。御琴羽家の一人娘であり、妻に早く先立たれた父からは、目に入れても痛くないとばかりに可愛がられている、自慢の子だ。
ショベルは小さいものではなかったか、と首をかしげる青年は名を一真といった。訳あって御琴羽家の世話になってはいるが、元は剣に通ずる帝都亜双義家の嫡男である。これまた縁あって寿沙都から『兄』と慕われてきたためか、家は違えど、しかし年の離れた兄妹のような間柄だった。
門をくぐり、ちょっと進んだ先の路地へと繰り出す。人の姿は疎らだった。ここから幾度か道を曲がり、大通りへと抜ければ丁度昼時の混み合いに賑わっているだろう。そこらにある蕎麦屋に行くもよし、寿司屋で握り寿司をつまむもよし、一個もあれば少女の腹持ちも良い具合になること請け合いだ。しかし天ぷらに限っては、胃腸によろしくないと寿沙都の祖母からきつく止められているため、たとえねだられても買ってやることはできないだろう。
しかし二人は大通りから離れた道へと進んでいった。正午の鐘の音が、徐々に近づいてくる。ごぅんごぅんと、どこか胸のうちを開こうとする響きを耳に流し、あともう一息で辿り着くところだった。
寿沙都の足が止まった。
「…………」
黙りこくったまま、石像のように俯いている。行かないのか、と声をかけてみたところ、力なく首を横に振ったはいいが、萎えた足を動かす気力もないようだった。
音もなく、少女の傍に膝をついた一真が、その小さな身体を肩から抱き寄せた。軽く背中を叩いてやると、やはり力なく震える顔を目の前の肩へと押しつけてくる。一真はもう一度、寿沙都の背中をトントンと叩き、撫でてやった。
もう片方の手には、布で包まれた菊花の束が握られていた。
ほんの幼い頃に墓参りを拒んだ寿沙都は、いつの間にか極度の寺嫌いになっていた。本人曰く、門前を横切るだけでも幽霊にばったり出くわすのではないか、と怯えるのだ。そうでなくても、自分のように墓参り一つ出来ない子が寺へ向かおうというのなら、バチが当たるのではないか。そう考えて恐ろしくなってしまうのだそうだ。
よくよく中身を聞いてみれば、かつて仕置として放りこまれた蔵の中で聞いたお小言をそのまま借りてきたような内容だが、寿沙都の中では、疑いきれない真実として根づいてしまっていた。自分は悪い子だ。悪い子だから許してもらえないのだ。
このとおり、寿沙都の思いこみは根強かった。誰に許してもらえないのか、と聞いてみても、祖母に母にお寺様に閻魔様、とキリがない。
そこで力を貸したのが、一真だった。
「寿沙都」
曲がり角の手前で、二人は暫く黙っていた。時折、少女の名が呼びかけられる以外は、人も通らず、鐘も聞こえず、それは静かなものだった。
「寿沙都。自分から伝えたいのだろう」
「………」
「この場で伝えて良いのか」
しがみつく力が強くなる。じんわり熱くなった肩のあたりを見るまでもなく、顔いっぱいから色々溢れ出しているのだろう。首を振る寿沙都を抱いた一真は、何の苦労もなく、その場で抱えて立ち上がった。片腕が塞がっているがために少々不安定な体勢になるだろうが、この歳になった娘の足を開かせる訳にはいかない。そのままさっさと歩き出した一真は、そう経たないうちに境内へと足を踏み入れた。
あれま久しぶり、と寿沙都の成長ぶりを喜んだ住職に軽く挨拶を済ませ、御琴羽家の墓があるという区画へ向かう。話に聞いたとおり、ざっと見渡した向こうには灌木が植えられていた。春になれば見ものだろう。それから少し行った隅に、件の墓石を見つけた。
寿沙都を片腕に抱えたまま、萎れた何かしらの花を抜き取って、中の水を捨ててから代わりにと左右の花立へ菊を供える。まわりの手入れは次の機会だ。何しろ、母の命日まで、あと三日は猶予があるのだから。
「寿沙都」
再び呼びかける。耳元の声にひくりと反応した寿沙都は、固まってしまった首回りをぎこちなく動かして、何とか墓前へと向き直ろうとする。その顔をチラッと見た一真は、すぐにおのれの襟巻きを引き抜いた。色々とまみれてしまっていたのだ。
何度か拭いてやり、やっとマシな顔になった寿沙都は幾度となく肩を震わせている。長い沈黙だった。手のかじかむような静けさだった。そうして、ほんの小さな呟きを落とした寿沙都は、また声もなく泣き出してしまったのだった。
「よく言えた。よく頑張った、偉いぞ」
肩に縋りつく妹をあやしながら、会ったこともない人の墓石を前にする。やはりそうなのか、と誰に言うことなく、一真は一人思い至った。
誰しも、こうして墓前に立たなければ、死の痛みと向き合えないのだろうか、と。遥か海を隔てた向こうの、朧げな記憶を辿った。
【いつかの頃】
「あれ、寿沙都さん。奇遇ですね」
純朴な顔つきの青年が、帽子を掲げる。相変わらず似合わない山高帽に四苦八苦しながらも、自分に合う格好を模索している、といった様相だった。膝まで覆う外套を翻し、近くまで駆け寄ってきま青年は、あちらの方へ行くのですか、と向かう道を指さした。
「はい、今日は少々用事がありまして」
「そうなのですか。ぼくは特に何もないですね」
「ここ最近、ヒマな日が続いておりますから……」
「えぇ、閑古鳥というヤツですね……ところで寿沙都さん」
どこに行くのですか。
青年の問いかけに、一瞬の戸惑いを見せた寿沙都は、何てことはないといった様子でしっとり微笑んだ。
「お墓参り、でございます」