@acht8811
私は熱された意識の上の陽炎だった。照りつける太陽の元に、あるかなしかの透明な自我が、じりじりとゆらめき立ち上っているのだった。倒れ込んだ土草すらぬるく温まる地面の上だ。意識は白んで、倒れ込んでいる、という感覚だけがあった。
風に中ったのだ、と、それだけの言葉を思い浮かべるのにもひどく時間がかかる。風に中って倒れたのだ。
金槌で殴られるような頭痛。回らない頭に、じわじわと、死の予感が忍び寄る。
隠遁し、草木を友として生きる私には、助けを呼ぶ家族などなかった。草木は友であれ、医師を呼ぶための脚も声も持たなかった。私はここで果てるのだ。
(世を捨てて──)
辞世の句を詠もうにも頭が回らない。
(心残りの──)
言葉を絞り出す。そう、心残りなどない。
(ある、──)
思考が止まる。いや、心残りは、一つだけある。昨日種を蒔いた、珍しい朝顔の鉢だ。
ここで果てるのは構わない。見たこともない朝顔が咲く日を、迎えられずに死のうとも。この庭の草木とて、いずれは私の手を離れる定めだっただろう。
だが、かの朝顔は、まだ芽吹いてすらない命は、私を喪えばそれだけで枯れ果てる運命なのだ。私が蒔いた種だのに、あれは、私の所為で死ぬのだ。乾き、枯れて、花も咲かせぬまま。
(水を……)
誰か、あの朝顔に水を。
(水を……、)
誰か。どうか。
(水を……!)
その時なにかが聞こえた気がした。私の耳は老いて遠くなっていたから、それが何かは分からなかった。
(もっと、大きな声で)
「────、」
(もっと)
「──────!!」
(聞こえない、もっと……!)
誰かが私の耳元へと口を近づける気配がした。ついで、怒鳴り声がした。その声は意識の曇天を割る青空だった。
「水ならば、飲んだぞ! 次はどうしたらいい!!」
(医師を呼んでくれ、麓の里にいるはずだ……)
反射的にそう思い浮かべると、「あいわかった!!」また大きな声がして、どたどたと大きな足音が去っていく。
妙な安堵と共に、私の意識は眩んで、光に消えた。
橙の光で目を覚ました。視界が妙に白いようで、私はしばらくぽうっと自室を眺めていた。
「起きたのだな!」
そこにずいと男が顔を出した。私は驚いた。見覚えのある顔と声だった。若い頃の、私だった。東洋かぶれの服装に、刈り込んだ髪、眼帯。ただ黒いはずの目の色だけは夏の強烈に晴れた日の空色をしていて、それが妙な違和感を放っていた。
(おまえは)言おうとして気がつく。口が回らない。上手く動かない。うめくような、舌足らずの赤子のような声が漏れるだけだ。
「わたしは朝顔だ!!」
にも関わらず、それは答えた。大きな声で、まっすぐ、迷いなく。
(朝顔)
「そうだ!」
私はぼーっとする頭で、ぼーっと目の前の若い私を眺める。
「朝顔に水をやってほしいとおまえが言うので! 自分で! 足を生やして! 自分で水を飲んだのだ!」
そんなことがあるものか。唖然としていると、「ある! それだけではない、手も生やしたぞ!」と元気に言う。考えが読めるのか、と思うと、「あなたのだけだ! イシのは分からなかった!」と返事が返る。
(……医師は帰ったか)
「うむ! 一日ついてくれたが! ほかのきゅーかんがいるといって帰っていったぞ! しかしわたしに、世話のいろはを教えて行ってくれた!」
(……世話)
私は、全身が脱力して動かないことを、虚無感とともに認めた。
朝顔は考えを読んでいないのか気にしていないのか、そろそろ寝返りの時間だ! と叫んで私を右に転がした。その手は粗雑だったが、優しかった。縁側からの夕焼けが見えるようになって、友たる草木は、その橙の光のなかでまださわさわ揺れていた。それらが滲んでいくのを、私はただ感じていた。
目を覚ますととっくに日は登っているようだった。眠る前とまた反対を向いているから、朝顔が寝返りをさせてくれたらしかった。雑穀の粥を炊くにおいがやわらかく漂っていた。
「粥だ!!」
おはよう! と叫びながら、のしのしと朝顔がやってきて、寝床の脇の卓に鍋をズン! と置いた。いちいち動きがうるさいのは、
(私に聞かせようとしているのか)
「そうだ!」
朝顔は大きく頷いた。
元気よく大きな声で話し、大ぶりな仕草でどたどた動き、素直に表情と心の動く朝顔。姿形こそ若い頃の私だったがしかし、かたちでないなにかが、彼をまったく違う誰かにしていた。
「食べるぞ!」
朝顔が座椅子を引きずってきて、私のことも引きずって、座椅子に座らせる。私の脱力したままの体を支えながら、粥をひとさじひとさじ、掬い、差し出し、食べさせる。ひとつひとつの動きを面倒がる様子もなく、実直に、真面目に。
(……もういい)
居た堪れなくなってそう思い浮かべると、
「まだ腹が減っているだろう!?」
見透かされている。考えが読めるというなら、当然か。
「当然だな!」
朝顔はウンウンうなずいて、さあ食べろとまた匙を差し出した。
朝顔は実に甲斐甲斐しく働いた。脚の生えた植物が、こうも勤勉だとは知らなかった。だが脚の生えていない彼らもきっと、同じように勤勉なのだろうと思う。それは生きるための勤勉さだ。みな、休まず、生きているのだから。
彼はけして動くのが上手いとは言えず、甲斐甲斐しいながらも気が回らず、やることなすこといちいち雑で甘かったが、しかし彼はとにかくまめだった。そして、その手つきはいつも優しかった。
なにかにつけて私に寝返りをさせ、しびれて痛む手足をさすり、二食の飯を作った。それは私のためだけに、よくよく煮崩して作られた。家事をこなし,掃除をこなした。その間にもずっと声を張り上げて、私の話し相手をしてくれた。
私の名前を覚えられなかったが、では爺と呼べと言えば、じい、じいとよく呼んだ。汗を拭い、口を拭い、下の世話までしてくれた。
私の指示を受けて庭の草木の手入れをし、その終わりには私を抱えて庭に連れ出し、今日の出来栄えを見せてくれた。
庭に立てば、刈り込んだ草の青い匂いが私たちを包む。それがなぜだか哀しみを誘うようで、私は俯いた。足元は撒いた水で湿っていた。
(すまない)
彼の太い腕に支えられながら、枯れ木のような自分の腕を見つめ、思う。
「何がだ!?」
朝顔は叫び返した。
(私は生きる屍だ。生きているだけで、何もしていない。おまえにただ迷惑だけをかけている)
「そうなのか!?」
疑問系だった。私は余計に暗澹とした気持ちが押し寄せるのを感じた。
(そうなんだよ。お前はまだ外を知らない。知らないから、この不幸も自覚できない。人の形を得たお前は、もっと遠くにだって行けるのに。私はお前を、ここに縛っているのだ)
朝顔は、きゅっと口をすぼめて、眉根を寄せて、考え込んだ。そして言った。
「ならばわたしたちも、じいを縛っていたのか!?」
その言葉の意味がわからずぽかんとしていると、朝顔は片手を広げて庭を示した。
わたしたち。
この庭のことか。
「わたしたちもただ、生きているだけだ! それも、じいの手を借りなければ生きていけなかった!」
迷惑だっただろうか! と、彼はしかし不安がるでも、萎縮するでもなく、まっすぐこちらを見つめて問うた。私は歯を噛んだ。
(ちがう、私は、好き好んでここにいた。旅を終えて、終の住処としてここを選んだ)
(迷惑でなど、あるものか)
(私は、おまえたちを世話するのが、……お前たちのことが! 好きだった!)
朝顔が目を見開く。まじまじと、私の顔を見る。そして、ぱっと笑う。
「そうか!!」
そうかそうかそうか! と叫ぶと、朝顔は突然その場でくるくると回り出した。私は真っ青になって力の入らない手足で思わず朝顔にしがみつこうとした。が、しがみつくこともできず、しかし落とされることもなかった。ぐるんぐるんと、空と地面と庭と夕陽が回る。
朝顔が、叫ぶ。それは音ではなかった。言葉にも、声にもならない、歓喜の叫び。それはまるで脳髄に沁み通るように、私の聞こえない耳にも容易く響き渡り、しかして不快ではなかった。呼応するように、庭がざわめき出した。みな叫んでいる。草と木と花が、この土地に最初から生えていた杉が、きのう芽を出したカタバミが、今日咲いたヤマボウシが、みな、風もなしに身を震わせ、歓喜する。
私に。
やがて歓声が止み、朝顔が回るのをやめた。じっと私を見つめる。そして、しっかと抱きしめた。
「「うれしい」」
彼は囁いた。その声はたくさんの老若男女が同時に喋るようなふしぎな響きを持っていて、なぜか私の耳にもよく聞こえた。あるいは私の心を読むように、私に心を読ませているのかもしれなかった。私は悟った。彼の中には無数の草木がいるのだ。今私に語りかけているのは、私が育ててきた、この庭だ。
朝顔がまた口を開く。
「「わたしたちも、あなたのことが大すきだ」」
(私も)
おまえたちが唯一の友で、楽しみで、傷を塞ぐ瘡蓋で、心を埋めるものだった。
おまえたちこそが、私を生かした。私を死なせなかった。私に死を選ばせなかった。私はおまえたちを愛することで、何かを愛するための自分を喪わないことができた。
故郷を失い、仲間を失い、戦意を失い、なにもなくなった私を、命すら捨てるはずだった私を、生かしたのだ。
二度。
私は泣いていた。枯れた皮膚に皺の間に塩水が溜まって、それを自分で拭くことすらできなくて情けなく、不快だった。朝顔は私をゆすりあげると、縁側へ歩き出す。私の体を下ろすと、自らの体を背もたれにして座らせてくれた。そうして、黙って私の涙を拭いた。いまだ老いぬかつての若い肉体は、今の私より一回り大きかった。
「わたしはな、朝顔だ!」
急に朝顔が叫んで、思わずそちらを見る。そうだ、朝顔だ。知っている。
「あの日あなたが死なせまいと願った!」
(……そうだな)
「そしてわたしはこの庭だ!」
(そうだな)
朝顔が驚愕し、知っていたのか! と叫ぶ。いや、今知った、と思わず笑うと、朝顔も声を立てて笑った。
(庭よ。朝顔。私が死んだら、遠くに行ってみるといい)
「あいわかった!」朝顔はそう答え、ついで首を捻る。「なぜだ? じいは死ぬのか?」
(わからない。だが、こんな日がずっと続くはずもない)
「そうか!」
朝顔は頷いた。動揺も、泣きもしなかった。いずれ来る私の死も、彼はすでに受け入れていた。
「それなら、それまでわたしがじいのお世話をする! わたしたちの、あなたへの、恩返しだ!」
(……ありがとう)
「わたしたちこそ! お礼を言わなくてはならない! ありがとう!!」
もういちど、朝顔は私を抱きしめた。私は抱きしめ返せないかわりに、ぎゅっと目を瞑っていた。
あたりは暗い。日が落ちようとしている。
(リーン)
「りー?」
(リーン。頼むからこれだけは覚えてくれ)
縁側から見える朝顔の鉢が、だんだんと蔦を伸ばしていた。つまり、植っている方のだ。
足が生えているほうの朝顔は、「リーン」を覚えるのに苦労していた。彼は物覚え自体は少々悪い程度だが、なぜだか固有名詞は殊更に覚えられないようだ。私は根気強く教えようとしていた。これを言えなければ話にならない。
(リーン)
「り……?」
(……おまえは、ちょっと馬鹿かもしれんな)
「そうかもしれん!」
(何度でも教えればいい。復唱するだけだ。リーン)
「りー……ん」
(リーン)
「……りーん?」
(……そうだ、リーンだ。冒険者の街だ)
「それが遠くにいく方法なのか!!」
私は、私が死んだ後のことを彼に教えようとしていた。里の向こうの都市、冒険者の街、交易都市リーンに行くこと。身元がなくとも、冒険者としてならなんとか生計を立てられるだろうということ。そして、冒険者となれば、自ずと遠くへの道が開けるだろうということ。甘い道ではないが、私の轍を辿っては欲しくなかったが、しかし私のかつての生業はそれのみだったし、これ以外に思いつけもしなかった。
「しかし、どうして遠くなのだ!?」
(そうだな。土地に根を張り、最初に選んだ場所で生き通すお前たちには少し理解し難いかもな)
「うむ! わたしはここに根を張った! だからここでいい! どのみち冬は越せない身だ!」
私は少し驚いたが、静かに頷いた。そうだ。彼は朝顔、一年草だ。当然ながら冬は越せない。このような奇跡が、そう長く続くとも思っていなかった。それは妥当な終わりの期限だと思った。
(ならば尚更だ)
「そうか!?」
(折角の、こんな奇跡だ。他の朝顔にはできないことをしたらいい)
「そうか!」
朝顔は頷いた。私はふと不安になった。これは彼の意思ではなく私の言いくるめになっているのではないか。しかし朝顔は口を継いだ。
「じいは、遠くに、わたしに見せたいものがあるのだな! ならばわたしはそこに行こう!」
そうだ。私は、頷いた。私が見せたいのは、私がかつて旅をしたたくさんの景色と、知らない土地の空気で、遠くそのものだった。
(……そうと決まれば、名前が必要だな)
朝顔がきょとんとする。
(朝顔でも、いいが……)
アサガオでも、名前として通らないことはない。けど、彼に彼だけの名前があったらいいとは、前から薄々思っていたのだ。朝顔、だけではもったいない。街に出て、人の間に入っていくのならば尚更に。そもそも彼には、「天上の青」なる、美しい品種名がついている。
「へゔ……?」
私の思考を聞いていた朝顔には、その名前はちょっと難しすぎるようだが。
(…………ソラアヲ)
「そ?」
(長いからと諦めるな。これでも縮めている。それに、天は分かるだろう)
「そら」
(青も分かるだろう)
「うむ」
(合わせたらソラアヲだ)
「……………………」
朝顔、いやソラアヲは黙り込んだ。キャパシティを越えたらしい。
私は微笑んだ。ゆっくり教えていけばいいと思った。
思っていた。その次の日の午後だった。突然、私を壮絶な頭痛が襲った。二度目の中風だった。ソラアヲが叫んでいる。今はその喉で、悲痛な声で私を呼んでいる。
医師を呼ぼうとする彼を引き止める。こんどこそ終わりで、医師も間に合わないと、その予感があった。だからそばにいてほしかった。そう心に浮かべると、ソラアヲは私のそばに寄り手を取った。その手は震えこそしなかったが、しかし私以上に冷え切っていた。
(ソラアヲ)
「……じい、死ぬのか!?」
いつもの大声が鼓膜を掠める。なんと言っているのだろうか。何か喋っているのは分かるのに、なぜか、うまく聞きとれない。私は一方的に語る。
(……振り向くな)
振り返っても私はいない。
(遠くへ行け)
おまえだけの景色を見に行け。この奇跡を無駄にするな。ほかの朝顔には、一年草にはできないことをしに行くんだ。
この思考は、ソラアヲにはきっと伝わったはずだ。どんな顔をしたのか、どんなことを言ったのか、どんな反応をしたのかすらももう見えないし聞こえないけれど。でも私にはわかる。彼はこの死も受け入れて、そして進んでいくはずだ。かつて私ができなかったことが、彼にならできるはずだ。私の手を握る手の、最後の感覚がそれを伝える。今や私に未練はない。ただおまえの未来への確信がある。私はただ、少し先に逝くだけだ、と。
私は顔を上げる。いつの間にか、全身の痛みが消えている。膝をつき、立ち上がる。床は黄金色の麦の穂に変わっていて、初夏の風がさざなみを立てた。屋根も消え失せて、真上からの太陽が私を照りつける。青空には白い大きな雲がくっきりと浮いていた。地平線まで続く麦の海はぱっかりと割れていて、れんがの道が続く。私の、次の旅路を教える。
深呼吸。両手を握り込み、離す。とんとんとん、と軽く足踏みをする。体が軽い。いつも通り、異常はない。腰の刀、背嚢の冒険道具、旅装にブーツも、欠けがないかひとつひとつ確かめる。こちらも異常なしだ。ならばと進もうとすると、
「セゴロ!」
懐かしい女の声が、懐かしいあだ名で私を呼んだ。両手をいっぱいに振って、全身で飛び跳ねて、道の向こうから呼んでいる。その後ろの男たちも、また。昔の冒険の仲間たちが、みな揃って私を呼んでいる。
ああ。胸が酸っぱくなる。随分待たせた。遅くなってしまった。私はたまらなくなって駆け出した。
「──今行く!」
夏が来る。
振り向くな人の愛より出でし青みどりの原に風と駆け出せ
八月に駆れよ熱風わが心みどりの原にいのち追い立て