夢の中で元首席判事と会った話
@fengli25
これは、ぼくの夢の話なんだけどね。
ぼくは庭の端っこに立っていた。
最初はどこぞのお屋敷に迷い込んでしまったのかしら、と辺りを見回したよ。なにしろ、どこもかしこも、よく整えられていたんだ。
足元の敷石も、頭上を遮る樹木も、むこうにみえる生垣と道の隅々まで、汚れの一つもなかった。鳥のフンだって落ちていなかったんだぜ。よほど大事に手入れされていなければ、ああはならないだろうなぁ。空に雲一つなかったし、とにかく綺麗な場所だったよ。
だからこそ、ぼくは真っ先に「夢」だと気がついた。本当に、さる尊い御方が住まうお屋敷の庭だとしたら、こんな部外者がいて良い場所じゃないと分かっていたからだ。分かっていてなお、こんなにのんびりとした気持ちでいられるのなら、これはきっと夢の風景なのだろうと。眠っているうちに口から魂が抜け出して、蝶の形をとってこんなところまで行き着いてしまったのだろうか。そう考えた。
季節はどうも秋のようだった。敷石から外れた、常なら苔か砂利に覆われているはずの一帯は紅葉に埋もれて、下に何があるのかも分からない。足を踏み抜けばズブズブと沈んでしまいそうだと想像して、思わず身震いした。
少し振り向けば、まだ色づいたままの枝から、時折落ち葉がこぼれていくのが見えた。もしこの庭にイチョウの木があればギンナンを拾えただろうに、と残念がると同時に、こんな整えられた庭にギンナンの鼻に付く匂いは似合わないだろうな、と納得もした。
クリもダメかな。トゲトゲしているし。リンゴやカキのように果物が実る木も綺麗だけど、いずれは腐って落ちるから。もしも、ぼくがこの庭の持ち主なら、全部植えていたのだろうけど。きっとここの主人には似合わない。
あの庭は紅葉しかなかったよ。相変わらず目に突き刺さるほどのまぶしい青空の下で、そこかしこから火の手が上がっているかのように錯覚してしまうほど、真っ赤だった。
やがて、ぼくは歩き出した。飛石をいくつか越えて整列された敷石の道を進んでいくと、行き止まりを取り囲むように池があると分かった。ここから向かうには、少し離れたところにある橋を渡らなければならなくて、やむなく遠回りする羽目になった。
その橋がまた生垣に隠れて見つけにくかったんだ。向こう側にいけないのかと諦めそうにもなった。けれど好奇心が早く早く、とぼくを急かすんだ。
早く行かないと、間に合わなくなる。
池の中心には、おそらく人がいた。すぐそばに見たこともないほど大きな、なんだろう、カラクリがあったから。てっきりホームズさんだろう、と早合点してしまった。
どうしてあんなところにいるのか、なんて。どうせ夢なんだ。脈絡も何もあったもんじゃない。ただ、もしあれがホームズさんなら、是非とも声をかけて久しぶりに話がしたかった。もうとっくに別れた過去には慣れたように思えていたけれど、姿を見た途端、かつての寂しさはずっと実体を持って湧き上がってくるものなんだ。
けれども違った。ホームズさんではなかった。
そこにいたのは、ハート・ヴォルテックス元首席判事だった。
橋を渡る最中、まさか、いやそんなはずは、と戸惑いながら、ついに向こう岸まで踏み入れてようやく、目の前の人物があの元首席判事であると確信した。
あの濃いグリーンのスーツとケープ姿ではなく、バンジークス検事の仰々しいマントと似た代物を身につけていた。足元はブーツでね。けれど後ろから見ても分かる、あのうねるような前髪と、色濃く焼けた肌は、明らかにバンジークス検事ではなかった。
体格からして全然違うけど、まだホームズさんの方が似ていたと思うよ。大きなカラクリの前で手作業していたし。ややこしいナァと頭をかいてみたら、こちらも見ずに声だけかかったんだ。
「勝手にややこしくしているのは、貴公の観察力ではないかね」
確か、こんな感じだった。うん、寿沙都さんなら分かると思うのですが、よく執務室でこんなイヤミを投げつけられましたよね。手元の懐中時計から視線も外さずに。うんうん、懐かしい。
本当に懐かしくて……このまま立ち去るのが惜しくなった。
何をしているのですか、と訊ねた。歯車を磨いている、と返ってきた。何の歯車ですか、とまた訊ねた。そこからでも見えるだろう、とまた返ってきた。こちらに来れば、よりハッキリ見える、とも。
ぼくは、その場から動かず、彼の背中越しにカラクリを見上げた。上の方に時計盤が備え付けてあったから、おそらく大時計だったと思う。執務室にあった巨大歯車よりは余程小規模だけれど、枠にはめられたガラス板の向こうに様々な機構がびっしり詰まっているのが見えて、眺めているうちに思わず口が開いてしまうほど複雑で、魅力的な造りだった。
「私は、この歯車一つが、私の意のままに動くことを望む」
どこかで聞いた言葉だった。同時に、あの裁判を思い出す言葉でもあった。思わず口を結んでから、彼の背中をじっと見つめてみたのだけど、相変わらず歯車を磨いたまま振り向くそぶりも見せない。
一つ磨いて、はめて、また一つ磨いて、はめて。
「たった一つの歪みが、この素晴らしい大機構を止めてしまう。だからこそ、こうして油を注して、手入れしてやらねばならなかった」
もっと長く話していたような気がするのだけど、ぼくが覚えている限りでは、こんなことを言っていた。
明らかに手元の歯車について語っている様子ではなかったよ。その、語られた中身について彼が何を言いたいのか、解釈しようと試みるたびに法廷での怒りが蘇ってくるようだった。
この男が企てた計画のために、どれほど素晴らしい人間が犠牲になったのかを思えば、当然だ。だから、そのとき投げかけた文句も、少し乱暴な物言いだったと思う。あなたのせいで、とか。まだそんなことを言ってるのか、とか。たぶん、そういう風に責めた。
彼は反論しなかった。まだ歯車を磨いていた。
ここまで来てようやく、彼が同じ歯車をずっといじり続けていることに気がついたんだ。大時計の様々な箇所に組み込もうとして、外して、また別の箇所に。そんな作業を、おそらくぼくが来るまで何度も繰り返していたのだろう。
もしアレが彼の言う「歯車」なら。ぼくは、勢いのまま問いただした。
その歯車も、貴方は廃棄するのですか。
使いものにならないからといって。
彼はまだ歯車を磨いている。
「半分、正解だ」
「コイツは、もはや使いものにならない。古ぼけた骨董品だ。だから、こうして磨いている時間も、正直に言ってしまえば無駄の極みだ」
「しかし廃棄するかどうか決める権限など私にはない。なので、半分正解だ。課題レポートなら落第だな」
「全ては女王陛下の名の下に、私は出来る限りのことをするまで」
このあたりは不思議とハッキリ覚えている。目覚める直前の内容だからかな。色々言い返したいことがありすぎて、声に詰まってしまった。
同時に前のめりにもなって、思わず、一歩踏み出したんだ。そうしたら、もう朝だった。
夢だったんだ。全部、あの庭もあの人も。最初から分かりきっていたことだったけど、目覚めてから暫くは布団から出られなかった。そんな気力も湧いてこなかった。恐ろしい夢でも、悲しい夢でもなかったのに。
うん、ちょっと言いにくいんだけどさ。悔しかった、のかな。夢で会えて良かった、なんて一欠片も思い至らなかった。相手が相手だったから。
でも、悔しかったよ。あの人は……ハート・ヴォルテックスは最後まで変わらなかった……夢の中でさえあのときのままだったと「安心」した自分が悔しくて、仕方なかった。
それから、彼が処刑された旨の電報が届いた。あれは一風変わった『夢枕に立つ』、だったのかしら。