二人きりの船室での話
@fengli25
(一)
思えば、底知れぬ暗闇から、ぼくを掬い上げる存在など、アイツ以外いるはずがなかったのだ。
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なるほどう、なるほどう、と声が聞こえた。ずいぶんと遠くに聞こえる、囁きだった。もしかしたら既に何度か聞き逃していたのかもしれない。その声は、しつこいほどに、繰り返しぼくを呼んでいた。
「生きているか」
あぁ、生きているとも。およそ生きているうちに体験するはずのない、酷い責め苦を受けてきたが。不思議と、ぼくは生きている。
真っ暗闇の視界に、触れる感触。ぼくの額に触れるものは右手か左手の、どちらかだ。ぼくの腹に触れるものはダルマかシャツの、どちらかだ。硬いか、柔らかいか、右か左かもサッパリ分からない。どちらか、しか判別つかない。
それだけの長い時間、丸まった身体をぎゅうぎゅうに詰めこまれて、ここに来た。もはや拷問だ。もしかしたら、留置所にぶち込まれていたときの方が、よっぽど人間らしい待遇だったと、振り返ってしまうかもしれない。
果たして。牢屋と旅行鞄、どちらがより人道的なのかしら。
「壮健で何よりだ」
「ん……そう……かな……」
「成歩堂、舌は回るか」
どうだろう。まず、舌どころか喉から声を出すのも億劫なのだけど、どう伝えるべきなのだろう。
髪の毛の一筋から、足のつま先まで、泥壁で固めたかのように感覚が鈍い。ただ、鈍いなりにも、頭のすぐ近くで親友の声がする、それだけで「おそらくぼくは抱きかかえられている」と判断できる、のだが。
あとは分からない。あぁ、目の前まで真っ白だ。
人は、狭いところに押し込められると、その人間性があっという間に欠如していくらしい。どれだけ旅行鞄に詰められていたか、もはや記憶の彼方に消えてしまったが。一日にも満たない時間を経て、ぼくは「人形」へと仕立て上げられてしまった。生きながらにして死ぬ感覚とは、こういうものなのか。
自覚した途端、腹の底から恐怖がこみ上げてくる。常と違う感覚が、自分が自分でなくなったような感覚が呼び水となり、ありとあらゆる恐怖を引き込んでくる。
きっとぼくの歯はガチガチ鳴っているのだろう。しかし、これまた恐ろしいことに歯茎には何も伝わってこない。
「成歩堂」
あそうぎ、ぼく、いっしょうこのままだったら、どうしよう。もうなにも、たべられ、た、たべれれれ。
「落ちつけ。それより、オレの声を聞き逃すなよ。そのまま寝たら叩き起こすからな」
そうして、ぼくの親友は、宣言通り黙ることをしなかった。低く柔らかな声につられ、徐々に恐怖が鳴りを潜めていく。その間、しつこいぐらいに名前を呼ばれた。
全て聞き取って答えられたわけではないのだが、どうも、相槌や返答のない会話でも、コイツにとってみればさほど苦にはならない代物らしい。あぁでも舌の回らない一方的な会話というものは、念仏にしか聞こえないな。端的にいうと、眠くなってきたな。
うつらうつら目を細めれば、その度に額をぺちぺち叩かれる。ぺちぺち。本当はもっと痛い。手加減はしているはずなのだが、元々が馬鹿力なのだ。きっと今頃、ぼくの額はサル尻になっているだろう。
「んん……」
痛い? あら、そういえば。
額もそうだけど、指先がちょっと痛くなってきた、ような。
感覚を辿っていくと、ふくらはぎからくるぶしへと痛みが広がっていく。圧迫感と、心地よい体温が広がっていく。
突如、霧が晴れたように視界がひらけた。頭上に揺れる、ランプの光が部屋を照らす。すぐさま飛びこんできたのは亜双義の横顔だ。その向こうに、垂れた布切れとクローゼットが見える。どこぞの部屋なのかしらん。
瞬きしている間に視線が合う。向こうも、ぼくが自分を取り戻した様子に気がついたようだ。
「ようやくシャンとしたか。ここは船室だ。アラクレイ号の、一等室だ」
「アラクレイ号……そうか、船に乗っているのか」
本当に乗ってしまったんだ、チケットも許可も貰っていないのに。
じわじわとこみあげる達成感と罪の意識に苛まれること、ごくわずか。ぼくは、尻と背中に違和感を覚えた。
思わず身じろぐと弾む尻。
「おい、あまり暴れるな」
同じように弾む背中。
あれ、これはもしかして。
首をすこし傾けてみれば。なるほど背中には亜双義の胸板がそびえ立っていたわけだった。なんてこった。
「……この体勢は何なのかしら……」
「抱きかかえていた方がやりやすいからな。それにしても、キサマ。もう少し肉をつけた方がいいぞ」
「腹まわり気にしてるの知ってるだろ。いや、それはいいんだけどさ。これじゃあまるで……赤ン坊みたいじゃないかと……」
というより、まさに赤ン坊そのものだと、吐き出す思いで呟いた。亜双義の胸板に背中を預け、後ろから抱きこまれるように、腕やら足やら回されて。やけに足がぶらつくと思えば、なんとベッドの上に座っているではないか。生まれて初めてのベッドと素直に喜びたかったが、後頭部の向こうで吹いているであろう熱風に気を取られ、もうそれどころではなかった。
「それより成歩堂。手の感覚は戻ってきたか」
「手?」
後ろから回された亜双義の手が、いつのまにかぼくの両手首を掴んで、ぐらぐら揺らしている。ふと思い至る。先ほどの痛気持ちい、あの圧迫感、あの力加減は、もしや背後の熱血漢からもたらされたものではないかと。
ぐっぐっ、と押しこまれる指圧が、二の腕から手首へと流れていく。そのたびに指先からじわりと熱が広がっていって、なんともいえない心地よさを覚えた。
「おまえ、いつの間にこんな芸当を覚えたんだ」
「武道を志す者であれば、同時に心身を調える道を習得するものだ。少しは楽になっただろう」
「うん。気持ちいい」
「それはよかった」
良い塩梅になったら、そこの机に水差しが置いてある。飲むといい。そう言って指した先の、透明な硝子コップと揺れる水面に目を奪われる。
だって仕方ないじゃないか。あんな拷問まがいの仕打ちを受けて、一転極楽のような手当てをされて、一気に気が抜けてしまったのだから。
おそるおそる亜双義の腕を掴んで、振り返る。
「あの、便所……どこだろう」
(二)
思えば、底知れぬ暗闇へと、ぼくを突き落とす存在など、アイツ以外いるとも考えなかったのだ。
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目の前に差し出された何かは、まるっきりブリキの缶だった。角ばった蓋に針金の留め具。華やかな模様をよく見れば、子馬や鹿が跳ねている。お菓子でも詰めてきたのだろうかと、覗いてみれば、中身はがらんどうだった。もし煎餅を詰めるなら二十枚、頑張って五枚程度の容量か。ピン、と人差し指で弾いてみる。響きも唸りもしない、ただの缶だ。
亜双義、この缶がどうかしたのか。
いまいち意図が掴めずに、缶を差し出してきた友人に問いかける。腕を組んだ友人こと亜双義は、ちらりと部屋の奥へと視線をやった。
そちらの方で目立つものといえば、鉄の扉と、壁にかけられた注意書きだ。見慣れない外来文字の文章に続き、英国行きの船らしくカッチリとした英語で「生き物を持ちこむべからず」等といった内容が書かれている。
『生き物』 ……船のチケットを持たない存在を指す総称。密航者同然のていで、こっそり紛れ込んだぼくこそが、まさにその「生き物」なのだ。見つかったら最後、良くて一人で、運が悪ければ亜双義と二人して海へ放り出されるかもしれない。しかし、どうして無賃乗船の不届き者だけでなく、生き物全般が禁止されているのだろう。
「この缶が」
ふと思いついた疑問は、すっぱりと線の通った剣筋のように、すぐさま切り捨てられた。
「今から、キサマの便所となるのだ」
「は」
先ほど旅行鞄から引きずり出された疲れもあってか、突然の宣言にすぐさま反応することはできなかった。数拍の間を置いて、ようやく、脳みそが覚醒する。今から、便所が、ブリキ缶。こいつで用を。
驚天動地にがなりたてる抗議の声は、これまた即座に塞がれた。亜双義の大きな掌がすっぽりと口を覆ったのだ。そのままベッドへと倒れこみ、柔らかい衝撃が背中を突く。息つくヒマもなく、眼前に迫っていた亜双義から、一言。
「部屋の外に見張りがいる」
「……!」
喰らいつかんばかりの近距離で、ぼくの腹に乗り上げた亜双義は、ゆっくりと掌を下げていった。
大声を出してはならない。暴れてもいけない。静かに、密会のごとく、言葉を交わすのだ。
そう言って亜双義は腰をあげた。
「武士の情けだ、見ないでおいてやる。とっとと済ませてしまうがいい」
途端に腰から下腹にかけて、尿意がひょっこり顔を出す。誓って、アイツが許可を出したからじゃない。圧迫された腹が解放されたからだ、そうに違いないのだ。
自分に言い聞かせるも、手元にあるのは例の缶だけ。あぁ、現実を直視したくない。
「他に便所は……」
「あるなら案内している。用を足す姿など、進んで見たい奴があるか」
「ううう……ひどい。あんまりだ」
「泣き言を喚いても何も変わらんぞ」
旅行鞄に詰められた次は、ブリキ缶に詰めこんでいくのか。それも自らの意思で、局部まで露出させて、あろうことか親友のすぐそばで!
世の中に数多あるだろう拷問の中でも、とびっきり酷い所業ではないか。こちらに向けられた亜双義の背を睨みつける。時代の風を吹かせてきた熱血漢も、たった今に限っては、血も涙も枯れ果てて寒々と冷えているに違いない。これが親友のやることか。
恨み言を次々と並べていく。尿意も勢いを増していく。こうして気をそらすにも、当然限界はあった。
我慢したい。我慢できるものなら、ずっと耐えていたい。経験上、尿意を無視し続けると、ある種快感を覚える境地へと至るが、過ぎてしまえば腹を刺すような鈍痛へと変わってしまうのだ。
ほら、下腹の奥がしくしくと痛み始めてきた。
「ううううう」
とうとう亜双義は何も言わなくなった。ぼくのうめき声だけが、部屋に響く。もう大声でも出してやろうかしら。この極悪非道の仕打ちを、世間に知らしめてやりたいじゃないか。そうして親友の思いを、裏切るのか。
悲しいかな。どうしたって、自分の身を案じるよりも、親友の期待に応えてやりたいと訴えるぼくが、どのぼくよりも強いのだった。
+++
これほど情けない思いで、前をくつろげるときが来ようとは、思ってもみなかった。取り出した局部は、しんなりとこうべを垂れている。心なしか、いつもより青ざめているような気がしてきた。
そりゃ青ざめもするよな。よく分かる、きっと他でもないぼくが、この世で一番理解しているよ。
軽く持ち上げてやれば、より主張の激しくなった尿意にふるりと頭が震えた。
まずい、このままだと漏れてしまう。慌ててブリキ缶に局部を挿しこみ、そのまま膝を軽く立てる。腹にかかるシャツが邪魔だ。かきわけ、押しつけ、視界が広がる。ちくしょう、涙で滲んできやがった。
ここまで来て気づいたことがある。常と違う環境で用を足すのは、思ったよりも難しいのだ、と。下腹に力をこめてみる。出ない。溜まった尿で破裂しそうな思いなのに、出やしない。いたずらにブリキの肌が触れるだけで、太ももの裏から尻まで怖気が走る。
あぁ、出したい。早く終わらせてしまいたい。いよいよ立てた膝が痙攣する。呼吸まで荒くなる。たかが用を足すだけなのに、それなのに、地獄のひと時は終わる気配を見せない。
どうすればいいんだ!
「うう、うううう……」
「まだか」
「……ちょっと、黙ってくれよ……もう、もうどうしたら」
「成歩堂」
その声は、旅行鞄から出されたときの射しこんできた光に似ていた。あるいは、真っ暗の視界よりずっと奥の暗闇だったかもしれない。背を向けた亜双義から声がする。ぼくを呼ぶ声が。
「出してしまえ」
その言葉を契機に、ブリキを水音が打った。あまりにも大きな音だったものだから。ひっ、と鳴らした喉から悲鳴が漏れる。
大変なことに気づいてしまった。そうだ、たとえ背中を向けていようが目を閉じていようが、音は聞こえるのだ。ぼくの耳と同じように、アイツにも、尿の飛沫が届いている。
それは、たとえようのない羞恥だった。
「だ、だめ、だめだって、あう、うっ……!」
いよいよ悲鳴が抑えられず、自ら局部を支えていた方の手で口を覆った。てんでばらばらの方向へ尿が飛ぶ。なんとかブリキ缶の中に収めてはいたが、少しだけシャツと太ももにかかった。生温い。頰をぼたぼた伝う液体も、生温い。
この歳になって泣き出すなんて、アイツが見たら、なんて言うだろう。全て吐き出したあとのブリキの缶はずっしりと重たげに、鎮座していた。
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「この一等区画の便所は、廊下の奥にある。行くなら見張りの目を気にしなければならないが、『ブリキの缶』を持って出る程度ならば、問題はない。大便は量によるだろうから、近々袋を見繕ってこよう。どちらにせよ、常に見張り番がいるわけではない。行くのは難しいが、捨てるぐらいなら、いくらでも機会はある」
「だから、そう悲嘆するな。垂れ流しよりよほどマシだろう」
「…………」
「成歩堂」
部屋に帰ってきた亜双義の、持っていたブリキの缶からは海水の匂いがした。
あぁ、ここは牢獄だ。留置所だ。大海原に囲まれた、人を人と思わぬ鉄の檻なのだ。
クローゼットに閉じこもったぼくは、これからの旅路を憂い、そっと涙した。
ちなみに、その晩に分け与えられたカツレツは絶品だった。食べ物に限って言えば極楽かもしれない。
(三)
おそらく、ぼくが思っているよりも、底知れぬ闇をアイツは抱えているのだろう。眩しいぐらいの暗闇を。
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ふと、クローゼットの中で寝返りを打ったとき、すえた臭いが、鼻先を掠めていったのがキッカケだった。
この部屋は暖房がよくきいている。亜双義が言うところの一等区画だけあって、真冬にも関わらず寒さで凍えたことは、一度もない。それどころか、暑苦しさで寝づらい夜もあるぐらいなのだ。ただでさえ狭いクローゼットに押しこめられているのだし、ただでさえ、『子供体温』とよく言われるほどあったかい体質だし。
つまるところ、さんざん汗をかいてきたのだ。不快な臭いの犯人がいるならば、思い当たるところは一つしかないのだった。
「こう言うのも何だけど、臭わないかい」
「そうだな。鼻が曲がるほどの、酷い臭いだ」
「………聞いたぼくが言うのも何だけど、おまえには配慮が足りない」
「自分で分からないのか?」
「分かるから確認しているんだよ」
アラクレイ号に忍びこんでから早三日。その間、風呂どころか服も変えていないぼくの体臭は、それはもう恐ろしい領域に達していた。
昨夜は「気になるかも」と思う程度だったのが、今晩に至っては「やぁそろそろ服ごと海にでも飛びこむべきじゃないかな!」と、全身をもって訴えられている、そんな気分になる程、切羽詰まっていた。
同室の亜双義も、匂いに気づいてはいるらしく、心なしか普段より距離を置かれている。いや、先ほど「鼻が曲がる」だの言ってくれた時点で、明確に遠ざけられているのだ。ぼくだって出来ることなら自分から離れたい。
ふと、恐ろしい未来がちらりと顔を出す。
「まさか、大英帝国に着くまで、ずっとこのままじゃないよな」
クローゼットの隅に置いた学ランを、尻で踏んづけないように気をつけながら、さりげなく、気づかれないように、脇を嗅ぐ。
くっさい。
すぐさま顔をそらす。ほんの一瞬の出来事のはずなのだが、どうやら、横向かいの机に座る亜双義は、ばっちりぼくの様子を見ていたようだ。
「明日までに何とかしよう。しばしの辛抱だ、相棒。まずは今夜を乗りきってくれ」
「……峠を越えられるか危ういところだ」
見られた恥ずかしさから逃れるよう、軽口を叩いてクローゼットの扉を閉めた。心なしか木の壁にまで臭いが染みついているように感じる。
さっさと寝よう。身体を丸め、暗闇の中に沈んでいく。
ぼく一人だけこんな惨めな思いを味わうなんて、この世は理不尽で出来ているものだ。
+++
そうして次の晩、亜双義が持ってきたのは、銀色のタライと、水滴浮かぶガラス製の水差し、それと乾いた手ぬぐいだった。
「石鹸もあるぞ。ほんの小さなカケラだが、無いよりはマシだ」
「おまえの『あるだけないより精神』って、つくづく便利だよな……」
「案外バカにならんからな。気の持ちよう、というヤツは」
しかし、この銀色タライは、どこから持ってきたのかしら。ぼくの尻がすっぽりハマってしまうぐらいの大きさで、ところどころ茶色く沈んでいる部分に、年季を感じる。船の備品なのかしら。
シャツを脱ぎ、さて下も取っ払ってしまおうといったところで、亜双義から声をかけられる。今は上だけでいい。まずは頭を何とかしなければな、と目の前にタライが置かれた。
「この中に入るんじゃなかったのか」
「………キサマの尻でギチギチの代物だぞ。オレとて、そこまでこじんまりした男とは思ってない」
「旅行鞄も結構ギチギチだったんだけどな」
「限度があるだろう」
頭を下げろ、と言われたので、そっと差し出す。亜双義の濡れた手のひらに掻き回された髪が、徐々に泡立ち、下のタライへと垂れていった。こうして洗ってもらうのは温泉宿のサァビスを受けたとき以来だろうか。比べて、亜双義の指はゴワゴワで、力強くて、ちょっと痛い。それでも耳の後ろや生え際を擦られたときは、何ともいえない気持ちよさがじんわりと広がるのだった。
亜双義の体温が、ぼくへと移っていく。うつらうつらと、思考がぼやけて、深みにハマっていく。こんなこと、前までなかったのに。
船に乗ってからだった。亜双義との接触が、より頻繁に、それでいて肉薄するようになったのは、この船室に転がりこんでからだ。
誰にも見つかってはならない身の上である以上、ぼくは、亜双義の助けがなければ生活できない。情けないことに、下の世話もお願いしなければならない環境にいる。それもこれも、亜双義自ら進んでやっているとはいえ、どうしても不思議でならないのだ。
どうして、こんな面倒ごとを抱えてまで、ぼくを連れていかなければならなかったのだろう。
こんなにも献身的に世話をする彼は、ぼくに何を望んでいるんだろう。
亜双義は、ただ見届けてほしいのだ、と呟き、泡立った頭髪を水で流した。
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久しぶりにサッパリした頭をある程度乾かしてから、湿った手ぬぐいで身体を拭う。それだけでもだいぶ違うものだ。流石に股間を拭くのは遠慮しようとしたのだが、垢が溜まるだろうと紙切れを押しつけられた。
まさか親友に下事情を推し量られる日が来るなんて、ここに来て何度目か分からないが、想像したくなかった。背を向けてさっさと拭い取る。少し染みた。
「どうせなら脇毛も剃ってしまえれば楽なんだがな」
「何の話だよ」
「体臭の話だ。毛深い者の方が臭う、とよくいうだろう」
そこまでやることか、と断固拒否したぼくは、足の指先まで臭いを拭い取った。ところどころ石鹸で擦ったから、かなりマシになったのだろう。さて、あとは褌一丁から服をまとわなければならないのだが。床に落としたシャツを手に取り、嗅いでみる。くっさい。
鼻筋にシワを何本も刻んだぼくの頭上に、何か白いものがぶわりとかぶさった。追いかけるように亜双義の声が飛んでくる。よくよく見れば、それは彼のシャツだった。
「替えなら何着かある。こじんまりなキサマには、少々大きいだろうが我慢してくれ」
袖の長さやら肩まわりやら、確かめるたびに少々敗北感を覚えつつ、体裁を整える。下履きは替えようがないとのことで、そのままだ。余った袖をまくったぼくは、残されたタライと水へ視線をやった。あれもコッソリ捨てに行くのか。
「そうだな。見つからないように、コッソリ捨てにいくさ」
「見張りもいるのに、よくやるなぁ」
「我々にとって幸いなことに、隙だらけの見張りだからな。東洋人相手に油断しているのだろう。今だって、外には誰もいないのだから」
「えっ!」
「だからといって覗こうとするなよ。念には念を、だ」
タライに張っていた水を用意していたブリキ缶へ戻し、亜双義は部屋から出て行った。残されたぼくは、部屋の真ん中にどっかりと座り、主のいなくなった空間を見回す。ここは豪勢な留置所だ。まずはじめに抱いた所感は、三日経った今も、そう変わってはいない。
ただ、少し訂正する必要が出てきたようにも思える。
留置所とは、見方を変えれば公的な場所だ。司法の名の下、多くの人の職務と意志によって、厳密に管理されている。しかしこの部屋は亜双義以外の思考を一切受けつけない。彼のやりたいように、思い描いたままに、出来る限りの工夫をもって、ぼくを詰めこんだのだ。
ならば、そう。ここは亜双義による亜双義のための檻であり。ぼくは、きっと囚人ではなく、人に届かぬ犬畜生の類なのだろう。
部屋の主が帰ってくる。
今日もぼくは、行儀よく座って、主人を出迎えるのだった。