ホームズが愛した養子の話
@fengli25
【十年前】
「パセリにセージ、ローズマリー、あとはタイムもね」
マントルピースを煌々と照らす、炉端を背にしたソファに腰掛け、青年が歌う。腕に赤子を抱え、ゆらり、ゆらりと揺れながら。その声が紡ぐのは、子守唄だろうか。
倫敦の冬は万人に等しく厳しい。絶やさず火を燃やし続けて、ようやく生きていける、おそるべき極寒の町だ。薪を切らせば死に至る。暖炉が冷えこめば死を迎える。そんな場所で、一人ぼっちの青年は、縁もゆかりもない赤子へと歌を贈る。少しでも、安らかな眠りに身を委ねられるように。
「そこの住人に、よろしく伝えてほしい」
腕に抱かれた赤子は、灰色がかったタオルで何重にも巻かれ、頭の先まですっぽりと埋まっていた。隙間から出した顔つきは、愛らしく、青いスモモのように丸まった頰と、明るいまつ毛が印象的だ。大人しそうな目元と同様に、泣き声一つあげず目を閉じている。
赤子の頰を親指で撫でる。青年の、深緑の瞳は、何よりも慈しみを抱いて、その子の寝顔を見つめていた。
「……彼は、私の友人だったのです」
【数ヶ月前】
「ホームズさま! 今日こそは隅から隅までお掃除いたしますよ!」
凛々しい声に叩き起こされたホームズはソファから猫のように転げ落ち、ぱちくりと目を瞬かせた。昨夜からの記憶がさっぱり抜け落ちているのだが、はて、家政婦などいつから雇っていたのだろうか。
ぼんやりした頭をグルグルかきむしりながら、なんとか身体を起こした頃、ようやく目の前の淑女が誰なのか思い出した。
彼女の名は『スサト』という。親友の一人娘であり、今のホームズにとっては、二人住まわせている下宿人のうちの一人でもある。黒髪を器用に結わえた東洋人であるスサトは、その知性と行動力をもって、時たま大胆な行動に出る。今もほら、ホームズに断りなく大掃除を始めようというのだ。
ホームズはというと、ささっと寝癖を整え、おやこの大探偵に何か用かい、と言わんばかりに腕を組んだ。もちろん右手の人差し指をピンと突き立てて。
「あぁ、すまないミス・スサト。ボクもね、いつかはやらなくてはなぁ、と思っていたところなのですよ。掃除、というヤツを」
「えぇ、えぇ。その通りでございますとも」
「しかし、それが今日である意味は?」
「思い立ったが吉日、と申しましょう!」
さぁさぁ不要なものを選別してくださいまし、と共用ソファから私的スペースへと放りこまれる。文字通り、猫の首をひっつかむようにして、ポイとやられたのである。
一見雑然としているホームズの部屋にはルールがある。マントルピースを挟んだ片側へ私物を集中させ、もう片側には手をつけない、というルールだ。何故片側かというと、かつてルームメイトだった親友が、そちらを使っていた名残である。今でも養子の私物やら何やらが置いてあるため、やはりホームズが手をつけるべき私的スペースは『片側』だけなのだった。
さて片付けろと言われてもな、と頭上高くに両腕を伸ばし、首を鳴らしたホームズは一人ごちる。おそらく当の彼女も、底をひっくり返すような大掃除を企んでいるのではなく、チリ紙や食べこぼしがそこらに散乱しているのが我慢ならない。ただそれだけの話なのだろう。
流石に『もう一人の下宿人』のように、かの聖域に食べこぼしなど、ビスケット一欠片すら落ちてはいない。あるとするならば、紙の山である。インクもちょっと溢れているかもしれない。
腰に手を当てたホームズは、その場で立ったまま背後へと呼びかけた。
「やぁミスター・ナルホドー。今、ヒマだろう?」
「見ればわかるでしょう……忙しいですよ」
「ザンネンながら、ここからはちっとも見えないのでね。ヒマでないというのなら………」
何だい、その格好。
どこからともなく取り出したパイプ片手に、振り返るホームズ。そのままあんぐりと口を開けた視線の先には、件の『食べこぼしをよく落とす、もう一人の下宿人』こと、ナルホドーが立っていた。しかし、普段の黒づくめの衣服をまとった様子とは、まるで違う格好だったのだ。
白い布切れを頭に巻き、白い衣服を肩から被り、白い腕筒をはめている。こうも白尽くしのナルホドーを見たのは、ホームズにとって初めての体験だった。驚きのままにグルグルと全身を観察する。対するナルホドーは、肩を縮こまらせ、いささか窮屈そうに首をすくめていた。
「キミ、医者にでも転職したのかい」
「違います。寿沙都さんから渡されたんですよ。お掃除のお手伝いなので、形から入るべきだ、と」
「へぇ。キミだけ?」
「えぇ、まぁ」
よく見れば、白尽くしのナルホドーは、片手にバケツ、もう片手に布巾を持っていた。これが彼らの祖国でいう『お掃除スタイル』の正装なのだろう。薬品も何もない汚れ仕事に白服で挑むなんて、おかしな国民性だなぁ、と考えが至ったホームズは、転じて脳にドンヨリとした霧がかかる瞬間を、確かに感じ取った。
スサトが、ナルホドーにだけ、道具一式を用意したなんて。
「キミたち、ボクをのけものにして楽しいかい」
「えぇ……?」
肩を落とし、ついでに頭まで垂らしたホームズは、恨みがましくジットリとした目ででナルホドーを睨みつけた。口の端から、先ほどまで吸っていたパイプの煙が細々と上がる。時折ふいっと唇を曲げてみせれば、白い筋がクネクネ身をよじらせる。その動きすら気分を降下させるのだ。
対するナルホドーにしてみれば、部屋の床から壁磨きまで、任されたからこその格好であって、楽しくもなんともない『正装』なのだ。明らかに自室の紙切れを捨てるだけのホームズの方が、何倍も楽なのだ。替わりたいというなら是非とも、と言いたいのが正直なところである。
しかし、今までの経験上、ホームズがナルホドーの仕事をやりたがるとも思えない。いつものように疎外感を覚えているだけなのだろう。実に、厄介だ。
「ボクはね、ミスター・ナルホドー。こう見えて家事育児掃除洗濯、何でも出来るヤツなのだよ」
「全くそうは見えませんけどね」
「ほらまたそういうことを言う。見た目だけで戦力外通知を出されるなんて、理不尽じゃないか。キミも分かるだろう!」
「じゃあ手伝ってくれますか」
「何言ってるんだい、そいつはキミの仕事だろう」
「………」
黙りこんだナルホドーを前に、ホームズの指先がぴっしりと上を向く。
「つまりね、キミが脱げば済む話なのだよ。この大探偵と同じように! 着の身着のままで、憂鬱な掃除に取り掛かろうじゃないか!」
「……寿沙都さんに怒られても知りませんよ」
「そのときはキミも一緒さ、ミスター・ナルホドー」
「共犯者狙いか…」
仕方ないなぁ、と一言呟いたナルホドーは、手に持ったバケツと布巾を床に置き、豪快に頭から脱ぎ出した。同時に白い布切れもポトリと落ちる。
そこから何故か上着まで脱ぎ出し、シャツ姿で腕まくりを始める。ちなみに、ただいま凍えるほど冷え込む朝である。思ったとおり寒々しい顔で、何回かくしゃみをしてみせる。鼻をすすったナルホドーを、ホームズは珍妙な生き物を見る目で、まじまじと観察した。
「うぅ、寒い……」
「おいおい。ミスター・ナルホドー、その格好で水に触れる気かい」
「仕方ないじゃないですか。この上着、一張羅なんですよ」
「ふむ」
少々かさついたナルホドーの手を取り、覗きこんだホームズは、急に踵を返し、奥の戸棚を引っ掻き回した。
あったあったと軽く掲げた右手には、半透明の何かが握られていた。五本指に分かれた部分からして手袋のようなのだが、レースでもないのに向こう側が透けてみえる。
「これを手にはめるといいよ。むかーーーし、暇つぶしに作ったヤツなんだがね。防水性ならお墨付きだ」
半信半疑で半透明の何かを受け取ったナルホドーは、五本の指にはめ、随分と突っ張る感触だ、と水につける。途端に表情が明るくなった。一度水面から引き上げ、また手をつける。手元に視線を落としたまま、ほうと息を吐いた。
「すごい……これ、全然冷たくないし、濡れもしない。こんなものがあるなんて」
「あるともさ。大探偵の部屋だからね」
「大探偵が関係あるかは置いといて、ありがとうございます、ホームズさん」
笑みを見せたナルホドーに、うやうやしく胸に手を当て、お辞儀をしてみせる。ときおり見せるホームズの仰々しい素振りも、実績が伴えば、それなりに堂が入っているように見えるものだ。布巾を絞り始めたナルホドーの頭上から、再び声がかかる。
「ところで、ミスター・ナルホドー。ヒマならこっちの掃除もやってもらいたいんだけどね。どうだろう」
「………」
様子を見にきたスサトに叱りつけられるまで、ホームズとナルホドーの無意味な問答は続いたという。
【十年前】
あったあった、と青年が抱えあげた機械には、大きなレンズがはめこまれていた。胸元を覆い隠すほどの巨体ながら、軽々と手に取った様子からして、歯車も機構も然程詰まってはいないらしい。機械と共に、床へと座りこんだ青年が、えいやと蓋らしき部分に手をかければ、蛇腹の首が顔を出す。見る人が見れば、巷でいう『撮影機』ではないか、と察しがつくだろう。
青年の指がツマミをいくつも下げていく。数字の刻まれたメーターを『20』の部分まで回し、そさくさと立ち上がって向かった先には安楽椅子が置いてあった。
大人一人がゆうに足を伸ばせる椅子の真ん中に、小さく置かれた布の塊。隙間から覗かせる顔は赤子のものだ。
「さぁニッコリ笑って、ボクたちの可愛い子」
灰色の布で何重にも巻かれたお包みを前に、青年は微笑む。青年の問いかけに対し、眠たげな表情を見せる赤子は、うんともすんとも言わず、ただ安らかな寝顔を浮かべている。
あぁかわいい。なんて愛らしい我らの子。きっとその頬は香草で染めあげられ、その髪は花の色から生まれたのだ。
青年の声はやがて歌となり、メーターの駆動音が密かに顔を覗かせ、共鳴する。その時が迫りくる。流れるように安楽椅子の横に座りこんだ青年は、赤子の頬へと顔を近づけ、レンズへ向き直った。
「いつかパパにも見せてあげようね」
きっと喜ぶよ。
手のひら沢山のチリ紙を、一気に丸めたかのような音が響く。数瞬の間を置いて、歩み寄った青年の手元には、機械から吐き出された写真一枚。向こう側が透けるような不思議な素材の手袋ごしに伝わる、焼きたて写真の温度に、青年はうっそりと唇を震わせた。
あぁ、いつの日か、こいつを我が親友に見せてやりたいものだ。
そうして青年は夢想する。十年経とうと二十年経とうと構わない。この子と三人で笑いあえる日が、必ず来るに違いない、と。
【数週間前】
ナルホドーとホームズは男二人で万博会場に来ていた。人と人でごった返す広場。パビリオンを埋め尽くす人の波。人、人、人以外の隙間はどこにもないと雄弁に語る光景を横目に、二人は行列の一員となっていた。
お目当は三段重ねのアイスクリーム。それはそれは、舌がとろけるほど甘い氷菓なのだ。そんな文句につられて、かれこれ並び始めてから二時間。ナルホドーは地の底までうんざりしきっていた。
それというのも、ホームズの発言がきっかけだったのだ。
「やぁミスター・ナルホドー! キミ、甘いものが好きだと言っていたね!」
「……どうかしたんですか?」
「なに、このボクがね。そこの売店からアイスクリームを買ってやろうじゃないか! そう提案しているワケなのだよ」
「……何があったんですか?」
疑いのまなこを向けてくる同行人に対し、ホームズは相変わらず大げさなそぶりで、腕を広げた。何も裏などありません、と手の内を見せてくる彼の表情に、ありありと「チョットどころではない魂胆があります」と書いてあれば、ナルホドーの疑心もますます深くなるというものだった。
明らかに乗り気でない面持ちに、さっとホームズは指を鳴らす。
「たとえば。キミの大好物であるミルクと砂糖をふんだんにつかったアイスクリームがあるとしよう。それもパリッとした食感の焼き菓子の上に乗っけられたアイスクリームだ」
「うっ」
「更にその上に、木苺とラズベリーを混ぜたアイスクリームを乗せる。甘ったるく甘酸っぱく、飽きのこない喜びがキミの舌を楽しませるだろう」
「ううっ」
「おまけにチョコレートまで! しかもただのチョコレートじゃないぜ、生クリームをたっぷり練りこんだ大陸流行のガナッシュアイスだ! まぁ、どの順番で乗せてもいいけどね。今重要なのは、コイツらを三段重ねで楽しめる、絶好の機会という事実だ」
「うううう……っ!!」
「さて、ミスター・ナルホドー。答えは決まっているね?」
虚空に浮かぶ白旗を見るまでもなく、ナルホドーが陥落するまで、あっという間の問答だった。甘いものに目がないと知られてしまったが最後、どうしたってホームズが手繰り寄せる誘惑の糸に、絡め取られてしまうのが関の山なのだ。こうして冷や汗を垂れ流すナルホドーも、その視界には世にも素晴らしいアイスクリームの幻覚が踊っているのだろう。どことなく、そわそわして浮き足立っている。
こうして二人は行列に入ったのだ。甘い夢を浮かべて、三十分、一時間、二時間と、いい加減待つのも飽きたナルホドーが根を上げる頃まで、延々と。
「なんだってアイスクリン一つで、こんなに時間がかかるんだ……!」
「貴族社会だからね。いつの世も、最優先されるのは無駄にエラそうな紳士淑女なのさ」
「理不尽だ……」
鈍牛の速さで人がはけていく行列の中に、一体どれだけの無駄な紳士淑女がいるのか。何やら仮面をつけたフードの男が並んでいたような気がするが、見間違いだろうか。その横に、シルクハット姿のやたら見覚えのある紳士が、土気色の顔色で佇んでいるのは、気のせいだろうか。あまり関わらない方が良さそうだ、と踏んだナルホドーは、一足先に水晶塔より向こう側を見て回るといったスサトへと想いを馳せた。アイスクリームを買っていったら喜ぶかしら、と思ったはいいが、その前に力尽きそうだ。
「そもそも。渡す前に溶けきってしまうと思うけどね、ボクは」
「もう諦めた方が良いような気がしてきました」
「いいや、諦める必要などないさ。ボクたちは既に手に入れているのだよ。成果、というヤツを」
「えっ?」
ようやく行列の中腹へと差しかかった位置から、一人離れていくホームズ。その行く先にはアイスクリームを持った、身なりの良い少年。お目当の品を手に入れて、まさに駆け出そうとした、その瞬間、世紀の大探偵が立ちはだかった。うやうやしく掲げた右手を胸に当てる。
「やぁ、ご子息様。お屋敷の外は楽しいかい?」
ホームズが万博会場へと足を運んだ理由は、ただ一つ。カネノナルキー夫人直々の依頼による『迷子探し』。
ナルホドーが唖然と立ち尽くす前で、既にお目当の代物を見つけていたのだった。
それからまた一時間、宝飾店を見て回っていた夫人を連れ出し、アイスクリームを食べきるまでその場を動かないと宣言したご子息様へと引き合わせた頃には、とっくのとうに満足しきったスサトと合流するに至っていた。
まさかまだアイス一つも買えていなかったなんて、と驚くスサトに、依頼人第一ですからね! と得意げに微笑むホームズ。結局、最後まで並ばされていたナルホドーが、ようやく両手にアイスクリームを持ったのは、更に三十分経った後のことだった。
「はい、ホームズさん」
「おや? これは驚いたね。てっきり一人で貪り食らうのかと思ってたよ」
「そんなわけないでしょう! サッパリ意図は掴めていなかったけれど、今回の依頼はホームズさんのお手柄でした」
「お見事でした、ホームズさま。どうぞご自分へのご褒美と思って、食べてくださいまし」
「寿沙都さんは飴細工を買ったんでしたっけ」
「えぇ! クマの形をした、それはもう甘くて可愛らしいお菓子をいただきましたとも!」
きゃいきゃいとはしゃぐ下宿人二人から勧められ、それでは遠慮なく、とかぶりついた口内に、ほんのりガナッシュの塩味が広がる。かなり濃い味付けなのだろう。貴族もこぞって訪れる万博会場、下手な混ぜ物は入れてないらしい。
これなら、あの子の口にも合うだろうな。家に持ち帰れないアイスクリームの歯がゆさを思い、そのまま飲み下した。
【十年前】
マントルピースを煌々と照らす炉端を前に、膝を抱えた青年が、揺れる炎を眺めていた。時折火かき棒を手に、薪の位置を変えていく。こうしてやらないと火が消えてしまうのだ。あっという間に、目を離した隙に、暗闇が襲いかかる。眠りと恐怖を引き連れて、無音がやってくる。
「………スカボロウの市に行くのかい」
パセリとセージ、ローズマリー、それとタイムも。かつて黒死病が流行った頃、鳥を模したマスクを被った祈祷師たちが絶えず吸っていたという、薬草の数々を歌に連ねていく。
その傍には、灰色の布で何重にも覆われた赤子が寝かされていた。時折、柔らかな胸のあたりを、青年が軽く叩く。健やかな眠りへと誘うように、そっと優しく。
「彼らに伝えてほしい」
黒く強張った薪が火花をあげる。そうして炭となって崩れていく。まだ、まだ火を絶やしてはならない。この子と春を迎える頃には、花咲く季節を教えてやらなければならないのだから。
そして花の名前を呼んでやるのだ。
ボクたちの愛しい子、愛しい人の子、キミはアイリス。
「…………」
彼女は、確かにボクが愛した子だった。
【たった今】
「ミコトバ! あぁ、ミコトバ! なんてことだ!」
ホテル・バンドールのロビーに響き渡った声へ、視線が集中する。かの倫敦名物、知らぬ人はいないともっぱら評判の大探偵シャーロック・ホームズは、常にない駆け足でとある一行へと駆け寄った。若い男女と壮年の男性、三人ともに東洋人のようだ。
ミコトバ、と呼ばれた三人のうち、壮年の男性めがけ抱きつくホームズ。これには周囲も目を剥いた。英国紳士が人前であのような行動に出るなど、まず常識では考えられない蛮行故だった。喜びこそ隠し通すのが英国人、やはり大探偵は人と違うのだ。
ミコトバと呼んだ男に何度も頬ずりをするホームズを、周囲の男女二人が呆然と見つめている。これは関わらない方が良いだろう、と人のはけていったロビーには、件の一行とホテルマン以外に誰も残りはしなかった。ようやくホームズが身体を離した頃には、シンと静まり返った空気があたりを支配していた。
「会いたかった……本当に会いたかったんだ、ミコトバ」
「私も会えて嬉しいですよ、ホームズ。しかし……どうしたのですか。そんなに取り乱して」
「当たり前じゃないか! 十年も会えなかったんだぜ、どれだけ退屈で虚しい日々を送ったと思っているんだい。たった今、すべて吹き飛んだけどね!」
目尻に涙を浮かべるホームズに、傍の若い女性まで涙ぐむ。よく状況を分かっていなくても、おそらく長年の親友との再会に喜びを見せるホームズへ、思うところがあったのだろう。先ほどまで困惑しきっていた若い男性も、感じ入った表情で、事の成り行きを見守っている。
ミコトバの肩に腕を置いたホームズは、あぁそうだと指を鳴らし、肩から下げた鞄へと手を伸ばした。
見せたいものがあるんだ。
「ボクたちの愛しい子、アイリスと撮った写真だよ。是非ともキミに見せたくてね。しかも総天然色だ!」
随分と色あせた一枚を手に、ミコトバへと差し出すやりとりの後ろで、ふと、若い男女が顔を見合わせた。
ボクたちの、愛しい子?
疑問を口にする前に、ミコトバの口からうめき声が漏れる。はっと向き直れば、その顔からは陶器よりも真っ白に色が抜け落ち、写真を持つ手は小刻みに震えていた。
「どうだい、相棒。十年前の写真だけあって、少々古ぼけているが、よく撮れたものだと思わないかい?」
「……こ、これは……一体………」
やっとの思いで絞り出した疑問に、ホームズは人差し指を天へと突き立てた。いつものように、大げさなそぶりで、彼は真実を告げる。
「アイリスだよ。キミが託してくれた愛しい子。今もボクたちの部屋で、ゆりかごの中で、キミの帰りを待っているよ」
ミコトバは膝から崩れ落ちた。