@awoiohisama
プロローグ
黒く濡れた瞳を伏せて、近衛杏奈は思案していた。
切りそろえられた黒髪がさらさらと揺れているのは、馬車の中だからだ。それでも貴人を乗せた豪奢な馬車は、足取りも比較的ゆっくりと丁寧である。一般市民はまず乗る機会のない乗りもので、杏奈自身、一般市民ではなかった。日本貴族の公爵令嬢である。
白磁の肌とぬばたまの髪を持つ美貌の令嬢は社交界の注目を一身に集めていて、今日は朱色の振袖を身にまとって一段と美しく着飾っている。
見合いの帰り道であった。
見合いと言いながら、家同士の合意は済んでいるので杏奈に拒否権はない。
公爵家の次女として生まれ育ち、何不自由ない生活を送らせてもらっている。その代償が政略結婚というのは、日本貴族として生を受けた子女としては当然のことと言えた。
それでも、父親ほどの年齢の男に嫁ぐのは、いかがなものか。
杏奈は竹の扇子で口元を隠しながら、浅くため息を吐き出した。
「お嬢様、お疲れのようですね」
「いいえ、大丈夫です」
杏奈の向かいに座っていた侍女が、心配そうに顔色を窺ってくる。あまり体が丈夫ではない杏奈の体調を心配してくれているのだろう。幼い頃からの側付きで、杏奈にとっては姉のような存在だった。
「……わたくし、まだまだ子どもだと思うのですけれど」
小さな呟きに、侍女も思うところがあるらしい。杏奈は、13歳になったばかりだった。15歳になれば嫁ぐのが貴族社会の一般であることを考えると、決して早い婚約話ではない。だが、姉のように側にいてくれた侍女も、杏奈自身も、あと2年で夫を助けて家を切り盛りするというのは現実から遠いことのように思えた。
「……お嬢様……」
「忘れてちょうだい。やはり、少し疲れているのかもしれません」
薄く笑うと、侍女が苦しげに眉を潜めて、そっと手を重ねてきた。それが、今の彼女にできる最大の慰めだということを、杏奈はわかっている。
「……そうだわ。気分を変えるのに、本屋に向かってくださらない? いつもお店の方が家にお品を運んでくださるけれど、たまには自分で選びたいのです」
「……ええ。そういたしましょう」
幼い主人の健気な要求に、侍女も微笑んで、御者に街の大きな書店に向かうように告げる。帰りが少し遅くなるかもしれないが、こんな日くらい母や父も大目に見てくれるだろう。
一刻ほども本を物色していると、日暮れ間近になってしまった。街中に建てられた瓦斯燈が、じんわりと暖かな光を灯しはじめる。
杏奈は、この光が好きだった。江戸時代の日本にはなかった瓦斯、そして燈。自宅も洋風の豪奢な建物だが、やや大仰だった。街中の瓦斯燈くらいの洒落っけが粋ではないだろうか。その灯を眺めながら馬車に乗り込むと、先ほどと同じく侍女が目の前の座席に腰掛けて微笑む。
「奥様には先触れを出していますが、急いで帰りましょう」
「そうね。つい夢中になってしまいました」
「お嬢様は、本当に昔から本がお好きですね」
「ええ。読みはじめると、時間が経つのも忘れてしまうの。さっきは店頭に並んでいたので、外国の小説を買いました。英国の探偵とお医者さまの冒険譚のようです」
「まあ、お嬢様は外国に興味がおありでしたか」
長い付き合いになる侍女だったが、そのことは知らなかったらしい。本好きの、大人しい令嬢と思われていたのかもしれない。
「日本にはないものがたくさんあるようですから、気になってしまうんです。……いつか行ければいいのですけれど」
婚礼前であれば、無理ではないかもしれない。嫁ぎ先はやんごとなき血筋の家で、公務として海外へ行く機会もないとは言えない。けれど、そうした夢より婚姻の方が身近な問題なのだという事実が、杏奈の口を重くする。
「……叶いますよ、きっと」
「……ええ、そうだといいですね」
侍女の声には、それくらいは叶えられて欲しい、という願いの響きが込められていた。その優しい音に、杏奈は目を細める。
──その、直後。
ガタン、と大きく馬車が揺れた。ちょうど、街の大通りを外れて、家までの道へ向かうための小道に差し掛かったところだった。すっかり陽が落ちて、瓦斯燈も建っていない暗闇である。
火に、囲まれていた。
暗闇のなかの火は、そばにいるはずの人物に影をつくっていて顔貌が判別できない。それでも、成人男性であろうことは察せられた。御者と外の男たちが、大声を上げて争っている声がする。がん、がん、と馬車が何かで殴られている。今にも扉が壊されて、男たちが杏奈と侍女がいる座席に乗り込んできそうだ。
「……な、なにが起こっているのですか?」
「お嬢様、静かに!」
侍女は杏奈の体を抱きしめて、その身に庇おうとしている。だが、顔面は蒼白で、主人を抱える腕は震えていた。
誰に襲われているのか、杏奈にはわからない。なにが目的か、想像もつかない。が、大方、父の政敵がこの婚姻をよく思わなかったのだろう。その場合、娘を傷物にしてやれば事足りるだろうから、命までは取られないかもしれない。
冗談じゃない。
女の操は命より軽いの? そんなわけがないでしょう。等しいわ。
杏奈は震える足を心の中で叱咤して、立ち上がった。抵抗しなければと思う。
「お嬢様、なにを……!」
「黙って。必ず貴女を助けてみせます」
笑顔をつくる余裕もない。それでも、侍女の目を真っ直ぐに見つめて、杏奈は言い切った。貴族令嬢らしい優雅さを意識して、歪みはじめた馬車の扉を開く。
「控えなさい! この車が公爵家筆頭、近衛家が次女、近衛杏奈のものと知っての狼藉ですか!」
怯えの含む高い声で、杏奈は精一杯吠えた。
その瞬間、頭に固くて重いなにかがぶつけられ、杏奈の意識はたちまち闇に包まれる。