@uk_plus_
見慣れた光景となった資材置き場の空き教室。今までは見ているだけだった彼女の笑顔が、何度も自分に向けられた場所。ここで過ごしたおよそ一か月の時間を思い出しながら、越知は自分の足元を見つめていた。
「越知くん、えっと、話って…?」
教室に入ってから記憶の反芻で少々ぼんやりしていた越知に、背後から彼女が声をかけた。それにはっとした越知は彼女へ向き直り、右手で自分の首筋を掻く。
―どう切り出したものか…。
話があると彼女をここへ連れてきたまではよかった。しかしその後のことを考える余裕など、正直越知にはなかったのだ。
「話というのは…その…」
歯切れ悪く言葉を紡ぎ出して、越知は自分の足元に今一度視線をやる。単刀直入に言ってしまえばいいのに、いざその時になると情けないことに喉の奥から必要な言葉が出てこない。二人の友人に鼓舞されてここまで来たのはよかったが、やはり未だ越知の胸中には彼女を眺めるだけだったこの前までの自分が居座っていた。
「…あ」
「え?」
「いや―」
珍しく沈黙に困ってしまった越知が首元にやっていた右手を制服のポケットへと入れると、その指先にかさりとひとつの紙が触れた。それはいつぞや彼女が自分にくれた飴玉の包み紙だった。
―入れたままだったか。
触れた紙切れをそのままポケットの中で握って、越知は口を開いた。
「…以前、飴をくれたろう」
「え、ああうん、そうだね」
「その…美味かった」
自分は何の話をしているのだと越知は自分自身に当惑したが、そんな適当な話題を振られた彼女がぱっと顔を明るくしてひとつ笑った。
「そっか、よかった!お口に合ったみたいで」
「あ、ああ」
「あれすごい気に入っててね、学校近くの雑貨屋さんにしか売ってないの」
特別な時に食べるんだと更に笑った彼女のその顔が眩しくて、越知は目を細める。そしてそんな小さな特別を彼女は自分に分けてくれたのだと湧き立った胸中のままに、二の足を踏んでいた自分を鼓舞するため越知はひとつ咳払いをした。
「ありがとう、礼を言っていなかったな」
「ううん。あれはだって私のお礼だからいいの。こちらこそありがとうね」
「別段……」
互いに改めて礼を言い合うと、再び二人の間に沈黙がやってくる。今一度ぎこちない空気が降りてきそうになった時、今度は彼女から口を開いた。
「話って、それかな…?」
「ああ、いや…」
首を傾げて見上げて来る彼女から目を逸らして、越知は自分の唇を一回だけ噛む。そしてゆっくりと息を吸ってから話し始めた。
「その、そこの雑貨屋には、今も猫の栞は売っているか?」
「え?猫の?」
唐突に切り出された話題に彼女が不思議そうに聞き返したので、越知はそばにあった自分の鞄から猫の形をしたステンレスのブックマーカーを取り出して見せた。
「この、栞だ」
「あ、これ、多分あったと思う。可愛いよね」
「覚えていないと思うが…ずっと礼を言いたかった」
「お礼?」
一体何のことだろうかと自分を見つめた彼女のきょとんとした顔が可愛らしくて、越知はひとつだけ小さく笑ってしまった。
「一年の頃、お前にそれを拾ってもらった」
「一年……あ!ああ、あれ、あの時の!越知くんか!」
「その時の越知だ」
思い出したと言わんばかりの彼女の表情にまた笑ってしまうと同時に、やはり覚えてはいなかったかと小さな落胆を越知は覚える。しかしそんな驚きの声音に少々茶化したように返答すれば、彼女がどの、とけらけら笑って沈んだ越知の気分をさっと晴らしていく。そんな彼女を見た瞬間に、越知の緊張していた足元は軽やかになっていた。その笑顔がとても好きだと、越知は思ったから。
「ごめんね、覚えてなくって…」
「いや、いいんだ」
申し訳なさそうに眉を下げる彼女にそう言って、越知は彼女の顔を屈んで覗き込んだ。
「もう、覚えていなくても構わない」
「え?」
「今こうして、お前といられるからな」
「越知、くん?」
「ずっと前から、好きだった」
前髪で隠れた瞳で見つめられた彼女がたじろぐようにその名前を呟いた時。越知は浅く息を吸ってから大事に小さくそれを口にした。
「お前が俺の栞を拾ってくれた時から、ずっと」
先ほどまで喉奥に詰まっていた言葉たちが、一度漏らしてしまえば驚くほど越知の口から溢れ出してくる。そして融解せずに置き去りにしていた気持ちは、越知が思っていた以上に甘やかなものだったようだ。
「笑う顔を見る度に、好きだと思った」
その紡がれるひとつひとつの言葉は間違いなく彼女に届いているようで、対峙するその顔は見る見るうちに赤く染まっていく。そしてその瞳は、真剣に見つめ続ける越知の瞳を見つめ返せずにそっと逸らされていた。
「…驚かせてすまない」
「う、ううん」
「こうして話せるようになったのなら、伝えたいと思った。お前に」
消え入りそうな声だったためだろうか。逸らされていた彼女の瞳が、今一度越知へと向けられた。困惑と驚きに満ちた瞳で越知を見た彼女は、しかしその口から何かを言うことはしなかった。いや、できないのだろうと越知は思った。可愛らしい口元は微かに何度か開かれていたからだ。
―彼女を、困らせている。
そう思った越知は屈んでいた姿勢を正してから言葉を続けた。
「無理に答えなくてもいい。俺が勝手に思っていたことだ」
「越知くん、私―」
「仕事には差し障りない。安心してくれ」
ようやく彼女の震える声が聞こえた時、まるで遮るように越知は言葉を続けてしまった。そして丁度いいように作業終了を告げる終鈴の音が教室内に響き渡った。
帰り道のざらついたアスファルトを眺めながら、彼の言葉を聞いた瞬間を私は反芻していた。彼の声が何度も何度も頭の中で木霊している。
―仕事には差し障りない。安心してくれ。
思い出されるのはいつも通りのような声音に、ほんの少しだけ微笑んだ越知くんの口元だった。
あのあと私たちは終鈴に促されるまま空き教室を出て、たくさんの装飾が施された自分たちのクラスに戻った。一言も言葉を交わさずに。
越知くんはその間、一度だって私に自分の言葉の返答を求めることはなかった。ただ前を向いて、だけども私の歩調に合わせてずっと歩いてくれていた。そのことを思うだけで、私の胸はただただ熱くなるばかりだった。
「どうしよう…」
自室で明日の準備を済ませてから、私はスマホを睨んだままずっと考えていた。今自分が持ち得るこの気持ちを、どう彼に伝えるべきかを。
長い間自分を思ってくれていた越知くんと自身の今の気持ちを対比する度、それは小さな躊躇いとなって何と答えるべきなのか私の思考の邪魔をしていた。けれど私はよくわかっているはずだ。彼がどんな思いで今日私に話をしてくれたのかを。彼が本当は、どんな人なのかを。
たくさんの思い出される彼の言葉と姿を思い浮かべて、そして私は画面の通話ボタンをタップする。そして何コール目かで繋がった通話の先で、少々困惑したような越知くんの声が聞こえた。
「もしもし」
「…こんばんは、越知くん」
一か月、ほぼ毎日対面でやり取りをしていたはずなのに、電話越しに聞く彼の声はとても新鮮な音だった。それに私が小さく挨拶をすれば、彼も同じように挨拶を返してくれた。その声になんだかほっとして私はそのまま言葉を続ける。
「越知くん、あのね、私」
「なんだ」
「聞いてほしいことが、あるの」
優しく聞き返してくれる声にだんだんと高鳴る胸が痛い。だけど今ここで怯んでいてはなるまいと、私は小さく息を吸った。
「その、忘れていてごめんね」
「…それは何も問題ない」
「だとしても、ごめんね。それと、ありがとう」
事も無げに返された声に、しかし私が今一度謝ってからお礼を言えばスピーカーの奥から恐らく越知くんが息を吸う音が聞こえた。
「今日話してくれたこと、とっても嬉しかった」
「…そう、か」
「うん。あのね、私、ちゃんと越知くんとお話したのは本当にこの一か月が初めてだったけど」
とつとつと話し始めれば、何故だか自分の鼻の奥がツンとしてきた。これが今彼に抱く私の思いの重さなのだろうかと思いながら、更に言葉を続ける。
「だけどね、私たくさん越知くんのことを知れたなって、嬉しかったんだ」
「そうなのか?」
「うん。とっても嬉しくて楽しかった。それでね、あの……」
肝心な言葉が舌の手前まで出た時にぐっと胸が痛くなった。ああ、越知くんはこんな思いをしてあの時私に話をしてくれたのか。彼はこんな思いを三年間も―。
「私……私も越知くんが好き」
たったひとつの簡単な言葉なのに、こんなに力を使うだなんて。胸の奥ではバクバクと激しい脈拍が流れて、今すぐにでも息が詰まってしまいそうだ。
「たった一か月だけど、たくさん越知くんを知って、そう思ったの。私が、勝手に」
「……」
「越知くんが私を思ってくれた時間からは、比べられないんだろうけど…だから、とっても勝手なんだけど」
「そんなことはない」
なんだか申し訳ない気持ちになって私の言葉が尻すぼみになっていくと、とても強く越知くんがそれを否定した。
「時間は、関係のないことだ」
「そう、かな」
「それが本当のことなら、俺はとても、嬉しいと思う」
そしてとても安堵したような声で、彼はそう言った。
「俺も勝手に、お前を想っていただけだからな」
「…そっか。じゃあ、お互い勝手だね」
「ああ」
私が小さく笑って言えば、越知くんも電話の先で小さく笑ったようだった。
「ひとつだけいいか」
「ん?何?」
すると、お互い少し笑い合った後に越知くんが私に聞いてきた。
「明日、もう一度、言ってはくれないだろうか」
躊躇いがちに小さく吐露されたその言葉があんまりにも日頃の彼からずれていて、私は苦笑してそれに頷いた。
明日の文化祭は三年間で一番楽しいものになる予感がする。
いつもの倍は騒がしくなった校舎の廊下で、越知は彼女と歩いていた。騒々しく流れる人波を自身の特性を活かして難なく歩いていると、感心するような声が下からする。
「越知くんと歩くとすごく楽だ!」
「俺を盾にして歩いているからな」
「そう言われるとすごく申し訳ないんですが…」
純粋な感想を言う彼女に少々意地悪く返答すれば眉尻を下げて小さく言う彼女の声がして、越知は自然と口元を緩めて笑った。
「何が必要だって言ってたっけ」
「確認しよう」
資材置き場の空き教室に入りながら彼女がすぐさま資材の入った箱を漁りだしたので、越知は手元のリストを見ながら声をかけた。その光景も見慣れたものだったが、今日は越知にとってはいつもと違うものだった。何故なら彼女が自分の恋人になったのだから。
がさがさと箱に向き合う小さな背中を見ながら、越知は目を細める。そしてリストに今一度視線を戻して、静かに口を開いた。
「そういえば」
「え、何?」
「昨日話したことは、覚えているか?」
すると忙しなく動かされていた両手がぴたりと止まり、そしてゆっくりと彼女は越知に顔を向けた。その頬は教室に入った時よりも赤く染まっている。
「き、昨日…?」
「ああ」
濁すように反芻する彼女の言葉はとぼけたような声音だったが、それを射るように越知が返事をして彼女を見た。それに捉えられた彼女は丸い目を更に丸くして、ぴくりと肩を震わせる。その姿があんまりにも愛らしく感じて、越知はゆっくりとそんな彼女に近づき覆い隠すように上から覗き込んだ。
「もう一度、言ってくれ」
「え、っと…な、何を―」
「また、忘れたか?」
高いところから見下ろされる恐怖なのか、それとも覚えていることを誤魔化しているためか。どぎまぎとしながら言葉を紡ぐ彼女を、逃がさないとばかりに越知は言った。するとその言葉に反応するように彼女は唇を噛みながら、更にその顔を赤くした。
「……忘れて、ない、です」
いよいよ耐えられなくなったのか、見つめ続ける越知から目を逸らして彼女は小さく言う。
「冗談だ。だが、聞きたいのは本心だ」
あんまりにも縮こまって焦る彼女に口元を緩めながら屈んで目線を合わせた越知は、赤く温かいその彼女の頬に自然と触れていた。
「お、越知くん」
「俺はお前が好きだ」
改めてそれを口にするのは、とても容易だった。意味合いが軽くなったわけではなく、むしろ昨日よりもそれはより強いものだと越知は確信している。だからこそ以前では考えられないほど自信を持って、彼女にそう言うことができていた。
「わ、私は…」
「ああ」
「私も…私も、越知くんが、好き」
「…ありがとう」
赤く熱い頬の温度と彼女の緊張したその声音が融解した思いに染み込むのを感じて、越知は小さく呟いた。そしてどちらからともなくあった視線が、ゆっくりと近づいていく。
「越知ー!報告しろって言っ―」
いよいよ鼻先で彼女の吐息を感じた瞬間。背後から快活な―デリカシーのない声量で越知を呼ぶ声がした。その声の主など見ずとも越知には誰かわかっている。
「…お前ら」
「ほらーやっぱりお邪魔だったじゃん」
「あーお取込み中っしたね!」
じろりと越知が背後に視線をやれば、へらへらと笑いながら頭を掻く友人とため息を吐いている小柄な友人がドアの所に立っていた。その姿を認めて越知が早足で近づくと、二人は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。その間際に聞こえた声にはいくつかお節介な文言が混ざっていたが、越知はため息を吐くだけでそれ以上深追いはしなかった。
「ほんと、いい奴ら、だよね、越知くんの友達」
「この状況で何故そう思える…」
げんなりしている越知の隣に来て彼女がそう言えば、越知は更に眉間に皺を寄せて返事をした。
「しかしまあ、礼くらいはあとで言っておこう」
「なんの?」
丸い瞳が無垢に見上げて問うてきたので、越知は今一度口元を緩めてからそれよりも柔らかく彼女の滑らかな髪を撫でた。
彼女が友人二人の活躍を知るのは、もう少し先の話だ。